教会のデボーションはルカ1:57~66。老夫婦のザカリヤとエリサベツに男の子が誕生すると、近所の人たちや親族が集まってきて一緒に喜んだとあります。それまでの祭司としての夫婦の歩みが周囲の人々によき証しをしていたのでしょう。「主が…大きなあわれみかけてくださった」と、みな自分のことのように喜んだのです。男の子が生まれるまで、御使いガブリエルが言ったように、父ザカリヤは口がきけないままでした。祭司という立場にありながら、神のことばを信じなかったからだというのです(1:20)。その間、彼は何を考えていたでしょう。逃れようのない大きな力を感じながら、沈黙の中で、主よ、なぜですか…と神に祈っていたのではないでしょうか。神はそんなザカリヤの言葉にならない思いを受け止めながら、彼を悔い改めへと導かれました。そして、ついにその子に「ヨハネ」と名づける時がくると、直ちにザカリヤの口は開かれ、聖霊に満たされて、神をほめたたえたのです。ザカリヤの喜びに溢れる素晴らしい預言は明日の水曜祈祷会で読みましょう。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」というイエスさまの言葉が聴こえてくるようです。