20日 9月 2019
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」もう少しで稲刈りの時期。台風も近づいていますが、なんとか乗り切ってほしいところです。私はデイサービスの送迎を週二回ほど行っていますが、そこでご年配の方からいろいろなことを教えていただきます。今日も大正12年生まれのご婦人が「いい加減に人生を終わらせないと家族に申し訳ない…」と弱々しい声ながら、しっかりした口調で話してくださいました。いつも、謙遜とはどういうものかを身をもって教えてくださっているような素敵な方です。ここでは認知症の方もおられ、介護・介助が必要な方もおられ、人はみな年老いていく者であることを実感します。時間には限りがある。自分はどのように年を取りたいか…。何のために生きているのか…。神を知り、聖書と出会わなければ…その真の意味に気づくこともなかったのだと思います。
20日 9月 2019
埼玉県で小4の男の子が父親に首を絞められて殺されてしまう事件がありました。何があったのか詳しいことはわかりませんが…なんとも痛ましい事件です。私もわんぱく坊主でしたので親によく叱られ、青年期にかけても特に父親のことがあまり好きになれませんでした。警察のお世話になったことはありませんが、とにかく生意気でしたので親としては育てづらい子どもだったと思います。今になって、それも親の忍耐あってのことかと。ある本に「親子の信頼関係があるからこそできること」「それぐらいの反抗では親は潰れないという確信があるからこそ」とありました。なるほど確かに父は厳しくて強い人でした。後半は少し弱くなっていましたが…。親孝行したい時に親はなしとはよく言ったもの。つくづく感謝の足りない者でした。神の忍耐もそれと似ているように思います。
19日 9月 2019
9月第三週の祈祷会はイザヤ書8章~、預言者イザヤはアッシリヤ軍の侵入によって国家存亡の危機が近づいていることをイスラエルの民に宣べ伝えます。しかし、人々は、「神が私たちとともにおられる…。万軍の主を聖なるものとせよ」というイザヤのことばに耳を傾けず、悔い改めには至りません。むしろ、神はなぜ試練が迫っていることを知りながら、それを未然に止めてくださらないのか。ある方の「神なら何をしても許されるのでしょうか」という問いかけも心に残りました。大震災、大洪水、不条理な事件、戦争、紛争…神がいるならなぜこれらの悲しい事件が起こるのか。…神の御心は限りある人間にすべて理解することはできません。でも、それについて考える、聖書から教えられる、神を知る…それが生かされている私たちにとってとても大事なことなのだと思います。
17日 9月 2019
今年のファミリーデイキャンプのテーマは『終活を考える』でした。午前中は映画を鑑賞、そして昼食とゲームを挟んで、午後から学びの時を持ちました。「祝宴の家に行くよりは、喪中の家にいくほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」映画の中で「あなたの人生最期の日を知りたいですかと聞かれたら、96%の人が知りたくないと答える」という件がありました。確かに…そうかもしれません。でも、確実に、平等に、誰もが人生最後の日を迎えます。その日を心に留め、限られた時間の中で、今生かされている現実を感謝し、いかに生きるかを考えるのは大事なことだと思いました。祝日にもかかわらず、教会メンバーと一緒にじっくり交わりの時が与えられて感謝でした。大きな台風が過ぎて、夏の暑さもだいぶやわらいで、秋の気配を感じる時期になりました。私も50歳を前に、人生の秋が深まっていくのを感じています。
16日 9月 2019
9月第三主日。まだまだ日射しの厳しい朝ですが、千葉県の被災された方々を思うと決して当たり前ではない穏やかな朝を心から感謝しました。礼拝ではピリピ人への手紙2:19~「ともに喜び合う信仰」をテーマにメッセージを聴きました。そこにはパウロの信頼も厚い愛弟子のテモテとピリピ教会の使者エパフロディトに注目して、彼らの生き方から学びました。テモテは霊の父であるパウロとずっとともにいましたから、パウロから彼は私の心と同じ心だとまで言わせたのです。また、エパフロディトはパウロに仕えている途中で死ぬほどの病気にかかってしまいどうすることもできない状況を経験しました。それでも、彼は神の憐れみを受けて、立ち直り、ピリピの教会へと遣わされていったのです。夕礼拝にも新来者の方が来てくださって、色々な聴かせていただいて感謝でした。
13日 9月 2019
今回の台風15号は千葉県で26万戸の大規模停電となり、各地で大きな被害が出ました。被災された方々に心よりお見舞いを申し上げ、一日も早い復旧をお祈りしています。さて、今日のハートフル英会話のチャペルタイムは神のかたちに造られた人間についてお話しさせていただきました。「神のかたち」とはいろいろな神学的意味がありますが、一つは人間が人格的な存在として造られたということです。人格とは「知性」「感情」「意志」を表わす言葉。この人格をもって、神と人間とは麗しい関係にあったのです。ところが、人間に罪が入ることによって、この人格にヒビが入り、何をするにも自我を優先してしまうようになってしまったのです。現実の世界はどうしても罪との戦いを避けられませんが、そうした中でも創造者なる神の切なる思いをいつも思い出したいものです。
12日 9月 2019
今週の水曜祈祷会はイザヤ書1章~、アモツの子イザヤが見た幻は背信のイスラエル人に対する神の厳しい裁きの言葉。彼らはイスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去り、さらに、彼らの捧げる形だけの礼拝を、主は喜ばれないばかりか、それを「憎む」「疲れ果てた」とまで告げられました。もはやここまで言われたら…と思うようなところですが、主はご自分の民をそのまま見捨てることはありませんでした。「さぁ、来たれ。論じ合おう。たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」厳しい裁きの言葉は悔い改めを迫る愛の表われでした。見捨てられても仕方のない者を、主は忍耐深く呼びかけて、ご自身のもとに帰ってくるのを待っていてくださる。わが子を思う、親の愛。…子どもの頃、親に厳しく叱られたことを思い出しました。
09日 9月 2019
昨日は60名を超す方々が礼拝に来られ、婚約式も終始なごやかに行われました。大勢の方々の笑顔は、二人が普段いかに人と人との関わりを大切にしているかの表われでしょう。「先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。…必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」二人が「証し」の中で読んでくれた御言葉が心に留まりました。いろいろあった二人ですから、期待と不安が入り混じっているかもしれませんが…だからこそ多くの祈りに支えられて、主に信頼することを学んで行ってほしいと思います。私も緊張から解放されて、今日は久しぶりにホッとした休日。お昼ごろに熊本から懐かしい兄弟が3年ぶりに教会を訪ねてくださってしばらくスマホ講座となりましたが、ゆっくりリラックスできました。
09日 9月 2019
9月第二主日は大勢の方が礼拝に出席されました。礼拝メッセージは新約聖書の中でも最も短い「ピレモンへの手紙」から。一人の逃亡奴隷の赦しを乞うパウロの私的な手紙。この手紙がなぜ聖書に入れられ、全世界の教会で読まれるようになったのか…。あらためて一つ一つの言葉や文章にじっくり目を留めて読んでみると、そこには神の愛と赦しがありありと描かれていることに気づかされます。主人の物を盗んで逃げて来たオネシモ。その彼がなぜかローマの獄中でパウロと出会い、福音を聴き、悔い改めて回心に至る。パウロはオネシモのために、愛する同労者ピレモンに手紙を書き、彼を赦してあげてほしいと懇願する。まさに主のとりなしです。今日は礼拝後に婚約式もありました。神と人との前で誓約をした二人が、その誓いを全うすることができるように心から祈っています。
06日 9月 2019
内村鑑三が主宰する聖書研究会には常に多くの人が集まり、中には後に日本の各界に大きな貢献を為した優れた人物たちもいました。黒崎幸吉、畔上賢造、藤井武、石原兵永、塚本虎二…。中でも塚本は、語学の才能もあり、聖書原典を詳しく学び、病弱な内村に代わって講義をすることもありました。でも、いつしかそんな彼も、個性の強い内村と感情的にぶつかり、ついに二人は仲たがいに…。その後、内村の心臓病が重症化し、死期も近いと聞いた塚本は師の見舞いに…と思いますが、結局それもかないませんでした。ある日、内村の弟子の一人が塚本にこう告げます。「先生は病床の中で何度も仰っていました。『塚本は来ないか。塚本に会いたい。…』」師の思いを知った塚本は声をあげて、男泣きに泣いたとのこと。せめて世を去る時に心残りがないように心がけたいものです。

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