忍耐深い主の愛…

2021年の年の瀬を迎えました。教会のデボーションは詩篇106篇から。詩人は「ハレルヤ」という賛美の勧めから、イスラエルがいかに神との契約に不忠実に歩んだか、一方で主はご自身の契約に忠実であられたことを記しました。「しかし主は、御名のゆえに、彼らを救われた。」「それでも、彼らの叫びを聞いたとき、主は彼らの苦しみに目を留められた。」民の不忠実にも拘わらず、主はその憐れみと赦しをもって彼らを導かれました。この忍耐深い主の愛の中に、自分も生かされていることを思いました。今年もコロナ禍に振り回されながらも、多くの恵みと祝福をいただいて、一年を終えることができることを感謝いたします。新しい年も変異株の広がりなどが懸念されますが、世がいかに揺れ動いても、変わらない神の導きに期待して歩んでいきたいと思います。今年もブログを見てくださって本当にありがとうございました。皆さま、どうぞよいお年をお迎えください。

主のみわざの不思議…

12月第五水曜祈祷会、教会のデボーションは詩篇105篇から。「主に感謝し、御名を呼び求めよ。」詩人は、イスラエルの歴史を紐解きながら、アブラハムとの契約を実現される主のみわざを語りました。神は流浪の民だったイスラエルをエジプトに導き、そこで大きな民族とされ、そして今度はエジプトがイスラエルを嫌うようにされ、約束の地へと旅立つように導かれました。主のみわざはすぐに理解できるようなものもあれば、理解するのに忍耐を要するものもある。でも、何が起ころうと神の契約と約束は変わることがありません。良いことも悪しきことも主の御心のうちに行われる、主はご自分の民が苦しんでおられる時、いつも主も苦しんでおられる、主が苦しみを許される時には必ず何かの意味があることを思いました。今年もコロナ禍に振り回された一年でしたが、同時にすべてが当たり前ではない、恵みの中にいたことを学ばせていただいた一年だったように思います。

年末感謝礼拝2021…

2021年最後の主日、少し小雪がちらつきましたが、青空が広がる爽やかな朝でした。度重なる緊急事態宣言、オリンピックの開催、ワクチン接種による混乱など、コロナ禍に振り回された一年が終わろうとしています。礼拝メッセージはルカ17:20から、『神の国はいつ来るのか』というパリサイ人の問いかけにイエスさまが答えられた箇所。彼らは目の前に救い主イエスさまが来られているのに、神の国が始まっていることがわかりませんでした。「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」神の国、神のご支配は、主を信じる者たちの心に、交わりの中にすでに変化を起こしていました。それは今日でも、御言葉に生きる者たちを通して広げられているのです。人の子の日(主の再臨)の到来は、それがいつなのかは誰にもわかりませんが、その日が来たら誰の目にも明らかに認められます。終末のメッセージは、裁きの預言であると同時に、確かな救いへの招きの言葉なのです。

キャンドルサービス2021…

Merry Christmas!今年も御言葉の朗読とバイオリンの調べで、イエス・キリストのご降誕を思い巡らしました。イエスさまは神ご自身である方なのに、神としての威光も栄光も権威もすべて捨てて、人間の赤子となってお生まれになりました。しかも、そこは立派な宮殿でもなく大邸宅でもない、暗く貧しい悪臭の漂う馬小屋の飼い葉桶でした。御使いは告げました。「それが、あなたがたのためのしるしです。」イエスさまはローマ帝国に変わるこの世の王となるために来られたのではなく、全人類を罪とその裁きから救うために来られました。人はみな、生まれてきた本来の目的を見失って、それぞれ自分勝手な道を歩んでいます。自分の命をどう使おうと勝手なこと…一度しかない人生、楽しまなければ損…。そんなキリストの誕生など喜ばない人間の声が聞こえてくる中に、イエスさまはお生まれになられたのです。本物のクリスマスの喜びが皆さまの心にありますように。

主の臨在に励まされ…

12月第四水曜祈祷会はハガイ書から。バビロン捕囚から帰還したユダの民は、エルサレム神殿の再建に着手しました。でも、難民同然の彼らは、経済力も技術力も乏しく、おまけに隣国からの妨害も受けて数年で工事は頓挫してしまいます。月日は流れ、主は預言者ハガイを通して、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュア、さらには民の残りの者に向かって悔い改めと励ましのメッセージを告げられました。「あなたがたの歩みをよく考えよ」「強くあれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ」「今日から後のことをよく考えよ」「わたしがあなたを選んだからだ」ハガイはこの4つの御言葉を中心に、ユダの民を鼓舞し、再び神殿再建へと立ち上がらせていくのです。彼らにとって『神殿』は、神の臨在の象徴であり、神を礼拝し、神との出会いの場所でした。私たちも神との関係を後回しにしないで、主の臨在に励まされて、今日から後のことをよく考えて歩んでいきたいものです。

クリスマス礼拝2021…

アドベント第四週、クリスマス礼拝を献げました。ルカ17:11~、イエスさまがエルサレムへ向かう途中、ある村でツァラアトに冒された10人と出会い、言葉一つで癒された記事をみました。彼らはみなイエスさまの言葉をそのまま信じて行動した時、癒しを経験したのです。どんなに喜んだでしょう。でも、話しはそこで終わりませんでした。その内の一人が大声で神をほめたたえながら戻ってきてイエスさまに礼拝を献げました。九人は癒しの事実だけを喜んだのに対し、彼だけは癒しを行ったイエスさまを喜んだのです。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」彼はこのイエスさまの祝福の言葉を受けて、新しい人生を歩み出していきました。人生のターニングポイントがあります。クリスマスはChristとmasの合成語。キリストのいないクリスマスはただ雰囲気を楽しむだけのお祭りに過ぎません。ぜひ教会で本当のクリスマスを喜び祝いましょう。

ハートフル英会話クリスマス会…

昨年はやむなく自粛しましたが、今年は感染対策とケーキなしで、ハートフル英会話クリスマス会を行いました(子どもたちはごめんなさい)。まずは卓球で体を動かしてから、クリスマスバージョンのUNOで盛り上がりました。もちろん英語です。今日は二つのクラスが合同でしたので、いろいろな方の話しが聞けていつも以上に楽しい時間でした。途中、ウクレレとホルンの演奏でクリスマスキャロルを賛美したり、レイチェルさんのバイブルメッセージでクリスマスの本当の意味についてお聴きしました。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」コロナ禍も今は落ち着いていますが、世界を見れば…まだまだこの先どうなるかわかりません。また、日本国内でも変異ウィルスのオミクロン株の感染が広がりつつあります。このクリスマス、一人でも多くの方に本当の大きな喜びが届けられますようにお祈りしています。

さあ、河馬を見よ…

12月第三水曜祈祷会、ヨブ記40章から。主の創造の偉大さを知ったヨブは、やっと自分がいかに取るに足りない者であるかを知ることができました。神はそんなヨブに向かって、さらに倫理的な側面から語りかけていかれます。そこから、河馬、レビヤタンという神秘的な怪物(高ぶりの象徴)をあげて、それらを造られた神を不義に定める愚かさを指摘されました。結果として、主はヨブの苦しみの問いに直接答えることはされませんでしたが、最後にはヨブを悔い改めへと導かれ、ご自身をより深く知る者としてくださったのです。主はヨブが苦しんでいる時もともにおられ、ともに苦しんでおられました。まさにヨブの苦しみは、主ご自身の苦しみだったのです。「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。」ヨブがあれほどの苦しみを通して導かれたこの告白を、今日私たちが恵みによって告白できる幸いを思わされます。

神の創造の偉大さ…

教会のデボーションはヨブ記39章に入りました。長い沈黙を破ってついに神が語りかけられます。それは『なぜこれほどの苦しみにあわなければならないのか』というヨブの問いに答える形ではなく、神の方からの「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。」という問いかけです。神がどのように地の基を定めたか、どのように測り縄を張ったか、自然界の法則、動物たちの養いなど、神の創造の偉大さがことごとく語られていきます。およそ人知をはるかに超えた主のはかりごとです。ヨブに答えられるわけがありません。でも、これによってヨブは自分の小ささをいやというほど示されます。その一方で、偉大なる神がこんな小さな自分と関わりをもってくださっていることにも気づかされていくのです。山は近づけば近づくほどその大きさを知ると言いますが、神の偉大さも知れば知るほど…言葉では表しきれません。でも、その方が今日も語りかけてくださる恵みを感謝します。

慰められたラザロ…

アドベント第三礼拝、メッセージはルカ16:19から。金銭を好むパリサイ人たちはイエスさまの「神と富とに仕えることはできない」という話しを聞いてあざ笑っていました。なぜなら彼らは、富や豊かさは神の祝福の表れであり、律法を守っている自分たちこそが天国に行けると思っていたからです。イエスさまはそんな彼らに、ある金持ちとラザロの話しをされました。金持ちは毎日ぜいたくに遊び暮らし、貧しいラザロは金持ちの施しに頼って生活していた。しばらくして二人に死が訪れ、ラザロは御使いに迎えられアブラハムの懐に、金持ちはハデスの炎で苦しんだという話し。ラザロとは神は助けという意。イエスさまのたとえ話しで名前で話されるのは珍しいことです。人はみな、どんなに裕福でも貧しくても、ただ神の憐れみによって生かされていることを忘れてはなりません。神は心の貧しさ、砕かれた心をご覧になられることを、慰められたラザロから教えられました。

12月

神は苦しむ人をその苦しみの中で…

12月第二水曜祈祷会、ヨブ記36章から。苦しみのどん底で、自分の潔白を主張し、神よりも自分自身のほうを義とするヨブに向かって、エリフはこう言います。「神は苦しむ人をその苦しみの中で助け出し、抑圧の中で彼らの耳を開かれる。」神は人を苦しみから助け出されるのではなく、その苦しみの中で助け出されるというのです。苦難は様々な形で、すべての人の人生に予告なしで襲ってきます。その時、神は何をしておられるのですかと思わず叫びたくなるのではないでしょうか。でも、苦難の中でこそ、私たちの心が神に向き、その御声を聞こうと心の耳が開かれることもあるのです。大事なのは、苦しみや不条理は神から出ているのではないこと、その人が悪を行った結果でもなく、ましてや神からの罰でもないことです。神は苦しみの中でこそ私たちとともにおられるお方です。今日は祈祷会に来られた方々の様々な証しを聞く時となり、生ける真の神を心に覚えました。

あなたは神を待て…

今日は朝から冷たい雨が降る一日でした。教会のデボーションはヨブ記35章~。苦難の中で、神よりも自分の方が正しいと思っているヨブに向かって、エリフの言葉が続きます。彼は、人はみな、苦しみの中で泣き叫んだり、助けを叫び求めりするものですが、本当の意味で神を求めているのではないと言います。それは言わば本能的なものであって、信仰を働かせての祈りではない、今のヨブはそのような人々と同じではないかというのです。このようにヨブを責めた後で、エリフはこう諭しました。「しかし訴えは神の前にある。あなたは神を待て。」神はご自分のしもべの叫び声を聞き洩らすような方ではない、神はご自分から関わりを断ち切ることはない、私たちの救いのためにはどんな犠牲を払うことも厭わない、だから神を信頼して待ち望めと諭したのです。祈っても状況が変わらないと思う時こそ、私たちが真の信仰を養う時。私たちの祈りは神の御手の中にあるのです。

『不正な管理人のたとえ』から…

アドベント第二礼拝。メッセージはルカ16:1から。イエスさまの教えの中でも最も難解なたとえの一つです。主人の財産を勝手に使ってしまった管理人は、主人にそのことを知られてしまい、クビにされた時のために債務者たちに恩を売って後で面倒を見てもらうように考えました。主人はこの不正な管理人が賢く行動したのをほめたという話しです。なんとも首をかしげてしまうような話しですが、実はそういう所ほど気づかなった恵みを発見したりするものです。「不正の富で自分のために友をつくりなさい」「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり」「神と富とに仕えることはできません」たとえ話しの後のイエスさまの解き明かしの中に、著者ルカの独特な視点が感じられ、私自身は非常に教えられました。久しぶりのメッセージ後のグループタイムでも多くの感想があがり、分かち合いも祝福されたようです。今日も恵みに溢れた主の日を感謝いたします。

中村哲さんを覚えて…

長年パキスタン、アフガニスタンで人道支援に尽力してこられた中村哲医師が武装集団の銃撃を受けて召天されてから二年が経ちました。耳を疑うような信じられないニュースでした。中村さんは医師でありながら自ら重機を操作し、『100の診療所より一本の用水路』を合言葉に、1600本の井戸を掘り、全長13kmもの用水路を築き、東京ドーム3500個分にあたる1万6000ヘクタールの土地をよみがえらせ、60万人以上の命を救いました。そんな中村さんはクリスチャンでありながら、イスラム教徒が祈りを捧げるモスクやマドラサ(神学校)を建設して地元の人々を励まし元気づけたそうです。まさに敬天愛人に生きた中村さんの功績はこれからも世界中の人々の心にずっと生き続けることでしょう。「神の御心は何か、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるように…」明日はアドベント第二礼拝。ぜひお近くのキリスト教会に足を運んでみてはいかがでしょう。

天からの知恵こそ…

12月第一水曜祈祷会、ヨブ記32章から。なぜ善人が苦しみにあわなければならないのか。三人の友人たちは、苦難の原因は罪の結果であると主張し、ヨブに悔い改めを迫りましたが、ヨブは自分の正しさを主張するばかりでした。すると側でずっと聞いていたエリフが業を煮やして語り出します。エリフは、ヨブが神よりも自分の方を正しいとしたことや、ヨブの不義を認めながら言い返せない三人の友人たちにも怒りを燃やしました。こうして堰を切ったようなエリフの言葉が続き、もはやヨブは何も言い返せませんでした。「確かに、人の中には霊があり、全能者の息が人に悟りを与える。」天からの知恵こそがあらゆる難題を解決する力です。確かにエリフの言葉は、正論でした。ただ、彼の言葉が苦難の中で痛み悲しんでいるヨブに、どう聞こえたのかは疑問です。結果として、三人の友人もエリフも、ヨブの立場に立って考えるという視点が足りなかったのではないでしょうか。

祈りに支えられて今がある…

教会のデボーションはローマ16章から。パウロ神学を代表する書簡。信仰義認を中心に、一人で読み理解するには難解なところもあったのではないでしょうか。ただ、この終わりのところに関しては、普通の手紙と同じように「…によろしく伝えてください。」と教会や一人一人の顔を思い浮かべるように挨拶を記していて親しみやすいところです。パウロがいかに多くの人のために祈っていたのかがわかります。「どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」手紙を受け取った教会でも、あらためてパウロ先生の働きを覚えて祈ったことでしょう。昨日は私たちの教会を会場に、教団の教職教育部がありました。今年度の報告に始まり、次年度に向かっての審議が長時間に渡って行われました。コロナ禍でZoom会議が続いたので、対面会議は久しぶりでした。関東から新潟から、このために来てくださった先生方のご労と献身に心から感謝いたします。

父のところに行こう…

11月第四主日、秋晴れに天気でしたが、頬に当たる風が一段と冷たく感じる一日でした。今日からアドベント(待降節)。礼拝ではルカ15:11~32から『二人の息子と父の愛』をテーマに御言葉を学びました。弟は父の財産を分けてもらうと遠い国で、湯水のように使って、やがて大飢饉が起こると豚の世話をするはめになり、食べるのにも困り果てました。でも、彼はその人生のどん底で父のことを思い出します。「立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。』」来る日も来る日も父は息子の帰りを待っていました。だから、彼の姿を見つけると、まだ遠かったのに、父はかわいそうに思い、駆け寄って彼を抱き、口づけしました。そして、急いで彼のために一番良い服、指輪、履き物を用意し、子牛を屠って祝宴を始めたのです。神の無条件の愛…。何度読んでも新しい感動が胸に迫って来るところです。

明日からアドベント…

今年もアドベント(待降節)の時期を迎えました。アドベントとは、「到来、到着」を意味します。明日からクリスマスイブまでの4週間、救い主イエス・キリストのご降誕を待ち望む期間です。日曜日ごとに一本ずつローソクを灯していきます。教会でキリストの到来について語る時には3つの意味を持っています。それは、2000年前、誕生によって来られたこと、今日私たちの心のうちに来られること、終わりの日に栄光のうちに来られることです。聖書には、「昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」とあります。私たちにとって最も大事なのは、クリスマスをただの年中行事として迎えるのではなく、その本当の意味を知って迎える時、その人の心にキリストは住んでくださることです。Christmasとは、キリスト(Christ)のミサ・礼拝(mass)という意味です。教会の新しい一年はこの日から始まります。ぜひお近くのキリスト教の教会に足を運んでみてはいかがでしょう。

英会話教室に来られる方々…

教会では毎週木曜日にハートフル英会話教室を行っています。今日も教室からなごやかな会話と子どもたちの元気いっぱいの声が聞こえてきました。中には海外生活をされていた方や留学をされていた方もおられ、文化や習慣の違いなどを聞くこともあります。また、海外旅行のためや仕事で使うため、英語を忘れないためなど、目的もさまざまです。講師の先生はクリスチャンですが、受講される多くの方はクリスチャンではないので、教会に来るのは初めて、聖書を見るのも初めて…という方もおられます。牧師としてはそうした方とちょっとした休憩時間にお話しするのも楽しみの一つです。仏教を信じる方も神道を信じる方も、物は試しで何でもお気軽にご質問ください。ある時は『教会でもクリスマスをやるの?』と聞いてくれたお友だちもいました。教会はクリスチャンだけでなく、どなたにも開かれた場所です。本当のクリスマスの意味も、ぜひお話しできたらと思います。

生きるにしても、死ぬにしても…

11月第四水曜祈祷会、朝から抜けるような青空が広がりました。ローマ14:9「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」聖書では『死』に3つの意味を示しています。肉体の死、霊的な死、永遠の死(第二の死)。人はみな、やがていつかは肉体の死を経験しなければなりません。でも、クリスチャンはイエス・キリストを信じる信仰によって霊的な死から解放されています。また、キリストの十字架の贖いによってすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられ、永遠の死からも解放されているのです。それゆえ肉体の死は永遠の死に至る門ではなく、天国への門に過ぎません。ここに生きるにしても、死ぬにしても、主のためにという生き方の土台があります。今日の祈祷会も、まずみことばの分かち合いに恵まれ、祈りのうちに主のものとされている幸いを思いました。

一緒に喜ぶために…

11月第三主日、収穫感謝礼拝。礼拝はルカ15:1−10、いなくなった一匹の羊を捜し回る羊飼い、なくした一枚の銀貨を熱心に捜す女性の姿から、イエスさまの譬えを学びました。そこから主は今も失われた人を捜しておられること、一緒に喜びを分かち合われること、罪人が悔い改めることを待っておられることを心に留めました。一人でも多くの方にこのメッセージが届くように祈ります。そして、今日も礼拝後に二名の兄姉の入会式がありました。『あなたは、神の子イエス・キリストの十字架の贖いによって救われたことを確信しますか』という問いかけに、『確信します』とはっきりお答え頂きました。いつもこの誓約の時が、牧師として一番胸が熱くなります。メッセージの通り、一緒に喜びを分かち合うことができて本当に感謝でした。午後は来週から始まるアドベントに向けて大掃除&クリスマスの飾りつけ、夕方は青年たちと卓球で汗を流し、恵まれさまの一日でした。

すべての人をあわれむ主…

私は何とかして自分の同胞にねたみを起こさせて、彼らのうち何人かでも救いたいのです。」キリスト教における『救い』とは…?私は25歳まで聖書を読んだことも教会に行ったこともなかったので、最初は違和感がありました。法にふれるような犯罪を犯しているわけでもないし、人から後ろ指を指されるようなこともしていないし、普通に人は死んだら極楽に行くものだと思っていました。でも、今から25年前、教会に行くようになって、礼拝や聖書を通じて、あらためて人はみな罪人として生まれてくること、神の怒りの下にあって、病気でもなく寿命でもなく、裁きとしての死を迎えなければならないことを知りました。そして、人はみな何かの功徳を積んだり、正しく生きることによってではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われることを教えて頂いたのです。百聞は一見に如かず。まだ…という方は、ぜひ近くのキリスト教会に足を運んでみてください。

信仰は聞くことから…

11月第三水曜祈祷会、教会のデボーションはローマ10:14~。人は、律法の行いよるのではなく、キリストを心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのですとあります。そして、信じるためには聞かなくてはならない、聞くためには宣べ伝える人がいなくてはならない、宣べ伝えるには遣わされなくてはならないと諄々と記していきます。伝道は、私たちの熱心さや言葉の巧みさが重要なのではなく、最終的には聖霊のお働きによるものです。それでも『伝道はどうも苦手で…』『伝道はしないといけないことですか…』と言われるクリスチャンの方は少なくありません。伝道ってなんだろう。今日はそんなことを素直に語り合う機会になりました。「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」私たちにとって最も大切なのは聖霊の助けを祈り求めることです。何はともあれいつもそこから始めたいものです。

招かれる者の幸い…

11月第二主日、ルカ14:15~「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」パリサイ派の指導者の食事会に来ていたある客は、どこか誇らしげにそう言いました。でも、イエスさまはそんな彼に向かって、神の国の食卓に招かれる者について譬えをもって話されました。神の目は、自分にはその資格があるとおごり高ぶる者ではなく、招かれる資格などないとへりくだる者たちに注がれていること、「まだ席があります。…私の家をいっぱいにしなさい。」と神が万事を備えてくださっていること、そこにあなたも来なさいと招いてくださっているとは、まさに幸甚の極みです。今日はいつも祈り深く謙遜な姉妹の転入会式といつも小さな教会を駆け回る子どもたちの祝福式がありました。午後は役員会でクリスマス&次年度に向けての話し合い、夕方は久しぶりにお会いするご家族としばしのお交わり、夜は青年たちと賑やかな夕食に…。今日も恵みいっぱいの主日でした。

横田めぐみさんを覚えて…

横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されてからまもなく44年を迎えます。当時13歳だっためぐみさんは部活の終わった帰り道、自宅まで200mという場所で失踪しました。すぐに新潟県警や機動隊による懸命な捜索活動がなされましたが、拉致事件が判明したのはそれから20年も後のことでした。なぜこんなことが起きるのか…自分が悪いのか、先祖が悪いのか…絶望の淵に立つ早紀江さんに、ある宣教師が聖書を手渡しました。しばらく読む気にはなれなかったそうですが、ある時ヨブ記を読んで『私の苦しみがここにある』と教えられたそうです。その後、早紀江姉はクリスチャンとなり、その33年後にご主人の滋さんも病床洗礼を受け、天に凱旋されました。明日は滋兄の誕生日。苦しみの理由、それは人間には理解できません。しかし、主はご存知であり、ともに苦しんでおられる。今はただ、めぐみさんの帰りをひたすら待っておられるご家族のために心からお祈りしています。

関キ災・第五回懇談会…

今週月曜日に関西キリスト災害ネットワーク・第五回懇談会がありました。『この町に教会があってよかった。ー大規模災害災害に備えて、防災の視点でー』をテーマに田村治郎氏の講演を聴きました。今回の出席者は21名、ここまで累計で100名を超える先生方が出席してくださったことになります。本当に感謝です。災害はいつ起こるかわかりません…。南海トラフ大地震も今後30年以内の発生確率は70~80%と言われています。防災士の方も言われました。『もし天気予報で降水確率70~80%と言ったら当然備えをするはず。災害もこの感覚が大事です。』そして『地震10秒診断ーもしもあなたの町で地震が起こると?』『東京備蓄ナビ』という興味深いアプリをご紹介くださいました。無料ですので、ぜひお試しください。今日も教会ではハートフル英会話があり、大人クラスからは楽しそうな笑い声が聞こえ、キッズクラスにも新しいお友だちが来てくださって感謝でした。

ヨブの苦難から考える…

11月第二水曜祈祷会、ヨブ記29~31章。「あのとき」と幸いな生活を振り返り、「しかし今は」と悲惨な現状を語り、「私は自分の目と契約を結んだ」と自らの潔白を主張するヨブの姿を黙想しました。ヨブの幸いな生活の土台は、家族の多さや財産の多さの前に、神との親しい交わりがあったことでした。また、ヨブにとって最も悲惨な状態とは、神に向かって叫んでも、神が何もお答えにならないことです。次第にヨブは自分の潔白を主張することで、神の側に問題があることを訴えていました。神はなぜヨブをこれほどの苦しみにあわせたのか…。それは私たち人間には理解できないことです。でも、イエスさまは言われました。「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」十字架への道を歩まれたイエスさまは、試練がなくなるようにではなく、信仰がなくならないように祈られました。ここに一つの答えがあるように思いました。

主が招かれる食卓で…

11月第一主日、実るほど頭を垂れる稲穂かな…。ルカ14:1~、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」イエスさまは食事会に客として招かれた人たちにたとえを話されました。自分から上座に座ってはいけないこと。なぜなら、自分にはその資格があると心の中で思っている人は、反対に神の前で認められないからです。また、食事会に人々を招く主人にも話されました。もてなしをするなら、友人や家族やお金持ちよりも、貧しい人たちや体の不自由な人たちの方が幸いだということ。なぜなら、その人たちはお返しができないので、終わりの日に、神が報いてくださるからです。イエスさまが教えられたのは、単なる処世訓のようなものではなく、もっと深い霊的な真理、言わば御国での食卓の話しでした。今日は聖餐式の恵みにもあずかり、午後からは役員諮問会がありました。三人の兄姉の立派な信仰告白に心も体も満たされました。

かみさまのおうち…

『ここはかみさまがすんでいるおうちなんだよね』教会の前を通る小さなお子さんがお母さんと話しているのが聞こえました。ここに教会があることを地域の方が心に留めてくださっていたら感謝です。お掃除をしているとご近所の方と挨拶を交わしますが、なかなか教会には用事がなくて…信仰心もないし…でも、クリスマスには行こうかしら…と声をかけてくださる方もいます。ぜひ用事がなくても、信仰心がなくても、気軽に立ち寄って中を覗いてみてください。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」聖書の神さまは、人間が作った家にはお住みにはなりません。なぜなら神はこの天地万物を造られ、私たち人間を造られた方だからです。そのあまりにも偉大なる神さまのことを、どこで聞いたらいいのでしょうか。百聞は一見に如かず。ぜひ日曜日の礼拝に足を運んでみてください。

しかし、みこころは一つ…

11月の第一水曜祈祷会はヨブ記23章から。エリファズの三回目の語りかけも、ヨブを励ますことはできず不毛に終わりました。ヨブも根拠のない罪を責められ、もはやエリファズへの反論をあきらめ、神への独白のように語り出します。「ああ、できるなら、どこで神に会えるかを知って、その御座まで行きたいものだ。」人に理解されない苦しみを、ヨブは神ならきっとわかってもらえると思います。でも、どこを探しても神を見つけることができない…神は全くご自分を隠されてしまった…。ヨブの苦しみは、ここにありました。「しかし、みこころは一つである。だれがその御思いを翻せるだろうか。」神の計画は変わらないが、自分は神の前に黙ることはできない…神にこの苦難の説明を求めたいというのです。今日は祝日だったので、普段あまり来られない方も祈祷会に来てくださって深い分かち合いとなりました。難解なヨブ記を身近に感じることができたことを感謝します。

私の話しを聞いてください…

教会のデボーションはヨブ記21章になりました。二度目のツォファルの語りかけに対するヨブの答えです。絶望の淵に立つにヨブに、友人たちはなんとかして彼を慰めようと説得を試みます。そこでヨブはこの二度目の会話の終わりに、自分が必要としているのは安易な慰めの言葉ではないこと、ましてや説得や非難を受けることなどではないと訴えます。自分の語ることに耳を傾けてほしい…それを自分への慰めにしてほしい…と。友人たちの説得は、不幸が誰かを襲うのはその人が神と人間に対して罪を犯したからだ、悪しき者は裁きを受けるということです。ヨブの答えは、では…私は悪しき者なのか、悪しき者だって長寿を全うし、子孫も財産も与えられている、それが現実ではないかということです。あらためて祝福と繁栄とは何かを考えさせられます。困難の中でこそ、この世の価値観に振り回されないようにしたいものです。主は言われました。「心の貧しい者は幸いなり

狭い門から入りなさい…

10月第五主日、今日も子どもからご年配の方まで多くの方々が集われました。1517年10月31日、ルターはカトリックの免罪符に対する反論として95ヶ条の公開質問状を張り出しました。このニュースは瞬く間に全ヨーロッパへ広がり、プロテスタントの狼煙ともなりました。そこから約500年の歳月が過ぎますが、日本のクリスチャン人口は未だ全体の1%にも満たない状況が続きます。まさに日本でクリスチャンになるのは狭き門と言わざるを得ません。でも、その狭き門を見出し、そこを入口として救いの道を歩み出す人は幸いです。狭き門とはイエス・キリストです。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。」大事なのは入口です。宗教はみなどれも同じではありません。最初のボタンの掛け違いはその後ずっと間違えたままです。今日、苦難の中を通らされても、ともに歩む者は少なくても、あなたはわたしに従いなさいと主は招いておられるのです。

続くだけでなく、深まってもいく…

今、日曜礼拝ではイエスさまの生涯を記した福音書から学んでいます。生前イエスさまはどのような言葉を語り、どのような歩みをされたのかを読むと教えられることがたくさんあります。ただ、その頃の弟子たちはイエスさまが語られたことを正確には理解していませんでした。イエスさまが召された後、初めてその言葉と行動の意味を理解したのです。私たちも時に、言われたそのときに言われたことを理解できるとは限りません。その人が亡くなってある年月を経て初めてわかることもあります。私も父を天に見送って16年…。父が何気なく話していた言葉が今になって響いてくることがあります。『人と人との関係はどちらかが亡くなっても続きます。続くだけでなく、深まってもいきます。』最近読んだ本の一節が心に残りました。確かにそうだなと思います。ああしておけばよかった…と考える日々もありましたが、今は父が願うであろう自分として歩みたいと願っています。

どこに私の望みがあるのか…

10月第四水曜祈祷会、教会のデボーションはヨブ記17章になりました。誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていたヨブがなぜこれほどの苦難にあっているのか…。友人たちは、ヨブが神に背いて罪を犯したから神の裁きが下ったのだとヨブに悔い改めを迫ります。しかし、ヨブにとって彼らの言葉は何の慰めにもなりません。むしろ、ヨブは自分の潔白を主張し、ますます絶望の淵へと追いやられていくのです。「いったい、どこに私の望みがあるのか。だれが私の望みを目にするのか。」自分の人生はもう終わったも同然、もはや何の望みもないと独白していくヨブ…。彼のように私たちも時に、神に嘆き苦しみを訴えるような、文句を言いたくなるような時があります。でも、それはつきつめれば心の奥底で神を信頼しているから、信頼したいからこその言葉ではないでしょうか。私たちの希望はイエスさまがいることです。この希望は失望に終わることがありません。

慰めに満ちた葬儀…

今日は朝から冷たい雨が降っていました。昨日の午後、納棺式の際に故人のお顔を見せていただきましたが、穏やかな優しい顔をしておられたので、今主の平安の中にいることを思いました。母教会の先生にも連絡をさせて頂いて洗礼志願書などをFAXで送って頂き、祖母から続くクリスチャンであったことがわかりました。教会生活はあまり熱心な方ではなかったようですが…クリスチャンの従妹の方とも電話で話すことができて、青年時代のこともよく教えて頂きました。ある牧師はこう言います。その人の一生の価値は、その人の働き盛りとかではなく、実にその人の臨終の枕元においてなされるもの…。葬儀の中で御言葉が語られ、永遠のいのち、天の故郷、天国での再会を心に覚えて、ご遺族の方々と讃美歌を歌いました。終わった後、列席者の方に「キリスト教の葬儀もいいもんやね」と仰って頂きました。とても慰めに満ちた葬儀になりました。お祈りを感謝いたします。

神の国に生きる幸い…

10月第四主日、すっかり秋の深まりを感じる一日…。礼拝メッセージはルカ13:10-21。イエスさまは安息日に、18年も病の霊につかれてきた女に声をかけられました。「女の方、あなたは病から解放されました。」彼女はイエスさまのことばを信じて、ただちに立ち上がって、神をあがめたのです。ここに安息日の本質があります。すなわち、安息日はただ習慣的・形式的に守ればいいものではなく、大事なのは『喜びの日』『栄えある日』とすることです(イザヤ58:13)。また、イエスさまは『神の国』について二つのたとえを話されました。『からし種』『パン種』はどちらも極小の種粒でありながら、大きな成長、大きな影響を与えるもの、そして、種自体に生命力があることを示しています。神の国はイエスさまの到来によって始まり、私たちのただ中にあって、今日も全世界で広がりつつ、変わりつつあるのです。礼拝後、今日は転入会式もあって祝福に溢れる一日でした。

労苦から解き放たれて…

以前、教会に来てくださっていたご家族から久しぶりにお電話をいただきました。それは『夫が天に召されました』という寂しい知らせでした。最初にご主人とお会いしたのは今から7年前で、教会のホームページを見て訪ねてくださいました。その時は、しばらく教会生活もお休みされていたようでしたが、少し懐かしそうに聖書や信仰のことについていろいろお話ししてくださったのを覚えています。青年時代、好きな女の子が教会に通っていて、彼女に惹かれて行ったのが最初だったとのこと…(よくある話しです)。それから、洗礼までどのように導かれたのかは聞いておりませんが、いずれにしてもクリスチャンになられたのは本当に幸いでした。聖書にはこうあります。「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。…その人たちはその労苦から解き放たれて安らぐことができる。」葬儀は月曜日になりますが、ご遺族の上に主の慰めと支えをお祈りいただければ幸いです。

ツォファルの最初の語りかけ…

10月第三水曜祈祷会、ヨブ記11章から。三人目の友人ツォファルが満を持してヨブに語りかけます。「ことば数が多ければ、言い返されないだろうか。人は唇で義とされるのだろうか。」先のエルファズ、ビルダデの語りかけに対し、ヨブは実に言葉巧みだと批判します。ツォファルも、ヨブの受けた災いはヨブ自身に問題があると見ていました。そして、二人の友人と同じく彼も、因果応報の考えに基づく神への悔い改めを、ヨブに迫ります。そうすればヨブの苦しみは取り去られ、その繁栄は回復されるのだというのです。最初から自分の答えを持っているツォファルの言葉は、たとえ正論だったとしても…ヨブの心を慰めるどころか、極めて辛辣なものです。こうして、ヨブはますます自分のことをだれも理解してくれないと思っていくのです。私自身も、知らず知らずのうちに聴き手になれず、正論をかざして相手を言い伏せてしまっていることはないか…考えさせられました。

今年もう一年そのままに…

10月第三主日、気持ちの良い青空が広がる一日となりました。礼拝メッセージはルカ13:1-9。イエスさまは群衆に向かって、ガリラヤ人たちが殺されたことやシロアムの塔が倒れて死んだ18人のことについて語られました。当時の人々は何かの災難が起こるとまず神罰を考えたようです。イエスさまはそうした考えを否定して、「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」さらにいちじくの木のたとえをもって、父なる神が忍耐して待っておられること、イエスさまがとりなし祈っておられることを教えられたのです。「今年一年そのままにしておいてください。…それで来年、実を結べばよいでしょう。」いちじくの木を徹底的に守ろうとするイエスさまの思いが、この言葉に表されています。それは、ご自身のいのちをかけてでも守ろうとする愛であり、このイエスさまの愛によって示される神の愛でもあります。この愛が、私たちにも向けられているのです。

もういやです。いつまでも…

ヨブ記7章。エリファズの言葉を受けて、ヨブはあなたに私の苦しみの深さがわかるのですかと反論します。そして、神の訓戒などいらないから、もう自分の命を絶ってほしいと嘆きます。やがてヨブの思いは、友人のエリファズから、神に向かって語り始めます。主のしもべとして生きてきたのに、今自分は家族も財産も何もかも失い、全身の病に冒され、あとは息のように儚く消え去るだけ…もはや再び幸いを見ることはない…というのです。「もういやです。いつまでも生きたくありません。かまわないでください。私の日々は空しいものです。」ヨブの一つ一つの言葉に、深い悲しみが迫ってきます。ただ…大切なのは、神はこのヨブの嘆きの祈りに耳を傾けておられることです。私たちも時に、苦しくて苦しくて生きてることさえ辛い夜が、だれにも理解してもらえないと感じる日々があるのではないでしょうか。「しかし私は、主よ、あなたに叫び求めます。…」(詩篇88:13)

私なら、神に尋ね…

10月第二水曜祈祷会、ヨブ記5章から。昨日に続いてエリファズのヨブへの言葉から学びました。エリファズは、不幸やわざわいは人間の罪の報いなのだから、激しく嘆いたり、神を呪ったりするのは間違っていると語りかけます。むしろ、神の叱責を受けるのは幸いなこと、神はただ懲らしめるだけではなく、その傷を包み、癒してくださる方だと言うのです。「私なら、神に尋ね、神に向かって自分のことを訴えるだろう。」エリファズは無意識のうちに、自分がもしヨブの立場だったらこうするのに…と自己の敬虔さを主張しました。痛みと悲しみの淵にあるヨブは、彼の言葉をどう聞いたのでしょう。まさしく傷口に塩を塗られるような思いだったのではないでしょうか。たとえ真実が混ざっているとしても、言葉には本当に気をつけたいものです。分かち合いの時間にも、いろいろな感想を聞くことができて感謝でした。今日から、少し新しい体制での水曜祈祷会が始まります。

エリファズの最初の語りかけ…

教会のデボーションはヨブ記に入りました。人の苦難の意味について、これほど考えさせられる書はありません。物心両面に恵まれていたヨブは、略奪と天災という四つの災いに遭い、すべてを失います。それでも神の御心と受け止め、神への信頼を持ち続けるヨブのもとに、エリファズ、ビルダデ、ツォファルの三人の友人が訪ねてきます。彼らは、ヨブの悲しみにただ寄り添うしかできませんでしたが、ヨブが徐々に自分の心情を打ち明けたので、まずエリファズが自分の考えを話しました。エリファズは、ヨブの身体を労わりながらも、不幸には必ず原因があること、自分の経験から神の絶対的な正しさを示すなど、ヨブに自分の非を認めさせるような説得をしたのです。彼を励ましたいという気持ちが、いつの間にか上から物を言うような言葉に…。傷ついた人の心を理解せず、不用意な言葉を発するより、ただ黙って寄り添うこと、とりなし祈ることの大切さを思わされます。

恐れるな、小さな群れよ…

10月第二主日は、朝から夏を思わせるような日差しの強い一日でした。礼拝メッセージはルカ12:22‐34から。大勢の人々が集まっている中で、イエスさまは弟子たちに「あなたがたは、…いのちのこと、…からだのことで心配したりするのはやめなさい」と言われました。そして、鳥や草花に目を移して、それらを養っておられる神は、あなたがたのことを価値ある存在として見ておられ、あらゆる面で養ってくださるのだと教えられたのです。天の父なる神さまは、私たちが生きていく上で必要なものをよくご存知です。そして、私たち以上に私たちのことを心配してくださっているのです。イエスさまが弟子たちによく繰り返された言葉に、「恐れるな」があります。それは、彼らの心に深く刻まれていったことでしょう。今もイエスさまは、私たちが慌てたり、何かに恐れている時にも、私たちを憐れんで、この時の弟子たちと同じように声をかけて、励ましてくださるお方です。

木曜日の英会話が開講しました…

今日から、ハートフル英会話・秋期コースが開講しました。久しぶりにお会いする方々と初めてお会いする方々と、また木曜日のなごやかな時間をともに過ごせることを感謝します。教会は、クリスチャンの方はもちろん、クリスチャンではない方にとっても、大人も子どもも、心落ち着く楽しい場所であってほしいと願っています。講師のレイチェルさんとホゼアさんが本当に心を込めて授業をしてくださいますので、とても雰囲気のよいクラスです。大人も子どもも、定員人数までもう少しあります。ご興味のある方はまずは無料体験クラスをお試しください。話しは変わりますが…昨日は東北で、今日は関東で、震度5強の大きな地震がありました。首都圏の地震では、各地で停電があったり、水道管が破裂したり、複数のけが人も出たようです。東日本大震災以来10年ぶりの震度5強とのこと。けが人や被災された方々を覚えてお祈りしています。関西もあらためて注意が必要です。

御霊に導かれて歩もう…

10月第一水曜祈祷会、ローマ8:1‐17。パウロは善を行いたいと願いつつ、自力ではそれができない現実を認め、人はただ救い主の助けを求めるほかないことを述べました。でも、だからこそ「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」というのです。キリストを信じ、キリストの救いにあずかった者は、今や「罪と死の原理」、すなわち罪と死の支配から解放されました。それは、キリストの贖いによって「いのちの御霊の原理」がもたらされたからです。御霊は、私たちのうちに住んでくださって、私たちを永遠のいのちに導き、神の子どもであることを証ししてくださいます。ですから、パウロは他書でも「御霊によって進もうではありませんか。」と勧めるのです。私たちも、肉体的には日ごとに衰えても、霊的には日ごとに新しく造り変えられ、キリストのご支配の中を、キリストの栄光目指して歩もうではありませんか。

ハートフル英会話秋期コース…

緊急事態宣言解除に伴い、今週の木曜日からハートフル英会話秋期コースが始まります。毎週木曜日に行っている英会話教室、皆さまに愛されて今年で27年目を迎えました。日常会話から海外旅行、ビジネス英語など、使える英語を身に着けたいならネイティブ講師から学ぶのが一番です。講師は二人とも敬虔なクリスチャン。最大6人の小グループ制なので、互いに助け合いながら、新しいお友だちの輪が広がります。大人クラスも、初めは皆さん緊張されてこられますが、だんだん親しくなって会話も弾み、いつも笑い声がたえません。Kidsクラスは、フラシュカードを使ったりクラフトをしたり、とにかくいろいろなプログラムがあって楽しい50分です。クラスの時間帯や料金などの詳しい情報はハートフル英会話のページをご覧ください。すでに案内チラシを見てくださった方もいるかと思いますが、ただいま無料体験クラスを受付中!お電話か、メールでお申し込みください。

神に対して富む者に…

10月第一主日、秋晴れの青空が広がる一日。緊急事態宣言解除後の最初の主の日、三回に分かれての礼拝でしたが、多くの方々と久しぶりに顔をあわせ、聖餐式の恵みにもあずかることができて感謝でした。メッセージはルカの福音書12:13‐31。群衆の中の一人がイエスさまに質問したことから、イエスさまが愚かな金持ちの譬えをされたところです。そこから、財産はいのちを保証しないこと、神なき人生を歩む愚かさ、神との正しい関係に生きることを心に留めました。『神に対して富む者』とは、自分で精一杯聖い生活を送り、神の子どもとして多くの良いことをする…ことではなく、何より、こんな弱く愚かな者でも、神から愛されていることを喜び、与えられたいのちを感謝し、喜びの日も悲しみの日も神とともに歩むことです。自分に誇るべきものがなくても、神を信じる者に約束された神との和解があります。今週もこの恵みのうちを歩ませていただけることを感謝します。

律法の下から恵みの下に…

教会のデボーションはローマ6章に入りました。パウロはイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められることを記した後、「それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。」という問いを投げかけます。つまり、神の恵みが増し加わるために、あえて罪の中にとどまっているべきですかというのです。それに対する答えは、「決してそんなことはありません」です。理由は二つ。私たちは律法の下にではなく(罪に対して死んだ者)、恵みの下にある(神に対して生きる者)からです。その目に見えるしるしがバプテスマ(洗礼)です。もちろん洗礼を受けたからといって、すぐに罪から完全に自由になれる人はいません。地上にあっては、罪との戦いや誘惑があります。でも、私たちはみな、聖潔に向けて決定的な一歩を踏み出した者たちです。あとは聖霊により頼みつつ、一歩ずつ完成を目指していきましょう。

一人の義の行為によって…

教会のデボーションはローマ5章に入りました。「こうして…私たちの主イエス・キリストによって、神との平和をもっています。」主イエスを信じる信仰によって、私たちは神との正しい関係が回復しました。その結果、私たちは神との和解、交わりの中に生きる者とされたのです。だからこそ今の患難さえ喜ぶことができる、それは患難が忍耐を生み出すことを知っているからです。忍耐とはただ消極的に我慢することではなく、主に期待して積極的に生きることです。キリストは私たちの罪のために死んでくださった、しかも「私たちがまだ罪人であったとき」に、です。ここに人類に対する神の愛が具体的に示されました。アダムの背きによって全人類に罪が浸透したように、キリストの義の行為によって多くの人が義とされる道が備えられたのです。今、キリストを信じる信仰に歩んでいる者が、どれほど圧倒的な恵みの中に生かされているかを、心に留めて歩みたいと思います。

行いでなく信仰による義…

9月第五水曜祈祷会、ローマ4:1-25から。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」パウロはユダヤ人が誇りとするアブラハムとダビデの例を挙げて、行いではなく信仰によって義と認められることを記しました。丁度、旧約聖書を学ぶ会でアブラハムの晩年を学んだところでしたので、「不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます」ということの意味がよくわかりました。アブラハムも75歳の時に神の召命を受けて信仰の旅が始まりましたが、時に神に背き、神の叱責を受けることもありました。それでも彼は、神の声に励まされ「望み得ない時に望みを抱いて信じ、…神には約束したことを実行する力があると確信して」歩み続けたのです。このような信仰者になるには、アブラハムでさえも、長い年月の神の取り扱いを受けました。私たちもアブラハムの子孫として、約束を信じて偉大な信仰者の歩みに倣いたいものです。

悪しき病からの癒し…

9月第四主日、爽やかな風が気持ちのよい一日でした。伝道者の書6章から『悪しき病からの癒し』をテーマに、神の賜物を楽しめない空しさ、今あるもので満足できない空しさ、神と言い争う空しさをポイントに御言葉を学びました。『だれが知るだろうか。…だれが人に告げることができるだろうか。…日の下で何が起こるかを。』誰も知り得ない、それが6章の結論でした。『悪しき病』とは、神なき人生を歩む者の心を蝕む病魔です。放っておけば確実に死に至る病となります。でも、感謝すべきは、今日の私たちはこの問いの答えをイエス・キリストのうちに見出すことができることです。今は教会に行きたくても、他の方のことを考えて自粛しておられた方も多いと思います。それぞれの地域教会で事情は違うと思いますが、私たちの教会も緊急事態宣言の解除を目安に、主日の三部礼拝を再開します。また、教会で皆さまと心一つに礼拝をささげられるのを楽しみにしています。

宣教130周年記念大会…

昨日は同盟教団宣教130周年記念大会がありました。教団の歴史、特色、展望がどういうものかをあらためて再確認する良い機会となりました。1891年に来日した15名の宣教師(その内の一人は来日後3ヵ月で召天)は、今では想像もつかないような迫害、経済的必要、霊的戦いを覚えながら未伝地での宣教と救霊のために献身してくださいました。その功績は、現在261の教会、信徒11,965人が所属し、さらに日本とアジアと世界に仕える教団となり、今も前進し続けています。朝岡理事長の全体講演の中で『コロナ禍にあって多くの教会が困難の中にある。でも、私たちの思いを越えて働かれる主の御業に、私たちは参与するのだ。』という言葉が心に残りました。確かに自分の教会だけが祝福されればいい、同盟教団の教会が増えればいいというのが、130周年に覚えることではありません。主が必要とされるならば、喜んで宣教協力し、献げていく教会でありたいと思わされました。

不義に対する神の怒り…

昨夜は中秋の名月。思わず「天は神の栄光を語り告げ。大空は御手のわざを告げ知らせる。」の御言葉を思い出す夜でした。そして、今日の水曜祈祷会。ローマ1:18~「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」同じ天を見上げるのでも、今朝は身の引き締まる思いがしました。『怒り』とは『神の裁き』(終末的審判)を表す言葉です。人間は、自然の美しさを思うと同時に、その造り主に思いを馳せなければなりません。罪の本質は、何か犯罪を犯すことではなく、神を認めず、神を神としてあがめないことです。私たちはこの世に生まれてから、何もかも当たり前ではない現実の中を、自分の力で生きてきたのではなく、神によって生かされてきました。神は義しい方ですから罪に対しては厳しい裁きを下されます。と同時に、神は愛なる方ですから神を求める者には全き赦しをお与えになるのです。

すべての聖徒たちへ…

教会のデボーションはローマ人への手紙になりました。今日はその書き出し1:1‐7から。ギリシャ語原文では一続きのあいさつ文。「キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。」この一節だけでも深みのある言葉です。キリスト・イエスに対する全き服従、神の福音のために選び分かたれ、復活の主の証人として遣わされた者だということ。ここから、福音とは何か、自分の使命とは何か、パウロがこの手紙を通して伝えたいことが、短い文章の内にギュッとまとめられています。ちょっと難しそうだな…と感じる方もいるかもしれませんが、Ⅱ歴代誌の時のように1章ずつではなく、ローマ書は短い節に区切って見ていきますので、なんとか読書百篇の気持ちで一緒に味わっていきましょう。「…すべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。」聖霊さまがお一人ひとりのデボーションを祝福してくださいますように祈っています。

束の間の人生を生きる…

9月第三主日、台風一過の青空が広がりました。伝道者の書5章から。伝道者である著者は、形式や口先だけの信仰の空しさ、また金銭や富を追い求めることの空しさを覚え、結論として神が与えたいのちの日数の間を楽しみ喜ぶように告げました。「こういう人は自分の生涯のことをあれこれ思い返さなさい。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」私たちの人生は短く、あれこれ思い返している暇もないほど束の間に過ぎてゆくものかもしれません。でも、神がその人生を喜びで満たしてくださることを信頼して、たとえ束の間であっても、一心に主を賛美し、その栄光を表していきたいものです。今日は礼拝後に二人の方の洗礼式がありました。コロナ禍なので、細やかなお祝いしかできませんでしたが、天で大きな喜びの声が上がっていることを思いました。まさに神の時、新しい人生の出発に、立ち合えて感謝でした。これからの信仰生活の祝福を心よりお祈りしています。

愛と信頼の告白…

詩篇102篇は苦しむ者の祈りです。「主よ、私の祈りを聞いてください。私の叫びが、あなたにまで届きますように。」詩人は、心身ともに病気にかかり、自分のいのちの終わりまで予感していたようです。でも、彼は言葉にできないその思いを、神に向けて行きました。「それはあなたが、憤りと激しい怒りのゆえに、私を持ち上げ、私を投げ捨てられたからです。」今の状態はたまたまではなく、神が通らされている試練であるならば、回復を与えてくださるのも神です。イエスさまも、神の許しなしには何事も起こり得ないと言われました。困った時こそ神の名を呼び求めましょう。私たちは何か辛い試練にあうと、早くそこから抜け出したい、解放されたいと願い求めるものですが、まず今の状況を神が知らないはずがない、神は間違ったことをなさらない、忘れてはおられない…そのような信頼に立ちたいものです。すべてのことを、私たちを愛するゆえになさる方だからです。

ユダ王国の滅亡…

9月第三水曜祈祷会はⅡ歴代誌36章から。ヨシヤ王の死後、南ユダは滅びの最終段階に入り、4人の王が登場して幕を閉じます。どの王の時代もエジプトから、バビロンから攻撃を受け、国は弱体化していきました。それでも主は、たびたび使者を遣わして悔い改めを迫りますが、彼らは全く聞く耳を持たず、預言者らを蔑み笑いものにしました。こうして、ついに主の激しい憤りが燃え上がり、カルデア人の王ネブカドネツァルによって、若者も年寄りも殺され、神の宮は焼かれ、剣を逃れた者たちもバビロンへ捕らえ移されるという壊滅状態に陥ったのです。神の厳しい審判でした。でも、本書の最後には、エレミヤによる回復と希望の預言とペルシャの王キュロスによる解放宣言が記されていました。「バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み…」主はご自身の計画をもって歴史を導いておられる、ゆえに主の裁きは真の回復の始まりでもあることを思いました。

取り組みの集大成…

教会のデボーションはⅡ歴代誌35章、南ユダ国最後の信仰の王ヨシヤに関する記述です。彼は8歳で王となり、16歳で主を求め、20歳で改革を開始し、31年間主の目にかなうことを行ったとあります。その中でも特筆されるのは、先週のヒゼキヤ王の場合もそうでしたが、過越のいけにえを献げて神への献身を示したことです。『過越』はイスラエルの民がエジプトの奴隷から主によって助け出されたことを記念する祭りです。「イスラエルでこのような過越のいけにえが献げられたことはなかった。」過越にかけるヨシヤ王の熱心は膨大な量のいけにえや祭司・レビ人への命令に表されていました。その後しばらくして、ヨシヤ王はエジプトの王との戦いで不慮の死を遂げていきます。これほどの改革を行った王が…なんともあっけない死に方に思いますが、「全ユダとエルサレムは、ヨシヤのために喪に服した。」という言葉に、彼の労苦も決して無駄ではなかったことを感じました。

三つ撚りの糸…

9月第二主日。アメリカ同時多発テロ事件から20年が過ぎました。今年8月末に最後の米軍機が現地を離れ、米史上最も長い戦争に終止符が打たれましたが、今もなお政治的混乱が続くアフガニスタンのために祈りたいと思います。今日の礼拝メッセージは伝道者の書4章からでした。権力者たちに虐げられている者たちの涙、神なき成功、神なき人生、神なき名声の空しさを覚えました。「二人は一人よりもまさっている。…一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」イソップ童話の『三本の棒』、毛利元就の『三本の矢』を思い出すところですが、自分と隣人、そして第三の糸に、イエス・キリストを見ることができるのはクリスチャンの格別な恵みです。また、午後からの役員会では緊急事態宣言再延長に伴い、教会も来会自粛期間を再延長することを決めました。今はただ感染者数の減少を祈りつつ、主の憐れみを求めたいものです。

今日はちょっと休憩…

4日間の研修会が終わりましたので、今日はちょっと休憩。秋の花がほしいなぁと思って、The Farmへ。この時期は春や夏と違って花の種類も限られていて、とりあえず…今日は見て回るだけで満足でした。秋と言えば『秋桜』ですが、種から準備していたのが、目を出して15㎝くらい伸びたところでぜんぶ枯れてしまいました。土が原因だったのか、暑さだったのか…わかりませんが、結局、つぼみをつけたものをいくつか買って植えることにしました。でも、教会で花を育てるのは、何より見て喜んでくださる方がいると思うからで…今の緊急事態宣言中は来会する方も少なく、寂しいものです。気を取り直して、狭い教会の畑を耕し、ジャガイモでも植えようかなと思っています。ある方が気にして『山下先生はワーカホリックじゃないですか…』と心配してくださったのですが、適当に休んでおります。お気遣いありがとうございます💦皆さまも季節の変わり目、ご自愛ください。

神の民の再建…

月曜日から同盟教団のオンラインでの補教師研修会が行われています。私も教職教育部員なので、若い先生方と一緒に9つの講演会に出席しました。同盟教団の牧師として知っておかなければならない事柄を、一つ一つ先輩の先生が経験も踏まえて教えてくださるのでかなり実践的です。対面のような深い交わりは持てませんが、家族で参加されている先生もいたので、オンラインならではの良さもありました。これから正教師試験にチャレンジする先生方のために祈らされました。さて、今日の水曜祈祷会はⅡ歴代誌31章から。ヒゼキヤは、祭司とレビ人を組分けして、主の律法に記されているとおりにいけにえを献げさせました。さらに、彼らが律法に専念するためにエルサレムに住む人々に献げものをするように命じたのです。いやいやながらではなく、喜んで献げる民の姿が目に浮かびます。ヒゼキヤの思いは民全体に浸透し、まさに神の民みんなで行う宗教改革となったのです。

エルサレムには大きな喜びが…

教会のデボーションはⅡ歴代誌30章になりました。29章からヒゼキヤが南ユダの王として即位し、神殿を修復し、レビ人を聖め、偶像を徹底的に除去する宗教改革を行ったことが記されています。しばらく信仰的に堕落した王さまが続きましたので、ヒゼキヤの登場はまさに希望の光です。ヒゼキヤはイスラエルとユダの全土に過越のいけにえを献げるように呼びかけました。「主に立ち返りなさい。そうすれば、主は…あなたがたのところに、帰って来てくださいます。」その頃、北イスラエルはアッシリヤの攻撃を受け、すでに首都サマリヤは陥落し、多くの民が連れ去られる中で、ヒゼキヤの呼びかけを物笑いにし、嘲る人々もいました。でも、こうした危機的状況だからこそ、神の救いを求めてエルサレムに集まり、大きな喜びをもって礼拝を献げる者たちもいたのです。「…彼らの祈りは、主の聖なる御住まいである天に届いた。」こんな喜びに溢れる礼拝を献げたいものです。

人の心に永遠を…

9月第一主日、雨も上がり青空が広がる一日。今日の礼拝メッセージは伝道者の書3章からでした。有名な箇所ですが、読めば読むほど…その深遠さに圧倒されるところで、一回のメッセージでは語り尽くせないことを感じました。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」神は創造の時から、人の心に永遠なる方を慕い求める思いを与えられました。自分の心が神に向けて造られたこと、また神に知られ、愛されていることを知ること、人生においてこれ以上の幸いはありません。伝道者の書、まだ三合目まで登り始めたばかりですが、読書百遍の気持ちで読んでいきたいと思います。今日も教会に来られた方は奉仕者も入れて10人ほどで、新しい方も来てくださって感謝でした。パラリンピックも閉会しました。選手の皆さま、本当にお疲れさまでした。

人の愚かさ…

9月最初の水曜祈祷会はオンラインで行いました。今日もライブでの解説はお休みさせていただいて、会堂で録画した映像を視ました。Ⅱ歴代誌24章はヨアシュ、25章はアマツヤ、26章はウジヤ王。この時代の王の特徴は、最初は主の目にかなうことを行っていたのに、後半に神から離れ、身を滅ぼしていくことです。読んでいて思わず『どうしてここで…』と思ってしまうほど、見事に偶像に心奪われ、預言者の声に耳を傾けず、神を侮り、自分勝手な行いに走り、主の御怒りを受けていきます。スケールは違いますが、私たちの信仰生活にも通じることかもしれません。初めのうちは謙遜にへりくだっても、ある程度、問題が解決すると神から目を離してしまう…自力でなんとかできると錯覚してしまう…。王たちの信仰の不甲斐なさが、どこか自分の姿と重なるからこそ余計ヤキモキするのかもしれません。王たちの問題点をしっかり心に留めて、私たちも兜を締め直したいものです。

イサクとリベカの出会い…

8月の旧約聖書を学ぶ会がありました。私事ですが、今日は2回目のワクチン接種があったため、予め録画したものを配信させていただきました。愛妻サラが召天し、老人となったアブラハム。後の気がかりは、まだ息子イサクの嫁が決まっていないことでした。そこでアブラハムは信頼できるしもべを呼び寄せて、息子の妻となる女性を見つけてきてほしいと命じました。しもべは祈りの内に具体的な主のお取り計らいを求めます。すると、彼が祈りが終わらないうちに、リベカという素晴らしい女性が目の前に現れたのです。この後リベカはしもべと一緒にイサクのもとに行くことを決心し、長旅に出発しました。夕暮れ近く、散歩から帰ってきたイサクが目を上げて見ると、ちょうど、らくだに乗ったリベカも目を上げて、二人が見つめ合うという感動的な出会いのシーンでした。「…イサクは、母の亡き後、慰めを得た。」アブラハムとサラの祈りはこうして聞き届けられたのです。

ファミリーコンサート2021…

8月第五主日、緊急事態宣言延長に伴い、教会もあらためて来会自粛となり、オンラインの礼拝となりました。伝道者2章から「万古不易の真理」というテーマで、イスラエルの最高の知恵者であり、栄華を極めたソロモンが、地位も名声も富もすべてを手に入れ、その結果はいかに。「すべては空しく、風を追うようなものだ。」つまり求めても、手に入れても、心は満たされなかったのです。むしろ、食べる、飲む、働く…こうした基本的な生活の中に満足を見出す、それもまた神の御手によることと受け取っていく、ここに人間の知恵があるというのが心に残りました。今日は午後からファミリーコンサートがありました。昨年はコロナ禍で中止でしたが、今年はオンラインでの開催。バイオリン、ビオラ、チェロ、ウクレレ、サックス、ピアノ、フルート、オーボエ、歌、鉄棒、証し、多くの方が出演してくださいました。私たちの教会らしいコンサートができたことを感謝します。

生存者数二百七十六人…

8月の第四水曜祈祷会がありました。二週間お休みをいただきましたので、久しぶりの祈祷会に少し緊張しました。使徒の働き27:27~パウロたちを乗せたローマ行きの船は暴風に襲われ、アドリア海を漂っていました。人々は二週間も何も食べずに暴風に翻弄されるままになっていましたが、パウロの「あなたがたは助かります」という言葉によって元気づけられ、食事をとりました。夜が明けたころ、近くに入江が見えてきましたが、二つの潮流に挟まれて船は座礁し、ついに船尾から壊れ始めていきます。もはや万事休す…でも、パウロの言葉を信頼した百人隊長の指示で、二百七十六人全員が無事に陸に上がることができたのです。ともにこの危機を経験したルカならではの臨場感にあふれる描写でした。どんなに人間的にはもうダメだ…と思うような状況に陥っても、たとえ沈みゆく船の中にあっても、まことの神を知る私たちの存在は決して小さくないことを思わされました。

いよいよローマへ…

教会のデボーションは使徒27章です。人々の不当な訴えによって総督や王の前で証しをしてきたパウロは、いよいよローマ皇帝ネロのもとに送られることになりました。当時の世界の首都ローマにおいて福音を証しすることは、パウロが長く切望していたことであり、世界宣教における神の計画が前進することでもありました。ただし、ローマへの道のりはなお遠く、険しいものでした。途中、船は向かい風にあおられ、さらには暴風に襲われ、難破の危機に陥りました。もはや人々の助かる望みも完全に絶たれようとしている中で…パウロは毅然としてこう言いました。「元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う人は一人もありません。」パウロのように、神の御心に従って歩んでいても、途中で思わぬ暴風に襲われることはあります。でも、「私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになる。」この揺るがない確信を、私たちも持っていたいものです。

前進への命令…

8月第四主日、今日は献堂4周年記念礼拝でした。私たちの教会がこの場所に移ってきて、もう丸4年が過ぎるのだな…と感慨深く思いました。今はみんなで集まってのお祝いはできませんが、この教会でいろいろな方と出会い、主にある交わりを持たせていただいたことを感謝します。今日の礼拝メッセージは玉井邦美師が申命記1:5-8からメッセージを取り次いでくださいました。ただ恵みを受けるだけの教会生活は危険であること、また、教会には託された使命があることについてチャレンジを受けました。「あなたがたは向きを変えて出発せよ。」コロナ禍にあって、教会の活動も何かと制約がありますが、あらためて目を上げて教会が進むべき方向を確認できたように思います。今日もまた、コロナの感染者数は日曜日としては過去最多を更新。明後日からはパラリンピックも始まります。まだまだ感染拡大に歯止めがかからない状況ですが、御心を求めていきたいと思います。

キャンプ終わりました…

今週は夏休みをいただいて、大学生のオンラインキャンプで奉仕させていただきました。本当に充実した、内容の濃い四日間でした。緊急事態宣言が発令される中でもこうしてzoomを通してキャンプの恵みを味わうことができたのは、実行委員をはじめスタッフ、現役生、卒業生、多くの方の祈りと支えがあってのことだったと思います。この場を借りてあらためて御礼申し上げます。ありがとうございました。どこか自然の中で、対面で、時間も気にせずできたら…と思った学生たちもいたと思いますが、今の情勢の中での最善だったのではないでしょうか。今回のテーマは『伝道』でしたが、グループリーダーから信仰の決心や信仰の原点に帰る青年たちがいたことを聞いて、主の御名をあがめました。彼らにはまた、明日から厳しい現実が待っていると思います。でも、キリストがともにおられ、一人ひとりに与えられた御言葉が支えと希望になりますようにお祈りしています。

神の奇跡…

オンラインキャンプ、三日目が終わりました。今回の奉仕を依頼された時は、コロナ禍の教会のことで頭が一杯で、お受けするかどうか思案しましたが、これまで教会の青年たちがどれだけお世話になってきたかを考えたら、地域教会の牧師として感謝を表すべきだと思わされました。実際、キャンプが始まってみると、配信に不手際があったり、妻が入院することになったり…いろいろな予期せぬことが起こりましたが、まっすぐに御言葉に向かおうとする青年たちの姿に励まされっぱなしの三日間でした。連日メッセージの後に、zoomの牧師室に青年たちが訪ねてきてくれて、質問や感想を分かち合ってくれましたが、まさに牧師冥利に尽きる時間でした。参加者77名、初参加10名。「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」キャンプは明日の派遣礼拝で終わりますが、コロナ禍の時代の青年たちを、祈りと御言葉をもって送り出したいと思います。

信仰がなくならないように…

箕面の青空が戻ってきました。でも、このところの長雨は日本各地に甚大な被害をもたらし、金曜日頃まで予断を許しません。また、もはや驚きもないですが、大阪の新型コロナの新規陽性者も2,296人という過去最多を更新。全国でも23,000人を超え、歯止めがかからない状況です。神がいるならなぜこんな状況を許しているんですか…今日もキャンプの分科会で質問がありました。きちんと答えられたかわかりませんが、確かなことは、神はこの状況をご存知であって、心を痛めておられるということです。夜の集会のメッセージも、ペテロたちがイエスさまを見捨てて逃げ出していくところからでした。イエスさまはシモンに「サタンがあなたがたをふるいにかけようとしている」と警告しました。それなのに…。でも、イエスさまがそんな彼のために「あなたの信仰がなくならないように祈りました」と言われたことを中心に話しました。ここに私たちへの慰めがあるからです。

深みに漕ぎ出し…

今日からキリスト者学生会のサマーキャンプが始まりました。Zoomなので、学生たちとゆっくり交わることはできませんが、画面越しにキャンプの雰囲気を味わうことができて感謝です。私は分科会と夜の集会でメッセージを担当します。今夜はペテロとイエスさまの出会いの場面から、「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」を中心聖句に話しました。最後にカメラを切り替えるのを忘れていたことに気づきましたが…時すでに遅し。でも、何人かの方に『特に問題ありませんでしたよ』と優しく声をかけられ…とにかく一日目を終えてホッとしました。あと三日間、気を抜かずに奉仕を全うできるようにお祈り頂ければ幸いです。新型コロナによる緊急事態宣言はついに地域拡大と期間延長が正式に決まりました。また、西・東日本でも激しい雨が予想され、どこで土砂災害が起きてもおかしくない状況です。様々なことが最小限に抑えられるようにお祈りしています。

神から離れた人生…

8月第三主日は戦後76年目の終戦の日でした。先の大戦で亡くなられた方々を覚えて祈り、世界平和への思いを新たにしました。また、昨夜は西日本を中心に記録的な大雨が降り続き、各地に甚大な被害がありました。新型コロナの感染者数も一日2万人を突破する日が続いています。主よ、憐んでください…とただただ祈るばかりです。礼拝では伝道者の書1章からみことばを心に留めました。「空の空。伝道者は言う。空の空、すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」「空」とはもともと「息」を意味する言葉で、すぐに消えてしまう儚いものを表していました。神との関りのない人生はなんと儚く、空しいものだろうかというのです。それは当代随一の知恵者と言われ、経験豊富な伝道者の実感のこもった言葉でした。時代がどんなにうつり変わっても人間の本質は変わりません。今日の私たちにも、多くの気づきを与えてくれる書簡です。

千載一隅の好機…

台風一過でしたが、大事にしていた向日葵が倒れてたり、看板が飛んでしまっていたり…

CGNTVの撮影もあり、片付けと奉仕で慌ただしい一日でした。さて、教会のデボーションは使徒の働き21章から。聖霊に導かれたパウロは、いよいよエルサレムに到着しました。そこで早速、教会の指導者たちと会って神が異邦人の間でなさったことを報告し、ともに神をほめたたえたのですが、そのすぐ後でアジアから来たユダヤ人たちの扇動によって逮捕されてしまいました。なんとも痛々しい結果に…と思いきや、パウロは自分を「殺してしまえ」と叫ぶ民衆に向かって、立ち上がって弁明をしていったのです。その時、民衆は叫ぶのをやめて、パウロの話しに静かに聞き入ったとあります。この状況を千載一隅の機会に変えてしまうとは…。パウロの力強い証しにとても励まされました。私も来週はKGKのサマーキャンプ。オンラインですが、学生の方々に証しできる機会を感謝しています。

惜しまずにいられない…

8月第二主日はヨナ書4章から。ヨナの宣教によって、ニネベの人々がみな神を信じ、悔い改めに導かれました。ところが、これほど素晴らしいことが起こっているのに、ヨナは不愉快で神に怒っていたのです。自分の思うように事が進まず、逆に最も懸念していたことが成就してしまい、「私は生きているより死んだ方がましです」とまで言い出す有り様。主はそんなヨナの心に問いかけながら、静かに悔い改めを迫ります。そして、一夜で生えて一夜で滅びた唐胡麻を惜しむヨナに、ご自身の御心を示されたのです。「ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。」情け深くあわれみ深い主の愛があふれ出るような語りかけが心に響きました。今日は、緊急事態宣言発令に伴い、多くの方が来会を自粛され、オンラインで礼拝を献げられました。世界中で賛否両論あった東京オリンピックも今日が閉会式。多くの感動を与えてくれた選手の方々に感謝します。

走るべき道のりを走る…

使徒の働き20章から。パウロは約三年のエペソの宣教に一応のピリオドをを打って、御霊に示され遠くローマを目指すことを決意します。そこからマケドニヤに渡り、ギリシャ、トロアスの諸教会を再訪し、多くのことばをもって弟子たちを励ましました。中でも、ミレトスで教会の長老たちを呼び寄せての決別説教は圧巻です。「そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません」「鎖と苦しみが私を待っている」「けれども、私が走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。」パウロの宣教は、まさに命がけでした。その伝道者としての使命感にただただ圧倒されるばかりです。今もコロナ禍の状況が深刻化する中で、不要不急ではない礼拝をどのように献げるのがベストなのか…。一人一人が祈りのうちに御心を示していただき、主にあって平安があるように祈っています。

五十にして…

五十にして天命を知る…。現実はなかなか厳しいものですが、自分も50歳になりました。主の憐れみと大勢の方々の祈りと励ましに支えられて、なんとか今も牧師という尊い働きをさせていただけることを感謝いたします。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが…」今から25年前、洗礼を受けた時のお祝いに、教会のある方から三浦綾子さんの『ちいろば先生物語』の本をいただいて初めて榎本保郎牧師のことを知りました。こんな生き方があるんだ…と胸をワクワクさせながら読んだのを思い出します。その榎本先生は、さまざまな国で福音を宣べ伝え、52歳という若さで天に召されました。お会いしたことはありませんが、尊敬する先生の年齢に近づいて、改めてその偉大さを感じます。足元にも及ばないことは重々承知しながら、私は私なりに、少しでもイエスさまをお乗せするのに間に合う者にならせていただきたいと思わされます。

聖霊を受けましたか…

新型コロナの新規感染者数が増え続ける中、大阪府をはじめ6都府県で緊急事態宣言が発令されました。4度目の緊急事態宣言をどう受け止めるか…人によって温度差がありそうです。教会としては改めてオンライン礼拝を推奨していく方針ですが、この時期、一人でも多くの方が教会に目を向けてくださって、福音にふれていただければと願うばかりです。教会のデボーションは使徒19章から。パウロが第3次宣教旅行でエペソを訪問した際に、弟子たちに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」と答えたとあります。今日でもありそうな会話です。確かなことは、私たちがイエスを主と告白することができるなら、その人の心には聖霊がおられます。この聖霊が私たちの信仰生活を導いてくださっているのです。

思い直される主…

8月第一主日、礼拝メッセージはヨナ書3章から。主の御顔を避けて逃げ出したヨナは、荒れ狂う海に投げ入れられ、絶望の淵で大魚に飲み込まれ、そこで主への悔い改めに導かれました。主はそんなヨナに再び「立ってあの大きな都ニネベに行き…」と前と同じ使命を与えられたのです。ペテロもそうでしたが、失敗から立ち直った者が、改めて遣わされていく姿に感動します。3章は何といってもニネベの人々がひたむきに悔い改める姿が印象的です。神はそんな人々の姿をご覧になってわざわいを下すのを思い直されました。礼拝後に数人の方と『神は一度決められたことを思い直されるのか…』について話しましたが、まさに主の御心がここに示されています。それは、裁きよりも、救いであることです。「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」午後からの役員会では、緊急事態宣言発令後の教会の対応について話し合いました。結果については、また後日お知らいたします。

箕面災害支援ネットワーク会議…

新型コロナの新規感染者数は東京で過去最多の4,058人、大阪も再び1,000人超えとなりました。この数字だけでは判断できない面もあると思いますが、やはりより一層の注意が必要であることは間違いありません。明日の礼拝は感染対策を講じた上で通常の三部制で行いますが、2日以降のことは今後の社会状況等を鑑みて判断することになります。今日は午後から第1回箕面災害支援ネットワーク会議に出席しました。社協が中心となって、災害協力隊、青年会議所、消防団、ボランティアグループ、キューズモールなど、さまざまな団体の責任者が来られて、これまでの経験や情報を共有し、とても有意義な会議でした。こうした集まりにこれだけの人たちが集まる箕面市は頼もしいです。災害は起きないことに越したことはありませんが、地震や台風などの自然災害がこれだけ続く時代ですから、いざという時のために、教会も地域に役立つネットワークを作っていけたらと思います。

知られていない神に…

オリンピックの熱戦が続く中、一昨日あたりから国内の新規感染者数が1万人を超えるようになりました。感染力の高いデルタ株の猛威です。これを受けて、東京に続き、埼玉、神奈川、千葉、大阪にも緊急事態宣言が発出されることが決まりました。菅総理の会見ではワクチン接種の効果と人流の減少傾向が強調されていましたが、国民に向けての具体的な行動指針というものは明示されなかったように感じました。教会としても、今後の礼拝や集会をどうするか…役員会を中心に難しい判断が迫られています。教会のデボーションは使徒の働き17:16から、パウロのアテネ宣教の記述です。当時アテネには3000を超える宗教施設・礼拝所があり、さらに「知られていない神に」と刻まれた祭壇までありました。パウロは、そうした人々の宗教心を認めつつ、天地を造られた神を証ししたのです。私も今日は箕面市の災害支援ネットワークの会議に出席します。よき証しになれば感謝です。

ピリピ伝道(一)リディア…

7月最後の水曜祈祷会は使徒の働き16章から。パウロの第二次宣教旅行はここまで辛苦をともにしてきたバルナバとの意見の相違から、別行動をとる形で始まりました。二人とも優れた信仰者なのになぜ…と思うところですが、これよって二つの宣教チームが誕生し、宣教の拡大と次世代の育成という二倍の祝福につながるのです。パウロはシラスとともにアジアの教会を訪問した後、聖霊に導かれてヨーロッパへと渡っていき、そこでは紫布の商人リディアとその家族、若い女奴隷、さらには牢獄の看守やその家族など…次々と救いにあずかっていく者たちの姿が描かれています。もちろん、パウロたちに反対する者たちもいて、厳しい迫害もありました。でも、一人の魂が救われるために、神がすべてを導いておられることを思う時、私たちが今、クリスチャンとして歩んでいることはそれだけで意義深いことだと思わされます。とにかくここを出発点に、今日を歩んで行きましょう。

天の故郷にあこがれて…

7月の旧約聖書を学ぶ会がありました。創世記23章、アブラハムが妻サラのために墓地を購入するところから。アブラハム75歳、サラ65歳に、「わたしの示す地へ行きなさい」という神の命令がありました。行き先もわからず信仰をもって歩んだアブラハムの傍らにはいつも妻サラの存在がありました。喜びも悲しみもともに分かち合ってきた配偶者の死に、アブラハムは「悼み悲しみ、泣いた」とあります。信仰者であってもこの地上の別れは辛いものです。でも、泣いてばかりもいられません。アブラハムは立ち上がって、墓地を購入し、サラを葬りました。そして、やがて自分も子孫もその墓に納められていくのです。信仰者にとって『墓』は、単に人生のゴールではなく、同じ約束を相続する者として生き、天の故郷をあこがれつつ、この世を旅立った記念碑。私たちもみな、神の備えられた天へと引き上げられ、そこで再会し、主にまみえて礼拝をささげる続きがあるのです。

救いは主のもの…

7月第四主日、幾分涼しさを感じる朝でした。礼拝準備をしている時に、ある牧師の召天の知らせがありました。65歳、自宅での突然死とのこと…。詳しいことはわかりませんが、後輩に対しても面倒見のいい優しい先生でした。お世話になった先生のことを思い巡らしながら、今日の説教奉仕をさせていただきました。ヨナ書2章は、ヨナの感謝の祈りが綴られています。主の御顔を避けて、主の命令とは反対の町に向かったヨナでしたが、途中で激しい暴風に遭い、荒れ狂う海の中に投げ入れられてしまいました。息もできず海底に沈みゆく中で、もはや死を覚悟するしかなかったでしょう。しかし主は、そんな彼のために大魚を備えられ、助けられたのです。ヨナは大魚の腹の中で主を思い出し、主との関係を回復していきました。苦難に遭えば、誰もが主を思い出すものでもありません。思い出すのも、主の恵み。主は私たちのためにも救いの扉を備えて待っていてくださるのです。

異邦人を悩ませない…

57年ぶりとなる東京オリンピックが開会式を行いました。新型コロナの影響で史上初の一年延期、しかも緊急事態宣言が発令される中での開幕です。華やかな式典に胸躍らせる方もいれば、断固反対する方がいるのも確か。一番気の毒なのは間に立たされる選手の方々でしょう。大会関係者も命を削るような17日間だと思いますが…世界中の思いが一つとなるように祈ります。使徒の働き15章は、異邦人の救いに関して激しい論争が起こったエルサレム会議の出来事。今まで正しいと思ってきたことを捨てて新しい現実を受け入れるのはなかなか容易なことではありません。人の罪の性質は他者を悪者に仕立て自らを正しいと主張しやすいものです。サタンもそこにすかさず楔を打ち込んで、対立や分派を起こさせます。でも、この会議では聖霊が一人ひとりに働いて見事な解決に至りました。正論をかざすのも大事ですが、相手の立場に立って考えることを忘れないでいたいものです。

恵みによる救い…

人が多く集まれば、それだけ性格や考え方に違いがあるものです。直前までもつれにもつれた東京五輪も今日が開会式。すでにソフトボール、サッカーなど、酷暑の中でも懸命にプレーする選手たちの姿に大いに励まされます。いずれの国の方もみな、神が創造され、いのちを与えられた尊い存在。日本の面子より、『平和の祭典』と呼ぶにふさわしい大会になってほしいものです。教会のデボーションは使徒の働き15章から。異邦人の回心を喜ぶパウロとバルナバと、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべき」というエルサレムの長老たちの間で協議が行われました。信仰か、形式か…という議論に、ペテロが大事な一言を。「…主イエスの恵みによって救われる」去年からのコロナ禍で社会は大きく変わり、教会の活動も大きく変わってしまいました。だからこそ本質を見誤らず、ただ過去を懐かしむだけなく、新しい未来に向かって進んでいきたいです。

癒されるのにふさわしい信仰…

今日の水曜祈祷会は使徒の働き14章から。パウロの第一次宣教旅行は、行く先々で大勢の人々が信じると同時に、信じようとしない者たちによる迫害が起きました。パウロたちの宣教がいかに影響力があったのかが伝わってきます。そんな彼らがリステラで出会った足の不自由な人の出来事は心に残りました。彼は生まれつき足が動かず、これまで一度も歩いたことがありませんでした。彼はパウロたちの話しに真剣に耳を傾け、パウロたちも彼が癒されるにふさわしい信仰があるのを見たので「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と命じると、彼は飛び上がって歩き出したというのです。彼のイエスを信じる信仰が彼を癒やしたのです。今の時代なら、通りすがりの誰かがその光景を動画に撮ってYoutubeにアップしたら、どれだけの人が見て信じるだろう…と不埒な考えが頭をよぎりましたが、やはり奇跡も大事ですが、みことばを信じる人が起こされることの大切さを思いました。

苦難に耐える…

7月第三主日はハレファ・スルヤ師をお迎えして歓迎礼拝をささげました。「望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。」の御言葉からメッセージをしてくださいました。過去・現在・未来にある望みを覚えつつ、今ある苦難に耐え、1~2度ではなく、絶えず祈り続けていくことの大切さを語ってくださいました。個人的には、苦難に耐える召し、苦難に耐えることで奉仕をしている…というのが心に残りました。メッセージの中で前ジャカルタの知事のアホック氏の話しがありましたが、詳しいことがわかってよかったです。数年前、留学生のある学生が知事選のために祈ってくださいと話していたのを思い出しました。世界一のイスラム教国であるインドネシアでクリスチャンが役職に就くことの難しさ、大切さを考えさせられました。苦難は、忍耐を…品性を…希望を生み出す。この希望は神の愛が注がれているゆえに失望に終わることはないという約束を感謝します。

神はみこころのままに…

長い梅雨が明けて、猛烈な暑さがやってきました。日中は34℃まで上がったそうですが、これからさらに暑さは増してくるでしょう。コロナの感染も心配ですが、熱中症にも気をつけなければならない時期です。さて、教会のデボーションは使徒の働き13章になりました。アンティオキア教会から世界初の海外宣教師が派遣されます。このビジョンは彼らが教会で主に礼拝をささげている中で与えられました。そして、聖霊はこのために相応しい人物たちを聖別して送り出されたのです。神は今日でも礼拝の中で私たちに語られます。「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」神は今、私たちに何を語ろうとしておられるのでしょうか。明日は久しぶりの歓迎礼拝です。講師のハレファ・スルヤ師は学位、聖書知識はもちろん、謙遜で温かみのある先生です。ぜひご家族一緒に大きな期待をもって、主に礼拝をささげましょう。

春期コース終了…

水曜祈祷会はⅡ歴代誌19章から。アハブとの共闘で出陣したヨシャファテは九死に一生を得てエルサレムに帰還すると、有害無益な北王国の訪問をやめて、内政に専念しました。偶像の除去、律法の教育、主への恐れをもって歩むという王の思いが国中に浸透していきます。そんな平穏な南ユダに、モアブ人とアンモン人らの連合国が攻めてきました。この国家危急の時にヨシャファテ王は恐れを抱きつつも、いつものごとく主の宮に来て祈りを捧げました。「私たちは苦難の中からあなたに呼ばわります。あなたは聞いて、お救いくださいます。」神はその祈りに応えて「主の救いを見よ」と約束されました。まさにこれは神の戦い、信仰による勝利でした。さて、ハートフル英会話春期コースも今日が最後のクラス。朝から30℃近くまで上がって、午後は梅雨明け前の不安定な空から、時折バケツをひっくり返したような雨が…。いざという時のために、日頃からの備えが大切です。

久しぶりの再会…

東京は4度目となる緊急事態宣言が発令されました。本当に飲食店や観光業をはじめ多くの事業主が悲鳴を上げていることでしょう。2021年上半期の倒産件数も過去50年間ではバブル末期に次ぐ二番目の低水準だったそうです。父と自営業を営んでいた頃を思い出します。また、新型コロナの感染者数も東京が830人、大阪も225人といずれも前週の火曜日の数値を大きく上回ってきていて、第五波は五輪の真っ最中に来るとも言われています。これで大阪も緊急事態宣言が発令されてしまったら、また教会でも来会自粛をお願いしなければならなくなることも考えられます。このタイミングになりましたが、昨年9月に結婚で別の教会に移っていった青年と奥さまに久しぶりに再会しました。元気そうで何より。初々しい生活ぶりを見せてもらいながら、今後に考えているビジョンを聞いて頼もしさを感じました。大きな決断をするのが難しい時期ですが、主の最善を心より祈っています。

ヨシャファテの過ち…

Ⅱ歴代誌18章から。晩年は主から離れてしまったアサ王に代わって、息子ヨシャファテが南ユダの王位を継承しました。彼については多くの章を使って詳しくその治世が記されています。その生涯の大半は信仰深い、賢明な王の姿として描かれているのですが、やはり分岐点となったのは北イスラエルのアハブ王と姻戚関係を結んだことです。これによってヨシャファテは続く世代に大きな災厄を呼び込んでしまうことになります。まさに取り返しのつかない大きな罪悪をダビデの家に、そしてユダの国にもたらしていくのです。一つの判断、選択の誤りから、その後の人生、歴史を大きく変えてしまうことがわかります。人生のターニングポイントでどのような選択をするか…。「ヨシャファテは…言った。まず、主のことばを伺ってください。』」信仰者の道も、晴れの日もあれば、雨の日、曇りの日もあります。それでもまず第一に主のことばを求める者でありたいものです。

主の御顔を避けて…

7月第二主日、日中は30℃を越える夏日となりました。今日から礼拝ではヨナ書を講解していきます。「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。」主の召命がヨナに下りました。でも、ヨナはそれに背いて、ニネベとは正反対のタルシシュ行きの船に飛び乗ります。ニネベと言えばイスラエルにとっては悪しき敵国。憐れみ深い神がこの国を顧みるために自分を遣わすのだと思うと、ヨナとしてはどうしても従う気になれなかったのでしょう。そんな主の御顔を避けて、できるだけ遠くへ逃れようとするヨナの姿は、今日の私たちの姿とどこか重なってきます。そこがこの短い預言書が多くの方に愛される理由なのかもしれません。礼拝が終わって一人の女の子が質問に来てくれました。『どうして心の貧しい人がさいわいなんですか』私なりに説明すると、笑顔を見せてくれたので感謝でした。午後からは大学生からパソコンの操作を学んで…充実した主の日でした。

あなたが主を求めるなら…

東京五輪開幕まであと二週間、東京都で4度目となる緊急事態宣言の発出が決まり、さらに首都圏一律で無観客が決定しました。あちこちで落胆の声が上がっていることでしょう。また、これによる経済損失も計り知れません。熱海の土砂災害の復旧を祈りながら、今日も各地で大雨警報が発令され、気分も暗くなります。こんな時は日々のデボーションで励ましを…と思いますが。Ⅱ歴代誌14章から、南ユダのレハブアムの後を継いだアビヤ王、その後を継いだアサ王と、それぞれに目を留める出来事もあり、比較的落ち着いた時期を迎えましたが、その最後には主へのつまずきが記されていました。「あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自分を示してくださいます。」自分が願うような励ましではなくても、神が歴代誌を通して告げられるメッセージを素直に受けとっていきたいと思います。

主は正しい…

熱海で起きた土石流は4日目を迎え、死者7名、安否不明者27名となりました。もはや毎年のようにどこかで豪雨災害が起きています。安否不明者の確認と復旧が少しでも早く進みますようにお祈りしています。昨日もハンガーゼロの災害セミナーに参加しましたが、教会の責任と宣教について考えました。あらためて箕面市のハザードマップを見直すと、教会も危険度1の地域にあります。発災時に何ができるのか…地域にどんな貢献ができるのか…具体的な備えをしておかなくてはなりません。豪雨災害だけではなく、南海トラフは今後20年以内に70~80%。首都直下型地震も今後30年で70%、富士山噴火も連動して発生することなどが予想されています。神の愛と救いを地域に宣べ伝える教会として、有事の際こそその行動がとれなければ意味がありません。平時の時だけ主を賛美するのでなく、危急の時にも「主は正しい」とへりくだって証しできる者でありたいと思います。

レハブアムの治世…

教会のデボーションはⅡ歴代誌11章から。ソロモン王が死んで息子レハブアムが王位を継承しました。でも、彼の時代に王国は南北に分断し、乱世の時代を迎えていきます。それにしてもレハブアム王のわがままぶりは目に余るものでした。民の窮状に目を留めず、父ソロモンをも軽くあしらい、自分が偉大な存在であるかのように振る舞います。「三年の間、彼らがダビデとソロモンの道に歩んだからである。」かろうじて三年間は、神の人シェマヤの声に従って、王権を回復させていきますが、やがて主の目に悪であることを行い、主の懲らしめをうけることになるのです。『金持ち三代』とも言いますが、祖父ダビデの信仰遺産は孫のレハブアムには受け継がれませんでした。困難の中にいる時よりも、繁栄の中にいる時の方が信仰的には危険も多いということなのでしょうか。自分が神の戒めに逆らうだけでなく、子どもたちにも逆らわせた責任は重いと言わざるを得ません。

ただ、恵みによって

7月第一主日は梅雨の晴れ間の一日でした。コロサイ人への手紙もついに終わりのあいさつから。改めて思うのは、この時のパウロはローマの牢獄に捕らえられ、裁判を待っている状態だったことです。でも、この手紙にはそんな苦難の中の嘆き節は一切見られず、恵みに始まり、恵みをもって閉じられています。パウロは代筆者を介して、コロサイの教会を思いながら一つ一つの言葉を丹念に選んで手紙を記していったのでしょう。そして最後に記したのは自分と一緒にいる同労者たちの消息でした。ティキコ、オネシモ、アリスタルコ、マルコ、ユストと呼ばれるイエス、エパフラス、ルカ、デマス…ともすると何気なく読み飛ばしてしまいそうな名前の羅列ですが、その中にもパウロの伝えたいメッセージが込められていました。私たちも一人ひとり、至らぬ点や不甲斐ないところもありますが、主にあって新しくされ、互いに助け合い、祈り合う交わりであることを感謝いたします。

2021年の折り返し…

早いもので2021年も折り返しを迎え、今日もハートフル英会話クラスから楽しそうな笑い声が聞こえてきました。コロナ禍も少しずつ変化がありますが、まだまだ余談の許さない状況が続きます。少し前の大阪のように、東京の感染者も増えつつあり、23日からのオリンピック開催時には1000人台になることが予想されています。厳しい現実が続きますが、下を向かず、目を高く上げて歩んでいきたいものです。教会のデボーションはⅡ歴代誌8章から。ソロモンは神殿建設という大事業を成し遂げ、王国に平穏をもたらしました。「安息日ごと…日ごとの定めにしたがって献げた」壮麗な神殿において心からの礼拝を献げる日々が続いたことでしょう。でも、そんなソロモンもやがて主の道から反れて、彼の死後、王国は南北に分断、霊的堕落の一途を辿っていきます。勝って兜の尾を閉めよ、とはよく言ったものです。「目を覚ましていなさい」という主の声が聞こえてくるようです。

タラントをどう使うか…

教会のデボーションはマタイの福音書25章14節から。昨日に続いて、終わりの日を生きる姿勢について教えられた箇所、有名なタラントのたとえ。ある主人が三人のしもべにタラントを預けて旅に出たという話しです。タラントはTalentの語源とも言われるので才能や能力と思う人もいますが、本来は金の単位で、資産や財産を意味する言葉です。1タラントは6000デナリと言いますから相当な財産。そのタラントを預かったしもべは、一人はそれを資本に五タラントを儲け、同様にもう一人も二タラントを儲けました。ところが、一タラントを預かったしもべはそれを失くしてはいけないと思って土の中に隠しておいたのです。しばらくして主人が帰って来て清算をすると、二人のしもべは忠実だとほめられて、一人のしもべは怠け者だと叱られたという話し。このたとえのポイントは、主人が「それぞれの能力に応じて」タラントを預けたということでしょう。多すぎず、少なすぎずです。しかも、それをどう使いなさいとか何をしなさいとは一切言わずに各自の判断に任せていること。私たちもこの世に生まれてどれだけ多くの財産を神から預かっているのか…考えさせられました。

その日、その時に備えて…

3月第三主日礼拝、今日は曇りのち小雨の空模様でした。礼拝メッセージはマタイ25:1‐13、イエスさまが弟子たちに終末への備えについて教えられた3つのたとえ話しの一つ。十人の娘たちは花嫁の友人たちで、花婿が夜花嫁を迎えに来るのをともしびを持って出迎える務めがありました。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かったとあります。彼女たちはみなともしびを持って花婿を待っていたのですが、違いは予備の油を持ってきているかどうかでした。たとえのポイントは、花婿はキリスト、十人の娘たちは個々のキリスト者、ともしびは信仰生活(教会生活)、油は聖霊を表していることでしょう。つまり、教会にいる私たちがキリストの再臨をどう待ち望んでいるのかが問われているのです。ともしびを灯すには油が必要なように、信仰生活にも聖霊との交わりは欠かせません。万一に備えて予備の油を持って来た賢い娘たちと、先の事を考えずに油を持ってこなった愚かな娘たち…その差はあまりにも歴然でした。イエスさまがここで伝えたかったのは、終わりの日にあなたも賢い娘たちのように生きなさいということです。奥深い内容がギュッと詰まったメッセージでした。

ノアの日のように…

ハートフル英会話冬期コースが終了しました。今期もいろいろな出会いと別れがありましたが、楽しいクラスを講師と受講生の皆さまで作ってくださって心から感謝しております。これから三週間ほど間が空いて、また4/11から春期コースが始まります。大人クラス・キッズクラス、すでにオブザーバーの受付を開始しました。興味関心のある方はぜひ体験クラスをお申込みください。さて、教会の聖書通読はマタイ24章に入りました。十字架にかかられる時が近づく中で、イエスさまが弟子たちにされた最後の説教の場面。イエスさまはエルサレムの破壊とこの世の終わりを重ね合わせて話されました。まず偽キリストの出現、戦争や戦争のうわさ、国や民族間の対立、地震や飢饉の発生がその前兆です。それはまだ産みの苦しみの初めで、さらに弟子の迫害、背教と裏切り、偽預言者、道徳の退廃が続きます。そうした苦難の日々の後、かつてない天変地異が起こり、偉大な力と栄光を伴って人の子が再臨されるのです。それは「ノアの日と同じように実現する」とあります。あの時代にノアが忠実に神のことばを信じて歩んだように、私たちも霊の目を覚まして歩みたいものです。

四方八方塞っても…

『信仰とは四方八方塞っても上を開くことだ。』…「平民の福音」の著者としても有名な救世軍士官・山室軍平師の言葉です。1940年3月13日夜半、吹奏楽の聖歌演奏の中、『神よ、御国へ参ります』と言って召されたそうです。救世軍と言えば、最近は各地で災害が起こった際に迅速かつ的確な支援をされているのを目にします。同盟教団とは少し立場は違いますが、学ぶところの多い素晴らしい団体です。


自分を低くする者…

東日本大震災から13年を迎えました。2万人以上の方が命を亡くし、今もなお3万人近い方が避難生活を送られています。原発廃炉の見通しもつかない状況ですが、復興のために続けてお祈りします。あの頃、ボランティアに行った時にお世話になった現地の方と今も妻は連絡を取り合っています。それも尊いことだと思います。今日のデボーション、「だれでも自分を低くする者は低くされ、自分を高くする者は高くされます。」祈りの大切さを思わされました。


一番大切な教え…

3月第二主日、今日も穏やかなお天気のもと神の家族が一つ心で礼拝を献げました。メッセージはマタイ22章34‐46節から。パリサイ人の中の律法の専門家がイエスさまを試みようと声をかけてきました。「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」彼らは聖書全体から肯定的、否定的な613の戒めを見出していました。それらは平等に重んじられるべきものでしたが、それでもより重い戒め、より軽い戒めという区別をしていたようです。イエスさまの答え次第では訴える口実になると思ったのでしょう。そこでイエスさまが即時に答えられたのは、全身全霊をもって神を愛すること、隣人を自分自身のように愛することです。この二つの戒めに聖書のメッセージが集約されると言われたのです。そう言われても…どちらもそうそう簡単にできるとは思えない…。そんな声も聞かれました。確かに自分の力でそれを成し遂げようと思ったら、だれもが挫折を味わうでしょう。でも、ダビデがそうであったように、私たちも御霊によってキリストを主と呼び、この方とともに歩んでいきたいと思います。このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されているのですから…。

能登半島災害支援ボランティア…

月曜日から5人のチームで能登半島地震災害支援ボランティアに行ってきました。事前の天気予報ではずっと雨マークだったので心配していましたが、結果一日も雨に濡れることもなく、すべての作業が守られました。朝は内灘聖書教会内の能登ヘルプの事務所に集合し、デボーションとお祈りを持って出発。派遣先ではおもに家財の運び出しと片付け、割れたガラスや崩れた塀の処分などを行い、午後3時過ぎには片づけを始めてホテルに戻りました。目に映る光景は、たくさんの倒れた家屋、ひび割れた道路、4メートルを超す隆起した港…がありました。作業の合間に、被災された方とも直接お話しができましたが、地震発生直後のご様子やご家族を亡くされたこと…町も港も何もかも変わってしまったことを伺いました。あらためて…言葉では表現できない甚大な被害だったことを痛感しました。『大阪から来ました』と言いますと、『遠くから来てくれて本当にありがとう』と何度もお礼を言われました。今回の私たちの働き自体は本当に些細なものですが、少しでも被災者の方々の慰めと励ましに…そして、次のボランティアに来こられる方々の繋ぎとなれれば幸いです。

神のものは神に…

3月第一主日、風は冷たかったですが、青空の広がる一日でした。今日も教会に大勢の方が来られ、ともに主の御名をあがめる礼拝を献げました。メッセージはマタイ22章15節~22節、新約聖書の中でも有名な一節を心に覚えました。パリサイ人たちはヘロデ党の者たちと結託して、イエスさまをことばの罠にかけようと、カエサルに税を納めることは良いか悪いかを質問したのです。どちらに答えてもイエスさまを訴えようという魂胆でした。イエスさまは彼らの頑なな心を悲しく思われたでしょう。そしてデナリ銀貨を用いてあの有名な一節を言われたのです。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」キリスト者は天に属する者ではありますが、地上に生活する者としてその国の制度に従わなければなりません。理由は「主のゆえに」です。イエスさまも納税の義務を果たし、ピラトの裁判にも服されました。それと同時にさらに重要なのは、神に造られた者として、私たちは神の言葉に従い、神の栄光のために生きることです。イエスさまはすべての人に、あなたも人生の方向転換をして、神のもとに来なさい、神とともに歩みなさいと招いているのです。

私の望み…

昨年の秋に植えたカリフラワーが見事に育ったので少し早いのですが収穫しました。次はスナップエンドウが楽しみです。今週の水曜祈祷会では詩篇39篇を読みました。言い知れない苦難の中で、神への希望が人生のむなしさを支えている詩篇。「主よ お知らせください。私の終わり 私の齢がどれだけなのか。私がいかにはかないことを しることができるように。」口は禍の元と言いますが、ダビデは自分の舌で罪を犯さないように決意します。むしろ、神に向かってつぶやくのではなく、人生のはかなさを覚えることで心砕かれていきました。それでも「私の望み それはあなたです。」という信仰が一筋の光となって父なる神への希望の道を照らします。自分の人生の終わり、将来への悟りは、今を生きる意味を明らかにします。主にあって、私たちは生かされている。苦難の中で、本当に大切なものに目を向けていったダビデの信仰に教えられました。


神に招かれる幸い…

2月第四主日、雨がシトシトと降る少し肌寒い一日でしたが、教会の中はいつものごとく大勢の方が来られ、朝に2回の礼拝、子ども礼拝、午後からはスペシャルグレイスタイム、夕礼拝と恵みに溢れる一日となりました。礼拝メッセージはマタイ22章1‐14節、祭司長たちの頑なな態度を示すためにイエスさまが話された譬え話しの一つ、王子の結婚披露宴の譬えから。この話しのポイントは、王は父なる神、王子はイエスさま、結婚披露宴は天の御国、先に招かれた人はユダヤ人、後から招かれた人は異邦人を指しているところです。王は自分の息子の結婚披露宴のためにすべての準備を整えて、人々を招待しました。ところが、先に招いていた客は来ようとしなかったので、王はしもべを大通りに行かせ、出会った人をみな、披露宴に招待しました。すると、一人だけ王が準備した婚礼の礼服を着ていない人がいたので、その人を恵みの外に放り出したという話し。私たちも、この世の王である神から披露宴のような礼拝に招かれていること、礼服も準備していただいてそれを着て出られる幸いを思いました。病室にいる兄弟ともオンライン礼拝で一つ思いになれることも感謝します。

悪い農夫たちのたとえ…

ロシアによるウクライナ侵攻から2年が経ちました。教会のデボーションはマタイ21章33節から。イエスさまのたとえ話しの続き。ある主人がぶどう園を農夫たちに貸して旅に出ました。収穫期になったので主人は農夫たちのところにしもべを遣わして、分け前をもらおうと思いましたが、彼らはしもべたちを次々と殺し、最後は主人の息子まで殺してしまったのです。イエスさまが、主人はその農夫たちをどうするだろうかと問うと、聞いていた人々は、主人は農夫たちを滅ぼして、別の農夫たちに貸すでしょうと答えました。イエスさまは、この息子こそご自身であることを明らかにされたのです。イエスさまは今も生きておられ、やがてこの世界の裁き主として来られます。私たち人間は神さまから託されたこの世をどのように管理しているかを思わされました。


何が主に喜ばれることか…

2月第三水曜祈祷会、今日はヨハネ12章の高価なナルドの香油を捧げたマリア、マタイ21章のろばの背に乗ってエルサレムに入城されたイエスさまの姿を心に留めました。マリアはなぜ人々が見ている前でこのような惜しみない愛を現すことができのか…。また、ろばの飼い主はなぜ「主がお入り用なのです」という言葉だけですぐに渡してくれたのか…。どちらも何が主に喜ばれることかを考えたからでしょう。一方で、言葉だけの正論を振りかざし、マリアを貶めたユダをはじめ弟子たちの姿…。また、「ホサナ」と叫んでイエスさまを迎えた群衆の熱狂ぶり…。どちらも受難週に向かうイエスさまの目にどのように映っていたのでしょう。「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。」(エペソ5:10)をあらためて考えさせられる祈祷会でした。


らくだが針の穴を通る…

2月第三主日、柔らかな日射しが差し込む教会で礼拝を献げました。礼拝メッセージはマタイ19章から。富める青年がイエスさまのところに来て、永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをすればいいのでしょうかと尋ねたところ、財産を全部売り払って貧しい人たちに与えなさいと言われました。彼は良い行いによって救われることがどんなに難しいか、自分が何に執着しているかを思い知ったでしょう。そして、金持ちこそ救われると思っていた弟子たちもあらためて救われるには何が必要かを学んだことでしょう。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」あの青年も、ぶどう園が閉まってしまう夕方には間に合って弟子たちと同じ恵みにあずかることができたのでは…。今日のデボーション20章を読んでそんな思いになりました。


結婚と離婚について…

あちこちでかわいい梅花を目にする時期になりました。教会のデボーションはマタイ19章1節から。イエスさまはいよいよガリラヤからエルサレムに向かって出発します。するとパリサイ人たちが近づいて来て、イエスさまに論争を試みてきました。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」イエスさまは彼らの質問に対し、創世記から紐解いて、結婚とは何かを話されました。つまり、結婚とは神が結び合わせたものであり、人間の意志や都合によって引き離してはならないということです。パリサイ人たちはすかさず「では、モーセはなぜ…」と申命記24:1を引用して、離婚はできると主張しました。これに対し、イエスさまは離婚は最初から認められていたのではなく、人々の心が頑ななので許容したこと、「だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」と教えられました。このイエスさまの結婚に関する教えは今日の私たちにとっても重要です。日本の離婚率も三組に一組の割合…。私たちも結婚とは何かをあらためて考えたいものです。結婚カウンセリングもお勧めします。

あなたがたにできないことは何もない…

2月第二水曜祈祷会ではマタイ17:14‐27を読みました。イエスさまが三人の弟子たちと山から戻ってくると、ある人が自分の息子を憐れんでくださいと懇願してきました。息子はてんかんで大変苦しんでいて、弟子たちのところに連れて行っても、治すことができませんでした。イエスさまは思わず「ああ、不信仰な曲がった時代だ」と嘆息し、弟子たちに代ってその子から悪霊を追い出されたのです。弟子たちが自分たちに追い出せなかった理由をそっと尋ねにいくと、イエスさまは明確に答えられました。「あなたがたの信仰が薄いからです。…からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」信仰は量が問題なのではなく、質が問題です。半信半疑の信仰、あるいは神がいるなら証拠を見せろという人には、このイエスさまの言葉の真意は伝わらないでしょう。私たち自身は無力でも、私たちにとって幸いなのは、この無限の力をもった神を知っていることです。ある本の一節を思い出します。『パスカルが言ったように、神を信じて我々が失うものは何もなく、得るものは無限である。』

あなたこそキリスト…

2月第二主日、厳しい寒さもひと休みという一日でした。礼拝メッセージはマタイの福音書の分水嶺16:20‐30から。ピリポ・カイザリアでのイエスさまと弟子たちの有名な問答の場面。「あなたがたはわたしをだれだと言いますか。」この問いにどう答えるか、それが人生の大きな分かれ道です。ペテロは弟子たちを代表して、「あなたは生ける神の子キリストです。」という実に幸いな信仰告白をしました。イエスさまはその告白を大変満足されて、このことをあなたに明らかにしたのはわたしの父だと言われたのです。また、イエスさまは「わたしはこの岩(信仰告白)の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません」とも言われました。教会は、建物の荘厳さより、イエスさまを救い主と信じる者たちの群れを指します。そして、教会にはよみの門(死者の行くところ)に打ち勝つ、天の御国の鍵(福音)が託されているのです。福音を信じる人には御国に入る門が開けられ、信じない者にはその門は閉ざされる。私たち教会はまさに今日のノアの箱舟です。上から目線ではなく、ノアのごとくその生き方で、義を宣べ伝えていきたいと思います。

かわいそうに思われた…

教会のデボーションはマタイ15:29‐39から。イエスさまは神への祈りや弟子たちと交わりのため、人々を避け、遠いツロ・シドン地方を旅されました。徒歩でなされたこの旅行は、少なくても二、三カ月を要したことでしょう。そこではイエスさまとカナン人の女の麗しい出会いがあり、彼女の立派な信仰をほめられました。それから再びガリラヤに戻ってくると、イエスさまのもとに大勢の病人が連れて来られ、その一人一人を癒されました。それを見た人々は驚いてイスラエルの神をあがめたのです。そんなイエスさまのもとにはますます大勢の群衆が押し寄せてきました。イエスさまは弟子たちを呼んで言われます。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べ物を持っていないのです…」そう言って七つのパンとわずかな小魚で4,000人以上の人々のお腹を満腹にされる奇跡をなされたのです。「かわいそうに」とは内臓を表わす言葉を語源とし、「はらわたが揺すぶられる」「胸が痛む」などの意味があります。まさに寝食を忘れて人々の痛みを知り、その求めに応えられたイエスさま。目には見えませんが、この方は今も私たちの近くにおられます。

向かい風の中の信仰…

今日は時折みぞれ混じりの雨が降る寒い一日でした。聖書通読はマタイ14章とマルコ11章から。イエスさまのご命令で、弟子たちは舟に乗り込み向こう岸へと向かいますが、途中で強い向かい風に煽られ、夜明けまで波に悩まされました。自分たちがこんなに困っているのに主は何をしているんだ…と思う者もいたでしょう。すっかり気が動転してしまった弟子たちは、荒れ狂う湖の上を歩いてくるイエスさまを見ても、だれかわかりませんでした。イエスさまはそんな狼狽する彼らを憐れんで、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と声をかけられ、助けられたのです。同様の記事は8章にもありました。イエスさまはこのような信仰の訓練をしばしばなされたということでしょう。私たちの信仰も平時ではなく、想定外の有事の中でこそ試されるものです。大事なことは、イエスさまは私たちの弱さを十分知っておられて、「主よ、助けてください」と求めるなら、助けてくださるということです。私たちも、今も生きておられ、ともに歩んでくださるイエスさまを体験して、「まことに、あなたは神の子です」という信仰を告白し続けていこうではありませんか。

主が来られる日まで…

2月第一主日、立春を迎え、暦の上では春が始まりました。まだしばらく寒い日は続きますが、日に日に一日が長くなるのを感じながら温かな春を待ち望みたいと思います。礼拝メッセージはⅠコリント11:23‐26から。イエスさまは、渡される夜、弟子たちと最後の食事をとるとき、パンを取り、祝福してこれを裂き、弟子たちに与えて言われました。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」今日の聖餐式の元になった言葉です。聖餐式のパンとぶどう酒は、イエスさまの裂かれたからだ、流された血潮を表しています。イエスさまは私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり死んでくださいました。それによって私たちに神との平和が与えられ、私たちは癒されたのです。さらにイエスさまは死からよみがえって、今も生きておられ、私たちを聖餐に招き、やがて再び来られるとあります。まさに過去、現在、未来まで、キリスト教の中心教理がすべてこの聖餐に表されています。「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。」イエスさまの救いの素晴らしさが一人でも多くの方に伝わりますように。

小さな種のたとえ…

イエスさまは『種を蒔く人のたとえ』の解き明かしの後に、続けて3つのたとえを弟子たちに話されました。一つ目は『毒麦のたとえ』です。ある人が良い種を畑に蒔いた後、眠っている間に敵がやってきて毒麦を蒔いていきました。穂がでるまでは、毒麦と小麦は見分けがつきにくいので、主人は収穫までそのまま待つようにと言ったのです。キリスト教にも表面的には似ていても、本質的に全く違うものがあるのでご注意ください。二つ目は『からし種のたとえ』です。どんな種よりも小さいのに、成長すると、どの野菜よりも大きくなり、鳥が巣を作るようになるのです。まさにキリスト教は、少数の弟子たちから始まって全世界へと伝わっていきました。三つ目は『パン種のたとえ』です。わずか一握りのパン種のかたまりが、39㍑の粉を膨らませることから、からし種のたとえと同様に神の国の成長発展を意味していたのです。イエスさまの話しは本当に機知に富んだものです。理解しようとする者にはより分かりやすく、そうでない者にはさらに分かりにくくなる…。それは今日も同じです。信仰をもって耳を傾けるなら、わきまえのない者にも悟りが与えられるのです。

たとえで話す理由…

1月第五水曜祈祷会、マタイ13章にはイエスさまが群衆に向かって御国の奥義について語られた幾つかの話しが記されています。その最初の話しが『種を蒔く人のたとえ』です。教会学校でも定番の箇所ですが、あらためて読み直すと多くの励ましがあります。ここには農夫が蒔いた種が、道端、土の薄い岩地、茨の間に落ちた結果、良い実を結ばなかったこと、でも、良い地に落ちた種は実を結び、100倍、60倍、30倍になったとあります。農夫にとって大事なのは、無駄な労苦に思えることもあること、そして結果を見るには忍耐が必要なことです。『種』はみことば、『畑地』はそれを聴く人の心の状態を表しているとしたら、わかりやすいかもしれません。ただ、イエスさまがたとえで話す理由は、単にわかりやすくするためではなく、聞く耳のある者(聴こうする意志を持つ者)にはもっとわかるように、そうでない者にはさらにわかりにくくすることです。イエスさまの福音は奥深いと思わされます。数年前の、2000年前の種が発芽した…というニュースを思い出しましたが、私たちに命じられているのは福音宣教、その結果はすべて主にゆだねて待ち望みたいと思います。

みことばに生きる教会…

1月第四主日、時より小雨が降りましたが、寒さは幾分和らいだ一日でした。礼拝メッセージはエペソ3:14‐21から。ガリラヤから始まったイエスさまの福音が、地中海沿岸地方をはじめ全世界へと伝わっていった大きな要因は、パウロの存在です。パウロはもともと厳格なユダヤ教徒でしたが、復活の主と出会い、劇的な回心を遂げました。その後も迫害を受けながら、宣教の最前線に立って、キリスト教最大の伝道者と言われるほどになったのです。ここにはそんなパウロの切なる祈りが綴られています。「どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。」パウロの祈りは父なる神に聴き届けられ、時代から時代へ、今も力強く宣べ伝えられています。福音のバトンを受け継いだ者として、私たちもまたこの時代における使命を果たしていきたいと思います。2024年はこの御言葉を年間聖句として覚え、毎週の礼拝で賛美していきます。新しい教会テーマソングもできました。ぜひご視聴ください。

わたしが喜びとするのは…

教会のデボーションはマタイ12章から。イエスさまの弟子たちが麦畑を通った時、空腹だったので穂を摘んで食べたところ、その日が安息日だったので、パリサイ人たちがそれを労働とみなし、咎め立てたという箇所です。イエスさまは幾つかの旧約聖書を引用して、安息日を儀式的に守ることより、人間の緊急の必要を満たすことが優先されること、安息日の本来の目的は、労働の禁止よりも神の御心を行うことだと教えられました。つまり、神が喜ばれるのは儀式のような形式ではなく、隣人に対するあわれみの心を持つことです。今週も、ZOOMで能登半島地震の情報共有会議がありましたが、北陸聖書連盟を中心とした『能登ヘルプ』という災害ネットワークが立ち上がり、支援金・義援金の受付が開始されました。現地ではあちこちで断水が続き、未だ余震も続いていて、全壊率も高いということで、ボランティアの受付も来週からになりそうとのこと…。支援物資に関しても、刻一刻と現地の状況が変わるので、FaceBookなどを見て必要な物を送ってほしいとのことです。大したことはできないのですが、自分も行って何かさせて頂きたいと、はやる気持ちを抑えています。

春先はカルトの勧誘にお気をつけください…

いよいよ本格的な受験シーズンを迎えました。学生たちは寒さと誘惑に戦いながら最後の追い込みに励んでいることでしょう。側で見守っている親御さんたちも気が気ではないと思います。そうした中で、着々と勧誘の準備をしているグループがあります。毎年春先はカルト的な宗教も、ここぞとばかりに活動が活発化します。普通のサークルの勧誘と思ったら、それは隠れ蓑で、実は宗教の勧誘だったということはよくある話しです。誘う側も全く悪気がないし、紹介される人たちも人格者が多かったりするので、そこがカルトの集まりだとは気づきません。気づいた時には『ごほうび』と『恐怖』という二重洗脳に陥って、そこから抜け出せなくなってしまいます。つまり、グループの人たちこそ本物の友人、本物の家族だと思うようになり、そこから抜けることは罪であり、地獄行きだという意識を植え付けるのです。今まで仲の良かった家族にも平気で隠しごと(図りごと)をするようになります。入り口は広く、出口は狭く…それがカルトの手口(教え)です。過剰に心配することはありませんが、特に春先、若い世代の方々は学内等での優しい勧誘に気をつけてください。

弱い者を用いられる主…

今日は午前中にCGNTVの方が来られて、10分ちょっとのメッセージを三回分撮影しました。もうこの奉仕も10年以上になりますが、カメラの前で話すのは未だに緊張します。もちろん第一の願いは、まだ福音を聴いたことのない方に少しでもわかりやすく聖書のメッセージを伝えることですが、説教者として簡潔に話すための良い訓練にもなっています。撮影が終わってスタッフの方と談笑することも楽しみの一つです。また午後からは旧約聖書を学ぶ会がありました。出エジプト記4章から。主は燃える柴の中に現れて、モーセに「今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。」と命じられました。でも、この時のモーセはあまりにも大きな使命にたじろぎ、自分の弱さを訴えました。ここでのモーセと主とのやり取りは、今日の私たちも聖書を読んでいる時やメッセージを聴いている時に感じることかもしれません。でも、主はそんなモーセに「わたしはあなたとともにいる」と何度も告げられ、彼を力づけられたのです。神の前に自分の弱さを認めることは大切なことですが、そこでくじけないで、主の命令には必ず約束も伴うことを心に覚えていきたいものです。

あわれんでくださる主…

1月第三主日、大寒にあたり一年で最も寒い時期を迎えましたが、今日は賛美礼拝としていつも以上に高らかに主をほめたたえました。目をつぶって祈りながら賛美する人もいれば、手を上げて、立ち上がって踊り出す人もいました。また、メッセージ前には一人の姉妹が素晴らしい証しをしてくださいました。礼拝メッセージはマタイ9:35‐38から。「…群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」『あわれむ』という言葉は『内臓』を意味する言葉です。イエスさまは、群衆(全人類)をご覧になって、内なる心が震えわななくほどに激しい思いを持たれました。私たちの救いのために、ご自分の御子をこの世に送ってくださった父なる神の愛、すべてを捨てて低くへりくだってくださった主イエスの憐れみを思いました。特に「収穫は多いが、働き手が少ない…」という言葉が心に響きました。この時代にも、福音を必要とする方が大勢います。午後からはバイブルクラス、夕礼拝、青年会と、今日も多くの方とともに主の日を喜び感謝を献げました。今週もキリストの心を我が心として歩んでいきたいと思います。

あなたの信じたとおりに…

1月第三水曜祈祷会、少し寒さも和らいで青空が気持ちのいい一日でした。聖書はマタイ8:1‐17から。イエスさまの山上の説教の後、ツァラアトの癒し、百人隊長のしもべの癒し、ペテロの姑の癒しの三つの癒しの記事が続きます。イエスさまは彼らの懇願する声や状況に目を留められました。そして、当時の慣習に縛られず、病人にさわり、百人隊長の所に行き、手を触れられて、彼らの思いに奇跡をもって報いられたのです。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」人間の目にはどんなに難しいことのように思えても、イエスさまのもとに直ぐな心で求めていくことの大切さを思いました。イエスさまは求める者に必ず応えてくださる方です。今日はOCCで阪神淡路大震災追悼の祈り会がありました。早いもので29年の年月が経ちます。災害は忘れた頃にやって来ると言いますが、1995年に阪神淡路大震災、2011年に東日本大震災、今年は元旦に能登半島地震が発生しました。その間にも日本各地で地震や災害が頻発している状況を鑑みると、もはや明日どこで何が起きてもおかしくありません。日頃の備えとともに、終末の備えをするように聖書は告げているのです。

信仰と疑問の間で…

雲の切れ間から日射しは見えましたが、はらはらと小雪の舞う一日となりました。それでもこの寒い時期にも関わらず、健気に咲いている花たちを見るとなんだか励まされます。以前の自分のことですが、『神がいるならどうして…』この疑問がある限り、クリスチャンになることはできないと思っていました。礼拝でメッセージを聴いて感動することがあっても、すぐに疑問がわいてきて、自分で自分にブレーキをかけるように深入りしないでおこう…クリスチャンになったら、今まで自由にしていたこともできなくなる…と思っていました。そんな疑いや不安を抱えたまま、私は洗礼を受けました。だからというわけではないのですが、私は100%の信仰がなくてもクリスチャンにはなれますよと言っています。イエスさまと一緒にいた弟子たちだって、よく信仰の薄い者たちと言われていました。しかもあのユダでさえ、最後まで見捨てられなかったのですから。「もしあなたが悟りに呼びかけ、英知に向かって声をあげ、銀のようにこれを探し、隠された宝のように探り出すなら、そのとき、あなたは主を恐れることをわきまえ知り、神を知ることを見出すようになる。

心配しなくてよい…

1月第二主日、今日の礼拝ではマタイ6:19‐34からメッセージを聴きました。イエスさまのもとには弟子たちをはじめ病人や生活に困窮する人々が大勢集まっていました。イエスさまはそうした人々に心配しなくてよいと言われたのです。「心配」とはくよくよと思い煩ったり、必要以上に不安になることを意味しました。生活のこと、健康のこと、仕事や将来のこと、家族や人間関係のことまで…誰もがみな心配を抱えて歩んでいます。それはいつの時代も同じです。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」いくら心配しても先のことはだれにもわかりません。でも、先のことを計画しておられる方がだれであるかを私たちは知っています。心配から解放される秘訣は神を信頼することです。ある方が、イエスさまの時代の人々から見れば、現代人はずっとずっと恵まれている訳で『それでも心配するのはどういうことなのだろう』と思うに違いない…と言われていたのが印象的でした。礼拝後は成人祝福式を行いました。お休みの青年もいましたが、新成人たちの新しい出発が祝福されるように心からお祈りしています。

わたしはあなたがたに言います…

今年最初の水曜祈祷会がありました。マタイ5:33‐42「偽って誓ってはならない」「目には目を、歯には歯を」の解釈についてイエスさまの教えを学びました。ユダヤ人は誓いをしてもしばしばそれを果たさないことがあったようです。そのために律法学者たちは神の名以外の物を指して誓った場合は果たさなくても許されるという抜け道を考えました。イエスさまはこれに対して「誓ってはいけません」と教えられたのです。また、被害者が加害者に対して、受けた被害と同等の物を弁償してもらう権利(同害復讐法)がありました。これは報復させる権利というより、個人的報復によってお互いの間に争いが続くのを防ぐための規定でした。イエスさまはそうした誤った解釈を正して「悪い者に手向かってはいけません」と教えられたのです。私たちも自分の思い込みや誤った解釈に気をつけたいもの。そして自分の力ではできないからこそ、聖霊の助けを祈り求めたいものです。能登半島地震で亡くなられた方は既に200人を超え、二万人以上の方が避難所生活を余儀なくされています。明朝もキリスト全国災害ネットの世話人会で話し合いますが…主の憐れみを祈るばかりです。

本当に幸いな人とは…

1月第一主日、今日は最初の日曜日、新年礼拝を献げました。礼拝ではマタイの福音書5章から『山上の説教』の冒頭を読みました。イエスさまのガリラヤ宣教は多くの実を結び、その評判を聞いた大勢の群衆が集まって来ました。彼らはみな、様々な病や痛みで苦しむ人、生活に困窮する人々でした。イエスさまはそうした彼らを意識しながら、弟子たちをみもとに呼んで告げられました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」聞いていた人たちは不思議に思ったでしょう。普通に考えれば、貧しい人よりも富んでいる人の方が、悲しむ人よりも健康である人の方が幸いだと思いますが、イエスさまはそう言われなかったのです。「心が貧しい人」とは、神の前に自分が何一つ誇れるものがないことを自覚し、神に助けを呼び求める者を指します。わたしのもとに来たあなたがたは幸いです…イエスさまの優しい語りかけが心に響きました。今日は午後から新成人を迎えた青年たちが茨木聖書教会から来てくれて、小学生だった頃の面影を懐かしく思い出しながら、立派になった彼らの姿に励まされました。今日も恵みに溢れる一日を感謝いたします。

主の道を用意せよ…

旧約聖書の最後は預言者マラキの言葉をもって閉じられました。それからイエスさまが現れるまでの約400年間、神の言葉を告げる預言者は現れませんでした。言わば沈黙の400年です。そこに突然荒野に現れたのが、バプテスマのヨハネでした。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」悔い改めるとは、単に反省することではなく、人生の方向転換をし、神に立ち帰ること、人生を新しくやり直すことを意味しました。また、天の御国が近づいたとは、神の統治される国が、イエスさまの到来によって始まりイエスさまの再臨によって完成されるということです。「主の道を用意せよ」とは、救い主を心に迎え入れるために妨げとなっているものを除きなさいということです。私たちも今年、主の通られる道、主の御言葉をまっすぐ受け入れる心備えができているでしょうか。もうすでに目を覆いたくなるような出来事が頻発していますが、だからこそ騒ぐ心を静めて、変わらない御言葉に聴きたいと思います。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」こんな時主はどこにおられるのか…。あの苦しむ人たちとともにおられるのです。

神の言葉に立って生きる…

新しい2024年が始まりました。みなさま今年も宜しくお願い致します。元旦礼拝ではマタイ2:13-23から御言葉を心に留めました。東の国の博士たちの訪問はヨセフとマリアを喜ばせたと思いますが、その喜びも長くは続きませんでした。「人生一寸先は闇」と言いますが、神は御使いを遣わして、ヨセフたちに今すぐエジプトに逃げるように命じられました。博士たちが王宮とは別の道で帰ったことを知り、ヘロデは怒り狂い、ついに新約聖書中最も残忍な事件が起きってしまったのです。どうしてこんな痛ましい事件が起きてしまったのか…神はなぜこれを止めてくださらなかったのか…。様々な人間的な思いが頭に浮かびます。でも、聖書にはその明確な理由はなく、「預言者を通して語られたことが成就した」という言葉を繰り返して、こうした一つ一つの出来事が偶然ではなく、神のご摂理の中で起きたことであることを示したのです。私たち人間には知り得ない神の深淵なるご計画があることを思います。今日も午後4時頃に石川県能登半島で震度7強の地震が発生し、各地に甚大な被害が発生しました。今は一つでも多くのいのちが守られるように心からお祈りしています。

価値ある人生を生きる…

今年最後の主日礼拝を献げました。礼拝メッセージはマタイ2:1-12から。東の国の博士たちは不思議に輝く星を見つけ、思い切って救い主を礼拝するために旅出ちました。交通網もない時代、星だけを頼りに長旅をするのは様々な試練があったでしょう。それでも彼らは途中で引き返すことなく、神の導きを信じて進みました。ところが、彼らが胸躍らせながらエルサレムに着くと、町は何事もなかったようにいつも通りの様子でした。博士たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。」と尋ねると、それを耳にしたヘロデ王が動揺し、彼らにその幼子のことを調べてくるように命じました。こうして博士たちはついに幼子を見つけ、この上もなく喜び、自分たちの持っていた黄金、乳香、没薬を献げ、心からの礼拝を献げたのです。人に従うより神に従うこと、クリスマスの中心が何であるか、それが今日の私たちにとってどんな祝福なのかをあらためて教えられました。今日もこうして教会でともに集まり、礼拝を献げることができて感謝でした。拙いブログを読んでくださってありがとうございます。皆さまの上に主の祝福を心よりお祈りしています。

主を愛せよ…

12月第四水曜祈祷会、クリスマスの余韻を覚えつつ、今日はオンラインで祈祷会を行いました。新型コロナは五類に移行してだいぶ落ち着いてきましたが、このところ緩やかな増加傾向にあるとのことです。年末年始に帰省されたり、旅行に出かける方も多いと思いますので、どうぞご自愛くださいますように。デボーションは詩篇31篇から御言葉を心に留めました。著者は厳しい逆境の中で心身ともに弱さを覚えていました。しかし、「私は主に信頼します。あなたこそ私の神です。と自らを奮い立たせるように信仰を告白したのです。人はみな、生きていれば必ず問題はあります。すぐに解決できる問題もあれば、長い時間かかる問題もあります。そうした中で、信仰者にとっての慰めは、主が私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみをご存じであることです。御使いは、飼葉桶に寝ている幼子…それが、あなたがたのためしるしですと告げました。すべてを捨ててこの世にお生まれになられた主は、私たちの悩み、悲しみ、苦しみを知っておられるのです。「主を愛せよ。すべて主にある敬虔な者たち。主は誠実な者を保たれるが、高ぶる者には 厳しく報いをされる。

あなたのための救い主…

12月第四主日、今日は午前中にクリスマス特別礼拝、また夕方からはクリスマスイブ・キャンドルサービスを献げました。礼拝ではルカ2章から『あなたのための救い主』と題してメッセージをさせていただきました。世界で最初の救い主誕生の知らせは、当時の社会で特に虐げられていた羊飼いたちに告げられました。彼らは寒空の中、野宿をしながら羊の群れの夜番をしていなければならないほど、仕事に追われ、生活に追われていました。神はそんな人々から見下げられていた彼らを選んで、御使いを遣わされたのです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」『あなたがた』とは民全体を指す言葉、まさに全世界の人々に向けて語られる神のメッセージでした。羊飼いたちはその知らせを信じて、「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」と出かけて行きました。この素直な応答ゆえに救い主誕生を目の当たりにしたのです。人間にとっては偶然に思えることも、神にとってはすべてが必然です。皆さまの上にもクリスマスの良き知らせがありますように。

本当のクリスマスを…

今年もΧ'mas(Χはギリシャ語。英語のXではありません。)が近づいてきました。クリスマスはキリストのご降誕を喜び祝い、礼拝を献げる日です(大体AD4世紀頃から祝うようになったと言われます)。聖書にはイエスさまの誕生日が12月25日だったという記述はありません。なぜこの日にしたのかというと、ローマ人たちが冬至を境に日が長引くのを『太陽の誕生日』として祝っていたことに関係しているようです。太陽の誕生と言えば、「世の光・義の太陽」。つまりクリスチャンたちはこの異教的な祝祭をキリスト教的に祝ったのです。ちなみに日本で最初にクリスマスを祝ったのは1552年の山口県。その後、信長、秀吉、家康…と時代は移り、キリシタン禁制とともにクリスマスも消滅し、それから時を経て…明治7年(1874年)に再び祝うようになったとのこと。ちなみに…クリスマスイブはクリスマスの前日ではなく、…夕方という意味(ユダヤの暦では日没を境に日が変わります)、つまり12月24日の夕方からクリスマスは始まります。教会ではこの日、朝にはクリスマス特別礼拝があり、夕方からはキャンドルサービスがあります。皆さまのお越しをお待ちしております。

人を恐れると罠にかかる…

12月第三水曜祈祷会、教会のデボーションは箴言29章から。「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」この間の子どもクリスマス会に来ていた男の子が帰り際に『クリスマスってサンタクロースの日じゃないの?』と質問してくれました。後ろでお母さんが『牧師さんに聞いてみたら…』と背中を押してくれたようです。確か私も小学校高学年くらいまでサンタクロースの存在を信じていたので、友だち同士で話しているのを聞いて、戸惑いつつもなんとかごまかしたのを覚えています。子どもながらに、周りのみんなが知っているのに自分だけが知らないのはこんなに恥ずかしいんだ…と思ったものです。でも、大人になってその考えも変わりました。「人を恐れる」とは、人の顔色をうかがうこと、人の思惑を気にすることです。聖書は、その先には罪の罠があるから気をつけなさいと教えています。なぜなら罪とは、神に背を向けること、神を二の次にすることだからです。たとえ周りのみんながどう思おうと、自分はここに立つというものを持っていたいものです。「支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし、人をさばくのは主である。

ヨセフへの受胎告知…

アドベント第三礼拝がありました。この時期になると、町は華やかな雰囲気に包まれると同時に、一人一人は慌ただしい日々に忙殺され、クリスマスを祝うどころではない方も多いでしょう。でも、だからこそ神の前に静まり、御言葉からクリスマスの本当のメッセージに耳を傾けたいものです。今日の礼拝メッセージはマタイ1:18‐25から、ヨセフへの受胎告知がテーマでした。許嫁のマリアが身ごもっている…それはヨセフにとって穏やかな暮らしから一転して奈落の底へ落とされるような知らせでした。受け入れがたい現実を前に、彼には二つに一つの道しかありません。マリアの懐妊を公にして罰を受けさせるか、密かに離縁状を書いて町から去らせるか…前者を選べばヨセフの責任は問われず、後者を選べばヨセフにも疑惑の目が向けられるでしょう。そこで彼が選んだのは後者。マリアを助ける唯一の手段でした。でも、彼がその決断を下す時、神は御使いを遣わして、神に従うもう一つの道があることを告げられたのです。私たちも時に、人間的には八方塞のような状況に立たされる時がありますが、神はもう一つの道、脱出の道、神に従う道を用意しておられるのです。

正しい人は七度倒されても…

昨日の水曜祈祷会では箴言24章を読みました。「正しい人は七度倒されても、また起き上がり…」人生七転び八起のことわざを思い出すような御言葉です。箴言に記される『正しい人』とは、単に道徳的・倫理的に正しい人のことではなく、神を神として認め、神により頼んで歩む人のことです。まず不思議に思うのは、なぜそんな正しく歩んでいる人が何度も倒されるような苦しい目に遭うのかということでしょう。それなら信仰があってもなくても同じじゃないですか…という声が聞こえてきそうです。実際に私たちの人生は七度どころか、もっと多くの苦難にあっている方もいます。それはクリスチャンであってもなくても同じです。でも、聖書は、その心にイエスさまをお迎えしている、イエスさまとともに歩んでいるなら、その人の人生は決して失望に終わらないというのです。クリスマスは、私たちがどんな人生を歩んでも失望することがないように、神が考えられないほど低くなって来てくださったことを喜び祝う日です。今日はハートフル英会話の秋期コース最終日でしたが、made himself nothing…について少しお話しさせていただきました。Have a good Christmas.

マリアの賛歌…

穏やかなお天気のもと、今日も大勢の方がともに集い、アドベント第二礼拝を献げました。メッセージはルカ1:46~56『マリアの賛歌』をテーマにみことばを心に留めました。まだ幼さの残る少女に突然の御使いからの受胎告知がありました。そんなこと常識では考えられない…もしそれが本当なら、婚約中のマリアは姦淫罪、厳罰は免れず、町にもいられません。夫のヨセフや家族にも何と説明すれば…。様々な思いが少女の心の中に渦巻きます。御使いはそんな彼女に「神にとって不可能なことはありません」と告げると、マリアは『どうしてそんなことが信じられますか』ではなく、「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と答えました。その時、彼女の心から主への賛歌が溢れてきたのです。プロテスタントの教会は、イエスさまの母であるマリアを崇拝するようなことはしません。ただ…神のことばをそのまま受け入れた彼女の信仰者としての姿勢は尊敬に値するものとしてそれに倣いたいと思わされます。午後は約4年ぶりとなる子どもクリスマスがありました。たくさんのご家族が来てくださって、一緒に本当のクリスマスをお祝いできたのは感謝でした。

それゆえ、男は父母を離れ…

子ども会の時から来てくれていた女の子が結婚することになりました。私に司式を頼んでくれたのですが、二人ともまだ洗礼を受けていないので(正直少し悩みましたが)、結婚前カウンセリングを受けることとイエスさまへの信仰を確認してお引き受けました。前日の夜は、品川駅で久しぶりの母と十数年ぶりの兄と会う約束をして…これはこれで感慨深い夕食となりました。結婚式は、新横浜のホテルのチャペルで、リハーサルもしたつもりなのですが、やっぱり教会で行うのと勝手が違って少々戸惑いましたが、何より最初のバージンロードを歩いてくる新婦を見たら感動してしまい、涙腺が言うことをきかなくなって…。「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」最初から涙声の牧師で申し訳なかったですが、誓約、指輪交換、宣言…と守られて、大きな務めを果たし終えて新幹線で帰阪しました。教会に着くと、明日の礼拝メッセージの準備もラストスパート。注文しておいたアクリルケースが届いていて、早速あるご夫妻から献品して頂いた『Nativity』を教会の入り口に飾りました。明日礼拝に来られる方は楽しみにご覧ください。

イエスさまの奇跡…

教会で行っている英会話教室の一つの特徴は、一クラスの定員が六名までというところです。大人のクラスはあと二名ほどで定員となります。少人数なので先生とも気軽に話せて、他の受講生ともすぐ親しくなれます。ぜひ無料体験クラスをご利用ください。また、もう一つの特徴は、隔週でチャペルタイムがあることです。今日は新約聖書の中で最も有名な『五つのパンと二匹の魚』の話しから先生が話してくれました。イエスさまは、天地万物を造られた方なのに、私たちと同じ人間となってこの世に来てくださいました。それは、私たちと同じように苦しみや悲しみ、空腹や疲れることなどを一緒に負うためです。イエスさまは、この奇跡を通して私たちの生活、その必要の一切を満たすことを教えてくださいました。聖書を英語で読むと、また違った世界が見えてきて興味深いと思います。でも、イエスさまの奇跡として何よりも不思議なのは、神が人となられたということではないでしょうか。罪と悲しみと争いに満ちたこの世界に、しかもどうして飼い葉桶の中に生まれたのか…。「これが、あなたがためのしるしです。」ここにクリスマスの大切なメッセージがあります。

人の心と主の計画…

12月第一水曜祈祷会、先週から私が風邪をひいてしまい、今日も鼻声が続いているので…休会とさせて頂きました。楽しみにしてくださっていた方には申し訳ありませんでした。教会のデボーションは箴言19章から。「人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。」私たちはいろいろな計画を立てます。私も今週はあれをしてこれをして…と考えていました。結局、体調を崩して予定のことは殆どできませんでした。でも、代わりに休息する時間がたくさん与えられて、来年の年間聖句や教会形成について、また、体調を崩している方々の回復を祈り求める時間になりました。そのように神さまが導いておられたように思います。どうせなるようにしかならない…というのはクリスチャンの考え方ではありません。『主よ、今日私はこれとこれをしたいと思います。でも、あなたの御心を教えてください。私は何を為すべきでしょうか。』朝ごとにそうした思いを持つことは大切だと思います。今回ちょっと体調を崩しただけでも、普段健康でいられるのがどんなに恵みであるかを感じました。何もかも当たり前でない毎日、主と賢明な妻に心から感謝いたします。

ザカリヤの賛歌…

今年もアドベント(待降節)のシーズンを迎えました。アドベントとは、クリスマスまでの4週間、イエス・キリストのご降誕を喜び祝い、再臨の主が来られるのを待ち望む期間です。礼拝メッセージではルカ1章67節からザカリヤの賛歌をテーマに御言葉に聴きました。御使いガブリエルの言葉通り、ザカリヤとエリサベツに男の子が誕生しました。幼子を抱いて、喜びに溢れる老夫婦の顔が目に浮かびます。そして聖霊に満たされたザカリヤの賛歌はそのまま神の預言の言葉となったのです。「ほむべきかな。イスラエルに神、主。主はその御民を顧みて、贖いをなし、救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた。」神はご自身の約束を必ず成就されるお方です。また、私たちの救いを完成してくださるお方、私たちを遣わされるお方です。私もキリスト教の『キ』の字も知らなかった者ですが、聖書と出会い、教会に通うようになり、クリスマスに洗礼に導かれました。あれから26年が過ぎますが、今もなんとかクリスチャンでいられるのは偏に神の恵み以外の何ものでもありません。皆さまもぜひアドベントの時期、聖書から一緒に神の言葉に耳を傾けませんか。

人は心に計画を持つ…

ハートフル英会話秋期コースも残すところ、あと二回となりました。今日も和やかなご婦人たちの会話と賑やかな子どもたちの笑い声が会堂に響いていました。英会話は体験クラスがありますが、最初は緊張して受講される方も、次第に講師やクラスの方々と打ち解けて、親しくなっていく様子をみるのは楽しみです。新しい出会いが皆さまの人生をより豊かなものにするようにお祈りしています。教会のデボーションは箴言16章から。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。」人は自分の人生の大きなことも小さなこともよく思い巡らします。今、皆さまはどうでしょう。今日はどんな一日になるでしょう。私たちは自信をもって自分の為すべきことをし、有意義な一日を過ごしたいと思うのではないでしょうか。確かな一日を歩むにはどうすればいいのでしょう。自分で考えて、自分の力で、一つ一つのことを為していく。それも、立派なことです。でも、聖書は、私たちの歩みを確かなものするのは、主(神)であると教えているのです。神とともに歩む人生は、神の声を聴く人生です。弱さのうちに働いてくださる主を体験できますように。

ほむべきかな(ベネディクトス)…

昨日でホンダマモル作品展示会ヒトリコテンが終わりました。6日間大勢の方が足を運んでくださったようで感謝です。早いもので11月の第五水曜祈祷会。午前中は箴言15章から、午後はルカ1:5‐25、57‐80を読みました。「主の目はどこにもあり、悪人と善人を見張っている。」「穏やかな舌はいのちの木。舌のねじれは霊の破れ。」主が絶えず私たちを見てくださっていることは、善を行うことへの動機を起こさせ、また、悪を行うことへの防止に役立ちます。穏やかな舌は自分だけでなく他の人を癒し、逆に舌のねじれは自分だけでなく他の人を裏切ることになるなど、心しておきたい言葉がたくさんありました。夜はザカリヤとエリサベツの老夫婦の前にガブリエルが現れて「あなたは男の子を産みます。その名をヨセフとつけなさい。」と告げられるところから。ザカリヤは祭司でありながらそのことが信じられず、赤ちゃんが誕生するまで口がきけなくなりましたが、神のことばが時至って実現するのを目の当たりにすると「ほむべきかな。イスラエルの神、主。」と喜びを爆発させたのです。今日も教会でともに集まって御言葉を学び、互いに祈り合える幸いを覚えました。

I am who I am…

11月の旧約聖書を学ぶ会がありました。出エジプト3章から。モーセは羊の群れを導きながら、神の山ホレブで不思議な光景を目にしました。主の使いが燃える柴の中に現れて「モーセ、モーセ」と呼びかけ、そこで「わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」という神の召命を受けたのです。モーセは思わず「私は、いったい何者なのでしょう」と自分の無力さを訴えました。それでも神は「わたしがあなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。」と言ってモーセを力づけたのです。私たちも神の語りかけを聴いた時、それが自分の力の及ばないものだと思うとモーセのような言葉をすぐ口にしたくなるのではないでしょうか。でも、神の語りかけにはいつも約束が伴うことを心に留めておきたいものです。神はご自分を「『わたしはある』という者である」と啓示されました。それは神は昔いまし、今いまし、後に来られる方、永遠なる神、あらゆる物質の第一原因である方、他のものに全く依存せずに自立しておられる方であるということです。今日はあらためてこの御言葉が心に残りました。わたしはあるという方が私たちの希望です。

光のあるうちに…

11月第四主日、今日は関西宣教区の講壇交換日でした。大和郡山めぐみ教会の正村献三師をお迎えしてメッセージを取り次いでいただきました。ヨハネ12:35‐36、「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」イエスさまは、すべての人を照らすまことの光としてこの世に来てくださいました。神である立場をお捨てになってまで、私たち人間が光の子どもとなれるように、救いの道を示すために…ご自身をお献げくださったのです。信仰とは、このイエス・キリストを自分の救い主として信じることです。私とは違って、普段から寡黙な正村師がご自身の証しも交えながら、わかりやすく丁寧に語ってくださいました。感謝いたします。私も奈良での奉仕を終えて帰って来ると、教会はアドベントを迎える準備が始まっていました。『アドベント』とは『待降節』のこと、『来る、到来する』という意味があります。イエスさまのご降誕をお祝いし、この方が再び来られる日を待ち望む時です。『クリスマス』とはどんな日なのか…私にとってどんな意味があるのか…今年も一人でも多くの方に聖書を通して神の語りかけを聴いて頂きたいと思っています。

ゴスペルボックス来訪…

昨日あたりから急に秋も深まって、昼間も気温が上がらずに12月並みの寒さとなりました。これだけ寒暖差があると体調を崩す方も増えるのではないでしょうか。皆さま、どうぞご自愛くださいますように。この時期、箕面の山はもみじが鮮やかな秋色に変わり、今日、明日が一番の見頃となるそうです。ちょっと寒いかもしれませんが、夜のライトアップもお薦めです。さて今年も、いのちのことば社のゴスペルボックスが教会に来てくれました。インターネットを使えばいつでも好きな本を手軽に入手できるのですが、アナログ人間の私は…やはり紙媒体の本を手に取って読めるのが嬉しいです。古書コーナーもあって、欲しい本が幾つも見つかりました。デジタルの時代ですが、ぜひゴスペルボックスにはこのままがんばってほしいと思います。今日は教会のお掃除の奉仕者に加えて、クリスマスリースの飾りつけにきてくださった兄姉たちがいたので、いつもより賑やかな土曜日でした。明日の箕面めぐみ聖書教会は、関西宣教区の講壇交換日です。大和郡山めぐみ教会の正村献三師がメッセージを取り次いでくださいます。優しく温かみのある先生のメッセージを、お楽しみに。

人を喜ばす親切なことば…

教会のデボーションは箴言12章から。「心の不安は人を落ち込ませ、親切なことばは人を喜ばせる。」誰もが『忘れられない親切なことば』として覚えているものがあるのではないでしょうか。私は25歳の時に、初めて教会に行きましたが、誰ひとり知り合いもいなかったので、神を知らない自分のような者が来ても良いのだろうかと不安でした。そんな時『ようこそ、教会へ』と親切に声をかけてくれたがある青年いました。私はその彼の一言にとても安心してリラックスできたのを覚えています。その後も彼は私にずっと親切にしてくれて、いつからか『牧師になった方がいい』と言ってくれた最初の友人となりました。彼の言葉を真に受けた訳ではないのですが…今、本当に牧師となっていることを思うと、彼の影響は大きかったと思います。そんな彼が、今年も大阪で個展を開催しているというので行ってきました。『ヒトリコテン』11月23日~28日までやっています。彼の描いた絵を見ると、どこ懐かしいような、心がほっこりするような不思議な感覚になると思います。ご都合のつく方はぜひお立ち寄りください。そして、日曜日はぜひお近くの教会にいらしてください。

心に知恵のある者…

11月第四水曜祈祷会、教会のデボーションは箴言10章から。「憎しみは争いを引き起こし、愛はすべての背きをおおう。」暗いニュースばかりが目立つ中で、あらためて心に響いてくる御言葉でした。人間にとって一番大事なことについて、ある人は『衆知こそ人間の偉大さを発揮させる最大の力』と仰ったそうです。果たして人間は万物の王者と言えるのか…。神のかたちに造られ、万物を治めるように命じられた本来の人間はどれほど豊かな賜物をいただいていたのでしょう。しかし、人間は罪を犯すことで、その立場、使命、賜物を自ら捨て去ってしまったのです。それ以降の歴史は、争いを繰り返し、神に背を向け、自然災害などにも弱い存在になってしまいました。神はそんな人間を憐れんで救い出すために、イエスさまをこの地に遣わしてくださったのです。イエスさまが成してくださったのは、まさに愛と赦しのわざでした。それによって、私たちはすべての罪からおおわれたのです。今日が召天日だった英国の作家C.S.ルイスはこう言ました。『新しい目標を持ったり、新しい夢を見るのに、年取り過ぎたということはない。』あなたも新しい一歩を始められませんか。

富士山を眺めながら…

今週は教団の教職教育部の会議で静岡県の聖心会裾野黙想の家に行っていました。来年度のことなどいろいろと審議事項も多い会議ですが、今回は宿泊先がよかったので充実した二日間となりました。ご準備くださったS牧師に感謝です。一面に広がる茶畑と富士山を眺めながら、朝は歩きながらのディボーションでした。箴言9章から。「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。」箴言の中心テーマがここでも語られています。「知恵」とは、神を知ることを意味しますが、これは本を読んだり学べばわかるというものではありません。何より子どものような素直な心で神さまを心に受け入れなければなりません。もともと人の心は頑なで、自己中心ですから、神を受け入れることに抵抗があるものです。でも、その心を砕いていただいて、神中心に生きることができるなら、それは恵み以外の何ものでもありません。会議が終わり、せっかく三島まで来たので…以前よりあこがれだった先生のお宅を訪問させていただきました。そこで話していただいた一つ一つのことが心に沁みて、珠玉の時間でした。大きなご褒美をいただいて、これから帰阪します。

主に喜び叫ぼう…

11月第三主日、少し肌寒く感じる朝でしたが、眩しい光が差し込む教会で収穫感謝礼拝を献げました。日ごとの糧を与えてくださる主に心から感謝をいたします。礼拝メッセージは詩篇95篇から。「さあ 主に向かって 喜び歌おう。私たちの救いの岩に向かって 喜び叫ぼう。」礼拝とは、主を喜び賛美することであり、主の御前にひれ伏すことであり、主の御声を心で聴くことです。まことに主は大いなる神。すべての神々に勝って、大いなる王です。その方の招きに応えて、感謝をもって、賛美をもって、御前に進み出ましょう。また、私たちを造られた主の御前にひれ伏し、膝をかがめましょう。「今日 もし御声を聞くなら …心を頑なにしてはならない。」神は御言葉をもって語りかけてくださる方です。また、私たちの賛美を喜ばれる方です。順境の時も、逆境の時も絶えず御名をほめたたえる者でありたいものです。今日は礼拝後に5名の兄姉の転入会式がありました。素晴らしいお証しとご家族での特別賛美に心が潤されました。午後からは囲碁将棋クラス、卓球大会、新しい『ぶどうの木ーほっこり、ゆったり、まったりタイム』もあって、盛りだくさんの一日でした。

あなたの信仰があなたを救った…

横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されて46年もの年月が過ぎました。当時、13歳の少女は部活からの帰宅途中で連れ去られてしまいました。どんなに怖かったでしょう…。母親の早紀江さんも必死になって探しましたが、見つからず、親戚からは『先祖を大事にしていなかった罰なのでは…』と言われたそうです。そんなある日、ある宣教師が早紀江さんに一つの聖書の言葉を紹介しました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」この御言葉との出会いが、早紀江さんがクリスチャンになる一つのきっかけになったそうです。早紀江さんも元気なうちに…めぐみさんが生きて帰って来ることを信じて心からお祈りします。今日のハーフル英会話はレッスン後にチャペルタイムがありました。ルカ7:36~。『なんでも鑑定団』という番組で、時々、古くから家にあったものが専門家たちに鑑定してもらうとどんでもない値段だったということがあります。同様に、私たちも『神の赦し』を安く見積もっていることはないですかというお話しでした。それがどんなに値打ちがあるかは、やがて神の御前に立つ時、明らかになるのです。

ただ、おことばをください…

11月第三水曜祈祷会、朝から一段と肌寒く感じる一日でした。朝は箴言5章1-23節、夜はルカ7章1‐10節を読みました。箴言5章は『よその女』(誘惑)に対する警告とその報いについて記されていました。「人の道は主の御目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を向けてくださる。」主は絶えず私たちの人生に目を留めてくださって、心配してくださっていることを思いました。誘惑に対する最も賢明な態度はそこから離れることです。ルカ7章は百人隊長の信仰とその謙遜さについて記されていました。「私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。」百人隊長の信仰は何かしるしや証拠を見せてくださいというのものではなく、ただおことばを下さいというものでした。こうして彼らが家に戻ると、しもべは良くなっていたのです。イエスさまは言われました。「わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」百人隊長は異邦人ではありましたが、まことの神への信仰をしっかり持っていたのです。神のことばには力がある、心に留めておきたい言葉です。

関キ災・第9回懇談会…

あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」関西キリスト災害ネットワーク・第9回全体懇談会を行いました。今回も大阪シオン教会を会場に、一般社団法人クラッシュジャパンの永井敏夫代表を講師に招いて、『教会間ネットワークの大切さを』テーマに講演していただきました。教会間ネットワークとは何かを考えてみてください…という問いかけから、支援と防災の違いなど、非常に実際的なお話しをしていただきました。関キ災ならではのゴスペルミニコンサートや防災士によるワンポイントアドバイス、聖書の奨励などもあり、あっという間の二時間の懇談会でした。今後、南海トラフ巨大地震の発生率は70~80%と言われています。災害が起こる前のネットワークなので、なかなか当事者意識をもって集まってくださる教会は少ないのですが、これからも草の根的に活動を呼びかけていこうと思っています。もしかしたら、あの働きは無駄だったね…となるかもしれませんが(それが一番良いことですが)、もしものために、行政や地方自治体も届かないところで助けを求めている教会やだれかがいることを覚えて、今からできるベストを尽くして備えたいと思います。

栄光のしもべ…

11月第二主日、立冬も過ぎ暦の上では冬を迎え、先週とは打って変わって、今日は肌寒く感じる一日でした。メッセージはイザヤ書53章後半から。「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。…しかし、彼を砕いて病を負わせることは、主のみこころであった。」キリストは私たちすべての者の咎を負って、痛めつけられ、黙って苦しみにあわれました。不正な裁判によって、犯罪人の一人として卑しめられ、十字架にかかり死んでいかれました。それは主のみこころであって、キリストは最後まで従順に成し遂げられたのです。でも、神はこの方を死からよみがえらせ、彼を信じる者たちに永遠のいのちをお与えになりました。そして、キリストは今も生きておられ、ご自分の民のためにとりなしをしておられるのです。イザヤの時代にはこの「しもべ」がだれを指しているのか、それが一体何を意味しているのかを悟る人は少なったでしょう。だれもそれが自分の救いのためであることがわからなかったのです。それはこの時代の私たちも同じです。イザヤ書53章を読んで、あらためて自分の罪深さ、贖いの代価の尊さ、救いの確かさを心に刻みました。感謝いたします。

だれとともに人生を歩むか…

このところ11月とは思えないほど温かい日が続いて、教会の花たちも微笑んでいるように見えました。教会のデボーションは箴言1:1-19から。ソロモンによる箴言には価値ある人生を歩む秘訣が散りばめられています。「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」主を恐れるとは、単に恐怖心を抱くことではなく、万物を創造された神の偉大さと自らの罪深さの現実に恐れ慄き、神への畏敬の念を持つことです。神は私たちに対し、「恐れることはない」「わたしのもとに来なさい」と仰ってくださるのです。今、ある大学生の青年と洗礼に向けての学びをしているのですが、今日は彼の素直な信仰に感銘を受けました。『あなたは、自分にどんな罪があると思いますか…』という質問に、彼は少し考えて、『一週間を振り返って、すぐに悔い改めることが思い浮かばなかった自分に罪を感じました…』と答えてくれました。彼は罪の本質がよくわかっているなぁと思いました。同時に、彼が神を恐れ、神とともに歩んでいるのがよくわかりました。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」一人でも多くの青年に、価値ある人生を歩んでほしいと思います。

ましてわたしは…

11月第二水曜祈祷会、ヨナ書4章から御言葉を学びました。北イスラエルの預言者ヨナに、神は敵国のニネべへの宣教を命じられましたが、ヨナは主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとしました。神はそんなヨナの不従順を戒めるために嵐を送り、人々は不本意ながら彼を海の中に投げ入れたのです。逆巻く海の中でもはや万事休すのヨナを救ったのは、神が備えられた大魚でした。大魚の腹の中でヨナは感謝の声をあげて、救いは主のものだと確信し、神への再献身を決意します。神は再び、そんなヨナにニネべ宣教を命じ、今度はヨナも従順に従うと、なんとニネべの人々はみな悔い改めに導かれて、神も裁きを思い直されたのです。ヨナはこのことに怒りを燃やし、神に不服を訴え、こんなことなら「死んだ方がまし」とまで言いました。すると神は、今度は一本の唐胡麻、一匹の虫、焼きつくような東風を備えられ、あなたの怒りは当然なのか…と問われたのです。このヨナ書は、ヨナ自身の『懺悔録』と言えます。幸いもわざわいも、神からくるもの。無駄なものはひとつもない。神が望んでおられるのは、今もすべての人が救われて、真理を知るようになることなのです。

苦難のしもべ…

11月第一主日、11月とは思えないような夏日の一日でした。礼拝メッセージはイザヤ書53章前半から。イザヤ書はここで、まるでカメラのピントが合うようにはっきりと一人の人物を描き出します。この方は、見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない、人々が顔を背けるほど蔑まれ、…尊ばれない方でした。「しかし彼は、私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。」旧約聖書中、これほどはっきりとイエスさまの受難が描き出された箇所は他にないでしょう。読めば読むほど、ここに福音の真髄が示されています。午後からのバイブルクラスでもイザヤ書53章を分かち合いしたが、ある方が、ユダヤ教のある一派の方はこの章を読むことを禁じているそうですと話されました。確かに、イエスさまをメシアと認めない立場の方には、イザヤ書53章を読むのは辛いでしょう。寄る年には勝てず、私も老眼をかけるようになりましたが、文字がよく見えるようになりました。色眼鏡でなく、聖書というメガネをかけるなら、新しい人生が見えてくると思います。

栄光と力を主に…

教会のデボーションは詩篇29篇から。「栄光と力を主に帰せよ。」これはいつも何をするにも心に刻んでおきたい御言葉の一つです。人間には『何か上手く行った時の栄光は自分が取り、失敗した時の責任は他人に押し付ける』という傾向がないでしょうか。今週は幾つかの教会ホームページ編集を手伝って、良くなったのか、悪くなったのか、専門家ではないのでわかりませんが、喜んでもらえてよかったです。ただ、そんなことでも感謝してもらえるといい気になるもの…。コロナ禍になってやむを得ず覚えたことなので、私の力ではなく、神が教えてくださったことでした。どんな場合でも、どんな些細なことでも、素晴らしいこと、喜ばしいことを、すぐに栄光と力を主に帰す者になりたいと思います。私たちの目に映るすべてのことの背後には神の御手があることを思いますが…先月7日から始まったイスラエルとイスラム組織ハマスとの衝突による死者の数は双方あわせてついに1万人を超えてしまいました。この先、地上戦が激化すると言われる中で巻き込まれる住民の数もさらに増えることが予想されます。世界中が心を痛めて、一刻も早い戦争終結を祈っています。

誠実な歩みとは…

11月第一水曜祈祷会、今日は詩篇26篇を読みました。何か重大な危機が国民全体に迫る中で、イスラエルの王であり、真の神を知るダビデは具体的な助けを神に祈り求めました。「主よ 私を弁護してください。私は誠実に歩み よろめくことなく 主に信頼しています。」『弁護してください』とは一般には『さばく』と訳される言葉です。悪者を罰し、正しい者を弁護する、公平な審判を行ってくださいというのです。誠実に歩むとはどうしたらいいのか。それは、主の目には不完全であっても、自分にできる限りの誠実さを尽くして、主に従うということです。人間ですから、判断を誤ったり、自分勝手な行動で神を悲しませてしまうということもあるでしょう。でも、そこで開き直らないで、示される罪(神に背くこと)があるなら、悔い改めて(罪から方向転換して)神の恵みと真理の内を歩み続けることです。自分で自分をどう思うと、主を信頼して歩むことです。主は私たちが思う以上に遥かに憐み深いお方です。「私の足は平らな所に立っています。数々の集いで 私は主をほめたたえます。」願わくは私たちも神との関係における平らな所にいつも立っていたいものです。

全キ災&JEA共催会合…

東京のお茶の水クリスチャンセンターで全キ災&JEA援助協力委員会共催の会合がありました。南海トラフ巨大地震や首都直下地震などの大規模災害に備えての各支援団体による全体会合。今回は東北ヘルプの川上直哉氏が『支援と宗教』というテーマで語ってくださり、ご自身の東日本大震災での経験や大学の非常勤で教える立場から、重い内容を短い講演にまとめてくださいました。冒頭の『防災はイメージすることが大事』、宗教にもできること、宗教でなければできないこと、イエスさまがすでにそこで働いておられるのを邪魔しない活動…など、考えさせられました。グループディスカッションでも、同じテーブルの専門家の貴重な意見も聞くことができてこれも目が開かれる思いでした。終わって足早に電車に乗り込むと、山手線で仮装している人を数人見かけましたが、今年は渋谷駅周辺もいつもより仮装している人は少なかったようで、事故やゲガ人も少なったとのこと。渋谷区長の『来ないで』という呼びかけも届いたのかもしれませんが、オバケの仮装して、お酒を飲んで、町を練り歩くのは、もうそろそろ終わりでもいいかな…と思うのですが、いかがでしょう。

秋の歓迎礼拝2023…

10月第五主日、秋晴れのさわやかな主日。今日は玉井敦子師をお迎えしてメッセージを取り次いで頂ました。新約聖書の中でもイエスさまから「あなたの信仰は立派です」と褒められた数少ない女性信仰者の姿から学びました。彼女は母親で、自分の娘が悪霊につかれて苦しんでいることをイエスさまに訴えました。その時のイエスさまの答えは「子どもたちのパンを取り上げて…」というなんとも冷たく感じるようなものでした。それでも、彼女はたとえ自分の願うような答えがもらえなくても、「主よ、そのとおりです。…」とあきらめずに答えを求め続けました。食卓から落ちるパン屑でもいいです…娘を癒やせるのはあなたしかいません…あなたを信じます。そんな彼女のひたむきな信仰を見て、ついにイエスさまは「…あなたが願うとおりになるように。」と言われました。メッセージを通して、あらためて深い真理があることに気づかれました。今日は3名の兄姉の転入会式があり、素晴らしいお証しを聞かせて頂きました。また、午後からの講演会にも多くの方が参加してくださって、『神に喜ばれるクリスチャンライフ』について分かち合いました。感謝いたします。

ゆきなれた路の…

今日もハートフル英会話から楽しそうな笑い声が聞こえてきました。レイチェルさんはオーストラリアに一時帰国のため、リアンナさんが臨時講師で来てくださいました。Kidsクラスも新しい受講生が加わって、さらに元気いっぱいの子どもたちでした。ホゼアさんは最近二冊目の本を出版されましたのでぜひご一読を。さて、今日10月26日は、29歳という若さでこの世を去った詩人・八木重吉さんの召天日でした。生前には『秋の瞳』と題するたった一冊の詩集を遺したのみでしたが、それが機縁で読売新聞から初めて詩の依頼があり、人生最初の原稿料二円を手にし、それで新約聖書を10冊購入して周りの人に分かち合ったそうです。私は彼の二つの詩をよく思い出します。『ゆきなれた路の なつかしくて耐えられぬように 祈りのみちをつくりたい。』『このあかるさのなかへ 一つの素朴な琴をおけば 秋の美しさに耐えかねて 琴はしづかに鳴りいだすだろう。』神への祈りがゆきなれた路のように…自分のことも、ご家族のことも、周りの人のことも、よく祈る人だったのでしょう。このあかるさ…彼にとってはまさにイエスさまのことだったのではないかと思います。

今すでに神の子どもです…

教会のデボーションはⅠヨハネ3章から。ヨハネは教会の中に誤った情報や考え方が入り込もうとしている中で、正しい信仰に立って歩むように励ましの手紙を書きました。特にこの手紙が書かれた頃は、クリスチャンとしては二世、三世の時代に移っていました。いつの時代もそうですが、大人になって信仰生活を始めたのとは違って、生まれた時から教会に通っていて、自分がいつイエスさまを信じたのかわからないという人たちもいたと思います。『本当に神さまなんて信じているの?』『天国なんてあると思ってるの?』と友だちに冷やかされて戸惑う子たちもいたでしょう。「私たちが神の子どもと呼ばれるために…事実、私たちは神の子どもです。」ヨハネのことばは明確です。やがてとか、いつかでもない、今すでにあなたは神の子どもだというのです。だれが何と言おうと、時代がどう変わろうとこの事実に変りありません。クリスチャン一世でも、隠れクリスチャンのように過ごしている人もいる(私も救われたばかりの頃はそうでした💦)ので、結局はその人と神さまの関係です。今、しばらく教会から離れていたとしても、神さまの愛は変わることはありません。

一番すぐれているのは愛…

10月第四主日、どこからともなく今木犀の甘い香りが漂う、爽やかな季節を迎えました。礼拝メッセージはⅠコリント13章13節から。愛とは何かがはっきりと記されている箇所です。「愛は寛容であり、愛は親切です」戦国時代、キリスト教が伝来されたばかりの頃は『愛』(アガぺー)という言葉を『ご大切』と訳されたというのは有名です。『愛する』と『好意を持つ』とは違います。『愛する』とは相手を大切に扱うことであり、主のご命令です。十字架にかかる前にイエスさまが弟子たちの足を洗われた姿にその模範が示されています。この愛が基になって、愛するからこそ相手を信じ、愛するからこそ相手に希望を持つ。神と人との関係においてもこの愛が結びの帯です。「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」信仰、希望、愛…大事なのはこの三つが織りなす関係です。その最初の愛を、イエスさまが私たちにあの十字架上で示してくださり、聖霊によって私たちに賜物として与えてくださいました。土の器に過ぎない者ですが、愛の源泉であるイエスさまがともにいてくださることを感謝します。

喜びが満ち溢れるため…

教会のデボーションはヨハネの手紙第一に入りました。この手紙は他のパウロなどの手紙と違って、差出人の名前も宛先も記されていません。ヨハネは最初の挨拶なしで、いきなり神について信仰について自分の考えを述べ始めます。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。」いのちのことばとはまさにイエスさまのことです。ヨハネはイエスさまと3年間一緒に暮らし、直接弟子として訓練を受けました。当時手紙の受取人たちの教会にはいわゆるグノーシス主義の異端グループが入り込み、イエスが受肉されたキリストであることを否定し、罪を軽く考え、キリストの救いのわざを無意味なものにしていました。ヨハネはそうした状況を聞いて、クリスチャンが誤った教えに惑わされず、健全な信仰理解に基づき、健全なキリスト者生活を生きる愛の共同体として前進してほしいと愛と祈りを込めて記したのです。今日の教会もイエスさまの十字架と復活の事実を語らずにはいられません。そして、この方は今も生きておられ、私たちの祈りを聞き、ともにおられるのです。

伝道懇談会&秋の研修会…

今秋も静岡県つま恋で、伝道懇談会&秋の研修会が行われました。伝道懇談会では佐野泰道牧師が『伝道の働きとその恵み』をテーマに講演し、私も『教会自立に向けて』をテーマに一つの分科会を担当しました。あらためて箕面に遣わされてから17年の恵みを振り返る良い時となりました。続く秋の研修会ではこれまでとは違った形式(グループディスカッション)で行われました。300名を超す牧師が『Think Again-トゥゲザー』をテーマに38のグループに分かれてそれぞれの経験とアイディアを分かち合い、これからの宣教を考えるというもの。いろいろな先生方の現場でのご苦労や具体的な活動、今後のビジョンなどを聞けたのが、非常によかったです。中にはスキットや手紙形式や替え歌?での発表もあって、宣教に燃える同盟教団の明るい未来を感じました。同労の先生方との語らい、豊かな食事、派遣礼拝での吉持牧師のメッセージに励まされ、行きよりも早いペースで帰阪しました。先を見れば…自然災害、2030年問題、混沌とする社会情勢など、なおなお難しい問題はありますが、宣教の主に従ってますます全世界に福音を宣べ伝える教団となっていきたいと思います。

救いの良き知らせ…

10月第三主日、今朝は早天礼拝に始まり4回の礼拝がありました。礼拝メッセージはイザヤ52章から。神は、自国を失い、バビロン捕囚に捕らえられた民に向って、「目覚めよ、目覚めよ」と告げられました。神のさばきは終わり、イスラエルは栄光と尊厳を回復するというのです。ただし、目の前の現状からはそんな希望のかけらも見えなかったでしょう。「それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる。それゆえ、その日彼らはわたしが『ここにわたしがいる』と告げる者であることを知るようになる。」神のことばは時至って実現する、苦しみには意味がある、The best is yet to be... 今はまだ辛くても、苦しみを通って神を知るようになるというのです。神はあなたがたがを必ず顧みてくださる。「良い知らせを伝える人の足は…なんと美しいことか。」暗いニュースばかりが目立つ時代ですが、救いの良き知らせを伝える者になりたいと思いました。苦難のしもべの53章の前に…心に響く御言葉がいくつもありました。今日は礼拝後に役員諮問会&墓地視察がありました。教会の未来について一緒に考え、一緒に語り合う幸いを思いました。恵み溢れる一日に感謝します。

偽預言者が大勢現れて…

祈祷会で、ある青年が『神さまの声がはっきり聞こえたらいいのに…』と言っていました。確かにクリスチャンならだれもが一度は思うことかもしれません。でも、そこで聞きたいのは自分の祈りの答えでしょう。もし旧約聖書の預言者のように夢や幻を通してはっきりと聞いてしまったら、その重責にたじろぐのではないでしょうか。「主はこう言われる。イスラエルの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。」神に背を向け、満ち足りた生活をしている人々に、このままでは神のさばきが下る…と告げる預言者アモスに対する風当たりは厳しかったでしょう。この時代も、聖書を通して神のことばを預かるクリスチャンの責任は重要です。イエスさまは、終わりの時のしるしとして、戦争、飢饉、地震のほかに…偽預言者が大勢現れると預言されました。政府も統一教会の宗教法人格を剝奪する解散命令を請求することを決定しましたが、そうした動きに伴い、キリスト教を名乗る怪しげな団体から『一緒に伝道しませんか』という電話や手紙がよく来るようになりました。世はますます玉石混交の時代になっていきます。ご心配な方は教会までご連絡ください。

主はシオンからほえる…

イスラエルとイスラム組織ハマスの衝突による死者はこれまでに双方あわあせて2200人を超え、攻撃の応酬は激しさを増し、犠牲者の数はさらに増えることが予想されます。一分一秒でも早く事態が収束するように祈るばかりです。今日の朝と夜の祈祷会でも心を合わせて祈りました。デボーションの箇所はアモス書1章から。繁栄と豊かさの中で神に背を向けたイスラエル、非人道的な蛮行を行う周辺諸国に対し、神のさばきの言葉が預言者アモスを通して告げられました。「主はシオンからほえ、エルサレムから声をあげられる。」ライオンの咆哮のような、大地に響き渡る、審判者なる主の宣告でした。その時代、アモスの言葉に耳を貸す者は少なかったでしょう。でも、主から託された言葉を語らなけばならない預言者としての使命を覚えました。今日においてはクリスチャンも神のことばを伝える使命があります。それにはまず自分自身がみことばに生きることを実践することからです。時が良くても悪くても…その生き方を通しても福音を伝えられたらと思います。

あなたを慰める主…

10月第二主日、今日は朝からしとしとと小雨の降る一日でした。礼拝メッセージはイザヤ51章から。「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。」国が滅び、明日を生きる保証もなく、バビロンに捕囚として連れて行かれたイスラエルの民…その中にも信仰を保持する人々は残っていました。ただ、その数はまことに少数だったはずです。神はそうした彼らの消えかかった信仰を励まし、「わたし、わたしこそ、あなたがたを慰める者だ」と告げられました。私たちも「神がいるならなぜ…」と思うことがしばしばあります。今日のメッセージ後の分かち合いでも、イスラエルが戦争状態になったことを受けて、神はこの事態をどう見ておられるのか…と言われる方がいました。人間には答えられない問ですが、神がこの現実を知らないはずがありません。聖書には終わりの日に向かって、疫病も戦争も偽預言者も、起こることが記されています。ますます揺れ動く時代、私たちは変らない神のことばに耳を傾けなければならないように思います。

足りない者を用いて…

礼拝や祈祷会の動画をご視聴くださって、ほぼ毎週、感想を送ってくださる方がいます。そこには動画配信する教会への感謝と説教者である私を励ます言葉が書かれてあります。『旧約聖書のイザヤ書は難しいと思っていましたが、わかりやすく解説してくださって、ありがとうございます。』と温かい言葉をかけていただくと、その方に聖霊の助けがあるようにと祈らずにはいられません。その逆に東京で一人暮らしをする83歳の私の母には…どうも聖書のメッセージは難しいようです。そんな母にもわかるようにとあれこれ工夫しているつもりですが、なかなか願うようにはいきません。コロナも落ち着いてきて、教会によっては礼拝の様子をYouTubeで配信することに賛否両論あるようです。同じ時間に、同じ場所で礼拝を献げることが一番ですが、それがどうしてもかなわない方もいることを思います。憐み深い主が足りない者を用いて、希望の福音を届けてくださいますように。

天にある望み…

10月第一水曜祈祷会、コロサイ書1:1-20から。牢獄にいるパウロはコロサイの教会の中に異端的な教えが入り込んでいることを聞いて手紙を書きました。パウロ自身はコロサイの教会に行ったことがありませんが、いつもあなたがたのことを祈っていますと記します。そして私たちの信仰は天に蓄えられている望みに基づいているというのです。それは天の御国、救いの完成、先に召された神の家族との再会…などが挙げられるでしょう。その時には私たちが神に完全に知られているのと同じように、私たちも神の御心を完全に知ることになるのです。私たちは苦難や挫折を経験すると『主よ、なぜですか…』という言葉が出てきてしまいますが、神はその問いには答えられないでしょう。仮にその答えを知ったとしても、納得できず…もっと苦しむかもしれません。すべての答えは天国に行った時にわかります。それも天にある望みと信じて、主を信頼して歩む者でありたいと思います。

疲れが出やすい時期…

10月に入りました。天高く馬肥ゆる秋、到来です。夏の疲れの一つなのか…私はぎっくり腰のようで、座っているのも立っているのも辛くて困っています。そういう時に限って、畑を耕して豆の種を植えたり、プランターの土を変えて花を植えたり、安静にしていられない性格です。秋になると気分が落ち込むということがあるようです。いわゆる「秋鬱」の時期かもしれません。教会にも体調の悪い方が来られたり、電話がきたり…なんとなく続きますね。関係があるのかないのか、小中学生の不登校が前年比22%増の最多更新とのこと。私自身も秋の父の命日がくるたびに、未だに気分が落ち込みます。教会は精神科や心療内科のような専門的な対応ができませんので、かえっていやな気持ちにさせてしまうかもしれませんが、お祈りだけはさせていただきますので何かの時は連絡してください。誰かに相談してみたら、思いもしなかった良いアイディアが見つかるかもしれません。

神である主は私を助ける…

10月第一主日、秋らしい天気になってきました。礼拝メッセージはイザヤ書50章から。イザヤ書は旧約聖書の中で最も多く新約聖書に引用されている書です。その内容もキリストの誕生からその歩みが描かれていることから第五福音書とも呼ばれます。「打つ者に背中を任せ、侮辱をされても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。」しもべの姿はまさにイエスさまの生涯を示していました。今日でもみことばに忠実であろうとすればするほど周囲の反感や攻撃を受けるのかもしれません。「しかし、神である主は私を助けてくださる。」この確信がしもべを強くし、御心に歩む力となるのです。キリストを必要としないこの世で信仰者として生きるのは苦難が伴いますが、私を義とする方が近くにおられることをいつも忘れないで歩みたいものです。今日は午後から囲碁将棋クラス、バイオリン、夕礼拝、プチ送別会…と盛り沢山の一日でした。夕方から来た卓球少年は強かったです。

創立3周年のしおり…

先日、日本伝道会議で三重県に住む友人牧師と再会してこんな話しを聞きました。全部は詳しくお話しできませんが…今夏、彼の教会で一人の高校生が洗礼に導かれたそうです。彼女は中学の時の英語の先生のFBでキリスト教に関心を持ち、それから自分でいろいろと調べて今春から教会に行き始めました。お母さんは彼女の決心に驚いたそうですが、自分も20年以上前に一度だけ大阪の教会に行ったことがあることを思い出し、しばらく触ってなかった聖書を懐かしく開いてみると一枚のしおりが挟んでありました。そこに箕面めぐみ聖書教会創立3周年とあったとのこと。もちろん私はその頃ここにはいませんでしたが、草創期から来られている信徒の方は大喜びでした。神さまの不思議な導きを感じました。昔、教会に行ったことがある…また久しぶりに行ってみようかな…そんな風に思い出して頂けたら感謝です。来年創立30周年を迎える私たちの教会に、ぜひいらしてください。

主の御名を呼び求める者は…

9月第四水曜祈祷会はヨエル書2章から御言葉を心に留めました。意識して読まないと読み飛ばしてしまうような小さな書簡ですが、そこに書かれているのは目を覆うばかりの神の裁きの恐ろしさとその民をねたむほどの愛で深く憐れまれる神の愛です。「しかし、今でも―主の言葉ー心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰れ。」神の御心は罪人に対する裁きではなく、赦しであることを思います。ここに神の矛盾と葛藤があります。裁きの神と赦しの神が一つであるゆえに、罪人への愛は傷みなしにはあり得ないものとなる。十字架のイエスさまが目に浮かんでくるような不思議な箇所でした。朝も夜も、御言葉に真剣に向き合い、一緒に恵みを分かち合える兄姉がいることは感謝なことです。もちろん、ピリピリとした緊張感ではなく、和気あいあいと自由に語り合い、祈り合う時間です。水曜祈祷会もどなたでも参加ができます。お気軽にお越しください。

主に呼び求めよ…

教会のデボーションはヨエル書に入りました。旧約聖書に「ヨエル」という名前は何度か出てくるのですが、「べトエルの子」というのはここだけで謎の多い書簡です。「主の日が近い」が強調され、悔い改めて主を呼び求めよと命じます。主の日は、神に背を向けた者に対するさばきの日であると同時に、神を信じる者にとっては救いの日です。この日をどんな気持ちで迎えるかは、今という日があるうちに決めなければなりません。その時になって「なぜ…」と叫んでも後の祭りです。ヨエル書1章にこれほど主の日の恐ろしさが描写されているのはその切迫感・緊張感を表していると言えるでしょう。神を信じるか、信じないかは、もう少し考えたいという方もいますが、結局信じないとわからないことを信じる前にいくら考えても仕方がないのではないでしょうか。信仰とはまさに決断です。そして人生は決断の連続です。ノアの箱舟の扉が閉まらないうちにぜひ主のふところへ。

わたしはあなたを忘れない…

9月第四主日、残暑も和らぎ、さわやかな秋風が吹く一日でした。礼拝メッセージはイザヤ書49:13-16から。イザヤが預言した通り、イスラエルはバビロン軍によって町が崩壊し、多くの民が捕え移されていきました。絶望の淵に立たされたイスラエルに、神は告げられました。「天よ、喜びの声をあげよ。地よ、小躍りせよ。山々よ、歓喜の声をあげよ。」耳を疑うような神の慰めと救いの宣言でした。でも、人々は目の前の現状に意気消沈し、素直に喜べずにいました。神は自分たちを見捨てられた、忘れられたのだと。そこで神はご自身の愛を示すために二つのことを言われました。一つはたとえ母が自分の乳飲み子を忘れても神は私たちを忘れないこと、もう一つはご自分の手のひらに刻むほどに私たちを愛しているということです。イエスさまの十字架の傷跡はまさしく神の愛の現われです。この方を信頼する者は失望することがない、この信仰に立って歩んでいきたいものです。

第七回日本伝道会議…

7年ごとに開催される日本伝道会議に出席してきました。聖書を『信仰と生活の唯一の規範となる神のことば』と信じる福音的な教会が、主イエス・キリストの宣教命令に、互いに力を合わせて従って行くことを目的とした集会です。今回は長良川国際会議場で、4日間、全国から1200人以上のクリスチャンが参加者し、『おわり』から『はじめる』宣教協力をテーマに、メイン会場をはじめ様々な分科会がありました。私はキリスト全国災害ネットの分科会奉仕者として部分参加だったので、全体を見て回ることはできませんでしたが、活気と熱意を十分に感じてきました。2019年のコロナ感染以降、社会の生活環境や様式は激変し、教会の在り様も宣教の在り様も変わらざるを得ない状況です。聖書の原則に基づいて今までを振り返り、現状を確認し、これからの宣教を考えていきたいと思いました。教会間の宣教協力がより一層強められ、福音が一人でも多くの方に届くように願います。

互いに赦し合う…

9月第三水曜祈祷会、デボーションはⅡコリント10章から。ここからのパウロは、偽使徒たちを意識した厳しい口調で記していきます。「あなたがたの間にいて顔を合わせている時はおとなしいのに、離れているとあなたがたに対して強気になる私パウロ自身が、キリストの柔和さと優しさをもってあなたがたにお願いします。」彼らがパウロのことをどのように言っていたのかがわかります。それは単にパウロの悪口にとどまらず、教会内に分裂を起こし、人々を混乱に陥れるサタンの巧妙な策略でした。教会はおよそ外からの攻撃には一枚岩になってより絆が深くなることがありますが、内からの攻撃には些細なことでも大きな亀裂となってしまう脆さがあります。以前は教会に行っていたけど、人に傷ついてから行かなくなったという方も少なくありません。生きている限り、私たちは工事中の身です。教会は愛を学ぶところ、互いに赦し合うことが何より大切なように思います。

未来の確かな希望…

9月第三主日、今日は玉井邦美師をお迎えして召天者記念礼拝を献げました。礼拝メッセージは『未来の確かな希望』をテーマにⅡコリント5:1-8からお話して頂きました。私たちクリスチャンに与えられている希望は、地上の住まいである幕屋が壊れても、すなわち、死を迎えても、そこが人生の終着駅ではなく、神の下さる建物、永遠の住まいがあることです。先に召天された兄姉たちの写真を眺めながら、懐かしい笑顔を思い出しました。確かにこの地で相見えることはかないませんが、天においてもイエスさまの懐で最高の礼拝が献げられ、やがてかの日には再会の約束があることを覚えました。午後からは久しぶりに講演会の時をもち、『教会とは何か』についてじっくりと学ぶことができました。教会はキリストのからだであり、私たちはその各器官です。天の都に憧れつつ、聖霊によって絶えずキリストに似た者へと造り変えられ、ともに成長できる恵みを心から感謝します。

みこころに添った悲しみ…

教会のデボーションはⅡコリント7章から。「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」パウロは『みこころに添った悲しみ』と『世の悲しみ』とを対比して記しました。人である限り、罪の誘惑は絶えずつきまとい、罪は私たちを神から引き離そうと試みます。イスカリオテのユダは銀貨30枚を得るためにイエスさまを売り渡し、その後悔の念に堪え切れず、最後は自らの命を絶ってしまいました。一方、ペテロも迫害に遭うことを恐れて思わずイエスさまを知らないと三度も言ってしまい、自らの弱さに打ちひしがれていたことでしょう。復活の主はそんなペテロの前に現れて、「あなたはわたしを愛していますか」と三度尋ねられたのです。ユダの悲しみは死をもたらし、ペテロの悲しみは救いに至る悔い改めを生じさせました。明日の主日礼拝、私たちも主が現れてくださる幸いを覚えたいものです。

ハートフル英会話秋期コース開講…

夏休みも終わり、今日からハートフル英会話・秋期コースが開講されました。久しぶりにお会いする方々に新しい受講生も加わって、新体制でのクラスが始まります。今年の暑い夏をどのように過ごしたのか、どこかに旅行に行かれたとか、ご病気をされたとか…様々な夏の思い出を話していただきました。子どもたちも二学期が始まって『気が重い…』という子もいましたが、今日のクラスの中ではみんな元気いっぱい英語を学んでいました。何より楽しみながら英語に親しむことがハートフル英会話のテーマです。大人クラスも、Kidsクラスも、定員まであと数名の余裕がありますので、オブザーバーを希望される方は気軽に教会までご連絡ください。講師のレイチェルさん&ホゼアさんは、日本語も上手に話されますが、何より教え方が上手です。ぜひ実際に無料体験クラスでお試しください。残暑厳しい折、夏の疲れも出てくる頃ですが、皆さまも何卒ご自愛くださいますように。

願うのは、主に喜ばれること…

9月第二水曜祈祷会、今日も週の半ばにともに集い、御言葉に聴き、祈り合える幸いを思いました。朝はⅡコリント5:1-10から、夜は創世記21:1-8から御言葉を学びました。パウロが抱いていた希望は、地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に神が下さる建物、永遠の住まいがあることです。私たちがこの世に生かされていることには、神の御心があり、使命があります。ならば命ある限り、主に喜ばれる者として、御霊の実を一つでも多く結んでいきたいものです。また、アブラハムの信仰から、望みえない時に望みを抱いて信じる者にならせて頂きたいと思いました。確かにそれは、言うは易く行うは難しです。『そもそも望みとは何か…』ある青年の問いから、深い分かち合いになりました。こうした分かち合いができるのも、教会の交わりならではのこと。私たちの望み…それはイエスさまを信じる信仰によって与えられるものです。この希望は失望に終わりません。

わたしの家は祈りの家…

9月第二主日、相変わらず照りつけるような日射しですが、朝晩は微かにフッと秋を感じるようになりました。今日の礼拝では教会の草創期を担われた姉妹が司会をしてくださり、穏やかで心安らぐ進行をしてくださいました。また、20代で信仰に導かれた兄弟が28年間の証しをしてくださり、その恵みの数々を語ってくださいました。メッセージはマルコ11:12-25から。葉だけが茂って実のないいちじくの木は、外面的には立派な礼拝を献げていても、その心が神から離れてしまっている人々の姿を象徴していました。神殿に入られたイエスさまは、異邦人の庭で不正な利益を稼いでいる両替人や商売人たちを片っ端から追い出していかれました。そして、根元から枯れたいちじくの木を通して弟子たちに神を信じることの重要性を説かれたのです。3つの出来事が共通した一つのテーマを語っている大切な箇所でした。メッセージの後の分かち合いでさらに教えられ、幸いな礼拝でした。

補教師研修会を終えて…

今年は浜名湖で補教師研修会が行われました。コロナ禍が続いたので補教師全員が集まるのは3年ぶりです。私は教職教育部員として準備する側でしたが、十数年前に補教師として参加した時のことを思い出しながら、講義と先生方の証しを聞いていました。自分が補教師だった頃は何もかも初めてのことでしたので、悩みや試練、失敗や挫折は数知れず、一方で、恵みと感謝、楽しみも喜びもたくさんあり、戸惑いと祈りの中で、主の憐れみと教会の方々に支えて頂いて今日まで過ごしてきました。昨今、耳にするのは2030年問題。どの世界もそうですが、キリスト教界もいよいよ次の献身者が必要です。あと7年後には多くの教会が閉鎖となり、牧師も信徒も半数以下になると言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。」今日という日がある内に、一人でも多くの人がイエスさまの救いにあずかれるように、牧師として、献身者として、召される方が起こされるように祈っています。

身の落ち着き所…

9月第一水曜祈祷会、今日は牧師不在のためオンラインで行いました。ルツ記3章から、姑ナオミの提案でルツがボアズにプロポーズをするところでした。ナオミはずっと嫁ルツが幸せになるために身の落ち着き所を祈っていました。買い戻しの権利のあるボアズとの出会いを主の導きと信じ、ナオミもルツも信仰を持って大胆な行動に出ました。体を洗って油を塗り、晴れ着をまとって、ボアズの足元に身を寄せたルツ。思わず彼女の胸の鼓動が聞こえてくるような場面です。ボアズはそんなルツの気持ちをしっかり受け止めて、彼もまた主の導きを求めていきました。自分よりももっと近い、買い戻しの権利のある親類に伺いを立て、事の次第を主にゆだねたのです。ルツ記は神さまの言葉が出てきませんが、登場人物たちの信仰に励まされる書簡です。「あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」私たちも重荷を下ろせる落ち着き所があるのは感謝です。

子ろばに乗って来られる主…

9月第一主日、残暑厳しい中でしたが、今日も大勢の方が礼拝を献げに来られました。礼拝メッセージはマルコ11:1-11から。イエスさまは旅の目的地であるエルサレムに、まだだれも乗せたことのない子ろばに乗って入城されました。二人の弟子たちはイエスさまに言われた通り、向こうの村へ行き、子ろばをほどいて連れて来ました。飼い主が「なぜそんなことをするのですか」と尋ねると、彼らは「主がお入り用なのです」と答えました。イエスさまはこのやりとりをあらかじめ予見して、すべてを準備しておられたのです。こうして600年前のゼカリヤの預言通り、メシアは子ろばに乗ってエルサレムに来られます。人々はそんな主の姿を見て「ホサナ。いと高き所に。」と叫びました。その歓声は数日後には「十字架につけろ」と変わっていくのです。人の思いは移ろいやすいもの…。でも、そのすべてを受け入れて、イエスさまは平和の王として十字架へと向かわれるのです。

士師記最悪の事件…

8月第五水曜祈祷会は士師記19章から学びました。「イスラエルに王がいなかった時代のこと」とは、イスラエルがそれぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた、言わば無法状態にあったことを示す表現です。神との正しい関係がないところでは、必ずこの地上に不法と不信の行為が蔓延していきます。ベニヤミンに属するギブアで起こった事件はソドムの不品行(19:1-9)にも匹敵する出来事であり、本来ならば、天からの火で焼き滅ぼされても仕方のないことです。どうしてこんな記述が聖書に残されているのか…と読んでいて嫌気がさしてくる箇所ですが、彼らの悪行が今日の世界と決して無縁ではないことを思います。いつの時代も、人間の罪の本質、痛ましい事件、戦争や自然災害はなくなりません。ただ神の忍耐が主の日の到来を遅らせていること、他人の罪にはよく気づいても、自分の罪の深さに気づかなければ、悔い改めて救いの道を見出すことはできないのです。

みことばに聞く…

今日は久しぶりにCGNTVの『みことばに聞く』の撮影がありました。一つの聖書箇所を12~13分でメッセージするのは、私にとっても大切な訓練です。9月に放送されますが、番組を視てくださった方に少しでも福音が伝わればと思います。撮影後にCGNTVのスタッフの方と交わりをしながら、日本宣教の動きについていろいろと伺えることも感謝です。今夏の外部奉仕は今日でひと段落となりました。さて、教会のデボーションは士師記18章に入りました。最後の士師サムソンの記述が終わり、17章、18章とイスラエルはますます混沌としてきます。繰り返されるのは「イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」という言葉です。こういう信仰態度で、どんなに熱心な礼拝を献げても、神がそれを喜ばれることはないでしょう。それは今日の私たちも、肝に銘じておきたいことです。明日の水曜祈祷会ではさらに士師記最悪の事件から学びます。

献堂6周年記念礼拝…

8月第四主日、今日は献堂6周年記念礼拝でした。この会堂に移ってきたのが6年前。前の通い慣れた会堂もテナントのオーナーがクリスチャンだったこともあって後ろ髪を引かれる思いでしたが、みんなで信仰を持って決断したことを懐かしく思い出します。新しい会堂候補も二転三転しましたが、売り主がクリスチャンだったことも決め手の一つとなって購入しました。それから本当にいろいろな方が導かれ、たくさんの主の御業を見せて頂きました。まだコロナの影響もありますが、昨日も70名を超す来会者がありました。今回はhi-b.aの鈴木雅也師をお迎えして『あきらめたらそこで試合終了ですよと言われる神様』と題してメッセージを取り次いでいただきました。また午後からは二人の兄弟の転入会式を行い、素直な証しに励まされました。この先の未来に向かって、ますます主の素晴らしい福音を宣べ伝え、ともに支え合い、ともに助け合う教会になって行けたらと思います。

サムソン誕生前夜…

8月第四水曜祈祷会、デボーションは士師記13章から。イスラエルの民は主の目に悪であることを行い、主のさばきとして40年間ペリシテ人の支配下に置かれました。苦難の中で人々は悔い改め、主の憐みを求め続けました。そして、主はそんな彼らのために一つ一つ救いの計画を進めておられたのです。主はある夫婦に目を留められて、「あなたは不妊の女で、子を産んだことがない。しかし、あなたは身ごもって男の子を産む。」と告げられました。しかも、生まれてくる子は神に献げられたナジル人で、イスラエルをペリシテ人の手から救い始めるというのです。この信じがたい受胎告知を、この夫婦は信仰を持って受けとめました。思わず、新約聖書のヨセフとマリアの受胎告知を思い出しました。夜は創世記15章から『神の約束』をテーマに学びましたが、共通する一つの御言葉が心に響いてきました。「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。

エフタの軽率な誓い…

教会のデボーションは士師記12章に入りました。士師記はイスラエルの歴史において最も暗い時代と言われます。それは、背信と堕落→主のさばき→憐みを求める→士師が起こされるという図式が繰り返されるからです。しかもイスラエルは、士師が生きている間は神に忠実に仕えますが、士師が亡くなると再び背信と堕落の道を辿っていきます。喉元過ぎれば熱さ忘れるの典型的なパターンです。12章では8番目の士師エフタのことが記されています。エフタはアンモン人との戦いに勝利しますが、軽率な誓願をしてしまったことで一人娘を失うことになってしまいました。「誓ってはならない」と言われたイエスさまの言葉を思い出します。結局エフタは文句を言ってきたエフライムも打ち破り、6年間イスラエルを治め、彼の後にはイブツァン、エロン、ヒレルと士師が起こされていきました。なんとも重苦しい内容が続きますが、13章からはいよいよ最後の士師サムソンの登場です。

あなたを呼んでおられる主…

8月第三主日、今日も猛暑の中でしたが、神の家族がともに集い三回の礼拝を献げました。メッセージは盲人バルティマイの癒しの記事から。イエスさまの癒しの記事で実名があるのは珍しいのですが、きっと当時からよく知られた人物だったのでしょう。彼はエリコの町で物乞いをしていましたが、その町にイエスさまが来られたと聞いて思わず「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください」と大声をあげました。彼にもイエスさまの噂は届いていたのでしょう。もし、それが本当ならこの目も直してもらえるかもしれない…。彼はこの千載一遇の機会に思い切って行動しました。イエスさまは彼の切なる思いを知った上で、あえてわたしに何をしてほしいのかと尋ねられました。イエスさまは今も、私たちに同じように問われます。それは私たちが祈り求めるのを待っておられ、私たちが願う以上に答えてくださるからです。私たちも信仰を持って、恵みの御座に近づきましょう。

セミファイナル…

今週は台風7号が関西を通過し、多くの地域で停電や浸水被害がありました。箕面の教会は心配していた雨漏りも守られ、鉢植えが倒れたくらいで済みましたが、被害の大きかった地域を覚えてお祈りします。道端にセミが死んでいると思い、車にひかれないように動かそうと思ったら、ジジっと大きな声をあげて飛んでいきました。そんな死期が迫っているようなセミのことを『セミ爆弾』とか『セミファイナル』と言うそうです。せっかく長い期間をかけて成虫になったのですから、一日でも長く地上での生活を送ってほしいと思います。この時期になるといつも思い出すのは『セミは春秋を知らず…』の言葉。夏に生まれて夏に死ぬセミは春秋を知らないし、自分がいる季節が夏であることも知らない。仏教用語ではありますが、キリスト教の永遠のいのちを話す時にも思うことです。余計なことだと言われる方もいますが、ぜひ機会がありましたら教会の日曜礼拝に出てみませんか。

わたしに従って来なさい…

8月第二主日、今日も猛暑の中でしたが、神の家族とともに三回の礼拝を献げました。メッセージはマルコ10章17~31節。裕福な青年がイエスさまに駆け寄って、永遠のいのちにあずかるためには何をしたらいいかを尋ねたところからでした。イエスさまは彼の質問に対してなぜわたしを『良い』というのかと質問で答え、少年の頃から律法を守ってきたという彼を見つめながら、あなたに欠けていることが一つありますと言われました。そして彼が依存している財産をすべて売り払い、貧しい人たちに与え、天に宝を持ち、その上でわたしに従って来なさいと命じられました。それを聞いて、悲しみながら立ち去っていく青年…。その後ろ姿はエデンを去って行ったアダムの姿と重なったのではないでしょうか。主の前に正直な自分を認めることの難しさ、神に全き信頼をおいて歩むことの難しさを覚えました。でも、主はすべてをご存知の上で、今も私たちを招いておられるのです。