教会内の活動&メッセージ要約

皆さんは「教会」にどんなイメージをお持ちですか?厳かに礼拝を捧げる…敬虔なクリスチャンだけが集まる…お年寄りが多い…などなど。確かにそういう面もあるかもしれません。でも、実際に行ってみると、いわゆる堅苦しさがなく、大人も青年も子どもたちも、だれもが自然体でいられるところです。ここではおもにMGBCの様子を礼拝メッセージとともに紹介しています(ブログは基本的に毎週日曜日に更新します)。


その名はインマヌエル

今日は午後から新会堂で初めてのキッズ&ファミリークリスマスがありました。0歳の赤ちゃんから90歳の姉妹まで、大家族のようなぽかぽかとあたたかいクリスマス会でした。やはりクリスマスに降誕劇を観ると聖書の世界に入りこんだようで…演じてくれたみんなに感謝です。リース作りもとても楽しそうでしたね。

 

「その名はインマヌエル」(マタイ1:18-25)メッセージ要約

見よ。処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。

 降誕劇で最も注目を浴びるのは、なんといってもマリヤです。まだ幼さの残る少女は、突然、幼子をその身に宿すとこになりました。マリヤは戸惑いつつも、信仰をもってそのことを受け入れました。一方、ヨセフが注目を浴びる機会は少なく、その存在は平凡で、彼自身の言葉も聖書にほとんど記述がありません。そんなやや影の薄いヨセフですが、クリスマスの出来事において彼ほど欠かすことのできない役割はないのです。そんなヨセフの信仰に注目して三つのことを心に留めましょう。

 一つは、試練の中に神のご計画を見ることです。ヨセフは許嫁であるマリヤが身ごもったことを知りました。まさに青天の霹靂、あってはならないことが起きてしまったのです。奈落の底に突き落とされたヨセフ…。神はそんな彼の夢に御使いを遣わして「恐れないで、マリヤをあなたの妻として迎えなさい。」と命じられました。すぐに理解できなくても、人生に起こることにはその一つ一つに神のご計画があるのです。

 二つ目は、神の語りかけをそのまま信じることです。神はヨセフに、生まれてくる子どもに「イエス」と名をつけるように命じられました。そのことで、ヨセフがユダヤの法律上でもイエスの父となることを宣言されたのです。「イエス」とは、「主は我らの救い」という意味。ヨセフはそうした神の言葉をそのまま信じていきました。神のなさることには、その一つ一つに最善の時と方法があるのです。

 三つ目は、「神われとともにいる」に生きることです。イエスの降誕より700年も前の預言者イザヤの言葉が告げられました。「インマヌエル」とは「神われらとともにいる」という意味です。神は、人となって、私たちの間に住まわれました。それは、私たちと共に生き、助けを求めればいつでも助けてくださる身近な存在になられたということです。この約束に生きる時、私たちは度重なる試練にも耐え抜くことができるのです。

 私たちの信じる神は、「インマヌエル」と呼ばれる方です。このクリスマス、この方は一人一人の心にお生まれになってくださいます。そして世の終わりまで共にいて、力を与えてくださると約束されました。あなたはもうこの福音を受け取っているでしょうか。

クリスマスは教会へ…

今週もさまざまな方が教会を訪れました。祈り会や聖書の学びはもちろんのこと、近くで事故があって警察の方が来るまで少し休んでいかれる方、自分の将来について牧師と話しをするために来られた方、英会話にも素敵なご婦人方と元気いっぱいの子どもたちが来ました。理由はどうあれ…このアドベント、あなたもぜひ教会に足を運んでみてはいかがでしょう。

キッズ&ファミリークリスマス

クリスマス諸集会の第一弾として、今年も今後の日曜日にキッズ&ファミリークリスマスを行ないます。賛美、ゲーム、降誕劇、おやつタイム、メッセージ…などなど、盛りだくさんの内容です。子どもたちと一緒に、「本当のクリスマス」を喜び、祝い、ささげませんか。皆さまのお越しを心よりお待ちしております。

今年一番の寒さ…

…という言葉がこれからよく聞かれることになるのでしょう。次の日曜日にはキッズ&ファミリークリスマスがありますが、どうぞ温かい恰好で、みなさまぜひいらしてください。「子どもたちをわたしのところに…。」写真は、散らかしっぱなしの牧師の部屋。でも、ここが意外と温かくて、落ち着く場所なのです。

日ごとの礼拝

今年もアドベントを迎え、一本目のローソクに火が灯りました。教会の暦では今日が一年の始まりともなるので、メッセージではあらためて礼拝の大切さを学びました。「彼は安息日ごとに、絶えずこれを主の前に、整えておかなければならない。」一日の終わり…夕拝の後は心許せる青年たちと語り合う至福の時間です。

 

「日ごとの礼拝」(レビ記24:1-9)メッセージ要約

あなたはイスラエル人に命じて、ともしびを絶えずともしておくために、燈火用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させよ。

 日本に来た最初の宣教師フランシスコ・ザビエルは、まだ見ぬジパングに憧れと敬意を抱き、希望に燃えて鹿児島に上陸しました。でも、いざ来てみると、抱いていたイメージとはかけ離れた現実がありました。それでも彼はそんな日本を心から愛し、仕え、多くの人を信仰へと導いたのです。今日12月3日は、そんな彼が46歳で天に召された日でした。

 レビ記には、エジプトから脱出したイスラエル人が聖なる主の民として生きるための指針が記されています。その中で、安息日にはいっさいの労働を休み、聖なる会合を開き、定期的に主の定めの祭りをささげることが命じられていました。それを踏まえて、神が続けて命じられたのは、日ごとの礼拝のあり方です。主が「絶えず…」と命じられた七枝の燭台と十二の輪型のパンには、形式的なことだけでなく、象徴的な意味がありました。そこから今日の私たちが礼拝をささげる上でも大切な3つのことを心に留めましょう。

 一つは、自分のベストをささげる礼拝です。神はまず燭台の灯火を絶えず灯しておくために、イスラエルの民に燈火用の質の良いオリーブ油をささげるように命じられました。それは最上級のものを意味しました。つまり、神はささげる者の心をご覧になることをお示しになったのです。二つ目は、霊的な祝福にあずかる礼拝です。神は次に、祭司たちに夕方から朝まで絶えず灯火を整えておくために油を絶やさないことを命じられました。七枝の燭台は、いのちの光を世に与えるイスラエルを象徴していました。灯火は絶えず油を注がれなければ燃えることができません。同様に、私たちも礼拝ごとに、霊的祝福を補給し続ければ燃え尽きることはないことを示されたのです。三つ目は永遠の契約を確信する礼拝です。十二の輪型のパンは、イスラエルの十部族とともに、全人類のためにいのちのパンとなられるキリストご自身を象徴していました。そして、神はそれを安息日ごとに新しいパンに置き換えるように命じ、それが永遠の契約であることを示されたのです。イエスさまも「わたしは命のパンです」と仰って、誰でもこのパンを食べる者は永遠に生きると約束されました。今日はこの後、聖餐式の恵みにもあずかります。アドベント第1週、私たちも日ごとにこの方を心からほめ讃える礼拝をささげて行こうではありませんか。

東京出張

月曜日はカルト宗教の相談で、ある親子とお会いして、しばらく話しました。とても素敵な親子で、今回のことでさらに絆が強くなってくれればと思います。また、火曜日には教団事務所で国外宣教委員会。金宣教師にもお会いしました。なんだか慌ただしい日々でしたが、明日からは教会でじっくりと過ごせるかな…。

アドベントに備えて

来週からのアドベントに向けて、大掃除とクリスマスの飾りつけを行いました。新しい会堂になって初めて迎えるクリスマスです。イエスさまのご降誕を心からお祝いし、喜び、感謝したいと思います。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。

主の定めの祭り

教会の横に花壇を作ろうと思いたったのですが、これが意外と大変な作業…気長にやります。今年も収穫感謝礼拝で、児童祝福式を行い、互いに収穫の恵みや生かされていることの意義を考えました。子どもたちの成長の早さに目を見張るとともに、「神の国は、このような者たちのものです。」という御言葉があらためて響いてきました。

 

「主の定めの祭り」(レビ記23:33-44)メッセージ要約

これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。』

 レビ記の「仮庵の祭り」は、収穫感謝の起源とも言える記事です。主は、イスラエルの民をエジプトから救い出した後、シナイ山にモーセを呼び寄せ、神の民として生きる指針を示されました。律法、供え物、祭司、聖所、八つの祭り…とありますが、その中の「仮庵の祭り」に注目して、この祭りの意義から2つのことを心に留めたいと思います。

 一つは、荒野での苦しい生活を忘れないことです。人々は「仮庵の祭り」を、安息日に始めて、次の安息日まで八日間、仮の小屋を作って暮らしました。その理由は、荒野での四十年間の苦しい生活を忘れないためです。彼らは、主の定めの安息日に、聖なる会合を開き、火によるささげ物をはじめ様々なささげ物をしなければなりませんでした。私たちも、荒野のような厳しい苦難を通らされることや、なぜこんなことが起こるのか…と思うことがあります。でも、主はすぐにその答えをくださいません。大事なのは、「なぜ」と神につぶやくことではなく、そこで神への信仰をもって「いかに」生きるかだからです。

 二つ目は、変わることのない神に信頼することです。人々は「仮庵の祭り」で、不自由な生活を体験した後、そこから救い出される主の恵みを覚えました。イスラエルの民は、荒野で何度も「エジプトに帰りたい」と神につぶやきましたが、神はそんな彼らに「天罰」ではなく、天からの「マナ」を与えてその信仰を試されたのです。私たちも、私たちを愛して止まない神の愛をどのくらい信頼しているでしょうか。信仰とは、信念でも願望でもありません。神に全き信頼をおいて、その御言葉にどこまでも従うことです。自分ではどうすることもできない状況の中でこそ、信仰が試されます。大事なのは、日ごとに神の言葉によって養われ、主にあって成長していくことなのです。申命記8:3。

教会の献堂式

千葉県にある新鎌ヶ谷聖書教会の献堂式に行ってきました。6人の教会員から始まり、開拓12年、4度の引っ越しを経ての教会堂でした。箕面の姉妹教会です。「教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々に渡って、とこしえまでありますように。」懐かしい兄姉にも久しぶりにお会いできて嬉しかったです。

食事の交わり

今日は夕方から冷たい雨が降り始め、一段と寒さを感じる夜でした。そうした中でも、ある人は自転車で、ある人は電車を乗り継いで、夜の祈祷会に来てくださる方々に励まされます。「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」今晩はヨハネの黙示録2章から学び、その後、一緒に食事の交わりに与りました。

夕暮れに涙が…

ひと仕事終えて、牧師室からベランダに出ると夕焼けが実に綺麗でした。人はみな、何かの失敗をして、不安でたまらなくて…眠れない夜を過ごすこともあると思います。しかし、聖書にはこうあります。「夕暮れに涙が宿っても、朝焼けには喜びの叫びがある。」主は、私たちの涙を覚えていてくださって、やがて喜びの叫びに変えてくださるのです。

祈りの力

今日はまた一段と寒い一日となりました。これから段々と寒さも増してくるのでしょう。教会外の看板を照らすライトをもう少し明るくした方がいいというのでスポットライトを一つ追加しました。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」アドベント・クリスマスももう少しですね。

 

「祈りの力」(ヤコブ5:13-20)メッセージ要約

信仰による祈りは、病む人を回復させます。…義人の祈りは働くと、大きな力があります。

 早いもので、今年もあと40日ほどになってきましたが、年末になるとよく耳するのが「交響曲第九番」です。この曲の「第四楽章・歓喜の歌」は、作曲者のベートーヴェンが完全に聴覚を失ってから完成しました。まさに苦難の中から叫び求めた「喜び」を、神への信仰のうちに見出し、力強く音楽に表現した曲と言えるのではないでしょうか。

 逆境の時も、順境の時も、どんな境遇の中にあっても、全能なる神を信頼して祈り求める…それこそクリスチャンとそうでない人を分けるしるしです。神は絶えず、私たちを祈りの座に招いておられ、だれの祈りも、どんな祈りにも耳を傾け、応えてくださる方です。それが私たちクリスチャンの確信です。ヤコブもまたこの手紙の最後に、クリスチャンにとっての最高の特権である「祈り」について記しました。祈りは、苦しみのどん底から私たちを引き上げる神の力であり、高慢の罪から私たちをへりくだらせる神の守りです。そんな「祈り」について、ヤコブの手紙の最後のメッセージに聞きましょう。

 一つは、どんな時にも神に向かって祈るということです。苦難の中にいる人は、ともすると自分の悲運を嘆いたり、人に訴えたりするかもしれません。また、喜んでいる人も、あたかもそれを自分で成し遂げたかのような錯覚に陥るかもしれません。だからこそヤコブは、逆境の中で苦しんでいる時も、順境の中で喜んでいる時も、いつも神を第一として、神に向かって祈り賛美することを勧めるのです(Ⅰテサロニケ5:16-18)。二つ目は、信仰による祈りは力があることです。ユダヤ人は病気になると、医者に行くより、まず教会の指導者たちのところに行って、オリーブ油を塗って祈ってもらったようです。でも、何より大事なのは、長老たちやオリーブ油よりも、主の御名によって祈る祈りに力があるということです。それは、エリヤの祈りからもわかるように、自然界をも動かすほどの大きな神の御業となるのです。三つ目は、神の贖いの御業に参与することです。ヤコブの時代にも、キリストの救いにあずかってから、教会から離れてしまう人もいたようです。そこには、大きな痛みも悲しみもあったでしょう。でも、もしそういう方々を迷いの道から引き戻せるなら、魂を救い、多くの罪を覆いことになるというのです。もちろんそれは、神の恵みの結果であって、人間の業ではありません。今もなお…そうした一人一人を探しておられるイエスさまの働きに、私たちも祈り心をもって参与していくことが大切なのです。その時、私たちはあらためて「祈りの力」の偉大さを知っていくのです。

収穫感謝&クリスマスに向けて

婦人の方々が収穫感謝礼拝に向けて飾りつけをしてくださいました。短い秋の雰囲気をしっかり味わいたいと思います。そして、今年も児童養護施設に靴下のプレゼントを届けに行くので、その準備もやはり婦人の方々が…。感謝です。「…最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。

耐え忍ぶ者の幸い

今日は礼拝後に防災訓練を実施しました。新しい会堂になって初めての訓練。参加者は33名。直下型、M7.3、震度6弱を想定しました。リアルな災害を想定して、避難場所までも速やかに移動しました。心配していた天気も何とか守られ、少し肌寒い中でしたが…緊張感の中にも和やかな雰囲でできました。今日も90歳のご婦人がバスに乗って初めて礼拝に出席してくださり、ともに礼拝をささげられて感謝でした。

 

「耐え忍ぶ者の幸い」(ヤコブ5:7-12)メッセージ要約

見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いである、と私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

 ヤコブが生きていた社会は、貧富の差別が激しく、金持ちは優遇され、貧しい者たちは虐げられた時代でした。聖書は、富自体を否定しませんが、富める者が陥りやすい危険を警告します。それゆえヤコブも、「金持ちたち。聞きなさい。」と、金銭を愛することや贅沢な暮らしへの注意を語りました。その上で、貧しい者たちにも主にあって希望があることを告げていくのです。「主が来られる日(パルーシア)まで耐え忍びなさい。」それは、いつの時代も苦難や試練に苦しむキリスト者たちへの慰めと励ましの言葉でもあります。耐え忍ぶ者がなぜ幸いなのか…ヤコブが語る三つの忍耐から学びましょう。

 まず収穫を待ち望む農夫の忍耐です。農夫は、自分で天候を調節したり、雨を降らしたりすることもできません。それゆえ自分にできることをして、ひたすらその時を待ちます。やがて芽が出て、穂が成長する様子を見て、収穫が近いことを確信するように、私たちも終末の前兆を見て、主の来臨に備えなければならないのです。続いて、旧約の預言者の忍耐です。物事が上手くいかない時、苦難の中にある時、助け合うよりも互いにつぶやき合ってしまうことがあります。主はそれを喜ばれません。旧約の預言者の生涯はどうたったのか…。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル…彼らの生涯には絶えず苦難と忍耐がつきまといました。それでも、彼らはつぶやきと戦いながら、主に従い続けたのです。そうした彼らの殉教の血が教会の礎となり、今日の私たちの信仰に繋がっています。最後は、ヨブの忍耐についてです。ヨブは、多くの財産を持った人でしたが、神の前に潔白で正しい人だったとあります。そんなヨブが一瞬にしてすべてを失いました。ヨブ記のテーマは「正しい者がなぜ苦難に会うのか」です。それは、世の常識では答えはでません。ただ、聖書だけが「主が彼になさったことの結末を見た…主は慈愛に富み…」と記すのです。私たちもなぜ自分だけがこんな苦しみを味わわなければならいのかと思うことがあるかもしれません。でも、苦難に無意味なものはありません。神は、その一つ一つを覚えていてくださって、ご自身を信頼して耐え忍ぶ者を必ず顧みてくださる方なのです。箴言16:9「その人の歩みを確かなものにするのは主である。」主はあなたの忍耐を決して忘れることはありません。ここに耐え忍ぶ者の幸いがあるのです。

教会ロード

駅までのまっすぐな道を「教会ロード」と勝手に呼んでいます。今日も二人の姉妹が教会掃除に来てくださいました。こうした影の奉仕に教会は支えられています。「小事に忠なる者は大事にも忠なり」明日は主日礼拝。

久々の休日

今日は休日をいただいて、今年初の川釣りに行ってきました。紅葉が見事なこの場所で釣るのは三度目、でも、私の釣果はマス一匹だけでした…。一緒に行った方々はわんさか釣っていましたが。なにわともあれ、久々のいい気分転換になりました。

11月第一主日

早いもので11月第一主日。今日は説教者に河野優先生をお迎えしました。新会堂建設の際には大変お世話になった先生です。夜の夕礼拝には初代牧師の娘さんが約15年ぶりに教会を訪ねてくださいました。

Kids&Family Festa in Kyouto

京都でキッズ&ファミリーフェスティバルvol.2が開催されました。パワーアップしたスタッフと協力教会によって迫力あるキッズフェスタとなりました。今回もたくさんの子どもたちが信仰決心に導かれました。

英会話のChapel time

英会話のChapel timeでした。レイチェル先生が、神さまの恵みをカップケーキの上のトッピングを用いて表わしてくださいました。カップケーキはその後のティータイムで美味しくいただきました。感謝します。

為すべき正しいことを

午後から台風接近のため暴風雨となりましたが、オープンチャーチを予定通り行いました。悪天候にも関わらず多くの来会者があり、おいしいコーヒーに素晴らしい演奏の数々…心も身体も温まるアットホームな良い時間でした。

 

為すべき正しいことを」(ヤコブ4:7-17)メッセージ要約

こういうわけですから、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。』

 今日は宗教改革記念礼拝でした。マルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に九十五箇条の提題を掲示してから500年という年月が過ぎました。当時の人々にとって、カトリック教会を批判するルターの行動は、あまりにも無謀なことでした。でも、ルターにしてみれば「聖書と明白な理性に基づいて説得されないかぎり、自説を取り消すことはできない」とまさに為すべき正しいことをしたに過ぎなかったのです。それはいつの時代も変わらない聖書の原則でもあります。この罪と争いと悲しみに満ちた今日の私たちが為すべき正しいこととは何か…。ヤコブの勧めから三つのことを心に留めましょう。

 一つは神に従い神に近づくことです。「従う」とは自分の思った通りのことでなくても、神のご意志なら喜んで服従することです。また、「神に近づく」とは、自分の罪深さを認めつつ、神の赦しときよめを求めて神を呼び求めることです。私たちは罪の自覚が深まれば深まるほど、それを赦してくださる神の恵みの偉大さを知るのです。二つ目は主の御前にへりくだることです。私たちはみな、罪を悔いて神に近づく時、自ずと自分の罪深さと悲惨さに向き合わなければなりません。その上で、そんな自分を受け入れてくださった主を覚えつつ、主の恵みに信頼して生きることです。三つ目は命のかぎり御心に歩むことです。ヤコブは、「明日のことは誰にもわからない」と警告を与えます。でも、神は、そんな滅びに向かうしかなかった私たちのために、ご自分のひとり子であるイエス・キリストを十字架にかけ、救いの道を開いてくださいました。私たちの人生は、神の大きな御手の中にあるのです。ルターは、「たとえ明日、世界の終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植える。」と言いました。悪いことを知って、それを行なわないだけでは不十分です。正しいことを知りながら、それを行なわないことが「罪」となるのです。最後の審判の日、神の前に立つ者に問われるのは、「どんな良いことをしたか」ではなく、「どんな良いことをしなかったか」です。時代がどうあっても、私たち一人一人も、神の御心にかなった為すべき正しいことをしようではありませんか。

モミの木が届きました

今年は鉢植えでモミの木を育てることにしました。モミの木は、常緑樹としていつも青々としていることから「永遠のいのち」を象徴します。「神は…世を愛された。それは御子を信じる者が…永遠のいのちを持つためである。」それはクリスマスの素晴らしいメッセージです。教会のモミの木、見に来てください。

ボブ師&マイク兄が来会

水曜祈祷会にボブ師とマイク神学生が来会してくれました。マイク兄には救いの証しをお願いしました。彼は、自分はクリスチャンだったけれども、信仰はなかったこと、神さまに喜ばれない人生を歩んでいたこと…でも、神はそんな自分といつもともにいてくださったことを正直に話してくれました。21歳、これからが楽しみな、実に爽やかな青年でした。

台風一過

昨夜は台風21号の影響で暴風雨となり、たまたま宿泊した大江戸温泉が全館停電という貴重な体験をしました。でも、翌朝は青空が広がり、箕面の街並みも一際美しく見えました。さあ、日曜日はオープンチャーチです。

成熟したキリスト者とは

キッズ&ファミリーフェスティバルvol.8がありました。雨の中でしたが、300名を越す方が来場されました。また、日曜日はオープンチャーチの準備。一人一人が心を込めて皆さまをお迎えします。

 

「成熟したキリスト者とは」(ヤコブ3:1-18)メッセージ要約

義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。

 「口は禍のもと」政治家や有名人が失言や暴言によって責任をとらされるという話しをよく耳にしますが、私たちも不用意な言葉で、相手を傷つけたり、関係を悪くしてしまうことがあります。それは、いつの時代も共通する人間の本質的な問題です。ヤコブは「言葉で失敗しない人がいたら、その人は…完全な人です。」と記します。「完全な人」とは、完全無欠の人格者というより、大人の成熟したキリスト者をさす言葉です。どうすればそんな人になれるのか…。聖書から三つのことを心に留めましょう。

 まず第一は、言葉で失敗しない人はいないことです。ヤコブは、「教師」または、自称「教師」を名乗る者たちに向かって、その言葉の持つ責任の重さを教えています。さらに教師だけでなく、すべての人に共通することとして、言葉で失敗をしない人がいないことを断言します。箴言にも「すべて利口な者は知識によって行動し、愚か者は自分の愚かさを言い広める。」とあります。私たちもまず、一度口に出した言葉は自分の手に負えなくなること、取り返せなくなることをよくわきまえておきたいものです。二つ目は、舌を制御するためには心を変えることです。ヤコブはここで、馬や船の譬えを用いて、「舌」の持つ影響の大きさを語っています。その上で、その舌を自分で制御することはだれにもできないと断言しています。イエスさまも、「心に満ちていることを口が話すのです。」と言われました。「言」という字は(中国おける)「口から出てくる心」という意味を持つそうです。表面的に言葉だけを整えるのではなく、根本的に自分の心の中を神への賛美と感謝でいっぱいにしましょう。三つ目は、神からの知恵をいただいて行動することです。ヤコブは、イエスさまのような柔和で、神に喜ばれる生き方をしなさいと語ります。それには、上(神)からの知恵を求めなければなりません。そして、観念的な思いで終わるのではなく、実際的な結果として実を結んでいくことです。もちろん信仰生活においては、種蒔いて実らず、水蒔いて育たず…と感じることもあるでしょう。でも、神はそのように生きるキリスト者を、成熟したキリスト者となるまで導かれ、さらにその人を用いて思いも寄らない豊かな「実」を結ばせてくださるのです。私たちも、あきらめずに一歩ずつ、成熟したキリスト者を目指して歩んでいこうではありませんか。箴言4:23

よく遊びよく学べ

英会話教室の子どもたちは、まさによく遊びよく学ぶ子たちです。クラスとクラスの間の10分間にみんなで真剣勝負の卓球タイム。クラスが始まっても、ホゼア先生の楽しいジョークでみんなの笑いが絶えません。

奢れるものは久しからず

今日の祈祷会では、エゼキエル27章から「人生を哀歌としないために」というテーマで、ツロに悔い改めを迫る神の言葉を読みました。私自身の内にも、神の前に高ぶる思いがあることを示され…ただただ、悔い改める恵みを思いました。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言18:12)

生きて働く信仰

礼拝ではヤコブの手紙から続けてメッセージをしています。マルティン・ルターはこの書簡を「藁の書」と言うほど問題視したようですが、果たして本当に問題があったのか…。何はともあれ、今年は宗教改革500周年を迎える節目の年。気持ちも新たに、久しぶりの聖書を学ぶ会に向けてレジュメを準備しました。

 

「生きて働く信仰」ヤコブ2:14-26

人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。

 マルティン・ルターがカトリック教会に送った「九十五箇条の提題」は、ヨーロッパ全土を巻き込む宗教改革運動へと発展し、やがてプロテスタント教会が誕生していきました。その中心は何と言っても「聖書のみ」「信仰のみ」「恵みのみ」です。それは現代の教会も受け継ぐ重要な教義です。ただヤコブの手紙には、それとは反対の言葉が書かれているようにも思えますが、実は一貫したテーマであることを教えているのです。ここから「行ない」と「信仰」の関係について、私たちも大切なことを心に留めましょう。

 一つは、「行ない」がない言葉だけの「信仰」についてです。ヤコブは「だれかが信仰があると言っても」と記します。口で言うだけなら誰でも言えますが、大切なのは、その信仰が生活と行動のあらゆる面において、神の喜ばれる御心を求めているかです。知っているのと、生きているのは別問題なのです。言葉だけの信仰に気づいたら、まず悔い改めましょう。二つ目は、「行ない」によって現わされる「信仰」です。信仰は目に見えないものですが、行ないによって確かめることができるでしょう。ですから、「信仰さえあれば、行ないはどうでもいい」という考えは気を付けなければなりません。もちろん、霊的に疲れているなら無理は禁物ですが…神の前に静まって、今の自分に何ができるかを聞いてみましょう。三つ目は、「行ない」によって全うされる「信仰」です。ヤコブは旧約聖書のアブラハムの例を挙げて語っています。アブラハムは望みえない時に望みを抱いて信じたことが(神の前に)義と認められました。その後、失敗と挫折を繰り返して、ついに息子イサクを捧げよという神の命令に従うことができたのです。ヤコブが注目したのは、信仰から生み出される行動です。まさに「信仰」と「行ない」は、人が神を体験する両面なのです。私たちもみな、神の一方的な愛と恵みによって救いにあずかります。そして、そんな私たちの人生には、神が良い行ないをも備えて導いてくださるのです。ある神学者も言います。「神の愛は、条件なしに無償で与えられる。神からもっと愛されるために、あるいは愛されなくなるために、自分でできることは何もないのだ。」私たちがこの方を愛する生きた信仰をもっていれば、自ずと為すべきことも見えてくるのです。

宣教区スポーツ大会

真夏のような日差しに恵まれた宣教区スポーツ大会。いつもより少し参加人数は少な目でしたが、良い交わりでした。ただ…参加人数と試合時間、試合数など、それは時に後半のケガ人にも繋がることも学びました。

月夜の祈祷会

今夜は中秋の名月で、なんとも美しいお月さまでした。「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。」…詩篇のみことばが頭に浮かんできました。また、祈祷会で開いたピリピ2:6-8「キリストの謙卑」にも心を打たれました。この十字架を見上げるお一人一人の心に神の愛が照らされますように。

みことばを聞くとは…

牧師館の引っ越しが終わって、やっと落ち着いて机に向かう環境が整ってきました。もともと書斎派ではないのですが、いつか時間ができたら読みたいと思って買った本が…「積読」されています。明日は礼拝。説教準備のため、聖書とじっくり向き合うこの時間が一番恵みの時間です。「みことばを実行する人に…」原稿完了しました。言行一致でいきたい。

 

「みことばを聞くとは…」(メッセージ要約)ヤコブ1:19-27

また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。』

 新会堂建設もひとまず終わりを迎えました。ただいくら外側が完成しても、大事なのはその内側です。同様に、私たちの信仰も、どんなに外側がよく見えても、内側の実生活が伴っていなければ、ひとたび問題が起きた時、いとも簡単に崩れ去ってしまうのです。

 ヤコブは、国外で試練の中にあるキリスト者たちに「試練に会うときは喜びと思いなさい」、そして「信仰さえあれば行いはなくてもよい」という誤った考えを正し、「試練の中でこそ本物の信仰者であれ!」と手紙を書きました。現在は、多様性、あらゆるものが相対的な時代です。ただ…それゆえに真偽が問われる時代でもあるでしょう。本物の信仰者とはどういうものか。それは、何よりみことばをしっかり聞くということが原点です。このことをテーマに、ヤコブの3つの勧めを心に留めたいと思います。一つは、みことばを素直に受け入れることです。心に湧いてくる汚れた思いを捨て去って、神のみことばを素直(柔和な)心で聞きたいものです。聞くには早く、語るには遅くです。二つ目は、みことばを聞いたら実行することです。みことばは読んだり聞いたりするだけで満足してはいけません。自分に当てはめ、実行してこそ価値があるのです。三つ目は、みことばを互いに分かち合うことです。神との関係を優先するあまり、隣人への必要に全く関心を示さないとか、逆に家族や友人との関係を優先しすぎて、神との関係を疎かにしているとか。そのどちらに偏ってもバランスを欠いた信仰生活になってしまいます。みことばは神との関係において、隣人との関係において、互いに分かち合ってこそ値打ちがあります。大丈夫!その思いも、聖霊が与えてくださいます。主なる神に期待して歩んでいきましょう。

秋晴れ

今日は文句なしの秋晴れ!雲一つない青空をバックに思わず写真を撮りました。奇麗な教会です。朝晩も涼しくなり、半袖では寒いくらいになってきました。さあ、いよいよ伝道の秋。イエスさまを宣べ伝えるすべてのクリスチャン、すべての集会が用いられますように祈っています。

教会名が入りました

今日は十字架の下に新しい看板がつきました。もっと明るいうちに写真を撮りたかったのですが、あれこれしている間に気づけば夜…。また今夜の祈祷会は大学生が8人も来るという賑やかな集会となり、みんないろんな意見を聞けて楽しかったです。彼らのような青年が日本のキリスト教会の希望の光になってほしいですね。

庭木を伐採

教会の横にあった立派な庭木(ヤシの木)4本を伐採しました。毛虫が大量に発生していたことと、ここを耕していつか作物でも植えたいと思ったからです。教会の青年に手伝ってもらって(少し無謀な挑戦でしたが…)なんとか片付きました。まだ根株が残っていますが。自然の力って本当に凄いです。

試練を喜ぶ信仰

もう秋だなと思ったら、また夏の暑さが戻ってきたような強い日差しでした。でも、確実に肌に当たる風は秋の涼しさを感じます。この時期、こんな天気なので風邪をひいている方も多いようです。お天気一つでずいぶん気分も左右されることを感じます。それでも教会にくると不思議な力と平安に包まれます。やはり神の言葉には力がありますね。

 

試練を喜ぶ信仰」(メッセージ要約)ヤコブ1:1-12

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

 主の兄弟であり、エルサレム教会の重要な指導者でもあったヤコブが書いた手紙です。彼は冒頭で、「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」と自己紹介をしています。ここにも、彼のへりくだりと謙遜さを見るように思います。彼は国外で試練の中にある同胞のキリスト者たちを励まし、正しい信仰のあり方を伝えるためにこの手紙を書きました。

 ここで言う「試練」という語は、二重の意味をもつ言葉で、「試練」とも「誘惑」とも訳せる言葉です。つまり、一つの出来事が外的には「試練」であるとともに、内的には「誘惑」ともなり得ることを示します。まるでコインの表と裏です。あなたは「試練」を喜べますか。それはいかに信仰をもって受け止めるか否かにかかっているのです。今日は具体的に三つのことを心に留めましょう。一つは忍耐を十分に働かせることです。「忍耐」とはただじっと我慢するという消極的なことではなく、もっと堅実で確信をもって待つことです。二つ目は神からの知恵を求めることです。試練の中において、その意味と目的を判断するには、神からの知恵が必要です。神を疑いながらでは、確信は得られません。神に求める者は、神が与えてくださる方であることを知るのです。三つ目は正しい価値基準を持つことです。試練の中にあっても、キリスト者には恵みによる逆説があります。「貧しい境遇」にあっても、キリストにあってその人は高くされます。逆に、「富んでいる者」はキリストにあって低くされるのです。私たちに必要なのは、この世の富や身分に固執することより、イエスさまにある永遠の富に目を向けなければならないのです。キリスト者には試練があっても、その後に栄光が続きます。私たちもまた、試練の中でも忍耐し、約束の「永遠のいのちの冠」を目指して歩もうではありませんか。

日が暮れるのが早くなりました

9月も半ばを過ぎると、すっかり日が暮れるのが早くなりました。教会では、毎週夕方に英会話のKids classがあります。夏休みも終わって通常の生活になり、子どもたちも段々と落ち着いてきたように感じます。平日の木曜日、こうして地域の子どもたちが喜んで教会に通ってきてくれることが、何より嬉しいです。

七度を七十倍するまで

夏期休暇(?)をいただいて、3週間ぶりの説教者としての講壇でした。牧師館の引越しの途中なので、説教準備に十分な時間をかけたとは言えず大変申し訳ないのですが…それでもまず自分自身が教えられることの多い箇所でした。聖書は実に奥深い。思えば、この部屋で聖書を読むのも今週限りになってきました。

 

「七度を七十倍するまで」(メッセージ要約)マタイ18:21-35

『あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようにしたのです。』

 今朝はイエスさまがペテロに話された譬え話に注目していきたいと思います。ある時、ペテロはイエスさまにこんな質問をしました。「主よ、兄弟たちが私に対して罪を貸した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」すると、イエスさまはこう答えられました。「七度まで、などどわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」そして、そのことをより具体的に教えるためにこんな譬え話をされたのです。

 ある王がしもべたちに貸したお金を清算することにしました。最初に連れて来られたのは、一万タラント(大変な金額)を借りた人でした。彼はその時とても返済できる状態ではなかったので、ひれ伏して「もう少し待ってください。そうすれば全部お支払いいたします」と懇願しました。すると王はかわいそうに思って(心から同情して)、その借金を免除してあげたのです。話はそこで終わらず、その借金を免除されたしもべが外に出ると、自分が百デナリ(普通の金額)を貸していた仲間のしもべに出会い、首を絞めて、「借金を返せ」と取り立てました。仲間のしもべも、あわてて「もう少し待ってくれ」と懇願しましたが、彼を問答無用で投獄してしまったのです。この一部始終を別の仲間たちが王に報告すると、王はそのしもべを呼び出して、「私がお前を赦したように、お前も仲間を赦すべきではないか」と叱責して、結局、獄吏に引き渡したという話しです。

 いつの時代も、人はみな罪を犯す性質を持っています。これについては誰も弁解の余地はないはずです。それも大抵は同じ種類の失敗で、公にならない限り、何度も繰り返す…というものではないでしょうか。「〇〇〇の顔も三度まで」と言いますが、それ以上の七度まで…と言ったペテロは自分の寛容さを示すつもりだったようですが、イエスさまは「七度を七十倍するまで」(無限に赦しなさい)と言われたのです。それは、「赦し」に関する一般的な道徳論ではなく、人間と神との関係、また神の赦し、そして神が私たちに何を期待しているかを教えるためです。つまり、私たちが神に対して莫大な負債(負い目)があること、また神は御子によってその負債を赦してくださったこと、そして神の赦しと人間の赦しは表裏一体であることです。借金を免除されたのは、私でありあなた自身です。願わくは私たちも、神の憐みによって赦された者として、私たちの周りの人々にも怒りの波紋ではなく、赦しの波紋を広げていこうではありませんか。

夏も終わりですかね

あわただしかった8月も今日で終わり。外にいると、どこか風も涼しく感じました。教会前のベンチで本でも読みたいものですが…今日から十字架のライトアップを始めました。見る方の心にも世の光が灯りますように。

教会堂献堂式

今日の献堂式には100名を越す方が出席してくださいました。主の御名を高らかに賛美し、力強く御言葉が語られました。ご出席くださった方々、お祈りくださった方々に心から感謝いたします。

いよいよ明日です

リフォーム工事が始まってから70日目。ついに内装・外装・看板など、すべての工事が完了しました。なんとか明日の献堂式に間に合ってよかったです。今日は20名近くの方が奉仕にしてくださって、みんなで準備をしました。牧師館の引っ越しは妻の体調不良もあって9月のはじめにしました。こちらはゆっくり準備しようと思います。

看板がつきました

看板に十字架がつきました。教会の前を通る方々も立ち止まって眺めていました。ここまで一つ一つの工程が守られて感謝です。今日、ある先輩の先生から「神の国の拠点として大いに用いられますように」とお手紙と献金をいただきました。ますます主の恵みと真理を宣べ伝える教会として歩んでいきたいと思います。

もうすぐ完成

教会の解体工事が始まった頃はどうなることかと思っていましたが、なんとかここまで守られてきました。まだ外看板は工事の途中ですが、今週、竣工検査を行って工事は完了です。妻の体調不良で、引っ越しは9月になりました。お祈りいただければ幸いです。

外看板の工事開始

今日から外看板の工事が始まりました。猛暑の中での作業、工務店の方も大変です。内装工事は終わったのですが、まだカーテンを付けたり、荷物を片づけたり…と結構いろいろあります。献堂式は今度の日曜日。それまでには…と思って頑張っています。

山本先生登壇

今日は、山本和義先生が第二礼拝のメッセージをとりついでくださいました。自己紹介の「お証し」から深い釈義に基づく説教、時にユーモアを交えながら語ってくださいました。山本先生とは、TCIの家族寮の時からの知り合いで仲良くさせていただいています。今は、牧師職を休職されて一般の仕事に就いておられますが、もし教会の特伝などで良いメッセンジャーを検討されているようでしたら、ぜひお薦めしたい先生です。

内装工事も終わりました

今日、内装工事が完了。解体から大工仕事まで一緒にお手伝いさせてもらったので、なんだか終わりだかと思うと淋しい限りです。本当にお世話になりました。来週からは牧師館の引っ越しです。

献堂式まであと十日

献堂式まであと十日となりました。礼拝堂はほぼ完成したものの、多くの来会者をお迎えするにはもう少し準備が必要です。二階は納戸が完成したところで、工務店の方は夏休み。台所が未完成で、看板工事もこれからとのこと。英会話秋期コースのチラシ配布もまだまだ残っていますが、牧師館の引っ越し準備も始めねば…。暗闇の中に、教会の灯りがいい感じに輝いています。

工事六十四日目

足場もとれて、外壁の様子がはっきり見えてきました。これから二階に看板が付きますが、ひとまず一安心。午後からは何人かで教会案内と英会話のチラシ配布を行いました。暑い中、ご奉仕くださる方々の上に、神さまの豊かな祝福をお祈りします。

工事六十二日目

今日、外壁塗装が完了しました。あとは足場(夜中にトラックがぶつかったようです。近所の皆さま、ご迷惑をおかけしています)を外し、20日からは二階に看板を取り付ける作業が始まります。いろいろと思わぬことが起こるものです…。気を引き締めていかねば。

疲れていませんか

今日はKFSMの長田師がメッセージをとりついでくださいました。イザヤ30:15「立ち帰って静かにすれば」「落ち着いて信頼すれば」主の前に静まり、主を待ち望むことを教えられました。今週は長野行きもキャンセルしたので、少しペースを落として心身ともに休ませたいと思います。

冷蔵庫と食器棚/墓前礼拝

冷蔵庫と食器棚が入って台所が完成しつつあります。前の教会では給湯室しかなかったので、みんな喜んでいます。午前中は夏の青空のもと墓前礼拝。家族思いだった姉妹の姿を思い浮かべながら、天の御国から「ありがとう」という声が聴こえてきそうでした。

工事五十八日目

外壁塗装のために20日頃までこのまま覆われた状態になりますが、完成をお楽しみに。一階の礼拝堂は正面に十字架がつけられ、100インチのスクリーンも入ってほぼ完成。新しい会堂をぜひ見に来てください。

工事五十七日目

今日から外壁工事が始まりました。二階の内装工事もまだ来週ごろまでかかりそうです。8/27の献堂式に間に合うかどうかというところ。お祈りください。また、この日曜日には午後から囲碁クラブがとても盛り上がりました。初心者にも愛をもって手加減なしです。ついでに今年も水曜祈祷会の後に誕生日を祝ってもらい、夫婦でペアのTシャツを着せられることに…。決して、自分たちで買ったわけではありません。

最初の礼拝

新会堂に移ってからの最初の主の日を迎えました。新しい会堂に賛美が響き渡り、まだどこかぎこちなさもありますが、新鮮な気持ちで礼拝をささげました。子どもたちの礼拝でもみんなよくお話しを聞いていたようです。

明日の準備完了

今日は入れ代わり立ち代わり多くの方が手伝いに来てくださいましてありがとうございました。本当に怒涛の一週間でしたが、なんとか落ち着いて礼拝を捧げられる体制が整いました。体の疲れはピークを迎えていますが、やはり夢にまで見た新会堂での礼拝…感無量です。このまま泊まっていきたいくらい離れがたいですが、明日のメッセージの準備が家で待っています。

工事五十二日目

今日はなんとか一階の礼拝堂の片づけを終えて椅子を並べてみました。まだ、台所や廊下などが終わっていませんが、日曜日には間に合いそうです。とは言え、二階はこんな感じなので…工事は来週にまでかかりそうです。

工事五十一日目

新会堂での引っ越しの片付けが始まって5日が経ちました。連日、多くの方が手伝いに来てくださって、ここまで片付いてきました。礼拝堂に関しては日曜日までになんとか間に合いそうです。あと気なるのは地域への「音」の問題…。防音カーテンも考えましたが、まずは二重窓を作って対応したいと思います。

最初の祈祷会

新会堂での最初の祈祷会がありました。まだリフォーム工事が終わっていないので、少し狭い親子礼拝室で祈りをささげましたが…いつものメンバーで、いつものように祈祷会ができるのは何より安心します。夜もお腹を空かせた青年たちと一緒に引っ越しの片付けをして、その後で御言葉と肉の糧をしっかり味わいました。

工事四十九日目

トイレが付いて、今日から使えるようになりました。男女は小さなトイレですが、一つは車いすでも入れるように大きく作ってもらいました。もとは車庫だったところですが、見違えるようにきれいになりました。明日は祈祷会があるので、間に合ってよかったです。

工事四十八日目

今日から八月。この日に合わせて、ある姉妹が金と銀の看板を作ってきてくれました。早速、手伝いに来てくれた青年がつけてくれましたが、なかなか上手な仕事に感謝です。看板だけでずいぶん雰囲気が変わりました。

生ける水の泉

今日は16年間お世話になった西小路2-7-22MKM友ビルでの最後の礼拝でした。用意した椅子はほぼ満席になり、高らかに賛美が捧げられました。この場所でたくさんの出会いがあり、たくさんの主の御業を見せていただきました。家主さん、地域の皆さま、本当にお世話になりました。主の祝福を心からお祈り致します。

 

『生ける水の泉』(メッセージ要約)ヨハネ7:37-39

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が入っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。

 今日は箕面市民が楽しみにしている「箕面祭り」のパレードがありました。様々な工夫を凝らしたダンスやブラスバンドがメイン通りをパレードするのは圧巻です。今年も大勢の観客で沿道は埋め尽くされ、非常な盛り上がりを見せていました。

 さて、今日のメッセージはユダヤ人にとっての三大祭りの一つ「仮庵の祭り」が舞台です。かつてイスラエルの民がエジプトを脱出し、荒野を旅している中で水に渇き、神がモーセを通して岩から水を出したことを記念するもの。その祭りが最も盛り上がりを見せる時、イエスさまは立ち上がって大声で叫びました。「だれでも渇いているなら…」祭りの賑わいとは逆行するような言葉に、人々は目を丸くしたことでしょう。でも、それこそ私たち人間の本質をつく、イエスさまの招きと約束のメッセージだったのです。

 人はみな、何気ない生活を送る中でも心の渇きを持っているのではないでしょうか。その渇きを癒すために、次々に夢中になれるものを探したり、あるいは一時しのぎにお酒やギャンブルで紛らわそうとしたりすることもあるでしょう。でも、それはあくまで一時的なもので、醒めてしまえばさらに渇きを増すことになります。人の心には衣食住では決して満たされない飢え渇きがあって、イエスさまはそうした人間の現実に向かって叫ばれたのです。そして、イエスさまはそういう人はだれでもご自身のもとに来て飲むように招かれました。それは、イエスさまを罪からの救い主であると信じるということです。そうすえば、その人の心の奥底から生ける水が溢れ出て、溢れ出た恵みは隣人の心まで潤していくのです(イザヤ58:11)。

引っ越し/工事四十六日目

今日は、教会員をはじめ友人牧師たちも手伝いに来てくれて総勢20名ほどで教会の引っ越しを行いました。二tトラック&軽トラック二台でそれぞれ三回ずつ運びました。思ったより荷物がたくさんあって、新会堂の礼拝堂はあっという間にいっぱいです。明日は現会堂での最後の礼拝。主が備えてくださった場所に感謝をもって心から捧げたいと思います。

工事四十五日目

照明器具などがまだついていませんが、一階の礼拝堂の工事はほぼ完成に近づいてきました。台所や廊下のクロスもこれからですが、とにかく今日、第一便の荷物を運び入れました。明日は14名の奉仕者が来てくれて、教会のおおよその荷物をこの礼拝堂に運び入れます。どうなることやら…ですが、同時進行で献堂式の記念品の作成を始めました。

工事四十四日目

親子礼拝室、キッチン、トイレの壁紙がはられ、夕方には礼拝堂の天井にもクロスが張られていました。明日は礼拝堂の床にクッションフロアが張られる予定ですが、ワックスを塗るため、一日おかなくてはなりません。現教会では明日から引っ越し作業を始める予定なのですが、新会堂のどこへ運ぶかを考えなくては…。もちろん明日は引っ越し業者も頼まずに、自分たちで運びます。

工事四十三日目

1階礼拝堂の工事も完成間近となり、週末の引っ越しの段取りも決めました。現会堂での祈祷会も今日が最後。16年間慣れ親しんだ会堂を離れるのは寂しいのですが、導いてくださる主に期待して旅立っていきます。

原状回復

昨日は近くの服部緑地公園を散歩し、向日葵の健気さに励まされて帰ってきました。その後は、現会堂の原状回復に勤しみました。床のカーペットを止めていた両面テープが信じられないほど剥がれず苦労しています。…体力の衰えを感じつつも、頑張っています。

工事四十一日目

礼拝堂の天井と親子礼拝室が出来上がってきました。また、トイレも便器などはまだですが、先に壁紙が入りました。なんとか今週末の引越しに間に合うように作業を進めてくださっているそうです。感謝です。

洗礼式/ファミコン/工事四十日目

今日は待ちに待った方の洗礼式がありました。素晴らしいお証しに、神さまの最善の時を覚えました。また、午後はファミリーコンサート。この場所では最後となり、感慨深いコンサートになりました。工事も四十日目を迎え、進捗状況も気になりますが、現会堂の原状復帰も始めなくてはなりません。いずれにせよ、今週土曜日には引越しをします。

 

「死んでも生きる」ヨハネ11:17-27(メッセージ要約)

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。…このことを信じますか?

 先週、日野原重明さんが天に召されました。敬虔なクリスチャンとして歩み、多くの人に愛され、まさに生涯現役を貫いた先生は、この世の使命を全うして天国の確信をもって旅立っていかれたことでしょう。

 どんなに長寿大国になったとしても変わらないのは、誰もがやがて死の現実と向き合わなければならないことです。それはクリスチャンも同じです。病気になることもあれば、試練の中も通らされることもあります。マルタとマリヤとラザロの兄弟も、イエスさまを愛し信頼していましたが、人生最大の試練に襲われていたのです。姉妹は、弟のラザロが重い病気にかかっているので、イエスさまのもとに使いを送り助けを求めました。でも、イエスさまは四日も遅れて姉弟のもとにきたのです。すでに埋葬も終わり、もはやどうすることもできない状況でした。マルタは言います。「あなたがここにいてくだされば、弟は死ななかったでしょうに。」彼女はイエスさまを信頼していましたが、あくまで「いてくだされば」というもので、「来てくだされば」というものではなかったのです。イエスさまはそんな彼女に「あなたの兄弟はよみがります」と宣言され、三つのことを教えられました。一つは死が全ての終わりではないこと、二つ目は望みえない中で望みを抱くこと、三つ目は信じる者は神の栄光を見ることです。イエスさまは、悲しみに暮れる姉妹とともに涙を流され、そして、墓の石を取り除けるように命じました。彼女たちはその言葉を信じて不信仰という墓の石を取り除いた時、復活のラザロを目の当たりにしたのです。

人間はみな、死へと向かう存在です。でも、イエスさまをよみがえりであると信じる者はみな、永遠の命に向かう存在なのです。あなたも「まだ信じられない」という不信仰の岩を取り除いて、小さくても「信じる」という一歩を踏み出そうではありませんか。

工事三十八日目

親子礼拝室がだいぶ出来上がってきました。ただ、そこから礼拝堂を見るガラスの部分が思いのほか小さかった。開閉するのはいいのですが、もう少し早く見に行くべきでした…。右側は障碍者の方用のトイレ。床のCFや壁紙が張られるのは来週になるのこと。取り急ぎ、一階部分の完成は次の金曜日です。

工事三十七日目/パット先生

工事37日目。引渡しまで10日を切りましたが、まだ先は長いですね…。今日は6年間英会話の講師をしてくださった先生の最後のクラスでした。福音を熱く語り、よく祈り、多くの受講生に愛された先生でした。I wish you well !  

子ども礼拝の準備

この教会での祈祷会も残り二回となりました。今日は祈祷会&食事の後に、子ども礼拝の準備をしました。お話を聞いてくれる子どもたちの顔を思い浮かべて心を込めて色塗りしました。

工事三十五日目

連日の猛暑の中、工事関係者の方々が急ピッチで作業をしてくださっていますが、やや遅れ気味のようです。もともと車庫だった場所には台所とトイレができます。だいぶその部屋も出来上がってきました。とにかく来週中には引っ越しです。お祈りください。

気分転換

今日は気分転換に西宮の甲山公園に行ってきました。急勾配を登った先には兵庫の町並みを一望できる展望台があります。風が気持ち良かったです。川沿いのよく行く喫茶店が閉まっていたのは残念でしたが、いい一日でした。

工事三十三日目

勝手口の扉を開けるとすぐに二階に上がる階段があります。子どもたちがドタドタと土足で登る階段なので少し補強してもらっています。また、右の写真は男女のトイレと障碍者の方のトイレを作ってもらっています。もともとは車庫があった場所です。

オオクワ/工事三十二日目

今日も猛暑でしたが、午後から工事の手伝いに行ってきました。大したことはできませんが、少しでも…と思い。今年、羽化したオオクワも元気いっぱい、なかなかの大きさになりました。

工事三十一日目

一階の車庫だったところは車椅子の方が使うトイレにリフォームして外側をコンクリートで塞ぎました。また、二階のトイレとお風呂があったところは子ども礼拝室にリフォームしていきます。みんなで思い描いていたことが形になっていくので、本当に楽しみです。

工事三十日目

今日も朝から暑い一日となりました。内側の天井、床、壁の色が決まりました。ここには親子礼拝室、キッチンができる予定です。その隣はトイレができる予定ですが、工事の方々がいろいろ工夫して作ってくださっています。

工事二十八日目

ユナさんの誕生日ということで、箕面の山をドライブに。その帰りに新会堂の様子を見に行ってきました。一階の礼拝堂は、天井と床が張られ、次は壁ができるそうです。工事が順調に守られていることを感謝します。

工事二十四日目/どん底からの希望

今日からいよいよ天井がはられていきます。開放感があるようになるべく高い位置にお願いしましたが、やはり打ちっぱなしの時に比べると低く感じます。また、二階の子ども礼拝室も仕切りの壁が壊されスケルトンの状態になってきました。ここでたくさんの子どもたちが元気に走り回る姿を思い浮かべています。

 

「どん底からの希望」ヨハネ7:53-8:11(メッセージ要約)

わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』

 私たちは時に、同じ人生であっても、幸福な人がいれば不幸な人もいる…なぜこのような不公平があるのかと疑問に思うことがあります。でも、私たち一人一人に注がれる神の愛はどんな人にも公平であることを思います。

 今日の箇所にも、人生のどん底を味わった一人の女が出てきますが、律法学者たちは彼女を姦淫の現場で捕らえ、イエスと群衆の前に連れてきました。そこで彼らはイエスに向かって「あなたはこの女になんと言いますか」と詰め寄ったのです。それは、イエスを訴える口実を得るためでした。この時のイエスの言葉は、今日の私たちにも大切なメッセージを告げています。この出来事から三つのことを心に留めましょう。

 一つは、人を責める前にまず自分を問うことです。イエスは律法学者たちに「あなたがたの中で罪のない者が石を投げなさい」と言われました。すると、年長者たちから始めてひとりひとりその場を去っていったというのです。「人の一寸、わが一尺」と言いますが、私たちも気を付けたいものです。二つ目は、イエスだけが真実な裁き主であることです。律法学者たちが去った後、イエスとその女だけになりました。彼女はイエスの前に自分の罪を認め、裁かれるべき者としてその場に留り続けたのです。イエスはそんな彼女の悔い改めをしっかりと受けとめられました。三つ目は、イエスの愛だけが人を造り変えることです。イエスは彼女の過去よりも、「今からは」という彼女の未来に目を向けられました。その時、暗く傷ついた彼女の心に希望の光が差し込んだのです。イエスの愛は、あの十字架の上にはっきりと示されました。この愛だけが、人を新しく造りかえるのです。私たちもまた、イエスの十字架の愛を見上げ、日々新しく造りかえられていこうではありませんか(Ⅱコリント5:17)。

新しい講師レイチェルさん

9月からのもう一人の新しい講師レイチェルさんが来てくれました。彼女もまた明るくて気さくな先生、しかも日本語もお上手です!教会の英会話教室は、普通の英会話とは違って、いろいろユニークです。秋期コースは新しい教会堂に移ってから始まりますが、ぜひこの7月にオブザーバーでクラスを体験してみませんか?

工事二十二日目

今日は夕方に見に行ってきましたが、天井の基礎となるものがつけられていました。床と天井ができてきて、いよいよ礼拝堂の雰囲気が見えてきました。右側の写真のところにキッチンとトイレがつくられる予定です。

神をあがめる者に

リフォーム工事は二十日目を迎えました。月曜日で休みだったので、午後から少し手伝ってきました。壁を壊すのも慣れてきた感じがします。人の心もこんな風に壊れたらいいのですが…。工事の方とキリスト教の歴史やカトリックとプロテスタントの違いについてお話しできるのが嬉しいです。少しでも神さまや教会に対する思いが伝わってもらえたら感謝です。

 

「神をあがめる者に」ルカ5:17-26(メッセージ要約)

すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら帰っていった。

 最近、何かと話題の棋士ひふみんさんは、カトリックの信者さんだそうです。彼の「老いと勝負と信仰と」を読みましたが、特に信仰面でとても親近感がわいてきました。

 信仰とは何か…。「イワシの頭も信心から」と言いますが、大切なのは、信じる気持ちよりも信じる対象です。福音書を見ると、イエスさまの周りにはいつも大勢の人たちが、話しを聞きに、病いを直してもらいに集まってきていたことがわかります。そんな様子をパリサイ人や律法学者たちは反感の目で見ていたようです。そんなある日、男たちに担がれて中風の病人が運ばれてきました。ところが、イエスが滞在している家は、人々で溢れ返りとても中には入れませんでした。願いは叶わずあきらめて帰ると思いきや、彼らは屋根に上り瓦をはがして病人をつり降ろしたのです。非常識と思われようと、人から何と言われようと、彼らはあきらめずに求め続けました。ここに信仰の原点があります。そんな彼らにイエスが言われたのは驚く言葉でした。「あなたの罪は赦されました」病人は何のことか分らず、律法学者たちもここぞとばかりに反発しました。でも、それは彼にとって必要な言葉であり、イエスしか言い得ない大切な言葉だったのです。砕かれた心に神のことばを受け取る…ここに信仰の重要な真理があります。その上で、イエスは彼に命じました。「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」彼は躊躇することなく、人々の前で立ち上がり、神をあがめながら帰っていきました。これまでとは違う、希望をもって御言葉に従って歩む新たな人生を歩き出したのです。ここに信仰の本旨があります。彼の病の癒しは、周りの人々をも神をあがめる者に変えていきました。私たちも彼らのような信仰をいつも心に覚えて、一歩ずつ神をあがめる者にならせて戴きましょう。

工事十八日目

天井に鉄の棒が無数に打ち付けられ、これからどのように天井ができていくのか説明していただきました。暑い中、本当に大変な作業です。一階部分は礼拝堂に当たるので、急ピッチで進めていただいています。工事の方柱や壁に書かれた御言葉に、工事の方も「なかなかいい言葉ですね」と感心してくださっていました。

工事十八日目

今日は床のコンクリートもすっかり乾いて、天井から鉄の棒のようなものが吊り下げられていました。一階の解体はほぼ完了です。二階はまだまだ時間がかかりそうです(右の写真は先日私もちょっと壊すのを手伝った壁です)。立派なトイレと風呂がありましたが、教会学校の部屋にリフォームされます。

工事十七日目

昨日は東京で会議、今日も牧師会があったので、夕方ごろに会堂を見に行きました。すでに床にコンクリートが流し込んであり、日曜日にみんなで行った時が聖書を埋める最後のチャンスだったかも…。さあ、どうしたものか…。ただ個人的には、「聖書」は読むものであって、埋めるものではないという思いですが。

神なき時代の心得

礼拝後に新教会のリフォーム状況を見に行ってきました。工事の方の了解を得て、みんなでコンリートの柱に好きな言葉を書いてきました。なかなか貴重な体験だったのではないでしょうか。神さまを第一とする思いを忘れずに、御心にかなった教会堂が建つことをお祈りしてきました。

 

「神なき時代の心得」創世記11:1-9(メッセージ要約)

それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の前面に散らしたからである。

 今日は住宅デーで、アントニオ・ガウディの誕生日でした。彼はもともと無神論者で、サグラダ・ファミリアの建設中に、神を信じる信仰に導かれたそうです。私たちもあらためて建物を建てることについて考えたいものです。

 ノアたち家族が大洪水から救われた後、三人の息子たちから全世界の民が分かれ出ました。それゆえ人類は一つの言葉を使っていたのですが、シヌアルの地(現在のイラン・イラク国境地帯)に移り住んだ頃、町を築き高い塔を建てたことで、神の裁きを受け言葉が通じ合わなくなってしまったのです。時代は違えど、互いの意思の疏通ができてこそ、円滑なコミュニケーションがとれるものです。もし、同じ民族で、同じ言葉でありながら、思いが通じ合えなくなるとしたら…それは一大事です。このバベルの塔の出来事から、神なき時代の心得を心に留めておきたいと思います。

 一つは神なしの自負心が人を不幸にすることです。「頂が天に届くまでの塔」は、神の領域まで達するという人間の傲りでした。また、「散らされるといけない」も、神の命令に対する反逆です。つまり「バベルの塔」の建設は、被造物であることを忘れた人間の高慢さの象徴だったのです。二つ目は神なしの働きは必ず失敗に終わることです。人間の目には町や塔の建設は順調に進んでいるように見えました。でも、神の目にはこのまま放っておけばますます状況が悪くことが見えていたのです。どんなに神をないがしろにしようと思っても、神は見過ごさずにわざわざ降りてこられて行動を起こされるのです。三つ目は神なしの時代に神の裁きが下ることです。神は、罪に向かって団結する人々の言葉を混乱させ、彼らを全地に散らされました。それは神の裁きでありましたが、同時に神の救いへの備えでもあったのです。時が過ぎ、ペンテコステの出来事は私たちが御霊にあって一つにされることを教えています。今日も神なき時代にありますが、どうか神の愛の中に留まり、御心にかなった歩みをしてまいりましょう(ヤコブ4:6)。

工事十一日目

梅雨の時期なのに、雨はほとんど降らず暑い日が続いています。工事の方々も7月末の完成を目指して急ピッチで作業を進めてくださっているので、私も何かできないかと思い、ほんの少しだけ壁の解体を手伝わせてもらいました。東日本大震災で救援ボランティアに行った時のことを思い出しながら目一杯ハンマーを振ってきましたが、とにかく体が痛いです…。

新しい講師&工事十日目

今日は秋からの英会話Kidsの講師をしてくださるホゼア先生が来てくださいました。すでにKidsたちの心もお母様方の心もつかんでいる様子でした(笑)。リフォーム工事も十日目を迎えて、一階もだいぶスッキリしてきました。

関西宣教区運営委員会

今日は関西宣教区運営員会がありました。同盟教団の牧師&牧師夫人20名ほどが集まって互いの近況や今後の予定について話し合いました。嬉しいニュースと寂しいニュースとどちらもあって複雑な気持ちでしたが…。会議の後は新会堂のリフォームを見に行って、先生方に祝福を祈っていただきました。 

工事七日目&永遠の契約

礼拝後に教会の皆さんでリフォームの状況を見に行きました。工事が守られるようにお祈りしてきました。右の写真は3年前に物件を探していた時に見た虹です。ノアの洪水後の神さまの契約を思い出します。

 

「永遠の契約」創世記8:1-9:17(メッセージ要約)

こうして神はノアに仰せられた。『これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。

 「父の日」も「母の日」同様、今から100年ほど前にアメリカの教会で最初に祝われました。ある婦人が天国の父を覚えて感謝の礼拝をささげたのが始まりと言われています。この日ばかりは…日頃の感謝を込めてお父さんに「ありがとう」を伝えたいものです。

 神様の言葉通り、大雨は40日40夜降り続き、水かさは150日間も増していきました。大洪水の中を漂う箱舟、その中にいた一家の大黒柱ノアとその家族は不安な日々を過ごしていたでしょう。「神さまは私たちを忘れてしまったのか…」と疑心が頭をもたげていたかもしれません。しかし、この洪水の記事は、だれがどのように滅ぼされたかということよりも、だれがどのように救われたのかということを丹念に記しています。彼らはどのように救われたのか、また、神はこの出来事を通して何を教えているのでしょうか。

 一つは神はノアたちを忘れずに心を留めておられたことです。「心に留める」とはたまたま思い出したとは全く逆のことです。神は洪水の間もノアたちのことを片時も忘れずに思い続けていました。そして安全に岸にたどり着かせたのです。二つ目は神はノアの献身と祈りを受け入れられたことです。ノアたちは漂着してからも7ヶ月間も待ち続けていました。「箱舟から出なさい」という神の言葉を聞いた時、どんなに喜んだでしょう。そんな彼らが最初にしたのは神に心からの礼拝を捧げることだったのです。三つ目は神はそんなノアとの間に永遠の契約を結ばれたことです。神は「わたしは、わたしの契約を立てよう」と告げられました。これは「後の子孫」と言われた通り、今日の私たちにも関係する永遠の契約です。私たちも今日という日がある間にみことばを宣べ伝えましょう(Ⅱテモテ4:2)。大切なことを後回しにしないで、今をしっかり生きるものでありたいものです。

工事六日目&オオクワあげます

工事六日目も暑い一日となりました。天井もすっかりきれいになった…と思ったら、三本の十字架が現れました。これはこれで気が引き締まるような…。また、今年もオオクワの産卵セット完了。今夏、オオクワを飼ってみたいお友だちがいたら差し上げます。

工事五日目

今日は炎天下での作業になりました。工事関係者の方々に感謝です。床も天井も解体が進み、二階部分も始まりました。一階も二階も水回りの移動があるので、それに多くの時間がかるようです。

工事四日目

解体工事4日目です。壁はほとんど取り除かれ、天井と床も徐々にはがされています。一階の解体工事はだいぶ進みました。これからどのようにきれいになっていくのか…まだまだ先は長いですね。

「花の日」のプレゼント

6月の「花の日」を覚えて、地域の介護施設にお花と賛美のプレゼントにいきました。この奉仕も毎年の恒例行事となりましたが、三か所の施設でいつも楽しみに待っていてくださる方々がいてくださることに励まされます。全部で5曲の賛美、穏やかな笑顔で聴いてくださいました。訪問した私たちもたくさんの恵みをいただいて感謝なひとときでした。

工事二日目

解体工事二日目はだいぶ作業が進んでいました。もともと小児科の病院でしたので、細かく部屋が分かれていましたが、あれよあれよという間に壁が取り除かれ、なんだか広く見えました。聖書には「古いものは過ぎ去って…」とあります。病院が41年の働きを終えて、まさか教会になるとは…近隣の方々はやっぱり驚くでしょうね。

リフォーム工事開始

今日から本格的なリフォーム工事が始まりました。工事関係者の方々と祈りをもって始めました。一階はほとんどスケルトンに近い状態になるので、どのくらい礼拝堂のスペースがとれるのか期待しています。とにかく事故や怪我がないように、また、近隣住民の方々へのご迷惑が最小限に収まるようにお祈りください。

あきらめずに祈り続けるなら

慣れ親しんだ場所を離れるのはやっぱり淋しいものです。でも、「立つ鳥跡を濁さず」で気持ちも切り替え、思い切って次の一歩を踏み出す準備を始めました。主からの祈りの答えを信じて…まずは断捨離です。

 

『あきらめずに祈り続けるなら』使徒の働き12:1-17(メッセージ要約)

こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。(しかし)教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。

 私たちの生活には簡単で身近なものほど、実は奥が深いというものがあります。クリスチャンにとってはまさに「祈り」がそれです。「祈り」とは、単なる気休めではなく、偶然を期待するようなものでもありません。祈りとは何か…。人はなぜ祈るのか…。「求めよ。さらば与えられん。」激しい迫害の中にも、ねばり強い祈りで目覚ましい宣教を行った初代教会の姿から、あきらめずに祈り続ける秘訣を心に留めましょう。

 一つは、試練の中にも主にあって希望があるからです。ヘロデ王は、教会を苦しめるために手始めにヨハネの兄弟ヤコブを捕らえて殺し、さらに教会の中心人物であるペテロまで捕らえて投獄しました。こうした状況に教会は手も足も出せずにいたのです。それでも彼らにはまだ一つの道がありました。それは万物の支配者である神に祈り求めることでした。「祈りは万事を変える」いつの時代も教会の最大の武器は祈りなのです。

 二つ目は、私たちの思いを超えて主が働かれるからです。牢獄に繋がれていたペテロは絶対絶命の状況にありました。そんな彼の前に御使いが現れ、彼を外に救い出されました。それは夢でも幻でもなく、まさに主の御業の表れだったのです。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」主は八方塞がりの時こそ、人の常識を超えてその御手を動かされるのです。

 三つ目は、私たちは最善なる主の計画を知るからです。教会は、ペテロが殺される前夜も必死に祈り続けました。もちろんヤコブが捕らえられた時も熱心に祈ったでしょうが、そのヤコブは殺されてしまいました。…だから今度も祈ってもダメだと言って祈らなかったのではありません。彼らは、さらにあきらめずに主に祈り求めたというのです。いつの時代も、あなたがたの確信を投げ捨ててはならない、忍耐をなくしてはならない、聖書はそう教えています(ヘブル10:35-36)。私たちもまた、どんなに望み得ない時にも、拙い祈りでも、主に期待してあきらめずに祈り続ける者にならせていただきましょう。

箱舟を造りなさい

今日はペンテコステでした。先週水曜日に不動産の決済も無事完了し、いよいよ明日からリフォーム工事です。築41年の建物ですので、大幅な工事が予想されます。皆さまのお祈りに覚えていただければ幸いです。また、近隣の方々には2ヶ月ほどご迷惑をおかけしますが、大変申し訳ありません。ご理解のほど宜しくお願い致します。

 

『箱舟を造りなさい』創世記6-7章(メッセージ要約)

あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。

 創世記6章からは有名な「ノアと箱舟」の記事が出てきます。人類が増え始める中で、地上の人の悪も増大していく様が描かれています。主はその様子をじっとご覧になって、心を痛め残念に思われました。創造者なる主の心痛はいかばかりだったことでしょう。

 「生めよ、増えよ、地を満たせ」…本来、人類が増え広がっていくのは主の御心にかなったことでした。しかし、人間は本来の創造の目的から離れ、自分たちから堕落の道を選んでいってしまったのです。このような暴虐の時代にあって、ただひとり主の御心にかなった人物がいました。ノアです。彼は「正しい人」「全き人」とありますが、完全無欠な者だったということではありません。彼にも弱さも欠点もあったはずですが、ただ一つ、神の恵みのうちを歩む者だったということです。「箱舟を造りなさい」それは人的にも経済的にも日数も…想像を絶する困難があったでしょう。周りの人からは「そんなものを造って何になる」と冷やかされることもあったでしょう。でも、ノアはすべて神が命じられた通りにしました。主はそんな彼と彼の家族を通して、人類の救いをつないでいかれたのです。この時代も、ノアの時代と同様に…いやそれ以上に、神への反逆と暴虐に満ちた時代です。まさに「ノアの箱舟」は、今日の「教会」を指し示していると言えるでしょう。教会こそ、今の時代における救いの箱舟なのです。

罪人を憐まれる主

今日は午後から教会総会があり、その後は新会堂建設のための祈り会がありました。みんなで新会堂に向けての思いを語り合い、ホワイトボードに図面を書き合いながら…とにかく主の御心にかなう会堂が建つように互いに祈り合いました。まだまだ様々な必要がありますが、憐れんでくださる主を信じて進んでいきたいと思います。

 

『罪人を憐れむ主』(創世記4:1-15)メッセージ要約

そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。

 私たちが自分ではどうすることもできない感情の一つに「妬み」があります。何か祝福されている人を見ると、つい羨ましくなってしまう…。いつの時代も、こうした妬みの感情があらゆる罪のもとになって様々な悲劇を生み出しているのではないでしょうか。

 創世記4章にはエデンの園を追い出されたアダムとエバに、カインとアベルという兄弟が与えられた記事が出てきます。家族ができた喜びもつかの間で…この兄弟間で人類最初の殺人が起きてしまうのです。原因は兄の「妬み」でした。この記事から3つのことを心に留めたいと思います。まず一つは、主は私たちのささげる心を見ておられることです。アベルとカインの兄弟は主の前に感謝の表われとしてささげ物をしました。でも、主は弟アベルのささげ物には目を留められましたが、兄カインのささげ物には目を留められませんでした。それは、主が「ささげ物」よりも先に、「ささげる人」自身に目を留められたからです(へブル11:4)。二つ目は主は私たちに悔い改めを語っておられることです。憤って顔を伏せるカインに、主は声をかけられ悔い改めを迫ります。でも、彼は結局、弟アベルを呼び出して殺してしまいました。妬みが憤りとなり、ついに悲劇を生み出してしまったのです。三つ目は主はそんな者をも憐れんで待っておられることです。主は殺人を犯したカインにさえ悔い改めを迫ります。こうしてさすらい人となったカインでしたが…主はそんな彼をも見捨てないで神のもとに帰ってくる機会を残されたのです。

 私たちも生きている限り、絶えず葛藤の連続で罪の誘惑がなくなることはないでしょう。主はそんな私たちに対しても罪の誘惑を取り除かれるのではなく、信仰によって克服することを願われるのです。主はそのために聖霊を送ってくださり、人生の勝利をもたらして約束の地に導いてくださいます。罪の誘惑に溢れる時代ですが、私たちも主に期待して、信仰を持って歩んで行こうではありませんか(Ⅰヨハネ3:12)。

Where are you ?

創世記3章からのメッセージ。「世界の初め」「人間の初め」「結婚の制度」…ここまで神の創造の素晴らしさにただただ圧倒されてきて、一転して雲行きが怪しくなってくる箇所です。日曜日にここから話するのは3度目ですが、何度読んでもため息が出てきます。でも、今はイエスさまにある平安があること、そして、図らずも?横にいたムーミンたちに励まされながら説教準備に取り組みました。

 

『あなたはどこにいるのか』(創世記3:1-13)メッセージ要約

神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』

 讃美歌90「ここも神の御国なれば…そよ吹く風さえ、神を語る」かつて神である主が人間の為に用意された楽園「エデンの園」を思わせるような曲です。そうした美しいエデンの園において、人間はサタンの誘惑によって最初の罪を犯してしまうのです。

 この箇所には、「サタンの誘惑」と「神の試練」の両方が描かれています。サタンの誘惑は人間を陥れることが目的であり、一方で、神の試練は人間を試すことが目的です。悪意と善意…。私たちはまずこの3章が歴史的な事実して心に留めなければなりません。サタンの誘惑は今も私たちにしたたかに忍び寄ってきます。言葉巧みに神のことばを歪め、神への疑いを挟み込み、心の動揺を誘い、少しずつ神の恵みを見失わせていきます。神のことばも曖昧になり、すっかりサタンの言葉に魅了された人間は、あっけなく罪に堕ちていってしまったのです。そうして二人の目が開かれてわかったのは、神のような姿ではなく、自分たちが裸である(何もかも無防備の状態)ことと神との約束を破ってしまったという事実でした。「そよ風の吹く頃」人間は主の声を聞くと思わず主の御顔を避けて身を隠しました。神である主は、そうした一切のことをご存知の上で、「あなたはどこにいるのか」と声をかけられたのです。それは単に居場所を尋ねる言葉ではありません。彼らがいるべき本来の場所は、霊的な意味での主の御顔をまっすぐに見上げられる場所でした。どんなに時代が変わっても、人間の罪の本質は変わることはありません。神はそんな人間のために、ご自分のひとり子であるイエス・キリストをお遣わしになったのです。1 テモテ2:5,6。

土地のちりで

今日は母の日歓迎礼拝でした。教会のお母さん方にお花のプレゼントをしました。午後からは恒例の教会ピクニック。美しい自然の中で、神の恵みと祝福を感じながら時を過ごしました。

 

『土地のちりで』(創世記2:4-17)メッセージ要約

神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

 「もし神がいるならどうして世の中にこんな不幸があるのか…」それは、キリスト教が発足し、世界に宣べ伝えられてからずっと投げかけられてきた問いです。その一つの答えは、創世記における「人間の始まり」に見ることができるのではないでしょうか。

 神は人間の歴史の初めを創造し、六日間で万物を造り、全ての準備を整えて、「さあ、人を造ろう」と言われました。そこには他の動物たちとは違う特別な神の意思が表されています。神である主は、「土地のちり」で人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。こうして人間は、単なる物質的な存在から神との交わりに「生きるもの」となったのです。そして神である主は、この人間を隅々まで潤されたエデンの園に置かれました。そこは神の恵みと祝福が満ち溢れた所で、人間には神の栄光を表わすことが期待されていたのです。神である主は、そんな人間と一つの契約を結ばれました。それは、善悪の知識の木からとって食べてはならないということでした。何をするにも自由の中で、神はそこには責任が伴うことを教えられたのです。神が期待されたのは、人間が自分の意思で神を愛し、神に従うことでした(Ⅰヨハネ5:3)。いつの時代も、人間はこのことを決して忘れてはならないのです。神は、人間をこよなく愛し、全ての必要を整えて、命を与えられました。そして神は今も、キリストにあってあのエデンの園における神との麗しい関係を回復し、神のもとに立ち返ってくる者たちを期待して待っておられるのです。

初めに神が

教会の近くに、少し高台となった見晴らしのいい散歩道があります。今日は天気も良く、さわやかな風の中で自然豊かな箕面の町を一望してきました。こんな身近なところでも神さまの創造の御業の素晴らしさを感じることができて感謝です。GWも終わり、いよいよ気を引き締めて、夢の実現に向けて祈っていきたいと思います。

 

『初めに神が』(創世記1:1-2:3)メッセージ要約

初めに、神が天と地を創造した。

 簡潔で、かつ深遠なるこの一文は、聖書全体の土台とも言える重要な御言葉です。それゆえ聖書を読む私たちはまず初めに、この御言葉を信じるか、信じないかの選択が求められます。もし信じて読み始めるなら、そこには永遠なる神の存在を示す多くの印を見出すでしょう。そして、この一文から始まる創世記1章には、「世界の創造」から「人類の誕生」に至るまで神の英知と御心が存分に語られています。それは今日の私たちにもつながる神の壮大なるメッセージです。

 神がまず創造されたのは、「時間」と「空間」の初めです。「初めに」とは神が時間と歴史の初めを定められたことを表わします。また、「天と地」とは両極を指して全体を意味する修辞的な表現であって、まさに存在するすべてのものを指しています。私たちもまずこの創世記1:1をしっかり信仰をもって受け止めたいと思います。次は、神が御心によって万物を創造されたことです。2節以降は「地」に焦点が当てられ、「茫漠として、何もなかった」ところに神が意志をもって秩序を生み出された様子が記されています。神は六日間の創造を終えられて「非常に良かった」と宣言されました。こうして第七日目に、神は創造の御業の完成を告げられて休まれたのです。神はこの日を祝し、聖なる日とされました。この神との安息への招きはまだ続いています。私たちもまた、神の作品(エペソ2:10)として、神をあがめ、神に喜ばれる相応しいあり方をしていこうではありませんか。