Church Brog
教会にどんなイメージをお持ちですか?厳かに礼拝をささげるところ、敬虔なクリスチャンが集まる、年寄りが多い、信仰を勧められる、献金させられる、なんとなく敷居が高い…などのイメージがあるもしれません。でも、実際に行ってみると、堅苦しい決まりもなく、老若男女、だれもが気軽に集えるところです。このブログは教会の日々の様子やメッセージ・デボーションの要約などを牧師の備忘録日記でご紹介しています。
(写真などの転載はご遠慮ください)
使徒の働き8章26~40節、ピリポが荒野に遣わされ、エチオピア人の宦官と出会う場面。宦官は礼拝からの帰り道、イザヤ書を読んでいました。そこでピリポが彼に、「読んでいることが分かりますか」と尋ねると、「導いてくれる人がいなければどうして分かるでしょう」と答えます。こうしてピリポの個人伝道が始まり、宦官は救いに導かれていったのです。いつ読んでも感動的な話し。私たちも、語るべきことは聖霊が教えてくださることを信じて…。
6月第二主日、今日は時折雨の曇り空の一日でしたが、今日はアメリカから12名のミッショントリップチームを迎えて、いつも以上に賑わいのある礼拝となりました。一人の青年が「救いの証し」をしてくれましたので、宜しければ動画をご視聴ください。礼拝メッセージはピリピ1章1ー11節から。パウロの第二次宣教旅行の際に、ピリピの町で紫布商人のリディア、牢獄の監守たちとその家族が救われ、教会としての歩みが始まりました。あれから約10年、パウロはピリピ教会の現状を知って手紙を書きました。「キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち」手紙の冒頭には感謝と確信と祈りが綴られています。但し、この手紙を書いているパウロはローマの牢獄の中にいました。キリストを宣べ伝えたがゆえの苦難です。でも、手紙には神への不平や不満の言葉は一切ありません。むしろ、『喜び』という言葉が16回も書かれているのが印象的です。パウロの喜びは環境や状況によって左右されるものではなく、キリストに望みをおく者に与えられるものでした。私たちも、自分の立派さではなく、主の一方的な恵みによって『聖徒』と呼んで頂ける幸いを感謝したいと思います。
教会のデボーションは使徒の働き7章から。最初の殉教者ステパノの証しが続きます。あらためて旧約聖書を土台として、使徒たちの時代、新約聖書、そして今の時代があることを思います。『過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる』ヴァイツゼッカーの言葉が心に残りました。さて、教会も映像関連の工事が完了し、新体制が整いました。明日はアメリカから12名の青年たちも礼拝に出席します。ともに集える恵みを感謝し、新しい出会いにも期待します。
今日の水曜祈祷会は特別プログラムとして玉井千尋氏を招いて講演会をして頂きました。おもに精神障がい者施設ホサナホームでの働きから学ばれたことをご紹介頂きました。ご関心のある方はぜひ検索してみてください。また、同時に教会の映像工事が入りました。今まで歌詞などを映していたプロジェクターはモニターに変わり、カメラとスイッチャーも新しくなり、少し雑音が入ると言われていた音響も改善されました。次の日曜礼拝が楽しみです。
5月第五主日、台風が接近し、曇り空の湿度の高い一日でした。礼拝メッセージは使徒の働き16章25~34節から、パウロとシラスのピリピ宣教を見ました。二人の宣教によって、まず紫布商人のリディアとその家族が救われます。そしてそのすぐ後、パウロたちは占いの霊につかれた女奴隷と出会い、彼女を憐れんで悪霊を追い出してあげました。でも、それに腹を立てた主人に訴えられ、不当な裁判の末に、彼らは激しく鞭打たれ、投獄されてしまったのです。普通ならそこで不平や怒りの言葉が出てきそうなところ、彼らの口からは祈りと賛美があふれていました。その時、大地震が起こり、牢獄の扉が全部開いてすべての囚人の鎖が外れてしまいます。それは、まさに神のご介入でした。目が覚めた看守は事態の大事さに気づき、責任を取って自害をしようとしたのです…。その続きはぜひYouTube動画をご視聴ください「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」主イエスを信じるとは、苦難の中でも神を信頼し、神の救いの計画を信頼し、この方を人生の主とし、自分自身を主に委ねることです。礼拝で転入会式もあり、みんなで喜びました。
教会のデボーションは使徒の働き4章から。ペンテコステの日に初代教会が誕生し、生まれつき足なえの男の癒しなど素晴らしい御業が起きました。でも、それから弟子たちに対する風当たりが厳しくなり、迫害の中での宣教となります。それでも彼らは福音を語ることをやめず、ますます多くの人が救われていったのです。私たちも聖霊の働きを受けて大胆に福音を語っていきましょう。来週の水曜祈祷会は特別プログラムです。ぜひご参加ください。
5月第四主日、今日は聖霊降臨日(ペンテコステ)記念礼拝を献げました。イエス・キリストは死からよみがえっ、弟子たちの前に現れ、40日間ともに過ごし、天に昇られました。そして、その10日後に弟子たちの上に聖霊が降り、ペテロが力強くメッセージを語ると、その日3,000人が救われて初代教会が誕生しました。イエスさまの十字架を見て、恐くて逃げだした弟子たちが、ほんの数日の間に、死をも恐れない勇敢な弟子に変えれれたのは、聖霊が彼らに臨んだ確かなしるしです。聖霊は、イエスさまが言われた通り、弟子たちの霊の目を開き、真理に導きました。パウロもその一人です。厳格なユダヤ教徒だった彼は、復活の主の出会って目から鱗が落ちるような体験をし、イエスこそ主であることを知り、キリスト者となりました。そのパウロがコリント教会に宛てた手紙の最後の部分を読みましたが、そこには牧会者パウロの温かい愛とキリストの恵みが満ちあふれていました。昔も今も、人間が集まるところには問題も起こります。でも、教会は立派な人たちが集まるところではなく、神の愛を受けた者たちの集まりですから、一致の秘訣も聖書の中に描かれているのです。
教会のデボーションは使徒の働き1章から。イエスさまが天に上られた後、弟子たちは心を一つにして祈っていました。それはイエスさまが「父の約束を待ちなさい」と命じられたからです。今まで一緒だったイエスさまがいなくなって、彼らは、これからどうなるのだ…と不安を感じていたでしょう。でも、彼らは主のことばを信じて待ち続けました。そして、そんな彼らの上に聖霊が降ったのです。信仰生活も野菜も、待つことの大切さを教えられます。
5月第三水曜祈祷会、今日も日中は30度…真夏を思わせる暑さでした。デボーションはⅠ歴代誌14章から。イスラエルの王となったダビデは、エルサレムを新都に据え、家庭も祝され、順調な歩みを始めます。でも、そのような時にペリシテ人が攻め上ってきました。この窮地にあって、ダビデは神に伺いを立て、御心を求めました。そして見事、ペリシテ人を打ち破ると、主に栄光を帰したのです。そんな彼の姿から信仰者としての大切な姿勢を学びました。
5月第三主日、さわやかな初夏の風を感じながら、主の御名を賛美する礼拝を献げました。今日は小さな子どもたちも一緒に献げる礼拝でした。礼拝メッセージは詩篇100篇から。礼拝とは何ですか…と聞かれたらどのように説明するか。静かにしてる時間、座ってお話しを聞く時間…など、いろいろありましたが、聖書はこうあります。「全地よ 主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。」 つまり、礼拝とは第一に主を喜ぶことです。第二に主を知ること、そして、第三に感謝をささげることです。もちろん、私たちの毎日には、悲しい時も苦しい時もありますから、主を喜べない、賛美もできない、礼拝に行く元気もないという時もあるでしょう。それは正直な気持ちであって、悪いことではありません。それでも教会に来ると思い出すかもしれません。どうして、神さまは喜び歌いつつ御前に来さないと言われるのかを。イエスさまの十字架がきっと教えてくれると思います。神さまが私たちを愛され、赦され、導いてくださっているからです。今日は新来者の方も、久しぶりの方も来られて、いつも以上に恵みいっぱいの日曜日でした。
今日は最高気温が31。初夏の陽気の中、教会の花たちも見頃を迎えています。いつも足をとめて花を眺め、『きれいですね』と声をかけてくださるご婦人が、今日こんなことを話してくださいました。『いつか教会に行ってみたいけど…私、クリスチャンじゃないからダメよね』もちろん、そんなことはありません。教会は、クリスチャンだけでなく、どなたでも来て頂ける場所です。花を眺めるように、ふらっと立ち寄ってくださったら嬉しいなと思いました。
5月第二水曜祈祷会はⅠ歴代誌9章から。神殿礼拝において、レビ人たちが多種多様な奉仕に当たっていたことが記されています。人目につく奉仕もあれば、人目につかない奉仕もあったでしょう。でも、そうした一人ひとりの奉仕があってこその礼拝でした。今日の教会も、多くの方の奉仕と祈りがあって礼拝が行われています。中でも、最も大事なのは祈りの奉仕です。隠れたところで見ておられる方が、そのお一人ひとりに報いてくださいますように。
5月第二主日、今日は母の日歓迎礼拝でした。私たちに母を与えてくださり、いのちを与えてくださった神に、心からの感謝を覚えて礼拝を献げました。礼拝メッセージは1コリント16章5ー12節、パウロは自分がコリントに向かう計画があることを伝えます。パウロはコリント教会の中にが混乱が起きていることを聞いていたので、一刻も早く再訪し、じっくり交わりを持ちたいと願っていたのです。でも、すぐにはいけない事情もありました。それは、今いるエペソで福音宣教の絶好の機会が来ていることと、反対者も大勢いることでした。それでもパウロは、焦る様子も矛盾を感じる様子もありません。「主がお許しになるなら」この言葉が、彼の信仰の土台でした。つまり、自分の計画や予定よりも主の御心を第一にしていたのです。神は苦しみのない場所だけで働かれる方ではなく、むしろ、罪と混乱、痛みと悲しみの中でご自身を現わされる方です。パウロは、若く臆病なテモテと雄弁家のアポロのことも記しますが、まさに神は不完全な者を用いて御業を進められる方です。教会とは、あくまで「完璧な人たちの集まり」ではなく、「救いを必要とする者たちの集まり」なのです。
5月第一日曜日、雨上がりの気持ちのいい風が吹く一日でした。礼拝メッセージはⅠコリント16章1ー4節から。パウロは15章で復活の希望について雄弁に語った後、16章ではコリント教会からの質問に答える形で献金について記していきます。ここでは、「聖徒たち」のための献金についてですが、一般原則としても大切な真理が教えられています。「いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手元に蓄えておきなさい。」とは、日常生活の中から計画的に取り分けておきなさいということです。献金は、単にその場の気分や思いつきでするものではなく、その意味と目的をしっかり弁えてささげたいものです。それは、神を後回しにしない、いつも最優先に考える生き方でもあります。お金も時間も労力も、限られた中でどう使うかが問われます。この命も、健康も、仕事も、家族も…何よりキリストにある救いを思う時、私たちは神さまから多くの恵みを頂いています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された…」ここに、ささげる歩みの根拠があります。神は、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、喜んで与える人を愛してくださるのです。
ハートフル英会話キッズクラスのドレイク先生は、中学校の歴史教師の経験があって、教え方も上手で、とにかくクラスの雰囲気をつくるのに長けています。笑顔を絶やさず、小気味よい英語と日本語のバイリンガルに、子どもたちも自然と引き付けられます。主たる働きは宣教師ですので、クリスチャニティーもホスピタリティーもきめ細やか。春期クラスはまだもう少し余裕がありますので、ぜひ無料体験クラスを利用して、参加してみてください。
教会のデボーションはⅠ歴代誌4章から。ここには有名なヤベツの祈りが記されています。母の悲しみの内に彼を産みました。当時、名はその人の運命を象徴するものです。でも、聖書は彼を兄弟たちの中で最も重んじられたと記します。そんな彼の祈りは読者の心を打ちます。悲しみという呪縛から始まった人生が、祈りによって「祝福」へと変えられていく。「神は彼の願ったことをかなえられた。」短い2節の中に神からの深いメッセージが描かれています。
4月第四主日、今日も初夏を思わすような温かな一日でした。礼拝メッセージはⅠコリント15:50ー58から。復活に関してのパウロの結論部分にあたる箇所です。終わりのラッパとともに、すでに死んだ信者はよみがえり、私たちは栄光のからだに変えられる。イエスさまが十字架上で、私たちのすべて罪を贖い、死からよみがえってくださったことが、私たちの確かな希望です。この方は今も生きておられ、私たちとともにこの人生を歩んでくださるのです。
教会のデボーションはⅠ歴代誌2章から。1~9章までイスラエルの系図が記されています。聖書の言葉ではありますが、今日の私たちにはあまり関係がないように思われ、読み飛ばしたくなるかもしれません。でも、アダムから始まる系図には人類の罪の歴史があり、また、神とともに歩んだ人々の歴史があります。そこには神の愛と忍耐があり、神の不思議な計画が私たちにも繋がっていることを思う時、読み飛ばすには勿体ない恵みが描かれているのです。
4月第四水曜祈祷会は詩篇97篇から。「主を愛する者たちよ。悪を憎め。」悪とは、神の御心に反するもの、神との関係を歪めるものです。これくらいはいいかな…というサタンの囁きに気をつけなくてはなりません。今日も温かな一日で、教会の花たちが一斉に花を開いて賑わってきました。教会の前を通る方々が足を止めて眺めてくださると、花たちも嬉しいのでしょう。彼らも自分の存在をもって神の素晴らしさを一所懸命証ししているように思います。
4月第三主日、今日も初夏を思わせるような温かい一日でした。礼拝メッセージはⅠコリント15章29節から。パウロは、コリントの教会で『死者の復活はない』と主張する人々がいることを聞いていました。もし死者がよみがえらないのなら、人生は『今だけ』のものとなり、苦しみや犠牲を伴う生き方は意味を失ってしまう。でも、復活があるからこそ、今の労苦には永遠に続く意味があり、神はすべてをご存知であると語りました。私たちクリスチャンの決して失われない希望、それが復活です。反対者たちの『肉体が完全に腐り果ててなお、人がよみがえるなど果たしてあり得ようか』と主張に対し、パウロは「あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません」と答えます。種は土に蒔かれると外から見えば死んだようですが、そこから全く新しい命が芽生える。まさに復活とは、単に元のからだに戻ることではなく、神によって新しい体が与えられることです。それは、もはや罪から解放された栄光のからだ、そのゴールはキリストに似た者となることです。私たちもこの復活の希望を胸に、御霊によって日々新しくされる歩みにともに踏み出して行こうではありませんか。
デボーションはローマ書16章から。論文調で難解な書と言われるローマ人への手紙ですが、その結びには牧会者パウロの温かな励ましが溢れています。そこには一人ひとりの違いを越えて、福音のために祈り合い、支え合い、協力し合う教会の姿が描かれています。これは神が喜ばれる姿です。そして何より、キリストご自身がその先頭に立ち、私たちを導いておられます。主にあって、私たちは一つの体とされ、場所や立場を越えて結ばれているのです。
「どうか希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって…」パウロはローマ教会のユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者に、キリストがそうであったように互いに受け入れ合うように勧めました。同じ日本人同士でも、十人十色、考えや思いは様々です。でも、たとえ違ったところはあっても、同じ神を信じる者として受け入れ合うことができたら幸いです。関西宣教区の運営委員会は今日も和やかな会議でした。
4月第二主日、昨夜の雨も上がり、さわやかな風が吹く春の一日でした。イースターの喜びを覚えつつ、礼拝を献げました。聖餐式の恵みにあずかり、Ⅰコリント15章12節から『復活がもたらす希望』と題してメッセージが語られました。「もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえられなかったでしょう。…しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」死者の復活…それはいつの時代もそう易々と信じられない出来事です。それは、約2000年前のコリントの教会も同じでした。パウロはその問いに対して、曖昧にせずにはっきりと福音を語ります。なぜなら、復活こそがキリスト教の土台、本質であるからです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされる、キリストが初穂としてよみがえられたように、キリストに属している者たちも必ずよみがえるという宣言。ここに私たちの希望があります。ただそれは、どんなに言葉で説明しても、頭で理解しようとする方はなかなか受けとめきれないでしょう。でも、信仰をもって受けとめていくなら、やがてそれは確信へと変わっていくのです。
ハートフル英会話春期コースがスタートしました。新しい講師を迎えての最初のクラス。どちらも様々な教育機関で講師をされていたので、教えることが上手です。大人クラスも充実した内容で、キッズクラスもとても楽しそうで、あっという間の50分でした。英語をじっくり学びたい方にも、楽しく学びたい方にもお薦めします。大人も子どももクラスにはもう少し空きがありますので、ぜひ受講をお考えの方は、まずは無料体験クラスをお申込みください。
4月第二水曜祈祷会、温かな春の日差しに感謝です。ローマ11章11~24節から。パウロは異邦人の使徒として召されましたが、その心にはいつも同胞のユダヤ人たちの救いがありました。今は救いから遠く離れているように思えても、「神は再び接ぎ木することがおできになるのです」と記します。信仰は押し付けるものではなく、その豊かさを分かち合いながら一緒に歩めるといいですね。救いは主のものです。神がそこで働いてくださることを信頼して…。
私事ですが、仏教の家庭で生まれ育ち、聖書を読んだこともなければ、教会にも一度も行ったことがなく、25歳まできました。仕事先で知り合ったあるクリスチャンに声をかけてもらって教会に行きました。初めて礼拝に出席した日のことは未だに覚えていますが、緊張してメッセージの内容は何も覚えていません。ただ帰り際に玄関で見かけたひとつの御言葉(Matthew11:28)が心に残りました。神さまが呼んでくださっているなら、また来てみようと思って…あっという間に29年が経ちました。「主の御名を呼び求める者はみな救われる。」何も知らない者を、よちよち歩きから、紆余曲折の信仰生活でしたが、主が忍耐してここまで導いてくださいました。今日も御言葉に聞いて歩めることを感謝いたします。
四月第一主日、今年も桜の満開の時期にイースターを迎えました。礼拝メッセージはⅠコリント15章から。イエス・キリストは死からよみがえり、今も生きておられます。キリストが十字架にかかられて死なれたことは受け入れられても、死からよみがえられたことはどうしても理解できないという方は少なくありません。それほど復活というのは信じ難い事柄です。それは、今に始まったことではなく、およそ2000年前も同じでした。だからこそパウロは、この手紙で力を込めてこう語ります。「最も大切なこととして伝えたのは…次のことです。」福音は私たちが救いにあずかる手段です。その福音の中心にあるのが復活。そして、もしこの「復活」がなければ、そもそもキリスト教は成立しません。パウロは、復活の主がペテロ、ヤコブ、十二弟子、そのほか多くの弟子たちに現れてくださったように、こんな自分にも現れてくださったことを証言します。そして、もともとクリスチャンを迫害していたような自分が、救いにあずかり、使徒として召され、たくさんの働きを許されたのは神の恵みであると語るのです。この同じ恵みが今も私たちに注がれていることを感謝いたします。
教会のデボーションはローマ12章から。パウロはここまで信仰義認について、また、神の選びの教理から神の主権について語ってきました。そして12章から救われた者にふさわしい歩みについて語っていきます。まず第一に挙げるのが、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。」です。ここに礼拝の本質が表されています。聖霊により頼みながら造り変えられていきたいと思います。今朝はマラソンの応援に、長居まで。
4月第一水曜日、箕面の桜もほぼ満開の時期を迎えましたが、今日は一日小雨日和。午前の水曜祈祷会はお休みして、キリスト教葬儀専門のライフワークス社の新年度礼拝で奨励をさせて頂きました。葬儀は、召天者にとっては地上における最後の証し、遺族にとっては天国の希望を覚える時です。人生の最も大切な時間を支える大切な仕事です。大阪の一牧師として、日ごろのお働きに感謝をお伝えするとともに、さらなる発展をお祈りさせて頂きました。
3月第五主日、今日は歓迎礼拝として大和郡山めぐみ教会の正村献三牧師をお迎えして、ルカ7章11ー17節からメッセージを取り次いでいただきました。イエスさまは、一人息子を亡くした母親を見て深くあわれみ「泣かなくてもよい」と言われました。「あわれみ」とは、はらわたが震えるほどの思いを指します。それは、遠くから眺めているような思いではなく、その人の心に入っていき、その立場に立ち、もはや行動せずにはいられないという思いです。そして主は、その子の棺に触れて「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」と命じました。すると死人が起き上がって、ものを言い始めたというのです。主はまさにご自分が父なる神から遣わされた救い主であることをお示しになられたのです。イエスさまも十字架にかかり死んでしまいます。でも、この方は死に打ち勝たれ、よみがえられたのです。正村先生はここを読むと、自分のお兄さんを召された時のお母さまの顔が思い浮かぶとお証ししてくださいました。福音讃美歌386『主にまかせよ、なが身を、主はたすけまさん。忍びて春を待て。雪はとけて、花は咲かん。』イエスさまこそ神の愛の現れ、私たちの希望なのです。
春の中高生キャンプが無事終わりました。二泊三日で開催するのは二年ぶりでした。講師の玉垣牧師が放蕩息子のところから、わかりやすくメッセージを語ってくださいました。私は責任者の一人として見学のつもりで行ったのですが、そのままカウンセラーとなり、中高生たちと夜遅くまで…。寝不足と体のあちこちの痛みでフラフラでしたが、なんとか無事に帰ってきました。主の臨在の中で中高生たちのパワーを受けて、恵みいっぱいのキャンプでした。
3月第四水曜祈祷会、今日は冷たい小雨の降る一日でした。このところ暖かいお天気が続いていたので、余計に肌寒く感じました。デボーションはローマ6章から。パウロは聖化の歩みについて記しているところ。人間は自由なように見えて、必ずに何かに支配されている。罪の奴隷か、神の奴隷です。奴隷という言葉は少し違和感がありますが…。救いはイエスさまを信じて終わりではなく、そこから始まり、必ず完成へと至る。それは聖霊なる神の働きです。
3月第四主日、今日も穏やかな天気のもと礼拝が献げられました。メッセージはマタイ27章からイエスさまが十字架上で叫ばれた「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになられたのですか。」を中心に聞きました。一見すると、これは絶望の叫びとも思える言葉ですが、著者マタイはあえてヘブル語とアラム語の原語で記し、さらにその意味まで追記しました。一人でも多くの人にその言葉の真意を伝えたかったのでしょう。それが重要な言葉だったからであり、特にイエスさまの贖いの本質を伝える言葉であったからです。イエスさまはここで「わが父」と呼ばれていたのに、ここだけは「わが神」と呼ばれました。それはイエスさまが罪人の立場に立たれたことを意味していました。そして、それは本来、罪人である私たちが発する言葉でした。イエスさまが見捨てられたのは、私たちが見捨てられないためです。イエスさまが裁かれたのは、私たちが赦されるためです。イエスさまが死なれたのは、私たちが生きるためです。十字架は私たちにとってもはや恐怖や裁きのしるしではなく、神の愛と希望のしるしとなったのです。あらためて十字架の意義を心に覚えました。
第77回教団総会がありました。昨年の恵みを振り返り、新たな年度の計画を確認しました。また休職・移動・退職される先生方、新しく補教師・正教師・加入教師となられる先生方を覚え、最後の派遣礼拝では現理事長からメッセージがありました。宣教困難と言われる時代ですが、「私はなんとかして…幾人かでも救いたいのです」というパウロの熱い思いをもって、私も今立っているここからもう一歩先に踏み出していく者でありたいと思わされました。
3月第三主日、今日も外は冷たい風が吹いていましたが、確かに春の訪れを感じる日射しが教会に差し込んで来ていました。豊川教会の高田さをり牧師をお迎えして、マルコの福音書14章からメッセージを取りついで頂きました。ゲッセマネの祈りの箇所から、人として、苦しみ祈られたイエスさまのお姿を心に覚えました。イエスさまが弟子たちに「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。…目を覚ましていなさい。…祈っていなさい」と言われたのは、死がどれほど恐ろしいものか、父なる神と断絶することがどれほど辛いことかを知っている方の言葉でした。でも、イエスさまは私たちの救いのために、父なる神の御心に従われたのです。私もこの同じ聖書個所から、子ども礼拝でメッセージをしました。最初はにぎやかだった子どもたちも、ゲッセマネのイエスさまの祈りの姿を思い浮かべると、神妙な顔になり、真剣に話しを聞いてくれました。今日はアメリカからマイク&ジュデイ宣教師夫妻、また新しい講師のドレイクも来てくださって、実に盛り沢山の恵みに溢れる賛美礼拝となりました。イエスさまの受難の歩みを覚えつつ、復活の喜びの日を待ち望みます。
今日はハートフル英会話冬期コースの最終クラスでした。8年間、講師として来てくださったレイチェルがオーストラリアへ帰国です。毎回楽しいクラスをありがとうございました。毎週会えなくなるのは淋しいですが、きっとまた世界のどこかでお会いできるような気がします。春は出会いと別れのシーズンですね。4月からは新しくリアナさんとドレイクさんが来られます。お二人とも経験豊かな講師。無料体験クラスも受付開始です。ぜひお電話ください。
3月第二水曜祈祷会、民数記36章から。約束の地カナンを目前に、主はイスラエルの民に相続地を持つ女性の結婚について命じられました。「自分たちの相続地を堅く守らなければならない」この言葉が繰り返されているのが印象的でした。あらためて新約における相続地とは何かを思います。「あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださる」地上の生涯は悲喜こもごもですが、キリストがともに歩んでくださるほど幸いなものはありません。
3月第二主日、今日は冷たい風が吹く一日でしたが、いつものように多くの方が礼拝を献げに来られました。礼拝メッセージはマタイ9章9ー13節、イエスさまが収税所に座っていたマタイに「わたしについて来なさい」とお命じになられたところからでした。取税人としてローマ政府に雇われ、同胞のユダヤ人からは高い税金を取って私腹を肥やしていたマタイは何不自由ない生活をしていたでしょう。ただお金はあっても、孤独を感じていたかもしれません。そんなマタイにイエスさまは目を留められて声をかけられたのです。マタイはイエスさまにあなたが必要なのだと言われて嬉しかったでしょう。「すると彼は立ち上がって従った」この短い一文に彼の大きな決断が示されています。ここを記しながら、マタイは自分の召命の原点を思い出していたのではないでしょうか。私たちもみな、それぞれ道は違いますが、イエスさまに招かれて信仰の道を歩み出しました。一人ひとりに不思議な出会いがあり、素敵なドラマがあります。イエスさまは今も生きておられ、あなたの心の扉をたたいておられるのかもしれません。あなたもイエスさまとともに新しい人生を歩み出しませんか。
民数記33章、神はイスラエルの民が約束の地カナンの地に入る直前、最後の命令と警告を与えられました。それはその地の住民を追い払い、彼らの偶像や祭壇を取り除くことでした。「すべて」という言葉が繰り返されていることに、神の熱意を感じます。今日、偶像は単に目で見えるものだけではないでしょう。知らず知らずの内に神のように頼りにしてしまうもの…。取り返しのつかなくなる前に、そこから離れなさいと言われているのではないでしょうか。
2月28日、アメリカとイスラエルによるイラン攻撃が始まりました。すでにイランの最高指導者ハメネイ師を殺害、イランの死者は700人以上に…。トランプ大統領はこの軍事作戦を10点満点中の15点と自賛しました。今日の祈祷会では民数記32章から、自分の言動が隣人にどんな影響を与えるかを考えながら、人為の愚かさを思いました。What would Jesus do ?ピリピ2:6~11、キリストの心を我が心とすることを願いつつ、今後の世界情勢を覚えて祈りました。
3月第一主日、大阪の気温は18度。今日は朝から青空も広がり春らしくなってきました。礼拝メッセージはマタイ8章23節~。弟子たちはイエスさまの招きに従ってガリラヤ湖に舟をこぎ出すと、突然の大暴風に襲われました。弟子たちにとっては予想外の出来事でも、イエスさまにとっては想定外ではありませんでした。湖の地形、吹きおろしの風、そこで怖じ惑う弟子たち、それらを予めご存知だったのです。「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」少なくても元漁師が4人は乗っていたはずなのに、彼らの経験や知識は役に立たず、恐れに支配されていました。イエスさまはそんな彼らの叫びを聞いて、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たち」と言われ、嵐を静められたのです。弟子たちはそこであらためて、風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうかと…。まるで読者の私たちに問いかけるような言葉でした。私たちも嵐が静まらないと感じる時、祈ってもすぐに答えが見えない時、主が眠っておられるように思える時こそ、この約束を思い起こしたいものです。キリストは今も私たちの人生という舟に乗っておられることを。
2月最後の木曜日、ハートフル英会話冬期コースも終盤になってきました。今日はチャペルタイムがあり、レイチェルがルカ15章からMessageしてくださいました。人はみな、神を知らずに生まれきて、言わば神との関係が失われた者として人生を歩んでいました。でも、ある時に神の呼びかけを聞き、神を知る者に、そして、神を信じる者になったのです。それは、私たちの喜び以上に、神によってどれほど大きな喜びであるかをお話してくださいました。
2月第四水曜祈祷会、民数記28章から。イスラエルの民が荒野の40年の旅を終えて約束の地に入る時、神はモーセを通してささげ物に関する規定を告げられました。常供の全焼のささげ物に始まり、安息日、月の最初の日ごとにささげる物は驚く数です。しかもそれを主への芳ばしい香りとして、傷のない物でなければならないとのこと。それは民の心を縛り、労苦を負わせるためのものではなく、彼らが約束の地で信仰に生きる為の大事な指針となったのです。
2月第四主日、コートも要らないような温かな朝、春の足音がはっきり聞こえてくるような一日でした。今日も大勢の方がともに集い、創造主なる神に礼拝を献げました。礼拝メッセージはマタイ8章1~4節、ツァラアトに冒された人がイエスさまのみもとに来て、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」と言った場面からでした。ツァラアト…それは「汚れ」を意味する言葉で、旧約の律法では最も悲劇的な病の一つです。彼は大勢の人が集まっている中で、人前に出て来てはならないという禁制を破ってまで、イエスさまのもとに出てきました。この時、この方しかいないという思いが、彼の心を突き動かしたのです。イエスさまはそんな彼を深く憐れんで、自分から手を伸ばし、彼の手を優しくつかまれました。まるで彼の汚れを自分が引き受け、自分のきよさが彼に広がるように。「わたしの心だ。きよくなれ。」彼のツァラアトはすぐにきよめられ、人としての尊厳を取り戻し、新しい人生へと踏み出していきました。そんな彼の歩みは、言葉で言わずとも、まことの神を証しすることとなったでしょう。こうして主の御心はさらに先へと続いていくのです。
今日は聖山教会から12名の青年たちと茨木聖書教会から5名の青年たちが訪問してくれました。短い時間でしたが、韓国の教会事情も聴けたり、箕面の教会の歴史を証しできたり、とても良い時間でした。韓国は総人口の三割がクリスチャンと言われていますが、教会の高齢化、若者層の教会離れが進んでいるとのこと。今回来てくれた青年たちはみな、信仰に熱く、魅力的でした。ぜひ箕面の教会からも彼らのような青年たちが起こされるようにと祈りました。
2月第三水曜祈祷会、民数記23章から。カナンを目前に、モアブの王バラクが占い師バランを使ってイスラエルに呪いをかけようとしていました。主はそんなバランを用いて、イスラエルに呪いではなく、祝福を告げられたのです。神の祝福は揺るがない。なぜなら主の愛とご計画は何をもってしても変えることはできないからです。また、今日も神の民にはまじないも占いも必要ありません。神が何をなさるかは時に応じて語られるからです(申命記18:10ー12)。
2月第三主日、今日は春の訪れを感じるような温かな一日となりました。教会の年間テーマソングが完成し、今日の礼拝で初めてみんなで賛美しました。礼拝メッセージは年間聖句マタイ7章7、8節から『求め、探し、たたき続ける教会ーAsk,seek,knockー』。有名な聖書の御言葉ですが、あらためてその一つ一つの意義深さを覚えながら、祈り心を新たにしました。「求めなさい」は、祈りの入口、信仰の出発点です。自分が神に造られ、その恵みによって生かされていることを認め、神に向かって心を開くことです。「探しなさい」は、神をより深く知ろうとする信仰の姿勢。私たちの求めの最善の答えが神の御心の内にあるからです。「たたきなさい」は、神に大胆に近づく信仰の姿勢。そこで迎えてくれる方がいると信じるからこそできることです。神は、単に結果だけを与えられる方ではなく、私たちをご自身との交わりに生かしたいと願っておられます。ですから『祈り』は、神の御旨を無視して、自分の思いを押し通すことではありません。むしろ、私たちが大胆に神に近づき、神とつながる恵みの道、また、神のみわざに参与し、そのご計画の中に招き入れられていくことなのです。
2月第二主日、朝から小雪が舞って箕面も2cmほど積もりました。そんな中、今日も大勢の方が礼拝を献げに来られました。礼拝メッセージはマタイ6章11~13節、『主の祈り』の後半から。「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」日ごとの糧とは、食べ物、飲み物、住まい、健康、働きなど、その日一日に必要なすべての恵みを指します。私たちは時に、自分の努力で生きていると思いがちです。でも、働く体も、考える力も、その機会も、すべて神の賜物です。神の支えなしには、私たちは一日たりとも生きることはできません。イエスさまは明日のことまで思い煩わないでいいと言われました。それは、神が与えてくださる一日一日の恵みに信頼して歩むようにという招きでもあるのです。「私たちの負い目をお赦しください」とは自分の罪の赦しだけでなく、あの人の罪も赦してくださいという願いも含まれています。「私たちを試みにあわせないで悪からお救いください」とは、私は強いという宣言ではなく、私は弱いという信仰の告白でもあります。イエスさまが「私の」ではなく、「私たちの」と言われたことも大切です。共同体として祈れることを感謝いたします。
2月第一水曜祈祷会、民数記14章から。イスラエルの民は約束の地を目前で神につぶやき、荒野での40年の生活を余儀なくされました。主の約束を信頼して進もうとしたヨシュアとカレブ、一方で、目の前の問題にとらわれ後ずさりを選んだ10人の族長たち。その結果はあまりにも厳しいものでした。「それが書かれたのは、世の終わりに臨んで望んでいる私たちの教訓とするため」の言葉が心に浮かびます。聖書は単なる昔話ではなく、実際的な主の教えです。
2月第一主日、一年で最も寒い時期となる日曜日、今日も大勢の方が礼拝に来られました。礼拝メッセージはマタイ6章から『神を第一とする祈り』というテーマでみことばを心に留めました。ここはイエスさまが弟子たちに祈りの型だけでなく、その方向性を教えられた、いわゆる『主の祈り』と呼ばれる箇所です。その前半から3つの祈りについて学びました。イエスさまはまず、自分のことを口にする前に、神の御名が聖なるものとされますように、御国が来ますように、御心が行われますように祈りなさいと教えられました。とかく私たちも神の名を口にしながら、すぐに自分のお願い事を並べてお祈りしていないでしょうか。出エジプト記で、モーセが燃える柴の前に立った時、神は「あなたの履き物を脱ぎなさい」と言われました。それは、そこは自分が支配する場所ではなく、神が王として臨在される場所であると認める行為です。私たちも祈りの度毎に心の履き物を脱いで、『神よ、あなたこそ主です』という祈り心をもって祈りたいものです。主の祈りは、神を動かす手段ではなく、復活の主が私たちを父なる神との交わりへと導くために与えてくださった賜物なのです。
近くに住むあるご婦人が、お菓子の差し入れを持ってきてくださいました。教会に来られているだれか親切な方にお世話になったとのこと。近隣の方にここに教会があってくれてよかったと思ってもらえたらこれ以上に嬉しいことはありません。教会なんてあっても何の役にも立たない…と思っていた30年前の自分にも伝えてあげたいです。私たちの教会は災害発生時には緊急避難場所にもなります。近隣にお住まいの方は是非一度、教会をお訪ねください。
1月第四主日、今日は朝から時折小雪が舞う寒い一日でした。それでも教会には大勢の方が来られ、ともに主なる神を賛美し、心からの礼拝を献げました。グッド・サマリタン・チャーチの金子道仁牧師をお迎えしてメッセージを語って頂きました。ヨハネ12:27ー28から、生きがいや天職について教えていただきました。メッセージの詳細はぜひYouTubeをご視聴ください。金子牧師は教会の牧師であるとともに、2022年の参議院議員選挙で初当選して以来、今年4年目を迎え、今は兵庫維新の会の代表にもなられました。私自身は15年前に超教派の子どもミニストリーで初めて金子先生と知り合いましたが、立場が変わっても、変わらない謙遜な姿勢に励まされました。4年前の選挙の時は、FacebookやSNS等で、なぜ牧師が国政に…しかも維新の会から…と疑問を投げかける方もいましたが、金子先生自身の一途でぶれない歩みがそうした疑問を一つ一つ払拭してきたように思います。午後も時間いっぱいまで分かち合いに参加してくださり、『これからが大事、お祈りください』と帰って行かれました。ぜひ金子道仁師、チェックしてみてください。https://www.kanekomichihito.jp/
「この神のことばは、信じているあなたがたの内に働いています。」教会は不思議なところです。奥さまの送り迎えで教会に来られていたご主人。僕は絶対に信者にはなりません…と仰っていましたが、奥さまの召天後も教会に通い続けてくださいました。85歳の時、受洗を決心。教会のみんなが驚きました。一緒に聖書の学びをした日が懐かしいです。今日、奥さまが待っておられる天国へ旅立って行かれました。素晴らしい証しをありがとうございました。
クリスチャンにとっての希望は何と言っても天国の希望があることです。地上の生涯はどんなに幸不幸あってもやがて誰もが終わりの日を迎えます。その日を平安に迎える備えは生きている内にしかできません。教会で91歳の信徒の方が召されました。お医者さんが『大往生でしたね』とご家族に話していましたが…聞いていて違和感を感じました。慰めの言葉だったのかもしれませんが…どうなのかなと。今はただ、主の慰めがご家族にあるように祈ります。
1月第三主日、初春を思わせるような温かな一日、大勢の方が教会に来られ、礼拝が献げられました。礼拝メッセージはマタイ4章25節から。ガリラヤ湖のほとりを歩いていたイエスさまは、漁師だったペテロたちに目を留められ、「わたしについてきなさい。人間を取る漁師にしてあげよう。」と声をかけられました。「ついてきなさい」とは、単に教えを聞くために来なさいというのではなく、人生をゆだね、わたしとともに生きよという招きでした。するとペテロたちは迷うことなく、すぐに網も船も捨ててイエスさまに従っていきました。彼らは、軽い気持ちで衝動的に従っていったのではありません。もともとバプテスマのヨハネの弟子だった彼らは、以前からイエスさまのことを聞いていたのでしょう。イエスさまもそれを知っていたので強い言葉で招かれたのです。人間を取る漁師…それは人々をイエスさまのもとに導く役割です。「してあげよう」とあるように、彼らを弟子として整え、用い、成長させるのはイエスさまご自身です。2000年の時を超えて、今もイエスさまは私たち一人ひとりを招いておられます。聖霊の助けを頂いて、私たちも応答しようではありませんか。
1月第二水曜祈祷会。民数記7章から、幕屋を設営し終えた日、イスラエルの十二部族の族長たちは一人ずつ十二日間ささげ物をもってきました。その光景を思い浮かべると、なんと厳かで、体系の整った礼拝だったことかと思います。モーセも二つのケルビムの間から語られる御声を心して聴き、民に語ったことでしょう。今の時代は病室や自宅からも心をあわせて礼拝を献げられる時代。便利さの中での誘惑はあるものの、主の憐れみを感謝いたします。
2026年の宣教区新年聖会がありました。今年の教会紹介では私たちの教会も出させて頂いて、有志でテーマソングを賛美しました。大勢の兄弟姉妹と一緒に賛美できて本当に感謝でした。メッセージは山本陽一郎牧師が『人生の使い道』というテーマで取り次いでくれました。小さな者を顧みてくださる主に期待して歩んで行きたいと思います。午後からは宣教区会議。昨年の恵みを振り返り、新たな一年の展望を確認し、宣教区もまた新たに歩み出します。
1月第二主日、澄み切った青空の朝、いつものように主なる神に礼拝を献げました。聖書のメッセージはマタイの福音書4章1~11節。ヨハネからバプテスマを受けられたイエスさまに、天から祝福の声が響き、いよいよ華々しい公生涯の始まりでした。ところが、この後、御霊に導かれて向かわれたのは祝福の場ではなく「荒野」でした。しかもその目的は悪魔の試みを受けるためでした。神の御心の中を歩んでいても、「試み」がなくなるわけではありません。むしろ、信仰の歩みの中でこそ、試みは現実のものとして迫ってくるのです。悪魔は四十日四十夜の断食後のイエスさまに近づき囁きます。「あなたが神の子なら、これらの石をパンになるように命じなさい。」まるでイエスさまの体を気遣うかのように誘惑してきました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる。」イエスさまは聖書の言葉をもって答えられ、見事誘惑に勝利されました。この聖書の箇所は、だれもが試みにあうこと、そこで悪魔は同じように神から引き離そうとすることを教えています。新しい年の始まりに、私たちの信仰の軸を確認するとても大切なメッセージでした。
今週から水曜祈祷会が再開しました。今年は民数記から読んでいきます。神の民としていかに神に仕えていくか、少し難解な箇所ですが、御霊の助けを頂いて心に留めていきたいと思います。午後はご家庭訪問。また、昨日からハートフル英会話教室も開講しました。レイチェル先生の授業が受けられるのもこの冬期コースまでとなります。大人クラスも子どもクラスも明るく楽しいクラスです。英語にご興味のある方は教会までぜひお問い合わせください。
クリスマス劇でも有名なトルストイの『靴屋のマルチン』妻と子を失い、神に不平ばかりを言っていたマルチンのもとに、ある老人が訪れ、聖書を読むように勧めます。そこから彼は不思議な出会いを通して、思いがけない形で神に出会っていきました。「これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者の一人にしたことは、わたしにしたのです。」今日、洗礼を受けられた兄弟が、この言葉に深く心打たれたと仰っていました。神の導きを感謝いたします。
1月第一主日、今日も穏やかな朝の始まりに新年礼拝を献げました。礼拝メッセージはマタイ3章から。神は長い沈黙を破り、旧約最後の預言者としてバプテスマのヨハネを遣わされました。彼の使命は、人々に救い主の到来を告げ知らせ、荒野で「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。」と叫ぶことでした。彼はこの言葉を異邦人に向けてではなく、同胞のユダヤ人に向けて語りました。それは、自分たちが神に選ばれた民族だという特権に甘んじる生活を根本から改めて、メシアを迎え入れる心備えをしなさいという招きでした。私たちも新しい年の初めに、ヨハネの叫びを真摯に受けとめたいと思います。そして、信仰生活とは絶えずこの方向修正を繰り返しながら、神のもとに立ち返り続ける歩みであることを思いました。2026年が始まって最初の主の日を迎え、初めて来てくださった方、久しぶりに顔を合わせる方々もいてとても感謝でした。明日から学校や仕事がはじまる方もいるようです。世界情勢も不穏な動きがありますが、ともに主の通られる道を信頼して歩んで行きましょう。今年も宜しくお願い致します。
2026年の元旦礼拝を献げました。マタイ2章13節~、幼子のエジプト逃避、ヘロデによる幼児虐殺、ナザレへの移住。いずれもヨセフ家族によっては突然の知らせ。祝福の直後に思いも寄らない危機が訪れる。でも、聖書は、神は私たちの行く道を示されること、すべてを知っておられること、神の御旨だけが必ず成就することを教えています。何があろうと、神が先立っておられる道。今年一年、私たちはこの信仰に立って歩んで行きたいと思います。
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