教会内の活動&牧師ブログ

あなたは「教会」にどのようなイメージをお持ちですか?厳かに礼拝を捧げる、敬虔なクリスチャンが集まる、お年寄りが多い、堅苦しい話しを聞かされる、信仰を勧められる…など。確かにそういう面もあるかもしれません。でも、実際に行ってみると、思ったより敷居は高くなく、洗礼を受けてない方も来られていて、年齢も老若男女さまざま…だれもがリラックスして過ごせる場所だと思います。ここではMGBCの日常の様子を牧師の備忘録日記でご紹介しています。ご質問やコメントなどがありましたら、お気軽こちらまでお願い致します。


走るべき道のりを走り終え…

今朝、同盟教団の理事長をはじめ…数々の尊い働きを担ってくださった吉持章先生が天に凱旋されました。83歳でした。先生の火の出るような熱いメッセージや力強い言葉にどれだけ多くの方々が励まされ、信仰に導かれたことでしょう。神学校のチャペルで、「覚悟のない者は、今すぐ荷物をまとめて帰りなさい。」と仰っておられたのが懐かしいです。そんな先生の歯切れのよい説教が大好きで、テープも何本も持っています。人生の様々な場面で、先生に個人的に声をかけてもらいましたが、その度に的確なアドバイスをいただき、いつも背筋がピンと伸びる思いがしました。「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」吉持先生にピッタリの御言葉です。尊敬する先輩牧師には到底追いつけませんが、私も走るべき道のりを走り通したいと思います。

涙とともに種蒔く者は…

今朝も祈りから一日が始まる。教会の一人一人を思い浮かべ、特に病の中にある兄姉、子育て中の親子、年配の方々、仕事や人間関係で心身ともに疲れ切った方々、道が開かれず悩みの中にある青年たち…を覚えて祈りました。教会に傷ついて離れてしまっている方もおられます。また、牧師につまずいて教会にけないという方も少なくありません。自分もその一人ですから、本当に申し訳ない思いでいっぱいですが、ぜひまた帰ってきてほしいと思います。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」ここで種蒔く者と刈り取る者が同じ人とは限らない…とある本に書いてあり、慰められました。今日も何もできないという思いから、今日できることを一つずつやろうという思いが湧いてくるのは、きっと誰かが自分のためにも祈ってくださっているからだと思います。

花の日のプレゼント…

今日の祈祷会はマタイ12:1~。「安息日」は労働してはならないという消極的な面もありますが、神の御心を行い、神の御もとで安らうという積極的な面もあります。神が喜ばれるのは、形だけの礼拝より、真実の愛です。大事なのは、安息日のために人間が造られたのではなく、人間のために安息日が定められたこと。人間には心と魂の休息が必要です。そして、真の休息は神の御もとにあるということです。祈祷会の後は、6月の花の日を覚えて、恒例の介護施設にお花と賛美のプレゼント(Ⅰ)に行きました。バイオリンとフルートの演奏、聖歌隊の賛美、ショートメッセージ…心を込めてプレゼントさせて頂きました。「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」喜んでくださった一人一人を覚えて、感謝の祈りを捧げました。

わたしのもとに来なさい…

今年は二年目ということもあってジャガイモの収穫量はもう一つでしたが、小さいジャガイモも結構おいしいものです。次の野菜のために、石灰をまいて、腐葉土を入れて、鶏糞と堆肥を混ぜて…と土壌作り。教会の子どもたちが「エダマメ食べたいな~」と言っていたので、時期を見て植えてみようと思います。さて今朝の御言葉は、マタイ11:25~「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。」でした。聖書の中で最も広く知られ、多くの人を慰めてきた御言葉の一つ。人はみな、本質的に心と魂の休息を必要としています。心身ともに休みたい…でも、なかなかそうもいかない。だからこそ、誰もがこの御言葉を聞くと心の深くに潜んでいる思いが呼び覚まされるような気持ちになるのではないでしょうか。イエス・キリストのもとに本当の安息があるのです。

キリスト教と日本…

今日は午前中に日本福音主義神学会の基調演会に行きました。副題は「キリスト教と象徴天皇制民主主義」。おもにキリスト者として象徴天皇制をどう考えるか、歴史的な経過とともにキリスト教がどう関わってきたのか、どこに今後の神学的課題があるのかを学びました。神学生時代の恩師の講演でもあり、テーマにも関心があったので、休日でしたが…少し早起きして行けてよかったです。小さめの会場でしたがほぼ満席で、知っている牧師も何人も来られていて関心の高さがうかがえました。日本に住む一人のキリスト者として、自分なりにももっと勉強しなければと良い動機付けになりました。午後からは、教会員の方の家を訪問し、帰ってからは野菜の手入れ、そして早速「天皇制」に関する本を幾つか注文して、次の日曜日のわくわく子ども会に向けてトラクトの準備をしました。

ペンテコステ礼拝2019

今日はペンテコステ礼拝(聖霊降臨日)でした。イースターから数えて50日目に、弟子たちの上に聖霊が降り、初代教会が誕生したことを祝う日です。ヨハネの黙示録2:8~「死に至るまで忠実で」というテーマでメッセージを聴きました。私たちはすでに富む者とされ、どんな苦難も必ず終わりがあり、信仰者には勝利の冠が約束されています。だから主は、死に至るまで忠実でありなさいと命じられるのです。厳しい命令は、神の愛の証し。でも、忘れてはならないのは、私たちがこの生涯を貫くことができるのは、神を愛するという動機があるからです。そしてこの動機をくださるのが、聖霊の働きなのです。午後からはリーダー会&役員会、子どもたちとジャガイモ掘り、夕礼拝の後には久しぶりの兄弟が顔を見せてくださいました。今日も恵み盛りだくさんの一日に感謝でした。

雨もまたよし…

朝の送迎の仕事では少し難儀しましたが、ずっと真夏日が続いたので花たちは喜んだでしょう。こんな日に限って雨に当たりながら葡萄棚を準備しようと思い立ったり、鉢の場所を変えてみたり…と雨の日は少し変わったことをしたくなります。それも金曜日で教会の集会もなく、比較的のんびり過ごせたからそう思うものの、もし日曜日なら礼拝に来られる方の足元が心配で雨の日を残念に思ったはず…。人間は何と状況に左右されるものでしょう。「雨もまたよし、晴れればまたよし」といきたいもの。もともとは禅の言葉のようですが、「雨」も神の被造物と思えば、感謝の気持ちがわいてきます。「神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。」近視眼的にならず、どっしりと、少し広い視野で物事を捉えていきたいものです。

だれにも知られないように…

6月最初の祈祷会はマタイ9:27~38「いつくしみ深い主」というテーマで御言葉を学びました。目の見えない二人の盲人は、イエスさまに憐れみを叫び続けました。主はそんな彼らに「あなたがたの信仰の通りになれ」と癒されたのです。彼らはどんなに嬉しかったことでしょう。当然黙っていられるはずがありませんが、主はそんな思いをよくわかった上で「だれにも知られないように…」と厳しく命じられました。えっ?どうして?と思うところ…。でも、いつくしみ深い主の御思いは、私たちの思いより遥かに高いのです。病の癒し以上に大切なことがある、羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れている者たちが大勢いる、収穫は多いが働き手が少ない。私たちを見て深く憐れまれる主は、今日も救われる魂を、ご自分の御業に献身する者たちを探しておられるのです。

新しい方がよく見える…?

さつまいも、カボチャ、キャベツ、ピーマン…と段々とそれらしい形に成長してきました。さて、ヨハネの黙示録にはエペソにある教会に宛てた手紙に、当時の誤った新しい教えに対する警告が書かれています。いつの時代も、キリスト教の名を語りながら誤ったことを教えるグループがあるものです。「十字架にかかったイエスは、救いを完成できなかった」「旧約、新約、そして今はさらに新しい時代が来ている」「既成教会は古い教えで、今はもっと進んだ新しい教えがある」etc…今までのは古い、新しい方がいいに決まっているという言い回し。異端が常套手段とする危険な手口です。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなった、その人。」特に若い世代の方々に、違いが分かりにくいからこそ慎重に決断してほしいと思います。

初めの愛を思い出して…

6月第一主日、まだ誰も来ていない時間に一人で祈って礼拝に備えました。メッセージはヨハネの黙示録2:1~。日々厳しい迫害を耐え忍んでいたエペソの教会に、主は「わたしは…知っています」と手紙を送られました。彼らは行動面でも知識面でも立派な信仰をもっていましたが、一つだけ「あなたは初めの愛から離れてしまった」と告げられたのです。それは教会として致命的なことでした。そこで主は、彼らにどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさいと命じられました。人はみな、知らず知らずの内に道を間違えてしまっていることがあるのではないでしょうか。自分の誤りを認めて、向きを改めるのは容易いことではありません。でも、その事に気づかせて頂けるのは、まだ立ち直るチャンスがあるということ。厳しい言葉は切なる愛の表われなのです。

神が喜ばれるのは…

人はみな、生まれてから一度も罪を犯したことがないという人はいません。それでも、それが死刑に値する罪だと言われると、それほど悪い事をしていないという思いが働くもの。神の子イエスが十字架につかなければならないほど、自分は罪人なのか…。どちらかと言えば、真面目に生きてきた方だと自己弁護もしたくなる。でも、聖書の言葉は言い逃れができないほど明確に語っています。罪から来る報酬は死。そんな厳しい宣告のもとにある私たちに、神はこう告げられるのです。「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。―神である主の御告げ―彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。」「悔い改める」とは、単に反省するとか後悔するというものではありません。自分が間違っていたのを認め、心からそれを悲しむことです。聖書にはその答えがあります。

人生に無駄なものは…

文章上達のためにできるだけ何かを書こうと思いますが、なかなか願うような成長は見られません。それでも…あきらめずにコツコツ練習していこうと思っています。さて、今日のディボーションで心に留まった御言葉はヨハネ黙示録「耳のあるものは御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」聖書の言葉は時に厳しく聞こえますが、それは愛するが故の厳しさであり、まだ立ち返る機会があるからです。まだ間に合う、このままでいいのか、まだやり直せる。そんな神の寛大な呼びかけをずっと聞いてきたような気がします。そう言えば、私の園芸も続けているといいことがありました。ご近所で野菜を作っている方と立ち話の際に「この先の教会の牧師です」と自己紹介をすると、「ああ、いろいろやってますね。」と思いがけない返事を頂きました。何事も無駄なものはありません。

サウルの死と人生…

水曜祈祷会はⅠサムエル31章から。イスラエルとペリシテ人の戦いが始まって、サウルの息子たちが戦死すると、ついにサウルも追い詰められ、最後は自害の道を選びました。主はもともとイスラエル人をペリシテ人の手から救うためにサウルを選ばれたのに、王となったサウルは徐々に主の言葉にも従わなくなり、心も頑なになっていきました。そんなサウルの人生はまさに自業自得と言わざるを得ないものの、その栄枯盛衰の中で、彼が抱えていた心の闇はなんだったのか、悔い改めるとは何か…みんなで考えました。話しはユダとペテロ、そして…昨日の登戸児童殺傷事件の話しにも及びました。なんとも痛ましい事件…。被害者のご家族の上にただただ主の慰めを祈るとともに、人間の心の闇、救いのない社会の闇に、私たち人間以上に心を痛めておられる神の御思いを思いました。

野菜作りの難しさ…

夏野菜のキュウリ、ピーマン、ナス、トマト…が少しずつ成長してきました。ある牧師先生から引っ越しをするので土をもらってほしいと言われ、それ以来、園芸に興味が出てきました。何も知らずに始めたので、最初はそれなりに上手くいったのですが、二年目くらいから野菜や花の成長が思わしくなく、段々と難しさがわかってきました。いろいろ調べると、一度野菜や植物を育てた土は栄養がなくなっていたり、細菌が残っている場合があるとのこと。培養土や堆肥、鶏糞や腐葉土なども買ってきましたが、これにもいろんな種類があることがわかってきました。今年になってすでに何回も失敗しているので、誰かも「先生、もう野菜を買ってきた方が早いんじゃないですか」と言っていましたが、この失敗をバネに!あきらめずに学びながら、良い野菜を育てていこうと思います。

休日の気分転換…

詩篇139:3「あなたは私が歩くのも伏すのも見守り、私の道のすべてを知り抜いておられます。」今朝のディボーションの箇所でした。早いもので五月も最後の週を迎えました。昨日まで30度を超す真夏日が続きましたが、今日は朝から曇り空でお天気もホッと一息…という感じでした。このところちょっと仕事が詰まっていて、机からもパソコンからも離れたいと思い…気分転換もかねて家から車で15分ほどのところにあるthe Farm UNIVERSALへ。ここへ来ると、いつもめずらしい花との出会いがあったり、ただ店内を散歩しているだけでも気持ちをリセットできる気がします。特にこの時期はアジサイが見事でした。アジサイは花のように見える部分が実は「萼」の集まりとのこと…。ふと、「教会」とも似ているなぁと思いながら眺めていました。さぁ、切り替えてまた明日からです。

教会総会を終えて…

今日から礼拝メッセージはヨハネの黙示録。ローマ帝国の厳しい迫害の中にある諸教会に、神はヨハネを通して「あなたが見たこと、今あること、この後起こること」を一つ一つ解き明かしていかれます。ヨハネが見た最初の幻は七つの燭台(教会)の真ん中に人の子のような方がいる姿でした。どんな混乱の時代の中にも、教会のただ中にはキリストがともにおられる。それはあらゆる時代の教会に共通する真理です。それにしても黙示録はなかなか難解な書。「今日のメッセージは何も心に残らなかった…」とある姉妹が正直に話してくれました。牧師としてなんとも耳が痛いですが、聖霊に助けていただいて一緒に学んでいきたいと思います。午後からの教会総会を終えて、また新年度に向けて心一つに歩み出せる幸いを感謝します。夕拝後は青年たちと卓球勝負で汗を流しました。

カトリックとプロテスタント…

今に始まったことではないのですが…「教会の神父さんですか?」と、教会に初めて来られた方は大抵そう仰られます。近くに大きなカトリック教会やミッション系の学校があるからでしょうか。それとも一般的にキリスト教の「教会」と言えば、「カトリック」だと思う方が多いということでしょうか。「はい、ここはプロテスタントの教会です。私は牧師をしています。」そこからカトリックとプロテスタントの違いなどを説明して、いろいろとお話しも伺って、一緒に祈らせていただきました。今日も教会を訪ねてくださる方がいて本当に感謝でした。「私の家は仏教なので…」とか「教会の敷居は高くて…」と躊躇されているかもしれませんが、気軽に訪ねてみてください。殺伐とした時代、教会が皆さまにとって気持ちの整理、心の整理がつく場所となりますように。

コペルニクス的転換…

今日はコペルニクスの地動説が発表された日。コペルニクスは、伝統的な「天動説」に異議を唱え、「地動説」こそ真実と気づきました。それは当時のキリスト教の教えに反する考えであり、発表には相当な覚悟が必要だったでしょう。そして、明日はコペルニクスの召天日。その決断がいかに大きいものであったかを思わされます。「天動説」「地動説」…現代の科学では諸説あるようですが、地球中心主義から太陽中心主義への転換は、自分中心主義から神中心主義への転換の大切さに気づかせてくれます。物事が思うように進まない…。でも、それはもしかしたら自己中心的に考えているからなのかもしれません。「落ち着いて、信頼するば、力を得る。」今日は、英会話の先生がお休みとなり、キッズクラスは休講になりました。ご心配、ご迷惑をおかけして誠に申し訳ありません。

聡明な妻アビガイル…

水曜祈祷会はⅠサムエル25章~。サウル王に命を狙われ続けるダビデ、そこへ愚かな夫ナバルと聡明な妻アビガイルとの記述があります。裕福なナバルに、ダビデは誠意を尽くしてわずかな贈り物を願いました。しかし、それをあっけなく断わられると、ダビデは激昂し、400人の兵とともにナバル討伐に乗り出したのです。すると、ちょうどそこにナバルの妻アビガイルが贈り物をもって現われ、女預言者のような言葉によってダビデの怒りを収めたのです。今日は特に、「ちょうど」という言葉が心に留まりました。神のなさることは、偶然はなく、いつもすべてが必然です。アビガイルは、その神の時(カイロス)、神の御心をしっかりとらえて行動したということでしょう。「平和をつくる者は幸いです」彼女のような争いではなく平和をつくる者にならせて頂きたいものです。

悲しむ者は幸いです…

昨夜の激しい雨もやみ、今朝は良い天気に。日曜日に教会の子どもたちが積み残したソラ豆の様子を見にいくと、案外まだまだ残っていました。ご近所の方や祈祷会に来られた方に少しずつでもお分けできたらと思います。ディサービスの送迎のお手伝いの際に、あるご婦人と聖書の話しになったので「聖書には『悲しむ者は幸いです』と書いてあるんです」「へぇ…どういう意味かしら?」「悲しまない人は『神さま、助けてください』と言わないからじゃないですか」「おもしろいわね」と。少し忘れっぽいご婦人ですが、何か心に留まってくれたらいいなぁと思いながら話していました。この仕事に関わらせて頂いて、高齢者の孤立化、身体機能の衰え、認知症、介護の問題など、ほんの少し垣間見させていただきました。今後の教会のあり方を考える上でも非常に学ぶことが多いです。