2021年の年の瀬を迎えました。教会のデボーションは詩篇106篇から。詩人は「ハレルヤ」という賛美の勧めから、イスラエルがいかに神との契約に不忠実に歩んだか、一方で主はご自身の契約に忠実であられたことを記しました。「しかし主は、御名のゆえに、彼らを救われた。」「それでも、彼らの叫びを聞いたとき、主は彼らの苦しみに目を留められた。」民の不忠実にも拘わらず、主はその憐れみと赦しをもって彼らを導かれました。この忍耐深い主の愛の中に、自分も生かされていることを思いました。今年もコロナ禍に振り回されながらも、多くの恵みと祝福をいただいて、一年を終えることができることを感謝いたします。新しい年も変異株の広がりなどが懸念されますが、世がいかに揺れ動いても、変わらない神の導きに期待して歩んでいきたいと思います。今年もブログを見てくださって本当にありがとうございました。皆さま、どうぞよいお年をお迎えください。
12月第五水曜祈祷会、教会のデボーションは詩篇105篇から。「主に感謝し、御名を呼び求めよ。」詩人は、イスラエルの歴史を紐解きながら、アブラハムとの契約を実現される主のみわざを語りました。神は流浪の民だったイスラエルをエジプトに導き、そこで大きな民族とされ、そして今度はエジプトがイスラエルを嫌うようにされ、約束の地へと旅立つように導かれました。主のみわざはすぐに理解できるようなものもあれば、理解するのに忍耐を要するものもある。でも、何が起ころうと神の契約と約束は変わることがありません。良いことも悪しきことも主の御心のうちに行われる、主はご自分の民が苦しんでおられる時、いつも主も苦しんでおられる、主が苦しみを許される時には必ず何かの意味があることを思いました。今年もコロナ禍に振り回された一年でしたが、同時にすべてが当たり前ではない、恵みの中にいたことを学ばせていただいた一年だったように思います。
2021年最後の主日、少し小雪がちらつきましたが、青空が広がる爽やかな朝でした。度重なる緊急事態宣言、オリンピックの開催、ワクチン接種による混乱など、コロナ禍に振り回された一年が終わろうとしています。礼拝メッセージはルカ17:20から、『神の国はいつ来るのか』というパリサイ人の問いかけにイエスさまが答えられた箇所。彼らは目の前に救い主イエスさまが来られているのに、神の国が始まっていることがわかりませんでした。「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」神の国、神のご支配は、主を信じる者たちの心に、交わりの中にすでに変化を起こしていました。それは今日でも、御言葉に生きる者たちを通して広げられているのです。人の子の日(主の再臨)の到来は、それがいつなのかは誰にもわかりませんが、その日が来たら誰の目にも明らかに認められます。終末のメッセージは、裁きの預言であると同時に、確かな救いへの招きの言葉なのです。
Merry Christmas!今年も御言葉の朗読とバイオリンの調べで、イエス・キリストのご降誕を思い巡らしました。イエスさまは神ご自身である方なのに、神としての威光も栄光も権威もすべて捨てて、人間の赤子となってお生まれになりました。しかも、そこは立派な宮殿でもなく大邸宅でもない、暗く貧しい悪臭の漂う馬小屋の飼い葉桶でした。御使いは告げました。「それが、あなたがたのためのしるしです。」イエスさまはローマ帝国に変わるこの世の王となるために来られたのではなく、全人類を罪とその裁きから救うために来られました。人はみな、生まれてきた本来の目的を見失って、それぞれ自分勝手な道を歩んでいます。自分の命をどう使おうと勝手なこと…一度しかない人生、楽しまなければ損…。そんなキリストの誕生など喜ばない人間の声が聞こえてくる中に、イエスさまはお生まれになられたのです。本物のクリスマスの喜びが皆さまの心にありますように。
12月第四水曜祈祷会はハガイ書から。バビロン捕囚から帰還したユダの民は、エルサレム神殿の再建に着手しました。でも、難民同然の彼らは、経済力も技術力も乏しく、おまけに隣国からの妨害も受けて数年で工事は頓挫してしまいます。月日は流れ、主は預言者ハガイを通して、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュア、さらには民の残りの者に向かって悔い改めと励ましのメッセージを告げられました。「あなたがたの歩みをよく考えよ」「強くあれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ」「今日から後のことをよく考えよ」「わたしがあなたを選んだからだ」ハガイはこの4つの御言葉を中心に、ユダの民を鼓舞し、再び神殿再建へと立ち上がらせていくのです。彼らにとって『神殿』は、神の臨在の象徴であり、神を礼拝し、神との出会いの場所でした。私たちも神との関係を後回しにしないで、主の臨在に励まされて、今日から後のことをよく考えて歩んでいきたいものです。
アドベント第四週、クリスマス礼拝を献げました。ルカ17:11~、イエスさまがエルサレムへ向かう途中、ある村でツァラアトに冒された10人と出会い、言葉一つで癒された記事をみました。彼らはみなイエスさまの言葉をそのまま信じて行動した時、癒しを経験したのです。どんなに喜んだでしょう。でも、話しはそこで終わりませんでした。その内の一人が大声で神をほめたたえながら戻ってきてイエスさまに礼拝を献げました。九人は癒しの事実だけを喜んだのに対し、彼だけは癒しを行ったイエスさまを喜んだのです。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」彼はこのイエスさまの祝福の言葉を受けて、新しい人生を歩み出していきました。人生のターニングポイントがあります。クリスマスはChristとmasの合成語。キリストのいないクリスマスはただ雰囲気を楽しむだけのお祭りに過ぎません。ぜひ教会で本当のクリスマスを喜び祝いましょう。
昨年はやむなく自粛しましたが、今年は感染対策とケーキなしで、ハートフル英会話クリスマス会を行いました(子どもたちはごめんなさい)。まずは卓球で体を動かしてから、クリスマスバージョンのUNOで盛り上がりました。もちろん英語です。今日は二つのクラスが合同でしたので、いろいろな方の話しが聞けていつも以上に楽しい時間でした。途中、ウクレレとホルンの演奏でクリスマスキャロルを賛美したり、レイチェルさんのバイブルメッセージでクリスマスの本当の意味についてお聴きしました。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」コロナ禍も今は落ち着いていますが、世界を見れば…まだまだこの先どうなるかわかりません。また、日本国内でも変異ウィルスのオミクロン株の感染が広がりつつあります。このクリスマス、一人でも多くの方に本当の大きな喜びが届けられますようにお祈りしています。
12月第三水曜祈祷会、ヨブ記40章から。主の創造の偉大さを知ったヨブは、やっと自分がいかに取るに足りない者であるかを知ることができました。神はそんなヨブに向かって、さらに倫理的な側面から語りかけていかれます。そこから、河馬、レビヤタンという神秘的な怪物(高ぶりの象徴)をあげて、それらを造られた神を不義に定める愚かさを指摘されました。結果として、主はヨブの苦しみの問いに直接答えることはされませんでしたが、最後にはヨブを悔い改めへと導かれ、ご自身をより深く知る者としてくださったのです。主はヨブが苦しんでいる時もともにおられ、ともに苦しんでおられました。まさにヨブの苦しみは、主ご自身の苦しみだったのです。「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。」ヨブがあれほどの苦しみを通して導かれたこの告白を、今日私たちが恵みによって告白できる幸いを思わされます。
教会のデボーションはヨブ記39章に入りました。長い沈黙を破ってついに神が語りかけられます。それは『なぜこれほどの苦しみにあわなければならないのか』というヨブの問いに答える形ではなく、神の方からの「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。」という問いかけです。神がどのように地の基を定めたか、どのように測り縄を張ったか、自然界の法則、動物たちの養いなど、神の創造の偉大さがことごとく語られていきます。およそ人知をはるかに超えた主のはかりごとです。ヨブに答えられるわけがありません。でも、これによってヨブは自分の小ささをいやというほど示されます。その一方で、偉大なる神がこんな小さな自分と関わりをもってくださっていることにも気づかされていくのです。山は近づけば近づくほどその大きさを知ると言いますが、神の偉大さも知れば知るほど…言葉では表しきれません。でも、その方が今日も語りかけてくださる恵みを感謝します。
アドベント第三礼拝、メッセージはルカ16:19から。金銭を好むパリサイ人たちはイエスさまの「神と富とに仕えることはできない」という話しを聞いてあざ笑っていました。なぜなら彼らは、富や豊かさは神の祝福の表れであり、律法を守っている自分たちこそが天国に行けると思っていたからです。イエスさまはそんな彼らに、ある金持ちとラザロの話しをされました。金持ちは毎日ぜいたくに遊び暮らし、貧しいラザロは金持ちの施しに頼って生活していた。しばらくして二人に死が訪れ、ラザロは御使いに迎えられアブラハムの懐に、金持ちはハデスの炎で苦しんだという話し。ラザロとは神は助けという意。イエスさまのたとえ話しで名前で話されるのは珍しいことです。人はみな、どんなに裕福でも貧しくても、ただ神の憐れみによって生かされていることを忘れてはなりません。神は心の貧しさ、砕かれた心をご覧になられることを、慰められたラザロから教えられました。
12月
12月第二水曜祈祷会、ヨブ記36章から。苦しみのどん底で、自分の潔白を主張し、神よりも自分自身のほうを義とするヨブに向かって、エリフはこう言います。「神は苦しむ人をその苦しみの中で助け出し、抑圧の中で彼らの耳を開かれる。」神は人を苦しみから助け出されるのではなく、その苦しみの中で助け出されるというのです。苦難は様々な形で、すべての人の人生に予告なしで襲ってきます。その時、神は何をしておられるのですかと思わず叫びたくなるのではないでしょうか。でも、苦難の中でこそ、私たちの心が神に向き、その御声を聞こうと心の耳が開かれることもあるのです。大事なのは、苦しみや不条理は神から出ているのではないこと、その人が悪を行った結果でもなく、ましてや神からの罰でもないことです。神は苦しみの中でこそ私たちとともにおられるお方です。今日は祈祷会に来られた方々の様々な証しを聞く時となり、生ける真の神を心に覚えました。
今日は朝から冷たい雨が降る一日でした。教会のデボーションはヨブ記35章~。苦難の中で、神よりも自分の方が正しいと思っているヨブに向かって、エリフの言葉が続きます。彼は、人はみな、苦しみの中で泣き叫んだり、助けを叫び求めりするものですが、本当の意味で神を求めているのではないと言います。それは言わば本能的なものであって、信仰を働かせての祈りではない、今のヨブはそのような人々と同じではないかというのです。このようにヨブを責めた後で、エリフはこう諭しました。「しかし訴えは神の前にある。あなたは神を待て。」神はご自分のしもべの叫び声を聞き洩らすような方ではない、神はご自分から関わりを断ち切ることはない、私たちの救いのためにはどんな犠牲を払うことも厭わない、だから神を信頼して待ち望めと諭したのです。祈っても状況が変わらないと思う時こそ、私たちが真の信仰を養う時。私たちの祈りは神の御手の中にあるのです。
アドベント第二礼拝。メッセージはルカ16:1から。イエスさまの教えの中でも最も難解なたとえの一つです。主人の財産を勝手に使ってしまった管理人は、主人にそのことを知られてしまい、クビにされた時のために債務者たちに恩を売って後で面倒を見てもらうように考えました。主人はこの不正な管理人が賢く行動したのをほめたという話しです。なんとも首をかしげてしまうような話しですが、実はそういう所ほど気づかなった恵みを発見したりするものです。「不正の富で自分のために友をつくりなさい」「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり」「神と富とに仕えることはできません」たとえ話しの後のイエスさまの解き明かしの中に、著者ルカの独特な視点が感じられ、私自身は非常に教えられました。久しぶりのメッセージ後のグループタイムでも多くの感想があがり、分かち合いも祝福されたようです。今日も恵みに溢れた主の日を感謝いたします。
長年パキスタン、アフガニスタンで人道支援に尽力してこられた中村哲医師が武装集団の銃撃を受けて召天されてから二年が経ちました。耳を疑うような信じられないニュースでした。中村さんは医師でありながら自ら重機を操作し、『100の診療所より一本の用水路』を合言葉に、1600本の井戸を掘り、全長13kmもの用水路を築き、東京ドーム3500個分にあたる1万6000ヘクタールの土地をよみがえらせ、60万人以上の命を救いました。そんな中村さんはクリスチャンでありながら、イスラム教徒が祈りを捧げるモスクやマドラサ(神学校)を建設して地元の人々を励まし元気づけたそうです。まさに敬天愛人に生きた中村さんの功績はこれからも世界中の人々の心にずっと生き続けることでしょう。「神の御心は何か、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるように…」明日はアドベント第二礼拝。ぜひお近くのキリスト教会に足を運んでみてはいかがでしょう。
12月第一水曜祈祷会、ヨブ記32章から。なぜ善人が苦しみにあわなければならないのか。三人の友人たちは、苦難の原因は罪の結果であると主張し、ヨブに悔い改めを迫りましたが、ヨブは自分の正しさを主張するばかりでした。すると側でずっと聞いていたエリフが業を煮やして語り出します。エリフは、ヨブが神よりも自分の方を正しいとしたことや、ヨブの不義を認めながら言い返せない三人の友人たちにも怒りを燃やしました。こうして堰を切ったようなエリフの言葉が続き、もはやヨブは何も言い返せませんでした。「確かに、人の中には霊があり、全能者の息が人に悟りを与える。」天からの知恵こそがあらゆる難題を解決する力です。確かにエリフの言葉は、正論でした。ただ、彼の言葉が苦難の中で痛み悲しんでいるヨブに、どう聞こえたのかは疑問です。結果として、三人の友人もエリフも、ヨブの立場に立って考えるという視点が足りなかったのではないでしょうか。
教会のデボーションはローマ16章から。パウロ神学を代表する書簡。信仰義認を中心に、一人で読み理解するには難解なところもあったのではないでしょうか。ただ、この終わりのところに関しては、普通の手紙と同じように「…によろしく伝えてください。」と教会や一人一人の顔を思い浮かべるように挨拶を記していて親しみやすいところです。パウロがいかに多くの人のために祈っていたのかがわかります。「どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」手紙を受け取った教会でも、あらためてパウロ先生の働きを覚えて祈ったことでしょう。昨日は私たちの教会を会場に、教団の教職教育部がありました。今年度の報告に始まり、次年度に向かっての審議が長時間に渡って行われました。コロナ禍でZoom会議が続いたので、対面会議は久しぶりでした。関東から新潟から、このために来てくださった先生方のご労と献身に心から感謝いたします。
11月第四主日、秋晴れに天気でしたが、頬に当たる風が一段と冷たく感じる一日でした。今日からアドベント(待降節)。礼拝ではルカ15:11~32から『二人の息子と父の愛』をテーマに御言葉を学びました。弟は父の財産を分けてもらうと遠い国で、湯水のように使って、やがて大飢饉が起こると豚の世話をするはめになり、食べるのにも困り果てました。でも、彼はその人生のどん底で父のことを思い出します。「立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。』」来る日も来る日も父は息子の帰りを待っていました。だから、彼の姿を見つけると、まだ遠かったのに、父はかわいそうに思い、駆け寄って彼を抱き、口づけしました。そして、急いで彼のために一番良い服、指輪、履き物を用意し、子牛を屠って祝宴を始めたのです。神の無条件の愛…。何度読んでも新しい感動が胸に迫って来るところです。
今年もアドベント(待降節)の時期を迎えました。アドベントとは、「到来、到着」を意味します。明日からクリスマスイブまでの4週間、救い主イエス・キリストのご降誕を待ち望む期間です。日曜日ごとに一本ずつローソクを灯していきます。教会でキリストの到来について語る時には3つの意味を持っています。それは、2000年前、誕生によって来られたこと、今日私たちの心のうちに来られること、終わりの日に栄光のうちに来られることです。聖書には、「昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」とあります。私たちにとって最も大事なのは、クリスマスをただの年中行事として迎えるのではなく、その本当の意味を知って迎える時、その人の心にキリストは住んでくださることです。Christmasとは、キリスト(Christ)のミサ・礼拝(mass)という意味です。教会の新しい一年はこの日から始まります。ぜひお近くのキリスト教の教会に足を運んでみてはいかがでしょう。
教会では毎週木曜日にハートフル英会話教室を行っています。今日も教室からなごやかな会話と子どもたちの元気いっぱいの声が聞こえてきました。中には海外生活をされていた方や留学をされていた方もおられ、文化や習慣の違いなどを聞くこともあります。また、海外旅行のためや仕事で使うため、英語を忘れないためなど、目的もさまざまです。講師の先生はクリスチャンですが、受講される多くの方はクリスチャンではないので、教会に来るのは初めて、聖書を見るのも初めて…という方もおられます。牧師としてはそうした方とちょっとした休憩時間にお話しするのも楽しみの一つです。仏教を信じる方も神道を信じる方も、物は試しで何でもお気軽にご質問ください。ある時は『教会でもクリスマスをやるの?』と聞いてくれたお友だちもいました。教会はクリスチャンだけでなく、どなたにも開かれた場所です。本当のクリスマスの意味も、ぜひお話しできたらと思います。
11月第四水曜祈祷会、朝から抜けるような青空が広がりました。ローマ14:9「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」聖書では『死』に3つの意味を示しています。肉体の死、霊的な死、永遠の死(第二の死)。人はみな、やがていつかは肉体の死を経験しなければなりません。でも、クリスチャンはイエス・キリストを信じる信仰によって霊的な死から解放されています。また、キリストの十字架の贖いによってすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられ、永遠の死からも解放されているのです。それゆえ肉体の死は永遠の死に至る門ではなく、天国への門に過ぎません。ここに生きるにしても、死ぬにしても、主のためにという生き方の土台があります。今日の祈祷会も、まずみことばの分かち合いに恵まれ、祈りのうちに主のものとされている幸いを思いました。
11月第三主日、収穫感謝礼拝。礼拝はルカ15:1−10、いなくなった一匹の羊を捜し回る羊飼い、なくした一枚の銀貨を熱心に捜す女性の姿から、イエスさまの譬えを学びました。そこから主は今も失われた人を捜しておられること、一緒に喜びを分かち合われること、罪人が悔い改めることを待っておられることを心に留めました。一人でも多くの方にこのメッセージが届くように祈ります。そして、今日も礼拝後に二名の兄姉の入会式がありました。『あなたは、神の子イエス・キリストの十字架の贖いによって救われたことを確信しますか』という問いかけに、『確信します』とはっきりお答え頂きました。いつもこの誓約の時が、牧師として一番胸が熱くなります。メッセージの通り、一緒に喜びを分かち合うことができて本当に感謝でした。午後は来週から始まるアドベントに向けて大掃除&クリスマスの飾りつけ、夕方は青年たちと卓球で汗を流し、恵まれさまの一日でした。
「私は何とかして自分の同胞にねたみを起こさせて、彼らのうち何人かでも救いたいのです。」キリスト教における『救い』とは…?私は25歳まで聖書を読んだことも教会に行ったこともなかったので、最初は違和感がありました。法にふれるような犯罪を犯しているわけでもないし、人から後ろ指を指されるようなこともしていないし、普通に人は死んだら極楽に行くものだと思っていました。でも、今から25年前、教会に行くようになって、礼拝や聖書を通じて、あらためて人はみな罪人として生まれてくること、神の怒りの下にあって、病気でもなく寿命でもなく、裁きとしての死を迎えなければならないことを知りました。そして、人はみな何かの功徳を積んだり、正しく生きることによってではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われることを教えて頂いたのです。百聞は一見に如かず。まだ…という方は、ぜひ近くのキリスト教会に足を運んでみてください。
11月第三水曜祈祷会、教会のデボーションはローマ10:14~。人は、律法の行いよるのではなく、キリストを心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのですとあります。そして、信じるためには聞かなくてはならない、聞くためには宣べ伝える人がいなくてはならない、宣べ伝えるには遣わされなくてはならないと諄々と記していきます。伝道は、私たちの熱心さや言葉の巧みさが重要なのではなく、最終的には聖霊のお働きによるものです。それでも『伝道はどうも苦手で…』『伝道はしないといけないことですか…』と言われるクリスチャンの方は少なくありません。伝道ってなんだろう。今日はそんなことを素直に語り合う機会になりました。「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」私たちにとって最も大切なのは聖霊の助けを祈り求めることです。何はともあれいつもそこから始めたいものです。
11月第二主日、ルカ14:15~「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」パリサイ派の指導者の食事会に来ていたある客は、どこか誇らしげにそう言いました。でも、イエスさまはそんな彼に向かって、神の国の食卓に招かれる者について譬えをもって話されました。神の目は、自分にはその資格があるとおごり高ぶる者ではなく、招かれる資格などないとへりくだる者たちに注がれていること、「まだ席があります。…私の家をいっぱいにしなさい。」と神が万事を備えてくださっていること、そこにあなたも来なさいと招いてくださっているとは、まさに幸甚の極みです。今日はいつも祈り深く謙遜な姉妹の転入会式といつも小さな教会を駆け回る子どもたちの祝福式がありました。午後は役員会でクリスマス&次年度に向けての話し合い、夕方は久しぶりにお会いするご家族としばしのお交わり、夜は青年たちと賑やかな夕食に…。今日も恵みいっぱいの主日でした。
横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されてからまもなく44年を迎えます。当時13歳だっためぐみさんは部活の終わった帰り道、自宅まで200mという場所で失踪しました。すぐに新潟県警や機動隊による懸命な捜索活動がなされましたが、拉致事件が判明したのはそれから20年も後のことでした。なぜこんなことが起きるのか…自分が悪いのか、先祖が悪いのか…絶望の淵に立つ早紀江さんに、ある宣教師が聖書を手渡しました。しばらく読む気にはなれなかったそうですが、ある時ヨブ記を読んで『私の苦しみがここにある』と教えられたそうです。その後、早紀江姉はクリスチャンとなり、その33年後にご主人の滋さんも病床洗礼を受け、天に凱旋されました。明日は滋兄の誕生日。苦しみの理由、それは人間には理解できません。しかし、主はご存知であり、ともに苦しんでおられる。今はただ、めぐみさんの帰りをひたすら待っておられるご家族のために心からお祈りしています。
今週月曜日に関西キリスト災害ネットワーク・第五回懇談会がありました。『この町に教会があってよかった。ー大規模災害災害に備えて、防災の視点でー』をテーマに田村治郎氏の講演を聴きました。今回の出席者は21名、ここまで累計で100名を超える先生方が出席してくださったことになります。本当に感謝です。災害はいつ起こるかわかりません…。南海トラフ大地震も今後30年以内の発生確率は70~80%と言われています。防災士の方も言われました。『もし天気予報で降水確率70~80%と言ったら当然備えをするはず。災害もこの感覚が大事です。』そして『地震10秒診断ーもしもあなたの町で地震が起こると?』『東京備蓄ナビ』という興味深いアプリをご紹介くださいました。無料ですので、ぜひお試しください。今日も教会ではハートフル英会話があり、大人クラスからは楽しそうな笑い声が聞こえ、キッズクラスにも新しいお友だちが来てくださって感謝でした。
11月第二水曜祈祷会、ヨブ記29~31章。「あのとき」と幸いな生活を振り返り、「しかし今は」と悲惨な現状を語り、「私は自分の目と契約を結んだ」と自らの潔白を主張するヨブの姿を黙想しました。ヨブの幸いな生活の土台は、家族の多さや財産の多さの前に、神との親しい交わりがあったことでした。また、ヨブにとって最も悲惨な状態とは、神に向かって叫んでも、神が何もお答えにならないことです。次第にヨブは自分の潔白を主張することで、神の側に問題があることを訴えていました。神はなぜヨブをこれほどの苦しみにあわせたのか…。それは私たち人間には理解できないことです。でも、イエスさまは言われました。「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」十字架への道を歩まれたイエスさまは、試練がなくなるようにではなく、信仰がなくならないように祈られました。ここに一つの答えがあるように思いました。
11月第一主日、実るほど頭を垂れる稲穂かな…。ルカ14:1~、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」イエスさまは食事会に客として招かれた人たちにたとえを話されました。自分から上座に座ってはいけないこと。なぜなら、自分にはその資格があると心の中で思っている人は、反対に神の前で認められないからです。また、食事会に人々を招く主人にも話されました。もてなしをするなら、友人や家族やお金持ちよりも、貧しい人たちや体の不自由な人たちの方が幸いだということ。なぜなら、その人たちはお返しができないので、終わりの日に、神が報いてくださるからです。イエスさまが教えられたのは、単なる処世訓のようなものではなく、もっと深い霊的な真理、言わば御国での食卓の話しでした。今日は聖餐式の恵みにもあずかり、午後からは役員諮問会がありました。三人の兄姉の立派な信仰告白に心も体も満たされました。
『ここはかみさまがすんでいるおうちなんだよね』教会の前を通る小さなお子さんがお母さんと話しているのが聞こえました。ここに教会があることを地域の方が心に留めてくださっていたら感謝です。お掃除をしているとご近所の方と挨拶を交わしますが、なかなか教会には用事がなくて…信仰心もないし…でも、クリスマスには行こうかしら…と声をかけてくださる方もいます。ぜひ用事がなくても、信仰心がなくても、気軽に立ち寄って中を覗いてみてください。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」聖書の神さまは、人間が作った家にはお住みにはなりません。なぜなら神はこの天地万物を造られ、私たち人間を造られた方だからです。そのあまりにも偉大なる神さまのことを、どこで聞いたらいいのでしょうか。百聞は一見に如かず。ぜひ日曜日の礼拝に足を運んでみてください。
11月の第一水曜祈祷会はヨブ記23章から。エリファズの三回目の語りかけも、ヨブを励ますことはできず不毛に終わりました。ヨブも根拠のない罪を責められ、もはやエリファズへの反論をあきらめ、神への独白のように語り出します。「ああ、できるなら、どこで神に会えるかを知って、その御座まで行きたいものだ。」人に理解されない苦しみを、ヨブは神ならきっとわかってもらえると思います。でも、どこを探しても神を見つけることができない…神は全くご自分を隠されてしまった…。ヨブの苦しみは、ここにありました。「しかし、みこころは一つである。だれがその御思いを翻せるだろうか。」神の計画は変わらないが、自分は神の前に黙ることはできない…神にこの苦難の説明を求めたいというのです。今日は祝日だったので、普段あまり来られない方も祈祷会に来てくださって深い分かち合いとなりました。難解なヨブ記を身近に感じることができたことを感謝します。
教会のデボーションはヨブ記21章になりました。二度目のツォファルの語りかけに対するヨブの答えです。絶望の淵に立つにヨブに、友人たちはなんとかして彼を慰めようと説得を試みます。そこでヨブはこの二度目の会話の終わりに、自分が必要としているのは安易な慰めの言葉ではないこと、ましてや説得や非難を受けることなどではないと訴えます。自分の語ることに耳を傾けてほしい…それを自分への慰めにしてほしい…と。友人たちの説得は、不幸が誰かを襲うのはその人が神と人間に対して罪を犯したからだ、悪しき者は裁きを受けるということです。ヨブの答えは、では…私は悪しき者なのか、悪しき者だって長寿を全うし、子孫も財産も与えられている、それが現実ではないかということです。あらためて祝福と繁栄とは何かを考えさせられます。困難の中でこそ、この世の価値観に振り回されないようにしたいものです。主は言われました。「心の貧しい者は幸いなり」
10月第五主日、今日も子どもからご年配の方まで多くの方々が集われました。1517年10月31日、ルターはカトリックの免罪符に対する反論として95ヶ条の公開質問状を張り出しました。このニュースは瞬く間に全ヨーロッパへ広がり、プロテスタントの狼煙ともなりました。そこから約500年の歳月が過ぎますが、日本のクリスチャン人口は未だ全体の1%にも満たない状況が続きます。まさに日本でクリスチャンになるのは狭き門と言わざるを得ません。でも、その狭き門を見出し、そこを入口として救いの道を歩み出す人は幸いです。狭き門とはイエス・キリストです。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。」大事なのは入口です。宗教はみなどれも同じではありません。最初のボタンの掛け違いはその後ずっと間違えたままです。今日、苦難の中を通らされても、ともに歩む者は少なくても、あなたはわたしに従いなさいと主は招いておられるのです。
今、日曜礼拝ではイエスさまの生涯を記した福音書から学んでいます。生前イエスさまはどのような言葉を語り、どのような歩みをされたのかを読むと教えられることがたくさんあります。ただ、その頃の弟子たちはイエスさまが語られたことを正確には理解していませんでした。イエスさまが召された後、初めてその言葉と行動の意味を理解したのです。私たちも時に、言われたそのときに言われたことを理解できるとは限りません。その人が亡くなってある年月を経て初めてわかることもあります。私も父を天に見送って16年…。父が何気なく話していた言葉が今になって響いてくることがあります。『人と人との関係はどちらかが亡くなっても続きます。続くだけでなく、深まってもいきます。』最近読んだ本の一節が心に残りました。確かにそうだなと思います。ああしておけばよかった…と考える日々もありましたが、今は父が願うであろう自分として歩みたいと願っています。
10月第四水曜祈祷会、教会のデボーションはヨブ記17章になりました。誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていたヨブがなぜこれほどの苦難にあっているのか…。友人たちは、ヨブが神に背いて罪を犯したから神の裁きが下ったのだとヨブに悔い改めを迫ります。しかし、ヨブにとって彼らの言葉は何の慰めにもなりません。むしろ、ヨブは自分の潔白を主張し、ますます絶望の淵へと追いやられていくのです。「いったい、どこに私の望みがあるのか。だれが私の望みを目にするのか。」自分の人生はもう終わったも同然、もはや何の望みもないと独白していくヨブ…。彼のように私たちも時に、神に嘆き苦しみを訴えるような、文句を言いたくなるような時があります。でも、それはつきつめれば心の奥底で神を信頼しているから、信頼したいからこその言葉ではないでしょうか。私たちの希望はイエスさまがいることです。この希望は失望に終わることがありません。
今日は朝から冷たい雨が降っていました。昨日の午後、納棺式の際に故人のお顔を見せていただきましたが、穏やかな優しい顔をしておられたので、今主の平安の中にいることを思いました。母教会の先生にも連絡をさせて頂いて洗礼志願書などをFAXで送って頂き、祖母から続くクリスチャンであったことがわかりました。教会生活はあまり熱心な方ではなかったようですが…クリスチャンの従妹の方とも電話で話すことができて、青年時代のこともよく教えて頂きました。ある牧師はこう言います。その人の一生の価値は、その人の働き盛りとかではなく、実にその人の臨終の枕元においてなされるもの…。葬儀の中で御言葉が語られ、永遠のいのち、天の故郷、天国での再会を心に覚えて、ご遺族の方々と讃美歌を歌いました。終わった後、列席者の方に「キリスト教の葬儀もいいもんやね」と仰って頂きました。とても慰めに満ちた葬儀になりました。お祈りを感謝いたします。
10月第四主日、すっかり秋の深まりを感じる一日…。礼拝メッセージはルカ13:10-21。イエスさまは安息日に、18年も病の霊につかれてきた女に声をかけられました。「女の方、あなたは病から解放されました。」彼女はイエスさまのことばを信じて、ただちに立ち上がって、神をあがめたのです。ここに安息日の本質があります。すなわち、安息日はただ習慣的・形式的に守ればいいものではなく、大事なのは『喜びの日』『栄えある日』とすることです(イザヤ58:13)。また、イエスさまは『神の国』について二つのたとえを話されました。『からし種』『パン種』はどちらも極小の種粒でありながら、大きな成長、大きな影響を与えるもの、そして、種自体に生命力があることを示しています。神の国はイエスさまの到来によって始まり、私たちのただ中にあって、今日も全世界で広がりつつ、変わりつつあるのです。礼拝後、今日は転入会式もあって祝福に溢れる一日でした。
以前、教会に来てくださっていたご家族から久しぶりにお電話をいただきました。それは『夫が天に召されました』という寂しい知らせでした。最初にご主人とお会いしたのは今から7年前で、教会のホームページを見て訪ねてくださいました。その時は、しばらく教会生活もお休みされていたようでしたが、少し懐かしそうに聖書や信仰のことについていろいろお話ししてくださったのを覚えています。青年時代、好きな女の子が教会に通っていて、彼女に惹かれて行ったのが最初だったとのこと…(よくある話しです)。それから、洗礼までどのように導かれたのかは聞いておりませんが、いずれにしてもクリスチャンになられたのは本当に幸いでした。聖書にはこうあります。「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。…その人たちはその労苦から解き放たれて安らぐことができる。」葬儀は月曜日になりますが、ご遺族の上に主の慰めと支えをお祈りいただければ幸いです。
10月第三水曜祈祷会、ヨブ記11章から。三人目の友人ツォファルが満を持してヨブに語りかけます。「ことば数が多ければ、言い返されないだろうか。人は唇で義とされるのだろうか。」先のエルファズ、ビルダデの語りかけに対し、ヨブは実に言葉巧みだと批判します。ツォファルも、ヨブの受けた災いはヨブ自身に問題があると見ていました。そして、二人の友人と同じく彼も、因果応報の考えに基づく神への悔い改めを、ヨブに迫ります。そうすればヨブの苦しみは取り去られ、その繁栄は回復されるのだというのです。最初から自分の答えを持っているツォファルの言葉は、たとえ正論だったとしても…ヨブの心を慰めるどころか、極めて辛辣なものです。こうして、ヨブはますます自分のことをだれも理解してくれないと思っていくのです。私自身も、知らず知らずのうちに聴き手になれず、正論をかざして相手を言い伏せてしまっていることはないか…考えさせられました。
10月第三主日、気持ちの良い青空が広がる一日となりました。礼拝メッセージはルカ13:1-9。イエスさまは群衆に向かって、ガリラヤ人たちが殺されたことやシロアムの塔が倒れて死んだ18人のことについて語られました。当時の人々は何かの災難が起こるとまず神罰を考えたようです。イエスさまはそうした考えを否定して、「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」さらにいちじくの木のたとえをもって、父なる神が忍耐して待っておられること、イエスさまがとりなし祈っておられることを教えられたのです。「今年一年そのままにしておいてください。…それで来年、実を結べばよいでしょう。」いちじくの木を徹底的に守ろうとするイエスさまの思いが、この言葉に表されています。それは、ご自身のいのちをかけてでも守ろうとする愛であり、このイエスさまの愛によって示される神の愛でもあります。この愛が、私たちにも向けられているのです。
ヨブ記7章。エリファズの言葉を受けて、ヨブはあなたに私の苦しみの深さがわかるのですかと反論します。そして、神の訓戒などいらないから、もう自分の命を絶ってほしいと嘆きます。やがてヨブの思いは、友人のエリファズから、神に向かって語り始めます。主のしもべとして生きてきたのに、今自分は家族も財産も何もかも失い、全身の病に冒され、あとは息のように儚く消え去るだけ…もはや再び幸いを見ることはない…というのです。「もういやです。いつまでも生きたくありません。かまわないでください。私の日々は空しいものです。」ヨブの一つ一つの言葉に、深い悲しみが迫ってきます。ただ…大切なのは、神はこのヨブの嘆きの祈りに耳を傾けておられることです。私たちも時に、苦しくて苦しくて生きてることさえ辛い夜が、だれにも理解してもらえないと感じる日々があるのではないでしょうか。「しかし私は、主よ、あなたに叫び求めます。…」(詩篇88:13)
10月第二水曜祈祷会、ヨブ記5章から。昨日に続いてエリファズのヨブへの言葉から学びました。エリファズは、不幸やわざわいは人間の罪の報いなのだから、激しく嘆いたり、神を呪ったりするのは間違っていると語りかけます。むしろ、神の叱責を受けるのは幸いなこと、神はただ懲らしめるだけではなく、その傷を包み、癒してくださる方だと言うのです。「私なら、神に尋ね、神に向かって自分のことを訴えるだろう。」エリファズは無意識のうちに、自分がもしヨブの立場だったらこうするのに…と自己の敬虔さを主張しました。痛みと悲しみの淵にあるヨブは、彼の言葉をどう聞いたのでしょう。まさしく傷口に塩を塗られるような思いだったのではないでしょうか。たとえ真実が混ざっているとしても、言葉には本当に気をつけたいものです。分かち合いの時間にも、いろいろな感想を聞くことができて感謝でした。今日から、少し新しい体制での水曜祈祷会が始まります。
教会のデボーションはヨブ記に入りました。人の苦難の意味について、これほど考えさせられる書はありません。物心両面に恵まれていたヨブは、略奪と天災という四つの災いに遭い、すべてを失います。それでも神の御心と受け止め、神への信頼を持ち続けるヨブのもとに、エリファズ、ビルダデ、ツォファルの三人の友人が訪ねてきます。彼らは、ヨブの悲しみにただ寄り添うしかできませんでしたが、ヨブが徐々に自分の心情を打ち明けたので、まずエリファズが自分の考えを話しました。エリファズは、ヨブの身体を労わりながらも、不幸には必ず原因があること、自分の経験から神の絶対的な正しさを示すなど、ヨブに自分の非を認めさせるような説得をしたのです。彼を励ましたいという気持ちが、いつの間にか上から物を言うような言葉に…。傷ついた人の心を理解せず、不用意な言葉を発するより、ただ黙って寄り添うこと、とりなし祈ることの大切さを思わされます。
10月第二主日は、朝から夏を思わせるような日差しの強い一日でした。礼拝メッセージはルカ12:22‐34から。大勢の人々が集まっている中で、イエスさまは弟子たちに「あなたがたは、…いのちのこと、…からだのことで心配したりするのはやめなさい」と言われました。そして、鳥や草花に目を移して、それらを養っておられる神は、あなたがたのことを価値ある存在として見ておられ、あらゆる面で養ってくださるのだと教えられたのです。天の父なる神さまは、私たちが生きていく上で必要なものをよくご存知です。そして、私たち以上に私たちのことを心配してくださっているのです。イエスさまが弟子たちによく繰り返された言葉に、「恐れるな」があります。それは、彼らの心に深く刻まれていったことでしょう。今もイエスさまは、私たちが慌てたり、何かに恐れている時にも、私たちを憐れんで、この時の弟子たちと同じように声をかけて、励ましてくださるお方です。
今日から、ハートフル英会話・秋期コースが開講しました。久しぶりにお会いする方々と初めてお会いする方々と、また木曜日のなごやかな時間をともに過ごせることを感謝します。教会は、クリスチャンの方はもちろん、クリスチャンではない方にとっても、大人も子どもも、心落ち着く楽しい場所であってほしいと願っています。講師のレイチェルさんとホゼアさんが本当に心を込めて授業をしてくださいますので、とても雰囲気のよいクラスです。大人も子どもも、定員人数までもう少しあります。ご興味のある方はまずは無料体験クラスをお試しください。話しは変わりますが…昨日は東北で、今日は関東で、震度5強の大きな地震がありました。首都圏の地震では、各地で停電があったり、水道管が破裂したり、複数のけが人も出たようです。東日本大震災以来10年ぶりの震度5強とのこと。けが人や被災された方々を覚えてお祈りしています。関西もあらためて注意が必要です。
10月第一水曜祈祷会、ローマ8:1‐17。パウロは善を行いたいと願いつつ、自力ではそれができない現実を認め、人はただ救い主の助けを求めるほかないことを述べました。でも、だからこそ「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」というのです。キリストを信じ、キリストの救いにあずかった者は、今や「罪と死の原理」、すなわち罪と死の支配から解放されました。それは、キリストの贖いによって「いのちの御霊の原理」がもたらされたからです。御霊は、私たちのうちに住んでくださって、私たちを永遠のいのちに導き、神の子どもであることを証ししてくださいます。ですから、パウロは他書でも「御霊によって進もうではありませんか。」と勧めるのです。私たちも、肉体的には日ごとに衰えても、霊的には日ごとに新しく造り変えられ、キリストのご支配の中を、キリストの栄光目指して歩もうではありませんか。
緊急事態宣言解除に伴い、今週の木曜日からハートフル英会話秋期コースが始まります。毎週木曜日に行っている英会話教室、皆さまに愛されて今年で27年目を迎えました。日常会話から海外旅行、ビジネス英語など、使える英語を身に着けたいならネイティブ講師から学ぶのが一番です。講師は二人とも敬虔なクリスチャン。最大6人の小グループ制なので、互いに助け合いながら、新しいお友だちの輪が広がります。大人クラスも、初めは皆さん緊張されてこられますが、だんだん親しくなって会話も弾み、いつも笑い声がたえません。Kidsクラスは、フラシュカードを使ったりクラフトをしたり、とにかくいろいろなプログラムがあって楽しい50分です。クラスの時間帯や料金などの詳しい情報はハートフル英会話のページをご覧ください。すでに案内チラシを見てくださった方もいるかと思いますが、ただいま無料体験クラスを受付中!お電話か、メールでお申し込みください。
10月第一主日、秋晴れの青空が広がる一日。緊急事態宣言解除後の最初の主の日、三回に分かれての礼拝でしたが、多くの方々と久しぶりに顔をあわせ、聖餐式の恵みにもあずかることができて感謝でした。メッセージはルカの福音書12:13‐31。群衆の中の一人がイエスさまに質問したことから、イエスさまが愚かな金持ちの譬えをされたところです。そこから、財産はいのちを保証しないこと、神なき人生を歩む愚かさ、神との正しい関係に生きることを心に留めました。『神に対して富む者』とは、自分で精一杯聖い生活を送り、神の子どもとして多くの良いことをする…ことではなく、何より、こんな弱く愚かな者でも、神から愛されていることを喜び、与えられたいのちを感謝し、喜びの日も悲しみの日も神とともに歩むことです。自分に誇るべきものがなくても、神を信じる者に約束された神との和解があります。今週もこの恵みのうちを歩ませていただけることを感謝します。
教会のデボーションはローマ6章に入りました。パウロはイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められることを記した後、「それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。」という問いを投げかけます。つまり、神の恵みが増し加わるために、あえて罪の中にとどまっているべきですかというのです。それに対する答えは、「決してそんなことはありません」です。理由は二つ。私たちは律法の下にではなく(罪に対して死んだ者)、恵みの下にある(神に対して生きる者)からです。その目に見えるしるしがバプテスマ(洗礼)です。もちろん洗礼を受けたからといって、すぐに罪から完全に自由になれる人はいません。地上にあっては、罪との戦いや誘惑があります。でも、私たちはみな、聖潔に向けて決定的な一歩を踏み出した者たちです。あとは聖霊により頼みつつ、一歩ずつ完成を目指していきましょう。
教会のデボーションはローマ5章に入りました。「こうして…私たちの主イエス・キリストによって、神との平和をもっています。」主イエスを信じる信仰によって、私たちは神との正しい関係が回復しました。その結果、私たちは神との和解、交わりの中に生きる者とされたのです。だからこそ今の患難さえ喜ぶことができる、それは患難が忍耐を生み出すことを知っているからです。忍耐とはただ消極的に我慢することではなく、主に期待して積極的に生きることです。キリストは私たちの罪のために死んでくださった、しかも「私たちがまだ罪人であったとき」に、です。ここに人類に対する神の愛が具体的に示されました。アダムの背きによって全人類に罪が浸透したように、キリストの義の行為によって多くの人が義とされる道が備えられたのです。今、キリストを信じる信仰に歩んでいる者が、どれほど圧倒的な恵みの中に生かされているかを、心に留めて歩みたいと思います。
9月第五水曜祈祷会、ローマ4:1-25から。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」パウロはユダヤ人が誇りとするアブラハムとダビデの例を挙げて、行いではなく信仰によって義と認められることを記しました。丁度、旧約聖書を学ぶ会でアブラハムの晩年を学んだところでしたので、「不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます」ということの意味がよくわかりました。アブラハムも75歳の時に神の召命を受けて信仰の旅が始まりましたが、時に神に背き、神の叱責を受けることもありました。それでも彼は、神の声に励まされ「望み得ない時に望みを抱いて信じ、…神には約束したことを実行する力があると確信して」歩み続けたのです。このような信仰者になるには、アブラハムでさえも、長い年月の神の取り扱いを受けました。私たちもアブラハムの子孫として、約束を信じて偉大な信仰者の歩みに倣いたいものです。
9月第四主日、爽やかな風が気持ちのよい一日でした。伝道者の書6章から『悪しき病からの癒し』をテーマに、神の賜物を楽しめない空しさ、今あるもので満足できない空しさ、神と言い争う空しさをポイントに御言葉を学びました。『だれが知るだろうか。…だれが人に告げることができるだろうか。…日の下で何が起こるかを。』誰も知り得ない、それが6章の結論でした。『悪しき病』とは、神なき人生を歩む者の心を蝕む病魔です。放っておけば確実に死に至る病となります。でも、感謝すべきは、今日の私たちはこの問いの答えをイエス・キリストのうちに見出すことができることです。今は教会に行きたくても、他の方のことを考えて自粛しておられた方も多いと思います。それぞれの地域教会で事情は違うと思いますが、私たちの教会も緊急事態宣言の解除を目安に、主日の三部礼拝を再開します。また、教会で皆さまと心一つに礼拝をささげられるのを楽しみにしています。
昨日は同盟教団宣教130周年記念大会がありました。教団の歴史、特色、展望がどういうものかをあらためて再確認する良い機会となりました。1891年に来日した15名の宣教師(その内の一人は来日後3ヵ月で召天)は、今では想像もつかないような迫害、経済的必要、霊的戦いを覚えながら未伝地での宣教と救霊のために献身してくださいました。その功績は、現在261の教会、信徒11,965人が所属し、さらに日本とアジアと世界に仕える教団となり、今も前進し続けています。朝岡理事長の全体講演の中で『コロナ禍にあって多くの教会が困難の中にある。でも、私たちの思いを越えて働かれる主の御業に、私たちは参与するのだ。』という言葉が心に残りました。確かに自分の教会だけが祝福されればいい、同盟教団の教会が増えればいいというのが、130周年に覚えることではありません。主が必要とされるならば、喜んで宣教協力し、献げていく教会でありたいと思わされました。
昨夜は中秋の名月。思わず「天は神の栄光を語り告げ。大空は御手のわざを告げ知らせる。」の御言葉を思い出す夜でした。そして、今日の水曜祈祷会。ローマ1:18~「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」同じ天を見上げるのでも、今朝は身の引き締まる思いがしました。『怒り』とは『神の裁き』(終末的審判)を表す言葉です。人間は、自然の美しさを思うと同時に、その造り主に思いを馳せなければなりません。罪の本質は、何か犯罪を犯すことではなく、神を認めず、神を神としてあがめないことです。私たちはこの世に生まれてから、何もかも当たり前ではない現実の中を、自分の力で生きてきたのではなく、神によって生かされてきました。神は義しい方ですから罪に対しては厳しい裁きを下されます。と同時に、神は愛なる方ですから神を求める者には全き赦しをお与えになるのです。
教会のデボーションはローマ人への手紙になりました。今日はその書き出し1:1‐7から。ギリシャ語原文では一続きのあいさつ文。「キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。」この一節だけでも深みのある言葉です。キリスト・イエスに対する全き服従、神の福音のために選び分かたれ、復活の主の証人として遣わされた者だということ。ここから、福音とは何か、自分の使命とは何か、パウロがこの手紙を通して伝えたいことが、短い文章の内にギュッとまとめられています。ちょっと難しそうだな…と感じる方もいるかもしれませんが、Ⅱ歴代誌の時のように1章ずつではなく、ローマ書は短い節に区切って見ていきますので、なんとか読書百篇の気持ちで一緒に味わっていきましょう。「…すべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。」聖霊さまがお一人ひとりのデボーションを祝福してくださいますように祈っています。
9月第三主日、台風一過の青空が広がりました。伝道者の書5章から。伝道者である著者は、形式や口先だけの信仰の空しさ、また金銭や富を追い求めることの空しさを覚え、結論として神が与えたいのちの日数の間を楽しみ喜ぶように告げました。「こういう人は自分の生涯のことをあれこれ思い返さなさい。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」私たちの人生は短く、あれこれ思い返している暇もないほど束の間に過ぎてゆくものかもしれません。でも、神がその人生を喜びで満たしてくださることを信頼して、たとえ束の間であっても、一心に主を賛美し、その栄光を表していきたいものです。今日は礼拝後に二人の方の洗礼式がありました。コロナ禍なので、細やかなお祝いしかできませんでしたが、天で大きな喜びの声が上がっていることを思いました。まさに神の時、新しい人生の出発に、立ち合えて感謝でした。これからの信仰生活の祝福を心よりお祈りしています。
詩篇102篇は苦しむ者の祈りです。「主よ、私の祈りを聞いてください。私の叫びが、あなたにまで届きますように。」詩人は、心身ともに病気にかかり、自分のいのちの終わりまで予感していたようです。でも、彼は言葉にできないその思いを、神に向けて行きました。「それはあなたが、憤りと激しい怒りのゆえに、私を持ち上げ、私を投げ捨てられたからです。」今の状態はたまたまではなく、神が通らされている試練であるならば、回復を与えてくださるのも神です。イエスさまも、神の許しなしには何事も起こり得ないと言われました。困った時こそ神の名を呼び求めましょう。私たちは何か辛い試練にあうと、早くそこから抜け出したい、解放されたいと願い求めるものですが、まず今の状況を神が知らないはずがない、神は間違ったことをなさらない、忘れてはおられない…そのような信頼に立ちたいものです。すべてのことを、私たちを愛するゆえになさる方だからです。
9月第三水曜祈祷会はⅡ歴代誌36章から。ヨシヤ王の死後、南ユダは滅びの最終段階に入り、4人の王が登場して幕を閉じます。どの王の時代もエジプトから、バビロンから攻撃を受け、国は弱体化していきました。それでも主は、たびたび使者を遣わして悔い改めを迫りますが、彼らは全く聞く耳を持たず、預言者らを蔑み笑いものにしました。こうして、ついに主の激しい憤りが燃え上がり、カルデア人の王ネブカドネツァルによって、若者も年寄りも殺され、神の宮は焼かれ、剣を逃れた者たちもバビロンへ捕らえ移されるという壊滅状態に陥ったのです。神の厳しい審判でした。でも、本書の最後には、エレミヤによる回復と希望の預言とペルシャの王キュロスによる解放宣言が記されていました。「バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み…」主はご自身の計画をもって歴史を導いておられる、ゆえに主の裁きは真の回復の始まりでもあることを思いました。
教会のデボーションはⅡ歴代誌35章、南ユダ国最後の信仰の王ヨシヤに関する記述です。彼は8歳で王となり、16歳で主を求め、20歳で改革を開始し、31年間主の目にかなうことを行ったとあります。その中でも特筆されるのは、先週のヒゼキヤ王の場合もそうでしたが、過越のいけにえを献げて神への献身を示したことです。『過越』はイスラエルの民がエジプトの奴隷から主によって助け出されたことを記念する祭りです。「イスラエルでこのような過越のいけにえが献げられたことはなかった。」過越にかけるヨシヤ王の熱心は膨大な量のいけにえや祭司・レビ人への命令に表されていました。その後しばらくして、ヨシヤ王はエジプトの王との戦いで不慮の死を遂げていきます。これほどの改革を行った王が…なんともあっけない死に方に思いますが、「全ユダとエルサレムは、ヨシヤのために喪に服した。」という言葉に、彼の労苦も決して無駄ではなかったことを感じました。
9月第二主日。アメリカ同時多発テロ事件から20年が過ぎました。今年8月末に最後の米軍機が現地を離れ、米史上最も長い戦争に終止符が打たれましたが、今もなお政治的混乱が続くアフガニスタンのために祈りたいと思います。今日の礼拝メッセージは伝道者の書4章からでした。権力者たちに虐げられている者たちの涙、神なき成功、神なき人生、神なき名声の空しさを覚えました。「二人は一人よりもまさっている。…一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」イソップ童話の『三本の棒』、毛利元就の『三本の矢』を思い出すところですが、自分と隣人、そして第三の糸に、イエス・キリストを見ることができるのはクリスチャンの格別な恵みです。また、午後からの役員会では緊急事態宣言再延長に伴い、教会も来会自粛期間を再延長することを決めました。今はただ感染者数の減少を祈りつつ、主の憐れみを求めたいものです。
4日間の研修会が終わりましたので、今日はちょっと休憩。秋の花がほしいなぁと思って、The Farmへ。この時期は春や夏と違って花の種類も限られていて、とりあえず…今日は見て回るだけで満足でした。秋と言えば『秋桜』ですが、種から準備していたのが、目を出して15㎝くらい伸びたところでぜんぶ枯れてしまいました。土が原因だったのか、暑さだったのか…わかりませんが、結局、つぼみをつけたものをいくつか買って植えることにしました。でも、教会で花を育てるのは、何より見て喜んでくださる方がいると思うからで…今の緊急事態宣言中は来会する方も少なく、寂しいものです。気を取り直して、狭い教会の畑を耕し、ジャガイモでも植えようかなと思っています。ある方が気にして『山下先生はワーカホリックじゃないですか…』と心配してくださったのですが、適当に休んでおります。お気遣いありがとうございます💦皆さまも季節の変わり目、ご自愛ください。
月曜日から同盟教団のオンラインでの補教師研修会が行われています。私も教職教育部員なので、若い先生方と一緒に9つの講演会に出席しました。同盟教団の牧師として知っておかなければならない事柄を、一つ一つ先輩の先生が経験も踏まえて教えてくださるのでかなり実践的です。対面のような深い交わりは持てませんが、家族で参加されている先生もいたので、オンラインならではの良さもありました。これから正教師試験にチャレンジする先生方のために祈らされました。さて、今日の水曜祈祷会はⅡ歴代誌31章から。ヒゼキヤは、祭司とレビ人を組分けして、主の律法に記されているとおりにいけにえを献げさせました。さらに、彼らが律法に専念するためにエルサレムに住む人々に献げものをするように命じたのです。いやいやながらではなく、喜んで献げる民の姿が目に浮かびます。ヒゼキヤの思いは民全体に浸透し、まさに神の民みんなで行う宗教改革となったのです。
教会のデボーションはⅡ歴代誌30章になりました。29章からヒゼキヤが南ユダの王として即位し、神殿を修復し、レビ人を聖め、偶像を徹底的に除去する宗教改革を行ったことが記されています。しばらく信仰的に堕落した王さまが続きましたので、ヒゼキヤの登場はまさに希望の光です。ヒゼキヤはイスラエルとユダの全土に過越のいけにえを献げるように呼びかけました。「主に立ち返りなさい。そうすれば、主は…あなたがたのところに、帰って来てくださいます。」その頃、北イスラエルはアッシリヤの攻撃を受け、すでに首都サマリヤは陥落し、多くの民が連れ去られる中で、ヒゼキヤの呼びかけを物笑いにし、嘲る人々もいました。でも、こうした危機的状況だからこそ、神の救いを求めてエルサレムに集まり、大きな喜びをもって礼拝を献げる者たちもいたのです。「…彼らの祈りは、主の聖なる御住まいである天に届いた。」こんな喜びに溢れる礼拝を献げたいものです。
9月第一主日、雨も上がり青空が広がる一日。今日の礼拝メッセージは伝道者の書3章からでした。有名な箇所ですが、読めば読むほど…その深遠さに圧倒されるところで、一回のメッセージでは語り尽くせないことを感じました。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」神は創造の時から、人の心に永遠なる方を慕い求める思いを与えられました。自分の心が神に向けて造られたこと、また神に知られ、愛されていることを知ること、人生においてこれ以上の幸いはありません。伝道者の書、まだ三合目まで登り始めたばかりですが、読書百遍の気持ちで読んでいきたいと思います。今日も教会に来られた方は奉仕者も入れて10人ほどで、新しい方も来てくださって感謝でした。パラリンピックも閉会しました。選手の皆さま、本当にお疲れさまでした。
9月最初の水曜祈祷会はオンラインで行いました。今日もライブでの解説はお休みさせていただいて、会堂で録画した映像を視ました。Ⅱ歴代誌24章はヨアシュ、25章はアマツヤ、26章はウジヤ王。この時代の王の特徴は、最初は主の目にかなうことを行っていたのに、後半に神から離れ、身を滅ぼしていくことです。読んでいて思わず『どうしてここで…』と思ってしまうほど、見事に偶像に心奪われ、預言者の声に耳を傾けず、神を侮り、自分勝手な行いに走り、主の御怒りを受けていきます。スケールは違いますが、私たちの信仰生活にも通じることかもしれません。初めのうちは謙遜にへりくだっても、ある程度、問題が解決すると神から目を離してしまう…自力でなんとかできると錯覚してしまう…。王たちの信仰の不甲斐なさが、どこか自分の姿と重なるからこそ余計ヤキモキするのかもしれません。王たちの問題点をしっかり心に留めて、私たちも兜を締め直したいものです。
8月の旧約聖書を学ぶ会がありました。私事ですが、今日は2回目のワクチン接種があったため、予め録画したものを配信させていただきました。愛妻サラが召天し、老人となったアブラハム。後の気がかりは、まだ息子イサクの嫁が決まっていないことでした。そこでアブラハムは信頼できるしもべを呼び寄せて、息子の妻となる女性を見つけてきてほしいと命じました。しもべは祈りの内に具体的な主のお取り計らいを求めます。すると、彼が祈りが終わらないうちに、リベカという素晴らしい女性が目の前に現れたのです。この後リベカはしもべと一緒にイサクのもとに行くことを決心し、長旅に出発しました。夕暮れ近く、散歩から帰ってきたイサクが目を上げて見ると、ちょうど、らくだに乗ったリベカも目を上げて、二人が見つめ合うという感動的な出会いのシーンでした。「…イサクは、母の亡き後、慰めを得た。」アブラハムとサラの祈りはこうして聞き届けられたのです。
8月第五主日、緊急事態宣言延長に伴い、教会もあらためて来会自粛となり、オンラインの礼拝となりました。伝道者2章から「万古不易の真理」というテーマで、イスラエルの最高の知恵者であり、栄華を極めたソロモンが、地位も名声も富もすべてを手に入れ、その結果はいかに。「すべては空しく、風を追うようなものだ。」つまり求めても、手に入れても、心は満たされなかったのです。むしろ、食べる、飲む、働く…こうした基本的な生活の中に満足を見出す、それもまた神の御手によることと受け取っていく、ここに人間の知恵があるというのが心に残りました。今日は午後からファミリーコンサートがありました。昨年はコロナ禍で中止でしたが、今年はオンラインでの開催。バイオリン、ビオラ、チェロ、ウクレレ、サックス、ピアノ、フルート、オーボエ、歌、鉄棒、証し、多くの方が出演してくださいました。私たちの教会らしいコンサートができたことを感謝します。
8月の第四水曜祈祷会がありました。二週間お休みをいただきましたので、久しぶりの祈祷会に少し緊張しました。使徒の働き27:27~パウロたちを乗せたローマ行きの船は暴風に襲われ、アドリア海を漂っていました。人々は二週間も何も食べずに暴風に翻弄されるままになっていましたが、パウロの「あなたがたは助かります」という言葉によって元気づけられ、食事をとりました。夜が明けたころ、近くに入江が見えてきましたが、二つの潮流に挟まれて船は座礁し、ついに船尾から壊れ始めていきます。もはや万事休す…でも、パウロの言葉を信頼した百人隊長の指示で、二百七十六人全員が無事に陸に上がることができたのです。ともにこの危機を経験したルカならではの臨場感にあふれる描写でした。どんなに人間的にはもうダメだ…と思うような状況に陥っても、たとえ沈みゆく船の中にあっても、まことの神を知る私たちの存在は決して小さくないことを思わされました。
教会のデボーションは使徒27章です。人々の不当な訴えによって総督や王の前で証しをしてきたパウロは、いよいよローマ皇帝ネロのもとに送られることになりました。当時の世界の首都ローマにおいて福音を証しすることは、パウロが長く切望していたことであり、世界宣教における神の計画が前進することでもありました。ただし、ローマへの道のりはなお遠く、険しいものでした。途中、船は向かい風にあおられ、さらには暴風に襲われ、難破の危機に陥りました。もはや人々の助かる望みも完全に絶たれようとしている中で…パウロは毅然としてこう言いました。「元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う人は一人もありません。」パウロのように、神の御心に従って歩んでいても、途中で思わぬ暴風に襲われることはあります。でも、「私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになる。」この揺るがない確信を、私たちも持っていたいものです。
8月第四主日、今日は献堂4周年記念礼拝でした。私たちの教会がこの場所に移ってきて、もう丸4年が過ぎるのだな…と感慨深く思いました。今はみんなで集まってのお祝いはできませんが、この教会でいろいろな方と出会い、主にある交わりを持たせていただいたことを感謝します。今日の礼拝メッセージは玉井邦美師が申命記1:5-8からメッセージを取り次いでくださいました。ただ恵みを受けるだけの教会生活は危険であること、また、教会には託された使命があることについてチャレンジを受けました。「あなたがたは向きを変えて出発せよ。」コロナ禍にあって、教会の活動も何かと制約がありますが、あらためて目を上げて教会が進むべき方向を確認できたように思います。今日もまた、コロナの感染者数は日曜日としては過去最多を更新。明後日からはパラリンピックも始まります。まだまだ感染拡大に歯止めがかからない状況ですが、御心を求めていきたいと思います。
今週は夏休みをいただいて、大学生のオンラインキャンプで奉仕させていただきました。本当に充実した、内容の濃い四日間でした。緊急事態宣言が発令される中でもこうしてzoomを通してキャンプの恵みを味わうことができたのは、実行委員をはじめスタッフ、現役生、卒業生、多くの方の祈りと支えがあってのことだったと思います。この場を借りてあらためて御礼申し上げます。ありがとうございました。どこか自然の中で、対面で、時間も気にせずできたら…と思った学生たちもいたと思いますが、今の情勢の中での最善だったのではないでしょうか。今回のテーマは『伝道』でしたが、グループリーダーから信仰の決心や信仰の原点に帰る青年たちがいたことを聞いて、主の御名をあがめました。彼らにはまた、明日から厳しい現実が待っていると思います。でも、キリストがともにおられ、一人ひとりに与えられた御言葉が支えと希望になりますようにお祈りしています。
オンラインキャンプ、三日目が終わりました。今回の奉仕を依頼された時は、コロナ禍の教会のことで頭が一杯で、お受けするかどうか思案しましたが、これまで教会の青年たちがどれだけお世話になってきたかを考えたら、地域教会の牧師として感謝を表すべきだと思わされました。実際、キャンプが始まってみると、配信に不手際があったり、妻が入院することになったり…いろいろな予期せぬことが起こりましたが、まっすぐに御言葉に向かおうとする青年たちの姿に励まされっぱなしの三日間でした。連日メッセージの後に、zoomの牧師室に青年たちが訪ねてきてくれて、質問や感想を分かち合ってくれましたが、まさに牧師冥利に尽きる時間でした。参加者77名、初参加10名。「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」キャンプは明日の派遣礼拝で終わりますが、コロナ禍の時代の青年たちを、祈りと御言葉をもって送り出したいと思います。
箕面の青空が戻ってきました。でも、このところの長雨は日本各地に甚大な被害をもたらし、金曜日頃まで予断を許しません。また、もはや驚きもないですが、大阪の新型コロナの新規陽性者も2,296人という過去最多を更新。全国でも23,000人を超え、歯止めがかからない状況です。神がいるならなぜこんな状況を許しているんですか…今日もキャンプの分科会で質問がありました。きちんと答えられたかわかりませんが、確かなことは、神はこの状況をご存知であって、心を痛めておられるということです。夜の集会のメッセージも、ペテロたちがイエスさまを見捨てて逃げ出していくところからでした。イエスさまはシモンに「サタンがあなたがたをふるいにかけようとしている」と警告しました。それなのに…。でも、イエスさまがそんな彼のために「あなたの信仰がなくならないように祈りました」と言われたことを中心に話しました。ここに私たちへの慰めがあるからです。
今日からキリスト者学生会のサマーキャンプが始まりました。Zoomなので、学生たちとゆっくり交わることはできませんが、画面越しにキャンプの雰囲気を味わうことができて感謝です。私は分科会と夜の集会でメッセージを担当します。今夜はペテロとイエスさまの出会いの場面から、「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」を中心聖句に話しました。最後にカメラを切り替えるのを忘れていたことに気づきましたが…時すでに遅し。でも、何人かの方に『特に問題ありませんでしたよ』と優しく声をかけられ…とにかく一日目を終えてホッとしました。あと三日間、気を抜かずに奉仕を全うできるようにお祈り頂ければ幸いです。新型コロナによる緊急事態宣言はついに地域拡大と期間延長が正式に決まりました。また、西・東日本でも激しい雨が予想され、どこで土砂災害が起きてもおかしくない状況です。様々なことが最小限に抑えられるようにお祈りしています。
8月第三主日は戦後76年目の終戦の日でした。先の大戦で亡くなられた方々を覚えて祈り、世界平和への思いを新たにしました。また、昨夜は西日本を中心に記録的な大雨が降り続き、各地に甚大な被害がありました。新型コロナの感染者数も一日2万人を突破する日が続いています。主よ、憐んでください…とただただ祈るばかりです。礼拝では伝道者の書1章からみことばを心に留めました。「空の空。伝道者は言う。空の空、すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」「空」とはもともと「息」を意味する言葉で、すぐに消えてしまう儚いものを表していました。神との関りのない人生はなんと儚く、空しいものだろうかというのです。それは当代随一の知恵者と言われ、経験豊富な伝道者の実感のこもった言葉でした。時代がどんなにうつり変わっても人間の本質は変わりません。今日の私たちにも、多くの気づきを与えてくれる書簡です。
台風一過でしたが、大事にしていた向日葵が倒れてたり、看板が飛んでしまっていたり…
CGNTVの撮影もあり、片付けと奉仕で慌ただしい一日でした。さて、教会のデボーションは使徒の働き21章から。聖霊に導かれたパウロは、いよいよエルサレムに到着しました。そこで早速、教会の指導者たちと会って神が異邦人の間でなさったことを報告し、ともに神をほめたたえたのですが、そのすぐ後でアジアから来たユダヤ人たちの扇動によって逮捕されてしまいました。なんとも痛々しい結果に…と思いきや、パウロは自分を「殺してしまえ」と叫ぶ民衆に向かって、立ち上がって弁明をしていったのです。その時、民衆は叫ぶのをやめて、パウロの話しに静かに聞き入ったとあります。この状況を千載一隅の機会に変えてしまうとは…。パウロの力強い証しにとても励まされました。私も来週はKGKのサマーキャンプ。オンラインですが、学生の方々に証しできる機会を感謝しています。
8月第二主日はヨナ書4章から。ヨナの宣教によって、ニネベの人々がみな神を信じ、悔い改めに導かれました。ところが、これほど素晴らしいことが起こっているのに、ヨナは不愉快で神に怒っていたのです。自分の思うように事が進まず、逆に最も懸念していたことが成就してしまい、「私は生きているより死んだ方がましです」とまで言い出す有り様。主はそんなヨナの心に問いかけながら、静かに悔い改めを迫ります。そして、一夜で生えて一夜で滅びた唐胡麻を惜しむヨナに、ご自身の御心を示されたのです。「ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。」情け深くあわれみ深い主の愛があふれ出るような語りかけが心に響きました。今日は、緊急事態宣言発令に伴い、多くの方が来会を自粛され、オンラインで礼拝を献げられました。世界中で賛否両論あった東京オリンピックも今日が閉会式。多くの感動を与えてくれた選手の方々に感謝します。
使徒の働き20章から。パウロは約三年のエペソの宣教に一応のピリオドをを打って、御霊に示され遠くローマを目指すことを決意します。そこからマケドニヤに渡り、ギリシャ、トロアスの諸教会を再訪し、多くのことばをもって弟子たちを励ましました。中でも、ミレトスで教会の長老たちを呼び寄せての決別説教は圧巻です。「そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません」「鎖と苦しみが私を待っている」「けれども、私が走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。」パウロの宣教は、まさに命がけでした。その伝道者としての使命感にただただ圧倒されるばかりです。今もコロナ禍の状況が深刻化する中で、不要不急ではない礼拝をどのように献げるのがベストなのか…。一人一人が祈りのうちに御心を示していただき、主にあって平安があるように祈っています。
五十にして天命を知る…。現実はなかなか厳しいものですが、自分も50歳になりました。主の憐れみと大勢の方々の祈りと励ましに支えられて、なんとか今も牧師という尊い働きをさせていただけることを感謝いたします。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが…」今から25年前、洗礼を受けた時のお祝いに、教会のある方から三浦綾子さんの『ちいろば先生物語』の本をいただいて初めて榎本保郎牧師のことを知りました。こんな生き方があるんだ…と胸をワクワクさせながら読んだのを思い出します。その榎本先生は、さまざまな国で福音を宣べ伝え、52歳という若さで天に召されました。お会いしたことはありませんが、尊敬する先生の年齢に近づいて、改めてその偉大さを感じます。足元にも及ばないことは重々承知しながら、私は私なりに、少しでもイエスさまをお乗せするのに間に合う者にならせていただきたいと思わされます。
新型コロナの新規感染者数が増え続ける中、大阪府をはじめ6都府県で緊急事態宣言が発令されました。4度目の緊急事態宣言をどう受け止めるか…人によって温度差がありそうです。教会としては改めてオンライン礼拝を推奨していく方針ですが、この時期、一人でも多くの方が教会に目を向けてくださって、福音にふれていただければと願うばかりです。教会のデボーションは使徒19章から。パウロが第3次宣教旅行でエペソを訪問した際に、弟子たちに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」と答えたとあります。今日でもありそうな会話です。確かなことは、私たちがイエスを主と告白することができるなら、その人の心には聖霊がおられます。この聖霊が私たちの信仰生活を導いてくださっているのです。
8月第一主日、礼拝メッセージはヨナ書3章から。主の御顔を避けて逃げ出したヨナは、荒れ狂う海に投げ入れられ、絶望の淵で大魚に飲み込まれ、そこで主への悔い改めに導かれました。主はそんなヨナに再び「立ってあの大きな都ニネベに行き…」と前と同じ使命を与えられたのです。ペテロもそうでしたが、失敗から立ち直った者が、改めて遣わされていく姿に感動します。3章は何といってもニネベの人々がひたむきに悔い改める姿が印象的です。神はそんな人々の姿をご覧になってわざわいを下すのを思い直されました。礼拝後に数人の方と『神は一度決められたことを思い直されるのか…』について話しましたが、まさに主の御心がここに示されています。それは、裁きよりも、救いであることです。「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」午後からの役員会では、緊急事態宣言発令後の教会の対応について話し合いました。結果については、また後日お知らいたします。
新型コロナの新規感染者数は東京で過去最多の4,058人、大阪も再び1,000人超えとなりました。この数字だけでは判断できない面もあると思いますが、やはりより一層の注意が必要であることは間違いありません。明日の礼拝は感染対策を講じた上で通常の三部制で行いますが、2日以降のことは今後の社会状況等を鑑みて判断することになります。今日は午後から第1回箕面災害支援ネットワーク会議に出席しました。社協が中心となって、災害協力隊、青年会議所、消防団、ボランティアグループ、キューズモールなど、さまざまな団体の責任者が来られて、これまでの経験や情報を共有し、とても有意義な会議でした。こうした集まりにこれだけの人たちが集まる箕面市は頼もしいです。災害は起きないことに越したことはありませんが、地震や台風などの自然災害がこれだけ続く時代ですから、いざという時のために、教会も地域に役立つネットワークを作っていけたらと思います。
オリンピックの熱戦が続く中、一昨日あたりから国内の新規感染者数が1万人を超えるようになりました。感染力の高いデルタ株の猛威です。これを受けて、東京に続き、埼玉、神奈川、千葉、大阪にも緊急事態宣言が発出されることが決まりました。菅総理の会見ではワクチン接種の効果と人流の減少傾向が強調されていましたが、国民に向けての具体的な行動指針というものは明示されなかったように感じました。教会としても、今後の礼拝や集会をどうするか…役員会を中心に難しい判断が迫られています。教会のデボーションは使徒の働き17:16から、パウロのアテネ宣教の記述です。当時アテネには3000を超える宗教施設・礼拝所があり、さらに「知られていない神に」と刻まれた祭壇までありました。パウロは、そうした人々の宗教心を認めつつ、天地を造られた神を証ししたのです。私も今日は箕面市の災害支援ネットワークの会議に出席します。よき証しになれば感謝です。
7月最後の水曜祈祷会は使徒の働き16章から。パウロの第二次宣教旅行はここまで辛苦をともにしてきたバルナバとの意見の相違から、別行動をとる形で始まりました。二人とも優れた信仰者なのになぜ…と思うところですが、これよって二つの宣教チームが誕生し、宣教の拡大と次世代の育成という二倍の祝福につながるのです。パウロはシラスとともにアジアの教会を訪問した後、聖霊に導かれてヨーロッパへと渡っていき、そこでは紫布の商人リディアとその家族、若い女奴隷、さらには牢獄の看守やその家族など…次々と救いにあずかっていく者たちの姿が描かれています。もちろん、パウロたちに反対する者たちもいて、厳しい迫害もありました。でも、一人の魂が救われるために、神がすべてを導いておられることを思う時、私たちが今、クリスチャンとして歩んでいることはそれだけで意義深いことだと思わされます。とにかくここを出発点に、今日を歩んで行きましょう。
7月の旧約聖書を学ぶ会がありました。創世記23章、アブラハムが妻サラのために墓地を購入するところから。アブラハム75歳、サラ65歳に、「わたしの示す地へ行きなさい」という神の命令がありました。行き先もわからず信仰をもって歩んだアブラハムの傍らにはいつも妻サラの存在がありました。喜びも悲しみもともに分かち合ってきた配偶者の死に、アブラハムは「悼み悲しみ、泣いた」とあります。信仰者であってもこの地上の別れは辛いものです。でも、泣いてばかりもいられません。アブラハムは立ち上がって、墓地を購入し、サラを葬りました。そして、やがて自分も子孫もその墓に納められていくのです。信仰者にとって『墓』は、単に人生のゴールではなく、同じ約束を相続する者として生き、天の故郷をあこがれつつ、この世を旅立った記念碑。私たちもみな、神の備えられた天へと引き上げられ、そこで再会し、主にまみえて礼拝をささげる続きがあるのです。
7月第四主日、幾分涼しさを感じる朝でした。礼拝準備をしている時に、ある牧師の召天の知らせがありました。65歳、自宅での突然死とのこと…。詳しいことはわかりませんが、後輩に対しても面倒見のいい優しい先生でした。お世話になった先生のことを思い巡らしながら、今日の説教奉仕をさせていただきました。ヨナ書2章は、ヨナの感謝の祈りが綴られています。主の御顔を避けて、主の命令とは反対の町に向かったヨナでしたが、途中で激しい暴風に遭い、荒れ狂う海の中に投げ入れられてしまいました。息もできず海底に沈みゆく中で、もはや死を覚悟するしかなかったでしょう。しかし主は、そんな彼のために大魚を備えられ、助けられたのです。ヨナは大魚の腹の中で主を思い出し、主との関係を回復していきました。苦難に遭えば、誰もが主を思い出すものでもありません。思い出すのも、主の恵み。主は私たちのためにも救いの扉を備えて待っていてくださるのです。
57年ぶりとなる東京オリンピックが開会式を行いました。新型コロナの影響で史上初の一年延期、しかも緊急事態宣言が発令される中での開幕です。華やかな式典に胸躍らせる方もいれば、断固反対する方がいるのも確か。一番気の毒なのは間に立たされる選手の方々でしょう。大会関係者も命を削るような17日間だと思いますが…世界中の思いが一つとなるように祈ります。使徒の働き15章は、異邦人の救いに関して激しい論争が起こったエルサレム会議の出来事。今まで正しいと思ってきたことを捨てて新しい現実を受け入れるのはなかなか容易なことではありません。人の罪の性質は他者を悪者に仕立て自らを正しいと主張しやすいものです。サタンもそこにすかさず楔を打ち込んで、対立や分派を起こさせます。でも、この会議では聖霊が一人ひとりに働いて見事な解決に至りました。正論をかざすのも大事ですが、相手の立場に立って考えることを忘れないでいたいものです。
人が多く集まれば、それだけ性格や考え方に違いがあるものです。直前までもつれにもつれた東京五輪も今日が開会式。すでにソフトボール、サッカーなど、酷暑の中でも懸命にプレーする選手たちの姿に大いに励まされます。いずれの国の方もみな、神が創造され、いのちを与えられた尊い存在。日本の面子より、『平和の祭典』と呼ぶにふさわしい大会になってほしいものです。教会のデボーションは使徒の働き15章から。異邦人の回心を喜ぶパウロとバルナバと、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべき」というエルサレムの長老たちの間で協議が行われました。信仰か、形式か…という議論に、ペテロが大事な一言を。「…主イエスの恵みによって救われる」去年からのコロナ禍で社会は大きく変わり、教会の活動も大きく変わってしまいました。だからこそ本質を見誤らず、ただ過去を懐かしむだけなく、新しい未来に向かって進んでいきたいです。
今日の水曜祈祷会は使徒の働き14章から。パウロの第一次宣教旅行は、行く先々で大勢の人々が信じると同時に、信じようとしない者たちによる迫害が起きました。パウロたちの宣教がいかに影響力があったのかが伝わってきます。そんな彼らがリステラで出会った足の不自由な人の出来事は心に残りました。彼は生まれつき足が動かず、これまで一度も歩いたことがありませんでした。彼はパウロたちの話しに真剣に耳を傾け、パウロたちも彼が癒されるにふさわしい信仰があるのを見たので「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と命じると、彼は飛び上がって歩き出したというのです。彼のイエスを信じる信仰が彼を癒やしたのです。今の時代なら、通りすがりの誰かがその光景を動画に撮ってYoutubeにアップしたら、どれだけの人が見て信じるだろう…と不埒な考えが頭をよぎりましたが、やはり奇跡も大事ですが、みことばを信じる人が起こされることの大切さを思いました。
7月第三主日はハレファ・スルヤ師をお迎えして歓迎礼拝をささげました。「望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。」の御言葉からメッセージをしてくださいました。過去・現在・未来にある望みを覚えつつ、今ある苦難に耐え、1~2度ではなく、絶えず祈り続けていくことの大切さを語ってくださいました。個人的には、苦難に耐える召し、苦難に耐えることで奉仕をしている…というのが心に残りました。メッセージの中で前ジャカルタの知事のアホック氏の話しがありましたが、詳しいことがわかってよかったです。数年前、留学生のある学生が知事選のために祈ってくださいと話していたのを思い出しました。世界一のイスラム教国であるインドネシアでクリスチャンが役職に就くことの難しさ、大切さを考えさせられました。苦難は、忍耐を…品性を…希望を生み出す。この希望は神の愛が注がれているゆえに失望に終わることはないという約束を感謝します。
長い梅雨が明けて、猛烈な暑さがやってきました。日中は34℃まで上がったそうですが、これからさらに暑さは増してくるでしょう。コロナの感染も心配ですが、熱中症にも気をつけなければならない時期です。さて、教会のデボーションは使徒の働き13章になりました。アンティオキア教会から世界初の海外宣教師が派遣されます。このビジョンは彼らが教会で主に礼拝をささげている中で与えられました。そして、聖霊はこのために相応しい人物たちを聖別して送り出されたのです。神は今日でも礼拝の中で私たちに語られます。「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」神は今、私たちに何を語ろうとしておられるのでしょうか。明日は久しぶりの歓迎礼拝です。講師のハレファ・スルヤ師は学位、聖書知識はもちろん、謙遜で温かみのある先生です。ぜひご家族一緒に大きな期待をもって、主に礼拝をささげましょう。
水曜祈祷会はⅡ歴代誌19章から。アハブとの共闘で出陣したヨシャファテは九死に一生を得てエルサレムに帰還すると、有害無益な北王国の訪問をやめて、内政に専念しました。偶像の除去、律法の教育、主への恐れをもって歩むという王の思いが国中に浸透していきます。そんな平穏な南ユダに、モアブ人とアンモン人らの連合国が攻めてきました。この国家危急の時にヨシャファテ王は恐れを抱きつつも、いつものごとく主の宮に来て祈りを捧げました。「私たちは苦難の中からあなたに呼ばわります。あなたは聞いて、お救いくださいます。」神はその祈りに応えて「主の救いを見よ」と約束されました。まさにこれは神の戦い、信仰による勝利でした。さて、ハートフル英会話春期コースも今日が最後のクラス。朝から30℃近くまで上がって、午後は梅雨明け前の不安定な空から、時折バケツをひっくり返したような雨が…。いざという時のために、日頃からの備えが大切です。
東京は4度目となる緊急事態宣言が発令されました。本当に飲食店や観光業をはじめ多くの事業主が悲鳴を上げていることでしょう。2021年上半期の倒産件数も過去50年間ではバブル末期に次ぐ二番目の低水準だったそうです。父と自営業を営んでいた頃を思い出します。また、新型コロナの感染者数も東京が830人、大阪も225人といずれも前週の火曜日の数値を大きく上回ってきていて、第五波は五輪の真っ最中に来るとも言われています。これで大阪も緊急事態宣言が発令されてしまったら、また教会でも来会自粛をお願いしなければならなくなることも考えられます。このタイミングになりましたが、昨年9月に結婚で別の教会に移っていった青年と奥さまに久しぶりに再会しました。元気そうで何より。初々しい生活ぶりを見せてもらいながら、今後に考えているビジョンを聞いて頼もしさを感じました。大きな決断をするのが難しい時期ですが、主の最善を心より祈っています。
Ⅱ歴代誌18章から。晩年は主から離れてしまったアサ王に代わって、息子ヨシャファテが南ユダの王位を継承しました。彼については多くの章を使って詳しくその治世が記されています。その生涯の大半は信仰深い、賢明な王の姿として描かれているのですが、やはり分岐点となったのは北イスラエルのアハブ王と姻戚関係を結んだことです。これによってヨシャファテは続く世代に大きな災厄を呼び込んでしまうことになります。まさに取り返しのつかない大きな罪悪をダビデの家に、そしてユダの国にもたらしていくのです。一つの判断、選択の誤りから、その後の人生、歴史を大きく変えてしまうことがわかります。人生のターニングポイントでどのような選択をするか…。「ヨシャファテは…言った。『まず、主のことばを伺ってください。』」信仰者の道も、晴れの日もあれば、雨の日、曇りの日もあります。それでもまず第一に主のことばを求める者でありたいものです。
7月第二主日、日中は30℃を越える夏日となりました。今日から礼拝ではヨナ書を講解していきます。「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。」主の召命がヨナに下りました。でも、ヨナはそれに背いて、ニネベとは正反対のタルシシュ行きの船に飛び乗ります。ニネベと言えばイスラエルにとっては悪しき敵国。憐れみ深い神がこの国を顧みるために自分を遣わすのだと思うと、ヨナとしてはどうしても従う気になれなかったのでしょう。そんな主の御顔を避けて、できるだけ遠くへ逃れようとするヨナの姿は、今日の私たちの姿とどこか重なってきます。そこがこの短い預言書が多くの方に愛される理由なのかもしれません。礼拝が終わって一人の女の子が質問に来てくれました。『どうして心の貧しい人がさいわいなんですか』私なりに説明すると、笑顔を見せてくれたので感謝でした。午後からは大学生からパソコンの操作を学んで…充実した主の日でした。
東京五輪開幕まであと二週間、東京都で4度目となる緊急事態宣言の発出が決まり、さらに首都圏一律で無観客が決定しました。あちこちで落胆の声が上がっていることでしょう。また、これによる経済損失も計り知れません。熱海の土砂災害の復旧を祈りながら、今日も各地で大雨警報が発令され、気分も暗くなります。こんな時は日々のデボーションで励ましを…と思いますが。Ⅱ歴代誌14章から、南ユダのレハブアムの後を継いだアビヤ王、その後を継いだアサ王と、それぞれに目を留める出来事もあり、比較的落ち着いた時期を迎えましたが、その最後には主へのつまずきが記されていました。「あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自分を示してくださいます。」自分が願うような励ましではなくても、神が歴代誌を通して告げられるメッセージを素直に受けとっていきたいと思います。
熱海で起きた土石流は4日目を迎え、死者7名、安否不明者27名となりました。もはや毎年のようにどこかで豪雨災害が起きています。安否不明者の確認と復旧が少しでも早く進みますようにお祈りしています。昨日もハンガーゼロの災害セミナーに参加しましたが、教会の責任と宣教について考えました。あらためて箕面市のハザードマップを見直すと、教会も危険度1の地域にあります。発災時に何ができるのか…地域にどんな貢献ができるのか…具体的な備えをしておかなくてはなりません。豪雨災害だけではなく、南海トラフは今後20年以内に70~80%。首都直下型地震も今後30年で70%、富士山噴火も連動して発生することなどが予想されています。神の愛と救いを地域に宣べ伝える教会として、有事の際こそその行動がとれなければ意味がありません。平時の時だけ主を賛美するのでなく、危急の時にも「主は正しい」とへりくだって証しできる者でありたいと思います。
教会のデボーションはⅡ歴代誌11章から。ソロモン王が死んで息子レハブアムが王位を継承しました。でも、彼の時代に王国は南北に分断し、乱世の時代を迎えていきます。それにしてもレハブアム王のわがままぶりは目に余るものでした。民の窮状に目を留めず、父ソロモンをも軽くあしらい、自分が偉大な存在であるかのように振る舞います。「三年の間、彼らがダビデとソロモンの道に歩んだからである。」かろうじて三年間は、神の人シェマヤの声に従って、王権を回復させていきますが、やがて主の目に悪であることを行い、主の懲らしめをうけることになるのです。『金持ち三代』とも言いますが、祖父ダビデの信仰遺産は孫のレハブアムには受け継がれませんでした。困難の中にいる時よりも、繁栄の中にいる時の方が信仰的には危険も多いということなのでしょうか。自分が神の戒めに逆らうだけでなく、子どもたちにも逆らわせた責任は重いと言わざるを得ません。
7月第一主日は梅雨の晴れ間の一日でした。コロサイ人への手紙もついに終わりのあいさつから。改めて思うのは、この時のパウロはローマの牢獄に捕らえられ、裁判を待っている状態だったことです。でも、この手紙にはそんな苦難の中の嘆き節は一切見られず、恵みに始まり、恵みをもって閉じられています。パウロは代筆者を介して、コロサイの教会を思いながら一つ一つの言葉を丹念に選んで手紙を記していったのでしょう。そして最後に記したのは自分と一緒にいる同労者たちの消息でした。ティキコ、オネシモ、アリスタルコ、マルコ、ユストと呼ばれるイエス、エパフラス、ルカ、デマス…ともすると何気なく読み飛ばしてしまいそうな名前の羅列ですが、その中にもパウロの伝えたいメッセージが込められていました。私たちも一人ひとり、至らぬ点や不甲斐ないところもありますが、主にあって新しくされ、互いに助け合い、祈り合う交わりであることを感謝いたします。
早いもので2021年も折り返しを迎え、今日もハートフル英会話クラスから楽しそうな笑い声が聞こえてきました。コロナ禍も少しずつ変化がありますが、まだまだ余談の許さない状況が続きます。少し前の大阪のように、東京の感染者も増えつつあり、23日からのオリンピック開催時には1000人台になることが予想されています。厳しい現実が続きますが、下を向かず、目を高く上げて歩んでいきたいものです。教会のデボーションはⅡ歴代誌8章から。ソロモンは神殿建設という大事業を成し遂げ、王国に平穏をもたらしました。「安息日ごと…日ごとの定めにしたがって献げた」壮麗な神殿において心からの礼拝を献げる日々が続いたことでしょう。でも、そんなソロモンもやがて主の道から反れて、彼の死後、王国は南北に分断、霊的堕落の一途を辿っていきます。勝って兜の尾を閉めよ、とはよく言ったものです。「目を覚ましていなさい」という主の声が聞こえてくるようです。
ヘレンは視覚と聴覚の重度のハンディキャップを持ちながら、3つの博士号と、3か国語をマスターした「20世紀の奇跡」とも言われた方です。彼女はサリバンというクリスチャンの家庭教師と出会い、人生が大きく変わりました。サリバンは聖書を読んだことがない、教会に行ったこともない彼女にどうやって神さまのことを教えられるだろうか…思案していました。そんな時、ある牧師がサリバンに言います。『心配いりません。目が見えず、耳が聞こえず、話すことができなくても、人間である限り、彼女にも必ず神さまのことがわかります。』ある日その牧師がヘレンのもとを訪ね、サリバンの掌にする通訳を通して熱心に信仰について話すと、彼女はこう言いました。『先生。私はそのことを前から知っていました。ただ、その方が神さまという名前であることを今初めて知りました。』その場にいた人々はみな驚いて神を崇めたそうです。今日はそんな彼女の天国凱旋日でした。
5月第五水曜祈祷会、朝はヨシュア記6章から御言葉を心に留めました。難攻不落のエリコの城壁を前に、主はヨシュアに言いました。「見よ、わたしはエリコその王、勇士たちをあなたの手に渡した。」つまり主の目にはすでにエリコは陥落し、ヨシュアの手に渡していると言われたのです。後はヨシュアたちがその約束を信じて前進するだけでした。私たちも目の前に大きな問題が立ち塞がっても、主のことばに愚直に従う信仰を持ちたいものです。また、イエスさまはペテロとヤコブとヨハネを連れて高い山に登り、光り輝く姿に変貌されました。それを見たペテロは何を言ったらよいか分からなくなるほど恐怖に打たれたとあります。すると雲の中から「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」という声を聞いたのです。神は私たちの頭の中だけの方ではなく、実際に現れてくださる方です。今日は久しぶりに安宣教師とテファン兄が朝の祈祷会に来てくださいました。
今日は午前にキリスト教葬儀社ライフワークスのYouTube撮影がありました。『葬儀』の視点から地域教会を紹介するという企画です。結婚式にもキリスト教式、神前式、人前式があるように、葬儀式にも仏式だけでなく、キリスト教式があることを知ってほしいと、私は常々思っています。規模は違いますが、先日のエリザベス女王の国葬がTV等で放映され、キリスト教式葬儀の素晴らしさを知った方も多くいます。教会によって若干考え方の違いはありますが、まずは相談してみて頂けたらと思います。また、午後は『旧約聖書を学ぶ会』がありました。創世記48章から、ヤコブは自分の死期が近づく中で、二人の孫を引き寄せて、頭に手を置いて祝福を祈りました。そこで普通なら右手(権威を示す)を兄マナセの上に置くところを弟エフライムの上に置いたのです。なぜと思うところですが、この辺りが神の選びの不思議さです。一筋縄でいかないところが聖書の奥深さなのです。
5月第四主日、蛍池聖書教会の森田悦弘師をお迎えしてメッセージをとりついで頂きました。詩篇23篇から、私たちには人生の羊飼いである方が必要であること、主は私たちのために先々に恵みを準備してくださっていることを語ってくださいました。私たちが恵みを求めて探し回るのではなく、羊飼いである主がすべてを準備をして、それがまるで自分を追いかけてくるようだというのです。人生は、緑の牧場や憩いのみぎわばかりではありません。むしろ、わざわいや死の陰の谷を歩むような時があります。それでも主がともにおられるという慰めと平安が私たちにはある、わが杯はあふるるなり、です。終始穏やかな口調で、丁寧に語ってくださったのが印象的でした。私は蛍池聖書教会のオープンチャーチ礼拝でメッセージを取り次がせていただきました。温かい雰囲気の教会で幸いな交わりをさせていただきました。私たちの教会にいた姉妹にも久しぶりに会えて感謝でした。
5月は日本各地で地震が相次ぎました。今週だけでも震度3以上が9回、震度5弱が2回観測されています。いざという時のために非常品や避難場所を確認しておくことは大事です。考えたくないことですが、南海トラフ大地震は30年以内の発生確率が70~80%と言われています。もし明日の天気予報で降水確率が70~80%と言われたら必ず傘を持参するはずです。ところで、道に迷いやすい私たちは人生における正しい道に導いてくれる羊飼いが必要ではないでしょうか。明日の礼拝はキリスト教暦ではペンテコステですが、私たちの教会では歓迎礼拝として献げます。初めて教会に来られる方や、久しぶりに来られる方にお勧めです。明日は特に、蛍池聖書教会の森田悦弘牧師をお迎えしてメッセージをとりついでいただきます。Youtubeでも視聴することができますが、やはり実際に教会で聴くメッセージは特別な神の語りかけとなるでしょう。ぜひ明日の歓迎礼拝にお越しください。
今日から教会のデボーションはヨシュア記1章に入りました。ヨシュア記はモーセの後継者となったヨシュアが主の助けと導きによって、イスラエルの民とともに約束の地カナンに入り、その地を占領していく歴史です。本書を読む上で注意したいのは、これまで様々な民族が繰り返してきた外国侵略の一つのように解釈してはならないことです。これはあくまでも、神がご自身の約束を実現するための、神の贖いの計画に基づいた特殊な出来事であることです。ヨシュア記を例にとって聖戦思想を振りかざすことは、現代のいかなる国にも許されていません。今は、平和をつくる者は幸い、平和の福音を宣べ伝える時です。「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」私たちは今何を恐れ、何におののいているのでしょう。神の告げられる命令には必ず約束があるのです。
五月第四水曜祈祷会、午前は創世記50章から、午後はマタイ16章から、聖書の言葉を学びました。父の寵愛を受けていたヨセフは兄たちの嫉妬を買い、エジプトの商人に売られ、牢獄に入れられ、人に裏切られ…なんとも悲惨な人生を歩みました。それでもヨセフは神につぶやくこともなく、置かれた所で精一杯仕えました。主はそんな彼とともにおられ、やがて時至ってエジプトの王ファラオの夢を解き明かすことで、エジプトの宰相となり、未曽有の災害から全世界を救ったのです。神はそんなヨセフに父ヤコブをはじめ兄たちとの再会の時を備えておられました。それはまるで天国での再会を思わせるような感動の場面でした。ヨセフは苦難の人生を歩みましたが、神はそれを良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。人生は何が起こるかわかりません。すべてをご存知である神の計画を信じて歩みましょう。
5月第三主日、礼拝メッセージはⅠペテロ1:13‐25~。ペテロは試練の中にあるキリスト者たちを励まし、力づけるメッセージを書き送りました。私たちはキリストを信じる信仰によってすでに救いにあずかり、聖化の段階を経て、やがて栄光のからだに変えていただくことが約束されています。「ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」そのために聖なる者となること、神と父として敬うこと、互いに熱く愛し合うことを教えました。『聖なる者』とは、『聖人君子』のことではなく、他とは区別された者、神のものとなるということです。私たちは生きている限り、罪の誘惑が絶え間なく襲ってきて、その他に試練があり、苦難があり、信仰が試される場面がいくつもあります。でも、聖化の段階において大事なのは神への従順さです。神は私たちを救いの完成まで必ず導いくださるからです。
久しぶりにキリシタン遺物資料館に行ってきました。資料館は教会から車で20分程の所にあるのですが、今日は知人の教会の方々が奈良から来られるというのでお邪魔させて頂きました。今は『ザビエルのはこー隠し続けたキリシタン遺物ー』という企画展を行っていて、歴史を感じる貴重な遺物の数々が展示されています。思えば10数年前に神学校の先生と一緒に来た時には、大神さんという家を訪問させて頂いて、年配のご婦人がおもむろに風呂敷包みの中から厨子入り象牙彫りキリスト磔刑像や紙本銅版画などなど珍しい遺物を見せていただきました。他にも、400年以上前のキリシタンの墓碑を探索したことなど懐かしい思い出がよみがえってきました。1549年に日本に初めてキリスト教が伝来し、ザビエルをはじめ伴天連、伊留満たちによって広められ、高山右近をはじめキリシタン大名まで現れた時代…、命がけで信仰を守り通したキリシタンの息吹を感じて帰ってきました。
5月第三水曜祈祷会、このところ気温がグングン上がって日中は30度を超える日が続いています。教会前の花たちも力強く咲き誇り、見る者の心を励ましてくれています。創世記45章~、ヨセフがいよいよ兄弟たちに自分の身を明かす場面です。兄弟たちが過去の罪を悔い改めていることを知って、ヨセフは自分を制することができず、声をあげて泣き、「私はヨセフです」と告げると、兄たちは驚きのあまり答えることができませんでした。ヨセフが兄弟たちに売り飛ばされてしまってから20年あまりの年月が経ち、ヨセフが生きていただけでも驚きなのに、事もあろうにエジプトの宰相になっていたのです。「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神があなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」ヨセフはここまでの苦労もすべて神の導きであったことを確信して、兄たちと真の和解を分かち合ったのです。
教会のデボーションは創世記44章~。ヨセフは兄弟たちが父ヤコブと弟ベニヤミンのことをどう思っているかを知るために、銀の杯を盗んだ嫌疑をかけました。兄弟たちは自分たちの潔白を主張しますが、杯はベニヤミンの袋から見つかり、ヨセフの前にひれ伏して赦しを請います。以前、ヨセフが夢で見た光景がこのような形で成就したのです。兄たちは自分たちの過去の罪を神が暴かれたのだ…と悟らされ、正直に悔い改めました。そして、ユダはベニヤミンの代わりに自分が奴隷となりますので、弟を家に帰してあげてほしいと必死に訴えたのです。私たちも自分でどうすることもできない状況に追い込まれて初めて罪の重さに気づかされるということがあるのではないでしょうか。罪は蓋をして心の奥にしまい込んでいても…決して解決には至りません。そこに光があてられるのは神が私たちを本当に愛し、取り扱っているしるしです。真の悔い改めには必ず赦しがあるのです。
5月の第二主日、今日は母の日歓迎礼拝でした。朝から小雨が降る中でしたが、今日も3つの礼拝に大勢の方が来られました。メッセージはⅠペテロ1:6-12~。「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが」手紙の受取人であるキリスト者たちは、異教社会にあって、迫害を受け、試練の中にありました。ペテロはそんな彼らを励まし、力づけ、希望を与えるためにこの手紙を書いたのです。私たちの人生も、様々な時があり、艱難辛苦、苦しみと悲しみがあります。それはキリスト者であろうとなかろうと襲ってくるものです。でも、この手紙を読んでいるあなたがたには「望み」があると言います。そして、その望みの源にあるのが「救い」です。今日は午後から洗礼式もあって、一人の兄弟が救いの証しをしてくれました。人生の大切な場面に立ち会わせて頂いて…私も信仰の初心を思い出しました。
教会のデボーションは創世記43章~。ヤコブの息子たちは再びエジプトに戻るには、弟のベニヤミンと一緒でなければならないと言いました。父ヤコブはそれだけはできない…と言っていましたが、ユダの必死の説得によって観念し、承諾しました。ヤコブは「全能の神が…おまえたちを憐れんでくださるように」と祈りをもって彼らを神の御手に委ねたのです。明日は母の日。(起源には諸説ありますが…)1905年5月、アメリカのあるひとりの女性が亡き母の記念会で来会者にカーネーションを送りました。その習慣がやがてアメリカ全土に広がり、1914年に正式に5月第二日曜日が母の日として制定され、今も世界中で祝われているのです。『親思う心に勝る親心』と言いますが、あらためて自分を産み、ここまで育ててくれた母への感謝を表したいものです。明日は教会でも母の日歓迎礼拝があります。女性の方にはお花のプレゼントを用意しています。ぜひお出かけください。
新型コロナウィルスの感染症法上の分類が季節性インフルエンザと同じ『5類』に移行されたことを受けて、教会も、感染対策の緩和か、継続かで今後の対応を話し合っています。2020年のコロナ感染拡大から、三度の緊急事態宣言、来会の自粛など、かつてない問題に手探りでオンライン配信を始めました。最初は通信エラーのようなこともよくありましたが、皆さまにもご忍耐いただいて少しずつ機材も環境も整ってきました。また、これまでいろいろな事情で教会に来れなかった兄姉が自宅から礼拝や祈祷会を視聴できるようになったことで大変喜んでくれました。コロナがなければ考えもしなかった方法ですが、多くの方々とつながり、一緒に福音を分かち合えるようになったことは大きな恵みです。だからこそ、この先の展開も重要だと思っています。よく祈りつつ、天国での礼拝を思い描きながら、教会のリアルな礼拝も、オンライン配信も充実させていきたいと思います。
5月第二水曜祈祷会、朝は創世記41章46節から、夜はマタイ14章22節からみことばを心に留めました。ヨセフは奴隷からエジプトの宰相になった人ですが、決して権威にあぐらをかくことなく、エジプト全土を巡って、人々の暮らし、町の状況を調査し、7年の大豊作、7年の飢饉に備えました。神はそんなヨセフを通して多くの人を飢饉から救われたのです。また、弟子たちはイエスさまに命じられて、舟に乗り込み、向こう岸に向かったところ、向かい風に悩まされて何時間も苦しみました。『イエスさまに言われて舟に乗ったのに…なぜですか…なぜこんな時に一緒にいてくださらないのですか…。』と思ったでしょう。イエスさまはそんな彼らの前に現れて「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。そしてその結果、彼らは「まことに、あなたは神の子です」という信仰告白に導かれたのです。神の霊的な訓練にいつも無駄はないことを思わされました。
教会のデボーションは創世記41章~。ヨセフが牢獄で献酌官と料理官の夢を解き明かした時から二年が過ぎました。献酌官は元の立場に戻りましたが、ヨセフのことは全く忘れていたようです。でも、神はヨセフを忘れることはなく、彼にとってのベストのタイミングを準備しておられたのです。ある時、エジプトの王ファラオは不思議な夢を見ました。その夢が気になって解き明かせる者を捜しましたが、だれにもできません。そこで献酌官がヨセフのことを王に知らせ、結果、見事に解き明かしました。こうしてヨセフはその功績が認められ、王によってエジプトのNo.2の地位に抜擢されたのです。「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」自分の思い通りにならない時も、ヨセフは神への不平をもらしませんでした。神はそんな彼を顧みられて、ちょうど良い時に高く上げられたのです。
5月第一主日、雨足が強い中でしたが、今日も大勢の方が礼拝に来てくださいました。メッセージはペテロの手紙第一から。失敗と回復を経験したペテロはペンテコステ以降、使徒として多くの人に福音を宣べ伝え、初代教会のリーダーとなっていきました。そんなペテロから、現在のトルコ北西部に散って寄留しているキリスト者たちへの手紙。ペテロは冒頭で、受取人たちが試練と迫害の中にあっても生ける望みを持つことを期待しているのがわかります。それは新しく生まれさせる望みであり、資産として天に蓄えられている望みであり、神の御力によって守られている望みです。過去、未来、現在において、今も脈々と息づいている望みの中に、私たちもいることを心に留めました。ブラウニングの言葉、『われとともに老いゆけよ。幸いはなお未来にあり。』苦難が忍耐を、忍耐が品性を、品性が希望を生み出す。今週もこの聖書の約束をにぎって、歩んで行きたいと思います。
今日、WHOが新型コロナの『緊急事態宣言』を終了すると発表しました。3年3カ月ぶりの宣言解除です。日本でも連休明けから『五類感染症』になるということでコロナ対策も一つの節目を迎えます。但し、これでコロナがゼロになるわけではないので、高齢者や持病のある方も来られる教会ではマスク着用や手指消毒などは続けてお願いしていきたいと思っています。また最近は、ウィズコロナ、アフターコロナをテーマにしたものをよく見ますが、役員会などでもずっとこのことについて話し合ってきました。コロナ禍になって大きく変わったのは、礼拝の時間短縮、回数、オンラインの導入です。特に、オンライン礼拝に関しては教会によって様々な考え方があるようです。今のところ私たちの教会では終了することもなければ、限定配信に切り替える予定もありません。いろいろな諸事情で教会に来れない方をはじめ、一人でも多くの方に礼拝をご視聴頂きたいと思っています。
だれでも人生に一度や二度…九死に一生を得るという体験をするのではないでしょうか。少しオーバーですが、私も幼い頃、真夏に傷んだおにぎりを食べて食中毒になったことがあります。母親が気づいた時には意識もなく、父親が慌てて近くの病院まで連れて行ってくれたそうです。わんぱく坊主でしたので、それぐらいは日常茶飯事だったのかもしれません…。さて、父ヤコブは12人の息子たちの中で特にヨセフを寵愛していました。それは愛妻ラケルの忘れ形見でもあったからです。それを快く思わない兄たちは、ついに弟ヨセフの殺害計画を立てました。もはや万事休すという時に、ユダという兄が「弟を殺し、その血を隠しても、何の得になるだろう。」と通りがかったエジプト隊商に銀20枚で売ってしまったのです。何とも痛ましい事件ではありますが、結果的にヨセフが命拾いをしたのは間違いありません。ここから想像もしなかったヨセフの物語が始まっていったのです。
だれでも自分の人生を振り返ってみる時があるのではないでしょうか。自分の人生とは何だったのか…これから何をすべきなのか…考えてみるとあらためて気づかされるものがあります。ヤコブは22年前に死んだと思っていた息子ヨセフと再会しました。しかも、その息子が未曽有の大飢饉の中で、エジプトの宰相となって自分の前に現れたのです。「もう今、私は死んでもよい」と思ったのも無理はありません。でも、ヨセフはその先の未来を見据え、家族が安心してエジプトで暮らせるように、さらにエジプト全土のことも考えて真実を尽くて仕えました。ファラオから「あなたの生きてきた年月は、どれほどになりますか」と聞かれたヤコブは、人生に神の導きを思わずにはいられなかったことでしょう。最愛の息子に先立たれ、絶望を感じた人生が、思いも寄らない祝福に溢れる人生に変えられてたのです。ヤコブの生涯は、最後まで主に信頼し続ける者の幸いを教えています。
4月第五日曜、今日は創立29周年記念礼拝を献げました。礼拝メッセージはヨハネ21章から。復活の主がペテロに個人的に声をかけられた箇所。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか。」ヨハネの子シモンは彼の本名であり、ペテロは彼が弟子になった時にイエスさまがくださった名前でした。でも、イエスさまが捕らえられた夜、ペテロは怖くなって自分からその名前を捨ててしまいました。「私はあの人の弟子ではない…」あの夜のことがペテロの心の傷として残っていたでしょう。だからこそイエスさまは彼の心の傷を癒し、関係を回復されるために三度同じことを問われたのです。ペテロはイエスさまに「わたしに従いなさい」と言われて、あらためて弟子としての召命を頂きました。私たち教会にとっても創立29周年に相応しい御言葉でした。礼拝には初めての方や久しぶりの方も来られて、70名を超す来会者がありました。さぁ、次はいよいよ30周年です。
今春、私たちの教会は創立29周年を迎えました。牧落駅の借家で初代牧師の安碩珠宣教師と数名の信徒たちの祈りから始まった教会です。開所式をした翌年には阪神淡路大震災も発生し、教会としても大変な船出だったと思います。それでも、母教会の茨木聖書教会の強力な支援もあって、新しくクリスチャンになる方々が起こされ、教会は少しずつ成長を遂げていきました。二代目の松村牧師になってからは教会堂も西小路のビルのテナントに移転し、日曜礼拝はもちろん英会話に集う方々も徐々に増えていきました。2006年には三代目牧師として私たち夫婦が遣わされ、最初から明るい家庭的な雰囲気を感じたことを思い出します。あれから17年…教会は箕面4丁目に移転し、教会堂を持つようになり、先日の礼拝には60名を超す方々が来られました。これまでの神さまの導きを感謝するとともにますます地域の方々に安心して来ていただけるような教会になっていきたいと思います。
Know this,my beloved brothers: let every person be quick to hear, slow to speak,slow to anger. (James1:19) 今日は beloved brother の一語が特に心に留まりました。ヤコブは「私の愛する兄弟たち」と呼びかけます。あなたは愛されていますよというのです。毎週教会に来られる方々と何気ないおしゃべりができるのは本当にありがたいことです。このところ新型コロナも落ち着いてきて、いよいよゴールデンウィーク明けには季節性インフルエンザと同じ5類に引き下げることも決まりました。もちろんまだ油断はできませんが、教会でみんなで一堂に会する日が待ち遠しいです。「人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。」ここには、聞くhear、話すspeak、怒るangerの3つの動詞が出てきます。すぐに怒らないで、文句を言わないで、まず相手の話しをよく聞くことが大切です。聖霊さまに助けていただいて、主のような柔和な者になりましょう。
4月第四水曜祈祷会、朝は創世記33章から、夜はルカ5章から。ヤボクでの格闘によってヤコブは心砕かれ、兄エサウの前に心からひれ伏して近づいていきました。そんなヤコブをエサウは自分から迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけしたとあります。20年ぶりの主にあっての兄弟の和解でした。まさに「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」の御言葉が心に響いてきました。また、夜通し働いて魚一匹捕れなかったペテロに、イエスさまが「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」と語られました。人間の常識では全く無駄と思われることでしたが、ペテロは「先生、お言葉ですから…」と網を下ろしたところ、おびただしい数の魚が捕れたのです。そこでペテロは心砕かれ、イエスさまの弟子となることを決めたのです。「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。」
教会のデボーションは創世記32章から。叔父ラバンの一隊があきらめて温和しく帰っていくのを見届けると、ヤコブたちは安心して一路故郷へブロンへの道を進みます。ただし、帰る先には父とともに兄エサウが待っています。兄は20年前の事をまだ恨んでいるのではないか…。次第にヤコブは恐れを抱き、あの手この手と兄の心を宥める作戦を考えます。それでも不安が拭えないヤコブのもとに、ある人が現われて、夜明けまで格闘しました。「ある人」とは神の使いと考えられます。ある人は不安な状態にあるヤコブを力づけるとともに、傲慢にならぬようにとももの関節を外して、彼の自我を砕かれました。ヤコブはそのような中で神の祝福なしに生きていくことができない自分を発見したのです。今日は全国キリスト災害ネットの全体会がZoomで行われました。講師の先生が、災害支援の働きは災害よりもそこに現れる神の愛を見ることですと言われたのが大変心に残りました。
4月第四主日、清々しい青空が広がる一日でした。礼拝メッセージはヨハネ21:1-14から。ガリラヤ湖畔でペテロたちが復活の主と再会する場面。弟子たちは久しぶりに漁に出ましたが、その夜は何も捕れませんでした。イエスさまは岸辺から彼らを見ておられ、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」と言われました。彼らがその言葉通りにするとおびただしい数の魚が捕れたのです。ヨハネはすぐに「主だ」と気がつき、ペテロは慌てて湖に飛び込みました。イエスさまは「子どもたち。食べるものがありませんね」と声をかけられ、彼らのために朝食の用意して待っておられたのです。何気ない日常の場面の中にも、復活の主はいつもともにおられて、私たちのあらゆる必要に気遣って備えてくださることを思いました。右側に網を打つ…それは主を信頼してその言葉に従うことを意味しています。主にすがるわれに悩みはなし♪今週も主とともに歩んでいきましょう。
教会のデボーションは創世記31章に入りました。ヤコブはついに叔父ラバンの家を出て、故郷に帰る決心をしました。それはラバンのヤコブに対する態度が変わってきたことと、何より主の語りかけを聞いたからでした。ヤコブは立って、家族とともにラバンの家から逃げ出して故郷に向かいます。三日後、ラバンもヤコブたちの逃走を知り、身内の者たちを率いて追跡します。そして、ヤコブに追いついたその夜、神は夢でラバンに仰せられました。「あなたは気をつけて、ヤコブと事の善悪を論じないようにしなさい。」もしこの神の介入がなければ、ヤコブは大変な目に遭っていたでしょう。でも、神は「どこへ行っても、あなたを守る」という約束を守られたのです。最近、夜に『証し』という本を読んでから休みます。1000ページを超える大書ですが、一つ一つは短い証しなので読みやすいです。神は今も私たちの人生に介入してくださるか否かを知りたい方にはお薦めです。
初夏を思わせるような暖かな一日でした。今日もハートフル英会話のクラスから楽しそうな会話が聞こえてきました。ある受講生の方から『イースターエッグってなんですか』と質問がありました。イースター(Easter)という言葉は、ゲルマン民族の春の女神エオストレEastreを崇める春祭りから派生した語とされています。元々春の訪れを喜ぶ北部ヨーロッパの古宗教を当時のローマ教皇がキリスト教文化に積極的に取り入れたところから定着したようです。春は冬枯れから新しい生命が一斉に芽生える季節。死から命が与えられる復活のイメージにピッタリです。クリスマスの日を、太陽神を祭る冬至の習慣から取り入れた経緯と似ています。さて、卵ですが、固い殻の中から、新しい生命が誕生するところから、復活、永遠のいのちと結びつけられたようです。他にも、ウサギ、ひよこ、ゆり、棕櫚など、いずれも春の喜びを、イースターの喜びと重ねて用いているものがあります。
4月第四水曜祈祷会、朝は創世記30章から、夜はⅠコリント15章からみことばを心に留めました。姉レアと妹ラケルの熾烈な骨肉の争いの中にも、主は彼女たちの祈りを聞かれてご自身の御心を行われることを見ました。なぜこんな不名誉とも言える記述があるのか…と思いますが、それも聖書が信頼性できる理由の一つでしょう。また、夜はジャズをこよなく愛する兄弟がリードをしてくださって、『キリストの復活は本当なのか』をテーマに分かち合いました。兄弟は、音楽と出会って、突き詰めていった先にゴスペルがあった…と証ししてくださいました。そのゴスペルの根幹にあるのがイエスキリストの復活です。以前ある未信者の方と話している時、『キリストの復活だけは信じられない』と言われたことがありますが、ここを外してしまったら福音ではなくなってしまうのです。「もしキリスト甦へり給わざりしならば、我らの宣教も空しく、汝らの信仰もまた空しからん。」
教会のデボーションは創世記29章から。住み慣れた地を後にしてヤコブはハランへと旅立ちました。その道中、ヤコブは夢の中で主の語りかけを聴きました。「わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。」主の一方的な恵みの約束でした。ヤコブはこうして旅を続け、ハランの近くの井戸でラケルと運命的な出会いをします。ラケルは叔父ラバンの娘で、早速、彼女のために7年間あなたに仕えると約束しますが、7年後に待っていたのはラケルの姉レアと結ばれることでした。ヤコブはまんまと騙されて、さらに7年間仕えることになりました。かつて兄エサウを騙したヤコブは、今度は自分が騙されることになったのです。人を欺く者は、人によって欺かれるもの。まさにヤコブは自分が蒔いた種の実を刈り取ることになったのです。だれもが失敗や過ちを繰り返すものですが、大事なのはそこから何を学び、どう立ち直るかです。
4月第三主日、礼拝メッセージはヨハネ20:19‐29。イエスさまが殺されてしまった後、次は自分たちの番かもしれないと弟子たちは恐れて一室に閉じこもっていました。復活の主はそんな彼らの真ん中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われました。彼らは驚きましたが、十字架の傷跡を示され、主のよみがえりを確信したのです。一方、その場にいなかったトマスは、他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言っても、自分の目で見て、手でさわらなければ決して信じないと宣言しました。トマスは正直な者で、自分を偽ることができなかったのです。イエスさまはそんなトマスの前にも現れてくださって「わたしの手を見なさい」と彼の求めに答えられました。こうして真実な信仰告白に導かれたトマスに、イエスさまはさらに幸いな信仰の世界があることを教えられたのです。見て信じる信仰ではなく、見ずに信じる者の幸いに私たちもあずかっていきたいものです。
教会のデボーションは創世記27章から。聖書は今日的価値観ではなかなか理解に苦しむ箇所もあると思いますが、その一つでしょう。父イサクの祝福の継承をめぐって兄エサウと弟ヤコブが奪い合います。父イサクは年を取って目がかすみ、自分の好きな料理を持って来て祝福を求めているのが誰かわからずにいました。そこで弟は兄になりすまし、まんまと祝福を頂き、後から来た兄は自分への祝福が残ってないことを知り、弟を恨み、殺意に燃えるという展開。なぜこんな話しが聖書にあるのかと不思議に思います。ただ、今日はこの一節が心に残りました。「『お父さん、祝福は一つしかないのですか。お父さん、私を祝福してください。』エサウは声を上げて泣いた。」祝福を追求した弟、祝福を軽んじた兄。いつまでもあると思うな〇と〇…の教訓を思い出します。大事なものは無くなって初めて気づくものなのかもしれません。今ある幸いを、主に感謝して歩みたいものです。
今日からハートフル英会話春期コースがスタートしました。教会の中で行っている英会話クラスです。ネイティブ講師から、日常生活で使える英語から学習に役立つ英文法まで、しっかり学ぶことができます。大人クラス、キッズクラス、中高生クラスとありますのでまずは無料体験レッスンをお申し込みください。大人クラスでは隔週でチャペルタイムも行っています。今日はレイチェル先生がHot cross bunという甘い菓子パンを焼いてきてくれました(写真がなくてすみません)。オーストラリアではこの時期よく目にするそうです。チョコとレーズンの二種類があって、表面には十字架の飾りがありました。一緒にBibleを読みながら、改めて"Easter"って何の日かを考えました。日本ではまだ馴染みがありませんが、Christmasと並んで…それ以上に重要な教会の祝祭 Easter(復活祭)のメッセージはYouTubeでも視聴することができます。ぜひ日曜礼拝も体験してみてください。
4月第二水曜祈祷会、創世記26章から。アブラハムから祝福を受け継いだイサクの時代にも飢饉が起きました。イサクはゲラルのペリシテ人の王アビメレクのもとへ移動し、そこで主の声を聞きました。「エジプトへ下ってはならない。わたしがあなたに告げる地に住みなさい。…わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。」これらの祝福はイサク自身の功績によるものではなく、父アブラハムのゆえの祝福であり、神からの一方的な恵みの宣言でした。これほどの約束を受けていながら、イサクは父アブラハムと同じ過ちを犯し、妻リベカを妹と偽ります。でも、すぐにアビメレクにわかってしまい、なんとも惨めな結果となりました。その後も、イサクには祝福と試練が交互に起こってきてたびたび信仰が試されていったのです。どんな失敗をしても、主はお見捨てにはならないことを思います。むしろ、試練の中でこそ、信仰は試され、育まれ、成長させられていくのです。
関西キリスト災害ネットワーク・第八回懇談会がありました。関キ災は南海トラフ大地震をはじめ今後の大規模災害に備えて、関西のキリスト教会、キリスト者、キリスト教諸団体でネットワークを構築することを目的としています。2011年の東日本大震災以降、毎年のように各地で大規模な自然災害が発生し、もはやどこで何があってもおかしくない時代です。今回は看護師で防災士の山中弓子さんをお招きして、これまでの様々なご経験から防災に関する具体的なお話しをお聞きしました。特に女性目線で語ってくださることが、非常に有益でした。また、子どもたちやお年寄り、ハンディキャップを持った方々への配慮、「平等、公平」とは何か…など、日常生活でも心掛けたい大切なことを学びました。詳細はホームページでも公開していますので、ぜひご欄ください。災害は起こらないことに越したことはありませんが、これからもこうした活動を継続していきたいと思います。
4月第二主日、今日はイースター記念礼拝でした。一部、二部と大勢の方が来会され、4人の新来者がありました。礼拝メッセージはヨハネ20章1-18節から。週の初めの日、朝早くまだ暗いうちにマグダラのマリアは墓に行きましたが、そこにイエスさまの亡骸はありませんでした。墓の前で泣いているマリアの前に、復活の主が現われて「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」と声をかけられました。最初、マリアはその声を聞いてもイエスさまだとわかりませんでしたが、「マリア」という呼びかけに、思わず「ラボ二」と答えたのです。それは紛れもなくイエスさまの優しい呼びかけでした。主は今も私たちを十羽一絡げではなく、一人一人と関係を持ち、名前で呼んでくださることを思いました。今日はボンヘッファー牧師の召天日。「私にとってはこれが最後。しかし、また始まりである。」私も命ある限り、この信仰を人生の宝としていきたいと思います。
昨日までの雨も止んで、今日は青空が見えました。受難週の最後の土曜日、今日はヨハネ19章を読みました。イエスさまは十字架上で「完了した」と大声を上げ、頭を垂れて霊をお渡しになりました。それは死を前にした断末魔の叫びではなく、ご自分の使命をすべて成し遂げられた勝利宣言でした。イエスさまの亡骸は、アリマタヤのヨセフとニコデモの二人のサンヘドリンの議員が引き取りました。二人とも周りからの冷たい視線も顧みず、新しい墓にイエスさまを埋葬しました。ヨセフに関しては、ユダヤ人を恐れて主の弟子であることを隠していた…とありますが、イエスさまの十字架の死が彼に新しい一歩を踏み出させる重要な契機となったのです。今週、教会のある姉妹から『主人が受洗の決心をしました』と嬉しい報告がありました。『私は洗礼を受けません』とずっと仰っていた方なので、みんな聞いたら驚くでしょう。姉妹の長年の祈りがついに実を結ぶ時がきました。
4月第一水曜祈祷会、マルコ14章53‐72節。カヤパの「おまえはキリストなのか」という尋問に対し、イエスさまは「わたしがそれだ」とお答えになり、この証言をもって有罪が確定しました。つまり、イエスさまは自ら十字架への道を歩まれたのです。時同じくし、中庭まで様子を見に来ていたペテロに、大祭司の召使いの女が「あなたもナザレ人イエスと一緒にいましたね」と言うと、ペテロは思わず「何を言っているのかわからない…」と否定しました。二度、三度と…ペテロはイエスさまが自分に話された通り「知らない」と否定しまったのです。真理に立ち続けたイエスさまと立ち続けられなかったペテロの姿を覚えました。ペテロ本人しか知らないことが4つの福音書すべてに記されているということは、ペテロはこの時の失敗を幾度も語ったということでしょう。私たちも何度も失敗します。でも、イエスさまの赦しととりなしの祈りに支えられて…今があることを思います。
昨日はライフワークス社の新年度礼拝がありました。キリスト教精神に立った葬儀社の日頃のお働きに、関西の一教会の牧師として心から敬意を表します。いつもご遺族の気持ちに寄り添った葬儀をしてくださって、教会としても安心してお願いすることができます。確かに、葬儀自体は喜ばしいことではありませんが、召天者にとっては最後の証しの場、遺族にとっては天国の希望を覚える機会です。大切な家族や友人の旅立ちを見送る時…。そこで福音を語れるのはなんとも幸いです。「書き記せ、『今から後、主にあって死ぬ者は幸いである。』と。御霊も言われる。『しかり、その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。」なぜ、教会で行う葬儀には希望があるのか…多くの方に知って頂きたいと思います。私たちの教会は洗礼を受けておられない方の葬儀もお受けいたします。遠慮なく、ご相談ください。
今年も桜の満開の時期に受難週を迎えました。礼拝メッセージはヨハネ19章17節‐30節。イエスさまは十字架上で7つの言葉を語られましたが、ヨハネはその内の3つを記しました。まず母マリアと愛弟子に向かって「あなたの息子です。…あなたの母です。」という十字架のもとに新しい霊的関係を築かれました。神の家族の始まりがここに見られます。また、聖書が成就するために「わたしは渇く」と言われました。それは父が下さった苦難の杯を余すところなく飲み干されることを象徴しています。そして「完了した」と言って頭を垂れて霊をお渡しになりました。ここに私たちの救いに関わる一切のことが完了したのです。もはや動物を殺して捧げる必要もなければ、律法に縛られることもありません。今は恵みの時代、救いの日です。これはとてつもない出来事です。イエスさまという一粒の麦が地に落ちて死んでくださった故に、私たちに永遠のいのちがもたらされたのです。
教会のデボーションはマルコ14章から。マリアはイエスさまに純粋で非常に高価なナルドの香油を惜しみなく注ぎました。彼女の行動を見て、ユダをはじめ他の弟子たちはなんと無駄なことをするのだと憤慨しました。しかし、イエスさまは彼女をかばい、その行為を心から喜ばれたのです。人の見るところと神の見るところはこんなにも違うということを教えられます。「彼女は、自分にできることをしたのです。」マリアがした精一杯の行動は十字架に向かうイエスさまを励まし、ひとときの慰めとなったのです。果たして自分はイエスさまのために何ができるだろうか…と思わされました。今は自分のからだをもって心からの礼拝を献げること…御言葉に聴き入ること…ここに尽きるように思います。今日からいよいよ4月。そして明日は一年で最も重要な礼拝といっても過言ではない、受難週の礼拝です。本物のイースターを祝うためにも、ぜひお近くの教会に足を運びましょう。
早いもので、今年も3月が終わろうとしています。50歳を過ぎたころから薄々感じていていましたが、一年の体感時間が短くなっているようです。イエスさまも「明日のことまで心配しなくてよい…」と言われましたので、今日できることを一つずつやっていけたらと思います。新年度を迎える学生たちは環境が変わることで、気が重い人もいるでしょう。どうか無理をしないで、よかったら一緒に分かち合えたらと思っています。3月の旧約聖書を学ぶ会は明日に変更させていただきました。今週は葬儀式もあったので中止にしては…という声もありましたが、二人の方に『楽しみにしています』と言われましたので喜んでさせていただきたいと思っています。明日は死んだはずの息子ヨセフと父ヤコブの感動の再会の場面です。それはまるで天国での再会の光景を思わせてくれます。私たちもやがて天に帰りますが、そこで先に召された方々と再会する約束があるのはなんとも幸いです。
3月第五水曜祈祷会、午前はマルコ13章1節~、午後は16章19節~。イエスさまは終わりの日の前兆として、偽キリストの出現、戦争や戦争のうわさ、国家間の対立、天変地異が起こることを告げられました。それらはみな、すでに歴史の中で起きていると同時に今も終わりの時代であることを思います。形あるものは必ず終わりを迎える…それは私たちの人生も同じです。また、金持ちはなぜ黄泉に下り、ラザロはなぜ天国へ行ったのか…。当時、金持ちは神の祝福の表れ、貧しさは神の裁きの象徴という考えがありましたが、主はそうした考えを否定し、救いは恵みによることを教えられたのです。身体のハンデを抱えながら教会に通い続けられた兄弟の姿を思い浮かべました。苦難を通して信仰から離れてしまう人もいますが、兄弟はますます信仰が強められていきました。『父がなぜあれほど教会に行きたがっていたのかがわかりました…』というご家族の言葉が心に響きました。
教会のデボーションはマルコ12章38節から。イエスさまはここで律法学者に対する警告とやもめの献金という二つの事柄を通して、誰が誠実に神の教えに生きているかを記しています。律法学者たちは、人々に神のことを教えながら、自分たちは人間的な称賛を求め、弱い人たちを利用して利得を貪っていました。それと対照的なのが貧しいやもめで、彼女は生活費のすべてのレプタ銅貨二枚を惜しみなく献金箱に投げ入れました。主は、自分を愛する者は偽善と虚栄の虜となり、神により頼む者は神からの称賛と祝福を受けることを教えられたのです。今日は教会である兄弟の葬儀があり、平日にも関わらず、大勢の方が来会されました。兄弟は5年前に体調を崩されてから、身体にハンデを抱えられましたが、礼拝と祈祷会にはほぼ休まず来られました。口数の少ない兄弟でしたが、その実直な姿は多くの人に感動を与えていたのです。ご遺族の上に主の慰めを心からお祈りしています。
3月第四主日、花曇りの小雨の降る中、主をほめたたえる礼拝を献げました。メッセージはヨハネ18章から。主イエスは十字架にかかられる前夜、弟子たちとゲッセマネの園に行き最後の祈りの時を持ちました。そこにユダは数百人にも及ぶローマ兵たちを連れてきて、イエスさまを捕らえ、連れ去っていったのです。弟子たちにとってあまりにも衝撃的な光景だったでしょう。でも、それこそが旧約聖書から預言されてきた真のメシアの姿だったのです。私たちも時に、イエスさまへの期待が叶えられず、失望に終わってしまった…と思うことがあるかもしれません。でも、人間にとって最悪と思われるような事態も、神のご計画によれば最善へと動き始めていることがあるのです。私たちの心が揺れ動く中で、「わたしがそれだ」と万事をご存知であられる主の声が響いてきました。十字架への道を歩む主の姿は、その先に私たちには知り得ない神の最善があることを教えているのです。
クリスチャンはみな、神の家族としてお互いのことを『兄弟』『姉妹』と呼び合います。今朝出かける間際に教会のある兄弟の召天の連絡がありました。今年1月に緊急搬送され、その後もコロナ禍でご家族とも会うこともできず、心身ともに苦しい状態が続きました。でも、教会でお祈りしていることをお伝えすると、『皆さまの心温まる励まし、そして力強いお祈りに感謝いたします…また、礼拝でお会いできるのを楽しみにしています。』とLINEで返事をくださいました。昨夜私も病室に寄せてもらった時には目を閉じておられましたが、顔色もよく、お祈りにも『アーメン』と応えてくださいました。礼拝と祈祷会を大事にしてくださって、本当に忠実で優しい方でした。お世話になりましたと最後にご挨拶できたのは…主の憐れみでした。大好きなご家族に見守られ、眠るように主の御もとへ召されていきました。ご遺族の上に、主の慰めと平安をお祈り頂けましたら幸いです。
3月21‐22日、スカイツリーを横目に見ながら(WBCの結果が気になりながら)第74回教団総会が行われました。開会礼拝では朝岡理事長がイザヤ書55章8‐13節からメッセージを取り次がれ、あらためて昨年の歩みを振り返り、コロナ禍の中で各教会も困難な状況を歩んだことを思いました。ただ、そうした中でも数字には表れない多くの恵みもあり、新たに按手を受ける先生方がいて、新たに加入する教会や新たにスタートする開拓教会もありました。久しぶりに会う同労の先生方からも励ましと慰めを受け、新年度に向けて気持ちも新たに歩み出せそうです。私自身は23日の新任教師派遣前研修にも出席し、最初の礼拝でメッセージを取り次いで、ソメイヨシノが満開の東京を後にしました。今回は気分転換も兼ねて妻と一緒に車で行ったので、帰りはちょっと疲れましたが…無事に帰阪しました。さあ、明日からは一泊で中高生キャンプ。お天気が心配ですが、祝福をお祈りください。
3月第三主日、春風を感じる一日でした。礼拝では最後の晩餐における洗足の記事からみことばを心に留めました。イエスさまは夕食の席から突如として立ち上がり上着を脱いで、自ら手拭いやたらいの水を準備して弟子たちの足を洗われました。その姿には弟子たちもさぞかし驚いたでしょう。自分たちの中で誰が偉いかを争っていた彼らの中にはその役を引き受ける者がいなかったからです。ペテロは思わず、とんでもない!と辞退しました。でも、その行為こそが罪の聖めと赦しを象徴していたのです。「わたしがしていることは今はわからなくても、後で分かるようになります。」私たちの人生はすぐにわかるものとすぐにわからないものの二種類があります。イエスさまに足を洗って頂くのは、この方を信頼してその身を任せることです。ユダの足も洗われたイエスさまは私たちの足も洗ってくださいます。そして、今はわからなくても、その意味は後で分かると言われるのです。
今日はハートフル英会話冬期コースの最後のクラスでした。春休みが近いからでしょうか💦キッズクラスも大盛り上がりでした。今日のチャペルタイムでは、ルカ18章15‐18節を読みました。子どものように神の国を受け入れるとはどういうことでしょうか。実は最初に出てくる「幼子」とは「乳飲み子」を指す言葉です。つまり、イエスさまは赤ちゃんのように神の国を受け入れることを求めておられるというのです。近ごろ、私たちの教会も赤ちゃんを抱いて礼拝に来るご家族が増えました。本当に感謝です。もう何をしてもかわいいなあと思います。ただ寝てるだけでも、お腹が空いて大声で泣いていても、何をしても誰にも怒られるわけではありません。大人のように立派なことはできなくても、自分の身を安心してゆだねている…。ルカが記すのは、まさにそういう赤ちゃんです。そこにいるだけで喜んで受け入れてくださるイエスさまの愛に身をゆだねようではありませんか。
3月第三水曜祈祷会、朝はマルコ9章23‐24節、夜はルカ11章5-13節からみことばを心に留めました。父親は息子の病の癒しを求めてイエスさまのもとに来ましたが、イエスさまの問いかけに「おできになるなら、私たちをあわれんでください。」と答えました。幼い頃から苦しんでいる息子の姿を見て、癒される望みも失いかけていたのでしょう。イエスさまはそんな父親に向かって「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と告げられると、彼はすぐに「信じます。不信仰な私をお助けください。」と叫びました。彼は自らの不信仰を率直に認め、改めてイエスさまに対する絶対の信頼を告白したのです。また、真夜中に友人の家にパンを三つ借りに行った人の譬え話からも、粘り強く祈ること、確信をもって祈ること、神は聖霊を与えてくださることを学びました。主はどんなことでもおできになる、私たちもこの信仰に立って祈りましょう。
教会のデボーションはマルコ9章に入りました。「イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。」有名な変貌山の記述。そこでイエスさまはご自身の栄光を現され、預言者の代表であるエリヤと律法を代表するモーセとともに語り合っていました。なんとも神々しい光景を見てペテロは何を言ったら良いのかわからなくなったとあります。「山を下りながら、イエスは弟子たちに人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことをだれにも話してはならない、と命じられた。」今度は山の下り道で、イエスさまはご自身の十字架と復活について改めて弟子たちに話されました。彼らはこのことばを胸に納め…とあるようにその時はわからないながらも覚えていたのでしょう。そして十字架と復活の後、彼らもすべてを理解していったのです。私たちの人生も山あり谷あり、すべての営みに時があることを思います。
3月第二主日、春めいた温かなお天気でした。礼拝では受難週(passion week)に注目し、イエスさまの十字架への道を辿ります。今日はヨハネ12章からマリアが高価なナルドの香油をイエスさまの足に注ぎ、髪で拭ったところを読みました。マリアはイエスさまの元でいつも御言葉に聴き入っていたからこそ、これが一緒に過ごす最後の時だと感じ、自分にできる精一杯の愛を現しました。それを見たユダは「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と不満をもらしたのです。イエスさまはそんなユダが金入れからお金を盗んでいることも全部ご存知でした。そして、マリアはわたしのために葬りの備えをしてくれたのだと言ったのです。イエスさまは十字架を前に、このマリアの愛の行為にどれだけ慰められたことでしょう。私たちも、いつでもできることと、この時を逃したらもはやどんなに欲してもできないことを見極めて行動したいものです。
東日本大震災から12年が経ちました。時の流れを感じますが、あらためて被災地の復興と被災者の方々の心のケアのために祈りたいと思います。今日から教会のデボーションはマルコ8章に入りました。七つのパンとわずかな小魚で4千人の人々のお腹を満たした記事。弟子たちの不信仰ぶりが目立ちますが、きっとこのような信仰の訓練を何度も経験したのでしょう。その度にイエスさまは弟子たちにご自身の力をお示しになり、彼らの信仰を励まされたのです。私たちもイエスさまの御力をどこまで信じているでしょうか。『イエスさまは私の祈りを聞いてくださらない。なぜでしょう。』とよく質問されますが、イエスさまは「いつでも祈るべきで、失望してはいけない。」と告げられました。イエスさまを信じることは、ジグソーパズルの完成図を知らずに作っていくことに似ているかもしれません。コツコツと繋げる時間と忍耐が必要ですが、主は必ず完成させてくださるのです。
「偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。」安倍元首相襲撃事件と旧統一教会の問題から、今も大学生を中心に活動を続ける摂理、指導者が再誕したイエスを自称する新天地イエス教、大川総裁が急死した幸福の科学、最近ではエホバの証人の二世の方たちも声を上げ始めています。もちろん、TVのニュースやワイドショーの情報をすべて真に受ける方は少ないと思いますが、キリスト教の一団…と言われることはやはり残念です。『聖書』と言っても全部が同じではなく、勝手な翻訳をしているものもあるからです。私たちの教会には、元摂理にいた方や元エホバの証人にいた方たちもいますが、過去の自分を回顧しつつ、心を痛めつつ、また、友人たちのことも思い返しながら…一歩ずつ前に歩こうとしています。春は大学をはじめ様々な宗教の勧誘が活発になる時期です。どうかお気をつけください。
3月第二水曜祈祷会、詩篇12篇から御言葉を心に留めました。「主よ、お救いください」というダビデの切なる祈りから始まります。ダビデの周りからは神を恐れる者たちがいなくなり、互いに空しいことを話し、へつらいの唇と二心で話すような者たちがいました。でも、主は言われます。「わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」主のことばは、混じり気のないことば。土の炉で七度試され、純化された銀。不純物ばかりの人間の言葉に対して、純化された神の言葉の確かさを思いました。夜はルカ7:36~一人の罪深い女が自分の涙でイエスの足を洗い、その足に口づけして香油を塗った箇所を読みました。彼女は自分のような罪深い女を受け入れてくださった主にできる限りの感謝を表したのです。「…あなたの信仰があなたを救ったのです。」ルカ伝に4回も繰り返される重要な言葉。ここでイエスさまが「行いが」と言われなかったのが、私たちにとって重要なことです。
教会のデボーションは詩篇11篇から。「主に私は身を避ける。」ダビデがサウル王に命を狙われ、逃亡生活を余儀なくされていた時を思い描きます。友人たちは鳥のように自分の山に飛んで行け(逃げるしかない)と助言しますが、ダビデの心は主に向いていました。その根拠は4節からの神への信仰告白に表されています。主は聖なる宮から、私たち人間をよくご覧になり、正しい者を守り、悪者を罰せられる方です。ソドムとゴモラの滅亡の際にもアブラハムのとりなしの祈りによって、神は慎重に正しい者と悪者を判別され、裁きを下されました。親しい友人や同僚のこの世的な助言も、時に助けになりますが、自分にとって真の拠り所はどこにあるかを見失わないでいたいものです。「主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は御顔を仰ぎ見る。」それが信仰者の最終的な目標であり、力と平安の源です。主は必ずあなたを守られる。ダビデの揺るがない信仰に倣いたいものです。
3月第一主日、今日も温かな日射しが差し込む一日でした。礼拝はヨハネ11章から七つのしるしの最後となる『ラザロの生き返りの奇跡』を見ました。マルタとマリアは弟ラザロが病気で苦しんでいるので、すぐにイエスさまのもとに使いを送り、助けを求めました。でも、イエスさまはすぐに駆けつけることなく、その簡にラザロは死んでしまい、埋葬も終わっていたのです。マルタもマリアも最愛の弟を亡くし悲嘆にくれていました。そんな彼女たちにイエスさまは言われたのです。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」イエスさまはラザロの墓に案内されて、その石を取りのけなさいと命じました。もう臭くなっていましょう…と言うマルタに、イエスさまは言われます。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」こうして不信仰という石を取りのけたマルタはラザロの復活を見ることができたのです。
教会のデボーションは詩篇8篇から。著者は美しい夜空の星々を見て、偉大なる神を覚え、その神が私たちをこよなく愛してくださっていることに感動しています。人はみな、神に背を向けて生まれてきました。どんなにこの世で成果を上げても、その先にあるのは死の現実です。でも、イエスさまはその現実を打ち破って、彼を信じる者に永遠のいのちの道を約束してくださったのです。最近、二人の方から贈呈の本が送られてきました。一つはセカンドチャンス(死後にも救いのチャンスがある)に関する本、もう一つはクリスチャン自死遺族支援に関する本です。亡くなった人のことを考えるという点では共通するところもありましたが、全く違う感想を持ちました。残念ながら…セカンドチャンス論は人間の知る領域のことではないと思います。また、私が亡くなった父のためにできる親孝行は…とにかく精一杯生きること、自分が選んだ仕事をひたすら全うすることだと思いました。
以前、私たちの教会で奨励をしてくださった宣教師のご夫妻がいます。背の高いご主人が英語でスピーチをし、少し小柄な奥さまが日本語で通訳をしてくださるとても感じのよいご夫妻です。その時すでに奥さまはステージ4のガンを患っていましたが、そんな素振りも見せずに、朗らかな笑顔が素敵でした。ご主人は聖書からまっすぐに語ってくださり、多くのことを教えていただきました。そして、帰国後は…今度はご主人がステージ4のガンであることがわかったそうです。ご夫妻で抗がん剤治療が始まり、さぞかし大変な毎日なのでは…と思いますが、Emailが届いて、Many thanks for your encouragement and prayer! You put air under my wings.と書いてありました。大変な日々であることに変わりはないと思いますが、お二人の強い信仰を感じました。日本人を愛し、多くの福音を伝えてくださったご夫妻です。主の癒しと平安があるようにお祈り頂ければ幸いです。
3月第一水曜祈祷会、昨日に続いて温かな陽気となりました。朝は詩篇5篇から、夜はルカ14:25‐35から御言葉を心に留めました。詩篇の著者は空を打つような祈りではなく、はっきりと父なる神を意識した祈りをささげます。「私の王 私の神 私はあなたに祈っています。」朝ごとに神から与えられる新しい一日を感謝して始めていきたいものです。個人的な「私」の祈りが、「私たち」の祈りとなるように教えられる詩篇でした。また、夜は「自分の十字架を負って…わたしの弟子となることはできません」の言葉に心を探られました。自分の十字架とは何か…イエスさまの弟子となるとはいかなることか…感じ方は様々ですが、ただ…一人で読んでいたら気づかないことにも一緒に分かち合うことでいろいろなことに気づかされます。少し難解な御言葉にも果敢にその真意に近づこうとする私たちを、主が弟子たちを見るように目を細めて見てくだっさっているように思いました。
教会にメッセージの感想やご自身の証しを送ってくださる方々に感謝しています。すぐにお返事はできないかもしれませんが、目を通させていただいています。神さまがいろいろなところで、いろいろな方に、いろいろな形で働いてくださることを思います。一方で、神は私には働かれないというお手紙もいただきます。『救わないなら殺してください。旧約聖書時代に大量に殺してんだから簡単でしょう。いい加減どっちかにしてください…』辛い心の内を話してくださってありがとうございます。お気持ちをすべて理解することはできませんが、とにかく祈りに覚えています。無理して教会に行くことも、いやいやメッセージを聴く必要もないと思います。神は怒りの叫びも聞いてくださいます。もし宜しければ午後に旧約聖書を学ぶ会でヨセフ物語の後編を読みますのでご視聴いただければ幸いです。すぐに答えは出ないかもしれませんが、神がご栄光を現してくださいますように。
2月第四主日、少し風が冷たく感じる朝でしたが、今日も三回の礼拝を献げることができて感謝でした。礼拝メッセージはヨハネ9:1から、生まれつき目の見えない人がイエスさまと出会って癒されていく記事を読みました。当時、肉体的な病気は罪の報いであるという昔ながらの考えがあって、弟子たちもそう思っていました。でも、イエスさまはそうした考えをキッパリと否定され、神のわざが現れるためですと言われたのです。私たちもとかく、不条理な現実を受け止めるために、心の天秤にかけてみて釣り合うものがないか…と考える時、過去の方に捜すかもしれません。でも、イエスさまの天秤は、過去ではなく、神のわざが現れるであろう未来にあるというのです。ここに目を向けていくとき、忍耐が生じ、品性を生み出し、希望が湧いてくるのです。神は人間の目には不幸に見える現実も神のわざが現れる機会に変えてくださる…この信仰をもって歩んでいきたいと思います。
阪急箕面駅から徒歩5分ほどのところに素敵なカフェがオープンしました。コーヒーの味はもちろんのこと、店内も落ち着いた雰囲気で、心地よい時間を楽しめて、これまた感じのいい素敵なご夫妻が迎えてくださいます。お近くの方はぜひ足を運んでみてください。さて、教会のデボーションは創世記24章50-67節から。聖書の中で最も美しい光景の一つ、イサクとリベカの出会いの場面です。アブラハムが信頼して送り出したしもべは、祈りのうちにリベカと出会い、彼女こそ主が導いてくださったイサクの妻になる人だと確信し、一緒に主人のもとに来てほしいと懇願しました。リベカは「はい、行きます」と申し出を受け入れ、しもべの後について行き…そして、夕暮れ近く散歩に出かけたイサクが、その道すがらリベカと出会い、こうして二人は結婚へと導かれていったのです。一人ひとりが主の導きに応えて行動する姿を思い浮かべました。私たちも、かくありたいと思います。
今日はナインの会(クリスチャン自死遺族のコミュニティー)に参加させていただいてメッセージを取り次がせていただきました。Zoomでの集まりでしたが、慰めに満ちた交わりでした。詳しい内容をお知りになりたい方はホームページをご覧ください。私も今から18年ほど前に父を自死で亡くし、心が引き裂かれるような喪失感を味わいました。まさか自分の家族にこんなことが起こるなんて…思いもしませんでした。その頃、日本では年間3万人以上の自死者があり(交通事故死の5倍)、一日平均85人(17分に1人)もの方が命を絶たれました。こんなにも身近なものであることを私は知りませんでした。今も年間2万人もの方が自死を選ばれています。誰も自ら望んでその道を選択する方はいないでしょう。でも、誰かに相談していたらまた少し違った道もあったかもしれません。遺族の深い悲しみは…何年たっても癒えることはありません。教会も少しでも力になれたらと思っています。
2月第四水曜祈祷会、朝は創世記23章から、夜はルカ13章から、みことばを心に留めました。アブラハムが妻サラの死を「…悼み悲しみ、泣いた」という言葉が心に沁みました。声を上げて泣いているアブラハムの姿が思い浮かびました。ずっと一緒に歩んできた人がいなくなるのは…とてつもない喪失感だったでしょう。でも、アブラハムはそこから立ち上がり、彼女のために墓地を購入していったのです。そこからあらためて信仰者にとって『墓地』とはいかなるものかを考えさせられました。それは人生のゴールなどではなく、永遠の御国への入り口、同じ約束を信じる信仰を受け継ぐ証しであるということです。夜の御言葉も『ぶどう園のたとえ』から、「どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って肥料をやってみます。」というイエスさまの切なる祈りを感じました。この祈りに支えられて、私たちの一日一日があることを感謝したいと思います。
CGNTVリビングライフの奉仕も最後の収録が終わりました。一年間、皆さまのお祈りと励ましをありがとうございました。さて、教会のデボーションは創世記22章に入りました。アブラハムの生涯において最大の試練とも言える場面です。多くの方が、なぜ神はアブラハムにこれほどの試練を与えたのか…理解できないと思うところです。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」アブラハムは神のことば通り、モリヤの山で祭壇を築き、息子イサクを縛り、刃物を振り下ろしました。すると、「その子に手を下してはならない」という主の声が聞こえ、代わりに一匹の雄羊が備えられていたとのことです。私たちがいくら「なぜ…」と考えても、答えは出ないでしょう。ただ、神は私たちのためにご自分のひとり子を献げられたということです。
2月第三主日、小雨の降る中でしたが、今日も大勢の兄姉、またオンラインの兄姉とともに礼拝を献げました。メッセージはヨハネ7:53-8:11、姦淫の罪を犯した女がイエスさまと出会って変えられていく場面から。律法学者たちは彼女を捕らえ、イエスさまの前に突き出して「あなたは何と言われますか」と詰め寄ります。彼らがそう尋ねたのは答えを知りたいからではなく、イエスさまを訴える口実を得るためでした。イエスさまは彼らが問い続けるので「罪のない者がまず石を投げなさい」と言いました。すると、年長者たちから始めて一人ずつその場を去って行き、真ん中に残された彼女にイエスさまは言います。「わたしもあなたに審きを下さない。行きなさい。これからは決して罪を犯してはなりません。」イエスさまは彼女の罪を赦すだけでなく、神を信じて生きる新しい人生に踏み出すよう命じられました。主は今日も私たちの過去ではなく、未来を見てくださるのです。
今日のハートフル英会話はチャペルタイムがあって、レイチェル先生がルカ15章11節から放蕩息子のたとえ話しを選んでくださいました。特に「彼は我に返って…he came to his senses」の言葉が心に留まりました。 ギリシャ語も「自分にかえる」という意味の言葉です。それは本来の自分にかえることであり、当時のユダヤ人は「悔い改める」の意味で使ったそうです。放蕩息子はまさに人生のどん底で本来の自分に戻りました。それゆえ彼は父の家に帰ろうと思ったのです。そして、自分を待っていてくれた父にこう言いました。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。」つまり神を神とすることもせず、父を父として仰ぐこともしなかった…もう息子と呼ばれる資格はありません…と告白したのです。父はそんな息子を抱きしめて大喜びした…主はそれが父なる神の私たちへの愛だと教えられたのです。
2月第三水曜祈祷会、朝は創世記16章16節から、夜はマルコ13章からみことばを心に留めました。主はソドムとゴモラの罪はきわめて重いことをアブラハムに告げました。するとアブラハムは主の前に立って必死にとりなしの祈りを献げ、主も忍耐と憐みをもってその祈りを受け入れてくださったのです。今の時代も、説教者や神学者も必要ですが、何より必要なのは滅びゆく人々のために切に祈る人です。伝道や証しが苦手な人も、とりなしの祈りはだれもができる宣教のわざです。たとえ明日世界が滅んでもリンゴの木を植える…そんな祈り手になりたいものです。また、主は「目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。」と言われました。神は唯一、救いの道も唯一、というのは排他的と言われるかもしれませんが、聖書の真理を変えることはできません。信仰において譲らず、愛において譲る。今日はルターの二つの名言を思い出しました。
神がいるならどうしてこの世に戦争や悪がなくならないのか。それは人類がずっと考えてきたことです。神学的には神義論と言います。これについて簡単な答えはありませんが、アダムとエバか罪を犯し、神から離れてしまってからは人類史上、戦争がなかった時代はありません。神に背を向けた世界は決して良い方向にはいきませんでした。神はそうした罪の世をノアの時代に完全に滅ぼされました。そして、神はその後も忍耐と寛容をもってこの世を見て来られました。しかも見ているだけでなく、ご自分から罪の世の中に降ってくださり、私たちの罪を贖ってくださったのです。主は今も私たちの苦しみのただ中におられます。主はこの世にあっては患難があると言われました。これからも人間の罪がある限り、戦争や災害、痛ましい犯罪は続くでしょう。でも、神は最後にこの世を義しく裁くために来られるのです。その時、全てのことが明らかにされます。福音を聞かずに亡くなられた方のことは主にお委ねするしかありません。生きている私たちが亡くなられた方のためにできることは何もないからです。でも、今生きている方のためには福音を証しする機会があります。主が忍耐をもって世の終わりを送らせてくださっている限り、一人でも多くの方が邪悪なこの世から救われるように、私たちにはまだなすべきことがあります。
2月第二主日、トルコ・シリア大地震は発生から7日目、死者3万人を超え、さらに増える恐れがあるとのこと。主の慰めと力強い御手があるように…礼拝冒頭にお祈りしました。メッセージはヨハネ6:16‐21、五つのパンと二匹の魚の奇跡の後のガリラヤ湖上を歩かれる奇跡から。弟子たちはイエスに言われた通り、カぺナウムに向かって舟を漕ぎ出しましたが、強風が吹いて湖は荒れ始めました。舟は木の葉のように波に揺られ、元漁師の彼らが溺れて死にそうに思うほどの大嵐でした。そして、夜明けが近づいたころ一晩中漕ぎあぐねて疲労困憊になった彼らのもとにイエスは湖上を歩いて来られました。「わたしだ。恐れることはない。」それは単に「私は幽霊ではない」という意味ではなく、「わたしはある(エゴ―・エイミー)」イスラエルの唯一の神「ヤハウェ」であるという宣言でした。イエスは今日も嵐のただ中におられ、わたしを見るようにと声をかけておられるのです。
教会のデボーションは創世記16章から。アブラムの妻サライは子どもが与えられないことを思い悩み、その結果、エジプト人の女奴隷ハガルによって子どもを得ようとしました。こうしてハガルはアブラムの子どもを身ごもったのですが、サライとの間に確執が生じ、ついに彼女は逃げ出してしまったのです。身重のまま行く宛もなく、荒野にある泉のほとりに身を隠すハガル…。惨めさと心細さでいっぱいだったでしょう。主はそんな彼女を見つけ、サライのもとに帰って、彼女のもとで身を低くしなさいと言われました。そして、わたしはあなたは子孫を増し加える、あなたの苦しみを聞いていると告げられたのです。「そこで、彼女は自分に語りかけた主の名を『あなたはエル・ロイ』(私を見る神)と呼んだ。」たった一人の女奴隷のことも決して見離さないで、見つけてくださる主…この方が今も私たちの苦しみを知っていて顧みてくださるとは、なんという感謝なことでしょう。
6日に発生したトルコ・シリア大地震から三日目を迎えました。生存率が急激に下がると言われる発生から72時間が過ぎましたが、なおも懸命な救助活動が続ています。あちこちで倒壊した建物、氷点下5度の寒さ、余震もまだ続いていることなどニュースで見る光景に…本当に胸が痛みます。一人でも多くの命が救出され、一刻も早く十分な支援が行き届くように祈るばかりです。聖書の中にも、災害について弟子たちがイエスさまに質問した記事がありますが(ルカ13章)、『神がいるなら、どうしてこんなことが…』と思う方が多いでしょう。でも、イエスさまの答えは、「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」というものでした。私たちは何か問題が起きると神の存在を意識するのかもしれませんが、イエスさまはずっと前から…滅びに向かっている私たちのことを心を痛めて見ておられ、全ての人が救われ、真理を知るようになることを願っておられるのです。
2月第二水曜祈祷会、デボーションは創世記13章から。アブラムはエジプトでの失態にも関わらず、多くの財産を所有するようになりました。彼はもと来た道を辿りながら最初に天幕を張り、祭壇を築いた場所で主の御名を呼び求めます。もう一度、信仰の原点に立ち返って悔い改めの祈りを献げたのでしょう。そんなアブラムと甥のロトとの間で財産に関する争いが起きてしまい、二人は別々に暮らすことになりました。ロトは先に土地を選ぶ権利を譲ってもらい、自分の欲に従って目を上げます。ロトが選んだ地はよく潤った地でしたが、主に対して甚だ罪深い者たちが住む町でした。一方のアブラムは別離の悲しみを覚える中、主の呼びかけに従って目を上げました。そして、「さあ、立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたにその地を与えるのだから。」という主の約束を頂いたのです。私たちも何に従って目を上げるか…そこが大きな分かれ道となるのです。
教会のデボーションは創世記12章になりました。信仰の父と呼ばれたアブラハムの生涯をしばらく見ていきます。彼の名前がまだアブラムだった頃、主はアブラムに「あなたは、あなたの土地…親族…父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」と命じられました。住み慣れた土地を離れて、どこに向かうのかもかわからない中で旅に出るのは不安や心配があったでしょう。でも、アブラムはこれは主の召し(呼びかけ)だと信仰をもって受けとめ、従って行ったのです。昨日は牧師会で47年間教会に仕えて来られた先生の証しを聞きました。私も25歳の時、初めて教会に行き、聖書のことばを目にしました。仏教の家庭で生まれ育ちましたので、聖書はもちろんキリスト教について殆ど何も知りませんでした。あれから26年…わからないこともたくさんありますが、ただ主の憐みの中をともに歩ませて頂いています。この一歩一歩の積み重ねが、神を知る道であることを信じて…。
2月第一主日、冬の柔らかな日射しが差し込む会堂で礼拝を献げました。有名な五つのパンと二匹の魚のしるしから、イエスさまのお心を心に留めました。癒しを求めて後をついてくる群衆をイエスさまは深く憐れんで、弟子たちに「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」と言われました。彼らはそんなお金もお店もありませんと愚痴をこぼしますが、イエスさまの質問が人間的な視点から出発したのでは解けない問題であることを理解できませんでした。「イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。」弟子たちが思い煩っている中で、一人の少年が自分の弁当の五つのパンと二匹の魚を差し出します。イエスさまはそれを取り、感謝の祈りを捧げてから、そこにいた全員に分け与えられました。神のなさることはいつも人間の常識を超えたところにあります。人間の限界こそ、神の機会なのです。
教会のデボーションはマルコ6:30~44。イエスさまはご自分のもとに集まってくる群衆をご覧になって、羊飼いのいない羊の群れのようであったので深く憐れまれたとあります。私も学生時代に羊飼いのアルバイトをしていたことがあるので、このイエスさまの表現にはなんとも心打たれるものがあります。イエスさまは心身ともに渇いている人々を、十把一絡げに見たのではなく、一人ひとりの心情を慮って関わってくださいました。この後の五つのパンと二匹の魚の奇跡も、主の憐みによるものだったのです。今日は午前中にクリスチャンの若いご夫妻がカフェを始められるということで少しお手伝いに…とはりきって行きましたが、ほとんどおしゃべりして帰ってきました。箕面駅から徒歩五分ほどのところ、2月にオープンです。お近くの方はぜひのぞいてみてください。午後からはハートフル英会話。大人のクラスはチャペルタイムがあり、キッズクラスは今日もにぎやかでした。
2月第一水曜祈祷会はマルコ6:1-13から。イエスさまはデカポリス地方、カぺナウムでの宣教に続いて、郷里ナザレに向かわれました。イエスさまの噂はすでにナザレにも伝わっており、弟子たちを伴って帰って来たイエスさま一行を人々は関心をもって出迎えます。イエスさまはご自分の郷里でも福音を宣べ伝え、病人を癒されましたが、ナザレの人々の反応はその教えの素晴らしさや力強い奇跡に驚いたものの、その関心はそれらをどこから得たのかという二次的なことに流れてしまいました。人間的にイエスさまをよく知っていたために、かえってメシアとしての本質を悟れなかったのです。郷里で証しすること、親族や家族に伝道することの難しさを思います。でも、伝道における私たちの役割はあくまで福音を宣べ伝えることであって、結果は主にお委ねしなければなりません。福音の種を蒔いてすぐに目が出るとは限りません。ただ種を蒔けば成長させてくださるのは主です。
教会のデボーションはマルコ5:35-43から。イエスさまのもとには大勢の群衆が集まって来ていました。そこに会堂司のヤイロが人混みをかき分け、イエスさまの前にひれ伏して私の小さい娘を助けてくださいと訴えました。彼はイエスさまが娘の上に手を置いてさえくれれば癒されると信じていたのです。でも、途中で12年の長血をわずらった女の癒しを行っている間に、会堂司の家から人が送られてきて、お嬢さんは亡くなりましたと連絡がありました。絶望的な状況に、ヤイロは目の前が真っ暗になったでしょう。イエスさまはそんな彼に言いました。「恐れないで、ただ信じていなさい。」すべての望みが絶たれたような中で、まだ終わりではありませんと言われたのです。人間の失望する時が、神の好機です。神が働かれる条件の一つは、私たちが神を信頼することです。人々がイエスさまをあざ笑う中で、最後まで信じ続けたヤイロ家族は神の御業を目に当たりにしたのです。
1月第五主日、春を感じるような温かな日差しが差し込んでいました。礼拝ではヨハネ5章から。イエスさまは祭りの日、人々で賑わう神殿ではなく、病人たちが集まるべテスダの池に向かわれました。そこで38年も病を患っていた病人に目を留められ「良くなりたいか」と声をかけられ、彼の病を癒し、さらに罪の赦しを宣言されました。それは一方的な主の恵み、主の選びでした。私たちの教会は礼拝後にメッセージの分ち合いをしますが、そこでもいろいろな感想があって、さらに御言葉を深める時間となっています。私たちの常識の枠の中だけで考えたら、イエスさまの奇跡を理解することはできません。この病人も過去の長い間の経験から自分が癒されることはもうない…という思考になっていたかもしれません。でも、その枠を壊していくのが御言葉の力です。私たちも、人の子となって、この世に来てくださったイエスさまのことばに従って一歩踏み出したいと思います。
教会のデボーションはマルコ6:45‐56から。大きな奇跡を目の当たりにして、興奮冷めやらない弟子たちを、イエスは強いて舟に乗り込ませ、向こう岸に行かせました。舟の中で弟子たちは互いの感想を言い合っていたでしょう。すると段々雲行きが怪しくなり、向かい風のために漕ぎあぐねていたのです。イエスは山で祈っていましたが、夜明けが近づいた頃、湖の上を歩いて彼らのところへ行かれました。弟子たちはその姿を見て、幽霊だと叫び声を上げます。彼らの中にはガリラヤ湖の漁師が何人もいて、この湖もわが庭のように知り尽くしていたはずです。それでも自分の経験以上の出来事に遭遇し、慌てふためいてしまったのです。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」イエスが舟に乗り込むとたちまち風はやんで、弟子たちの心も静められました。こうした体験を何度も通らされて、弟子たちはイエスさまがいつもともにおられることを学んでいったのです。
今日からハートフル英会話冬期コース・大人クラスがスタートしました。講師のレイチェル先生も無事にオーストラリアから戻って来られ、新しい受講生の方も来てくださって、久しぶりに木曜日の教会に楽しそうな英会話と笑い声が響きました。昨日の祈祷会でも、『教会に来るきっかけは何でしたか』という話しになり、ある人は家族や友人に誘われて…、案内やチラシを目にして…、ある人は英会話がきっかけで…という人もいました。振り返ってみると、お昼ご飯が食べれるから…気になる女の子がいるから…という理由でしばらく来ていた青年もいました。懐かしい思い出です。とにかく話しを聞いてほしい…昔、教会学校に通っていたので…という婦人もいました。教会に来るきっかけはなんでも構いません。信仰心がないのに…と遠慮せず、礼拝を覗いてみる、英会話の体験に出てみる、ちょっと立ち寄ってみるだけでも、教会をぜひ体験していただけたらと思います。
1月第四水曜祈祷会はマルコ3:20-35から。イエスさまのもとに群衆が集まってきて、イエスさまも弟子たちも食事をもする暇もなかったとあります。イエスさまも人間ですから空腹も覚えたでしょうし、休息も必要だったでしょう。それでも誰一人追い返すことなく、人々の必要に応えられました。また、イエスさまの身内の者たちがイエスさまを心配して連れ戻しに来ましたが、イエスさまは家族の声よりも、ご自分の使命を優先されました。これには、イエスの周りにいた人たちも自分たちを大切に思ってくれたことが嬉しかったでしょう。そして、嫉妬心からイエスさまの働きを悪霊呼ばわりする律法学者たちには「人の子らはどんな罪も赦していただけます。…しかし聖霊を冒涜する者は、だれも永遠に赦されず…」と悔い改めを迫られました。イエスさまは誰であろうと、ご自分のもとに来た人を受け入れ、正しい真理に導こうとされたのです。忍耐深い神の愛を覚えました。
1月第四主日、頬にあたる風は冷たいですが、教会の中には温かな日差しが差し込んでいました。礼拝では今年の年間聖句の詩篇62篇からメッセージを聴きました。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら。私は決して揺るがされない。」「黙って」とはただ何もしないことではなくて、神に向かって沈黙すること、神に望みを置いて待つことです。「岩」「救い「やぐら」は神こそが真の拠り所であるということです。自分でジタバタしないでも、黙って神に信頼しているなら、揺さぶられることはあっても決して倒されることはありません。信仰とはまず神の前に沈黙することから始まります。目に見えるものがいつも頼りになるとは限りません。大事なのは、何があっても変わることのない神を信頼し、そのことばに聴き従うことです。神はいつも私たちの傍らにおられて、実生活の中で働いてくださるのです。
教会のデボーションはマルコ2章から。イエスさまの噂を聞き付けた人々が大勢集まって、戸口のところまで隙間もないほどになっていました。そこに中風の人が4人の人に担がれてきたのですが、とても家の中には入れません。それでも彼らは諦めずに、家の屋根をはがして穴をあけ、彼を寝かせたままつり降ろしたのです。それはだれの目にも非常識な行動だったでしょう。でも、彼らはだれに何を言われてもこの機会を逃すわけにはいかないと思ったのです。この方のもとに行けば癒して頂けると信じたのです。イエスさまはそんな彼らの信仰を見て、中風の人を癒されました。人はその行動を見ますが、イエスさまは心をご覧になるのです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」自分も病気をして、あらためてこの御言葉が響いてきました。イエスさまは肉体だけでなく、霊と魂の医者です。
1月第三水曜祈祷会、療養解除基準は満たしましたが、発症から10日間は感染リスクがあるということで大事を見て今日もオンラインで祈祷会を行いました。デボーションはマルコ1:1-20、バプテスマのヨハネの登場は人々の心を悔い改めに導き、メシアを迎える道備えとなりました。そしてイエスさまが現れると「時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と高らかに福音宣教の第一声が告げられたのです。イエスさまはガリラヤ湖のほとりで4人の漁師をご覧になって「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と声をかけられました。それはイエスさまの弟子となって従っていくなら、人々を神の国に導く人にするという約束でもありました。パリサイ人でも律法学者でもなく、無学なただ人をお選びになられたイエスさま。なぜ私が…と彼らも思ったでしょう。でも、イエスさまはそんな彼らを立派な指導者へと養い育てられたのです。
教会のデボーションはマルコの福音書1章になりました。表題には「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」とあります。福音とは良い知らせのことです。それはイエス・キリストによって私たちに救いの道が示されたことです。私たちはみな生まれながらの罪人で、死とその裁きのもとにある者でした。でも、神はそんな私たちのために御子イエス・キリストを遣わしてくださったのです。マルコの福音書の冒頭には、まずバプテスマのヨハネが遣わされ、「主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。」と人々に悔い改めを迫ったことが記されています。『悔い改める』とは単に反省するとか後悔するとかいうことではなく、自己中心的な生き方から神中心の生き方に方向転換することです。これがないままで、イエスさまを主と告白することはできません。もう一度、心の王座にだれが座っているのか…自らを深く顧み、悔い改めて、イエスさまを心に迎えましょう。
1月第三主日も教会には集まらずにオンライン礼拝となりました。礼拝メッセージは義姉の玉井美穂師が取り次いでくたさり、Ⅰコリント16:21-24から二つのことを語られました。一つはクリスチャンは『マラナ・タ』(主よ、来てください)と『マラン・アタ』(主がおいでになった)の間の時代を生きているということ、もう一つは『インマヌエル』の主がいつもともにいてくださることです。今日で新型コロナウィルスが国内で初確認されてから丸3年になりますが、未だその収束は見えてきません。第8波と言われる今冬も致死率や重症化率は低下していても、死者数が過去最多の更新を続けています。この現状だけを見ていたらますます気が重くなる一方ですが、歴史の主である方が大いなる御手をもって万事を導いておられることを忘れないでいたいものです。主は私たちの祈りを聞き、必ずその必要を満たしてくださいます。今週もこの主の臨在を感じつつ歩んでいきましょう。
あらためて多くの方のとりなしの祈りを感じながらここ数日間を過ごさせて頂きました。おかげさまで発症日から八日目を迎え、ほとんど症状も無くなりました。今日はZOOMで小さな会議がありましたが、まだ体力が戻ってないようなので、徐々に慣らしていこうと思います。『お祈りしています』という言葉に、どれほど力づけられたかわかりません。病み上がりの私にできることは神の家族一人一人を覚えて祈ることです。時間はありますので、お一人一人の顔を思い浮かべながら集中して祈っています。今年も始まったばかりですが、コロナの心配はいつまで続くんだ…と思っている方も多いでしょう。こんな時期に教会を開けられないのは心苦しいことですが、主は生きておられます!私たちの祈りを必ず聞いてくださっています。「私のたましいは黙って ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」明日の礼拝もぞれぞれの家庭に主の祝福が注がれるように祈っています。
教会のデボーションは創世記7章から。ノアはすべて神が命じられたとおりに箱舟を造り、周囲の人々にも義を宣べ伝えましたが(Ⅱペテロ2:5)、耳を傾ける人はいなかったようです。そしてノアたち家族が箱舟に入ると、主は後ろの戸を閉められ、ついに大洪水が起こり、大水が全地を覆っていきました。これをただの有名な物語として読むか、それとも実際の出来事として読むか、さらには世の終わりの出来事を象徴していることとして読むのか、ここが聖書の勘所です。そんな大げさな…と思わずに、できるところからとりなし祈って行動していきましょう。私の体調は発症日から6日目でだいぶ回復してきました。まだ少し体がだるく、疲れやすいですが、食欲もあり、風邪症状も殆どないので助かっています。でも、最初の3日目までは高熱が続き、喉の痛みと関節の痛みでかなりしんどかったです。また新たな変異ウィルスも確認されているとのこと。皆さまの健康をお祈りしています。
1月第二水曜祈祷会は休会させていただき、各ご家庭でみことばと祈りの時をもっていただきました。デボーションは創世記6章から。地上に人が増え始めるとともに悪も増大していく中、神は人の齢を120年と定められました。それは裁きを下す前の悔い改めの猶予期間でしたが、地上の悪はますます増大する一方だったのです。もはや裁きは免れない中で、ノアは主の心にかなっていました。人々が神に背を向け、自分勝手な道に歩んでいても、彼だけは神を仰ぎ見、神を恐れつつ歩んだのです。「正しい人」「全き人」とは道徳的に正しく、神のような完全さをもった人のことではなく、失敗や挫折もありつつ、それでも神とともに歩んだ人のことです。そんな彼にも苦難や葛藤はあったでしょう。病気になることも、人に理解されず、不条理に思うことも…。それでも神とともに歩み、箱舟を造れという神の命令に歩み続けたノア…。そういう人に自分もなりたいと思わされました。
1月第二主日、牧師が新型コロナに罹患したため、オンライン礼拝にして頂きました。代理説教者は義父の玉井邦美師(新鎌ヶ谷聖書教会)がメッセージを取りついでくださいました。詩篇23篇から、晩年のダビデが危機的状況に置かれる中で、今までの人生を振り返り、あらためて主への信頼と確信に立つ詩です。今年は帰省も見送り、できるだけ外出も控えていたつもりですが、少し気が緩んだのか…猛省しています。この度は教会の方々に多大なご迷惑をおかけすることになりました。申し訳ありません。今回、病の床に伏した中で礼拝を視聴させて頂きましたが、あらためて気づかされることもありました。今後の動画配信の向上のために活かしたいと思います。オンライン礼拝は新来者の方や日曜日の午前中に教会に来られない方、また、その他いろいろなご事情で教会に来れない方々のために行っています。もし何かご要望がありましたら、教会までご相談いただければ幸いです。
教会のデボーションは創世記1章から。「はじめに神が天と地を創造された。」「はじめ」とは、あらゆる時間の始まり、歴史の原点を指す言葉です。そこに永遠なる神がすでに存在しておられて、御心のままに天と地とその間にある全てのものを造られたとあります。私たちはまず、この1章1節を信仰もって読むか読まないかを決心しなければなりません。なぜなら、同じ文章でもその意味合いが全く変わってくるからです。もちろん、そんな肩ひじ張らずに気軽に読んでいただいても結構ですが、折角聖書を読むのであれば、もし神がおられるなら私たち人間に何を語っているのだろうかという思いで読んでいっていただけたらと思います。クリスチャンの方はあらためて神がなされることに偶然はないことを心に留めて、今年一年を歩んでいきたいものです。「神は仰せられた。『光、あれ』すると光があった。」神のことばは時至って必ず成る、新しい年を期待していきましょう。
新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い致します。2023年最初の主の日を迎えました。礼拝ではヨハネ4:43-54から、イエスさまに息子の病気を癒してほしいと懇願する役人の信仰から学びました。彼はイエスさまの噂を聞きつけて、息子の病を癒してほしい…この一心ではるばるカぺナウムからカナまでやってきました。イエスさまはそんな彼に「あなたがたは、しるしと不思議を見ない限り決して信じません。」と言われました。それは彼を突き放すためではなく、彼を本物の信仰者に導くためでした。『神がいるなら証拠を見せてほしい…そうしたら信じる。』今日でもそう思われる方は少なくありません。でも、私たちは自分の感覚や知性を頼りにし過ぎるのは気をつけなければなりません。神は認められるべき存在ではなく、信ぜられるべき存在です。何をも見ずまた聞かずとも、必ずそのごとくならん。この直ぐな信仰が私たちには必要なのです。
2022年最後の日のデボーションは詩篇150篇から。「ハレルヤ。神の聖所で、神をほめたたえよ。御力の大空で、神をほめたたえよ。」今年も、地上の教会から天上の神の御座に向かって、一つ心で主をほめたたえることができて感謝でした。特定の場所と特定の時間を神の前に聖別して、『安息日を聖とする』ことは素晴らしい恵みです。それと同時に、様々な事情があって教会に行けない方にはオンライン礼拝が恵みであることを思います。教会によってオンライン礼拝の是非が問われていますが、私自身はオンラインだからこそ参加する方や御言葉を聴く人が起こされているなら、それも素晴らしいことと思います。新型コロナウィルスの感染が続き、ロシアによるウクライナ侵攻、世界経済のインフレ、異常気象、元首相の襲撃事件、防衛費の増額…。世がますます混沌とする中で、私たちには生ける神のことばが必要です。「息のある者はみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」
教会のデボーションは詩篇149篇に入りました。『ハレルヤ詩篇』の四番目です。「主にあって喜べ…楽しめ…踊りをもって…タンバリンと竪琴に合わせて、主をほめたたえよ」とあります。聖なる集いの中で体全体で主への賛美を歌っている様子が目に浮かびます。私たちも、実際に踊なくてもいいと思うのですが、それほどの喜びが心にあるだろうかと思わされます。頭で理解するだけの信仰はいざという時に頼りになりません。クリスマスが過ぎても、神が人となってきてくださったその喜びを忘れないでいたいものです。今年一年を振り返って、進学、就職、結婚、出産、長寿…喜ばしいことは幾つもありました。受洗者はいませんでしたが、信仰決心者は起こされ、新来者や転入会者など礼拝出席者は増やされました。ただ、どうしても気になるのは療養中の方、長くお休みされている方々のことです。一緒に心からの賛美が歌えるように、主の回復と癒しをお祈りしています。
2022年最後の水曜祈祷会。デボーションは詩篇147篇『ハレルヤ詩篇』から御言葉を心に留めました。「ハレルヤ。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく、賛美は麗しい。」バビロン捕囚からエルサレムに帰還した民が、神殿で主をほめたたえる情景が思い浮かびました。私たちの教会も未だコロナ禍ではありますが、礼拝で賛美する機会が少しずつ戻ってきました。賛美は偉大なる主をほめたたえることであり、私たちの信仰の証しです。感染対策の意味合いもありますが、住宅街にある教会なので音の問題にもできるだけ注意を払わっています。主の憐みと知恵を祈り求めて今後の賛美のあり方を考えたいと思っています。今日は今年一年を振り返っての恵みの分かち合いになりました。祈祷会の恵みの一つは互いに祈り祈られることにあります。コロナ禍になって教会のデジタル化も一歩前進し、オンラインで参加してくださる方も増えたことは感謝です。
12月の旧約聖書を学ぶ会がありました。今日は創世記43章でした。長引く飢饉でいよいよ食物も尽きてきたヤコブは息子たちを再びエジプトに送ろうと考えます。でも、そのためには末のベニヤミンも一緒に行かねばなりません。ユダの真剣に言葉に動かされて、父は仕方なくそれを承諾しますが、最後は全能の神に祈りをもって息子を委ねたのです。こうして一行はエジプトを再訪問し、ヨセフの前に立ちます。ヨセフはそんな兄たちを自宅に招き、丁重にもてなしました。怖くなった兄たちは管理人に正直にこれまでの経緯を話します。「安心しなさい。恐れることはありません。」管理人の優しい言葉に兄たちはホッとしたでしょう。ヨセフは父ヤコブは元気か…兄たちの口から聞きたかったのでしょう。20年ぶりの再会となったベニヤミンを見ると、ヨセフは思わず胸が熱くなって、奥の部屋に行って泣きました。そこでもヨセフは自分の素性を明かさず、神の時を待ったのです。
12月第四主日、クリスマス特別礼拝を献げました。昨日のキャンドルサービスの余韻を感じつつ、ヨハネの福音書4章から「イエスと出会う幸い」をテーマにメッセージを聴きました。先週のニコデモに続いて、今日のサマリヤの女もイエスさまと出会うことによって人生が変えられました。サマリヤの女は、イエスさまに自分の心の渇きを言い当てられて、生ける水を求めるように導かれたのです。「わたしが与える水を飲む」とはイエスさまを信じることを意味していました。そうすればその人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出るというのです。こうして彼女はイエスさまを信じる者となり、それだけでなくイエスさまを宣べ伝える人に変えられていきました。人生に偶然はなく、あるのは神の必然です。人生とは、一枚の刺繍の布のごときものであり、裏側から見てるだけではわかりませんが、やがて表側から見るなら、神が見事な絵柄が描いていることを知るのです。
2022年のクリスマス・イブを迎えました。今年も聖なる夜にキャンドルサービスを献げられることを感謝いたします。クリスマスイブと言えば、『クリスマスの前夜』のことと思われる方もいますが、実は『イブ』とは『evening』のことですから『クリスマスの夜』のことです。ユダヤ暦では日没から一日の変わり目となるので、24日の夕方から始まって25日の日没までがクリスマスとなります。今年は、次の日がクリスマス礼拝ということもあって、土曜日夕方からの開始となり、来会者が心配されましたが、大勢の方が来会してくださいました。バイオリン演奏のある姉妹はこの日の奉仕のために東京から駆けつけてくれました。忙しい時期に本当に感謝でした。実際の生の演奏を聴くのとは違いますが、YouTubeのアーカイブがありますので、ぜひ姉妹の息の合った心地よい演奏をご視聴ください。今日、初めて教会に来ましたという方も何人かおられて主の御名を崇めました。