洗礼式/ファミコン/工事四十日目

今日は待ちに待った方の洗礼式がありました。素晴らしいお証しに、神さまの最善の時を覚えました。また、午後はファミリーコンサート。この場所では最後となり、感慨深いコンサートになりました。工事も四十日目を迎え、進捗状況も気になりますが、現会堂の原状復帰も始めなくてはなりません。いずれにせよ、今週土曜日には引越しをします。

 

「死んでも生きる」ヨハネ11:17-27(メッセージ要約)

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。…このことを信じますか?

 先週、日野原重明さんが天に召されました。敬虔なクリスチャンとして歩み、多くの人に愛され、まさに生涯現役を貫いた先生は、この世の使命を全うして天国の確信をもって旅立っていかれたことでしょう。

 どんなに長寿大国になったとしても変わらないのは、誰もがやがて死の現実と向き合わなければならないことです。それはクリスチャンも同じです。病気になることもあれば、試練の中も通らされることもあります。マルタとマリヤとラザロの兄弟も、イエスさまを愛し信頼していましたが、人生最大の試練に襲われていたのです。姉妹は、弟のラザロが重い病気にかかっているので、イエスさまのもとに使いを送り助けを求めました。でも、イエスさまは四日も遅れて姉弟のもとにきたのです。すでに埋葬も終わり、もはやどうすることもできない状況でした。マルタは言います。「あなたがここにいてくだされば、弟は死ななかったでしょうに。」彼女はイエスさまを信頼していましたが、あくまで「いてくだされば」というもので、「来てくだされば」というものではなかったのです。イエスさまはそんな彼女に「あなたの兄弟はよみがります」と宣言され、三つのことを教えられました。一つは死が全ての終わりではないこと、二つ目は望みえない中で望みを抱くこと、三つ目は信じる者は神の栄光を見ることです。イエスさまは、悲しみに暮れる姉妹とともに涙を流され、そして、墓の石を取り除けるように命じました。彼女たちはその言葉を信じて不信仰という墓の石を取り除いた時、復活のラザロを目の当たりにしたのです。

人間はみな、死へと向かう存在です。でも、イエスさまをよみがえりであると信じる者はみな、永遠の命に向かう存在なのです。あなたも「まだ信じられない」という不信仰の岩を取り除いて、小さくても「信じる」という一歩を踏み出そうではありませんか。