教会内の活動&牧師ブログ

Church Brog


教会にどんなイメージをお持ちですか?厳かに礼拝を捧げるところ、敬虔なクリスチャンが集まるところ、お年寄りが多い、堅苦しい話しを聞かされるところ、信仰を勧められるところ…など、そういうイメージもありますが、実際に行ってみると、思ったより敷居も高くなく、堅苦しい決まりもなく、洗礼を受けていなくても老若男女だれもがリラックスして過ごせるところです。このブログはMGBCの日々の様子やデボーションの分かち合いなどを牧師の備忘録日記でご紹介しています(写真などの転載はご遠慮ください)。

タラントをどう使うか…

教会のデボーションはマタイの福音書25章14節から。昨日に続いて、終わりの日を生きる姿勢について教えられた箇所、有名なタラントのたとえ。ある主人が三人のしもべにタラントを預けて旅に出たという話しです。タラントはTalentの語源とも言われるので才能や能力と思う人もいますが、本来は金の単位で、資産や財産を意味する言葉です。1タラントは6000デナリと言いますから相当な財産。そのタラントを預かったしもべは、一人はそれを資本に五タラントを儲け、同様にもう一人も二タラントを儲けました。ところが、一タラントを預かったしもべはそれを失くしてはいけないと思って土の中に隠しておいたのです。しばらくして主人が帰って来て清算をすると、二人のしもべは忠実だとほめられて、一人のしもべは怠け者だと叱られたという話し。このたとえのポイントは、主人が「それぞれの能力に応じて」タラントを預けたということでしょう。多すぎず、少なすぎずです。しかも、それをどう使いなさいとか何をしなさいとは一切言わずに各自の判断に任せていること。私たちもこの世に生まれてどれだけ多くの財産を神から預かっているのか…考えさせられました。

その日、その時に備えて…

3月第三主日礼拝、今日は曇りのち小雨の空模様でした。礼拝メッセージはマタイ25:1‐13、イエスさまが弟子たちに終末への備えについて教えられた3つのたとえ話しの一つ。十人の娘たちは花嫁の友人たちで、花婿が夜花嫁を迎えに来るのをともしびを持って出迎える務めがありました。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かったとあります。彼女たちはみなともしびを持って花婿を待っていたのですが、違いは予備の油を持ってきているかどうかでした。たとえのポイントは、花婿はキリスト、十人の娘たちは個々のキリスト者、ともしびは信仰生活(教会生活)、油は聖霊を表していることでしょう。つまり、教会にいる私たちがキリストの再臨をどう待ち望んでいるのかが問われているのです。ともしびを灯すには油が必要なように、信仰生活にも聖霊との交わりは欠かせません。万一に備えて予備の油を持って来た賢い娘たちと、先の事を考えずに油を持ってこなった愚かな娘たち…その差はあまりにも歴然でした。イエスさまがここで伝えたかったのは、終わりの日にあなたも賢い娘たちのように生きなさいということです。奥深い内容がギュッと詰まったメッセージでした。

ノアの日のように…

ハートフル英会話冬期コースが終了しました。今期もいろいろな出会いと別れがありましたが、楽しいクラスを講師と受講生の皆さまで作ってくださって心から感謝しております。これから三週間ほど間が空いて、また4/11から春期コースが始まります。大人クラス・キッズクラス、すでにオブザーバーの受付を開始しました。興味関心のある方はぜひ体験クラスをお申込みください。さて、教会の聖書通読はマタイ24章に入りました。十字架にかかられる時が近づく中で、イエスさまが弟子たちにされた最後の説教の場面。イエスさまはエルサレムの破壊とこの世の終わりを重ね合わせて話されました。まず偽キリストの出現、戦争や戦争のうわさ、国や民族間の対立、地震や飢饉の発生がその前兆です。それはまだ産みの苦しみの初めで、さらに弟子の迫害、背教と裏切り、偽預言者、道徳の退廃が続きます。そうした苦難の日々の後、かつてない天変地異が起こり、偉大な力と栄光を伴って人の子が再臨されるのです。それは「ノアの日と同じように実現する」とあります。あの時代にノアが忠実に神のことばを信じて歩んだように、私たちも霊の目を覚まして歩みたいものです。

四方八方塞っても…

『信仰とは四方八方塞っても上を開くことだ。』…「平民の福音」の著者としても有名な救世軍士官・山室軍平師の言葉です。1940年3月13日夜半、吹奏楽の聖歌演奏の中、『神よ、御国へ参ります』と言って召されたそうです。救世軍と言えば、最近は各地で災害が起こった際に迅速かつ的確な支援をされているのを目にします。同盟教団とは少し立場は違いますが、学ぶところの多い素晴らしい団体です。


自分を低くする者…

東日本大震災から13年を迎えました。2万人以上の方が命を亡くし、今もなお3万人近い方が避難生活を送られています。原発廃炉の見通しもつかない状況ですが、復興のために続けてお祈りします。あの頃、ボランティアに行った時にお世話になった現地の方と今も妻は連絡を取り合っています。それも尊いことだと思います。今日のデボーション、「だれでも自分を低くする者は低くされ、自分を高くする者は高くされます。」祈りの大切さを思わされました。


一番大切な教え…

3月第二主日、今日も穏やかなお天気のもと神の家族が一つ心で礼拝を献げました。メッセージはマタイ22章34‐46節から。パリサイ人の中の律法の専門家がイエスさまを試みようと声をかけてきました。「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」彼らは聖書全体から肯定的、否定的な613の戒めを見出していました。それらは平等に重んじられるべきものでしたが、それでもより重い戒め、より軽い戒めという区別をしていたようです。イエスさまの答え次第では訴える口実になると思ったのでしょう。そこでイエスさまが即時に答えられたのは、全身全霊をもって神を愛すること、隣人を自分自身のように愛することです。この二つの戒めに聖書のメッセージが集約されると言われたのです。そう言われても…どちらもそうそう簡単にできるとは思えない…。そんな声も聞かれました。確かに自分の力でそれを成し遂げようと思ったら、だれもが挫折を味わうでしょう。でも、ダビデがそうであったように、私たちも御霊によってキリストを主と呼び、この方とともに歩んでいきたいと思います。このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されているのですから…。

能登半島災害支援ボランティア…

月曜日から5人のチームで能登半島地震災害支援ボランティアに行ってきました。事前の天気予報ではずっと雨マークだったので心配していましたが、結果一日も雨に濡れることもなく、すべての作業が守られました。朝は内灘聖書教会内の能登ヘルプの事務所に集合し、デボーションとお祈りを持って出発。派遣先ではおもに家財の運び出しと片付け、割れたガラスや崩れた塀の処分などを行い、午後3時過ぎには片づけを始めてホテルに戻りました。目に映る光景は、たくさんの倒れた家屋、ひび割れた道路、4メートルを超す隆起した港…がありました。作業の合間に、被災された方とも直接お話しができましたが、地震発生直後のご様子やご家族を亡くされたこと…町も港も何もかも変わってしまったことを伺いました。あらためて…言葉では表現できない甚大な被害だったことを痛感しました。『大阪から来ました』と言いますと、『遠くから来てくれて本当にありがとう』と何度もお礼を言われました。今回の私たちの働き自体は本当に些細なものですが、少しでも被災者の方々の慰めと励ましに…そして、次のボランティアに来こられる方々の繋ぎとなれれば幸いです。

神のものは神に…

3月第一主日、風は冷たかったですが、青空の広がる一日でした。今日も教会に大勢の方が来られ、ともに主の御名をあがめる礼拝を献げました。メッセージはマタイ22章15節~22節、新約聖書の中でも有名な一節を心に覚えました。パリサイ人たちはヘロデ党の者たちと結託して、イエスさまをことばの罠にかけようと、カエサルに税を納めることは良いか悪いかを質問したのです。どちらに答えてもイエスさまを訴えようという魂胆でした。イエスさまは彼らの頑なな心を悲しく思われたでしょう。そしてデナリ銀貨を用いてあの有名な一節を言われたのです。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」キリスト者は天に属する者ではありますが、地上に生活する者としてその国の制度に従わなければなりません。理由は「主のゆえに」です。イエスさまも納税の義務を果たし、ピラトの裁判にも服されました。それと同時にさらに重要なのは、神に造られた者として、私たちは神の言葉に従い、神の栄光のために生きることです。イエスさまはすべての人に、あなたも人生の方向転換をして、神のもとに来なさい、神とともに歩みなさいと招いているのです。

私の望み…

昨年の秋に植えたカリフラワーが見事に育ったので少し早いのですが収穫しました。次はスナップエンドウが楽しみです。今週の水曜祈祷会では詩篇39篇を読みました。言い知れない苦難の中で、神への希望が人生のむなしさを支えている詩篇。「主よ お知らせください。私の終わり 私の齢がどれだけなのか。私がいかにはかないことを しることができるように。」口は禍の元と言いますが、ダビデは自分の舌で罪を犯さないように決意します。むしろ、神に向かってつぶやくのではなく、人生のはかなさを覚えることで心砕かれていきました。それでも「私の望み それはあなたです。」という信仰が一筋の光となって父なる神への希望の道を照らします。自分の人生の終わり、将来への悟りは、今を生きる意味を明らかにします。主にあって、私たちは生かされている。苦難の中で、本当に大切なものに目を向けていったダビデの信仰に教えられました。


神に招かれる幸い…

2月第四主日、雨がシトシトと降る少し肌寒い一日でしたが、教会の中はいつものごとく大勢の方が来られ、朝に2回の礼拝、子ども礼拝、午後からはスペシャルグレイスタイム、夕礼拝と恵みに溢れる一日となりました。礼拝メッセージはマタイ22章1‐14節、祭司長たちの頑なな態度を示すためにイエスさまが話された譬え話しの一つ、王子の結婚披露宴の譬えから。この話しのポイントは、王は父なる神、王子はイエスさま、結婚披露宴は天の御国、先に招かれた人はユダヤ人、後から招かれた人は異邦人を指しているところです。王は自分の息子の結婚披露宴のためにすべての準備を整えて、人々を招待しました。ところが、先に招いていた客は来ようとしなかったので、王はしもべを大通りに行かせ、出会った人をみな、披露宴に招待しました。すると、一人だけ王が準備した婚礼の礼服を着ていない人がいたので、その人を恵みの外に放り出したという話し。私たちも、この世の王である神から披露宴のような礼拝に招かれていること、礼服も準備していただいてそれを着て出られる幸いを思いました。病室にいる兄弟ともオンライン礼拝で一つ思いになれることも感謝します。

悪い農夫たちのたとえ…

ロシアによるウクライナ侵攻から2年が経ちました。教会のデボーションはマタイ21章33節から。イエスさまのたとえ話しの続き。ある主人がぶどう園を農夫たちに貸して旅に出ました。収穫期になったので主人は農夫たちのところにしもべを遣わして、分け前をもらおうと思いましたが、彼らはしもべたちを次々と殺し、最後は主人の息子まで殺してしまったのです。イエスさまが、主人はその農夫たちをどうするだろうかと問うと、聞いていた人々は、主人は農夫たちを滅ぼして、別の農夫たちに貸すでしょうと答えました。イエスさまは、この息子こそご自身であることを明らかにされたのです。イエスさまは今も生きておられ、やがてこの世界の裁き主として来られます。私たち人間は神さまから託されたこの世をどのように管理しているかを思わされました。


何が主に喜ばれることか…

2月第三水曜祈祷会、今日はヨハネ12章の高価なナルドの香油を捧げたマリア、マタイ21章のろばの背に乗ってエルサレムに入城されたイエスさまの姿を心に留めました。マリアはなぜ人々が見ている前でこのような惜しみない愛を現すことができのか…。また、ろばの飼い主はなぜ「主がお入り用なのです」という言葉だけですぐに渡してくれたのか…。どちらも何が主に喜ばれることかを考えたからでしょう。一方で、言葉だけの正論を振りかざし、マリアを貶めたユダをはじめ弟子たちの姿…。また、「ホサナ」と叫んでイエスさまを迎えた群衆の熱狂ぶり…。どちらも受難週に向かうイエスさまの目にどのように映っていたのでしょう。「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。」(エペソ5:10)をあらためて考えさせられる祈祷会でした。


らくだが針の穴を通る…

2月第三主日、柔らかな日射しが差し込む教会で礼拝を献げました。礼拝メッセージはマタイ19章から。富める青年がイエスさまのところに来て、永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをすればいいのでしょうかと尋ねたところ、財産を全部売り払って貧しい人たちに与えなさいと言われました。彼は良い行いによって救われることがどんなに難しいか、自分が何に執着しているかを思い知ったでしょう。そして、金持ちこそ救われると思っていた弟子たちもあらためて救われるには何が必要かを学んだことでしょう。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」あの青年も、ぶどう園が閉まってしまう夕方には間に合って弟子たちと同じ恵みにあずかることができたのでは…。今日のデボーション20章を読んでそんな思いになりました。


結婚と離婚について…

あちこちでかわいい梅花を目にする時期になりました。教会のデボーションはマタイ19章1節から。イエスさまはいよいよガリラヤからエルサレムに向かって出発します。するとパリサイ人たちが近づいて来て、イエスさまに論争を試みてきました。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」イエスさまは彼らの質問に対し、創世記から紐解いて、結婚とは何かを話されました。つまり、結婚とは神が結び合わせたものであり、人間の意志や都合によって引き離してはならないということです。パリサイ人たちはすかさず「では、モーセはなぜ…」と申命記24:1を引用して、離婚はできると主張しました。これに対し、イエスさまは離婚は最初から認められていたのではなく、人々の心が頑ななので許容したこと、「だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」と教えられました。このイエスさまの結婚に関する教えは今日の私たちにとっても重要です。日本の離婚率も三組に一組の割合…。私たちも結婚とは何かをあらためて考えたいものです。結婚カウンセリングもお勧めします。

あなたがたにできないことは何もない…

2月第二水曜祈祷会ではマタイ17:14‐27を読みました。イエスさまが三人の弟子たちと山から戻ってくると、ある人が自分の息子を憐れんでくださいと懇願してきました。息子はてんかんで大変苦しんでいて、弟子たちのところに連れて行っても、治すことができませんでした。イエスさまは思わず「ああ、不信仰な曲がった時代だ」と嘆息し、弟子たちに代ってその子から悪霊を追い出されたのです。弟子たちが自分たちに追い出せなかった理由をそっと尋ねにいくと、イエスさまは明確に答えられました。「あなたがたの信仰が薄いからです。…からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」信仰は量が問題なのではなく、質が問題です。半信半疑の信仰、あるいは神がいるなら証拠を見せろという人には、このイエスさまの言葉の真意は伝わらないでしょう。私たち自身は無力でも、私たちにとって幸いなのは、この無限の力をもった神を知っていることです。ある本の一節を思い出します。『パスカルが言ったように、神を信じて我々が失うものは何もなく、得るものは無限である。』

あなたこそキリスト…

2月第二主日、厳しい寒さもひと休みという一日でした。礼拝メッセージはマタイの福音書の分水嶺16:20‐30から。ピリポ・カイザリアでのイエスさまと弟子たちの有名な問答の場面。「あなたがたはわたしをだれだと言いますか。」この問いにどう答えるか、それが人生の大きな分かれ道です。ペテロは弟子たちを代表して、「あなたは生ける神の子キリストです。」という実に幸いな信仰告白をしました。イエスさまはその告白を大変満足されて、このことをあなたに明らかにしたのはわたしの父だと言われたのです。また、イエスさまは「わたしはこの岩(信仰告白)の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません」とも言われました。教会は、建物の荘厳さより、イエスさまを救い主と信じる者たちの群れを指します。そして、教会にはよみの門(死者の行くところ)に打ち勝つ、天の御国の鍵(福音)が託されているのです。福音を信じる人には御国に入る門が開けられ、信じない者にはその門は閉ざされる。私たち教会はまさに今日のノアの箱舟です。上から目線ではなく、ノアのごとくその生き方で、義を宣べ伝えていきたいと思います。

かわいそうに思われた…

教会のデボーションはマタイ15:29‐39から。イエスさまは神への祈りや弟子たちと交わりのため、人々を避け、遠いツロ・シドン地方を旅されました。徒歩でなされたこの旅行は、少なくても二、三カ月を要したことでしょう。そこではイエスさまとカナン人の女の麗しい出会いがあり、彼女の立派な信仰をほめられました。それから再びガリラヤに戻ってくると、イエスさまのもとに大勢の病人が連れて来られ、その一人一人を癒されました。それを見た人々は驚いてイスラエルの神をあがめたのです。そんなイエスさまのもとにはますます大勢の群衆が押し寄せてきました。イエスさまは弟子たちを呼んで言われます。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べ物を持っていないのです…」そう言って七つのパンとわずかな小魚で4,000人以上の人々のお腹を満腹にされる奇跡をなされたのです。「かわいそうに」とは内臓を表わす言葉を語源とし、「はらわたが揺すぶられる」「胸が痛む」などの意味があります。まさに寝食を忘れて人々の痛みを知り、その求めに応えられたイエスさま。目には見えませんが、この方は今も私たちの近くにおられます。

向かい風の中の信仰…

今日は時折みぞれ混じりの雨が降る寒い一日でした。聖書通読はマタイ14章とマルコ11章から。イエスさまのご命令で、弟子たちは舟に乗り込み向こう岸へと向かいますが、途中で強い向かい風に煽られ、夜明けまで波に悩まされました。自分たちがこんなに困っているのに主は何をしているんだ…と思う者もいたでしょう。すっかり気が動転してしまった弟子たちは、荒れ狂う湖の上を歩いてくるイエスさまを見ても、だれかわかりませんでした。イエスさまはそんな狼狽する彼らを憐れんで、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と声をかけられ、助けられたのです。同様の記事は8章にもありました。イエスさまはこのような信仰の訓練をしばしばなされたということでしょう。私たちの信仰も平時ではなく、想定外の有事の中でこそ試されるものです。大事なことは、イエスさまは私たちの弱さを十分知っておられて、「主よ、助けてください」と求めるなら、助けてくださるということです。私たちも、今も生きておられ、ともに歩んでくださるイエスさまを体験して、「まことに、あなたは神の子です」という信仰を告白し続けていこうではありませんか。

主が来られる日まで…

2月第一主日、立春を迎え、暦の上では春が始まりました。まだしばらく寒い日は続きますが、日に日に一日が長くなるのを感じながら温かな春を待ち望みたいと思います。礼拝メッセージはⅠコリント11:23‐26から。イエスさまは、渡される夜、弟子たちと最後の食事をとるとき、パンを取り、祝福してこれを裂き、弟子たちに与えて言われました。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」今日の聖餐式の元になった言葉です。聖餐式のパンとぶどう酒は、イエスさまの裂かれたからだ、流された血潮を表しています。イエスさまは私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり死んでくださいました。それによって私たちに神との平和が与えられ、私たちは癒されたのです。さらにイエスさまは死からよみがえって、今も生きておられ、私たちを聖餐に招き、やがて再び来られるとあります。まさに過去、現在、未来まで、キリスト教の中心教理がすべてこの聖餐に表されています。「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。」イエスさまの救いの素晴らしさが一人でも多くの方に伝わりますように。

小さな種のたとえ…

イエスさまは『種を蒔く人のたとえ』の解き明かしの後に、続けて3つのたとえを弟子たちに話されました。一つ目は『毒麦のたとえ』です。ある人が良い種を畑に蒔いた後、眠っている間に敵がやってきて毒麦を蒔いていきました。穂がでるまでは、毒麦と小麦は見分けがつきにくいので、主人は収穫までそのまま待つようにと言ったのです。キリスト教にも表面的には似ていても、本質的に全く違うものがあるのでご注意ください。二つ目は『からし種のたとえ』です。どんな種よりも小さいのに、成長すると、どの野菜よりも大きくなり、鳥が巣を作るようになるのです。まさにキリスト教は、少数の弟子たちから始まって全世界へと伝わっていきました。三つ目は『パン種のたとえ』です。わずか一握りのパン種のかたまりが、39㍑の粉を膨らませることから、からし種のたとえと同様に神の国の成長発展を意味していたのです。イエスさまの話しは本当に機知に富んだものです。理解しようとする者にはより分かりやすく、そうでない者にはさらに分かりにくくなる…。それは今日も同じです。信仰をもって耳を傾けるなら、わきまえのない者にも悟りが与えられるのです。

たとえで話す理由…

1月第五水曜祈祷会、マタイ13章にはイエスさまが群衆に向かって御国の奥義について語られた幾つかの話しが記されています。その最初の話しが『種を蒔く人のたとえ』です。教会学校でも定番の箇所ですが、あらためて読み直すと多くの励ましがあります。ここには農夫が蒔いた種が、道端、土の薄い岩地、茨の間に落ちた結果、良い実を結ばなかったこと、でも、良い地に落ちた種は実を結び、100倍、60倍、30倍になったとあります。農夫にとって大事なのは、無駄な労苦に思えることもあること、そして結果を見るには忍耐が必要なことです。『種』はみことば、『畑地』はそれを聴く人の心の状態を表しているとしたら、わかりやすいかもしれません。ただ、イエスさまがたとえで話す理由は、単にわかりやすくするためではなく、聞く耳のある者(聴こうする意志を持つ者)にはもっとわかるように、そうでない者にはさらにわかりにくくすることです。イエスさまの福音は奥深いと思わされます。数年前の、2000年前の種が発芽した…というニュースを思い出しましたが、私たちに命じられているのは福音宣教、その結果はすべて主にゆだねて待ち望みたいと思います。

みことばに生きる教会…

1月第四主日、時より小雨が降りましたが、寒さは幾分和らいだ一日でした。礼拝メッセージはエペソ3:14‐21から。ガリラヤから始まったイエスさまの福音が、地中海沿岸地方をはじめ全世界へと伝わっていった大きな要因は、パウロの存在です。パウロはもともと厳格なユダヤ教徒でしたが、復活の主と出会い、劇的な回心を遂げました。その後も迫害を受けながら、宣教の最前線に立って、キリスト教最大の伝道者と言われるほどになったのです。ここにはそんなパウロの切なる祈りが綴られています。「どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。」パウロの祈りは父なる神に聴き届けられ、時代から時代へ、今も力強く宣べ伝えられています。福音のバトンを受け継いだ者として、私たちもまたこの時代における使命を果たしていきたいと思います。2024年はこの御言葉を年間聖句として覚え、毎週の礼拝で賛美していきます。新しい教会テーマソングもできました。ぜひご視聴ください。

わたしが喜びとするのは…

教会のデボーションはマタイ12章から。イエスさまの弟子たちが麦畑を通った時、空腹だったので穂を摘んで食べたところ、その日が安息日だったので、パリサイ人たちがそれを労働とみなし、咎め立てたという箇所です。イエスさまは幾つかの旧約聖書を引用して、安息日を儀式的に守ることより、人間の緊急の必要を満たすことが優先されること、安息日の本来の目的は、労働の禁止よりも神の御心を行うことだと教えられました。つまり、神が喜ばれるのは儀式のような形式ではなく、隣人に対するあわれみの心を持つことです。今週も、ZOOMで能登半島地震の情報共有会議がありましたが、北陸聖書連盟を中心とした『能登ヘルプ』という災害ネットワークが立ち上がり、支援金・義援金の受付が開始されました。現地ではあちこちで断水が続き、未だ余震も続いていて、全壊率も高いということで、ボランティアの受付も来週からになりそうとのこと…。支援物資に関しても、刻一刻と現地の状況が変わるので、FaceBookなどを見て必要な物を送ってほしいとのことです。大したことはできないのですが、自分も行って何かさせて頂きたいと、はやる気持ちを抑えています。

春先はカルトの勧誘にお気をつけください…

いよいよ本格的な受験シーズンを迎えました。学生たちは寒さと誘惑に戦いながら最後の追い込みに励んでいることでしょう。側で見守っている親御さんたちも気が気ではないと思います。そうした中で、着々と勧誘の準備をしているグループがあります。毎年春先はカルト的な宗教も、ここぞとばかりに活動が活発化します。普通のサークルの勧誘と思ったら、それは隠れ蓑で、実は宗教の勧誘だったということはよくある話しです。誘う側も全く悪気がないし、紹介される人たちも人格者が多かったりするので、そこがカルトの集まりだとは気づきません。気づいた時には『ごほうび』と『恐怖』という二重洗脳に陥って、そこから抜け出せなくなってしまいます。つまり、グループの人たちこそ本物の友人、本物の家族だと思うようになり、そこから抜けることは罪であり、地獄行きだという意識を植え付けるのです。今まで仲の良かった家族にも平気で隠しごと(図りごと)をするようになります。入り口は広く、出口は狭く…それがカルトの手口(教え)です。過剰に心配することはありませんが、特に春先、若い世代の方々は学内等での優しい勧誘に気をつけてください。

弱い者を用いられる主…

今日は午前中にCGNTVの方が来られて、10分ちょっとのメッセージを三回分撮影しました。もうこの奉仕も10年以上になりますが、カメラの前で話すのは未だに緊張します。もちろん第一の願いは、まだ福音を聴いたことのない方に少しでもわかりやすく聖書のメッセージを伝えることですが、説教者として簡潔に話すための良い訓練にもなっています。撮影が終わってスタッフの方と談笑することも楽しみの一つです。また午後からは旧約聖書を学ぶ会がありました。出エジプト記4章から。主は燃える柴の中に現れて、モーセに「今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。」と命じられました。でも、この時のモーセはあまりにも大きな使命にたじろぎ、自分の弱さを訴えました。ここでのモーセと主とのやり取りは、今日の私たちも聖書を読んでいる時やメッセージを聴いている時に感じることかもしれません。でも、主はそんなモーセに「わたしはあなたとともにいる」と何度も告げられ、彼を力づけられたのです。神の前に自分の弱さを認めることは大切なことですが、そこでくじけないで、主の命令には必ず約束も伴うことを心に覚えていきたいものです。

あわれんでくださる主…

1月第三主日、大寒にあたり一年で最も寒い時期を迎えましたが、今日は賛美礼拝としていつも以上に高らかに主をほめたたえました。目をつぶって祈りながら賛美する人もいれば、手を上げて、立ち上がって踊り出す人もいました。また、メッセージ前には一人の姉妹が素晴らしい証しをしてくださいました。礼拝メッセージはマタイ9:35‐38から。「…群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」『あわれむ』という言葉は『内臓』を意味する言葉です。イエスさまは、群衆(全人類)をご覧になって、内なる心が震えわななくほどに激しい思いを持たれました。私たちの救いのために、ご自分の御子をこの世に送ってくださった父なる神の愛、すべてを捨てて低くへりくだってくださった主イエスの憐れみを思いました。特に「収穫は多いが、働き手が少ない…」という言葉が心に響きました。この時代にも、福音を必要とする方が大勢います。午後からはバイブルクラス、夕礼拝、青年会と、今日も多くの方とともに主の日を喜び感謝を献げました。今週もキリストの心を我が心として歩んでいきたいと思います。

あなたの信じたとおりに…

1月第三水曜祈祷会、少し寒さも和らいで青空が気持ちのいい一日でした。聖書はマタイ8:1‐17から。イエスさまの山上の説教の後、ツァラアトの癒し、百人隊長のしもべの癒し、ペテロの姑の癒しの三つの癒しの記事が続きます。イエスさまは彼らの懇願する声や状況に目を留められました。そして、当時の慣習に縛られず、病人にさわり、百人隊長の所に行き、手を触れられて、彼らの思いに奇跡をもって報いられたのです。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」人間の目にはどんなに難しいことのように思えても、イエスさまのもとに直ぐな心で求めていくことの大切さを思いました。イエスさまは求める者に必ず応えてくださる方です。今日はOCCで阪神淡路大震災追悼の祈り会がありました。早いもので29年の年月が経ちます。災害は忘れた頃にやって来ると言いますが、1995年に阪神淡路大震災、2011年に東日本大震災、今年は元旦に能登半島地震が発生しました。その間にも日本各地で地震や災害が頻発している状況を鑑みると、もはや明日どこで何が起きてもおかしくありません。日頃の備えとともに、終末の備えをするように聖書は告げているのです。

信仰と疑問の間で…

雲の切れ間から日射しは見えましたが、はらはらと小雪の舞う一日となりました。それでもこの寒い時期にも関わらず、健気に咲いている花たちを見るとなんだか励まされます。以前の自分のことですが、『神がいるならどうして…』この疑問がある限り、クリスチャンになることはできないと思っていました。礼拝でメッセージを聴いて感動することがあっても、すぐに疑問がわいてきて、自分で自分にブレーキをかけるように深入りしないでおこう…クリスチャンになったら、今まで自由にしていたこともできなくなる…と思っていました。そんな疑いや不安を抱えたまま、私は洗礼を受けました。だからというわけではないのですが、私は100%の信仰がなくてもクリスチャンにはなれますよと言っています。イエスさまと一緒にいた弟子たちだって、よく信仰の薄い者たちと言われていました。しかもあのユダでさえ、最後まで見捨てられなかったのですから。「もしあなたが悟りに呼びかけ、英知に向かって声をあげ、銀のようにこれを探し、隠された宝のように探り出すなら、そのとき、あなたは主を恐れることをわきまえ知り、神を知ることを見出すようになる。

心配しなくてよい…

1月第二主日、今日の礼拝ではマタイ6:19‐34からメッセージを聴きました。イエスさまのもとには弟子たちをはじめ病人や生活に困窮する人々が大勢集まっていました。イエスさまはそうした人々に心配しなくてよいと言われたのです。「心配」とはくよくよと思い煩ったり、必要以上に不安になることを意味しました。生活のこと、健康のこと、仕事や将来のこと、家族や人間関係のことまで…誰もがみな心配を抱えて歩んでいます。それはいつの時代も同じです。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」いくら心配しても先のことはだれにもわかりません。でも、先のことを計画しておられる方がだれであるかを私たちは知っています。心配から解放される秘訣は神を信頼することです。ある方が、イエスさまの時代の人々から見れば、現代人はずっとずっと恵まれている訳で『それでも心配するのはどういうことなのだろう』と思うに違いない…と言われていたのが印象的でした。礼拝後は成人祝福式を行いました。お休みの青年もいましたが、新成人たちの新しい出発が祝福されるように心からお祈りしています。

わたしはあなたがたに言います…

今年最初の水曜祈祷会がありました。マタイ5:33‐42「偽って誓ってはならない」「目には目を、歯には歯を」の解釈についてイエスさまの教えを学びました。ユダヤ人は誓いをしてもしばしばそれを果たさないことがあったようです。そのために律法学者たちは神の名以外の物を指して誓った場合は果たさなくても許されるという抜け道を考えました。イエスさまはこれに対して「誓ってはいけません」と教えられたのです。また、被害者が加害者に対して、受けた被害と同等の物を弁償してもらう権利(同害復讐法)がありました。これは報復させる権利というより、個人的報復によってお互いの間に争いが続くのを防ぐための規定でした。イエスさまはそうした誤った解釈を正して「悪い者に手向かってはいけません」と教えられたのです。私たちも自分の思い込みや誤った解釈に気をつけたいもの。そして自分の力ではできないからこそ、聖霊の助けを祈り求めたいものです。能登半島地震で亡くなられた方は既に200人を超え、二万人以上の方が避難所生活を余儀なくされています。明朝もキリスト全国災害ネットの世話人会で話し合いますが…主の憐れみを祈るばかりです。

本当に幸いな人とは…

1月第一主日、今日は最初の日曜日、新年礼拝を献げました。礼拝ではマタイの福音書5章から『山上の説教』の冒頭を読みました。イエスさまのガリラヤ宣教は多くの実を結び、その評判を聞いた大勢の群衆が集まって来ました。彼らはみな、様々な病や痛みで苦しむ人、生活に困窮する人々でした。イエスさまはそうした彼らを意識しながら、弟子たちをみもとに呼んで告げられました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」聞いていた人たちは不思議に思ったでしょう。普通に考えれば、貧しい人よりも富んでいる人の方が、悲しむ人よりも健康である人の方が幸いだと思いますが、イエスさまはそう言われなかったのです。「心が貧しい人」とは、神の前に自分が何一つ誇れるものがないことを自覚し、神に助けを呼び求める者を指します。わたしのもとに来たあなたがたは幸いです…イエスさまの優しい語りかけが心に響きました。今日は午後から新成人を迎えた青年たちが茨木聖書教会から来てくれて、小学生だった頃の面影を懐かしく思い出しながら、立派になった彼らの姿に励まされました。今日も恵みに溢れる一日を感謝いたします。

主の道を用意せよ…

旧約聖書の最後は預言者マラキの言葉をもって閉じられました。それからイエスさまが現れるまでの約400年間、神の言葉を告げる預言者は現れませんでした。言わば沈黙の400年です。そこに突然荒野に現れたのが、バプテスマのヨハネでした。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」悔い改めるとは、単に反省することではなく、人生の方向転換をし、神に立ち帰ること、人生を新しくやり直すことを意味しました。また、天の御国が近づいたとは、神の統治される国が、イエスさまの到来によって始まりイエスさまの再臨によって完成されるということです。「主の道を用意せよ」とは、救い主を心に迎え入れるために妨げとなっているものを除きなさいということです。私たちも今年、主の通られる道、主の御言葉をまっすぐ受け入れる心備えができているでしょうか。もうすでに目を覆いたくなるような出来事が頻発していますが、だからこそ騒ぐ心を静めて、変わらない御言葉に聴きたいと思います。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」こんな時主はどこにおられるのか…。あの苦しむ人たちとともにおられるのです。

神の言葉に立って生きる…

新しい2024年が始まりました。みなさま今年も宜しくお願い致します。元旦礼拝ではマタイ2:13-23から御言葉を心に留めました。東の国の博士たちの訪問はヨセフとマリアを喜ばせたと思いますが、その喜びも長くは続きませんでした。「人生一寸先は闇」と言いますが、神は御使いを遣わして、ヨセフたちに今すぐエジプトに逃げるように命じられました。博士たちが王宮とは別の道で帰ったことを知り、ヘロデは怒り狂い、ついに新約聖書中最も残忍な事件が起きってしまったのです。どうしてこんな痛ましい事件が起きてしまったのか…神はなぜこれを止めてくださらなかったのか…。様々な人間的な思いが頭に浮かびます。でも、聖書にはその明確な理由はなく、「預言者を通して語られたことが成就した」という言葉を繰り返して、こうした一つ一つの出来事が偶然ではなく、神のご摂理の中で起きたことであることを示したのです。私たち人間には知り得ない神の深淵なるご計画があることを思います。今日も午後4時頃に石川県能登半島で震度7強の地震が発生し、各地に甚大な被害が発生しました。今は一つでも多くのいのちが守られるように心からお祈りしています。