教会内の活動&牧師ブログ

聖餐式の恵み…

教会では月に一度、聖餐式を行います。聖餐は、主イエスが十字架にかかる前夜、弟子たちと最後の食事をとる時、パンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与え、また、杯を取って弟子たちにお与えになり、主が再び来られる日までこれを守るようにと定められた礼典です。救い主イエス・キリストを信じ、洗礼を受け、キリストのしもべとしてふさわしく生きることを願っている方なら、だれでも与れます。時々、「ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになる」という御言葉を聞いて、聖餐を辞退される方もいますが…そういう時は、示される罪があるば、それを告白して、むしろ聖餐に与りましょうとお勧めします。なぜならこの式は、私たちの救いがただ主の恵みでしかないことを覚える時でもあるからです。

感慨深い洗礼式…

今日は朝からさわやかな秋晴れとなりました。いつも洗礼式は日曜日の礼拝後ですが、ご本人の希望で月曜日に行いました。その理由は大きく二つ。一つは今日がご自身にとって特別な日であること、もう一つは30年来の友人である牧師が来日するので、ぜひその先生に洗礼をお願いしたいということでした。休日だったのですが、教会からも数人の方々が出席してくださって、とてもアットホームな洗礼式でした。「このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」洗礼式はイエスさまご自身が公生涯を始められる時に定められた礼典。私たちクリスチャンにとっても、イエスさまの歩みに倣う、新たな信仰生活の始まりです。私も20年前の自分の洗礼式を思い出しながら、感慨深く司会をさせていただきました。心から祝福をお祈りいたします。

わたしがあなたとともにいて…

11月最初の主日、礼拝メッセージはエレミヤ書1章~。神はご自身の計画の中で、必要な時に必要な人を召し出されます。エレミヤは最初、主の召しを否定的に受け止めました。「私はまだ若くて、どう語ってよいか…」それは単なる年齢的なことだけでなく、人間的な基準による自己判断でした。主はそんな彼のことをよくご存知の上で、召し出され、「わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出す」と約束されたのです。どんなに現実として前途が困難に思えても、主がともにおられるなら心配はありません。神が求められるのはただ一つ、呼びかけられる主の声に聴き従うことです。今日も教会には子どもからご年配の方まで大勢の方が来てくださり、礼拝後はバイブルクラスや囲碁クラスがありました。夕礼拝にはどなたも来られませんでしたが、また来週お待ちしています。

イエスさまが歩まれたように…

巷ではハロウィンかもしれませんが、クリスチャンにとっては宗教改革記念日です。はじまりはカトリック教会に対するマルティン・ルターの95箇条の質問状でした。世の中では一般的とされていることでも、おかしいことに「おかしい」と声をあげたルター。あれから501年。日本のテレビでは渋谷のハロウィンの熱狂ぶりが放映されますが、なんとも虚しい気持ちに…。あれはやっぱりおかしいですよね。今日はステファン宣教師が教会を訪問してくださって、しばらくお交わりしました。世界各地の教会を見てこられた先生のお話しは、クリスチャンとしての希望は何か、牧師にとって何が一番大事なことか、聴いているだけで胸が熱くなってくるようでした。「イエスさまが歩まれたように、僕たちも歩みたいね」突然の訪問でしたが、神さまのタイミングに本当に感謝な時でした。

真心から神に近づこう…

今日の水曜祈祷会はヘブル10:19~「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。」イエスの流された血潮は、私たちの罪を聖め、天の御国の扉を開き、私たちに神の子どもとされる特権を与えられました。それゆえ著者は、私たちに全き信仰を持って真心から神に近づこうではありませんかと勧めるのです。自宅で一人で祈るのもいいですが、やはり教会で一緒に祈るのは、また特別な恵みの中にいることを感じます。今日は一人の姉妹がスペインの旅行から帰って来られ、サグラダ・ファミリアを訪れた写真を見せてくれました。着工から完成まで300年はかかると言われた建設工事も急ピッチで進められ、あと8年で完成というところまできているそうです。建築家ガウディの信仰の証し。私も生きている間に一度は訪れてみたい場所です。

次世代宣教のために…

一人でも多くの子どもたちに福音を届けたい…神さまからそんな思いをいただいてから、あっという間の10年。最初のキッズ&ファミリーフェスティバルには、大阪城ホールに5050人の子どもたちとご家族が来てくださいました。今でもその感動は忘れません。その翌年、東日本大震災が発生。東北の子どもたちに関西の諸教会から支援物資を届けようということになり、先生方が再結集、キッズ&ファミリーサポートミッションが正式に発足しました。昨年は台風の影響で中止だったので、今回で9回目となるキッズフェスタ。今日は会場の下見がてら、ラグビーのミュージカルもあるのでスクラムも組んできました💦広々としたいい場所でした。今年も大勢の子どもたちが呼び集められ、メッセージを聴き、福音の種を心に受け取ってほしいと思います。どうぞお祈りください。

元気出してください…

「教会」とは、何より神を礼拝する場所でもありますが、一緒にご飯を食べたり、わいわい話しをしたり、大きな家族のようです。仕事のことや家族のこと、人間関係や将来のこと、みんな何かしらの問題を抱えておられます。主の導きと解決を求めて一緒に祈ります。青年からもご年配の方からも、いろいろなことを教えてもらいます。知らないことがいっぱいです。いつも来られる方がお休みされると、どうしたのかな…体調でも悪いのかな…と心配になります。すると案の定、体調が悪かった…とか、道路で転んで起き上がれなかった…とか。本当にいろいろなことが起きます。でも、どうか元気出してください。「あなたは無事ですか。あなたのご主人は無事ですか。あなたのお子さんは無事ですか。」今度の水曜祈祷会ではお会いできるかな…と考えながら準備しています。

受け継がれる使命…

10月第4主日、礼拝メッセージでは列王記19:19~「受け継がれる使命」というテーマで御言葉を心に留めました。預言者エリヤが竜巻に乗って天に上げられる日が迫る中、彼は後継者のエリシャに自分の外套をかけ、預言者の使命を継承しました。預言者に必要なのは、神の召しに応えて新しく生きること、道なき道も信仰を持って生きること、変わらない方を信頼して生きること。私たちクリスチャンも、この時代の預言者として、主のことばをまっすぐに語る使命を受け継いでいきたいものです。今日は午後から茨木聖書教会・彩都会堂の開所式がありました。一般のご家庭だったところですが、オシャレな建物で、優しい宣教師がおられ、ずっとゆっくりしていたくなるような素敵な教会でした。一人でも多くの方に福音が宣べ伝えられるように主の祝福を心からお祈りしています。

キッズフェスタ2019 京都…

京都では4回目となるキッズ&ファミリーフェスティバルがありました。曇り空の中でしたが、大勢の方々が来場してくださいました。模擬店タイムには、今流行りのタピオカ、カレー、から揚げ、本場のチヂミ、ドーナツなど食べ物がズラリと並び、フェスティバルタイムには、キッズクワイヤー、キッズダンサー、ドキドキ抽選会、人間紙芝居、バイブルメッセージと充実の内容で大盛り上がりでした。信仰を決心した子どもたちがステージの前に出てきてカウンセリングタイムを持つと、会場の雰囲気は一変して、聖霊なる神さまが子どもたちの心にふれてくださっているのを感じました。さぁ次は、11/9(土)キセラ川西で第9回キッズフェスタが開催されます。新しく加わってくださった同労の先生方とも息があってきました。次世代宣教の協力の輪は少しずつですが、前進しています。

盛岡の大塚先生、来襲!

今日の水曜祈祷会は盛岡みなみ教会の大塚先生が、三重キャラバンの帰りに立ち寄ってくださいました。お疲れだったと思いますが、午前中の祈祷会は先生のお証しと聖書からのお薦めをしていただいて、大変恵まれました。タイのミッションボランティアで献身の召しを受けてから神学校、そして盛岡みなみ教会の開拓へ派遣、献堂までの道のり、その翌年から東日本大震災があり、沿岸部の災害支援を継続され、現在は英会話伝道や子ども食堂などもスタートされました。大塚先生の独特の間合いで飄々とお話しになられるのですが、緊張と緩和、短時間になんとも濃いお話しでした。「恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」初めて会った教会メンバーもすぐに意気投合。帰りはWタクシーで伊丹空港へ。なんとも不思議な魅力をもった先生です。

愛するがゆえの裁き…

今年5月の皇位継承に伴い、天皇陛下の即位を国内外に宣言する「即位礼正殿の義」が午後1時から行われました。TVニュースはこのこと一色だったと思いますが、同じ時間に教会では聖書を学ぶ会がありました。もう何回目かになりますが、創世記3章後半~アダムとエバがエデンを追放されるところから。何度読んでも違った感想が湧いてくる箇所です。ある方が言いました。「神はなぜ二人をエデンから追放したのか…」すると別の方がこう言いました。「裁きがあるから、救いがあるのでは…」まさにその通り。アダムが妻の名を「エバ(生きる)」と名づけたのも、神である主が二人のために皮の衣を作って着せてくださったのも、創世記3章は絶望の中にも希望の言葉が綴られていました。人間にとって最悪と思われる場所にも、神の希望は射し込んでいることを思わされます。

旅の道のりはまだ長い…

10月第三主日、礼拝メッセージはⅠ列王記19章~。カルメン山でバアルの預言者450人とたった1人で戦って勝利したエリヤでしたが、ここでは全く弱々しい姿でした。王妃イゼベルの報復を恐れ、逃亡生活を余儀なくされ、ついには「主よ、もう十分です…」と自分の命が絶えるのを願います。いつ果てるとも知れない戦いの中で、一人の賛同者も得られず、疲れ果て、燃え尽きてしまいそうなエリヤ…。でも、主はそんな彼のもとに御使いを遣わし、「起きて食べよ。旅の道のりはまだ長いのだから」と慰めのことばを語られました。私たちがもう終わってしまいたいと思うその時に、主はまだ終わりじゃないと言われるのです。主は私たちの弱さも、力不足も、挫折感も、すべてを知っておられ、それらも益と変えて、主ご自身のご計画の中に私たちを新しく遣わしてくださるのです。

人生の曲がり角…

長い闘病生活の末に信仰へ導かれた三浦綾子さんのことば。『今まで振り返って見て、大きな不幸と思われることが実は人生の大切な曲がり角であったと思われてならない』誰もが人生の壁にぶつかり、自分の無力さを痛感し、行きどまりにいるように思うことがあります。でも、それも「曲がり角」の一つだと思えたら、新たな道が拓けてくるのではないでしょうか。台風19号で被災された方々を覚えて心から主の慰めをお祈りいたします。今日の祈祷会はイザヤ書34章~、背信のイスラエルの民に神のことばを告げる預言者イザヤ。厳しい言葉が続きます。でも、神の裁きの日が近づいているにも関わらず、人々は我関せずと耳を傾けませんでした。この時代も、神のことばは時至って必ず成ると聖書は告げます。「主の書物を調べて読め。これらのもののうち、どれも失われていない。

ソフトボール大会2019

今年も教会対抗のソフトボール大会が行われました。前日の夜から当日の朝まで小雨が降っていて、主催者側としては中止もやむなしという状況でしたが、不思議と寝屋川の地域は雨が降っていないということで決行しました。遠くは静岡県からも参加してくださって「この日を楽しみに祈っていました!」とのこと。皆さん、この日に向けてよく練習されてきたそうです。今回は総勢約80名の参加者。いつもよりやや少なめでしたが、大きなケガ人もなく、なんとか最後まで天気も守られ全試合ができました。優勝は茨木聖書教会。スポーツを通して互いを思いやり、助け合い、良い交わりの時となりました。終わってみれば、日射しもなく、丁度良い天気でした。来年はオリンピックの関係で10月の「体育の日」が7月の「スポーツの日」となるとのこと。真夏の開催は…難しいです💦

初代牧師、安先生来訪!

10月第二主日。今日は講壇交換で茨木聖書教会の吉持日輪生師が説教してくださいました。マルコ12:9~「手を伸ばしなさい」というテーマで、シンプルかつ内容の深いメッセージでした。神は全てを知っておられて、私たちが躊躇する愛の手を伸ばすように命じておられます。信仰を持って一歩踏み出す大切さを教えられました。午後は初代牧師の安碩珠師が来訪してくださいました。新しくなった教会堂を見て驚いておられましたが、ただ…「ここは事務所ですか?」と聞かれたのが印象的でした。しばしの滞在時間でしたが、開拓当初の貴重なお話しを聞けて感謝でした。また、韓国もクリスチャンの数が減っていて、全人口の20~10%ほどになっているとのことです。日本宣教の困難さも思いますが、そもそも信仰とは何か、なぜ伝道するのか、その根本について考えさせられました。

大型の台風に備えて…

10月半ばというのに、大型の台風19号が非常に強い勢力を保ったまま日本に接近しています。その勢力は関東から関西まですっぽりと覆うほどの大きさです。特に、台風15号の甚大な被害に遭ったばかりの千葉県や関東全域に上陸する予報が出ているのが本当に心配です。スーパーでは早くも水や食料がなくなり、もはや三連休どころか、家屋をあきらめて避難する方々もいる様子。関西も夕方ごろから風が強まってきたので、とりあえず教会の植木や野菜をできるだけ避難させましたが、朝からの台風情報に煽られて気持ちが落ち着きません…。とにかく最小限の被害で済みますように、万軍の主がわれらとともにおられて、砦となってくださいますように。「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」日曜日の礼拝も守られますように…。

松原湖研修会2019…

同盟教団の松原湖研修会に行ってきました。『聖書信仰とこの時代』をテーマに、開会礼拝では創世記6章から、天皇制の課題、障がい者への理解、セクシャルマイノリティの対応、全体講演は『ストレス社会と人間理解』で二回のセッション、最後の派遣礼拝まで非常に内容の濃い学びとなりました。「ヨハネは言った。『私は、預言者イザヤが言った、【主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声。】です。』」同盟教団が統計上(1986-2018)、他に抜きんでて強勢を伸ばしてきたこともわかり、同労の先生方に敬意を表するとともに、たくさんの祈りと交わりにも励まされました。無事に帰阪しましたが、月曜日から教会をご訪問・ご連絡くださった方々、ご迷惑をおかけしました。大きな台風が近づいていますね…。皆さまの地域も被害から守られますようにお祈りいたします。

聴き従う者の幸い…

10月第一主日、列王記第一17章~。イスラエル王国が南北に分断された時代、それまでのどの王よりも主の怒りを引き起こしたアハブ王のもとに、預言者エリヤは遣わされました。「主は生きておられる。ここ数年の間は、露も降りず、雨も降らない。」主の裁きは、エリヤ自身も干ばつに耐え忍ばねばならないことを意味していました。そこで主は、エリヤを試練の中で訓練され、主のことばによって養い、主の業のために用いられていったのです。預言者の「使命」は、時代がどうあっても、人々の心がどこに向いていても、神から預かった「ことば」をまっすぐに語ることです。厳しい裁きは愛の証しでもある。神は義なる方であるとともに憐れみ深い方。試練とともに慰めも備えておられる方です。キリスト者もこの時代の預言者として、いかに生きるかをあらためて教えられました。

あなたの心を見守れ…

自分の外見を気にして鏡でチェックする人は多いですが、自分の内面(心の状態)をチェックするにはどうしたらいいのか。それは聖書のことばを読むことです。「聖書は心の鏡」と言われます。家で一人で読んでも恵まれますが、教会で何人かで読むとさらに多くの恵みに気づかされるものです。「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから沸く。」英会話のチャペルタイムで、この一節をいくつかの翻訳を読み比べて味わいました。‟guard” と‟Be careful”が同じ意味で使われているのは興味深いことでした。とは言え、「心を見守れ」と言われてもなかなか難しいものです。「人は触れるものに似てくる」と言いますが、何を見るか、何を聞くか、何を心に入れるか、それが重要です。暗いニュースが続く時代…。一緒に、聖書で心の状態をチェックしましょう。

明日は祈祷会…

10月に入りましたが、大阪は観測史上最高となる33度の真夏日。教会の草花もしんどそうでした。今日から消費税率も10%に上がり、庶民の家計には負担が増えます(ちなみに、教会の英会話教室の受講料は変更ありません)。さて、今日の聖書箇所はマルコ2章、中風の人の癒しの記事。「イエスは彼らの信仰を見て、『子よ、あなたの罪は赦された』と言われた。」注目したいのは「彼ら」という言葉。つまりイエスが目を留められたのは病人を運んできた4人の信仰でした。だれもがみな、神に祈れなくなったり、希望を失くしたり、この中風の人のように自分の足で立てなくなるような時があるものです。でも、その時、一緒に祈ってくれる仲間がいるとしたら…それは何と有難いことでしょう。教会の水曜祈祷会とはそのような時でもあります。ぜひ一度、いらしてみてください。

パウロの遺言…

9月第五主日。『…女心と秋の空』台風も多い時期、農家の方にとっては無事に収穫の秋を迎えたいところです。人生も時に、台風のような嵐が吹き荒れますが、そんな時こそ、「あなたの信仰がなくならないように」というイエスさまの祈りが聞こえてきます。パウロもローマの獄中から愛弟子テモテに手紙を送りました。それはすでに自分の死刑を覚悟していた時の、まさに彼の遺言的な言葉です。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」「人々が健全な教えに耐えられなくなり、…真理から耳を背け、作り話にそれいくような時代になるから」最後まで自分の命よりも次世代の宣教に心を傾けたパウロ。その思いは一粒の麦となって…愛弟子テモテに受け継がれていったことでしょう。伝道者とは何か…あらためて考えさせられる箇所でした。

原罪ってほんとうにあるの…

「…素朴な疑問です。どうして生まれつき罪を背負わなくちゃいけないのか。そんなのおかしい。」人間はみな、原罪(original sin)を抱えて生まれてくるというキリスト教の教えに反発される方も多いようです。キリスト教は「性悪説」に立つと一般的には言われていますが、私自身は「性善説」であり「性悪説」であるという考えです。「神は人をご自身のかたちとして創造された。」つまり本来人間は良いものとして造られたのですが、最初の人間に罪が入ったことによって、すべての人間が原罪を持つようになってしまったのです。生まれたばかりの赤ちゃんも成長(自我の芽生え)とともに、その原罪の影響が現れます。水が低きに流れるように、人も易きに流れるのに努力は要りません。でも、神を信じ、信仰に生きるとは、人間本来の姿を回復していくことを意味するのです。

汝の隣人を愛せよ…

動物行動学では、自分の命を犠牲にしてまで他者に尽くすことを「利他行動」と言うそうです。キリスト教の場合の「隣人」とはどの範囲までを言うのか…。ある本にそんな問いがありました。隣人とは自分以外のすべての人を指す言葉ですが、「汝の隣人を愛せ」とは簡単な教えではありません。思えば1954年9月26日は、台風15号の影響で青函連絡船洞爺丸が沈没した日。その日、人々がパニックに陥る中で二人の宣教師(Dean Leeper、Alfred Russell Stone)は見ず知らずの隣人に自分たちの救命具を譲って天に召されました。「わたしのために命を失う者は、それを救うのです。」今日はこの御言葉を心に留めて一日過ごしました。写真はキッズフェスタ2019に向けてKFSMミーティングの様子。先生方、遊んでいるようにも見えますが💦子どもたちの救いのために一生懸命です。

右の頬を打つ者には左の頬も…

夕礼拝の後、青年たちと話している中であることが話題になりました。「右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」なぜ神は、人にはできそうにないことを言われるのか。確かにイエスさまの教えは無理難題のように思えます。国家間の戦争や暴力、不条理な事件や犯罪…複雑な現代社会の中で、そんな奇麗ごとを言っているから宗教は…と言われそうです。考えてみると、右の頬を打つ者にあえて左の頬も向けるのは、単なる無抵抗主義ではありません。一つは暴力に対して暴力で返さないこと、むしろ積極的な愛を示す行動、そして善をもって悪に打ち勝つ道と言えるでしょう。言うは易し行うは難し…ですが、「おことばですので…」と従うことが、聖書の世界を知り、今ここに生きておられる神を体験するただ一つの道です。

暑さ寒さも彼岸まで…

午前中は台風17号の接近により、教会の草花も吹き飛んでしまいそうでしたが、午後からは台風一過の見事な青空が広がりました。お散歩中だったのでしょうか…彼岸花がきれいに咲いている様子をある兄弟が写真で送ってくださいました。暑い夏もひと段落で、これから秋が深まっていくのでしょう。今日のディボーションはイザヤ書14章~「全能の神の計画」がテーマ。「万軍の主が計画されたことを、だれがくつがえせるだろうか。」裁きはそれ自体が目的なのではなく、それによって主の憐みが開かれる時。すべてのできことには意味があります。人は試練や苦しみを通されても、なお主の癒しや回復を経験します。人生も時に、台風の強風に吹き飛ばされそうになる時があります。でも、そこで私たちに求められるのは、高ぶりを捨てて、憐れみを求めることではないでしょうか。

子どもたちと礼拝…

昨日の礼拝は外部講師が来てくれたおかげで、久しぶりに子どもたちの礼拝でメッセージをすることができました。両手でパペットを動かしながら「つかみはOKかな」と思いきや、「手が見えてる!」「頭が見えてる!」と手厳しい声も(練習不足でした💦)。気をとりなおして、教材も使いながらイエスさまの十字架が天国への唯一の懸け橋であることを話しました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに行くことはできません。」「じゃぁ、イエスさまを信じる子は手を上げて…」「はい」…子どもたちの素直な反応に励まされながら、なんとか役割を果たせてホッとしました。今日は初めて来てくださったご家族もおられて感謝でした。台風17号が接近…。特に中・四国の方々、守られますように。

秋の歓迎礼拝…

9月第四主日は秋の歓迎礼拝。礼拝では玉井・チャーリー・千尋氏(義兄)がメッセージをしてくださいました「皆さんは自分の弱さを誇れますか…」という問いかけから、自身がアメリカで生まれ育った中で感じた痛み、青年時代の挫折、そして現在精神障がい者のグループホームで働く経験から、具体的な事例も交えて証をされました。「主は『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」有名なⅡコリント12:9。自分の弱さとは何か…。弱さのうちに働く神の力とは…。午後の講演会でも一人一人が様々な感想を持ちました。避けられない現実の中で、キリスト者としていかに生きるかを考えさせられる一日でした。

生きる意味…

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」もう少しで稲刈りの時期。台風も近づいていますが、なんとか乗り切ってほしいところです。私はデイサービスの送迎を週二回ほど行っていますが、そこでご年配の方からいろいろなことを教えていただきます。今日も大正12年生まれのご婦人が「いい加減に人生を終わらせないと家族に申し訳ない…」と弱々しい声ながら、しっかりした口調で話してくださいました。いつも、謙遜とはどういうものかを身をもって教えてくださっているような素敵な方です。ここでは認知症の方もおられ、介護・介助が必要な方もおられ、人はみな年老いていく者であることを実感します。時間には限りがある。自分はどのように年を取りたいか…。何のために生きているのか…。神を知り、聖書と出会わなければ…その真の意味に気づくこともなかったのだと思います。

信頼関係あっての反抗…

埼玉県で小4の男の子が父親に首を絞められて殺されてしまう事件がありました。何があったのか詳しいことはわかりませんが…なんとも痛ましい事件です。私もわんぱく坊主でしたので親によく叱られ、青年期にかけても特に父親との関係が難しい時期がありました。警察のお世話になったことはなかったですが、とにかく生意気でしたので親としては育てづらい子どもだったと思います。それも親の忍耐あってのことだったのでしょう。ある本に「親子の信頼関係があるからこそできること」「それぐらいの反抗では親は潰れないという確信があるからこそ」と…。なるほど、確かに父は厳しくて強い人でした。後半は少し弱くなっていましたが。親孝行したい時に親はなしとはよく言ったもの。つくづく感謝の足りない者でした。神の忍耐もそれと似ているように思います。

試練を通されるわけ…

9月第三週の祈祷会はイザヤ書8章~、預言者イザヤはアッシリヤ軍の侵入によって国家存亡の危機が近づいていることをイスラエルの民に宣べ伝えます。しかし、人々は、「神が私たちとともにおられる…。万軍の主を聖なるものとせよ」というイザヤのことばに耳を傾けず、悔い改めには至りません。むしろ、神はなぜ試練が迫っていることを知りながら、それを未然に止めてくださらないのか。ある方の「神なら何をしても許されるのでしょうか」という問いかけも心に残りました。大震災、大洪水、不条理な事件、戦争、紛争…神がいるならなぜこれらの悲しい事件が起こるのか。…神の御心は限りある人間にすべて理解することはできません。でも、それについて考える、聖書から教えられる、神を知る…それが生かされている私たちにとってとても大事なことなのだと思います。

死を見つめ、今を生きる…

今年のファミリーデイキャンプのテーマは『終活を考える』でした。午前中は映画を鑑賞、そして昼食とゲームを挟んで、午後から学びの時を持ちました。「祝宴の家に行くよりは、喪中の家にいくほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」映画の中で「あなたの人生最期の日を知りたいですかと聞かれたら、96%の人が知りたくないと答える」という件がありました。確かに…そうかもしれません。でも、確実に、平等に、誰もが人生最後の日を迎えます。その日を心に留め、限られた時間の中で、今生かされている現実を感謝し、いかに生きるかを考えるのは大事なことだと思いました。祝日にもかかわらず、教会メンバーと一緒にじっくり交わりの時が与えられて感謝でした。大きな台風が過ぎて、夏の暑さもだいぶやわらいで、秋の気配を感じる時期になりました。私も50歳を前に、人生の秋が深まっていくのを感じています。

ともに喜び合う信仰…

9月第三主日。まだまだ日射しの厳しい朝ですが、千葉県の被災された方々を思うと…当たり前ではない穏やかな朝を心から感謝しました。礼拝ではピリピ人への手紙2:19~「ともに喜び合う信仰」をテーマにメッセージを聴きました。そこからパウロが信頼する愛弟子のテモテとピリピ教会の使者エパフロディトに注目して、彼らの生き方から学びました。テモテは霊の父であるパウロとずっとともにいましたから、パウロから「彼は私の心と同じ心だ」とまで言わせました。また、エパフロディトはパウロに仕えている途中で死ぬほどの病気にかかり、どうすることもできない状況を経験しましたか、神の憐れみを受けて立ち直り(快復し)、ピリピの教会へと遣わされていったのです。夕礼拝にも新来者の方が来てくださって、様々な分かち合いから大いに恵まれて感謝でした。

雪のように白く…

今週の水曜祈祷会はイザヤ書1章~、アモツの子イザヤが見た幻は背信のイスラエル人に対する神の厳しい裁きの言葉。彼らはイスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去り、さらに、彼らの捧げる形だけの礼拝を、主は喜ばれないばかりか、それを「憎む」「疲れ果てた」とまで告げられました。もはやここまで言われたら…と思うようなところですが、主はご自分の民をそのまま見捨てることはありませんでした。「さぁ、来たれ。論じ合おう。たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」厳しい裁きの言葉は悔い改めを迫る愛の表われでした。見捨てられても仕方のない者を、主は忍耐深く呼びかけて、ご自身のもとに帰ってくるのを待っていてくださる。わが子を思う、親の愛。…子どもの頃、親に厳しく叱られたことを思い出しました。

婚約式を明けて…

昨日は60名を超す方々が礼拝に来られ、婚約式も終始なごやかに行われました。大勢の方々の笑顔は、二人が普段いかに人と人との関わりを大切にしているかの表われでしょう。「先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。…必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」二人が「証し」の中で読んでくれた御言葉が心に留まりました。いろいろあった二人ですから、期待と不安が入り混じっているかもしれませんが…だからこそ多くの祈りに支えられて、主に信頼することを学んで行ってほしいと思います。私も緊張から解放されて、今日は久しぶりにホッとした休日。お昼ごろに熊本から懐かしい兄弟が3年ぶりに教会を訪ねてくださってしばらくスマホ講座となりましたが、ゆっくりリラックスできました。

赦し合う信仰…

9月第二主日は大勢の方が礼拝に出席されました。礼拝メッセージは新約聖書の中でも最も短い「ピレモンへの手紙」から。一人の逃亡奴隷の赦しを乞うパウロの私的な手紙。この手紙がなぜ聖書に入れられ、全世界の教会で読まれるようになったのか…。あらためて一つ一つの言葉や文章にじっくり目を留めて読んでみると、そこには神の愛と赦しがありありと描かれていることに気づかされます。主人の物を盗んで逃げて来たオネシモ。その彼がなぜかローマの獄中でパウロと出会い、福音を聴き、悔い改めて回心に至る。パウロはオネシモのために、愛する同労者ピレモンに手紙を書き、彼を赦してあげてほしいと懇願する。まさに主のとりなしです。今日は礼拝後に婚約式もありました。神と人との前で誓約をした二人が、その誓いを全うすることができるように心から祈っています。

分かれと赦し…

内村鑑三が主宰する聖書研究会には常に多くの人が集まり、中には後に日本の各界に大きな貢献を為した優れた人物たちもいました。黒崎幸吉、畔上賢造、藤井武、石原兵永、塚本虎二…。中でも塚本は、語学の才能もあり、聖書原典を詳しく学び、病弱な内村に代わって講義をすることもありました。でも、いつしかそんな彼も、個性の強い内村と感情的にぶつかり、ついに二人は仲たがいに…。その後、内村の心臓病が重症化し、死期も近いと聞いた塚本は師の見舞いに…と思いますが、結局それもかないませんでした。ある日、内村の弟子の一人が塚本にこう告げます。「先生は病床の中で何度も仰っていました。『塚本は来ないか。塚本に会いたい。…』」師の思いを知った塚本は声をあげて、男泣きに泣いたとのこと。せめて世を去る時に心残りがないように心がけたいものです。

ハートフル英会話・秋期コース

9月最初の木曜日、ハートフル英会話・秋期コースが始まりました。今期も大人クラスの講師はレイチェルさん、Kidsクラスはホゼアさんです。木曜日にいろいろな方が訪ねてくださると、教会もにぎやかな雰囲気が戻ってきます。特にKidsクラスは、さっそく元気いっぱいの子どもたちの声が響きました。英会話の基本はまず自然な英語に慣れることからです。教科書にとらわれず、クラフトをしながら、ゲームを交えながら、使える英語を身につけていきます。大人のクラスは、ご婦人の方が多いですが、趣味の話し、旅行の話し、時に政治や真面目な話しも…とにかく楽しそうな笑い声が聴こえてきます。ハートフル英会話は、コースの途中からでもオブザーバー(無料体験)として参加することができます。ぜひご興味のある方は、一度、無料体験レッスンにお申し込みください。

人生の終わりに何を思うか…

今日の祈祷会はⅡサムエル記22章~、羊飼いだった少年ダビデは、預言者サムエルによって油注がれ、イスラエルの王にまで導かれました。でも、その生涯は決して安易な道ではなく、サウル王の執拗な迫害に遭い、息子アブサロムから逃げ惑い、多くの失敗をし、神に打たれ、苦しむこともあった波乱万丈の人生…。それでも、彼は人生の終わりにこう詠いました。「私は苦しみの中で主を呼び求め…私の叫びは御耳に届いた。」主は生きておられる…我が人生も幸いなり。それを実感するのは、少し後にならないとわからないものかもしれません。病気になって初めて健康のありがたさを知るように、何気ない今日を感謝する時がやがて訪れるのでしょう。「我が計画はすべて失敗なりし。されども、我にかかる神の計画はすべて成功なりし。」明治期のキリスト者・内村鑑三の述懐です。

もし愛がなければ…

9月第一主日、今日の礼拝メッセ―ジはⅠコリント13章~。有名な愛の賛歌。愛がなければ、愛とは何か、この世で一般的に使われる「愛」と聖書が教えている「愛」とはどのように違うのか。「愛」(アガペー)とは、自己犠牲の愛、また愛されるに値しない者を愛する愛のこと。「愛は寛容であり、愛は親切です。」この「愛」に自分の名前を置き換えてみたら、自分がいかにほど遠い者であるかを思い知らされます。逆に、イエス・キリストに置き換えて読んでみると、「愛」とは何かがよくわかってきます。「愛」とは深い言葉。もしこの愛にあなたは生きているかと迫られたら、だれもがたじろがずにはいられません。でも、逆に、この愛がそれに全く値しない自分に惜しみなく注がれていなければ、だれ一人救われません。感謝の生活はこの恵みに気がつくことから始まるのです。

祈られる経験…

献堂二周年記念礼拝に片山先生ご家族が出席してくださいました。教団の集まりなどでよく声をかけてくださり、私の牧会や会堂建築のために祈ってくださいました。その祈りにどれだけ励まされたことかわかりません。教会は、神を礼拝する所であるとともに、互いのことを覚えて祈り合う家族のような集合体です。隣人の欠点よりも、長所に目を留める。失望よりも、希望に目を向ける。赦される事から赦す事を学び、祈られた人は今度は祈る人に変えられる。今日もある青年の引っ越しの片付けを、急遽、3、4人が別れを惜しんで手伝いに来てくれました。また、家族の病状悪化の知らせを受けて、急遽、車を走らせる夫婦のためにとりなし祈る人たちがいます。自分の知らないところでも、自分のことを覚えて祈ってくれる人たちがいる、その心強さ…経験された人ならわかります。

赦される経験…

水曜祈祷会が始まりました。Ⅱサムエル記18章~、ダビデ王は息子アブサロムの攻撃に対して、千人隊、百人隊で迎え撃ちます。ダビデは「私自身も、あなたがたと一緒に出陣する」と言いますが、兵たちに反対され、それでも一言「私に免じて、若者アブサロムをゆるやかに扱ってくれ」と命じて、兵たちを送り出します。結局、そんな王の願いも空しく、アブサロムは非業の死を遂げました。まさに親思う心にまさる親心。父ダビデの心は、息子アブサロムに結びついていたのに、それを知らずに親子は永遠の別れに。意地を張って、行くところまで行ってしまったアブサロム。どこかで立ち止まり、方向転換することができれば違った人生もあったはずなのに。子どもの人格形成にとって「赦される経験」「受け入れられる経験」は極めて重要。それは大人にとっても言えることです。

献堂二周年記念&オープンチャーチ…

献堂二周年記念礼拝をささげました。青野兄がお証しをしてくださり、この地に教会が建ったことの恵みを分かち合ってくださいました。また、玉井師は「真の悔い改め」というテーマでメッセージをとりついでくださり、あらためて信仰の原点や教会を建て上げる賜物について学びました。午後からはオープンチャーチを行い、子どもから大人まで、ご家族で、青年たちで、地域の方々が大勢きてくださいました。途中、アンダンテのミニコンサートもあり、格式の高い音楽に心が癒されました。教会は神を礼拝し、聖書を学ぶことも大事ですが、今日のように地域の方々にとって、気軽に、笑顔にあふれ、そして何かホッとできる場所に思っていただけたら幸いです。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。

主はよみがえられた…

今朝のディボーションの箇所は、マタイ28章~「あなたがたは、恐れることはありません。…ここにはおられません。よみがえられたのです。」安息日が終わって週の初めの日の明け方に、マリヤたちはイエスが納められた墓に行きました。すると墓の中は空っぽで、主の亡骸はありませんでした。泣いている彼女たちのもとに、御使いが近づいて驚くべき良き知らせを伝えたのです。主は死に勝利され、御国への道を、永遠のいのち、愛する者との再会の希望を私たちにもたらしてくださった。人間の目には絶望にしか思えなかった十字架の死…でも、神はその先に素晴らしいご計画をもっておられたのです。私たちの人生にも悲しみはあります。でも、この方にあって、悲しみは必ず喜びにかえられる。日曜日(週の初めの日)の礼拝は、このイースター(復活)の喜びが始まりなのです。

夏のたまった宿題を…

夏の外部奉仕もひと段落ついてホッと一息。夏のたまった宿題をしなくては…とわかっていながらなかなか気持ちが切り替わらないところです。小学生キャンプはいつも一回目のメッセージがカギ。子どもたちは「この先生、どんな話をするんだろう」という顔で聴いています。そこで「つまんない」「長い」と思わせてしまうとメッセージ全部に影響し、子どもたちとの関係も縮まりません。だから、いつもなるべく早く行き、できるだけゲームや自由時間にも参加して関係作りを心掛けます。メッセージも一応原稿にはしますが、視覚的にも伝わるように工夫するので大人のメッセージ以上の準備が必要。キャンプの働きは毎年の積み重ねです。でも、いつも最後には子どもたちの素直な応答に励まされて…行ってよかったなと。いつまで呼んでもらえるかな…と思いつつ、現実の生活に。

燃える太陽キャンプ2019…

今年も箕面市の青少年教学の森で燃える太陽キャンプがありました。箕面市が一望できる山の上で、私は3回のメッセージを担当。テーマは「チャレンジ」。どこから話そうかと思いましたが…詩篇23篇からダビデの生涯を中心に話しました。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」羊飼いだった少年ダビデは、3m近い大男のゴリヤテにも一歩も引かずに戦って勝利ました。その後、サウル王の妬みを買って逃亡生活にもなりますが、主はそんなダビデをイスラエルの立派な王さまに導かれたのです。人生はチャレンジの連続。チャレンジには失敗も挫折も、思わぬ妬みを買うこともある。でも、それによって僕たちは成長し、次の成功につながる。主はそのどんな時もともにいて導いてくださる。子どもたちの心に何かしらの勇気が湧いてきてくれたら幸いです。

夏休みの青年たちと…

日曜日の午後は来週のオープンチャーチに向けてみんなでトラクト配布にいきました。照り付ける日差しの中、5000枚の案内が2時間ほどで手配り完了し、差し入れのアイスをいただきながら、しばしの歓談タイム。夕方の礼拝にはいつものメンバーに加えて、ゲストのような久しぶりの方々も来てくださり、メッセージ後の分かち合いでも大いに恵まれました。その後は、青年たちと夕食、卓球、バトミントン、さらに中高生も加わって真面目トーク…と、遅くまで語り合いました。みんな夏休みということで少し羽目を外してしまいましたが(大人が一緒にいながら…ご心配おかけしてすみません)時間は気をつけないければいけません💦でも、家族のこと、将来のこと、みんなちゃんと考えています。今日のことも彼らの記憶にとどまって、いつか実が結ぶように祈っています。

力強く広がる主のことば…

教会のある兄弟から百日紅の見事な写真が送られてきました。田んぼの稲穂も青々と成長してきました。8月第三主日、礼拝メッセージは使徒の働き19章~パウロの第三回伝道旅行から。聖霊は再びパウロを導いてアジア州最大都市エペソでの伝道へ遣わされました。そこでは信仰に入った者たちの中にまだ古い考えや迷信に捉われている者たちがいました。パウロはそんな彼らに丁寧に、かつ忍耐深く福音の真理を語り続け、多くの者たちが悔い改めに導かれたのです。聖書は迷信に捉われることや魔術的なものを警戒します。理由は悪魔がそれを利用するからであり、未来のことは神にしかわからないからです。お盆本来の精神も、すでに亡くなったご先祖のために普段しない善行を慌ててするよりも、今生きている家族や隣人にあらためて愛を表わすことの方が本旨ではないでしょうか。

夏の暑さが帰ってきました…

台風一過で暑い夏が戻ってきました。皆さまの地域は大丈夫だったでしょうか。今回の大型台風は西日本を直撃し、特に四国や広島、和歌山などで大きな被害があったようです。被災された方々にお見舞い申し上げます。大阪箕面は思ったより雨風も少なく、教会も無事に守られました。平時の時は忘れがちですが、湿度80%と言えども穏やかな生活の中で礼拝をささげられるのは感謝です。明日に備えてお掃除も週報も完了し、あとはメッセージ…を。イザヤ25:4「あなたは弱っている者の砦、貧しい者の、苦しみのときの砦、嵐のときの避け所、暑さを避ける陰となられました。」そろそろUターンで帰って来られる方々も多いのでは…。また明日は連休最後の日という方もおられるでしょう。ぜひお近くの教会で、賛美をささげ、神の前に静まって、御言葉に耳を傾けましょう。

台風が近づく中で…

大型の台風10号が九州・四国地方に接近し、すでに一部では暴風域にあるそうです。今日は大阪も天気は良かったのですが、風の強い一日となりました。明日の午前中には四国に上陸し、西日本でも今後さらに風雨が強くなってくる見込み。74年目の「終戦の日」を迎える中ですが、すでに各地の式典が中止となり、山陽新幹線も運転見合わせ、さらに甲子園も順延とのことですから大荒れの天気が予想されます(明日、お天気だったら甲子園に行く予定でした…残念)。ということで、台風接近に備えて植木や作物の避難措置、また、来週のキャンプのメッセージの準備、オープンチャーチのトラクト配布…と気の抜けない週末になりそう。…この時期もっとお忙しくされている先生方もいますから文句は言えませんが。帰省中の方、Uターンで帰って来られる方、どうぞ守られますように。

神からの自律という誘惑…

8月の聖書を学ぶ会は創世記3章、人間の罪の始まりから。サタンは直接神の命令を聴いていなかったエバに声をかけ、言葉巧みに彼女の心を揺さぶりました。そして徐々に神との命令も曖昧となり、エバもアダムもついに善悪の知識の木から食べてしまいます。サタンは人間を誘惑しますが、実際に罪を犯してしまうのは人間でした。悪魔のほくそ笑む顔が目に浮かびます。人間の目が開いて分かったのは、自分が裸であること…。神からの自律を願った人間は、神のようになるどころか…罪の奴隷に。こうして人間は自分から神のもとを離れていったのです。そんな人間に「あなたはどこにいるのか」という神の呼びかけがあります。神が問われたのは単なる場所ではなく、神の前における人間のあり方でした。この呼びかけは今日の私たちにも向けて呼びかけられているのです。

まさか私ではないでしょう…

今日のディボーションはマタイ26:14~、十字架の最期の時が迫る中でイエスはエルサレムからすぐ近くのベタニヤ村でひと時の休息をとられました。そこである女が高価な香油をイエスの頭に注ぐと、弟子たちはなぜこんな無駄なことを…と憤慨しました。この後、その内の一人イスカリオテ・ユダがイエスをわずか銀貨30枚で売り渡すことなど夢にも思わずに。でも、イエスだけはその裏切りを見抜いて、食事の席でユダに迫ります。「まさか私ではないでしょう」「いや、そうだ」青ざめるユダの顔が目に浮かぶシーン。結局、ユダは悔い改めるどころか、その恐ろしい計画を実行してしまいました。ルカ22:3「サタンが入った」丁度、明日の学び会では創世記3章から罪の始まりを学びますが、あらためて人間がサタンの思い通りに動かされてしまうことの恐ろしさを思わされます。

主イエスを信じなさい…

8月は帰省中の方も多く、教会はなんとなく寂しくなりますが…代わりに休暇中の方が訪問してくれることもあります。こういうのは嬉しいですね。8月第ニ主日、礼拝メッセージは使徒の働き16章16節~パウロの第二次伝道旅行から。ある夜、幻でマケドニヤ人の叫びを聞いたパウロは、海を渡ってピリピへと向かいます。そこでの宣教は苦難の始まりでしたが、そのお陰で牢獄の中にいた者たちや看守たちに福音が伝えられ、救われる者たちが起こされました。神の御旨は人間には考えもしないところにあります。それは聖書を読んでいて、ふと思いつく…というようなものではなく、たとえ幻のようなものでも、自分への語りかけだと確信したら命がけで従っていかなければわからないものです。そうしたキリスト者たちの命がけの宣教が今日の私たちまで続いていることを感じました。

後悔と悔い改め…

今日は久しぶりの水曜祈祷会でした。午前はマタイ24章29節から再臨の主の備えについて。聖書の最後の言葉「主イエスよ、来てください。」を心からアーメンと思えるか…。主にお会いするのは幸いなことですが、救われていない家族の事を思うと今すぐ終末が来てほしいとは思えないという正直な感想がありました。また、午後はマタイ27章1節から後悔と悔い改めについて。主を裏切ったイスカリオテ・ユダは後悔したとありますが、「悔い改め」とどう違うのか…。罪を犯した過去を悔いるのは後悔の生き方、神の赦しをいただいて新しく前を向いて生きるのは悔い改めの生き方です。「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」帰省の時期ですね。家族伝道・証しが祝されますように祈っています。

夏ノ暑サニモ負ケズ…

日中の最高気温は35度。全国的にはもっと暑い地域もあると思います。皆さま、本当に暑中お見舞い申し上げます。どうぞ涼しい部屋の中で、なんとかこの時期を乗り切りましょう。この暑さでは人間はもちろんのこと、草花もへばってしまってかわいそうです。かと言って、こまめに水やりをすれば「真夏の日中の水やりは根を痛める」とも言われ、根腐れや酸欠状態の原因にもなります。なかなか難しいもの。人間もどこか似ているような…。その中で、夏ノ暑サニモ負ケズ、大輪を咲かせるヒマワリが私は好きです。私自身も八月の誕生日なので暑さには強い方ですが、教会のヒマワリには敵いません。「あなたは弱っている者の砦、貧しい者の、苦しみの砦、嵐の時の避け所、暑さを避ける陰となられました。」無理はせず、こういう時は静かに聖書の世界に浸るのが一番です。

聖霊なる神さまとともに…

8月第一主日、今日はまた格別に暑い一日でした。礼拝メッセージは使徒の働き13章~、まだ設立されたばかりのアンティオキアの教会からバルナバとサウロが異邦人宣教に遣わされる場面から。「聖霊の言葉によって」「聖霊によって送り出され」「聖霊に満たされ」と世界宣教の第一歩が聖霊なる神のもとに展開されるのを見ました。この宣教の波紋は、時代を超えて私たちのもとにも届き、また私たちを通してさらに広がっていきます。ぜひ多くの方が、この福音の恵みにふれていただけたらと思います。午後はバイブルクラス、囲碁クラス、卓球、野球とそれぞれに時間を過ごしました。「教会で野球などけしからん」と怒られそうですが、外は暑すぎるので💦スポンジボールで体を動かしました。夕拝後は青年たちに誕生日を祝ってもらい、何とも充実した感謝な一日でした。

CS合同キャンプ

貝塚にある教会の合同キャンプで三日間、先生方をはじめスタッフの方々にお世話になりました。子どもたちも元気いっぱいで、山登り、工作、花火…と、最初は様子を見ていた子どもたちも、途中から髪を引っ張ってきたり、足で蹴ってきたりと手厚い歓迎を受けました💦メッセージのテーマは「大切なきみだから」。創世記1~3章「初めに神が、天と地を創造した。」信仰の目をもって見るのと見ないのとでは、世界はまるで違って見えてくること、『創造の始まり』『人間の始まり』『罪の始まり」そして「救いへの招き」についてお話ししました。3年生以上の子どもたちには難しいところだったかもしれませんが、みんなよく聴いて信仰決心にもたくさんの子たちが応えてくれました。子どもたちの心に蒔かれた信仰の種が、教会でますます成長しますようにお祈りしています。

夏のファミリーコンサート2019

梅雨明けの7月の第四主日を迎えました。礼拝メッセージはヨハネの黙示録3章14節~「耳のある者は聞きなさい」ラオディキヤの町は、商業が盛んで経済的に豊かな町だったようです。この町には迫害、偶像礼拝、異端に対する警告や励ましもありません。ただ…この教会の課題は、そのような問題よりも、熱もなく冷たくもない信仰生活だったのです。主は、この教会の「生ぬるい信仰」を叱責をされました。そして主は今も、戸の外に立ってたたき続けておられるゆえに、熱心になって悔い改めなさいと言われました。神の愛と忍耐が聴こえてくるようです。それは今日の私たちにも同じでしょう。今日は礼拝後の午後から恒例の夏のファミリーコンサートがありました。演奏あり、賛美あり、太極拳あり、そして聖歌隊の特別賛美もあって盛りだくさんの内容でした。

サマーキャンプ2019

石川県の教会のサマーキャンプに行ってきました。初めて行く教会でしたが、スタッフの先生方をはじめ子どもたちが温かく迎えてくださって充実した三日間でした。テーマは「しゅっぱつ☆しんこう!」アブラハムのところから4回のメッセージをしました。難しいところもあったり、楽しいプログラムで遊び疲れて、みんな眠たくなっちゃうかな…と思いきや、よくメッセージを聴いてノートもしっかりとっていて驚きました。途中、懐かしい友人にも会えたり、お世話になった先生の新会堂も観に行けたり…なんか一足早い夏休み気分も味わって、最後のメッセージでの「信仰の招き」、その後の「証し会」でも、子どもたちの素直な応答に励まされました。帰りは人間アーチで見送ってもらい、キャンプで覚えた歌を口ずさみながら無事帰宅しました。お祈りを感謝いたします。

梅雨明け間近か…

昨夜の激しい雨があがり、今朝は青空が広がって湿度の高い暑い日になりました。今年はキュウリがよく採れました。さて、今日の旧約聖書を学ぶ会では創世記2章から「人間の始まり」について学びました。私たち人間は地のちりで造られ、いのちの息を吹き込まれて生きるものとなりました。人間は、創造主なる神とは根本的に違って、あくまで他の動物たちと同じ被造物です。ただ神のかたちに造られていることが、神との交わりを持つ唯一の特権でした。楽園のようなエデンに置いていただき、そこを耕し、守ることが人間の務めだったのです。一人ではなく、助け手としてのパートナーも与えていただき、これから…というところでした。しかし、人間はサタンの誘惑を受け、神との約束を破って楽園を追われていくのです。次回の学びは8/13。どうぞお気軽にいらしてください。

玉垣資牧師、講壇交換…

今日の礼拝は講壇交換で、高槻聖書教会の玉垣資先生がメッセージを取り次いでくださいました。詩篇37:5〜、「思い通りにならない人生の幸い」。私たちは自分たちが思い通りに事が運ばないと幸いとは言えないと思いがちが、一番いいのは主の御心が実現することではないでしょうか。私たちの計画は途中でとん挫することもあります。でも、神の計画は決して変更されることがないからです。主にゆだねる(ころがす)ことの大切さを、先生のお証しをまじえてわかりやすく語ってくださいました。午後からの分かち合いも、先生を囲んで実に和気あいあいと楽しそうでした。私は高槻聖書教会でのメッセージでしたが、信徒の皆さんが本当によく聞いてくださって、語る方も励まされて帰ってきました。午後からは役員会、夕礼拝、卓球大会…と今日も盛りだくさんの一日でした。

神の約束が実現する時…

子どもには子どもの時間感覚があり、大人には大人の時間感覚があるように、神には神の時間感覚があります。神の約束は時至って必ず実現します。でも、それは神の時間感覚に添ってなされるものであって、しばしば私たちの期待通りには運ばないもの。その事を忘れないで、神の約束を待ち望みたいものです。今日の祈祷会はⅡサムエル記5章~、イスラエルの全長老がヘブロンの王のもとに来て油を注ぎ、ついにダビデはイスラエルの王となりました。こうしてダビデは難攻不落と言われたエルサレムを攻め取り、周りには城壁を築き、王宮を建て、「ダビデの町」としたのです。「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。」午後からはKFSMミーティングがあり、同労の先生方と次世代宣教について楽しく、時に真剣に語り合いました。

人の歩みを確かにするのは…

だれもが、何か不安で物足りない人生より、いつも充実した意義ある人生を送りたいと思うものですが、なかなかその道を見出せないという方も少なくありません。多くの人は、自分以外に頼れるものはないから、自分の力でやっていくしかないと考えます。まして、神に頼ることなど…と思われるかもしれません。でも、聖書はこう告げます。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かにするのは主である。」私たちの人生を確かなもの、価値あるものにするのは、主なる神だというのです。もしお手元に聖書がある方でしたら、試しに「箴言」を一日一章ずつ読まれてはいかがでしょうか。できたらネットではなく、書物で、特に若い世代の方にお勧めしたい!もちろん、あらゆる世代の方に…。教会もそのお手伝いをいたします。ぜひ一緒に探求してみましょう。

小さな群れであっても…

7月第ニ主日の礼拝。ヨハネの黙示録3章~フィラデルフィアの教会に宛てた手紙から。キリスト教信者に対する風当たりの厳しい時代、「兄弟愛」の意味を含む町名の教会は肩を寄せ合いながら助け合っていたのでしょう。この教会は小さな群れだったようですが、世と妥協せず、迫害にも屈せず、しっかり主の言葉を守り、主の名を否まずに歩んでいた教会でした。イエスも「からし種」を譬えて教えられたように、教会も信仰も大小の問題より、そこに命があるかないかが最も重要なことです。「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」今日は午後から大和郡山めぐみ教会の献堂式に出席してきました。祝福を祈りつつ、主のご計画に大いに期待します。おかげさまで夜の夕拝にも間に合って感謝でした。

もう一年そのままに…

イエスの話された譬え話の一つに「実を結ばないイチジクの木」があります。ある人がぶどう畑にイチジクの木を植えましたが、待てど暮らせど実はならず三年が過ぎました。主人は番人に「もう、切り倒してしまいなさい」と命じますが、番人はあきらめずにこう言いました。「ご主人様。今年一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。それで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。」何とかの顔も三度までと言いますが、主はもう一年そのままに…もう少し待ってください…とあきらめずに祈っておられるのです。生きている限り、私たちの人生は苦難の連続です。辛いことや悲しいことは次々と起こります。でも、そんな毎日をともに苦しみ、何か一つでも希望の実を結べるように待っておられる方がいるのです。

たとえで話す理由…

祈祷会はマタイ21:33~。イエスは祭司長たちによく譬えを用いて話されました。その方が聴き手により効果的に、そして印象深く伝わるからです。ある家の主人が大切なぶどう園を農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時が近づいたので、主人は自分の収穫を受けとろうとして、農夫たちのところにしもべを遣わしたが、農夫たちは次々としもべたちを殺してしまった。そこで主人は息子なら敬ってくれるだろうと思って遣わしたのですが、その息子も殺されてしまったという話しです。主はここで「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。」という旧約聖書を引用されました。まさに主は人々に捨てられ十字架にかけられましたが、その死と復活が要の石となって神と人とを繋ぎあわせたのです。最後まで悔い改めを迫られた主の忍耐と憐れみ深さが伝わってきました。

女性教職論について…

ある青年から「聖書は女性教師(役員)を禁じてるのではないですか」と質問を受けました。一つの根拠は「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい。アダムが初めに造られ、それからエバが造られたからです。」です。手厳しい言葉ですが…パウロはこれを時代的状況というより、創造の秩序から語っているというのがポイントです。正直、私は勉強不足でしたが、今回この件に関して各教派、神学者の間で様々な意見があることがよくわかりました。私たちの同盟教団も1988年の総会で女性正教師を認める決議をし、その頃の先輩牧師の論文なども読みましたが大変勉強になりました。あらためて女性教職(役員)は神の御心だと確信します。「男も女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。

約束の白い衣を目指して…

梅雨晴れの朝、7月第一の主日礼拝を捧げました。メッセージはヨハネの黙示録3:1~。復活の主はサルディスにある教会に、「あなたは生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚ましなさい。」と手紙を送りました。人はあなたの行いを評価しても、神の目にはすべてがほどほどで中途半端だというのです。「目覚めなさい」とは裁きの言葉ではなく、やり直すチャンスがあるという神の招きの言葉でした。主は最後まで信仰に歩み続ける者を求めておられ、白い衣を着せてくださり、いのちの書に名を記し、父なる神と御使いたちの御前で名を呼んでくださるのです。今日は午後から聖歌隊のレッスンがありました。美しい合唱はファミリーコンサートで聴くことができます。また、夕礼拝の後は青年たちと神学談義。テーマは女性教職論。実に考えさせられる分かち合いでした。

主イエスよ、来てください…

今日はハートフル英会話春期コース(大人)が最後のクラスでした。チャペルタイムではレイチェル先生の手作り教材によって、天地創造から人間の堕落、イスラエルの罪の歴史、救い主の誕生、十字架、復活、聖霊降臨、世界宣教、そして新天新地へと続く壮大な神のメッセージがよくわかりました。聖書の最後のページは「終わり」ではなく、「主イエスよ、来てください。」で閉じられます。つまりこの物語にはまだ続きがあって、今日の私たちがこの神のメッセージをどう受けとめるかが問われているのです。この地上の世界は永遠ではありません。必ず終わりの時が来て、人はみな神の前に立つ時が訪れます。その時になって慌てふためいても…。でも、生きていて神を信じる者は、決して死ぬことがなく、永遠のいのちが与えられる、それが最も重要な神のメッセージなのです。

離婚、結婚、独身…

祈祷会はマタイ19章~、パリサイ人たちはイエスを陥れようと「離婚」について質問しました。申命記24:1には、何か恥ずべき事を発見した場合には離婚状を書いて離縁できるとあります。「何か恥ずべき事」とは何か。当時の律法学者の間には、姦淫だけを指す、あるいは、もっと広い意味もあるの二つの立場がありました。いずれにせよ、主はそこで彼らの質問に直接答えず、その根源的な「結婚」とは何かを明らかにされたのです。「それゆえ…ふたりは一体となるのである。」つまり結婚とは男と女に造られた者たちが本来の一体性を回復することであり、それゆえ主は「神が結び合わせたものを人が引き離してはならない」と教えられたのです。今日の離婚原因の一位は「性格の不一致」とのことですが、あらためて結婚、離婚、独身について聖書から見つめ直したいものです。

この子どものように…

マタイ18:1~、弟子たちはイエスに従いながらも、自分たちの中で誰が一番偉いのかという思いが絶えずありました。この時も、イエスがペテロとヤコブとヨハネだけを連れて山に登られたことやペテロの分の税金を払うことなど、他の弟子たちは面白くなかったでしょう。彼らの関心は神の国の完成よりも、自分たちの地位にあったのです。そこでイエスは小さな子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、あなたがたも悔い改めて子どものようにならなければ御国に入ることはできないと教えられ、さらに子どものように自分を低くする者が御国で一番偉いことを説き明かされたのです。多くの人は人生に勝とう勝とうと頑張ります。でも、「負けて勝つ」とも言いますが、時に「負け」を認めることは「勝つ」こと以上に意味があります。最後に勝つために、今、何をするかです。

高橋渉先生、登壇…

今日は歓迎礼拝で高橋渉先生をお迎えしてメッセージをとりついでいただきました。高橋先生にとっての初めての外部説教ということでしたが、エゼキエル書から「破れ口に立つ者に」というテーマで、救いと献身のお証しも交えて語ってくださいました。神はこの時代も、破れ口に立つ一人の人を捜しておられること、私たちもそこに召されていることがよくわかりました。おかげで私も、念願の子ども礼拝でのメッセージをすることができて感謝でした。午後も昼食を挟んで高橋先生にはそのまま残っていただき、フェローシップタイムで非常に活発な意見が飛び交い、私は子どもたちと一緒に卓球・バトミントンに汗を流し、そして紙コップゲームで盛り上がりました。時折、強い雨が降る一日でしたが、今日も夕礼拝まで大勢の方が来会されました。また新しい一週間が始まります。

試練の雨を恵みの雨に…

関西も梅雨入りが発表され、昨夜もかなりの雨が降りました。人間にとってはうっとしい雨も、作物にとっては恵みの雨です。大事なのはその物事の捉え方。私たちが地上で生きている限り、必ず何かの問題が起き、それが解決したと思うと次の問題が生じてきます。でも、一つの問題がいつまでも続くことはなく、必ずどの問題にも終わりが訪れます。そして、それを乗り越えた時、私たちはまた少し成長を遂げているのです。「父はご自分の太陽を悪人も善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」世の中になぜ悪人がいるのか…神はなぜ悪を放っておかれるのか…。「なぜ」「どうして」と思うのは、その心に神がおられることの証拠。神はどこまでも公平で、また、放っておかれることのない方です。神は試練の雨も必ず恵みの雨に変えてくださるのです。

天の御国の味わい…

水曜祈祷会はマタイ15:29~、あらゆる病や障碍に苦しむ人たちが癒され、七つのパンと少しの魚で四千人の空腹が満たされた出来事から学びました。信仰とは、自分の常識がどうであろうと、置かれた状況がどうであろうと、とことんイエスの御業を信じることです。私たちはすぐに「自分には無理…」「これでは到底足りない…」という消極的な自分判断をしやすいもの。でも、主は「あなたはわたしに何をしてほしいのか」「どのくらいのパンがありますか」とご自分に信頼することを望まれます。この世の旅路においては、絶えずこの訓練の繰り返しですが、主の忍耐と寛容を感謝しつつ一歩ずつ信仰を学んでいきたいと思います。「訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。」今日は今年二回目の賛美とお花のプレゼントにも行ってきました。

学ぶところの多い一日…

箕面市彩都で新しく始まった開拓教会を会場に関西宣教区の運営委員会がありました。同労の先生方とまずは教会内を見学させていただき、普通の一軒家と聞いていましたが、とてもおしゃれな構造で驚きでした。3名の宣教師がおられる彩都の教会、お近く方はお薦めです。その後は、真面目な委員会が夕方頃まで続き(途中、ほんの少し居眠りしている様子をパシャリと撮られてしまいましたが💦)良い委員会がもてました。夜は忍頂寺スポーツ公園へ場所を移して、一泊研修会がありました。研修の内容もよかったですが、それとともに夜遅くまで同室の先生方から様々な牧会の示唆を頂き、非常に有益な時間となりました。翌日は有志の先生方と一緒にテニスで汗を流し、午後からは教会へ戻って聖書を学ぶ会でじっくり御言葉を学びました。振り返って学ぶことの多い一日でした。

約束に目を向けて…

6月第四主日礼拝。メッセージはヨハネの黙示録2:18~、復活の主は七つの教会の中で最も小さな町の教会に最も長い手紙を書かれました。主の御姿は「燃える炎のような目」「光輝く真鍮ような足」と描かれます。「…あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている。けれども、あなたには責めるべきことがある。」主の目はいつも私たちの成長を見守っておられ、その中で信仰の決断を迫られます。主は私たちの行いに応じて一人ひとりに報いてくださる方。人生は絶えず信仰の戦いがあり、誘惑があり、挫折もあり、平穏な時もあれば、試練の時もある。でも、その中で私たちの目は約束へと向けられていきます。「耳のある者はわたしの声を聞きなさい」本当に価値のあるものがわかりにくい時代の中で…心にある福音をしっかり持ち続けていきたいと思います。

よい聴き手になるために…

今日は関西宣教区連合婦人会が茨木でありました。講師は蔡香さんで、「よい聴き手となるために」というテーマでの講演会でした。一般的なカウンセリングとは違う、クリスチャンとして人に寄り添うことについて、聖書的土台をもとに教えてくださいました。特に印象に残ったのは、何よりも私を愛されたキリストの愛に学ぶこと、また、共感的理解を目指すことです。「共感」empathyと「同情」sympathyの違い。相手の話しを聞いていて、「わかる」「かわいそうに…」などと応答するのは同情の表現で、相手自身がどう感じているかに焦点をあてて、「あなたはこう感じているのですね」と受け止め寄り添うのが共感表現とのこと。悩み、苦しみ、重荷を負っている人を、まずはありのままで迎え入れることの大切さ…。それは憐れみ深い神の姿勢と大いに重なるところです。

見方を換えてみる…

今日はハートフル英会話で15分のバイブルクラスがありました。レイチェル先生の手作り教材で楽しく聖書を学ぶことができました。まだほとんどがユダヤ教徒で、イエスを救い主と信じる者が少数だった頃、クリスチャンには厳しい時代でした。理不尽な迫害を受けたり、殉教の死をとげる者も大勢いました。そうした歴史の先に初代教会が誕生し、今日のような人口の三分の一がクリスチャンという時代を迎えているのです。壮大な神のご計画を、小さな人間が推し量ることなどできません。それは一人一人の人生にも言えることでしょう。願っても願ってもなかなか状況が変わらないという時、未来に希望を持てなくなります。でも、例えば「半分しか…」を「半分も…」、「いまさら…」を「いまなら…」に少し見方を換えるだけで、また違った景色が見えてくることもあるのです。

隠された宝…

祈祷会はマタイ13章、イエスが群衆に向かって多くのことをたとえで語られたところから。種蒔き、毒麦、からし種、パン種、畑に隠された宝…と次々に譬え話が続きます。集まった群衆は、心が頑なであったため、イエスのわざを見ても見ず、話しを聞いても聞かず、また悟ることもありませんでした。イエスがたとえで話すのは、その人が何を求めて来ているかが鍵だったのです。天の御国とは何か…。私たちも聖書の言葉をどのように聞いているかを考えさせられます。自分の聞きたい「言葉」を聞こうとしているのか、神の示される「真理」を求めているのか。その差はあまりにも大きいと言えるでしょう。「耳のある者は聞きなさい」イエスは弟子たちにも群衆にも、繰り返しそう言われました。信仰は「聞く」ことから始まるということをあらためて心に留めたいと思います。

逃げるが勝ち…

「逃げるが勝ち」子どもの頃、この言葉が嫌いでした。わんぱく坊主だった私は、「そんなのはただの負け惜しみだ」と思っていました。正直、大人になっても心のどこかにそういう思いが残っていたのかもしれません。それで頑張れる間はいいのかもしれませんが…今、この歳になってこの言葉の大事さをあらためて思います。何かの問題に執着し過ぎるのは心にも身体にもいいことはありません。時には問題から離れる勇気も必要ですね…。誰かにひどいことをされて「許してたまるか」と頑張る気持ちもわかりますが、そういう自分自身を許すことの方がもっと大事な時もあります。「いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになるからです。」私たちにはいろいろな局面で心の逃げ場が必要です。それを肯定するだけで、気持ちも変わってくるのかもしれません。

勝利を得る者への約束…

今日は父の日歓迎礼拝。礼拝はヨハネの黙示録2:12~。外からは厳しい迫害、内からは偽りの教えとサタンの攻撃にさらされながら、それでもペルガモンの教会の人々は希望を失わず信仰を捨てませんでした。主はそんな教会に「勝利を得る者には、わたしは隠されているマナを与える。また、白い石を与える。」と約束をされたのです。「隠されているマナ」「白い石」…いずれも御国での永遠のいのちへと繋がる祝福です。日本にもそうした厳しい時代がありました。いつの時代も、地上での信仰生活は、決して安易な生活ではありません。多くの人が見えない神を信頼し、多くの人が認めない真理に従って生きるのは、絶えず見えない敵であるサタンの攻撃を受けるからです。でも、最後まで彼を信頼する者は失望することがない。いつもこの聖書の約束を忘れずにいたいものです。

走るべき道のりを走り終え…

今朝、同盟教団の理事長をはじめ…数々の尊い働きを担ってくださった吉持章先生が天に凱旋されました。83歳でした。先生の火の出るような熱いメッセージや力強い言葉にどれだけ多くの方々が励まされ、信仰に導かれたことでしょう。神学校のチャペルで、「覚悟のない者は、今すぐ荷物をまとめて帰りなさい。」と仰っておられたのが懐かしいです。そんな先生の歯切れのよい説教が大好きで、テープも何本も持っています。人生の様々な場面で、先生に個人的に声をかけてもらいましたが、その度に的確なアドバイスをいただき、いつも背筋がピンと伸びる思いがしました。「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」吉持先生にピッタリの御言葉です。尊敬する先輩牧師には到底追いつけませんが、私も走るべき道のりを走り通したいと思います。

涙とともに種蒔く者は…

今朝も祈りから一日が始まる。教会の一人一人を思い浮かべ、特に病の中にある兄姉、子育て中の親子、年配の方々、仕事や人間関係で心身ともに疲れ切った方々、道が開かれず悩みの中にある青年たち…を覚えて祈りました。教会に傷ついて離れてしまっている方もおられます。また、牧師につまずいて教会にけないという方も少なくありません。自分もその一人ですから、本当に申し訳ない思いでいっぱいですが、ぜひまた帰ってきてほしいと思います。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」ここで種蒔く者と刈り取る者が同じ人とは限らない…とある本に書いてあり、慰められました。今日も何もできないという思いから、今日できることを一つずつやろうという思いが湧いてくるのは、きっと誰かが自分のためにも祈ってくださっているからだと思います。

花の日のプレゼント…

今日の祈祷会はマタイ12:1~。「安息日」は労働してはならないという消極的な面もありますが、神の御心を行い、神の御もとで安らうという積極的な面もあります。神が喜ばれるのは、形だけの礼拝より、真実の愛です。大事なのは、安息日のために人間が造られたのではなく、人間のために安息日が定められたこと。人間には心と魂の休息が必要です。そして、真の休息は神の御もとにあるということです。祈祷会の後は、6月の花の日を覚えて、恒例の介護施設にお花と賛美のプレゼント(Ⅰ)に行きました。バイオリンとフルートの演奏、聖歌隊の賛美、ショートメッセージ…心を込めてプレゼントさせて頂きました。「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」喜んでくださった一人一人を覚えて、感謝の祈りを捧げました。

わたしのもとに来なさい…

今年は二年目ということもあってジャガイモの収穫量はもう一つでしたが、小さいジャガイモも結構おいしいものです。次の野菜のために、石灰をまいて、腐葉土を入れて、鶏糞と堆肥を混ぜて…と土壌作り。教会の子どもたちが「エダマメ食べたいな~」と言っていたので、時期を見て植えてみようと思います。さて今朝の御言葉は、マタイ11:25~「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。」でした。聖書の中で最も広く知られ、多くの人を慰めてきた御言葉の一つ。人はみな、本質的に心と魂の休息を必要としています。心身ともに休みたい…でも、なかなかそうもいかない。だからこそ、誰もがこの御言葉を聞くと心の深くに潜んでいる思いが呼び覚まされるような気持ちになるのではないでしょうか。イエス・キリストのもとに本当の安息があるのです。

キリスト教と日本…

今日は午前中に日本福音主義神学会の基調演会に行きました。副題は「キリスト教と象徴天皇制民主主義」。おもにキリスト者として象徴天皇制をどう考えるか、歴史的な経過とともにキリスト教がどう関わってきたのか、どこに今後の神学的課題があるのかを学びました。神学生時代の恩師の講演でもあり、テーマにも関心があったので、休日でしたが…少し早起きして行けてよかったです。小さめの会場でしたがほぼ満席で、知っている牧師も何人も来られていて関心の高さがうかがえました。日本に住む一人のキリスト者として、自分なりにももっと勉強しなければと良い動機付けになりました。午後からは、教会員の方の家を訪問し、帰ってからは野菜の手入れ、そして早速「天皇制」に関する本を幾つか注文して、次の日曜日のわくわく子ども会に向けてトラクトの準備をしました。

ペンテコステ礼拝2019

今日はペンテコステ礼拝(聖霊降臨日)でした。イースターから数えて50日目に、弟子たちの上に聖霊が降り、初代教会が誕生したことを祝う日です。ヨハネの黙示録2:8~「死に至るまで忠実で」というテーマでメッセージを聴きました。私たちはすでに富む者とされ、どんな苦難も必ず終わりがあり、信仰者には勝利の冠が約束されています。だから主は、死に至るまで忠実でありなさいと命じられるのです。厳しい命令は、神の愛の証し。でも、忘れてはならないのは、私たちがこの生涯を貫くことができるのは、神を愛するという動機があるからです。そしてこの動機をくださるのが、聖霊の働きなのです。午後からはリーダー会&役員会、子どもたちとジャガイモ掘り、夕礼拝の後には久しぶりの兄弟が顔を見せてくださいました。今日も恵み盛りだくさんの一日に感謝でした。

雨もまたよし…

朝の送迎の仕事では少し難儀しましたが、ずっと真夏日が続いたので花たちは喜んだでしょう。こんな日に限って雨に当たりながら葡萄棚を準備しようと思い立ったり、鉢の場所を変えてみたり…と雨の日は少し変わったことをしたくなります。それも金曜日で教会の集会もなく、比較的のんびり過ごせたからそう思うものの、もし日曜日なら礼拝に来られる方の足元が心配で雨の日を残念に思ったはず…。人間は何と状況に左右されるものでしょう。「雨もまたよし、晴れればまたよし」といきたいもの。もともとは禅の言葉のようですが、「雨」も神の被造物と思えば、感謝の気持ちがわいてきます。「神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。」近視眼的にならず、どっしりと、少し広い視野で物事を捉えていきたいものです。

だれにも知られないように…

6月最初の祈祷会はマタイ9:27~38「いつくしみ深い主」というテーマで御言葉を学びました。目の見えない二人の盲人は、イエスさまに憐れみを叫び続けました。主はそんな彼らに「あなたがたの信仰の通りになれ」と癒されたのです。彼らはどんなに嬉しかったことでしょう。当然黙っていられるはずがありませんが、主はそんな思いをよくわかった上で「だれにも知られないように…」と厳しく命じられました。えっ?どうして?と思うところ…。でも、いつくしみ深い主の御思いは、私たちの思いより遥かに高いのです。病の癒し以上に大切なことがある、羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れている者たちが大勢いる、収穫は多いが働き手が少ない。私たちを見て深く憐れまれる主は、今日も救われる魂を、ご自分の御業に献身する者たちを探しておられるのです。

新しい方がよく見える…?

さつまいも、カボチャ、キャベツ、ピーマン…と段々とそれらしい形に成長してきました。さて、ヨハネの黙示録にはエペソにある教会に宛てた手紙に、当時の誤った新しい教えに対する警告が書かれています。いつの時代も、キリスト教の名を語りながら誤ったことを教えるグループがあるものです。「十字架にかかったイエスは、救いを完成できなかった」「旧約、新約、そして今はさらに新しい時代が来ている」「既成教会は古い教えで、今はもっと進んだ新しい教えがある」etc…今までのは古い、新しい方がいいに決まっているという言い回し。異端が常套手段とする危険な手口です。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなった、その人。」特に若い世代の方々に、違いが分かりにくいからこそ慎重に決断してほしいと思います。

初めの愛を思い出して…

6月第一主日、まだ誰も来ていない時間に一人で祈って礼拝に備えました。メッセージはヨハネの黙示録2:1~。日々厳しい迫害を耐え忍んでいたエペソの教会に、主は「わたしは…知っています」と手紙を送られました。彼らは行動面でも知識面でも立派な信仰をもっていましたが、一つだけ「あなたは初めの愛から離れてしまった」と告げられたのです。それは教会として致命的なことでした。そこで主は、彼らにどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさいと命じられました。人はみな、知らず知らずの内に道を間違えてしまっていることがあるのではないでしょうか。自分の誤りを認めて、向きを改めるのは容易いことではありません。でも、その事に気づかせて頂けるのは、まだ立ち直るチャンスがあるということ。厳しい言葉は切なる愛の表われなのです。

神が喜ばれるのは…

人はみな、生まれてから一度も罪を犯したことがないという人はいません。それでも、それが死刑に値する罪だと言われると、それほど悪い事をしていないという思いが働くもの。神の子イエスが十字架につかなければならないほど、自分は罪人なのか…。どちらかと言えば、真面目に生きてきた方だと自己弁護もしたくなる。でも、聖書の言葉は言い逃れができないほど明確に語っています。罪から来る報酬は死。そんな厳しい宣告のもとにある私たちに、神はこう告げられるのです。「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。―神である主の御告げ―彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。」「悔い改める」とは、単に反省するとか後悔するというものではありません。自分が間違っていたのを認め、心からそれを悲しむことです。聖書にはその答えがあります。

人生に無駄なものは…

文章上達のためにできるだけ何かを書こうと思いますが、なかなか願うような成長は見られません。それでも…あきらめずにコツコツ練習していこうと思っています。さて、今日のディボーションで心に留まった御言葉はヨハネ黙示録「耳のあるものは御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」聖書の言葉は時に厳しく聞こえますが、それは愛するが故の厳しさであり、まだ立ち返る機会があるからです。まだ間に合う、このままでいいのか、まだやり直せる。そんな神の寛大な呼びかけをずっと聞いてきたような気がします。そう言えば、私の園芸も続けているといいことがありました。ご近所で野菜を作っている方と立ち話の際に「この先の教会の牧師です」と自己紹介をすると、「ああ、いろいろやってますね。」と思いがけない返事を頂きました。何事も無駄なものはありません。

サウルの死と人生…

水曜祈祷会はⅠサムエル31章から。イスラエルとペリシテ人の戦いが始まって、サウルの息子たちが戦死すると、ついにサウルも追い詰められ、最後は自害の道を選びました。主はもともとイスラエル人をペリシテ人の手から救うためにサウルを選ばれたのに、王となったサウルは徐々に主の言葉にも従わなくなり、心も頑なになっていきました。そんなサウルの人生はまさに自業自得と言わざるを得ないものの、その栄枯盛衰の中で、彼が抱えていた心の闇はなんだったのか、悔い改めるとは何か…みんなで考えました。話しはユダとペテロ、そして…昨日の登戸児童殺傷事件の話しにも及びました。なんとも痛ましい事件…。被害者のご家族の上にただただ主の慰めを祈るとともに、人間の心の闇、救いのない社会の闇に、私たち人間以上に心を痛めておられる神の御思いを思いました。

野菜作りの難しさ…

夏野菜のキュウリ、ピーマン、ナス、トマト…が少しずつ成長してきました。ある牧師先生から引っ越しをするので土をもらってほしいと言われ、それ以来、園芸に興味が出てきました。何も知らずに始めたので、最初はそれなりに上手くいったのですが、二年目くらいから野菜や花の成長が思わしくなく、段々と難しさがわかってきました。いろいろ調べると、一度野菜や植物を育てた土は栄養がなくなっていたり、細菌が残っている場合があるとのこと。培養土や堆肥、鶏糞や腐葉土なども買ってきましたが、これにもいろんな種類があることがわかってきました。今年になってすでに何回も失敗しているので、誰かも「先生、もう野菜を買ってきた方が早いんじゃないですか」と言っていましたが、この失敗をバネに!あきらめずに学びながら、良い野菜を育てていこうと思います。

休日の気分転換…

詩篇139:3「あなたは私が歩くのも伏すのも見守り、私の道のすべてを知り抜いておられます。」今朝のディボーションの箇所でした。早いもので五月も最後の週を迎えました。昨日まで30度を超す真夏日が続きましたが、今日は朝から曇り空でお天気もホッと一息…という感じでした。このところちょっと仕事が詰まっていて、机からもパソコンからも離れたいと思い…気分転換もかねて家から車で15分ほどのところにあるthe Farm UNIVERSALへ。ここへ来ると、いつもめずらしい花との出会いがあったり、ただ店内を散歩しているだけでも気持ちをリセットできる気がします。特にこの時期はアジサイが見事でした。アジサイは花のように見える部分が実は「萼」の集まりとのこと…。ふと、「教会」とも似ているなぁと思いながら眺めていました。さぁ、切り替えてまた明日からです。

教会総会を終えて…

今日から礼拝メッセージはヨハネの黙示録。ローマ帝国の厳しい迫害の中にある諸教会に、神はヨハネを通して「あなたが見たこと、今あること、この後起こること」を一つ一つ解き明かしていかれます。ヨハネが見た最初の幻は七つの燭台(教会)の真ん中に人の子のような方がいる姿でした。どんな混乱の時代の中にも、教会のただ中にはキリストがともにおられる。それはあらゆる時代の教会に共通する真理です。それにしても黙示録はなかなか難解な書。「今日のメッセージは何も心に残らなかった…」とある姉妹が正直に話してくれました。牧師としてなんとも耳が痛いですが、聖霊に助けていただいて一緒に学んでいきたいと思います。午後からの教会総会を終えて、また新年度に向けて心一つに歩み出せる幸いを感謝します。夕拝後は青年たちと卓球勝負で汗を流しました。

カトリックとプロテスタント…

今に始まったことではないのですが…「教会の神父さんですか?」と、教会に初めて来られた方は大抵そう仰られます。近くに大きなカトリック教会やミッション系の学校があるからでしょうか。それとも一般的にキリスト教の「教会」と言えば、「カトリック」だと思う方が多いということでしょうか。「はい、ここはプロテスタントの教会です。私は牧師をしています。」そこからカトリックとプロテスタントの違いなどを説明して、いろいろとお話しも伺って、一緒に祈らせていただきました。今日も教会を訪ねてくださる方がいて本当に感謝でした。「私の家は仏教なので…」とか「教会の敷居は高くて…」と躊躇されているかもしれませんが、気軽に訪ねてみてください。殺伐とした時代、教会が皆さまにとって気持ちの整理、心の整理がつく場所となりますように。

コペルニクス的転換…

今日はコペルニクスの地動説が発表された日。コペルニクスは、伝統的な「天動説」に異議を唱え、「地動説」こそ真実と気づきました。それは当時のキリスト教の教えに反する考えであり、発表には相当な覚悟が必要だったでしょう。そして、明日はコペルニクスの召天日。その決断がいかに大きいものであったかを思わされます。「天動説」「地動説」…現代の科学では諸説あるようですが、地球中心主義から太陽中心主義への転換は、自分中心主義から神中心主義への転換の大切さに気づかせてくれます。物事が思うように進まない…。でも、それはもしかしたら自己中心的に考えているからなのかもしれません。「落ち着いて、信頼するば、力を得る。」今日は、英会話の先生がお休みとなり、キッズクラスは休講になりました。ご心配、ご迷惑をおかけして誠に申し訳ありません。

聡明な妻アビガイル…

水曜祈祷会はⅠサムエル25章~。サウル王に命を狙われ続けるダビデ、そこへ愚かな夫ナバルと聡明な妻アビガイルとの記述があります。裕福なナバルに、ダビデは誠意を尽くしてわずかな贈り物を願いました。しかし、それをあっけなく断わられると、ダビデは激昂し、400人の兵とともにナバル討伐に乗り出したのです。すると、ちょうどそこにナバルの妻アビガイルが贈り物をもって現われ、女預言者のような言葉によってダビデの怒りを収めたのです。今日は特に、「ちょうど」という言葉が心に留まりました。神のなさることは、偶然はなく、いつもすべてが必然です。アビガイルは、その神の時(カイロス)、神の御心をしっかりとらえて行動したということでしょう。「平和をつくる者は幸いです」彼女のような争いではなく平和をつくる者にならせて頂きたいものです。

悲しむ者は幸いです…

昨夜の激しい雨もやみ、今朝は良い天気に。日曜日に教会の子どもたちが積み残したソラ豆の様子を見にいくと、案外まだまだ残っていました。ご近所の方や祈祷会に来られた方に少しずつでもお分けできたらと思います。ディサービスの送迎のお手伝いの際に、あるご婦人と聖書の話しになったので「聖書には『悲しむ者は幸いです』と書いてあるんです」「へぇ…どういう意味かしら?」「悲しまない人は『神さま、助けてください』と言わないからじゃないですか」「おもしろいわね」と。少し忘れっぽいご婦人ですが、何か心に留まってくれたらいいなぁと思いながら話していました。この仕事に関わらせて頂いて、高齢者の孤立化、身体機能の衰え、認知症、介護の問題など、ほんの少し垣間見させていただきました。今後の教会のあり方を考える上でも非常に学ぶことが多いです。