教会内の活動&牧師ブログ

Church Brog


教会にどんなイメージをお持ちですか?厳かに礼拝をささげるところ、敬虔なクリスチャンが集まるところ、お年寄りが多い、堅苦しいお説教を聞かされる、信仰を勧められる…などなど、様々なイメージをお持ちかと思いますが、実際に行ってみると、思ったより敷居も高くなく、堅苦しい決まりもなく、洗礼を受けていなくても老若男女だれもがリラックスして過ごせるところです。このブログはMGBCの日々の様子やデボーションの分かち合いなどを牧師の備忘録日記でご紹介しています(写真などの転載はご遠慮ください)。

求めなさい。そうすれば…

5月第四主日礼拝、今日も青空が広がる清々しい一日でした。新鎌ヶ谷聖書教会の玉井敦子師をお迎えして、ルカ11:1-13から『祈りを教えてください』というテーマでメッセージを取り次いでいただきました。イエスさまの祈っておられるのを見て、弟子たちが祈りについて尋ねたところから。イエスさまはまず『主の祈り』を教えられました。キリスト教の祈りがいわゆる自分本位なご利益宗教ではないことがわかります。それを心得た上で、具体的に祈ること、しつこく(粘り強く)祈ること、信頼して祈ることを教えられました。私たちは自分が祈ることが一番正しいと思うものです。時には、自分の方が立ち場が上であるかのように、神を従わせるような、脅すような…内容で祈っていることもあるかもしれません。でも、何より神は私たちの祈りを待っておられる方であり、最善を用意して待っておられる方だということを覚えたいものです。神が与えてくださるもので最も価値のあるものは、『聖霊』を与えてくださることです。たとえ自分が願った通りの答えでなくても…それを受け入れることができるなら、それは私たちの内に住んでおられる聖霊の働きなのです。

主は、あわれみ深く…

デボーションは出エジプト記34章から。モーセの必死のとりなしの祈りによって、主はあらためてイスラエルと契約を結ばれました。咎の報いは三、四代なのに、恵みは千代まで保たれる主。旧約聖書の神は厳しすぎる…とよく言われますが、本当にそうでしょうか。…つくづく自分もうなじを固くする民であることを思わされました。「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。


能登地震災害支援・団体代表者の集い…

能登地震災害支援・団体代表者の集いが石川県内灘聖書教会でありました。能登ヘルプの方々の証しと報告、今後の発題やグループディスカッションなど7時間の濃密な集会、そして、翌日は現地視察と祈りの時を持ちました。詳しい事はクリスチャン新聞等で紹介されますが、これほど多くの団体代表者が一堂に会してともに祈り、被災地支援について協力し合えることに、主のなさる不思議を思いました。


わざわいを思い直された…

出エジプト記32章から御言葉を心に留めました。25章から始まった幕屋に関する詳細な規定は31章で完結しました。幕屋は主への礼拝を献げるための空間であり、安息日は主への礼拝を献げるための時間です。それぞれを聖別しなければならないことが命じられました。今日も私たちが主の日に礼拝を献げる上で心しておきたいことでもあります。こうしていよいよモーセがシナイ山で主と語り終え、さとしの板を頂いて下山していくのですが…山の下では大変なことが起きていました。民はモーセの帰りが遅いので不安になり、アロンに「われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。」と頼んだのです。アロンは民の圧力に負けて鋳物の子牛を造り、それをあなたの神々だと言い、明らかな偶像礼拝を行いました。「私たちは主の言われたことをすべて行います」と三度も誓ったのに…わずか40日足らずのことでした。あらためて神が契約を結び、律法を与え、聖いものにしようとしておられる民は、このような民であったことを思いました。これを受けてモーセの必死のとりなしの祈りが献げられるのです。詩篇106:23、103:8、9が心に響いてきました。

聖霊の助けを頂いて…

5月第三主日、小雨の降る中でしたが、今日も大勢の方とともにペンテコステ礼拝を献げました。キリスト教の三大行事の一つ。イエスさまが復活されてから五十日目、約束を待ち望んでいた弟子たちの上に聖霊が降り、その日3000人が救われて初代教会が誕生しました。初代教会の特徴は、麗しい交わりと力強い宣教です。日ごとに主を信じる者たちがますます増える一方で、それに妬みを覚えたサドカイ派の者たちが、使徒たちを捕えて公の留置場に入れました。もはや万事休すでした。ところが、神は主の使いを遣わして使徒たちを助け出され、宮の中でいのちのことばを殻りなさいと命じたのです。そのような度重なる苦難の中にも初代教会は衰退するどころか、ますます発展していきました。その原動力となったのは、彼らが心を一つにして祈り求めること、また、聖霊が彼らとともに証人となっていることです。今度も不思議な方法で助けられた使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けたことを喜びながら最高法院を後にしました。山上の説教の一節(マタイ5:10-12)を思い出したのでは。私たちも今日、聖霊の助けを頂いて、力強く福音を証ししていきましょう。

四十九日とペンテコステ…

明日はペンテコステの礼拝です。ある方が『仏教の四十九日みたいなものですかね』と言われましたが…。一般に仏教では亡くなられた方は七日ごとに閻魔大王による裁きを受け、四十九日目の審判で極楽地獄が決まるとされています。遺族はそれまで追善法要を行い、四十九日法要を終えて忌明けとなるとのこと。果たしてキリスト教の『ペンテコステ』(五十日目)とどう違うのか…。明日の礼拝で。


教会の誕生日…

木曜日はハートフル英会話がありました。大人クラスではレイチェルさんの若かりし頃の結婚式の写真がシェアされ、それぞれの懐かしい思い出話に花が咲きました。また、チャペルタイムではペンテコステがテーマとなり、キリスト教の三大行事についてお話ししました。『ペンテコステ』は聖霊降臨日、または教会の誕生日とも呼ばれます。夕方のキッズクラスは今日も元気いっぱいの子どもたちでした。


聖所に入るときには…

5月第三水曜祈祷会、出エジプト記28章から御言葉を心に留めました。「あなたの兄弟アロンのために、栄光と美と表す聖なる装束を作れ。…彼を聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるためである。」大祭司アロンは十二部族の代表として、聖なる装束を身にまとっていなければ聖所に入ることができませんでした。大祭司の務めは、イスラエルの民の罪を負い、彼らの献げものを携え、彼らに代わって神の前に立つことです。エポデの下の青服に金の鈴がつけられるのは、聖所に出入りする時、その音が聞こえて、彼が死ぬことのないようにするためとあります。祭司職に任命されるのは、大変な名誉であると同時に大きな責任が伴う、まさにいのちがけの務めだったでしょう。あらためてイエスさまが永遠の大祭司として、自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げてくださった恵みを覚えました。分かち合いの中で、私たちも万人祭司として、どんな務めがあるかを考えました。「…聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」言葉だけの伝道には力がないでしょう。まず自分自身を神さまに献げ、良きとりなし手にして戴きましょう。

大胆に福音を語ろう…

5月第二主日、曇り空でしたが、清々しい風が気持ちいい一日でした。今日は母の日歓迎礼拝で、あらためて母を与えてくださった神さまに心からの礼拝を献げました。大学生の頃来ていた青年が、今日はママとなって来てくれました。今はご主人の仕事の関係でフィリピンに住んでいて、こうして里帰りのように教会を訪ねてくれるのは本当に嬉しいことです。さて、今日の礼拝メッセージは使徒の働き4章から。生まれつき足の不自由な人の癒しをきっかけにペテロたちが伝道すると、そこで大勢の人々が信仰に導かれました。でも、ユダヤの権威者たちはそのことを問題とし、おまえたちは何の権威によって…あのようなことをしたのか、とペテロたちを審問しました。そこでペテロは大胆に答えます。「この方以外にはだれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」これがついこの間までカヤパの官邸で迫害を恐れて「その人を知らない」と三度もイエスさまを否んだ同一人物とは誰も思わなかったでしょう。ペテロを勇敢な使徒に変えられた聖霊は、今日も私たちを造り変えてくださるのです。

『母の日』を覚えて…

1907年5月12日、アンナジャービスが亡き母を偲んで教会で記念会を行ったことに始まります。アンナの母アンは南北戦争中に敵味方に関わらず負傷した兵士を助ける活動を行ったり、戦後には『母の友情の会』を作り、戦争で傷ついた兵士やその家族を癒すための働きを行った活動的な方だったそうです。そんな『母アンの日』ではなく、『母の日』として今でも世界中で祝われるのは素晴らしいことです。


「教会」という場所…

教会には何十年と信仰生活を送っている方から、最近来られたばかりの方まで様々な方が来られています。人の痛みがわかって、親切で、さりげなく寄り添ってくれる人ばかりがいるわけではありません。イエスさまのような完璧な人などいなく、むしろ、不完全な者たちの集まりです。でも、だからこそ、神の愛、赦し、憐れみを一緒に聖書から学びませんか。それが教会という場所ではないでしょうか。


契約の血…

5月第二水曜祈祷会、日中は汗ばむような陽気でしたが、夕方からはぐっと肌寒くなりました。寒暖差がある時期、体調管理に気をつけましょう。聖書は出エジプト記24章を読みました。ここでいよいよ神と民との間における契約が結ばれます。契約とは、二人以上の人もしくは二つ以上のグループの間における協定(同意)、または盟約であり、それぞれが両者が何をすべきかという条件に示されています。神は民に対して祝福と助けを約束し、民は神に対して従順を約束しました。モーセはいけにえの血の半分を取って祭壇に振りかけ、後の半分を民に振りかけました。「見よ、これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」新約のイエスさまのことばを思い起こしました。イエスさまは人となって、私たち人間側の、神への背きの罪を身代わりに背負ってくださいました。時々ある方から『キリスト教の救いはタダなんですよね』と質問されることがありますが、決してそうではありません。パウロも「あなたがたは…代価を払って買い取られたのです。」と語ります。私たちも贖われた者として、神の栄光を現していきたいものです。

美しの門の奇跡…

5月第一主日、初夏を思わせる暑さの中、今日も子どもからご年配の方まで多くの方が礼拝に集われました。メッセージは使徒3章から。生まれつき足の不自由な彼は毎日『美しの門』の側に座って行き交う人に施しを求めていました。彼はすでに40歳を過ぎていたとあります(4:22)。ここまでどんなに辛い人生を歩んできたのでしょう。でも、その日はペテロたちと出会った彼にとって忘れることのできない日となりました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」彼にとって本当に必要だったのは使えばなくなってしまうような金銀ではなく、イエスさまの御名を信じて立ち上がる信仰でした。イエスさまは今も私たちのために日々とりなしの祈りをしてくださっています。ですから、イエスさまの御名で祈る祈りには力があるのです。今週はゴールデンウィークということもあって、遠方からも久しぶりの方が来られました。午後からは青年たちを中心に卓球で汗をかき、夕礼拝にも三人の方が来てくださり、じっくりメッセージに聴き入りました。今日も恵みに溢れる一日に感謝いたします。

目には目を、歯には歯を…

教会のデボーションは出エジプト記21章から。十戒を受けた後、23章まで『契約のことば』が語られていきます。神によって贖われた民は主のために聖別された民として、律法の下に生活することになります。中でも「目には目を、歯には歯を。」は有名です。損害を受けたら、二倍、三倍にして返したくなるのが世の常ですが、それでは事態は悪化の一途を辿ります。今も昔も聖書が最も求めているのは報復ではなく、むしろ、愛を持って善を行うことです。


あなたの神に会う備えを…

先日、詩画作家・星野富弘氏が天に召されました。事故で体にハンディキャップを負いながら、多くの作品を通して神の素晴らしさを証しされました。今は天で、イエスさまから「善かつ忠なる僕よ」と労いの言葉を頂いていることでしょう。さて、5月第一水曜祈祷会は、出エジプト記19章から。『神に会う備えをせよ』というテーマでした。私たちもみな、やがては神の御前に立つ時が来ます。その時、顔をあげて、主とまみゆるように心備えが必要です。


約束の聖霊を受けて…

4月第四主日、今日も温かな日射しが差し込む教会で、主なる神に礼拝を献げました。メッセージは使徒の働き2章から。使徒たちはイエスさまが言われた通り、父なる神の約束を心を一つにして祈り待ち望んでいました。五旬節の日、エルサレム神殿は大勢のユダヤ人たちで賑わっていたでしょう。すると天から突然、激しい風、炎のような舌が一人ひとりの上にとどまり、使徒たちはみな、御霊が語らせてくださるままに他国のことばで話し始めたのです。視覚にも聴覚にもはっきりとわかる圧倒的な出来事でした。御霊に満たされたペテロたちは立ち上がって、旧約聖書の預言の成就であること、ナザレのイエスこそメシアであってその方を殺してしまったこと、悔い改めて、バプテスマを受けることを大胆に語りました。こうしてその日、3000人が救われて最初の教会が誕生したのです。聖霊は巡礼に来ていたすべての人に自動的に降られたのではなく、ひたすら約束を待ち望む者たちの間に降られました。このペンテコステの出来事は一回限りのことですが、聖霊の働きは今も私たちの間で継続しています。百聞は一見に如かず。ぜひお近くの教会に足を運んでみてください。

悟ることがなければ…

教会のデボーションは詩篇49篇から。葬式の際にもよく読まれる詩篇です。すべての国々の民に共通するのは死の問題です。死は人生の教師として重大ななぞを投げかけます。死がすべての人の終りであるが、死はすべてのことの終りであろうか、と。この世でどんなに富を得、成功を収めたとしても、富はたましいを救うことはできず、死の力に勝たせてはくれません。「しかし 神は私のたましいを贖い出し よみの手から奪い返してくださる。…人は死ぬとき 何一つ持っていくことができず その栄誉も その人を追って下ることはできない。」どんなに大事なものでも、死に際して人は何も携えて行くことができません。「富」そのものは悪ではありませんが、大事なのは、栄華の中にあっても神を忘れないこと、神に望みをもって、神とともに生きることです。神との交わりは地上の生活に喜びを与え、死の恐怖に怯える必要がなくなります。イエスさまも「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」と教えられました。慌ただしい毎日、少し心を休ませて、自分が歩んでいる道は、悟りのない人生か、価値ある人生かを自問自答したいものです。

渇きと敵からの救い…

4月第四水曜祈祷会、出エジプト記17章から。エジプトから救い出されたイスラエルの民は荒野に導かれ、食糧、飲み水の問題を通して霊的な訓練を受けました。状況が悪くなるとすぐに不平を訴える民でしたが、主は見離さずにご自身が必要を満たされることを教えられました。また、アマレクとの戦いではとりなしの祈りの大切さを示されました。私たちも互いに支え合い、祈り合っていきたいものです。


新たな出発のために…

4月第三主日、今日から創立31周年の新たな歩みが始まります。神さまがどんなご計画を立てているのか楽しみです。先立つ主に期待して前進していきたいと思います。礼拝メッセージは使徒の働き1章から。復活の主は昇天されるまでの間、弟子たちとともに過ごし、神の国のことを語り、そして、父の約束を待ちなさいと命じられました。教会の原点、信仰生活の原点、それは祈りつつ待ち望むことからです。


よい始まりはよい終わりをもたらす…

温かい陽気に教会の花たちもいい表情です。さあ、教会の31周年の歩みが始まりました。何事も始めが肝心。“A good beginning makes a good ending” どんな簡単なことでも五分程度考えてから始めると物事はスムーズに進むものです。大きな事をしようと思う場合はなおさら準備期間が大切。いつの時代も、教会にとって欠かすことのできない準備は祈りです。主の前に静まって、御声に耳を傾けましょう。


まさにこの日に…

今週の水曜祈祷会は出エジプト記12章を読みました。いよいよ第十の災禍がエジプト全土を襲います。主はその前にイスラエルの全会衆に「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ」と告げられました。新しい出発の時を新しい暦の始まりとしたのです。主はこの時、過越のいけにえと種なしパンの祭りを祝うように命じられました。人々は主がモーセとアロンに命じられたとおり、家族ごとに、一人ひとりが傷のない一歳の雄の子羊を食べ、その血を鴨居と二本の門柱に塗り付けました。真夜中になって主はエジプトの地のすべての長子をみな打たれましたが、イスラエルの民は守られました。するとファラオもついに観念し、モーセたちを呼び寄せて「私の民の中から出て行け。…そして私のためにも祝福を祈れ。」と言いました。エジプトの最高権力者は最後まで自分で祈ろうとはしませんでした。その悔い改めが本物ではなかったということです。こうしてイスラエルの民は壮年男子だけで60万人、さらには女性、子ども、外国人、家畜…と大集団でエジプトを脱出していきます。想像を絶する主の御業がまさにこの日に実現するのです。

創立30周年記念礼拝…

今日は創立30周年記念礼拝を献げました。初代牧師の安宣教師ご家族が祝辞をしてくださり、吉持日輪生師がメッセージをとりついでくださいました。詩篇91:14-16から、テーマは『彼とわたしの30年』「彼がわたしを愛しているから わたしは彼を助け出す。彼がわたしの名を知っているから わたしは彼を高く上げる。」創立30周年にぴったりのメッセージでした。小さな家庭集会から教会の歩みが始まり、担任牧師が遣わされ、今日まで神さまは宣教の実を豊かに結んでくださいました。また、母教会の茨木聖書教会をはじめ、たくさんの方々の祈りと献げものに支えられました。この教会を通して、洗礼を受けられた方々、信仰が育まれた方々、カップルとなり家族となられた方々、最近来られた方々など、多くの方が礼拝に来てくださいました。礼拝後は久しぶりの愛餐会。忙しいスケジュールの合間をぬってキム先生がチャプチェとチヂミを作って来てくださいました。コロナ禍ではみんなで一緒に昼食をとるという機会もなかったので、今日は格別に楽しい、嬉しいひと時でした。さあ、次の40周年、50周年に向かって、また明日から主とともに歩んでいきましょう。

信仰の襷を繋いで…

今春、教会は創立30周年を迎えました。1994年4月に開所式が行われ、翌年には阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件が発生しました。終末を予感させるような大事件が起こる中で、始まったばかりの教会にも様々な苦難があったでしょう。それでも信仰の先達たちが襷を繋ぎ続けてくださったからこそ30周年という節目を迎えられます。この感謝を覚えながら私たちも襷をしっかり繋いでいきたいと思います。


教会が身近なところに…

ハートフル英会話春期コースが始まりました。今学期はレイチェル先生が大人クラスとキッズクラス、ホゼア先生が小学校高学年から高校生までを担当します。今日も教会に朗らかな笑い声と子どもたちの元気一杯の声が響きました。こうして地域の方々が

教会と関りを持ってくださるのは感謝なことです。教会は聖書を学ぶだけの場所ではありませんので、お近くの教会に、気軽に足を運んでみてください。


ただひとりの神、主を知るために…

4月第二水曜祈祷会、デボーションは出エジプト記8章を読みました。モーセとアロンの神の警告をファラオが聞き入れないので、ついにエジプトに十の災禍が始まりました。最初はナイル川の水が血に変わるというものでした。ファラオとしてはここまで大変なことになるとは思っていなかったということでしょうか。それでもファラオは心を頑なにし、モーセたちの言うことを聞き入れなかったのです。次は、蛙の大量発生がエジプト全土を覆うというものでした。十の災禍の多くは普段大人しい小動物がエジプトの大都市を倒すという構図です。ファラオはたまらずモーセたちに頼みました「主に祈れ。そうすれば、私はこの民を去らせる。主にいけにえを献げるがよい。」ついにファラオが主の臨在を認め、悔い改めに導かれるかと思いきや、モーセたちの祈りによって一息つくと、再び心を硬くし、彼らの言うことを聞き入れなかったのです。喉元過ぎれば熱さ忘れる…そんなことを繰り返しているから、神は忍耐の限界に達し、9章12節以降は「主はファラオの心を硬くなにされたので…」という言葉が続きます。神は侮られる方ではありません。肝に銘じておきたいものです。

いつも主がとなりに…

4月第一主日、今日も清々しい春の風を感じながら礼拝を献げました。メッセージはマタイ28:11-20、いわゆるイエスさまの大宣教命令から。ユダを除く十一人の弟子たちはマリアたちに言われた通りガリラヤに行って、復活の主と再会しました。ある者は喜んで礼拝を献げ、ある者は疑いを抱きつつそこにいました。イエスさまはそんな彼らにご自分から近づいて、万物の支配者となられたことを示されると、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と命じられたのです。弟子たちには途方もない命令に感じたでしょう。でも、イエスさまは彼らがその命令を全うできるように、力強い約束も与えられたのです。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」マタイの福音書は、インマヌエルの預言から始まり、インマヌエルの約束で閉じる書簡でした。今日は聖餐式の恵みに加えて、子どもたちの進級式もありました。みんな一つずつ学年が変わり、環境が変わっていきます。親御さんたちも祈りつつ、慌ただしい日々でしょう。期待と不安が入り混じる春、インマヌエルの約束が一人ひとりの今日を生きる力となりますように。

神の杖を手に取って…

教会のデボーションは出エジプト記4章から。モーセがいよいよエジプトに帰郷し、人々に神の御旨を伝えに行くところです。モーセに命じられた使命は前途多難、ファラオとの全面対決でした。そんな彼の手には神の杖がありました。それは主の臨在の証し。私たちも、神の杖を心にもって進んでいきたいものです。今週は入学式・入社式もありましたからそれぞれのご家庭で新しい年度が始まったことでしょう。春は何かと変化の時期、心と体が支えられてよいスタートが切れるようにお祈りしています。


大いなる祝福の前の苦しみ…

4月第一水曜祈祷会、出エジプト記2章から。エジプトの王ファラオがイスラエルの男の子はみなナイル川に投げ込まなければならないと公布する中、モーセは誕生しました。そんな恐ろしい時代に、神を恐れる助産婦たち、モーセの両親、姉のミリアム、ファラオの娘、主は一人一人に働かれてモーセの命を守られたのです。人は誰もが、自分で生きているのではなく、生かされていることを思わされました。


新年度礼拝…

今年も桜が満開を迎えました。桜は他の木とは違って、花が咲き、後から葉が出ます。枯れ木に命が宿ったように咲き誇る様子は、イエスさまの死からの復活と重なります。今日はライフワークス社の新年度礼拝でメッセージをさせていただきました。代表の所信表明を聴きながら、これからの未来に向けてキリスト教葬儀社の働きの大切さをあらためて感じました。春は出会いと別れの時期でもあります。皆さまの新年度の上に主の守りをお祈りいたします。


イースター賛美礼拝2024…

今日は復活祭の賛美礼拝でした。マタイ28:1-10からメッセージが語られました。空っぽの墓はイエスさまのよみがえりを示していました。この方はマリアたちに出会われたように、私たちにも出会ってくださるのです。あらためて復活の主の希望に感謝しました。また、ずっと祈っていた方や久しぶりの方も礼拝に来られました。午後からはキッズ&ファミリーイースター。今年は少し人数が少なめでしたが、その分たっぷりと子どもたちにイースターの希望を話せたように思います。すべての事に感謝します。


神さまいるのになぁぜなぁぜ…

コロナ禍もやっと落ちついて、今年は春のチャレンジャーキャンプが行われました。テーマは『神さまいるのに悩むのなぁぜなぁぜ??』。宣教区の諸教会から中高生、スタッフ・牧師と合わせて70名ほどが参加しました。特に今回は30周年という節目の年で、このために半年以上前から準備がなされてきましたが、まず講師の先生が開催当日に高熱で欠席となり、キャンプリーダーも葬儀のため途中で帰らなければならなくなるなど、前途多難の始まりでした。すぐに代役のメッセンジャーということで、アベンジャーズのように3人の牧師が立ち上がり、先発、中継ぎ、抑えで、一日ずつを担当することになりました。結果、主の憐れみで、まるで最初から準備されていたかのような三者三様の力強いメッセージと、賛美チームの素晴らしいリードで中高生たちからの応答も非常によいものとなりました。春からの新しい歩みに向けて、一人ひとりがいろいろな思いを持って参加してくれましたが、聖書の御言葉が彼らの歩みを支え、励まし、力づけ、いつもイエスさまがともにいてくださるようにお祈りしています。…ちょっとハードな三日間でしたが、すべて守られて感謝でした。

苦難に立ち向かう力…

3月第三主日、今日は茨木聖書教会副牧師のハレファ・スルヤ師をお迎えして、ルカ22:39‐46から「苦難に立ち向かう力」をテーマにメッセージを語っていただきました。私たちには避けるべき苦難と避けない方がいい苦難とがあること、イエスさまは苦難に対して祈りをもって臨まれたことなど、非常にわかりやすい言葉で、また受難週にふさわしいメッセージでした。礼拝後のグループタイムも、今日は『親近感のある弟子たちは』ごとに分かれて、それぞれとてもよい分かち合いができていたようです。私は久しぶりに子ども礼拝でメッセージを語らせていただきましたが、イエスさまの十字架のメッセージを子どもたちがまっすぐに聞いてくれたのが印象的でした。珍しい人が来た…と思ってくれたのでしょうか。最後に『イエスさまを信じる人は手を上げてください』と招きをしたところ、みんなが手を上げてくれたのが嬉しかったです。普段なかなか見ることのできない子ども礼拝の様子も今回よくわかりました。ぜひ子ども礼拝にご家族でいらしてください。また、朝の礼拝はちょっとハードルが高いという方も、ぜひ一度午後4時30分からの夕礼拝に出席してみませんか。

第75回教団総会…

第75回教団総会が行われました。新理事長、新理事が選出され、教団の新しい歩みが始まりました。しばらくコロナ禍が続きましたので、諸教会とも厳しい教会の歩みだったことが再確認されました。召天された牧師、退職された牧師、兼牧や閉鎖になった教会もありました。人間的な試算では今後ますます厳しい状況が予想されますが、先立つ主に期待して前を向きたいと思います。最終日には正教師試験に合格した新しい牧師たちの按手が行われ、今年も自分の初心を思い返して帰阪しました。さて,教会のデボーションはマタイ26:36から。病人を癒し、嵐をも静めるイエスさまの神としての面が印象的なあまり、苦しみも痛みも味わわれたイエスさまの人間としての面を忘れがちです。そのことをあらためて思い出させてくれるのが、このイエスさまのゲッセマネの祈りでしょう。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるようにしてください。」ここにキリスト教の祈りの奥深さがあります。受難週を前に、十字架に向かわれるイエスさまのとりなしの祈りに心を合わせたいと思います。

タラントをどう使うか…

教会のデボーションはマタイの福音書25章14節から。昨日に続いて、終わりの日を生きる姿勢について教えられた箇所、有名なタラントのたとえ。ある主人が三人のしもべにタラントを預けて旅に出たという話しです。タラントはTalentの語源とも言われるので才能や能力と思う人もいますが、本来は金の単位で、資産や財産を意味する言葉です。1タラントは6000デナリと言いますから相当な財産。そのタラントを預かったしもべは、一人はそれを資本に五タラントを儲け、同様にもう一人も二タラントを儲けました。ところが、一タラントを預かったしもべはそれを失くしてはいけないと思って土の中に隠しておいたのです。しばらくして主人が帰って来て清算をすると、二人のしもべは忠実だとほめられて、一人のしもべは怠け者だと叱られたという話し。このたとえのポイントは、主人が「それぞれの能力に応じて」タラントを預けたということでしょう。多すぎず、少なすぎずです。しかも、それをどう使いなさいとか何をしなさいとは一切言わずに各自の判断に任せていること。私たちもこの世に生まれてどれだけ多くの財産を神から預かっているのか…考えさせられました。

その日、その時に備えて…

3月第三主日礼拝、今日は曇りのち小雨の空模様でした。礼拝メッセージはマタイ25:1‐13、イエスさまが弟子たちに終末への備えについて教えられた3つのたとえ話しの一つ。十人の娘たちは花嫁の友人たちで、花婿が夜花嫁を迎えに来るのをともしびを持って出迎える務めがありました。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かったとあります。彼女たちはみなともしびを持って花婿を待っていたのですが、違いは予備の油を持ってきているかどうかでした。たとえのポイントは、花婿はキリスト、十人の娘たちは個々のキリスト者、ともしびは信仰生活(教会生活)、油は聖霊を表していることでしょう。つまり、教会にいる私たちがキリストの再臨をどう待ち望んでいるのかが問われているのです。ともしびを灯すには油が必要なように、信仰生活にも聖霊との交わりは欠かせません。万一に備えて予備の油を持って来た賢い娘たちと、先の事を考えずに油を持ってこなった愚かな娘たち…その差はあまりにも歴然でした。イエスさまがここで伝えたかったのは、終わりの日にあなたも賢い娘たちのように生きなさいということです。奥深い内容がギュッと詰まったメッセージでした。

ノアの日のように…

ハートフル英会話冬期コースが終了しました。今期もいろいろな出会いと別れがありましたが、楽しいクラスを講師と受講生の皆さまで作ってくださって心から感謝しております。これから三週間ほど間が空いて、また4/11から春期コースが始まります。大人クラス・キッズクラス、すでにオブザーバーの受付を開始しました。興味関心のある方はぜひ体験クラスをお申込みください。さて、教会の聖書通読はマタイ24章に入りました。十字架にかかられる時が近づく中で、イエスさまが弟子たちにされた最後の説教の場面。イエスさまはエルサレムの破壊とこの世の終わりを重ね合わせて話されました。まず偽キリストの出現、戦争や戦争のうわさ、国や民族間の対立、地震や飢饉の発生がその前兆です。それはまだ産みの苦しみの初めで、さらに弟子の迫害、背教と裏切り、偽預言者、道徳の退廃が続きます。そうした苦難の日々の後、かつてない天変地異が起こり、偉大な力と栄光を伴って人の子が再臨されるのです。それは「ノアの日と同じように実現する」とあります。あの時代にノアが忠実に神のことばを信じて歩んだように、私たちも霊の目を覚まして歩みたいものです。

四方八方塞っても…

『信仰とは四方八方塞っても上を開くことだ。』…「平民の福音」の著者としても有名な救世軍士官・山室軍平師の言葉です。1940年3月13日夜半、吹奏楽の聖歌演奏の中、『神よ、御国へ参ります』と言って召されたそうです。救世軍と言えば、最近は各地で災害が起こった際に迅速かつ的確な支援をされているのを目にします。同盟教団とは少し立場は違いますが、学ぶところの多い素晴らしい団体です。


自分を低くする者…

東日本大震災から13年を迎えました。2万人以上の方が命を亡くし、今もなお3万人近い方が避難生活を送られています。原発廃炉の見通しもつかない状況ですが、復興のために続けてお祈りします。あの頃、ボランティアに行った時にお世話になった現地の方と今も妻は連絡を取り合っています。それも尊いことだと思います。今日のデボーション、「だれでも自分を低くする者は低くされ、自分を高くする者は高くされます。」祈りの大切さを思わされました。


一番大切な教え…

3月第二主日、今日も穏やかなお天気のもと神の家族が一つ心で礼拝を献げました。メッセージはマタイ22章34‐46節から。パリサイ人の中の律法の専門家がイエスさまを試みようと声をかけてきました。「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」彼らは聖書全体から肯定的、否定的な613の戒めを見出していました。それらは平等に重んじられるべきものでしたが、それでもより重い戒め、より軽い戒めという区別をしていたようです。イエスさまの答え次第では訴える口実になると思ったのでしょう。そこでイエスさまが即時に答えられたのは、全身全霊をもって神を愛すること、隣人を自分自身のように愛することです。この二つの戒めに聖書のメッセージが集約されると言われたのです。そう言われても…どちらもそうそう簡単にできるとは思えない…。そんな声も聞かれました。確かに自分の力でそれを成し遂げようと思ったら、だれもが挫折を味わうでしょう。でも、ダビデがそうであったように、私たちも御霊によってキリストを主と呼び、この方とともに歩んでいきたいと思います。このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されているのですから…。

能登半島災害支援ボランティア…

月曜日から5人のチームで能登半島地震災害支援ボランティアに行ってきました。事前の天気予報ではずっと雨マークだったので心配していましたが、結果一日も雨に濡れることもなく、すべての作業が守られました。朝は内灘聖書教会内の能登ヘルプの事務所に集合し、デボーションとお祈りを持って出発。派遣先ではおもに家財の運び出しと片付け、割れたガラスや崩れた塀の処分などを行い、午後3時過ぎには片づけを始めてホテルに戻りました。目に映る光景は、たくさんの倒れた家屋、ひび割れた道路、4メートルを超す隆起した港…がありました。作業の合間に、被災された方とも直接お話しができましたが、地震発生直後のご様子やご家族を亡くされたこと…町も港も何もかも変わってしまったことを伺いました。あらためて…言葉では表現できない甚大な被害だったことを痛感しました。『大阪から来ました』と言いますと、『遠くから来てくれて本当にありがとう』と何度もお礼を言われました。今回の私たちの働き自体は本当に些細なものですが、少しでも被災者の方々の慰めと励ましに…そして、次のボランティアに来こられる方々の繋ぎとなれれば幸いです。

神のものは神に…

3月第一主日、風は冷たかったですが、青空の広がる一日でした。今日も教会に大勢の方が来られ、ともに主の御名をあがめる礼拝を献げました。メッセージはマタイ22章15節~22節、新約聖書の中でも有名な一節を心に覚えました。パリサイ人たちはヘロデ党の者たちと結託して、イエスさまをことばの罠にかけようと、カエサルに税を納めることは良いか悪いかを質問したのです。どちらに答えてもイエスさまを訴えようという魂胆でした。イエスさまは彼らの頑なな心を悲しく思われたでしょう。そしてデナリ銀貨を用いてあの有名な一節を言われたのです。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」キリスト者は天に属する者ではありますが、地上に生活する者としてその国の制度に従わなければなりません。理由は「主のゆえに」です。イエスさまも納税の義務を果たし、ピラトの裁判にも服されました。それと同時にさらに重要なのは、神に造られた者として、私たちは神の言葉に従い、神の栄光のために生きることです。イエスさまはすべての人に、あなたも人生の方向転換をして、神のもとに来なさい、神とともに歩みなさいと招いているのです。

私の望み…

昨年の秋に植えたカリフラワーが見事に育ったので少し早いのですが収穫しました。次はスナップエンドウが楽しみです。今週の水曜祈祷会では詩篇39篇を読みました。言い知れない苦難の中で、神への希望が人生のむなしさを支えている詩篇。「主よ お知らせください。私の終わり 私の齢がどれだけなのか。私がいかにはかないことを しることができるように。」口は禍の元と言いますが、ダビデは自分の舌で罪を犯さないように決意します。むしろ、神に向かってつぶやくのではなく、人生のはかなさを覚えることで心砕かれていきました。それでも「私の望み それはあなたです。」という信仰が一筋の光となって父なる神への希望の道を照らします。自分の人生の終わり、将来への悟りは、今を生きる意味を明らかにします。主にあって、私たちは生かされている。苦難の中で、本当に大切なものに目を向けていったダビデの信仰に教えられました。


神に招かれる幸い…

2月第四主日、雨がシトシトと降る少し肌寒い一日でしたが、教会の中はいつものごとく大勢の方が来られ、朝に2回の礼拝、子ども礼拝、午後からはスペシャルグレイスタイム、夕礼拝と恵みに溢れる一日となりました。礼拝メッセージはマタイ22章1‐14節、祭司長たちの頑なな態度を示すためにイエスさまが話された譬え話しの一つ、王子の結婚披露宴の譬えから。この話しのポイントは、王は父なる神、王子はイエスさま、結婚披露宴は天の御国、先に招かれた人はユダヤ人、後から招かれた人は異邦人を指しているところです。王は自分の息子の結婚披露宴のためにすべての準備を整えて、人々を招待しました。ところが、先に招いていた客は来ようとしなかったので、王はしもべを大通りに行かせ、出会った人をみな、披露宴に招待しました。すると、一人だけ王が準備した婚礼の礼服を着ていない人がいたので、その人を恵みの外に放り出したという話し。私たちも、この世の王である神から披露宴のような礼拝に招かれていること、礼服も準備していただいてそれを着て出られる幸いを思いました。病室にいる兄弟ともオンライン礼拝で一つ思いになれることも感謝します。

悪い農夫たちのたとえ…

ロシアによるウクライナ侵攻から2年が経ちました。教会のデボーションはマタイ21章33節から。イエスさまのたとえ話しの続き。ある主人がぶどう園を農夫たちに貸して旅に出ました。収穫期になったので主人は農夫たちのところにしもべを遣わして、分け前をもらおうと思いましたが、彼らはしもべたちを次々と殺し、最後は主人の息子まで殺してしまったのです。イエスさまが、主人はその農夫たちをどうするだろうかと問うと、聞いていた人々は、主人は農夫たちを滅ぼして、別の農夫たちに貸すでしょうと答えました。イエスさまは、この息子こそご自身であることを明らかにされたのです。イエスさまは今も生きておられ、やがてこの世界の裁き主として来られます。私たち人間は神さまから託されたこの世をどのように管理しているかを思わされました。


何が主に喜ばれることか…

2月第三水曜祈祷会、今日はヨハネ12章の高価なナルドの香油を捧げたマリア、マタイ21章のろばの背に乗ってエルサレムに入城されたイエスさまの姿を心に留めました。マリアはなぜ人々が見ている前でこのような惜しみない愛を現すことができのか…。また、ろばの飼い主はなぜ「主がお入り用なのです」という言葉だけですぐに渡してくれたのか…。どちらも何が主に喜ばれることかを考えたからでしょう。一方で、言葉だけの正論を振りかざし、マリアを貶めたユダをはじめ弟子たちの姿…。また、「ホサナ」と叫んでイエスさまを迎えた群衆の熱狂ぶり…。どちらも受難週に向かうイエスさまの目にどのように映っていたのでしょう。「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。」(エペソ5:10)をあらためて考えさせられる祈祷会でした。


らくだが針の穴を通る…

2月第三主日、柔らかな日射しが差し込む教会で礼拝を献げました。礼拝メッセージはマタイ19章から。富める青年がイエスさまのところに来て、永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをすればいいのでしょうかと尋ねたところ、財産を全部売り払って貧しい人たちに与えなさいと言われました。彼は良い行いによって救われることがどんなに難しいか、自分が何に執着しているかを思い知ったでしょう。そして、金持ちこそ救われると思っていた弟子たちもあらためて救われるには何が必要かを学んだことでしょう。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」あの青年も、ぶどう園が閉まってしまう夕方には間に合って弟子たちと同じ恵みにあずかることができたのでは…。今日のデボーション20章を読んでそんな思いになりました。


結婚と離婚について…

あちこちでかわいい梅花を目にする時期になりました。教会のデボーションはマタイ19章1節から。イエスさまはいよいよガリラヤからエルサレムに向かって出発します。するとパリサイ人たちが近づいて来て、イエスさまに論争を試みてきました。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」イエスさまは彼らの質問に対し、創世記から紐解いて、結婚とは何かを話されました。つまり、結婚とは神が結び合わせたものであり、人間の意志や都合によって引き離してはならないということです。パリサイ人たちはすかさず「では、モーセはなぜ…」と申命記24:1を引用して、離婚はできると主張しました。これに対し、イエスさまは離婚は最初から認められていたのではなく、人々の心が頑ななので許容したこと、「だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」と教えられました。このイエスさまの結婚に関する教えは今日の私たちにとっても重要です。日本の離婚率も三組に一組の割合…。私たちも結婚とは何かをあらためて考えたいものです。結婚カウンセリングもお勧めします。

あなたがたにできないことは何もない…

2月第二水曜祈祷会ではマタイ17:14‐27を読みました。イエスさまが三人の弟子たちと山から戻ってくると、ある人が自分の息子を憐れんでくださいと懇願してきました。息子はてんかんで大変苦しんでいて、弟子たちのところに連れて行っても、治すことができませんでした。イエスさまは思わず「ああ、不信仰な曲がった時代だ」と嘆息し、弟子たちに代ってその子から悪霊を追い出されたのです。弟子たちが自分たちに追い出せなかった理由をそっと尋ねにいくと、イエスさまは明確に答えられました。「あなたがたの信仰が薄いからです。…からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」信仰は量が問題なのではなく、質が問題です。半信半疑の信仰、あるいは神がいるなら証拠を見せろという人には、このイエスさまの言葉の真意は伝わらないでしょう。私たち自身は無力でも、私たちにとって幸いなのは、この無限の力をもった神を知っていることです。ある本の一節を思い出します。『パスカルが言ったように、神を信じて我々が失うものは何もなく、得るものは無限である。』

あなたこそキリスト…

2月第二主日、厳しい寒さもひと休みという一日でした。礼拝メッセージはマタイの福音書の分水嶺16:20‐30から。ピリポ・カイザリアでのイエスさまと弟子たちの有名な問答の場面。「あなたがたはわたしをだれだと言いますか。」この問いにどう答えるか、それが人生の大きな分かれ道です。ペテロは弟子たちを代表して、「あなたは生ける神の子キリストです。」という実に幸いな信仰告白をしました。イエスさまはその告白を大変満足されて、このことをあなたに明らかにしたのはわたしの父だと言われたのです。また、イエスさまは「わたしはこの岩(信仰告白)の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません」とも言われました。教会は、建物の荘厳さより、イエスさまを救い主と信じる者たちの群れを指します。そして、教会にはよみの門(死者の行くところ)に打ち勝つ、天の御国の鍵(福音)が託されているのです。福音を信じる人には御国に入る門が開けられ、信じない者にはその門は閉ざされる。私たち教会はまさに今日のノアの箱舟です。上から目線ではなく、ノアのごとくその生き方で、義を宣べ伝えていきたいと思います。

かわいそうに思われた…

教会のデボーションはマタイ15:29‐39から。イエスさまは神への祈りや弟子たちと交わりのため、人々を避け、遠いツロ・シドン地方を旅されました。徒歩でなされたこの旅行は、少なくても二、三カ月を要したことでしょう。そこではイエスさまとカナン人の女の麗しい出会いがあり、彼女の立派な信仰をほめられました。それから再びガリラヤに戻ってくると、イエスさまのもとに大勢の病人が連れて来られ、その一人一人を癒されました。それを見た人々は驚いてイスラエルの神をあがめたのです。そんなイエスさまのもとにはますます大勢の群衆が押し寄せてきました。イエスさまは弟子たちを呼んで言われます。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べ物を持っていないのです…」そう言って七つのパンとわずかな小魚で4,000人以上の人々のお腹を満腹にされる奇跡をなされたのです。「かわいそうに」とは内臓を表わす言葉を語源とし、「はらわたが揺すぶられる」「胸が痛む」などの意味があります。まさに寝食を忘れて人々の痛みを知り、その求めに応えられたイエスさま。目には見えませんが、この方は今も私たちの近くにおられます。

向かい風の中の信仰…

今日は時折みぞれ混じりの雨が降る寒い一日でした。聖書通読はマタイ14章とマルコ11章から。イエスさまのご命令で、弟子たちは舟に乗り込み向こう岸へと向かいますが、途中で強い向かい風に煽られ、夜明けまで波に悩まされました。自分たちがこんなに困っているのに主は何をしているんだ…と思う者もいたでしょう。すっかり気が動転してしまった弟子たちは、荒れ狂う湖の上を歩いてくるイエスさまを見ても、だれかわかりませんでした。イエスさまはそんな狼狽する彼らを憐れんで、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と声をかけられ、助けられたのです。同様の記事は8章にもありました。イエスさまはこのような信仰の訓練をしばしばなされたということでしょう。私たちの信仰も平時ではなく、想定外の有事の中でこそ試されるものです。大事なことは、イエスさまは私たちの弱さを十分知っておられて、「主よ、助けてください」と求めるなら、助けてくださるということです。私たちも、今も生きておられ、ともに歩んでくださるイエスさまを体験して、「まことに、あなたは神の子です」という信仰を告白し続けていこうではありませんか。

主が来られる日まで…

2月第一主日、立春を迎え、暦の上では春が始まりました。まだしばらく寒い日は続きますが、日に日に一日が長くなるのを感じながら温かな春を待ち望みたいと思います。礼拝メッセージはⅠコリント11:23‐26から。イエスさまは、渡される夜、弟子たちと最後の食事をとるとき、パンを取り、祝福してこれを裂き、弟子たちに与えて言われました。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」今日の聖餐式の元になった言葉です。聖餐式のパンとぶどう酒は、イエスさまの裂かれたからだ、流された血潮を表しています。イエスさまは私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり死んでくださいました。それによって私たちに神との平和が与えられ、私たちは癒されたのです。さらにイエスさまは死からよみがえって、今も生きておられ、私たちを聖餐に招き、やがて再び来られるとあります。まさに過去、現在、未来まで、キリスト教の中心教理がすべてこの聖餐に表されています。「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。」イエスさまの救いの素晴らしさが一人でも多くの方に伝わりますように。

小さな種のたとえ…

イエスさまは『種を蒔く人のたとえ』の解き明かしの後に、続けて3つのたとえを弟子たちに話されました。一つ目は『毒麦のたとえ』です。ある人が良い種を畑に蒔いた後、眠っている間に敵がやってきて毒麦を蒔いていきました。穂がでるまでは、毒麦と小麦は見分けがつきにくいので、主人は収穫までそのまま待つようにと言ったのです。キリスト教にも表面的には似ていても、本質的に全く違うものがあるのでご注意ください。二つ目は『からし種のたとえ』です。どんな種よりも小さいのに、成長すると、どの野菜よりも大きくなり、鳥が巣を作るようになるのです。まさにキリスト教は、少数の弟子たちから始まって全世界へと伝わっていきました。三つ目は『パン種のたとえ』です。わずか一握りのパン種のかたまりが、39㍑の粉を膨らませることから、からし種のたとえと同様に神の国の成長発展を意味していたのです。イエスさまの話しは本当に機知に富んだものです。理解しようとする者にはより分かりやすく、そうでない者にはさらに分かりにくくなる…。それは今日も同じです。信仰をもって耳を傾けるなら、わきまえのない者にも悟りが与えられるのです。

たとえで話す理由…

1月第五水曜祈祷会、マタイ13章にはイエスさまが群衆に向かって御国の奥義について語られた幾つかの話しが記されています。その最初の話しが『種を蒔く人のたとえ』です。教会学校でも定番の箇所ですが、あらためて読み直すと多くの励ましがあります。ここには農夫が蒔いた種が、道端、土の薄い岩地、茨の間に落ちた結果、良い実を結ばなかったこと、でも、良い地に落ちた種は実を結び、100倍、60倍、30倍になったとあります。農夫にとって大事なのは、無駄な労苦に思えることもあること、そして結果を見るには忍耐が必要なことです。『種』はみことば、『畑地』はそれを聴く人の心の状態を表しているとしたら、わかりやすいかもしれません。ただ、イエスさまがたとえで話す理由は、単にわかりやすくするためではなく、聞く耳のある者(聴こうする意志を持つ者)にはもっとわかるように、そうでない者にはさらにわかりにくくすることです。イエスさまの福音は奥深いと思わされます。数年前の、2000年前の種が発芽した…というニュースを思い出しましたが、私たちに命じられているのは福音宣教、その結果はすべて主にゆだねて待ち望みたいと思います。

みことばに生きる教会…

1月第四主日、時より小雨が降りましたが、寒さは幾分和らいだ一日でした。礼拝メッセージはエペソ3:14‐21から。ガリラヤから始まったイエスさまの福音が、地中海沿岸地方をはじめ全世界へと伝わっていった大きな要因は、パウロの存在です。パウロはもともと厳格なユダヤ教徒でしたが、復活の主と出会い、劇的な回心を遂げました。その後も迫害を受けながら、宣教の最前線に立って、キリスト教最大の伝道者と言われるほどになったのです。ここにはそんなパウロの切なる祈りが綴られています。「どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。」パウロの祈りは父なる神に聴き届けられ、時代から時代へ、今も力強く宣べ伝えられています。福音のバトンを受け継いだ者として、私たちもまたこの時代における使命を果たしていきたいと思います。2024年はこの御言葉を年間聖句として覚え、毎週の礼拝で賛美していきます。新しい教会テーマソングもできました。ぜひご視聴ください。

わたしが喜びとするのは…

教会のデボーションはマタイ12章から。イエスさまの弟子たちが麦畑を通った時、空腹だったので穂を摘んで食べたところ、その日が安息日だったので、パリサイ人たちがそれを労働とみなし、咎め立てたという箇所です。イエスさまは幾つかの旧約聖書を引用して、安息日を儀式的に守ることより、人間の緊急の必要を満たすことが優先されること、安息日の本来の目的は、労働の禁止よりも神の御心を行うことだと教えられました。つまり、神が喜ばれるのは儀式のような形式ではなく、隣人に対するあわれみの心を持つことです。今週も、ZOOMで能登半島地震の情報共有会議がありましたが、北陸聖書連盟を中心とした『能登ヘルプ』という災害ネットワークが立ち上がり、支援金・義援金の受付が開始されました。現地ではあちこちで断水が続き、未だ余震も続いていて、全壊率も高いということで、ボランティアの受付も来週からになりそうとのこと…。支援物資に関しても、刻一刻と現地の状況が変わるので、FaceBookなどを見て必要な物を送ってほしいとのことです。大したことはできないのですが、自分も行って何かさせて頂きたいと、はやる気持ちを抑えています。

春先はカルトの勧誘にお気をつけください…

いよいよ本格的な受験シーズンを迎えました。学生たちは寒さと誘惑に戦いながら最後の追い込みに励んでいることでしょう。側で見守っている親御さんたちも気が気ではないと思います。そうした中で、着々と勧誘の準備をしているグループがあります。毎年春先はカルト的な宗教も、ここぞとばかりに活動が活発化します。普通のサークルの勧誘と思ったら、それは隠れ蓑で、実は宗教の勧誘だったということはよくある話しです。誘う側も全く悪気がないし、紹介される人たちも人格者が多かったりするので、そこがカルトの集まりだとは気づきません。気づいた時には『ごほうび』と『恐怖』という二重洗脳に陥って、そこから抜け出せなくなってしまいます。つまり、グループの人たちこそ本物の友人、本物の家族だと思うようになり、そこから抜けることは罪であり、地獄行きだという意識を植え付けるのです。今まで仲の良かった家族にも平気で隠しごと(図りごと)をするようになります。入り口は広く、出口は狭く…それがカルトの手口(教え)です。過剰に心配することはありませんが、特に春先、若い世代の方々は学内等での優しい勧誘に気をつけてください。

弱い者を用いられる主…

今日は午前中にCGNTVの方が来られて、10分ちょっとのメッセージを三回分撮影しました。もうこの奉仕も10年以上になりますが、カメラの前で話すのは未だに緊張します。もちろん第一の願いは、まだ福音を聴いたことのない方に少しでもわかりやすく聖書のメッセージを伝えることですが、説教者として簡潔に話すための良い訓練にもなっています。撮影が終わってスタッフの方と談笑することも楽しみの一つです。また午後からは旧約聖書を学ぶ会がありました。出エジプト記4章から。主は燃える柴の中に現れて、モーセに「今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。」と命じられました。でも、この時のモーセはあまりにも大きな使命にたじろぎ、自分の弱さを訴えました。ここでのモーセと主とのやり取りは、今日の私たちも聖書を読んでいる時やメッセージを聴いている時に感じることかもしれません。でも、主はそんなモーセに「わたしはあなたとともにいる」と何度も告げられ、彼を力づけられたのです。神の前に自分の弱さを認めることは大切なことですが、そこでくじけないで、主の命令には必ず約束も伴うことを心に覚えていきたいものです。

あわれんでくださる主…

1月第三主日、大寒にあたり一年で最も寒い時期を迎えましたが、今日は賛美礼拝としていつも以上に高らかに主をほめたたえました。目をつぶって祈りながら賛美する人もいれば、手を上げて、立ち上がって踊り出す人もいました。また、メッセージ前には一人の姉妹が素晴らしい証しをしてくださいました。礼拝メッセージはマタイ9:35‐38から。「…群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」『あわれむ』という言葉は『内臓』を意味する言葉です。イエスさまは、群衆(全人類)をご覧になって、内なる心が震えわななくほどに激しい思いを持たれました。私たちの救いのために、ご自分の御子をこの世に送ってくださった父なる神の愛、すべてを捨てて低くへりくだってくださった主イエスの憐れみを思いました。特に「収穫は多いが、働き手が少ない…」という言葉が心に響きました。この時代にも、福音を必要とする方が大勢います。午後からはバイブルクラス、夕礼拝、青年会と、今日も多くの方とともに主の日を喜び感謝を献げました。今週もキリストの心を我が心として歩んでいきたいと思います。

あなたの信じたとおりに…

1月第三水曜祈祷会、少し寒さも和らいで青空が気持ちのいい一日でした。聖書はマタイ8:1‐17から。イエスさまの山上の説教の後、ツァラアトの癒し、百人隊長のしもべの癒し、ペテロの姑の癒しの三つの癒しの記事が続きます。イエスさまは彼らの懇願する声や状況に目を留められました。そして、当時の慣習に縛られず、病人にさわり、百人隊長の所に行き、手を触れられて、彼らの思いに奇跡をもって報いられたのです。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」人間の目にはどんなに難しいことのように思えても、イエスさまのもとに直ぐな心で求めていくことの大切さを思いました。イエスさまは求める者に必ず応えてくださる方です。今日はOCCで阪神淡路大震災追悼の祈り会がありました。早いもので29年の年月が経ちます。災害は忘れた頃にやって来ると言いますが、1995年に阪神淡路大震災、2011年に東日本大震災、今年は元旦に能登半島地震が発生しました。その間にも日本各地で地震や災害が頻発している状況を鑑みると、もはや明日どこで何が起きてもおかしくありません。日頃の備えとともに、終末の備えをするように聖書は告げているのです。

信仰と疑問の間で…

雲の切れ間から日射しは見えましたが、はらはらと小雪の舞う一日となりました。それでもこの寒い時期にも関わらず、健気に咲いている花たちを見るとなんだか励まされます。以前の自分のことですが、『神がいるならどうして…』この疑問がある限り、クリスチャンになることはできないと思っていました。礼拝でメッセージを聴いて感動することがあっても、すぐに疑問がわいてきて、自分で自分にブレーキをかけるように深入りしないでおこう…クリスチャンになったら、今まで自由にしていたこともできなくなる…と思っていました。そんな疑いや不安を抱えたまま、私は洗礼を受けました。だからというわけではないのですが、私は100%の信仰がなくてもクリスチャンにはなれますよと言っています。イエスさまと一緒にいた弟子たちだって、よく信仰の薄い者たちと言われていました。しかもあのユダでさえ、最後まで見捨てられなかったのですから。「もしあなたが悟りに呼びかけ、英知に向かって声をあげ、銀のようにこれを探し、隠された宝のように探り出すなら、そのとき、あなたは主を恐れることをわきまえ知り、神を知ることを見出すようになる。

心配しなくてよい…

1月第二主日、今日の礼拝ではマタイ6:19‐34からメッセージを聴きました。イエスさまのもとには弟子たちをはじめ病人や生活に困窮する人々が大勢集まっていました。イエスさまはそうした人々に心配しなくてよいと言われたのです。「心配」とはくよくよと思い煩ったり、必要以上に不安になることを意味しました。生活のこと、健康のこと、仕事や将来のこと、家族や人間関係のことまで…誰もがみな心配を抱えて歩んでいます。それはいつの時代も同じです。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」いくら心配しても先のことはだれにもわかりません。でも、先のことを計画しておられる方がだれであるかを私たちは知っています。心配から解放される秘訣は神を信頼することです。ある方が、イエスさまの時代の人々から見れば、現代人はずっとずっと恵まれている訳で『それでも心配するのはどういうことなのだろう』と思うに違いない…と言われていたのが印象的でした。礼拝後は成人祝福式を行いました。お休みの青年もいましたが、新成人たちの新しい出発が祝福されるように心からお祈りしています。

わたしはあなたがたに言います…

今年最初の水曜祈祷会がありました。マタイ5:33‐42「偽って誓ってはならない」「目には目を、歯には歯を」の解釈についてイエスさまの教えを学びました。ユダヤ人は誓いをしてもしばしばそれを果たさないことがあったようです。そのために律法学者たちは神の名以外の物を指して誓った場合は果たさなくても許されるという抜け道を考えました。イエスさまはこれに対して「誓ってはいけません」と教えられたのです。また、被害者が加害者に対して、受けた被害と同等の物を弁償してもらう権利(同害復讐法)がありました。これは報復させる権利というより、個人的報復によってお互いの間に争いが続くのを防ぐための規定でした。イエスさまはそうした誤った解釈を正して「悪い者に手向かってはいけません」と教えられたのです。私たちも自分の思い込みや誤った解釈に気をつけたいもの。そして自分の力ではできないからこそ、聖霊の助けを祈り求めたいものです。能登半島地震で亡くなられた方は既に200人を超え、二万人以上の方が避難所生活を余儀なくされています。明朝もキリスト全国災害ネットの世話人会で話し合いますが…主の憐れみを祈るばかりです。

本当に幸いな人とは…

1月第一主日、今日は最初の日曜日、新年礼拝を献げました。礼拝ではマタイの福音書5章から『山上の説教』の冒頭を読みました。イエスさまのガリラヤ宣教は多くの実を結び、その評判を聞いた大勢の群衆が集まって来ました。彼らはみな、様々な病や痛みで苦しむ人、生活に困窮する人々でした。イエスさまはそうした彼らを意識しながら、弟子たちをみもとに呼んで告げられました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」聞いていた人たちは不思議に思ったでしょう。普通に考えれば、貧しい人よりも富んでいる人の方が、悲しむ人よりも健康である人の方が幸いだと思いますが、イエスさまはそう言われなかったのです。「心が貧しい人」とは、神の前に自分が何一つ誇れるものがないことを自覚し、神に助けを呼び求める者を指します。わたしのもとに来たあなたがたは幸いです…イエスさまの優しい語りかけが心に響きました。今日は午後から新成人を迎えた青年たちが茨木聖書教会から来てくれて、小学生だった頃の面影を懐かしく思い出しながら、立派になった彼らの姿に励まされました。今日も恵みに溢れる一日を感謝いたします。

主の道を用意せよ…

旧約聖書の最後は預言者マラキの言葉をもって閉じられました。それからイエスさまが現れるまでの約400年間、神の言葉を告げる預言者は現れませんでした。言わば沈黙の400年です。そこに突然荒野に現れたのが、バプテスマのヨハネでした。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」悔い改めるとは、単に反省することではなく、人生の方向転換をし、神に立ち帰ること、人生を新しくやり直すことを意味しました。また、天の御国が近づいたとは、神の統治される国が、イエスさまの到来によって始まりイエスさまの再臨によって完成されるということです。「主の道を用意せよ」とは、救い主を心に迎え入れるために妨げとなっているものを除きなさいということです。私たちも今年、主の通られる道、主の御言葉をまっすぐ受け入れる心備えができているでしょうか。もうすでに目を覆いたくなるような出来事が頻発していますが、だからこそ騒ぐ心を静めて、変わらない御言葉に聴きたいと思います。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」こんな時主はどこにおられるのか…。あの苦しむ人たちとともにおられるのです。

神の言葉に立って生きる…

新しい2024年が始まりました。みなさま今年も宜しくお願い致します。元旦礼拝ではマタイ2:13-23から御言葉を心に留めました。東の国の博士たちの訪問はヨセフとマリアを喜ばせたと思いますが、その喜びも長くは続きませんでした。「人生一寸先は闇」と言いますが、神は御使いを遣わして、ヨセフたちに今すぐエジプトに逃げるように命じられました。博士たちが王宮とは別の道で帰ったことを知り、ヘロデは怒り狂い、ついに新約聖書中最も残忍な事件が起きってしまったのです。どうしてこんな痛ましい事件が起きてしまったのか…神はなぜこれを止めてくださらなかったのか…。様々な人間的な思いが頭に浮かびます。でも、聖書にはその明確な理由はなく、「預言者を通して語られたことが成就した」という言葉を繰り返して、こうした一つ一つの出来事が偶然ではなく、神のご摂理の中で起きたことであることを示したのです。私たち人間には知り得ない神の深淵なるご計画があることを思います。今日も午後4時頃に石川県能登半島で震度7強の地震が発生し、各地に甚大な被害が発生しました。今は一つでも多くのいのちが守られるように心からお祈りしています。