七度を七十倍するまで

夏期休暇(?)をいただいて、3週間ぶりの説教者としての講壇でした。牧師館の引越しの途中なので、説教準備に十分な時間をかけたとは言えず大変申し訳ないのですが…それでもまず自分自身が教えられることの多い箇所でした。聖書は実に奥深い。思えば、この部屋で聖書を読むのも今週限りになってきました。

 

「七度を七十倍するまで」(メッセージ要約)マタイ18:21-35

『あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようにしたのです。』

 今朝はイエスさまがペテロに話された譬え話に注目していきたいと思います。ある時、ペテロはイエスさまにこんな質問をしました。「主よ、兄弟たちが私に対して罪を貸した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」すると、イエスさまはこう答えられました。「七度まで、などどわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」そして、そのことをより具体的に教えるためにこんな譬え話をされたのです。

 ある王がしもべたちに貸したお金を清算することにしました。最初に連れて来られたのは、一万タラント(大変な金額)を借りた人でした。彼はその時とても返済できる状態ではなかったので、ひれ伏して「もう少し待ってください。そうすれば全部お支払いいたします」と懇願しました。すると王はかわいそうに思って(心から同情して)、その借金を免除してあげたのです。話はそこで終わらず、その借金を免除されたしもべが外に出ると、自分が百デナリ(普通の金額)を貸していた仲間のしもべに出会い、首を絞めて、「借金を返せ」と取り立てました。仲間のしもべも、あわてて「もう少し待ってくれ」と懇願しましたが、彼を問答無用で投獄してしまったのです。この一部始終を別の仲間たちが王に報告すると、王はそのしもべを呼び出して、「私がお前を赦したように、お前も仲間を赦すべきではないか」と叱責して、結局、獄吏に引き渡したという話しです。

 いつの時代も、人はみな罪を犯す性質を持っています。これについては誰も弁解の余地はないはずです。それも大抵は同じ種類の失敗で、公にならない限り、何度も繰り返す…というものではないでしょうか。「〇〇〇の顔も三度まで」と言いますが、それ以上の七度まで…と言ったペテロは自分の寛容さを示すつもりだったようですが、イエスさまは「七度を七十倍するまで」(無限に赦しなさい)と言われたのです。それは、「赦し」に関する一般的な道徳論ではなく、人間と神との関係、また神の赦し、そして神が私たちに何を期待しているかを教えるためです。つまり、私たちが神に対して莫大な負債(負い目)があること、また神は御子によってその負債を赦してくださったこと、そして神の赦しと人間の赦しは表裏一体であることです。借金を免除されたのは、私でありあなた自身です。願わくは私たちも、神の憐みによって赦された者として、私たちの周りの人々にも怒りの波紋ではなく、赦しの波紋を広げていこうではありませんか。