試練を喜ぶ信仰

もう秋だなと思ったら、また夏の暑さが戻ってきたような強い日差しでした。でも、確実に肌に当たる風は秋の涼しさを感じます。この時期、こんな天気なので風邪をひいている方も多いようです。お天気一つでずいぶん気分も左右されることを感じます。それでも教会にくると不思議な力と平安に包まれます。やはり神の言葉には力がありますね。

 

試練を喜ぶ信仰」(メッセージ要約)ヤコブ1:1-12

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

 主の兄弟であり、エルサレム教会の重要な指導者でもあったヤコブが書いた手紙です。彼は冒頭で、「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」と自己紹介をしています。ここにも、彼のへりくだりと謙遜さを見るように思います。彼は国外で試練の中にある同胞のキリスト者たちを励まし、正しい信仰のあり方を伝えるためにこの手紙を書きました。

 ここで言う「試練」という語は、二重の意味をもつ言葉で、「試練」とも「誘惑」とも訳せる言葉です。つまり、一つの出来事が外的には「試練」であるとともに、内的には「誘惑」ともなり得ることを示します。まるでコインの表と裏です。あなたは「試練」を喜べますか。それはいかに信仰をもって受け止めるか否かにかかっているのです。今日は具体的に三つのことを心に留めましょう。一つは忍耐を十分に働かせることです。「忍耐」とはただじっと我慢するという消極的なことではなく、もっと堅実で確信をもって待つことです。二つ目は神からの知恵を求めることです。試練の中において、その意味と目的を判断するには、神からの知恵が必要です。神を疑いながらでは、確信は得られません。神に求める者は、神が与えてくださる方であることを知るのです。三つ目は正しい価値基準を持つことです。試練の中にあっても、キリスト者には恵みによる逆説があります。「貧しい境遇」にあっても、キリストにあってその人は高くされます。逆に、「富んでいる者」はキリストにあって低くされるのです。私たちに必要なのは、この世の富や身分に固執することより、イエスさまにある永遠の富に目を向けなければならないのです。キリスト者には試練があっても、その後に栄光が続きます。私たちもまた、試練の中でも忍耐し、約束の「永遠のいのちの冠」を目指して歩もうではありませんか。