Church Brog
教会にどんなイメージをお持ちですか?厳かに礼拝をささげるところ、敬虔なクリスチャンが集まるところ、難しい説教が語られる、年寄りが多い、信仰を勧められる…などのイメージがあるもしれません。でも、実際に行ってみると、堅苦しい決まりもなく、老若男女、だれもがリラックスして集えるところです。このブログは教会の日々の様子やメッセージ・デボーションの要約などを牧師の備忘録日記でご紹介しています。
(写真などの転載はご遠慮ください)
この冬一番強い寒波が日本全国を覆い、各地で大雪による被害が発生しています。特に北陸や日本海側の地域を覚えてお祈りしています。大阪箕面も昨夜から小雪が舞い、今朝も道路にうっすら雪が積もっていました。そうした中、今日も明日の礼拝準備のためにお掃除の奉仕に来てくださる方々がいました。感謝いたします。この時期危惧するのは受験生たちの体調です。ぜひ万全な健康状態で試験に望んでほしいと思います。また、希望する大学に進学しても、そこでは非公認のサークルやカルト宗教の勧誘にとにかく気をつけてほしいものです。毎年ご家族からの相談はありますが、入信がわかってから脱会へ導くのは至難の業です。ボランティアをしているとか、バンドやゴスペルが楽しそうだったからとか。最初は宗教の勧誘とは思わずに軽い気持ちで勧誘者と信頼関係を結ぶのですが、次第に生き方の話しになったり、聖書の話しになったり、気づいた時にはマインドコントロールを受けていることがあります。どんなにいい活動でも、家族や友人との間に歪ができてしまうなら、その団体から離れるべきです。救いは団体にあるのではなく、神との繋がりにあるのですから。
教会のデボーションはレビ記から。前書の出エジプト記の終わりは、幕屋建設、備品、祭司職の長服など、主の栄光が幕屋に満ちていたことが記されていました。それに続いて神はこのレビ記で、罪深い民がいかにして聖なる神との関係を持つことができるかについて明確な指導と新しい生き方を示されました。これらの指導は聖なる神と私たちの関係を軽く見てしまうことを避けるための助けとなります。今日の私たちは動物のいけにえなど時代遅れに思うかもしれませんが、中東では多くの文化において習慣的に行われていました。神は目に見えるいけにえをささげる(屠る)という形式を用いて、民の罪と神の聖さについて教えられたのです。旧約聖書において、イスラエルのいけにえの中で最も多く言及されるのが全焼のいけにえです。その意義は、文字通り、いけにえのすべての部分を祭壇で焼くことです。神はこのいけにえによって奉献者の罪を赦し、罪なき者と見なしてくださるのです。でも、大事なのは、献げるものより献げる者の心です。「砕かれたたましい、砕かれた、悔いた心。神よ、あなたをそれをさげすまれません。」礼拝を献げる私たちの心はどうでしょう。
教会のデボーションは詩篇71篇から。「神である主よ あなたは私の望み 若い日からの拠り所。…年老いたときも 私を見放さないでください。私の力が衰え果てても 見捨てないでください。」クリスチャンであることの望みは、若くても、年をとっても、神が私たちの避け所になってくださるという変わらない約束があることです。昨日、ある牧師会で退任される先生、また転任される先生の送別会がありました。ある先生はまだ救われたばかりの頃、高校生キャンプに参加して、そこでメッセージを聴き、信仰に導かれました。そして、最後に献身への招きがあり、多くの青年たちが手を挙げる中、自分には関係がない…と下を向いていたそうですが、その数年後、不思議な神の取り扱いがあって、会社を辞めて神学校へ行き、牧師の道を歩み出されたとのことです。振り返ってみれば、あの高校生キャンプに参加した青年たちの中で牧師になったのは自分だけでしたが…あれから40数年、神は献身者を決して見放さずに導いてくださいましたと証ししてくださいました。「私はなおも告げ知らせます。あなたの力を世に。」これからも先生方の賜物が豊かに用いられますように。
2月第一主日、今朝は風が一段と冷たく感じましたが、穏やかな週の初めを感謝いたします。礼拝メッセージはルカ9章23節を中心にみことばを心に留めました。「イエスは皆に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」それは弟子たちだけではなく、その周りにいた人々も、あるいはこの記述を読んでいる私たちをも意識して、ルカは書いているように思います。イエスさまに従っていく人生はイエスさまの弟子となる人生です。弟子は主人の命令に従わなければなりません。そのためにはまず自分を捨てることから始まります。古い人を着たままでは新しい人を着ていくことはできません。その上で自分の十字架を負うことです。十字架とは病や重荷のことではなく、クリスチャンであるゆえに受ける辱めや苦しみのことです。イエスさまも「わたしとわたしのことばを恥じるなら」と言われました。十字架なくして、栄冠なしです。最後にイエスさまを主として従っていくことです。イエスさまに従う人生は奴隷のような暗い人生ではなく、神の子どもとしての特権にあずかった光輝く人生なのです。
1月も足早に過ぎていきました。いろいろなことが次々と起きて、一つずつ考えが落ち着くまでに、次のことが起きてくるという感じです。これも祈りを怠るなという神の御旨なのかもしれません。そんな中、今日は10年以上お会いしていなかったご夫妻と再会し、暫くお話して一緒に祈る時が持てました。高齢になられてお忘れになっている部分も多かったのですが、それでもこんな日が来るとは…。自分もまた祈りに覚えてもらっていたことを思いました。
人はみな、できれば苦しみのない人生を歩みたいと思うものです。でも、苦難や苦しみのない人生などあり得ません。それはクリスチャンになっても同じです。では、なぜ神は私たちから苦しみを遠ざけてくださらないのでしょう。それは私たちの心を神に向けるためです。私たちをいのちと救いに導くためです。苦難があるからこそ、私たちは自分の限界を知り、神の前の謙遜さを求め、神に似た者へと造り変えられていくのです(ある礼拝説教の冒頭から)。
昨日の旧約聖書を学ぶ会は出エジプト記14章から。いよいよイスラエル人たちがエジプトを出発する箇所で、主はモーセを通じて、引き返して荒野に行くように告げられました。なぜこんな道に行かなければならないのか…と疑問に思う者もいたでしょう。でも、神はそこでご自身の栄光を現すと約束されたのです。ファラオも自ら軍隊を整えてイスラエルを追跡します。後ろにはエジプト軍、前は紅海、もはや八方塞りのイスラエル人たち。こんな場所で死ぬならエジプトで奴隷だった方がよかったと言い出す有様。モーセはそんな彼らに言います。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」主は彼らに前進するように命じました。すると主は一晩中強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされ、彼らはまさに道なきところに道を造られる主の御業を目の当たりにしたのです。今日の水曜祈祷会も嵐を静められるイエスさまの姿を見ましたが、嵐に怖じ惑う弟子たちは「あなたがたの信仰はどこにあるのですか。」と叱責を受けました。私たちも試練の中でこそ、神の臨在を確信し、本物の信仰者へと造り変えられていくのです。
1月第四主日、今日もこの時期にしては温かな穏やかな一日でした。礼拝メッセージはルカ7:18-35から。牢獄にいるバプテスマのヨハネは遣いを送り、イエスさまに疑念をぶつけました。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」ヨハネは自分が語ってきた預言と、実際のイエスさまの言動があまりにも違うので、確かめたいと思ったのでしょう。これをヨハネの不信仰だと決めつける解釈もありますが、信仰の世界には真剣さのゆえに、熱心さのゆえのつまずきということがある…という言葉に私も共感します。続く箇所を読めば、イエスさまがいかにヨハネの信仰を評価しているかがわかります。いい加減にしたくない、真剣だからこそ神に対して疑念を持つ…それは仕方がないことではないでしょうか。イエスさまも十字架にかかられる前に、ゲッセマネで夜を徹して祈られました。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」みこころがなるように…私たちも仕方なくではなく、希望をもって神の御心を受け入れていく信仰を持ちたいものです。
イエスさまは大勢の群衆とともにナインという町に行き、ある母子の葬儀に会いました。最愛のわが子を亡くした母の悲しみはどれほど深いものだったでしょう。主はその母親を見て、「深くあわれみ」とあります。それははらわたが痛むほどの激しい心の動きを意味する言葉。イエスさまはその子を生き返らせ、母親に返されました。私たちの痛み悲しみに同情される主は死さえもご支配される方なのです。
今日もハートフル英会話から楽しそうな笑い声が教会堂に響いていきました。感謝です。今日1月23日は新島襄の召天日でした。近代日本の黎明期、しかも京都にキリスト教主義の同志社英学校を建てるには大変な苦労があったでしょう。彼が妻に残した最後の言葉は『グッバイ、また会わん』です。Good-byeはGod be with youの短縮形とのこと。神がともにおられるように。信仰的で、慰めに満ちた言葉です。
1月20日、トランプ氏がアメリカ大統領に返り咲きました。今日の祈祷会でもまず冒頭でトランプ氏をはじめ国々の為政者を覚えて祈りました。今日の就任式の演説も力強く、バイデン氏が側にいてもおかまいなしに前政権を批判、今日から黄金時代が始まると宣言、大統領令にも次々と署名、新政権の始まりをアピールしました。ただ、これだけ急ピッチで変革していくと、米国内でもトランプ支持と不支持の二極化がどういう形で現れるか心配です。クリスチャンである私たちは…静まって、神がお立てになったトランプ氏を覚えてお祈りして行くしかありません。さて、今日のデボーションはルカ6:27-38「あなたがたの敵を愛しなさい」。これは当時のユダヤでは他に類を見ない教えでした。神の一方的な恵みによって救いにあずかった者のゆえに、恵みに生きるとはどういうことかを教えられた箇所です。詳しくは動画で解説していますが、一つは隣人に境界線を設けてはならないこと、もう一つは自分にしてほしいと思うことを他人にもしなさいということです。トランプさんもこのイエスさまの教えは知っているはず。そして、私たちも心がけなければならない教えです。
1月第三主日、この時期としては幾分温かさを感じる一日でした。礼拝メッセージはルカ5:36ー39、聖書に由来することわざの一つ『新しい酒は新しい皮袋に盛れ』の箇所からでした。イエスさまはどのような場面でこの言葉を言われたのか。相手は旧約律法を重んじるパリサイ人たちや律法学者たちでした。彼らは自分たちは真面目に断食し、よく祈っているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだり…一体何をしているんだとイエスさまに訴えました。そこでイエスさまが彼らに語ったのが、三つの譬えでした。新しい衣の布切れで古い衣に継ぎ当てするのは間違いだということ、新しいぶどう酒は新しい皮袋が必要だということ、古い物は良いと決め込んでいないで、新しいものを体験してみなさいということ。まさにイエスさまが来られたことによって、新しい恵みの時代が到来したことを教えていました。今日の私たちも気がつけばパリサイ人たちと同じような過った人生観に陥っていることがあるかもしれません。自分は正しいと思い込んで、考えの違う他者の意見を排除する…。これもパリサイ人たちの特徴です。御霊によっていつも新しい心を頂いて歩みたいものです。
阪神淡路大震災から30年が経ちました。被災地には全国から137万人のボランティアが訪れたそうです。神戸の街並みは復興しましたが、あの時の悲しみは今も癒えることはないでしょう。震災の教訓を次の世代に伝えていく使命を思います。私たちの教会が誕生したのも丁度30年前。こんな大変な時に開拓などしてていいのか…という声もあったそうですが、ここまで導いてくださった主と、信仰をもって立ち上がってくださった兄姉に心から感謝いたします。
1月第三水曜日、デボーションはルカ4:14ー30。ガリラヤのカぺナウムでは、イエスのことばには権威があると評判になり、人々は称賛しました。しかし、ナザレでは「この人はヨセフの子ではないか」と人々はイエスを称えず、何か奇跡をおこしてくれと求めました。神に祈り求めることは悪いことではありませんが、主はその心をご覧になるのです。神を信じること、これが何よりも優先されることです。
遅咲きの花は大輪に成ると言いますが、壁が大きいほど、目指す山が高いほど、そこに至る道は長く険しいものです。もう無理だ、これ以上は進めない、とあきらめたくなる時が一度ならずある。その時、希望を捨てずに待つことです。答えが来るのが遅すぎて、あなたはしびれを切らし、待ちきれず、あきらめかけているかもしれません。でも、ギリギリの、ギリギリのところで、それは遅れることなくやって来ると聖書は告げるのです(ハバクク書2:3)。
1月第二主日、寒の入りを迎え寒さも本格的となってきました。礼拝メッセージはルカ5:1ー11から「そして、そのとおりにすると」のテーマで御言葉を心に留めました。人生は出会いで決まるとよく言いますが、シモンとイエスさまの感動的な出会いの場面。その時シモンは漁師として最悪の朝を迎えていました。イエスさまはそんな彼に「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」と命じられたのです。夜通し働いて、何の収穫もなく、疲れ切ったシモンが、「先生、それは無茶な話しです」と言っても何の不思議もないところ…彼は「おことばですので、網を下ろしてみましょう。」と答えていました。まさに人間の限界こそ、神との機会。驚くべき神の栄光にふれたシモンは、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と人生の方向転換に導かれたのです。聖書の神に出会うのは、決して偶然ではなく、神のご計画です。なぜ自分が…と多くの人は思います。でも、いくら考えても人間の側に理由はありません。あなたの周りで福音を待っている人がいる、あなたでなければ伝えられない人がいる、それが主があなたを選んで、遣わされる理由なのです。
小雪が舞う空でした。デボーションは律法に従ってヨセフとマリアが幼子イエスを抱いてエルサレムに来た時、その日をずっと待ち望んでいたシメオンとアンナに出会う箇所からでした。年末感謝礼拝でもここからメッセージをしましたが、本当に印象的なところです。嬉しかったでしょう。救い主にお会いした時の感想はどんなでしたか…と天国でシメオンとアンナに会ったときに聞いてみたいと思います。
1月第二水曜祈祷会、ルカ1:67ー80。幼子の誕生と主が御民を顧みてくださったことを知ったザカリヤは万感の思いを込めて預言しました。「ほむべきかな、イスラエルの神、主。」聖霊に満たされたザカリヤの賛美はベネディクトスと言われ、マリアのマグニフィカートとともに有名な賛美となりました。主はご自身の約束を必ず成就してくださる方です。私たちもご真実な主の御名をほめたたえましょう。
教会のデボーションはルカ1:57~66。老夫婦のザカリヤとエリサベツに男の子が誕生すると、近所の人たちや親族が集まってきて一緒に喜んだとあります。それまでの祭司としての夫婦の歩みが周囲の人々によき証しをしていたのでしょう。「主が…大きなあわれみかけてくださった」と、みな自分のことのように喜んだのです。男の子が生まれるまで、御使いガブリエルが言ったように、父ザカリヤは口がきけないままでした。祭司という立場にありながら、神のことばを信じなかったからだというのです(1:20)。その間、彼は何を考えていたでしょう。逃れようのない大きな力を感じながら、沈黙の中で、主よ、なぜですか…と神に祈っていたのではないでしょうか。神はそんなザカリヤの言葉にならない思いを受け止めながら、彼を悔い改めへと導かれました。そして、ついにその子に「ヨハネ」と名づける時がくると、直ちにザカリヤの口は開かれ、聖霊に満たされて、神をほめたたえたのです。ザカリヤの喜びに溢れる素晴らしい預言は明日の水曜祈祷会で読みましょう。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」というイエスさまの言葉が聴こえてくるようです。
1月第一主日、穏やかなお天気のもと今年最初の日曜礼拝を献げました。メッセージはルカ4章から。イエスさまはバプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、いよいよ宣教を開始されるか…と思いきや、御霊によって荒野へと導かれ、四十日間悪魔の試みを受けられました。なぜメシアである方が悪魔の試みなど受けられたのか。イエスさまが天の御座におられる時は、悪魔も畏れ多くて近づくこともできなかったでしょうが、人となって空腹の極みとなれば、悪魔も今ならもしかして…と思ったのでしょう。そのずる賢さや巧妙さは、創世記3章の蛇の誘惑と同じです。悪魔はまるで良き理解者のように、助言者や協力者のように、イエスさまに近づいて取引きを試みました。イエスさまはそんな悪魔の囁きに、御言葉をもって立ち向かいました。それは弟子たちをはじめ、読者である今日の私たちに、悪魔に対して毅然とした態度でいなさい、妥協してはならない、心の隙を与えてはならないと教えているようです。「私たちの大司祭は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」
年の初めは祈りの時です。普段祈らないという人も三が日には神社や仏閣に初詣に行って祈願する方も多いでしょう。ただし、人生はなかなか願い通りにはいきません。なぜ…と思うような出来事に襲われます。でも、だからこそ人は心の底から神を求めるのでしょう。人が生きるために最も大切なのは『信じる』ことです。人である限り、疑いを抱くことは仕方ありません。ただそれをくぐり抜けて、神の言葉ゆえに信じる…そこに本物の信仰があるのです。
激動の2024年が過ぎ、新しい2025年を迎えました。一年の計は元旦にありと言いますが、今年皆さまはどんな計画を立てられたでしょうか。世界各地で紛争が続き、自然災害、気候変動など、もはや何が起きてもおかしくない時代です。でも、聖書は、歴史上のあらゆる出来事が偶然ではなく、神の預言通りに起きていることを告げています。いつものように箕面めぐみ聖書教会は元旦礼拝から始まりました。ルカ3:1-17、旧約の最後の預言者バプテスマのヨハネはこう告げます。「主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。」あなたも救い主をお迎えする心備えをしましょう。主のことばを受け取る心備えをしましょう。この2025年が、神とあなたの出会いの年、神の御業を仰ぎ見る年となりますように。あなたのお越しを心よりお待ちしています。
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