教会にどんなイメージをお持ちですか?厳かに礼拝を捧げるところ、敬虔なクリスチャンが集まるところ、お年寄りが多い、堅苦しい話しを聞かされるところ、信仰を勧められるところ…など、確かにそういう面もありますが、実際に行ってみると、思ったより敷居も高くなく、堅苦しい決まりもなく、洗礼を受けていなくても老若男女だれもがリラックスして過ごせるところです。このブログはMGBCの日々の様子やデボーションの分かち合いなどを牧師の備忘録日記で紹介しています(写真などの転載はご遠慮ください)。
クリスチャンはみな神の家族ですから、互いのことを『兄弟』『姉妹』と呼び合います。今朝出かける間際に教会のある兄弟の召天の連絡がありました。今年1月に緊急搬送され、その後もコロナ禍もあってご家族も面会に行けず、心身ともに苦しい状態が続きました。でも、教会でお祈りしていることを伝えると、『皆さまの心温まる励まし、そして力強いお祈りに感謝いたします…また、礼拝でお会いできるのを楽しみにしています。』とLINEで返事をくださいました。昨夜私も病院に寄せてもらった時にはいろいろ数値は下がってきていましたが、顔色もよく、お祈りにも『アーメン』と反応してくださいました。礼拝と祈祷会を大事にしてくださって、本当に優しい方でした。お世話になりましたと最後にご挨拶ができて…主の憐れみでした。大好きなご家族に見守られて、眠るように天に召されていったそうです。ご遺族の上に、主の慰めと平安をお祈り頂けましたら幸いです。
3月21‐22日、スカイツリーを横目に見ながら(WBCの結果が気になりながら)第74回教団総会が行われました。開会礼拝では朝岡理事長がイザヤ書55章8‐13節からメッセージを取り次がれ、あらためて昨年の歩みを振り返り、コロナ禍の中で各教会も困難な状況を歩んだことを思いました。ただ、そうした中でも数字には表れない多くの恵みもあり、新たに按手を受ける先生方がいて、新たに加入する教会や新たにスタートする開拓教会もありました。久しぶりに会う同労の先生方からも励ましと慰めを受け、新年度に向けて気持ちも新たに歩み出せそうです。私自身は23日の新任教師派遣前研修にも出席し、最初の礼拝でメッセージを取り次いで、ソメイヨシノが満開の東京を後にしました。今回は気分転換も兼ねて妻と一緒に車で行ったので、帰りはちょっと疲れましたが…無事に帰阪しました。さあ、明日からは一泊で中高生キャンプ。お天気が心配ですが、祝福をお祈りください。
3月第三主日、春風を感じる一日でした。礼拝では最後の晩餐における洗足の記事からみことばを心に留めました。イエスさまは夕食の席から突如として立ち上がり上着を脱いで、自ら手拭いやたらいの水を準備して弟子たちの足を洗われました。その姿には弟子たちもさぞかし驚いたでしょう。自分たちの中で誰が偉いかを争っていた彼らの中にはその役を引き受ける者がいなかったからです。ペテロは思わず、とんでもない!と辞退しました。でも、その行為こそが罪の聖めと赦しを象徴していたのです。「わたしがしていることは今はわからなくても、後で分かるようになります。」私たちの人生はすぐにわかるものとすぐにわからないものの二種類があります。イエスさまに足を洗って頂くのは、この方を信頼してその身を任せることです。ユダの足も洗われたイエスさまは私たちの足も洗ってくださいます。そして、今はわからなくても、その意味は後で分かると言われるのです。
今日はハートフル英会話冬期コースの最後のクラスでした。春休みが近いからでしょうか💦キッズクラスも大盛り上がりでした。今日のチャペルタイムでは、ルカ18章15‐18節を読みました。子どものように神の国を受け入れるとはどういうことでしょうか。実は最初に出てくる「幼子」とは「乳飲み子」を指す言葉です。つまり、イエスさまは赤ちゃんのように神の国を受け入れることを求めておられるというのです。近ごろ、私たちの教会も赤ちゃんを抱いて礼拝に来るご家族が増えました。本当に感謝です。もう何をしてもかわいいなあと思います。ただ寝てるだけでも、お腹が空いて大声で泣いていても、何をしても誰にも怒られるわけではありません。大人のように立派なことはできなくても、自分の身を安心してゆだねている…。ルカが記すのは、まさにそういう赤ちゃんです。そこにいるだけで喜んで受け入れてくださるイエスさまの愛に身をゆだねようではありませんか。
3月第三水曜祈祷会、朝はマルコ9章23‐24節、夜はルカ11章5-13節からみことばを心に留めました。父親は息子の病の癒しを求めてイエスさまのもとに来ましたが、イエスさまの問いかけに「おできになるなら、私たちをあわれんでください。」と答えました。幼い頃から苦しんでいる息子の姿を見て、癒される望みも失いかけていたのでしょう。イエスさまはそんな父親に向かって「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と告げられると、彼はすぐに「信じます。不信仰な私をお助けください。」と叫びました。彼は自らの不信仰を率直に認め、改めてイエスさまに対する絶対の信頼を告白したのです。また、真夜中に友人の家にパンを三つ借りに行った人の譬え話からも、粘り強く祈ること、確信をもって祈ること、神は聖霊を与えてくださることを学びました。主はどんなことでもおできになる、私たちもこの信仰に立って祈りましょう。
教会のデボーションはマルコ9章に入りました。「イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。」有名な変貌山の記述。そこでイエスさまはご自身の栄光を現され、預言者の代表であるエリヤと律法を代表するモーセとともに語り合っていました。なんとも神々しい光景を見てペテロは何を言ったら良いのかわからなくなったとあります。「山を下りながら、イエスは弟子たちに人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことをだれにも話してはならない、と命じられた。」今度は山の下り道で、イエスさまはご自身の十字架と復活について改めて弟子たちに話されました。彼らはこのことばを胸に納め…とあるようにその時はわからないながらも覚えていたのでしょう。そして十字架と復活の後、彼らもすべてを理解していったのです。私たちの人生も山あり谷あり、すべての営みに時があることを思います。
3月第二主日、春めいた温かなお天気でした。礼拝では受難週(passion week)に注目し、イエスさまの十字架への道を辿ります。今日はヨハネ12章からマリアが高価なナルドの香油をイエスさまの足に注ぎ、髪で拭ったところを読みました。マリアはイエスさまの元でいつも御言葉に聴き入っていたからこそ、これが一緒に過ごす最後の時だと感じ、自分にできる精一杯の愛を現しました。それを見たユダは「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と不満をもらしたのです。イエスさまはそんなユダが金入れからお金を盗んでいることも全部ご存知でした。そして、マリアはわたしのために葬りの備えをしてくれたのだと言ったのです。イエスさまは十字架を前に、このマリアの愛の行為にどれだけ慰められたことでしょう。私たちも、いつでもできることと、この時を逃したらもはやどんなに欲してもできないことを見極めて行動したいものです。
東日本大震災から12年が経ちました。時の流れを感じますが、あらためて被災地の復興と被災者の方々の心のケアのために祈りたいと思います。今日から教会のデボーションはマルコ8章に入りました。七つのパンとわずかな小魚で4千人の人々のお腹を満たした記事。弟子たちの不信仰ぶりが目立ちますが、きっとこのような信仰の訓練を何度も経験したのでしょう。その度にイエスさまは弟子たちにご自身の力をお示しになり、彼らの信仰を励まされたのです。私たちもイエスさまの御力をどこまで信じているでしょうか。『イエスさまは私の祈りを聞いてくださらない。なぜでしょう。』とよく質問されますが、イエスさまは「いつでも祈るべきで、失望してはいけない。」と告げられました。イエスさまを信じることは、ジグソーパズルの完成図を知らずに作っていくことに似ているかもしれません。コツコツと繋げる時間と忍耐が必要ですが、主は必ず完成させてくださるのです。
「偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。」安倍元首相襲撃事件と旧統一教会の問題から、今も大学生を中心に活動を続ける摂理、指導者が再誕したイエスを自称する新天地イエス教、大川総裁が急死した幸福の科学、最近ではエホバの証人の二世の方たちも声を上げ始めています。もちろん、TVのニュースやワイドショーの情報をすべて真に受ける方は少ないと思いますが、キリスト教の一団…と言われることはやはり残念です。『聖書』と言っても全部が同じではなく、勝手な翻訳をしているものもあるからです。私たちの教会には、元摂理にいた方や元エホバの証人にいた方たちもいますが、過去の自分を回顧しつつ、心を痛めつつ、また、友人たちのことも思い返しながら…一歩ずつ前に歩こうとしています。春は大学をはじめ様々な宗教の勧誘が活発になる時期です。どうかお気をつけください。
3月第二水曜祈祷会、詩篇12篇から御言葉を心に留めました。「主よ、お救いください」というダビデの切なる祈りから始まります。ダビデの周りからは神を恐れる者たちがいなくなり、互いに空しいことを話し、へつらいの唇と二心で話すような者たちがいました。でも、主は言われます。「わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」主のことばは、混じり気のないことば。土の炉で七度試され、純化された銀。不純物ばかりの人間の言葉に対して、純化された神の言葉の確かさを思いました。夜はルカ7:36~一人の罪深い女が自分の涙でイエスの足を洗い、その足に口づけして香油を塗った箇所を読みました。彼女は自分のような罪深い女を受け入れてくださった主にできる限りの感謝を表したのです。「…あなたの信仰があなたを救ったのです。」ルカ伝に4回も繰り返される重要な言葉。ここでイエスさまが「行いが」と言われなかったのが、私たちにとって重要なことです。
教会のデボーションは詩篇11篇から。「主に私は身を避ける。」ダビデがサウル王に命を狙われ、逃亡生活を余儀なくされていた時を思い描きます。友人たちは鳥のように自分の山に飛んで行け(逃げるしかない)と助言しますが、ダビデの心は主に向いていました。その根拠は4節からの神への信仰告白に表されています。主は聖なる宮から、私たち人間をよくご覧になり、正しい者を守り、悪者を罰せられる方です。ソドムとゴモラの滅亡の際にもアブラハムのとりなしの祈りによって、神は慎重に正しい者と悪者を判別され、裁きを下されました。親しい友人や同僚のこの世的な助言も、時に助けになりますが、自分にとって真の拠り所はどこにあるかを見失わないでいたいものです。「主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は御顔を仰ぎ見る。」それが信仰者の最終的な目標であり、力と平安の源です。主は必ずあなたを守られる。ダビデの揺るがない信仰に倣いたいものです。
3月第一主日、今日も温かな日射しが差し込む一日でした。礼拝はヨハネ11章から七つのしるしの最後となる『ラザロの生き返りの奇跡』を見ました。マルタとマリアは弟ラザロが病気で苦しんでいるので、すぐにイエスさまのもとに使いを送り、助けを求めました。でも、イエスさまはすぐに駆けつけることなく、その簡にラザロは死んでしまい、埋葬も終わっていたのです。マルタもマリアも最愛の弟を亡くし悲嘆にくれていました。そんな彼女たちにイエスさまは言われたのです。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」イエスさまはラザロの墓に案内されて、その石を取りのけなさいと命じました。もう臭くなっていましょう…と言うマルタに、イエスさまは言われます。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」こうして不信仰という石を取りのけたマルタはラザロの復活を見ることができたのです。
教会のデボーションは詩篇8篇から。著者は美しい夜空の星々を見て、偉大なる神を覚え、その神が私たちをこよなく愛してくださっていることに感動しています。人はみな、神に背を向けて生まれてきました。どんなにこの世で成果を上げても、その先にあるのは死の現実です。でも、イエスさまはその現実を打ち破って、彼を信じる者に永遠のいのちの道を約束してくださったのです。最近、二人の方から贈呈の本が送られてきました。一つはセカンドチャンス(死後にも救いのチャンスがある)に関する本、もう一つはクリスチャン自死遺族支援に関する本です。亡くなった人のことを考えるという点では共通するところもありましたが、全く違う感想を持ちました。残念ながら…セカンドチャンス論は人間の知る領域のことではないと思います。また、私が亡くなった父のためにできる親孝行は…とにかく精一杯生きること、自分が選んだ仕事をひたすら全うすることだと思いました。
以前、私たちの教会で奨励をしてくださった宣教師のご夫妻がいます。背の高いご主人が英語でスピーチをし、少し小柄な奥さまが日本語で通訳をしてくださるとても感じのよいご夫妻です。その時すでに奥さまはステージ4のガンを患っていましたが、そんな素振りも見せずに、朗らかな笑顔が素敵でした。ご主人は聖書からまっすぐに語ってくださり、多くのことを教えていただきました。そして、帰国後は…今度はご主人がステージ4のガンであることがわかったそうです。ご夫妻で抗がん剤治療が始まり、さぞかし大変な毎日なのでは…と思いますが、Emailが届いて、Many thanks for your encouragement and prayer! You put air under my wings.と書いてありました。大変な日々であることに変わりはないと思いますが、お二人の強い信仰を感じました。日本人を愛し、多くの福音を伝えてくださったご夫妻です。主の癒しと平安があるようにお祈り頂ければ幸いです。
3月第一水曜祈祷会、昨日に続いて温かな陽気となりました。朝は詩篇5篇から、夜はルカ14:25‐35から御言葉を心に留めました。詩篇の著者は空を打つような祈りではなく、はっきりと父なる神を意識した祈りをささげます。「私の王 私の神 私はあなたに祈っています。」朝ごとに神から与えられる新しい一日を感謝して始めていきたいものです。個人的な「私」の祈りが、「私たち」の祈りとなるように教えられる詩篇でした。また、夜は「自分の十字架を負って…わたしの弟子となることはできません」の言葉に心を探られました。自分の十字架とは何か…イエスさまの弟子となるとはいかなることか…感じ方は様々ですが、ただ…一人で読んでいたら気づかないことにも一緒に分かち合うことでいろいろなことに気づかされます。少し難解な御言葉にも果敢にその真意に近づこうとする私たちを、主が弟子たちを見るように目を細めて見てくだっさっているように思いました。
教会にメッセージの感想やご自身の証しを送ってくださる方々に感謝しています。すぐにお返事はできないかもしれませんが、目を通させていただいています。神さまがいろいろなところで、いろいろな方に、いろいろな形で働いてくださることを思います。一方で、神は私には働かれないというお手紙もいただきます。『救わないなら殺してください。旧約聖書時代に大量に殺してんだから簡単でしょう。いい加減どっちかにしてください…』辛い心の内を話してくださってありがとうございます。お気持ちをすべて理解することはできませんが、とにかく祈りに覚えています。無理して教会に行くことも、いやいやメッセージを聴く必要もないと思います。神は怒りの叫びも聞いてくださいます。もし宜しければ午後に旧約聖書を学ぶ会でヨセフ物語の後編を読みますのでご視聴いただければ幸いです。すぐに答えは出ないかもしれませんが、神がご栄光を現してくださいますように。
2月第四主日、少し風が冷たく感じる朝でしたが、今日も三回の礼拝を献げることができて感謝でした。礼拝メッセージはヨハネ9:1から、生まれつき目の見えない人がイエスさまと出会って癒されていく記事を読みました。当時、肉体的な病気は罪の報いであるという昔ながらの考えがあって、弟子たちもそう思っていました。でも、イエスさまはそうした考えをキッパリと否定され、神のわざが現れるためですと言われたのです。私たちもとかく、不条理な現実を受け止めるために、心の天秤にかけてみて釣り合うものがないか…と考える時、過去の方に捜すかもしれません。でも、イエスさまの天秤は、過去ではなく、神のわざが現れるであろう未来にあるというのです。ここに目を向けていくとき、忍耐が生じ、品性を生み出し、希望が湧いてくるのです。神は人間の目には不幸に見える現実も神のわざが現れる機会に変えてくださる…この信仰をもって歩んでいきたいと思います。
阪急箕面駅から徒歩5分ほどのところに素敵なカフェがオープンしました。コーヒーの味はもちろんのこと、店内も落ち着いた雰囲気で、心地よい時間を楽しめて、これまた感じのいい素敵なご夫妻が迎えてくださいます。お近くの方はぜひ足を運んでみてください。さて、教会のデボーションは創世記24章50-67節から。聖書の中で最も美しい光景の一つ、イサクとリベカの出会いの場面です。アブラハムが信頼して送り出したしもべは、祈りのうちにリベカと出会い、彼女こそ主が導いてくださったイサクの妻になる人だと確信し、一緒に主人のもとに来てほしいと懇願しました。リベカは「はい、行きます」と申し出を受け入れ、しもべの後について行き…そして、夕暮れ近く散歩に出かけたイサクが、その道すがらリベカと出会い、こうして二人は結婚へと導かれていったのです。一人ひとりが主の導きに応えて行動する姿を思い浮かべました。私たちも、かくありたいと思います。
今日はナインの会(クリスチャン自死遺族のコミュニティー)に参加させていただいてメッセージを取り次がせていただきました。Zoomでの集まりでしたが、慰めに満ちた交わりでした。詳しい内容をお知りになりたい方はホームページをご覧ください。私も今から18年ほど前に父を自死で亡くし、心が引き裂かれるような喪失感を味わいました。まさか自分の家族にこんなことが起こるなんて…思いもしませんでした。その頃、日本では年間3万人以上の自死者があり(交通事故死の5倍)、一日平均85人(17分に1人)もの方が命を絶たれました。こんなにも身近なものであることを私は知りませんでした。今も年間2万人もの方が自死を選ばれています。誰も自ら望んでその道を選択する方はいないでしょう。でも、誰かに相談していたらまた少し違った道もあったかもしれません。遺族の深い悲しみは…何年たっても癒えることはありません。教会も少しでも力になれたらと思っています。
2月第四水曜祈祷会、朝は創世記23章から、夜はルカ13章から、みことばを心に留めました。アブラハムが妻サラの死を「…悼み悲しみ、泣いた」という言葉が心に沁みました。声を上げて泣いているアブラハムの姿が思い浮かびました。ずっと一緒に歩んできた人がいなくなるのは…とてつもない喪失感だったでしょう。でも、アブラハムはそこから立ち上がり、彼女のために墓地を購入していったのです。そこからあらためて信仰者にとって『墓地』とはいかなるものかを考えさせられました。それは人生のゴールなどではなく、永遠の御国への入り口、同じ約束を信じる信仰を受け継ぐ証しであるということです。夜の御言葉も『ぶどう園のたとえ』から、「どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って肥料をやってみます。」というイエスさまの切なる祈りを感じました。この祈りに支えられて、私たちの一日一日があることを感謝したいと思います。
CGNTVリビングライフの奉仕も最後の収録が終わりました。一年間、皆さまのお祈りと励ましをありがとうございました。さて、教会のデボーションは創世記22章に入りました。アブラハムの生涯において最大の試練とも言える場面です。多くの方が、なぜ神はアブラハムにこれほどの試練を与えたのか…理解できないと思うところです。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」アブラハムは神のことば通り、モリヤの山で祭壇を築き、息子イサクを縛り、刃物を振り下ろしました。すると、「その子に手を下してはならない」という主の声が聞こえ、代わりに一匹の雄羊が備えられていたとのことです。私たちがいくら「なぜ…」と考えても、答えは出ないでしょう。ただ、神は私たちのためにご自分のひとり子を献げられたということです。
2月第三主日、小雨の降る中でしたが、今日も大勢の兄姉、またオンラインの兄姉とともに礼拝を献げました。メッセージはヨハネ7:53-8:11、姦淫の罪を犯した女がイエスさまと出会って変えられていく場面から。律法学者たちは彼女を捕らえ、イエスさまの前に突き出して「あなたは何と言われますか」と詰め寄ります。彼らがそう尋ねたのは答えを知りたいからではなく、イエスさまを訴える口実を得るためでした。イエスさまは彼らが問い続けるので「罪のない者がまず石を投げなさい」と言いました。すると、年長者たちから始めて一人ずつその場を去って行き、真ん中に残された彼女にイエスさまは言います。「わたしもあなたに審きを下さない。行きなさい。これからは決して罪を犯してはなりません。」イエスさまは彼女の罪を赦すだけでなく、神を信じて生きる新しい人生に踏み出すよう命じられました。主は今日も私たちの過去ではなく、未来を見てくださるのです。
今日のハートフル英会話はチャペルタイムがあって、レイチェル先生がルカ15章11節から放蕩息子のたとえ話しを選んでくださいました。特に「彼は我に返って…he came to his senses」の言葉が心に留まりました。 ギリシャ語も「自分にかえる」という意味の言葉です。それは本来の自分にかえることであり、当時のユダヤ人は「悔い改める」の意味で使ったそうです。放蕩息子はまさに人生のどん底で本来の自分に戻りました。それゆえ彼は父の家に帰ろうと思ったのです。そして、自分を待っていてくれた父にこう言いました。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。」つまり神を神とすることもせず、父を父として仰ぐこともしなかった…もう息子と呼ばれる資格はありません…と告白したのです。父はそんな息子を抱きしめて大喜びした…主はそれが父なる神の私たちへの愛だと教えられたのです。
2月第三水曜祈祷会、朝は創世記16章16節から、夜はマルコ13章からみことばを心に留めました。主はソドムとゴモラの罪はきわめて重いことをアブラハムに告げました。するとアブラハムは主の前に立って必死にとりなしの祈りを献げ、主も忍耐と憐みをもってその祈りを受け入れてくださったのです。今の時代も、説教者や神学者も必要ですが、何より必要なのは滅びゆく人々のために切に祈る人です。伝道や証しが苦手な人も、とりなしの祈りはだれもができる宣教のわざです。たとえ明日世界が滅んでもリンゴの木を植える…そんな祈り手になりたいものです。また、主は「目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。」と言われました。神は唯一、救いの道も唯一、というのは排他的と言われるかもしれませんが、聖書の真理を変えることはできません。信仰において譲らず、愛において譲る。今日はルターの二つの名言を思い出しました。
神がいるならどうしてこの世に戦争や悪がなくならないのか。それは人類がずっと考えてきたことです。神学的には神義論と言います。これについて簡単な答えはありませんが、アダムとエバか罪を犯し、神から離れてしまってからは人類史上、戦争がなかった時代はありません。神に背を向けた世界は決して良い方向にはいきませんでした。神はそうした罪の世をノアの時代に完全に滅ぼされました。そして、神はその後も忍耐と寛容をもってこの世を見て来られました。しかも見ているだけでなく、ご自分から罪の世の中に降ってくださり、私たちの罪を贖ってくださったのです。主は今も私たちの苦しみのただ中におられます。主はこの世にあっては患難があると言われました。これからも人間の罪がある限り、戦争や災害、痛ましい犯罪は続くでしょう。でも、神は最後にこの世を義しく裁くために来られるのです。その時、全てのことが明らかにされます。福音を聞かずに亡くなられた方のことは主にお委ねするしかありません。生きている私たちが亡くなられた方のためにできることは何もないからです。でも、今生きている方のためには福音を証しする機会があります。主が忍耐をもって世の終わりを送らせてくださっている限り、一人でも多くの方が邪悪なこの世から救われるように、私たちにはまだなすべきことがあります。
2月第二主日、トルコ・シリア大地震は発生から7日目、死者3万人を超え、さらに増える恐れがあるとのこと。主の慰めと力強い御手があるように…礼拝冒頭にお祈りしました。メッセージはヨハネ6:16‐21、五つのパンと二匹の魚の奇跡の後のガリラヤ湖上を歩かれる奇跡から。弟子たちはイエスに言われた通り、カぺナウムに向かって舟を漕ぎ出しましたが、強風が吹いて湖は荒れ始めました。舟は木の葉のように波に揺られ、元漁師の彼らが溺れて死にそうに思うほどの大嵐でした。そして、夜明けが近づいたころ一晩中漕ぎあぐねて疲労困憊になった彼らのもとにイエスは湖上を歩いて来られました。「わたしだ。恐れることはない。」それは単に「私は幽霊ではない」という意味ではなく、「わたしはある(エゴ―・エイミー)」イスラエルの唯一の神「ヤハウェ」であるという宣言でした。イエスは今日も嵐のただ中におられ、わたしを見るようにと声をかけておられるのです。
教会のデボーションは創世記16章から。アブラムの妻サライは子どもが与えられないことを思い悩み、その結果、エジプト人の女奴隷ハガルによって子どもを得ようとしました。こうしてハガルはアブラムの子どもを身ごもったのですが、サライとの間に確執が生じ、ついに彼女は逃げ出してしまったのです。身重のまま行く宛もなく、荒野にある泉のほとりに身を隠すハガル…。惨めさと心細さでいっぱいだったでしょう。主はそんな彼女を見つけ、サライのもとに帰って、彼女のもとで身を低くしなさいと言われました。そして、わたしはあなたは子孫を増し加える、あなたの苦しみを聞いていると告げられたのです。「そこで、彼女は自分に語りかけた主の名を『あなたはエル・ロイ』(私を見る神)と呼んだ。」たった一人の女奴隷のことも決して見離さないで、見つけてくださる主…この方が今も私たちの苦しみを知っていて顧みてくださるとは、なんという感謝なことでしょう。
6日に発生したトルコ・シリア大地震から三日目を迎えました。生存率が急激に下がると言われる発生から72時間が過ぎましたが、なおも懸命な救助活動が続ています。あちこちで倒壊した建物、氷点下5度の寒さ、余震もまだ続いていることなどニュースで見る光景に…本当に胸が痛みます。一人でも多くの命が救出され、一刻も早く十分な支援が行き届くように祈るばかりです。聖書の中にも、災害について弟子たちがイエスさまに質問した記事がありますが(ルカ13章)、『神がいるなら、どうしてこんなことが…』と思う方が多いでしょう。でも、イエスさまの答えは、「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」というものでした。私たちは何か問題が起きると神の存在を意識するのかもしれませんが、イエスさまはずっと前から…滅びに向かっている私たちのことを心を痛めて見ておられ、全ての人が救われ、真理を知るようになることを願っておられるのです。
2月第二水曜祈祷会、デボーションは創世記13章から。アブラムはエジプトでの失態にも関わらず、多くの財産を所有するようになりました。彼はもと来た道を辿りながら最初に天幕を張り、祭壇を築いた場所で主の御名を呼び求めます。もう一度、信仰の原点に立ち返って悔い改めの祈りを献げたのでしょう。そんなアブラムと甥のロトとの間で財産に関する争いが起きてしまい、二人は別々に暮らすことになりました。ロトは先に土地を選ぶ権利を譲ってもらい、自分の欲に従って目を上げます。ロトが選んだ地はよく潤った地でしたが、主に対して甚だ罪深い者たちが住む町でした。一方のアブラムは別離の悲しみを覚える中、主の呼びかけに従って目を上げました。そして、「さあ、立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたにその地を与えるのだから。」という主の約束を頂いたのです。私たちも何に従って目を上げるか…そこが大きな分かれ道となるのです。
教会のデボーションは創世記12章になりました。信仰の父と呼ばれたアブラハムの生涯をしばらく見ていきます。彼の名前がまだアブラムだった頃、主はアブラムに「あなたは、あなたの土地…親族…父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」と命じられました。住み慣れた土地を離れて、どこに向かうのかもかわからない中で旅に出るのは不安や心配があったでしょう。でも、アブラムはこれは主の召し(呼びかけ)だと信仰をもって受けとめ、従って行ったのです。昨日は牧師会で47年間教会に仕えて来られた先生の証しを聞きました。私も25歳の時、初めて教会に行き、聖書のことばを目にしました。仏教の家庭で生まれ育ちましたので、聖書はもちろんキリスト教について殆ど何も知りませんでした。あれから26年…わからないこともたくさんありますが、ただ主の憐みの中をともに歩ませて頂いています。この一歩一歩の積み重ねが、神を知る道であることを信じて…。
2月第一主日、冬の柔らかな日射しが差し込む会堂で礼拝を献げました。有名な五つのパンと二匹の魚のしるしから、イエスさまのお心を心に留めました。癒しを求めて後をついてくる群衆をイエスさまは深く憐れんで、弟子たちに「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」と言われました。彼らはそんなお金もお店もありませんと愚痴をこぼしますが、イエスさまの質問が人間的な視点から出発したのでは解けない問題であることを理解できませんでした。「イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。」弟子たちが思い煩っている中で、一人の少年が自分の弁当の五つのパンと二匹の魚を差し出します。イエスさまはそれを取り、感謝の祈りを捧げてから、そこにいた全員に分け与えられました。神のなさることはいつも人間の常識を超えたところにあります。人間の限界こそ、神の機会なのです。
教会のデボーションはマルコ6:30~44。イエスさまはご自分のもとに集まってくる群衆をご覧になって、羊飼いのいない羊の群れのようであったので深く憐れまれたとあります。私も学生時代に羊飼いのアルバイトをしていたことがあるので、このイエスさまの表現にはなんとも心打たれるものがあります。イエスさまは心身ともに渇いている人々を、十把一絡げに見たのではなく、一人ひとりの心情を慮って関わってくださいました。この後の五つのパンと二匹の魚の奇跡も、主の憐みによるものだったのです。今日は午前中にクリスチャンの若いご夫妻がカフェを始められるということで少しお手伝いに…とはりきって行きましたが、ほとんどおしゃべりして帰ってきました。箕面駅から徒歩五分ほどのところ、2月にオープンです。お近くの方はぜひのぞいてみてください。午後からはハートフル英会話。大人のクラスはチャペルタイムがあり、キッズクラスは今日もにぎやかでした。
2月第一水曜祈祷会はマルコ6:1-13から。イエスさまはデカポリス地方、カぺナウムでの宣教に続いて、郷里ナザレに向かわれました。イエスさまの噂はすでにナザレにも伝わっており、弟子たちを伴って帰って来たイエスさま一行を人々は関心をもって出迎えます。イエスさまはご自分の郷里でも福音を宣べ伝え、病人を癒されましたが、ナザレの人々の反応はその教えの素晴らしさや力強い奇跡に驚いたものの、その関心はそれらをどこから得たのかという二次的なことに流れてしまいました。人間的にイエスさまをよく知っていたために、かえってメシアとしての本質を悟れなかったのです。郷里で証しすること、親族や家族に伝道することの難しさを思います。でも、伝道における私たちの役割はあくまで福音を宣べ伝えることであって、結果は主にお委ねしなければなりません。福音の種を蒔いてすぐに目が出るとは限りません。ただ種を蒔けば成長させてくださるのは主です。
教会のデボーションはマルコ5:35-43から。イエスさまのもとには大勢の群衆が集まって来ていました。そこに会堂司のヤイロが人混みをかき分け、イエスさまの前にひれ伏して私の小さい娘を助けてくださいと訴えました。彼はイエスさまが娘の上に手を置いてさえくれれば癒されると信じていたのです。でも、途中で12年の長血をわずらった女の癒しを行っている間に、会堂司の家から人が送られてきて、お嬢さんは亡くなりましたと連絡がありました。絶望的な状況に、ヤイロは目の前が真っ暗になったでしょう。イエスさまはそんな彼に言いました。「恐れないで、ただ信じていなさい。」すべての望みが絶たれたような中で、まだ終わりではありませんと言われたのです。人間の失望する時が、神の好機です。神が働かれる条件の一つは、私たちが神を信頼することです。人々がイエスさまをあざ笑う中で、最後まで信じ続けたヤイロ家族は神の御業を目に当たりにしたのです。
1月第五主日、春を感じるような温かな日差しが差し込んでいました。礼拝ではヨハネ5章から。イエスさまは祭りの日、人々で賑わう神殿ではなく、病人たちが集まるべテスダの池に向かわれました。そこで38年も病を患っていた病人に目を留められ「良くなりたいか」と声をかけられ、彼の病を癒し、さらに罪の赦しを宣言されました。それは一方的な主の恵み、主の選びでした。私たちの教会は礼拝後にメッセージの分ち合いをしますが、そこでもいろいろな感想があって、さらに御言葉を深める時間となっています。私たちの常識の枠の中だけで考えたら、イエスさまの奇跡を理解することはできません。この病人も過去の長い間の経験から自分が癒されることはもうない…という思考になっていたかもしれません。でも、その枠を壊していくのが御言葉の力です。私たちも、人の子となって、この世に来てくださったイエスさまのことばに従って一歩踏み出したいと思います。
教会のデボーションはマルコ6:45‐56から。大きな奇跡を目の当たりにして、興奮冷めやらない弟子たちを、イエスは強いて舟に乗り込ませ、向こう岸に行かせました。舟の中で弟子たちは互いの感想を言い合っていたでしょう。すると段々雲行きが怪しくなり、向かい風のために漕ぎあぐねていたのです。イエスは山で祈っていましたが、夜明けが近づいた頃、湖の上を歩いて彼らのところへ行かれました。弟子たちはその姿を見て、幽霊だと叫び声を上げます。彼らの中にはガリラヤ湖の漁師が何人もいて、この湖もわが庭のように知り尽くしていたはずです。それでも自分の経験以上の出来事に遭遇し、慌てふためいてしまったのです。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」イエスが舟に乗り込むとたちまち風はやんで、弟子たちの心も静められました。こうした体験を何度も通らされて、弟子たちはイエスさまがいつもともにおられることを学んでいったのです。
今日からハートフル英会話冬期コース・大人クラスがスタートしました。講師のレイチェル先生も無事にオーストラリアから戻って来られ、新しい受講生の方も来てくださって、久しぶりに木曜日の教会に楽しそうな英会話と笑い声が響きました。昨日の祈祷会でも、『教会に来るきっかけは何でしたか』という話しになり、ある人は家族や友人に誘われて…、案内やチラシを目にして…、ある人は英会話がきっかけで…という人もいました。振り返ってみると、お昼ご飯が食べれるから…気になる女の子がいるから…という理由でしばらく来ていた青年もいました。懐かしい思い出です。とにかく話しを聞いてほしい…昔、教会学校に通っていたので…という婦人もいました。教会に来るきっかけはなんでも構いません。信仰心がないのに…と遠慮せず、礼拝を覗いてみる、英会話の体験に出てみる、ちょっと立ち寄ってみるだけでも、教会をぜひ体験していただけたらと思います。
1月第四水曜祈祷会はマルコ3:20-35から。イエスさまのもとに群衆が集まってきて、イエスさまも弟子たちも食事をもする暇もなかったとあります。イエスさまも人間ですから空腹も覚えたでしょうし、休息も必要だったでしょう。それでも誰一人追い返すことなく、人々の必要に応えられました。また、イエスさまの身内の者たちがイエスさまを心配して連れ戻しに来ましたが、イエスさまは家族の声よりも、ご自分の使命を優先されました。これには、イエスの周りにいた人たちも自分たちを大切に思ってくれたことが嬉しかったでしょう。そして、嫉妬心からイエスさまの働きを悪霊呼ばわりする律法学者たちには「人の子らはどんな罪も赦していただけます。…しかし聖霊を冒涜する者は、だれも永遠に赦されず…」と悔い改めを迫られました。イエスさまは誰であろうと、ご自分のもとに来た人を受け入れ、正しい真理に導こうとされたのです。忍耐深い神の愛を覚えました。
1月第四主日、頬にあたる風は冷たいですが、教会の中には温かな日差しが差し込んでいました。礼拝では今年の年間聖句の詩篇62篇からメッセージを聴きました。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら。私は決して揺るがされない。」「黙って」とはただ何もしないことではなくて、神に向かって沈黙すること、神に望みを置いて待つことです。「岩」「救い「やぐら」は神こそが真の拠り所であるということです。自分でジタバタしないでも、黙って神に信頼しているなら、揺さぶられることはあっても決して倒されることはありません。信仰とはまず神の前に沈黙することから始まります。目に見えるものがいつも頼りになるとは限りません。大事なのは、何があっても変わることのない神を信頼し、そのことばに聴き従うことです。神はいつも私たちの傍らにおられて、実生活の中で働いてくださるのです。
教会のデボーションはマルコ2章から。イエスさまの噂を聞き付けた人々が大勢集まって、戸口のところまで隙間もないほどになっていました。そこに中風の人が4人の人に担がれてきたのですが、とても家の中には入れません。それでも彼らは諦めずに、家の屋根をはがして穴をあけ、彼を寝かせたままつり降ろしたのです。それはだれの目にも非常識な行動だったでしょう。でも、彼らはだれに何を言われてもこの機会を逃すわけにはいかないと思ったのです。この方のもとに行けば癒して頂けると信じたのです。イエスさまはそんな彼らの信仰を見て、中風の人を癒されました。人はその行動を見ますが、イエスさまは心をご覧になるのです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」自分も病気をして、あらためてこの御言葉が響いてきました。イエスさまは肉体だけでなく、霊と魂の医者です。
1月第三水曜祈祷会、療養解除基準は満たしましたが、発症から10日間は感染リスクがあるということで大事を見て今日もオンラインで祈祷会を行いました。デボーションはマルコ1:1-20、バプテスマのヨハネの登場は人々の心を悔い改めに導き、メシアを迎える道備えとなりました。そしてイエスさまが現れると「時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と高らかに福音宣教の第一声が告げられたのです。イエスさまはガリラヤ湖のほとりで4人の漁師をご覧になって「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と声をかけられました。それはイエスさまの弟子となって従っていくなら、人々を神の国に導く人にするという約束でもありました。パリサイ人でも律法学者でもなく、無学なただ人をお選びになられたイエスさま。なぜ私が…と彼らも思ったでしょう。でも、イエスさまはそんな彼らを立派な指導者へと養い育てられたのです。
教会のデボーションはマルコの福音書1章になりました。表題には「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」とあります。福音とは良い知らせのことです。それはイエス・キリストによって私たちに救いの道が示されたことです。私たちはみな生まれながらの罪人で、死とその裁きのもとにある者でした。でも、神はそんな私たちのために御子イエス・キリストを遣わしてくださったのです。マルコの福音書の冒頭には、まずバプテスマのヨハネが遣わされ、「主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。」と人々に悔い改めを迫ったことが記されています。『悔い改める』とは単に反省するとか後悔するとかいうことではなく、自己中心的な生き方から神中心の生き方に方向転換することです。これがないままで、イエスさまを主と告白することはできません。もう一度、心の王座にだれが座っているのか…自らを深く顧み、悔い改めて、イエスさまを心に迎えましょう。
1月第三主日も教会には集まらずにオンライン礼拝となりました。礼拝メッセージは義姉の玉井美穂師が取り次いでくたさり、Ⅰコリント16:21-24から二つのことを語られました。一つはクリスチャンは『マラナ・タ』(主よ、来てください)と『マラン・アタ』(主がおいでになった)の間の時代を生きているということ、もう一つは『インマヌエル』の主がいつもともにいてくださることです。今日で新型コロナウィルスが国内で初確認されてから丸3年になりますが、未だその収束は見えてきません。第8波と言われる今冬も致死率や重症化率は低下していても、死者数が過去最多の更新を続けています。この現状だけを見ていたらますます気が重くなる一方ですが、歴史の主である方が大いなる御手をもって万事を導いておられることを忘れないでいたいものです。主は私たちの祈りを聞き、必ずその必要を満たしてくださいます。今週もこの主の臨在を感じつつ歩んでいきましょう。
あらためて多くの方のとりなしの祈りを感じながらここ数日間を過ごさせて頂きました。おかげさまで発症日から八日目を迎え、ほとんど症状も無くなりました。今日はZOOMで小さな会議がありましたが、まだ体力が戻ってないようなので、徐々に慣らしていこうと思います。『お祈りしています』という言葉に、どれほど力づけられたかわかりません。病み上がりの私にできることは神の家族一人一人を覚えて祈ることです。時間はありますので、お一人一人の顔を思い浮かべながら集中して祈っています。今年も始まったばかりですが、コロナの心配はいつまで続くんだ…と思っている方も多いでしょう。こんな時期に教会を開けられないのは心苦しいことですが、主は生きておられます!私たちの祈りを必ず聞いてくださっています。「私のたましいは黙って ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」明日の礼拝もぞれぞれの家庭に主の祝福が注がれるように祈っています。
教会のデボーションは創世記7章から。ノアはすべて神が命じられたとおりに箱舟を造り、周囲の人々にも義を宣べ伝えましたが(Ⅱペテロ2:5)、耳を傾ける人はいなかったようです。そしてノアたち家族が箱舟に入ると、主は後ろの戸を閉められ、ついに大洪水が起こり、大水が全地を覆っていきました。これをただの有名な物語として読むか、それとも実際の出来事として読むか、さらには世の終わりの出来事を象徴していることとして読むのか、ここが聖書の勘所です。そんな大げさな…と思わずに、できるところからとりなし祈って行動していきましょう。私の体調は発症日から6日目でだいぶ回復してきました。まだ少し体がだるく、疲れやすいですが、食欲もあり、風邪症状も殆どないので助かっています。でも、最初の3日目までは高熱が続き、喉の痛みと関節の痛みでかなりしんどかったです。また新たな変異ウィルスも確認されているとのこと。皆さまの健康をお祈りしています。
1月第二水曜祈祷会は休会させていただき、各ご家庭でみことばと祈りの時をもっていただきました。デボーションは創世記6章から。地上に人が増え始めるとともに悪も増大していく中、神は人の齢を120年と定められました。それは裁きを下す前の悔い改めの猶予期間でしたが、地上の悪はますます増大する一方だったのです。もはや裁きは免れない中で、ノアは主の心にかなっていました。人々が神に背を向け、自分勝手な道に歩んでいても、彼だけは神を仰ぎ見、神を恐れつつ歩んだのです。「正しい人」「全き人」とは道徳的に正しく、神のような完全さをもった人のことではなく、失敗や挫折もありつつ、それでも神とともに歩んだ人のことです。そんな彼にも苦難や葛藤はあったでしょう。病気になることも、人に理解されず、不条理に思うことも…。それでも神とともに歩み、箱舟を造れという神の命令に歩み続けたノア…。そういう人に自分もなりたいと思わされました。
1月第二主日、牧師が新型コロナに罹患したため、オンライン礼拝にして頂きました。代理説教者は義父の玉井邦美師(新鎌ヶ谷聖書教会)がメッセージを取りついでくださいました。詩篇23篇から、晩年のダビデが危機的状況に置かれる中で、今までの人生を振り返り、あらためて主への信頼と確信に立つ詩です。今年は帰省も見送り、できるだけ外出も控えていたつもりですが、少し気が緩んだのか…猛省しています。この度は教会の方々に多大なご迷惑をおかけすることになりました。申し訳ありません。今回、病の床に伏した中で礼拝を視聴させて頂きましたが、あらためて気づかされることもありました。今後の動画配信の向上のために活かしたいと思います。オンライン礼拝は新来者の方や日曜日の午前中に教会に来られない方、また、その他いろいろなご事情で教会に来れない方々のために行っています。もし何かご要望がありましたら、教会までご相談いただければ幸いです。
教会のデボーションは創世記1章から。「はじめに神が天と地を創造された。」「はじめ」とは、あらゆる時間の始まり、歴史の原点を指す言葉です。そこに永遠なる神がすでに存在しておられて、御心のままに天と地とその間にある全てのものを造られたとあります。私たちはまず、この1章1節を信仰もって読むか読まないかを決心しなければなりません。なぜなら、同じ文章でもその意味合いが全く変わってくるからです。もちろん、そんな肩ひじ張らずに気軽に読んでいただいても結構ですが、折角聖書を読むのであれば、もし神がおられるなら私たち人間に何を語っているのだろうかという思いで読んでいっていただけたらと思います。クリスチャンの方はあらためて神がなされることに偶然はないことを心に留めて、今年一年を歩んでいきたいものです。「神は仰せられた。『光、あれ』すると光があった。」神のことばは時至って必ず成る、新しい年を期待していきましょう。
新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い致します。2023年最初の主の日を迎えました。礼拝ではヨハネ4:43-54から、イエスさまに息子の病気を癒してほしいと懇願する役人の信仰から学びました。彼はイエスさまの噂を聞きつけて、息子の病を癒してほしい…この一心ではるばるカぺナウムからカナまでやってきました。イエスさまはそんな彼に「あなたがたは、しるしと不思議を見ない限り決して信じません。」と言われました。それは彼を突き放すためではなく、彼を本物の信仰者に導くためでした。『神がいるなら証拠を見せてほしい…そうしたら信じる。』今日でもそう思われる方は少なくありません。でも、私たちは自分の感覚や知性を頼りにし過ぎるのは気をつけなければなりません。神は認められるべき存在ではなく、信ぜられるべき存在です。何をも見ずまた聞かずとも、必ずそのごとくならん。この直ぐな信仰が私たちには必要なのです。
過去のものはこちらから