24日 6月 2019
6月第四主日礼拝。メッセージはヨハネの黙示録2:18~、復活の主は七つの教会の中で最も小さな町に最も長い手紙を書かれました。主の御姿は「燃える炎のような目」「光輝く真鍮ような足」と描かれます。「…あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている。けれども、あなたには責めるべきことがある。」主の目はいつも私たちの成長を見守っておられる、人は悪しき業を行えばそれに応じた取り扱いを受け、良き業を行えばそれに応じた取り扱いを受ける。主は私たちの行いに応じて一人ひとりに報いてくださる方。人生は絶えず信仰の戦いがあり、誘惑があり、挫折もある。平穏な時もあれば、試練の時もある。しかし、主はその中で私たちの目を約束へと向けられ「耳のある者はわたしの声を聞きなさい」と命じておられるのです。本当に価値のあるものがわかりにくい時代の中で…今持っているものを主が再び来られる日までしっかり持ち続けていきたいと思います。
21日 6月 2019
今日は関西宣教区連合婦人会が茨木でありました。講師は蔡香さんで、「よい聴き手となるために」というテーマでの講演会でした。一般的なカウンセリングとは違う、クリスチャンとして人に寄り添うことについて、聖書的土台をもとに教えてくださいました。特に印象に残ったのは、何よりも私を愛されたキリストの愛に学ぶこと、また、共感的理解を目指すことです。「共感」empathyと「同情」sympathyの違い。相手の話しを聞いていて、「わかる」「かわいそうに…」などと応答するのは同情の表現で、相手自身がどう感じているかに焦点をあてて、「あなたはこう感じているのですね」と受け止め寄り添うのが共感表現とのこと。悩み、苦しみ、重荷を負っている人を、まずはありのままで迎え入れることの大切さ…。それは憐れみ深い神の姿勢と大いに重なるところです。
20日 6月 2019
今日はハートフル英会話で15分のバイブルクラスがありました。レイチェル先生の手作り教材で楽しく聖書を学ぶことができました。まだほとんどがユダヤ教徒で、イエスを救い主と信じる者が少数だった頃、クリスチャンには厳しい時代でした。理不尽な迫害を受けたり、殉教の死をとげる者も大勢いました。そうした歴史の先に初代教会が誕生し、今日のような人口の三分の一がクリスチャンという時代を迎えているのです。壮大な神のご計画を、小さな人間が推し量ることなどできません。それは一人一人の人生にも言えることでしょう。願っても願ってもなかなか状況が変わらないという時、未来に希望を持てなくなります。でも、例えば「半分しか…」を「半分も…」、「いまさら…」を「いまなら…」に少し見方を換えるだけで、また違った景色が見えてくることもあるのです。
19日 6月 2019
祈祷会はマタイ13章、イエスが群衆に向かって多くのことをたとえで語られたところから。種蒔き、毒麦、からし種、パン種、畑に隠された宝…と次々に譬え話が続きます。集まった群衆は、心が頑なであったため、イエスのわざを見ても見ず、話しを聞いても聞かず、また悟ることもありませんでした。イエスがたとえで話すのは、その人が何を求めて来ているかが鍵だったのです。天の御国とは何か…。私たちも聖書の言葉をどのように聞いているかを考えさせられます。自分の聞きたい「言葉」を聞こうとしているのか、神の示される「真理」を求めているのか。その差はあまりにも大きいと言えるでしょう。「耳のある者は聞きなさい」イエスは弟子たちにも群衆にも、繰り返しそう言われました。信仰は「聞く」ことから始まるということをあらためて心に留めたいと思います。
18日 6月 2019
「逃げるが勝ち」子どもの頃、この言葉が嫌いでした。わんぱく坊主だった私は、「そんなのはただの負け惜しみだ」と思っていました。正直、大人になっても心のどこかにそういう思いが残っていたのかもしれません。それで頑張れる間はいいのかもしれませんが…今、この歳になってこの言葉の大事さをあらためて思います。何かの問題に執着し過ぎるのは心にも身体にもいいことはありません。時には問題から離れる勇気も必要ですね…。誰かにひどいことをされて「許してたまるか」と頑張る気持ちもわかりますが、そういう自分自身を許すことの方がもっと大事な時もあります。「いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになるからです。」私たちにはいろいろな局面で心の逃げ場が必要です。それを肯定するだけで、気持ちも変わってくるのかもしれません。
17日 6月 2019
今日は父の日歓迎礼拝。礼拝はヨハネの黙示録2:12~。外からは厳しい迫害、内からは偽りの教えとサタンの攻撃にさらされながら、それでもペルガモンの教会の人々は希望を失わず信仰を捨てませんでした。主はそんな教会に「勝利を得る者には、わたしは隠されているマナを与える。また、白い石を与える。」と約束をされたのです。「隠されているマナ」「白い石」…いずれも御国での永遠のいのちへと繋がる祝福です。日本にもそうした厳しい時代がありました。いつの時代も、地上での信仰生活は、決して安易な生活ではありません。多くの人が見えない神を信頼し、多くの人が認めない真理に従って生きるのは、絶えず見えない敵であるサタンの攻撃を受けるからです。でも、最後まで彼を信頼する者は失望することがない。いつもこの聖書の約束を忘れずにいたいものです。
14日 6月 2019
今朝、同盟教団の理事長をはじめ…数々の尊い働きを担ってくださった吉持章先生が天に凱旋されました。83歳でした。先生の火の出るような熱いメッセージや力強い言葉にどれだけ多くの方々が励まされ、信仰に導かれたことでしょう。神学校のチャペルで、「覚悟のない者は、今すぐ荷物をまとめて帰りなさい。」と仰っておられたのが懐かしいです。そんな先生の歯切れのよい説教が大好きで、テープも何本も持っています。人生の様々な場面で、先生に個人的に声をかけてもらいましたが、その度に的確なアドバイスをいただき、いつも背筋がピンと伸びる思いがしました。「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」吉持先生にピッタリの御言葉です。尊敬する先輩牧師には到底追いつけませんが、私も走るべき道のりを走り通したいと思います。
13日 6月 2019
今朝も祈りから一日が始まる。教会の一人一人を思い浮かべ、特に病の中にある兄姉、子育て中の親子、年配の方々、仕事や人間関係で心身ともに疲れ切った方々、道が開かれず悩みの中にある青年たち…を覚えて祈りました。教会に傷ついて離れてしまっている方もおられます。また、牧師につまずいて教会にけないという方も少なくありません。自分もその一人ですから、本当に申し訳ない思いでいっぱいですが、ぜひまた帰ってきてほしいと思います。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」ここで種蒔く者と刈り取る者が同じ人とは限らない…とある本に書いてあり、慰められました。今日も何もできないという思いから、今日できることを一つずつやろうという思いが湧いてくるのは、きっと誰かが自分のためにも祈ってくださっているからだと思います。
12日 6月 2019
今日の祈祷会はマタイ12:1~。「安息日」は労働してはならないという消極的な面もありますが、神の御心を行い、神の御もとで安らうという積極的な面もあります。神が喜ばれるのは、形だけの礼拝より、真実の愛です。大事なのは、安息日のために人間が造られたのではなく、人間のために安息日が定められたこと。人間には心と魂の休息が必要です。そして、真の休息は神の御もとにあるということです。祈祷会の後は、6月の花の日を覚えて、恒例の介護施設にお花と賛美のプレゼント(Ⅰ)に行きました。バイオリンとフルートの演奏、聖歌隊の賛美、ショートメッセージ…心を込めてプレゼントさせて頂きました。「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」喜んでくださった一人一人を覚えて、感謝の祈りを捧げました。
11日 6月 2019
今年は二年目ということもあってジャガイモの収穫量はもう一つでしたが、小さいジャガイモも結構おいしいものです。次の野菜のために、石灰をまいて、腐葉土を入れて、鶏糞と堆肥を混ぜて…と土壌作り。教会の子どもたちが「エダマメ食べたいな~」と言っていたので、時期を見て植えてみようと思います。さて今朝の御言葉は、マタイ11:25~「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。」でした。聖書の中で最も広く知られ、多くの人を慰めてきた御言葉の一つ。人はみな、本質的に心と魂の休息を必要としています。心身ともに休みたい…でも、なかなかそうもいかない。だからこそ、誰もがこの御言葉を聞くと心の深くに潜んでいる思いが呼び覚まされるような気持ちになるのではないでしょうか。イエス・キリストのもとに本当の安息があるのです。

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