今日はなんとか一階の礼拝堂の片づけを終えて椅子を並べてみました。まだ、台所や廊下などが終わっていませんが、日曜日には間に合いそうです。とは言え、二階はこんな感じなので…工事は来週にまでかかりそうです。
新会堂での引っ越しの片付けが始まって5日が経ちました。連日、多くの方が手伝いに来てくださって、ここまで片付いてきました。礼拝堂に関しては日曜日までになんとか間に合いそうです。あと気なるのは地域への「音」の問題…。防音カーテンも考えましたが、まずは二重窓を作って対応したいと思います。
新会堂での最初の祈祷会がありました。まだリフォーム工事が終わっていないので、少し狭い親子礼拝室で祈りをささげましたが…いつものメンバーで、いつものように祈祷会ができるのは何より安心します。夜もお腹を空かせた青年たちと一緒に引っ越しの片付けをして、その後で御言葉と肉の糧をしっかり味わいました。
トイレが付いて、今日から使えるようになりました。男女は小さなトイレですが、一つは車いすでも入れるように大きく作ってもらいました。もとは車庫だったところですが、見違えるようにきれいになりました。明日は祈祷会があるので、間に合ってよかったです。
今日から八月。この日に合わせて、ある姉妹が金と銀の看板を作ってきてくれました。早速、手伝いに来てくれた青年がつけてくれましたが、なかなか上手な仕事に感謝です。看板だけでずいぶん雰囲気が変わりました。
今日は16年間お世話になった西小路2-7-22MKM友ビルでの最後の礼拝でした。用意した椅子はほぼ満席になり、高らかに賛美が捧げられました。この場所でたくさんの出会いがあり、たくさんの主の御業を見せていただきました。家主さん、地域の皆さま、本当にお世話になりました。主の祝福を心からお祈り致します。
『生ける水の泉』(メッセージ要約)ヨハネ7:37-39
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が入っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
今日は箕面市民が楽しみにしている「箕面祭り」のパレードがありました。様々な工夫を凝らしたダンスやブラスバンドがメイン通りをパレードするのは圧巻です。今年も大勢の観客で沿道は埋め尽くされ、非常な盛り上がりを見せていました。
さて、今日のメッセージはユダヤ人にとっての三大祭りの一つ「仮庵の祭り」が舞台です。かつてイスラエルの民がエジプトを脱出し、荒野を旅している中で水に渇き、神がモーセを通して岩から水を出したことを記念するもの。その祭りが最も盛り上がりを見せる時、イエスさまは立ち上がって大声で叫びました。「だれでも渇いているなら…」祭りの賑わいとは逆行するような言葉に、人々は目を丸くしたことでしょう。でも、それこそ私たち人間の本質をつく、イエスさまの招きと約束のメッセージだったのです。
人はみな、何気ない生活を送る中でも心の渇きを持っているのではないでしょうか。その渇きを癒すために、次々に夢中になれるものを探したり、あるいは一時しのぎにお酒やギャンブルで紛らわそうとしたりすることもあるでしょう。でも、それはあくまで一時的なもので、醒めてしまえばさらに渇きを増すことになります。人の心には衣食住では決して満たされない飢え渇きがあって、イエスさまはそうした人間の現実に向かって叫ばれたのです。そして、イエスさまはそういう人はだれでもご自身のもとに来て飲むように招かれました。それは、イエスさまを罪からの救い主であると信じるということです。そうすえば、その人の心の奥底から生ける水が溢れ出て、溢れ出た恵みは隣人の心まで潤していくのです(イザヤ58:11)。
今日は、教会員をはじめ友人牧師たちも手伝いに来てくれて総勢20名ほどで教会の引っ越しを行いました。二tトラック&軽トラック二台でそれぞれ三回ずつ運びました。思ったより荷物がたくさんあって、新会堂の礼拝堂はあっという間にいっぱいです。明日は現会堂での最後の礼拝。主が備えてくださった場所に感謝をもって心から捧げたいと思います。
照明器具などがまだついていませんが、一階の礼拝堂の工事はほぼ完成に近づいてきました。台所や廊下のクロスもこれからですが、とにかく今日、第一便の荷物を運び入れました。明日は14名の奉仕者が来てくれて、教会のおおよその荷物をこの礼拝堂に運び入れます。どうなることやら…ですが、同時進行で献堂式の記念品の作成を始めました。
親子礼拝室、キッチン、トイレの壁紙がはられ、夕方には礼拝堂の天井にもクロスが張られていました。明日は礼拝堂の床にクッションフロアが張られる予定ですが、ワックスを塗るため、一日おかなくてはなりません。現教会では明日から引っ越し作業を始める予定なのですが、新会堂のどこへ運ぶかを考えなくては…。もちろん明日は引っ越し業者も頼まずに、自分たちで運びます。
1階礼拝堂の工事も完成間近となり、週末の引っ越しの段取りも決めました。現会堂での祈祷会も今日が最後。16年間慣れ親しんだ会堂を離れるのは寂しいのですが、導いてくださる主に期待して旅立っていきます。
昨日は近くの服部緑地公園を散歩し、向日葵の健気さに励まされて帰ってきました。その後は、現会堂の原状回復に勤しみました。床のカーペットを止めていた両面テープが信じられないほど剥がれず苦労しています。…体力の衰えを感じつつも、頑張っています。
礼拝堂の天井と親子礼拝室が出来上がってきました。また、トイレも便器などはまだですが、先に壁紙が入りました。なんとか今週末の引越しに間に合うように作業を進めてくださっているそうです。感謝です。
今日は待ちに待った方の洗礼式がありました。素晴らしいお証しに、神さまの最善の時を覚えました。また、午後はファミリーコンサート。この場所では最後となり、感慨深いコンサートになりました。工事も四十日目を迎え、進捗状況も気になりますが、現会堂の原状復帰も始めなくてはなりません。いずれにせよ、今週土曜日には引越しをします。
「死んでも生きる」ヨハネ11:17-27(メッセージ要約)
『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。…このことを信じますか?』
先週、日野原重明さんが天に召されました。敬虔なクリスチャンとして歩み、多くの人に愛され、まさに生涯現役を貫いた先生は、この世の使命を全うして天国の確信をもって旅立っていかれたことでしょう。
どんなに長寿大国になったとしても変わらないのは、誰もがやがて死の現実と向き合わなければならないことです。それはクリスチャンも同じです。病気になることもあれば、試練の中も通らされることもあります。マルタとマリヤとラザロの兄弟も、イエスさまを愛し信頼していましたが、人生最大の試練に襲われていたのです。姉妹は、弟のラザロが重い病気にかかっているので、イエスさまのもとに使いを送り助けを求めました。でも、イエスさまは四日も遅れて姉弟のもとにきたのです。すでに埋葬も終わり、もはやどうすることもできない状況でした。マルタは言います。「あなたがここにいてくだされば、弟は死ななかったでしょうに。」彼女はイエスさまを信頼していましたが、あくまで「いてくだされば」というもので、「来てくだされば」というものではなかったのです。イエスさまはそんな彼女に「あなたの兄弟はよみがります」と宣言され、三つのことを教えられました。一つは死が全ての終わりではないこと、二つ目は望みえない中で望みを抱くこと、三つ目は信じる者は神の栄光を見ることです。イエスさまは、悲しみに暮れる姉妹とともに涙を流され、そして、墓の石を取り除けるように命じました。彼女たちはその言葉を信じて不信仰という墓の石を取り除いた時、復活のラザロを目の当たりにしたのです。
人間はみな、死へと向かう存在です。でも、イエスさまをよみがえりであると信じる者はみな、永遠の命に向かう存在なのです。あなたも「まだ信じられない」という不信仰の岩を取り除いて、小さくても「信じる」という一歩を踏み出そうではありませんか。
親子礼拝室がだいぶ出来上がってきました。ただ、そこから礼拝堂を見るガラスの部分が思いのほか小さかった。開閉するのはいいのですが、もう少し早く見に行くべきでした…。右側は障碍者の方用のトイレ。床のCFや壁紙が張られるのは来週になるのこと。取り急ぎ、一階部分の完成は次の金曜日です。
工事37日目。引渡しまで10日を切りましたが、まだ先は長いですね…。今日は6年間英会話の講師をしてくださった先生の最後のクラスでした。福音を熱く語り、よく祈り、多くの受講生に愛された先生でした。I wish you well !
この教会での祈祷会も残り二回となりました。今日は祈祷会&食事の後に、子ども礼拝の準備をしました。お話を聞いてくれる子どもたちの顔を思い浮かべて心を込めて色塗りしました。
連日の猛暑の中、工事関係者の方々が急ピッチで作業をしてくださっていますが、やや遅れ気味のようです。もともと車庫だった場所には台所とトイレができます。だいぶその部屋も出来上がってきました。とにかく来週中には引っ越しです。お祈りください。
今日は気分転換に西宮の甲山公園に行ってきました。急勾配を登った先には兵庫の町並みを一望できる展望台があります。風が気持ち良かったです。川沿いのよく行く喫茶店が閉まっていたのは残念でしたが、いい一日でした。
勝手口の扉を開けるとすぐに二階に上がる階段があります。子どもたちがドタドタと土足で登る階段なので少し補強してもらっています。また、右の写真は男女のトイレと障碍者の方のトイレを作ってもらっています。もともとは車庫があった場所です。
今日も猛暑でしたが、午後から工事の手伝いに行ってきました。大したことはできませんが、少しでも…と思い。今年、羽化したオオクワも元気いっぱい、なかなかの大きさになりました。
一階の車庫だったところは車椅子の方が使うトイレにリフォームして外側をコンクリートで塞ぎました。また、二階のトイレとお風呂があったところは子ども礼拝室にリフォームしていきます。みんなで思い描いていたことが形になっていくので、本当に楽しみです。
今日も朝から暑い一日となりました。内側の天井、床、壁の色が決まりました。ここには親子礼拝室、キッチンができる予定です。その隣はトイレができる予定ですが、工事の方々がいろいろ工夫して作ってくださっています。
ユナさんの誕生日ということで、箕面の山をドライブに。その帰りに新会堂の様子を見に行ってきました。一階の礼拝堂は、天井と床が張られ、次は壁ができるそうです。工事が順調に守られていることを感謝します。
今日からいよいよ天井がはられていきます。開放感があるようになるべく高い位置にお願いしましたが、やはり打ちっぱなしの時に比べると低く感じます。また、二階の子ども礼拝室も仕切りの壁が壊されスケルトンの状態になってきました。ここでたくさんの子どもたちが元気に走り回る姿を思い浮かべています。
「どん底からの希望」ヨハネ7:53-8:11(メッセージ要約)
『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』
私たちは時に、同じ人生であっても、幸福な人がいれば不幸な人もいる…なぜこのような不公平があるのかと疑問に思うことがあります。でも、私たち一人一人に注がれる神の愛はどんな人にも公平であることを思います。
今日の箇所にも、人生のどん底を味わった一人の女が出てきますが、律法学者たちは彼女を姦淫の現場で捕らえ、イエスと群衆の前に連れてきました。そこで彼らはイエスに向かって「あなたはこの女になんと言いますか」と詰め寄ったのです。それは、イエスを訴える口実を得るためでした。この時のイエスの言葉は、今日の私たちにも大切なメッセージを告げています。この出来事から三つのことを心に留めましょう。
一つは、人を責める前にまず自分を問うことです。イエスは律法学者たちに「あなたがたの中で罪のない者が石を投げなさい」と言われました。すると、年長者たちから始めてひとりひとりその場を去っていったというのです。「人の一寸、わが一尺」と言いますが、私たちも気を付けたいものです。二つ目は、イエスだけが真実な裁き主であることです。律法学者たちが去った後、イエスとその女だけになりました。彼女はイエスの前に自分の罪を認め、裁かれるべき者としてその場に留り続けたのです。イエスはそんな彼女の悔い改めをしっかりと受けとめられました。三つ目は、イエスの愛だけが人を造り変えることです。イエスは彼女の過去よりも、「今からは」という彼女の未来に目を向けられました。その時、暗く傷ついた彼女の心に希望の光が差し込んだのです。イエスの愛は、あの十字架の上にはっきりと示されました。この愛だけが、人を新しく造りかえるのです。私たちもまた、イエスの十字架の愛を見上げ、日々新しく造りかえられていこうではありませんか(Ⅱコリント5:17)。
9月からのもう一人の新しい講師レイチェルさんが来てくれました。彼女もまた明るくて気さくな先生、しかも日本語もお上手です!教会の英会話教室は、普通の英会話とは違って、いろいろユニークです。秋期コースは新しい教会堂に移ってから始まりますが、ぜひこの7月にオブザーバーでクラスを体験してみませんか?
今日は夕方に見に行ってきましたが、天井の基礎となるものがつけられていました。床と天井ができてきて、いよいよ礼拝堂の雰囲気が見えてきました。右側の写真のところにキッチンとトイレがつくられる予定です。
リフォーム工事は二十日目を迎えました。月曜日で休みだったので、午後から少し手伝ってきました。壁を壊すのも慣れてきた感じがします。人の心もこんな風に壊れたらいいのですが…。工事の方とキリスト教の歴史やカトリックとプロテスタントの違いについてお話しできるのが嬉しいです。少しでも神さまや教会に対する思いが伝わってもらえたら感謝です。
「神をあがめる者に」ルカ5:17-26(メッセージ要約)
『すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら帰っていった。』
最近、何かと話題の棋士ひふみんさんは、カトリックの信者さんだそうです。彼の「老いと勝負と信仰と」を読みましたが、特に信仰面でとても親近感がわいてきました。
信仰とは何か…。「イワシの頭も信心から」と言いますが、大切なのは、信じる気持ちよりも信じる対象です。福音書を見ると、イエスさまの周りにはいつも大勢の人たちが、話しを聞きに、病いを直してもらいに集まってきていたことがわかります。そんな様子をパリサイ人や律法学者たちは反感の目で見ていたようです。そんなある日、男たちに担がれて中風の病人が運ばれてきました。ところが、イエスが滞在している家は、人々で溢れ返りとても中には入れませんでした。願いは叶わずあきらめて帰ると思いきや、彼らは屋根に上り瓦をはがして病人をつり降ろしたのです。非常識と思われようと、人から何と言われようと、彼らはあきらめずに求め続けました。ここに信仰の原点があります。そんな彼らにイエスが言われたのは驚く言葉でした。「あなたの罪は赦されました」病人は何のことか分らず、律法学者たちもここぞとばかりに反発しました。でも、それは彼にとって必要な言葉であり、イエスしか言い得ない大切な言葉だったのです。砕かれた心に神のことばを受け取る…ここに信仰の重要な真理があります。その上で、イエスは彼に命じました。「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」彼は躊躇することなく、人々の前で立ち上がり、神をあがめながら帰っていきました。これまでとは違う、希望をもって御言葉に従って歩む新たな人生を歩き出したのです。ここに信仰の本旨があります。彼の病の癒しは、周りの人々をも神をあがめる者に変えていきました。私たちも彼らのような信仰をいつも心に覚えて、一歩ずつ神をあがめる者にならせて戴きましょう。
天井に鉄の棒が無数に打ち付けられ、これからどのように天井ができていくのか説明していただきました。暑い中、本当に大変な作業です。一階部分は礼拝堂に当たるので、急ピッチで進めていただいています。工事の方柱や壁に書かれた御言葉に、工事の方も「なかなかいい言葉ですね」と感心してくださっていました。
今日は床のコンクリートもすっかり乾いて、天井から鉄の棒のようなものが吊り下げられていました。一階の解体はほぼ完了です。二階はまだまだ時間がかかりそうです(右の写真は先日私もちょっと壊すのを手伝った壁です)。立派なトイレと風呂がありましたが、教会学校の部屋にリフォームされます。
昨日は東京で会議、今日も牧師会があったので、夕方ごろに会堂を見に行きました。すでに床にコンクリートが流し込んであり、日曜日にみんなで行った時が聖書を埋める最後のチャンスだったかも…。さあ、どうしたものか…。ただ個人的には、「聖書」は読むものであって、埋めるものではないという思いですが。
礼拝後に新教会のリフォーム状況を見に行ってきました。工事の方の了解を得て、みんなでコンリートの柱に好きな言葉を書いてきました。なかなか貴重な体験だったのではないでしょうか。神さまを第一とする思いを忘れずに、御心にかなった教会堂が建つことをお祈りしてきました。
「神なき時代の心得」創世記11:1-9(メッセージ要約)
『それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の前面に散らしたからである。』
今日は住宅デーで、アントニオ・ガウディの誕生日でした。彼はもともと無神論者で、サグラダ・ファミリアの建設中に、神を信じる信仰に導かれたそうです。私たちもあらためて建物を建てることについて考えたいものです。
ノアたち家族が大洪水から救われた後、三人の息子たちから全世界の民が分かれ出ました。それゆえ人類は一つの言葉を使っていたのですが、シヌアルの地(現在のイラン・イラク国境地帯)に移り住んだ頃、町を築き高い塔を建てたことで、神の裁きを受け言葉が通じ合わなくなってしまったのです。時代は違えど、互いの意思の疏通ができてこそ、円滑なコミュニケーションがとれるものです。もし、同じ民族で、同じ言葉でありながら、思いが通じ合えなくなるとしたら…それは一大事です。このバベルの塔の出来事から、神なき時代の心得を心に留めておきたいと思います。
一つは神なしの自負心が人を不幸にすることです。「頂が天に届くまでの塔」は、神の領域まで達するという人間の傲りでした。また、「散らされるといけない」も、神の命令に対する反逆です。つまり「バベルの塔」の建設は、被造物であることを忘れた人間の高慢さの象徴だったのです。二つ目は神なしの働きは必ず失敗に終わることです。人間の目には町や塔の建設は順調に進んでいるように見えました。でも、神の目にはこのまま放っておけばますます状況が悪くことが見えていたのです。どんなに神をないがしろにしようと思っても、神は見過ごさずにわざわざ降りてこられて行動を起こされるのです。三つ目は神なしの時代に神の裁きが下ることです。神は、罪に向かって団結する人々の言葉を混乱させ、彼らを全地に散らされました。それは神の裁きでありましたが、同時に神の救いへの備えでもあったのです。時が過ぎ、ペンテコステの出来事は私たちが御霊にあって一つにされることを教えています。今日も神なき時代にありますが、どうか神の愛の中に留まり、御心にかなった歩みをしてまいりましょう(ヤコブ4:6)。
梅雨の時期なのに、雨はほとんど降らず暑い日が続いています。工事の方々も7月末の完成を目指して急ピッチで作業を進めてくださっているので、私も何かできないかと思い、ほんの少しだけ壁の解体を手伝わせてもらいました。東日本大震災で救援ボランティアに行った時のことを思い出しながら目一杯ハンマーを振ってきましたが、とにかく体が痛いです…。
今日は秋からの英会話Kidsの講師をしてくださるホゼア先生が来てくださいました。すでにKidsたちの心もお母様方の心もつかんでいる様子でした(笑)。リフォーム工事も十日目を迎えて、一階もだいぶスッキリしてきました。
今日は関西宣教区運営員会がありました。同盟教団の牧師&牧師夫人20名ほどが集まって互いの近況や今後の予定について話し合いました。嬉しいニュースと寂しいニュースとどちらもあって複雑な気持ちでしたが…。会議の後は新会堂のリフォームを見に行って、先生方に祝福を祈っていただきました。
礼拝後に教会の皆さんでリフォームの状況を見に行きました。工事が守られるようにお祈りしてきました。右の写真は3年前に物件を探していた時に見た虹です。ノアの洪水後の神さまの契約を思い出します。
「永遠の契約」創世記8:1-9:17(メッセージ要約)
『こうして神はノアに仰せられた。『これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」
「父の日」も「母の日」同様、今から100年ほど前にアメリカの教会で最初に祝われました。ある婦人が天国の父を覚えて感謝の礼拝をささげたのが始まりと言われています。この日ばかりは…日頃の感謝を込めてお父さんに「ありがとう」を伝えたいものです。
神様の言葉通り、大雨は40日40夜降り続き、水かさは150日間も増していきました。大洪水の中を漂う箱舟、その中にいた一家の大黒柱ノアとその家族は不安な日々を過ごしていたでしょう。「神さまは私たちを忘れてしまったのか…」と疑心が頭をもたげていたかもしれません。しかし、この洪水の記事は、だれがどのように滅ぼされたかということよりも、だれがどのように救われたのかということを丹念に記しています。彼らはどのように救われたのか、また、神はこの出来事を通して何を教えているのでしょうか。
一つは神はノアたちを忘れずに心を留めておられたことです。「心に留める」とはたまたま思い出したとは全く逆のことです。神は洪水の間もノアたちのことを片時も忘れずに思い続けていました。そして安全に岸にたどり着かせたのです。二つ目は神はノアの献身と祈りを受け入れられたことです。ノアたちは漂着してからも7ヶ月間も待ち続けていました。「箱舟から出なさい」という神の言葉を聞いた時、どんなに喜んだでしょう。そんな彼らが最初にしたのは神に心からの礼拝を捧げることだったのです。三つ目は神はそんなノアとの間に永遠の契約を結ばれたことです。神は「わたしは、わたしの契約を立てよう」と告げられました。これは「後の子孫」と言われた通り、今日の私たちにも関係する永遠の契約です。私たちも今日という日がある間にみことばを宣べ伝えましょう(Ⅱテモテ4:2)。大切なことを後回しにしないで、今をしっかり生きるものでありたいものです。
工事六日目も暑い一日となりました。天井もすっかりきれいになった…と思ったら、三本の十字架が現れました。これはこれで気が引き締まるような…。また、今年もオオクワの産卵セット完了。今夏、オオクワを飼ってみたいお友だちがいたら差し上げます。
今日は炎天下での作業になりました。工事関係者の方々に感謝です。床も天井も解体が進み、二階部分も始まりました。一階も二階も水回りの移動があるので、それに多くの時間がかるようです。
解体工事4日目です。壁はほとんど取り除かれ、天井と床も徐々にはがされています。一階の解体工事はだいぶ進みました。これからどのようにきれいになっていくのか…まだまだ先は長いですね。
6月の「花の日」を覚えて、地域の介護施設にお花と賛美のプレゼントにいきました。この奉仕も毎年の恒例行事となりましたが、三か所の施設でいつも楽しみに待っていてくださる方々がいてくださることに励まされます。全部で5曲の賛美、穏やかな笑顔で聴いてくださいました。訪問した私たちもたくさんの恵みをいただいて感謝なひとときでした。
解体工事二日目はだいぶ作業が進んでいました。もともと小児科の病院でしたので、細かく部屋が分かれていましたが、あれよあれよという間に壁が取り除かれ、なんだか広く見えました。聖書には「古いものは過ぎ去って…」とあります。病院が41年の働きを終えて、まさか教会になるとは…近隣の方々はやっぱり驚くでしょうね。
今日から本格的なリフォーム工事が始まりました。工事関係者の方々と祈りをもって始めました。一階はほとんどスケルトンに近い状態になるので、どのくらい礼拝堂のスペースがとれるのか期待しています。とにかく事故や怪我がないように、また、近隣住民の方々へのご迷惑が最小限に収まるようにお祈りください。
慣れ親しんだ場所を離れるのはやっぱり淋しいものです。でも、「立つ鳥跡を濁さず」で気持ちも切り替え、思い切って次の一歩を踏み出す準備を始めました。主からの祈りの答えを信じて…まずは断捨離です。
『あきらめずに祈り続けるなら』使徒の働き12:1-17(メッセージ要約)
「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。(しかし)教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」
私たちの生活には簡単で身近なものほど、実は奥が深いというものがあります。クリスチャンにとってはまさに「祈り」がそれです。「祈り」とは、単なる気休めではなく、偶然を期待するようなものでもありません。祈りとは何か…。人はなぜ祈るのか…。「求めよ。さらば与えられん。」激しい迫害の中にも、ねばり強い祈りで目覚ましい宣教を行った初代教会の姿から、あきらめずに祈り続ける秘訣を心に留めましょう。
一つは、試練の中にも主にあって希望があるからです。ヘロデ王は、教会を苦しめるために手始めにヨハネの兄弟ヤコブを捕らえて殺し、さらに教会の中心人物であるペテロまで捕らえて投獄しました。こうした状況に教会は手も足も出せずにいたのです。それでも彼らにはまだ一つの道がありました。それは万物の支配者である神に祈り求めることでした。「祈りは万事を変える」いつの時代も教会の最大の武器は祈りなのです。
二つ目は、私たちの思いを超えて主が働かれるからです。牢獄に繋がれていたペテロは絶対絶命の状況にありました。そんな彼の前に御使いが現れ、彼を外に救い出されました。それは夢でも幻でもなく、まさに主の御業の表れだったのです。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」主は八方塞がりの時こそ、人の常識を超えてその御手を動かされるのです。
三つ目は、私たちは最善なる主の計画を知るからです。教会は、ペテロが殺される前夜も必死に祈り続けました。もちろんヤコブが捕らえられた時も熱心に祈ったでしょうが、そのヤコブは殺されてしまいました。…だから今度も祈ってもダメだと言って祈らなかったのではありません。彼らは、さらにあきらめずに主に祈り求めたというのです。いつの時代も、あなたがたの確信を投げ捨ててはならない、忍耐をなくしてはならない、聖書はそう教えています(ヘブル10:35-36)。私たちもまた、どんなに望み得ない時にも、拙い祈りでも、主に期待してあきらめずに祈り続ける者にならせていただきましょう。
今日はペンテコステでした。先週水曜日に不動産の決済も無事完了し、いよいよ明日からリフォーム工事です。築41年の建物ですので、大幅な工事が予想されます。皆さまのお祈りに覚えていただければ幸いです。また、近隣の方々には2ヶ月ほどご迷惑をおかけしますが、大変申し訳ありません。ご理解のほど宜しくお願い致します。
『箱舟を造りなさい』創世記6-7章(メッセージ要約)
「あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。」
創世記6章からは有名な「ノアと箱舟」の記事が出てきます。人類が増え始める中で、地上の人の悪も増大していく様が描かれています。主はその様子をじっとご覧になって、心を痛め残念に思われました。創造者なる主の心痛はいかばかりだったことでしょう。
「生めよ、増えよ、地を満たせ」…本来、人類が増え広がっていくのは主の御心にかなったことでした。しかし、人間は本来の創造の目的から離れ、自分たちから堕落の道を選んでいってしまったのです。このような暴虐の時代にあって、ただひとり主の御心にかなった人物がいました。ノアです。彼は「正しい人」「全き人」とありますが、完全無欠な者だったということではありません。彼にも弱さも欠点もあったはずですが、ただ一つ、神の恵みのうちを歩む者だったということです。「箱舟を造りなさい」それは人的にも経済的にも日数も…想像を絶する困難があったでしょう。周りの人からは「そんなものを造って何になる」と冷やかされることもあったでしょう。でも、ノアはすべて神が命じられた通りにしました。主はそんな彼と彼の家族を通して、人類の救いをつないでいかれたのです。この時代も、ノアの時代と同様に…いやそれ以上に、神への反逆と暴虐に満ちた時代です。まさに「ノアの箱舟」は、今日の「教会」を指し示していると言えるでしょう。教会こそ、今の時代における救いの箱舟なのです。
今日は午後から教会総会があり、その後は新会堂建設のための祈り会がありました。みんなで新会堂に向けての思いを語り合い、ホワイトボードに図面を書き合いながら…とにかく主の御心にかなう会堂が建つように互いに祈り合いました。まだまだ様々な必要がありますが、憐れんでくださる主を信じて進んでいきたいと思います。
『罪人を憐れむ主』(創世記4:1-15)メッセージ要約
「そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。」
私たちが自分ではどうすることもできない感情の一つに「妬み」があります。何か祝福されている人を見ると、つい羨ましくなってしまう…。いつの時代も、こうした妬みの感情があらゆる罪のもとになって様々な悲劇を生み出しているのではないでしょうか。
創世記4章にはエデンの園を追い出されたアダムとエバに、カインとアベルという兄弟が与えられた記事が出てきます。家族ができた喜びもつかの間で…この兄弟間で人類最初の殺人が起きてしまうのです。原因は兄の「妬み」でした。この記事から3つのことを心に留めたいと思います。まず一つは、主は私たちのささげる心を見ておられることです。アベルとカインの兄弟は主の前に感謝の表われとしてささげ物をしました。でも、主は弟アベルのささげ物には目を留められましたが、兄カインのささげ物には目を留められませんでした。それは、主が「ささげ物」よりも先に、「ささげる人」自身に目を留められたからです(へブル11:4)。二つ目は主は私たちに悔い改めを語っておられることです。憤って顔を伏せるカインに、主は声をかけられ悔い改めを迫ります。でも、彼は結局、弟アベルを呼び出して殺してしまいました。妬みが憤りとなり、ついに悲劇を生み出してしまったのです。三つ目は主はそんな者をも憐れんで待っておられることです。主は殺人を犯したカインにさえ悔い改めを迫ります。こうしてさすらい人となったカインでしたが…主はそんな彼をも見捨てないで神のもとに帰ってくる機会を残されたのです。
私たちも生きている限り、絶えず葛藤の連続で罪の誘惑がなくなることはないでしょう。主はそんな私たちに対しても罪の誘惑を取り除かれるのではなく、信仰によって克服することを願われるのです。主はそのために聖霊を送ってくださり、人生の勝利をもたらして約束の地に導いてくださいます。罪の誘惑に溢れる時代ですが、私たちも主に期待して、信仰を持って歩んで行こうではありませんか(Ⅰヨハネ3:12)。
創世記3章からのメッセージ。「世界の初め」「人間の初め」「結婚の制度」…ここまで神の創造の素晴らしさにただただ圧倒されてきて、一転して雲行きが怪しくなってくる箇所です。日曜日にここから話するのは3度目ですが、何度読んでもため息が出てきます。でも、今はイエスさまにある平安があること、そして、図らずも?横にいたムーミンたちに励まされながら説教準備に取り組みました。
『あなたはどこにいるのか』(創世記3:1-13)メッセージ要約
「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』」
讃美歌90「ここも神の御国なれば…そよ吹く風さえ、神を語る」かつて神である主が人間の為に用意された楽園「エデンの園」を思わせるような曲です。そうした美しいエデンの園において、人間はサタンの誘惑によって最初の罪を犯してしまうのです。
この箇所には、「サタンの誘惑」と「神の試練」の両方が描かれています。サタンの誘惑は人間を陥れることが目的であり、一方で、神の試練は人間を試すことが目的です。悪意と善意…。私たちはまずこの3章が歴史的な事実して心に留めなければなりません。サタンの誘惑は今も私たちにしたたかに忍び寄ってきます。言葉巧みに神のことばを歪め、神への疑いを挟み込み、心の動揺を誘い、少しずつ神の恵みを見失わせていきます。神のことばも曖昧になり、すっかりサタンの言葉に魅了された人間は、あっけなく罪に堕ちていってしまったのです。そうして二人の目が開かれてわかったのは、神のような姿ではなく、自分たちが裸である(何もかも無防備の状態)ことと神との約束を破ってしまったという事実でした。「そよ風の吹く頃」人間は主の声を聞くと思わず主の御顔を避けて身を隠しました。神である主は、そうした一切のことをご存知の上で、「あなたはどこにいるのか」と声をかけられたのです。それは単に居場所を尋ねる言葉ではありません。彼らがいるべき本来の場所は、霊的な意味での主の御顔をまっすぐに見上げられる場所でした。どんなに時代が変わっても、人間の罪の本質は変わることはありません。神はそんな人間のために、ご自分のひとり子であるイエス・キリストをお遣わしになったのです。1 テモテ2:5,6。
今日は母の日歓迎礼拝でした。教会のお母さん方にお花のプレゼントをしました。午後からは恒例の教会ピクニック。美しい自然の中で、神の恵みと祝福を感じながら時を過ごしました。
『土地のちりで』(創世記2:4-17)メッセージ要約
「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」
「もし神がいるならどうして世の中にこんな不幸があるのか…」それは、キリスト教が発足し、世界に宣べ伝えられてからずっと投げかけられてきた問いです。その一つの答えは、創世記における「人間の始まり」に見ることができるのではないでしょうか。
神は人間の歴史の初めを創造し、六日間で万物を造り、全ての準備を整えて、「さあ、人を造ろう」と言われました。そこには他の動物たちとは違う特別な神の意思が表されています。神である主は、「土地のちり」で人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。こうして人間は、単なる物質的な存在から神との交わりに「生きるもの」となったのです。そして神である主は、この人間を隅々まで潤されたエデンの園に置かれました。そこは神の恵みと祝福が満ち溢れた所で、人間には神の栄光を表わすことが期待されていたのです。神である主は、そんな人間と一つの契約を結ばれました。それは、善悪の知識の木からとって食べてはならないということでした。何をするにも自由の中で、神はそこには責任が伴うことを教えられたのです。神が期待されたのは、人間が自分の意思で神を愛し、神に従うことでした(Ⅰヨハネ5:3)。いつの時代も、人間はこのことを決して忘れてはならないのです。神は、人間をこよなく愛し、全ての必要を整えて、命を与えられました。そして神は今も、キリストにあってあのエデンの園における神との麗しい関係を回復し、神のもとに立ち返ってくる者たちを期待して待っておられるのです。
教会の近くに、少し高台となった見晴らしのいい散歩道があります。今日は天気も良く、さわやかな風の中で自然豊かな箕面の町を一望してきました。こんな身近なところでも神さまの創造の御業の素晴らしさを感じることができて感謝です。GWも終わり、いよいよ気を引き締めて、夢の実現に向けて祈っていきたいと思います。
『初めに神が』(創世記1:1-2:3)メッセージ要約
「初めに、神が天と地を創造した。」
簡潔で、かつ深遠なるこの一文は、聖書全体の土台とも言える重要な御言葉です。それゆえ聖書を読む私たちはまず初めに、この御言葉を信じるか、信じないかの選択が求められます。もし信じて読み始めるなら、そこには永遠なる神の存在を示す多くの印を見出すでしょう。そして、この一文から始まる創世記1章には、「世界の創造」から「人類の誕生」に至るまで神の英知と御心が存分に語られています。それは今日の私たちにもつながる神の壮大なるメッセージです。
神がまず創造されたのは、「時間」と「空間」の初めです。「初めに」とは神が時間と歴史の初めを定められたことを表わします。また、「天と地」とは両極を指して全体を意味する修辞的な表現であって、まさに存在するすべてのものを指しています。私たちもまずこの創世記1:1をしっかり信仰をもって受け止めたいと思います。次は、神が御心によって万物を創造されたことです。2節以降は「地」に焦点が当てられ、「茫漠として、何もなかった」ところに神が意志をもって秩序を生み出された様子が記されています。神は六日間の創造を終えられて「非常に良かった」と宣言されました。こうして第七日目に、神は創造の御業の完成を告げられて休まれたのです。神はこの日を祝し、聖なる日とされました。この神との安息への招きはまだ続いています。私たちもまた、神の作品(エペソ2:10)として、神をあがめ、神に喜ばれる相応しいあり方をしていこうではありませんか。
今年もある姉妹のお宅のヒラドが綺麗に咲きました。また、しばらく前から自転車が壊れて困っていたら、ある兄弟から戴きました。健康のためには歩いた方がいいのでしょうが…感謝です。今日は午後から「教会の未来を考える会」があって、多くの方が話し合いに参加してくださいました。教会の長年の祈りの実が、実現に向けてまた一歩前進です。
『新しい時代に備えて』(使徒の働き1:1-5)メッセージ要約
「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」
「新緑の候」と言いますが、この時期は若葉や青葉が眩しい時期です。こうした自然界の法則のように、神さまの働きには絶えず次の時代のための備えがあることを思います。復活の主は弟子たちの前に現われ、それから四十日間、すなわち天に昇られるまでの間、弟子たちとともに過ごされました。そして、新たな時代に備えて準備をなさったのです。そのことが「ルカの福音書」の続きである「使徒の働き」の冒頭に記されています。
イエスさまがまずなさったのは弟子たちに数多くの確かな証拠を示されたことです。主は何かを食べたり、触らせたり、とにかく間違えようのない証拠をもってご自分が生きていることをお示しになりました。彼らはそのことを証言する証人になったのです。次になさったのは神の国のことを教えられたことです。主の宣教は、その開始も中心も神の国の到来を宣言するものでした。神の国とは、どこか遠くにあるものではなく、私たちのただ中にあるものです。そして、最後になさったのは父の約束を待てと命じられたことです。彼らにとって最も重要なのは、はやる心を抑えて、聖霊のバプテスマが降るのを待つことでした。聖霊の働きなくしては、この後の新たな時代の宣教は成し得なかったでしょう。主の命令を信じて待ち望む者には、必ず約束の聖霊が与えられます。イザヤ40:31。私たちも復活の主の確かな臨在を感じながら、神の国の宣教を継続し、聖霊により頼んで与えられた使命を果たしていこうではありませんか。
桜の花も足早に散ってしまい淋しくなりましたが、変わってハナミズキが見頃を迎えました。今日は午後から宣教区の奉仕者研修会が松原CHでありました。奉仕者としての大事なポイントを学び、心を燃やされて帰ってきました。
『復活の主がともにおられる』(ルカ24:13-35)メッセージの要約
「そこでふたりは話し合った。『道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
先週は最初のイースターの朝、復活の主がマグダラのマリヤの前に現れて、彼女の涙をぬぐわれたところを見ました。今日はその日の午後の出来事として、エマオに向かう二人の弟子たちの前に、復活の主が寄り添って歩まれた場面から学んでいきたいと思います。この日、「イエスはよみがえられた」という証しがエルサレムの一角からこだまし、町から町へとに伝えられました。でも、一部の人を除いて多くの人が「そんなバカな…」と言って素直に信じることはできませんでした。エマオに向かうふたりも、暗い顔つきで帰路についていたのでしょう。イエスさまはそんな彼らにご自分から近づいて、なぜ失望落胆しているのかを尋ねました。そして、聖書からご自身を説き明かし、彼らの心の目を開かれたのです。今日は賀川豊彦が天に召された日でもありましたが、彼もまた暗い人生の中で主と出会い、信仰に導かれました。彼はイエスの生きかたに心を燃やされて、社会的弱者に寄り添う献身者の生涯を歩んだのです。イエスとの出会いが人生を大きく変えます。私たちクリスチャンにとって重要なのは、イエスを見たか、見ないかではなく、イエスを愛することです(Ⅰペテロ1:8)。あなたの側にも復活の主は立って声をかけておられます。「そんなバカな…」ではなく、信じる者になろうではありませんか。
今日はイースター歓迎礼拝でした。礼拝には50名を越す方が出席され、復活の主の御名を高らかに賛美しました。また、洗礼式や子ども会もあって本当に恵みに溢れる1日となりました。主に感謝いたします。
『涙をぬぐわれる救い主』ヨハネ20:11-18(メッセージ要約)
「イエスは彼女に言われた。『マリヤ』。彼女は振り向いて、ヘブル語で『ラボ二』(すなわち、先生)とイエスに言った。」
イースターおめでとうございます。イースターはイエス・キリストのよみがりを喜び祝う日です。この方は、ご自分から十字架を背負い、肉体的にも霊的にも筆舌に尽くしがたい苦難を耐え忍ばれたました。それは、私たち人間が持つ罪の身代わりとなるためでした。しかし、この方は三日目に死からよみがえり、マグダラのマリヤをはじめ多くの弟子たちの前に現われ、天に昇っていかれたのです。
マグダラのマリヤは、以前は七つの悪霊に悩まされていましたが、イエスさまと出会って大きく人生が変わりました。それ以来、彼女はずっとイエスさまを愛し、誰よりも仕えてきました。そんな大切なイエスさまが死んでしまわれて、彼女は深い悲しみの中にいたのです。でも、復活の主はそんなマリヤの側に立たれ、名前で呼び、新たな役目を与えられました。まさに彼女の涙は喜びに、悲しみは歓喜に変えられたのです。新渡戸稲造は「悲しみの門から入りなさい」と言ったそうです。また、イエスさまは「幸いなるかな。悲しむ人びと。その人は慰められる。」という深淵なる言葉を語られました。どんな深い悲しみの中にいる方にも復活の主は希望の光を灯してくださいます。あなたもこの本物のイースターの喜びを自分のものとされて、新しい人生を歩みだそうではありませんか。
今年も桜の満開の時期に受難週を迎えました。「一粒の種が地に落ちて死ななければ…」イエスさまが歩まれた十字架の苦難を心に覚えたいと思います。今日は進級式と任命式を行いました。教会全体で、中学へ進学する子どもたちと新しく役員&執事に任命された方々の働きと祝福を覚えてお祈りしました。
『十字架上のイエスのことば』(ヨハネ19:17-30)メッセージ要約
「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」
ローマ兵はイエスの身柄を受け取ると、すぐに十字架を背負わせて処刑場に歩かせました。処刑場につくと、彼らはイエスの両手両足を釘で打ち付け、両側の囚人に挟まれるような形で十字架につけたのです。イエスは、筆舌に尽くしがたい肉体的な苦痛に加えて、神に見捨てられるという精神的、霊的な苦痛を耐え忍ばれました。その中で、主イエスは七つの言葉を語られたと言われます。そして、ヨハネはその内の「女の方、そこに、あなたの息子がいます」「わたしは渇く」「完了した」の三つの言葉に注目したのです。まず最初の言葉は、息子の死を見つめる哀れな母を気遣う言葉でもありますが、それ以上に、イエスは十字架のもとに新たな霊的関係が生まれたことを示されたのです。また、次の言葉は、単にのどの渇きから発したというよりも、人間の受ける苦悩、父から賜った十字架という杯を余すところなく飲みたいという従順を、ここに表されたのです。そして、最後の言葉は、未達成で人生の最後の瞬間が来たという断末魔の叫びではなく、旧約の預言を全て成就して贖いの業を成し遂げたという利の叫びだったのです。私たちもまた、イエスさまが十字架上で、何を、どのように完了されたのかを理解しているでしょうか。その一つ一つの言葉の重みを感じながら、喜びのイースターを待ち望もうではありませんか。
2017年度が始まりました。進級・進学おめでとうございます。学生がサモア語の聖書をお土産に買ってきてくれました。私は読めませんが…いつかきっと。今日はKFSMの牧師会もあっていよいよARISEの集会です。この人(イエス)を見上げて歩んでいきます。
『この人を見よ』ヨハネ19:1-16(メッセージ要約)
「それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは、彼らに、『さあ、この人です。』と言った。」
「ピアプレッシャー」という言葉がありますが、私たちは悪いことだと分かっていても、つい周りに流されてやってしまうことがあるかもしれません。イエスさまに十字架の判決を下したポンテオ・ピラトもそんな人物でした。彼は、直接審問した上でイエスに罪がない事がわかりましたが、祭司長たちの訴えによって鞭打ち刑に処しました。さらに、全身血だらけの惨めなイエスの姿を見せて、「この人を見よ。もうこの辺で赦したらどうだ」となんとか釈放しようと努力もしました。ところが、祭司長に先導された民衆が「十字架につけろ」と激しく叫んだ結果、彼はイエスを十字架につけるために引き渡したのです。そんなピラトの姿から3つのことがわかります。まず彼は正しいことが分かっていたことです。わかっていながら、それができないもどかしさを覚えていたのです。次は彼は言いしれない恐れがあったことです。人々の暴動を恐れるとともに、直接審問したからこそのイエスの権威を感じていたのでしょう。最後に彼は真実を貫く信仰がなかったことです。彼は権威者でありながら、全く自由ではありませんでした。神は人々の目を恐れる彼の姿を悲しく見ておられたはずです。しかし、そんな人々を憐れまずにはいられない神の愛が、イエスを十字架へと向かわせたのです。エレミヤ31:20
今年も宣教区主催のチャレンジャーキャンプが無事に守られました。中高生たちと三日間ともに過ごさせてもらって清々しい気持ちで帰ってきました。「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ。」春からはまたそれぞれに進級、進学と新しい生活を迎えます。不安と期待が入り混じった時期に、御言葉から励ましを受けることができるのは教会に繋がっているからこその幸いです。信仰もって歩んでいきましょう。
今日は礼拝後に2017年度スペシャルグレイスタイム(教会総会)を行いました。多くの方が出席してくださって、昨年度の恵みを振り返り、新年度に向けて新たなビジョンを確認しました。教会としては23年目の歩みとなります。私たちの救いのために十字架への道を歩まれたイエスさまに信頼して一歩ずつ進んでいきたいものです。
『十字架への道』(メッセージの要約)ヨハネ18:1-11
「イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、『だれを捜すのか』と彼に言われた。」
人生には、誰かが責任を取らなければならないという場面があります。でも、都合の悪いことは、つい他人のせいにしてしまいたくなるものかもしれません。思えば、イエスさまはそうした私たちの罪の責任を負うために自ら十字架への道を歩んでくださいました。
イエスさまは十字架にかかる前、最後の食事をとった後、弟子たちを連れてゲッセマネの園に行かれました。そこへイスカリオテ・ユダが大勢の兵士を連れてきて、イエスさまを捕えて連れ去ってしまったのです。イエスさまはその場で「それはわたしです」と繰り返し告げられました。そのお姿から、次の3つのことを心に留めたいと思います。第一に自分からその身をゆだねられたことです。兵士の数や力に関係なく、イエスさまはご自分から捕らえられたのです。また、私たちのために犠牲となられたことです。イエスさまは捕らえつつも弟子たちの身を案じておられました。最後は、父なる神の御心に従われたことです。イエスさまはそれらのことが起こるのをすべてご存知の上で、十字架への道を歩まれたのです。十字架なくして復活なし。私たちもまた、自分の目には最悪と思われる出来事でも、神の目には最善に向かって歩み始めていることもあるのです。
今日は子ども礼拝でのメッセージを担当しました。久しぶりでしたが、みんなよく聞いてくれて感謝でした。十字架にかかる前夜、弟子たちの足を洗われたイエスさまの姿から愛について学びました。足を洗われて、照れくさそうにしている子どもたちの顔が印象的でした。私たちもこの愛に倣う者になりたいものです。
『イエスさまの愛に生きよう』(メッセージの要約)ヨハネ13:34
「わたしがあなたがたを愛したように、…あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
当時、イエスさまの御業を体験した人たちは、イエスさまに対して大きな期待を持ちました。「この方こそメシヤに違いない!」でも、その方はいとも簡単に十字架にかかり、みじめな死を遂げてしまったのです。そんなイエスさまは、十字架にかかる前夜、弟子たちと最後の食事をしました。その後で、イエスさまはご自分から立ち上がって、たらいに水を準備して弟子たちの足を一人一人丁寧に洗われたのです。
子どもたちが大好きなアンパンマン。初めの頃に比べると顔のデザインもキャラクターもずいぶん変わりましたが、一つだけ変わらないことがあります。それは、アンパンマンはお腹を空かせている人や泣いている人がいると自分の顔を食べさせることです。そのために弱ってしまい、敵にひどい目にあわされることもあるのに、どうしてそんなことができたのか…。その答えは、ジャムおじさんが必ず替わりの顔を作ってくれるからです。
思えば、イエスさまも父なる神の愛をいつも信頼していました。だからこそ、みんなを助けて励まし、最後はご自分の命まで投げ出されたのです。この方は三日目に死からよみがえって、今も生きておられます。この方を信じる者には朝毎に新しい愛と命が与えられるのです。私たちも、イエスさまの愛をいただいて、イエスさまの愛に生きましょう。
東日本大震災から丸6年が過ぎました。今もなお全国に12万人の方が避難生活を余儀なくされ、多くの方が心を痛め、東北の復興は難航しています。こうした現状をいつも忘れないで、今いかに生きるかを考えて歩みたいと思います。教会に来ている子どもから励ましのお手紙をいただきました。今日もまた、あの子たちに本当に価値のあるものを伝えていけるのは感謝です。
『本当に価値のあるもの』(メッセージの要約)ヨハネの福音書11:54-12:11
「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」
「好機逸すべからず」いつでもチャンスというものは大事なものです。私たちはいつでもできることと今でなければ意味を失ってしまうこととを見極めなければなりません。今日の箇所でもまさに「千載一隅」のチャンスを逃さなかったマリヤの記事が出てきます。彼女はイエスさまの死が近いことを悟って、高価なナルドの香油を注ぎ、自分にできる精一杯の奉仕を捧げました。それを見たイスカリオテのユダをはじめ周囲の人々は冷たい批判を浴びせますが、イエスさまだけはこの彼女の行為を称賛されたのです。この記事から三つのことがわかります。一つは、主は言葉を生む人の心をご覧になることです。言葉だけの正論はかえって、心の内をご覧になるイエスさまの怒りを買うことになるのです。二つ目は、主は愛によって働く信仰を求められることです。打算や計算ではなく、ただ主を愛する思いから従いましょう。三つ目は、主は感謝の捧げものを喜んでくださることです。主が喜ばれるのは高価なものではなく、一人一人が、いやいやではなく喜んで捧げるものです。大切なのは、こうした本当に価値のある生き方がすべての人の前に置かれていることです。私たちもこの機会を逃さずに、信仰を持って応えていこうではありませんか。
ある事情があって、教会堂の座席の位置を動かしました。ほんの少し変えただけなのに、講壇からはずいぶん印象が違いました。座っていた方々の感想も聞いてみたかったのですが…気が付けば今日もまた慌ただしく一日が過ぎてしまいました。今週は「宮きよめ」をされたイエスさまの御言葉を覚えて歩んでいきたいと思います。
『まことの神殿を建て上げるために』(メッセージ要約)ヨハネの福音書2:13-22
「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
ユダヤ人の過越しの祭りが近づいたので、イエスさまはエルサレムに上られました。神殿には全国から多くのユダヤ人が集まり、ごった返していました。イエスさまがそこで目にしたのは、主を賛美する人々の姿ではなく、商売人や両替人たちが座っている姿でした。すると、イエスさまは彼らに向かって、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と怒りを露わにされたのです。それは、単に私腹を凝らす商売人たちを懲らしめるためではなく、イエスさまの深いメッセージがあったのです。それは、まず形式的な礼拝を廃棄されたこと、そして新しい霊の神殿となられたこと、最後に人を知った上で愛されたことです。「礼拝」という言葉の語源は「仕える、奉仕する」という意味。礼拝は、私たちが神に仕え、奉仕する大切な時です。それなのに、ともするとこれが逆になってしまっていることはないだろうか…。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは三日でそれを建てよう。」とは、人間の理解を超えた先にある復活の勝利宣言です。悲しみを喜びに、失望を希望に最悪の状況を祝福の計画に変えられるイエスさまに信頼していきましょう。
教会の礼拝ではさまざまな方々が賜物を用いて仕えてくださっています。今日の賛美リーダーの奉仕は結婚生活54年を迎えるご夫妻が担当してくださいました。忠実に礼拝をささげ、夫婦で互いに主にお仕えする姿は私たちの良き模範となっています。感謝いたします。今週はヒゼキヤの話しから「主に信頼する者とは」というテーマで御言葉を心に留めました。
『主に信頼する者とは』Ⅱ列王記19:14-19(メッセージ要約)
「私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼らの手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神である事を知りましょう。」
南ユダ王国のヒゼキヤ王は、偶像礼拝を排斥し、モーセ律法を堅く守りました。そんな神の前に忠実に歩んでいた彼にも暗雲が立ち込めてきます。列強国アッシリヤの台頭です。立ち向かう術もなく、隣国の助けも期待できない状況の中で、敵国からは神を侮蔑するような言葉で降伏を求められます。ヒゼキヤは激しく心を痛めますが、そんな窮地の中にもなおひとつの道がありました。イスラエルの神、主に依り頼むことです。彼はそこで洗いざらいすべてを打ち明ける祈りを捧げると、主は彼に答えられ、苦難の日を賛美の日に変えられるのです。私たちの人生にも、絶体絶命のような状況を味わう時があります。でも、「信仰」とはそれでもなお主を信頼することです。ローマ15:13。聖書は、そういう者を神は決して失望させることはないと教えているのです。
この教会で初めてメッセージの奉仕をさせていただいてから丸11年が経ちました。あのころに比べると確実に体力も落ち、最近は老眼と肩こりに少々悩まされています。主の憐みと教会員の愛に支えられてなんとか歩ませていただいるという感じです。今週はナアマンの記事から、あらめて従順の大切さを覚えて歩もうと思います。
『従順の報い』Ⅱ列王記5:1-15(メッセージ要約)
「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。」
人生には自分ではどうにもならないことがあります。「生老病死」とも言いますが、こうした免れない問題にどう向き合えばいいのでしょう。列王記のナアマンは社会的な立場もあり、人からの尊敬も受けていましたが、「ツァラアト」という病に冒されていました。でも、ある若い女奴隷の言葉でイスラエルにエリシャという預言者がいることを知り、彼の家を訪ねました。「ヨルダン川で七たび身を浸せ」というエリシャの言葉に、はじめは高慢な態度を見せていたナアマンでしたが、しもべたちの進言で心を変え、従順に従ったところ病は癒されたのです。彼の記事から、主の選び、苦難の意味、へりくだる大切さを教えられます。ヤコブ1:21。どうにもならない現実の中でこそ、人は神と出会い、救いの道を見出していきます。主は私たち一人一人にも従順の報いへと招いているのです。
『祈り答えてくださる主』Ⅰ列王記18:36,37(メッセージ要約)
「私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを…」
私たちは時に、神の御名のために試練に立ち向かわねばならないことがあります。そんな時、自分の力ではどうすることもできないからこそ、真剣に神の助けを祈り求めるのではないでしょうか。イスラエルに3年もの間、飢饉が続いた頃、預言者エリヤは、偶像の神を崇めるアハブ王に進言し、ついにバアルの預言者450人との戦いを申し入れました。彼はこの絶体絶命の場面にも怯むことなく、神の栄光が現われること、人々が真の神に立ち帰ることを、真剣に祈り求めました。神はそんなエリヤの祈りに答えて、大勝利を与えられ、恵みの雨をもたらしたのです。ヤコブ5:17-18。私たちもまた目の前の試練にも怯まないで、エリヤのように祈りに答えてくださる主に心からの祈りを捧げようではありませんか。
今日は礼拝の中で献児式がありました。主に幼子をささげられたご家族の上に、神さまの祝福が豊かに注がれるように教会でお祈りしました。また、午後からはキッズ&ファミリーバレンタインがあり、子どもたちと一緒に聖書のお話しを聴き、みんなでケーキ作りをしました。神さまの恵みの一日を心から感謝いたします。
私たちの教会では、礼拝に慣れていない子たちのために子ども礼拝を行っています。大人の先生たちは様々な工夫をしてみことばを伝えます。「あなたに何を与えようか。願え。」神はソロモンの夢の中に現れて、そう尋ねました。物に溢れた時代ですが…子どもたちも主の御心にかなった願いをしますように。
『あなたの願い事は…』Ⅰ列王記3:3-15(要約)
「この願い事は主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。」
もし神が目の前に現れて、あなたの願い事を一つだけ叶えてあげよう…と言われたら何をお願いするでしょうか。父ダビデから王位を継承したソロモンは、ある夜、夢の中で主の呼びかけを聴きました。そんなソロモンと主とのやり取りから私たちは何を学ぶのか。
まずソロモンは、自分の今の立場は主の恵みであり、自分の未熟さ、判断力のなさを正直に告白しました。そして、自分のための富や長寿を求めず、自分の責任を果たすための「知恵」を求めたのです。そんな彼の願いは、主の期待されたことと一致しました。そこで主は彼の願いを聞き入れ、さらに願った以上の祝福を与えられたのです。伝道者12:13。私たちも第一に主を畏れ、主のみことばに従って歩んでいこうではありませんか。
1月最後の主日を迎えました。今日は今年の年間聖句からメッセージを聴きました。昨年、いつも講壇花の奉仕をしてくださっていたI姉が召されましたが、彼女はまさに聖書をよく読み、よく祈り、みことばに生きた方でした。地上ではもう会えないという寂しさがありますが、彼女の奉仕を引き継いだY姉の講壇花もとても素敵です。I姉もきっと安心されているでしょう。一人一人の賜物が活かされる教会でありたいものです。
「みことばに根差した教会」イザヤ55:1-13(要約)
『天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道より高く、わたしの思いは、あなたがたの思いより高い。』私たちの教会は今年で開拓23年目を迎えました。ここまでの歩みを守って下さった主に感謝いたします。新会堂はなかなか人の思うようには進みませんが、少しずつ神さまの計画の実現が見えてきました。今年、そんな私たちの信仰生活の根幹であり、教会形成の土台ともいえる3つの招きを心に留めましょう。まず神は私たちを救いに招いていることです。「渇いている者はみな、わたしのところに来なさい」とあります。神は、私たち一人一人を無条件で、無対価で招いておられるのです。次に神は私たちを赦されることです。「神に帰れ」そうすれば、神はあわれんで豊かに赦してくださると招いているのです。最後に神はご自身の計画を実現されることです。「わたしの望む事を成し遂げる」と招いておられます。神のことばは時至って必ず実現へと至ります。毎週の礼拝で、この3つの招きのことばを覚えて遣わされていきたいと思います。
MGBCにアメリカのMission Teamが宣教報告と証しに来てくださいました。短い時間でしたが、二人の青年が日本宣教にかける情熱を熱く語ってくださいました。イエスさまは「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣え伝えなさい。」と命じられました。私たちも神さまからの「手紙」として、家族や友人のもとに遣わされていきたいと思います。
『謙遜への招き』ルカ18:9−14(要約)
「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」先週は阪神・淡路大震災から22年、アメリカ大統領就任式と多くの人の祈りがささげられました。人はだれに祈るのでしょう。聖書は、神が失望せずに常に祈ることを求めているからとあります。イエスさまは祈りについて、パリサイ人のような自分を義と自任し、人を見下す高ぶった気持ちを否定され、取税人のような自分の罪深さに絶望するような謙遜さが必要なことを教えられました。この謙遜さを「自分の力で身につけよ」とは言われず、「わたしから学びなさい」と招いてくださる方に希望があるのです。
「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」昨夜から深々と雪が降り積もり、今朝は一面雪景色でした。足元も悪く、交通機関にも大きな影響が出ている中で30名近い方が礼拝に来られました。雪にも負けずです。礼拝の最後にはいろいろな事情で礼拝に来ることができなかった兄姉のことも覚えて祝祷をさせていただきました。
『求めよ、さらば与えられん』ルカ11:5-13(要約)
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」日本人の多くは初詣に行き祈りをささげますが、そもそも祈りとは何かを考える人は少ないでしょう。イエスさまは祈りについて「主の祈り」をお示しになり、さらに一途に求め続けること、確信をもって祈ること、そして最後に、聖霊が与えられることを教えられました。ここに、キリスト教と御利益宗教との違いがあります。全能なる神は、私たち一人一人の切なる祈りを必ず聞いてくださって、ベストのものを与えてくださいます。「祈り」は、私たちにとって素晴らしい特権なのです。
今日は新年聖会が茨木聖書教会を会場に行われました。関西宣教区の最初の集会として毎年200名以上が集います。畑中洋人師から「口と体でする宣教」というテーマで、気持ちも新たに「宣教」の大切さを教えていただきました。集会後は新成人祝福式もあって、フレッシュな新成人たちから力をもらいました。2017関西宣教区もいよいよ始動です。
今日は講壇交換で若村和仁師をお迎えしました。メッセージだけでなく特別賛美もしていただき大変恵まれました。「本物の信仰は人を謙遜にさせる」百人隊長の信仰から、謙遜を学びました。午後の分かち合いにも残っていただき、感謝いたします。
2017年が始まりました。今年は元旦から日曜日を迎えましたので、礼拝の中で聖餐の恵みにもあずかりました。マタイ2:1-12から「恵みを体験する年に」というテーマで礼拝者としての姿勢を再確認しました。こうして、いつもの通り礼拝をささげられるのも決して当たり前のことではありません。「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」今年一年、あらためて主の礼拝に招かれている喜びを味わいながら、御言葉に根差した生活を送っていきたいと思います。皆さま、本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
『喜びを体験する年に』マタイ2:1-12(要約)
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどうこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」東方の博士たちは、何千kmも離れた所で不思議に輝く星を見つけ、救い主誕生の知らせに違いないと信じて旅に出ました。自分の私利私欲のことしか考えないヘロデ王や、聖書はよく知っているのに無関心な祭司長たちとは対照的です。私たちはどうでしょう。願わくは、今日から始まる新しい一年、形だけの礼拝者ではなく、博士たちのような神への決断力とひたむきな探究心を持ち、自分のベストをささげ、この上もない喜びを体験する者とならせて頂きましょう。
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