08日 8月 2022
8月第一主日、礼拝では創世記3章から人間の罪の初めについてメッセージを聴きました。人間は互いに助け合ってエデンの園を管理し、神との麗しい関係にありました。でも、それを妬ましく思ったサタンは人間に近づき、言葉巧みに誘惑し、ついに禁断の木の実を食べさせてしまったのです。こうして人間に罪が入り、全世界が罪の影響を受け、全人類に死が及び、一瞬にして世界は変わってしまいました。まさに覆水盆に返らず。神と人との間には大きな断絶が生じました。これが原罪です。神はそんな万事を知った上で、人間に呼びかけます。「あなたはどこにいるのか」それは神の裁きのことばというより、罪人に悔い改めを迫る救いへの招きです。私たちはみな、生まれながらの罪人で、神を知らず、神に背を向ける者です。それゆえすべての者が死にゆく定めの中にあります。この逃れられない現実から私たちを救い出すために、イエスさまはこの世に来てくださったのです。
06日 8月 2022
米国が広島に原爆を投下してから77年目を迎えます。一瞬にして十数万人の尊い命が失われ、多くの方が被爆され、今も後遺症に苦しんでおられる方々がおられます。あらためてご遺族の上に、病の中にある方々に、主の慰めを祈るとともに平和への思いを新たにしなければと思わされました。今もロシアによるウクライナ侵攻が続く中で、中国も米国を牽制して台湾周辺で軍事演習を行うなど不穏な空気が拭えません。日本の政治は旧統一教会の問題で、もうしばらく与野党の足の引っ張り合いが続きそうです。新型コロナウィルス感染急拡大の中、都内でサル痘の感染者も確認されたとのこと。様々なことに心が騒がされますが…今日のデボーションのみことばに励まされました。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」イエスさまが真の牧者として私たちのことをよく知ってくださり、この揺れ動く時代をともに歩んでくださる幸いを感謝いたします。
04日 8月 2022
8月第一水曜祈祷会、教会のデボーションはヨハネ9:1から。イエスさまが生まれつき目の見えない盲人を癒されるところからでした。弟子たちは盲人に対する憐みの思いからではなく、この人が生まれつき目が見えないのは誰の罪のせいなのかという宗教的な関心からイエスさまに質問しました。それは当時のユダヤに因果応報の考え方があったからです。イエスさまは答えられました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」多くの人は現在の言い知れない苦難や試練の原因を自分の過去や先祖にあるのではと考えますが、イエスさまは神のわざが現れるため、まさに未来に目を向けるようにと教えられます。今日の祈祷会でも兄姉たちの証しにとても励まされました。たとえ今、辛い中を通っていても、神はご計画をもっておられることを忘れないでいたいと思います。主に信頼する者は決して失望することがないのですから。
01日 8月 2022
いよいよ来週、ある若い夫婦が留学のため渡米します。コロナ禍でもあり、本当に大きな決断です。皆さまのお祈りに覚えて頂けましたら幸いです。教会のデボーションはヨハネ8:48からイエスさまとユダヤの宗教指導者たちの論争が続きます。ユダヤ人たちはイエスさまのことばを素直に聞くことができず、かえってイエスさまを悪霊呼ばわりしました。イエスさまはそんな彼らにも悔い改めを迫ります。「だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」誤解や偏見を一回リセットしてよく話を聞いてみたら…新たな真実が見えてくることもあります。旧約、新約の時代は過ぎて、今はメシア到来の成約時代に入っているという方もいれば、なんとかの証人のように、既成の教会は悪の巣窟だと思っている方もおられます。いくらここで呼びかけても無駄ですと仰る方もいますが、本当のところは話してみないとわからないと思います。
31日 7月 2022
7月第五主日、今日も朝から日射しの強い一日となりました。礼拝メッセージは創世記2:18‐25、神である主が人のために助け手を創造されるところからでした。「人がひとりでいるのはよくない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」ここまで神はご自分が創造された世界を見て「それを良しと見られた」と仰っていましたが、ここでは「良くない」と言われたのです。それは、創造主である神が人がひとりでいることに満足されなかったということです。そこで神は人のあばら骨から助け手である女性を創造されました。「助け手」とは本質を一つにした対等なパートナーということです。神が連れて来られた女性を見て、アダムはどんなに喜んだことでしょう。ここで、神は結婚の制度を定められました。結婚とは、別々の存在だった者が愛において一体となることを意味します。結婚は人が決めた制度ではなく、神が定められた制度のゆえに偉大な奥義なのです。
28日 7月 2022
昨日の水曜祈祷会で、ある方から『ユダヤの指導者たちは中途半端な信仰だったのでしょうか』と質問がありました。それはとてもいい質問です。使徒パウロも以前そうだったとありますが、祭司長、パリサイ人と呼ばれる人たちは知識も生活も熱心な信仰者だったと思います。それを言えば、私がこれまでお会いしてきたキリスト教の異端と呼ばれる信者の方々も、真面目で熱心な方ばかりでした。神が救いの95%をしてくださるのですから残りの5%を自分が満たさないといけない…。そう言って考えられないくらいの努力をされている方もいました。残念ながら、それは聖書の教えではありません。イエスさまは言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりその人の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」飲めば飲むほど渇きを覚えていくようなものは偽物です。救いは100%神の御業です。
27日 7月 2022
7月第四火曜日『旧約聖書を学ぶ会』がありました。今日からヨセフ物語を見ていきます。ヤコブの11番目の息子ヨセフは、12人の兄弟の中でも特に父の寵愛を受けて育ちました。そんなヨセフを妬んでいた兄たちは、ついにヨセフを捕らえミディアン人の商人に売ってしまったのです。なんとも痛ましい事件が起きてしまいましたが、これが序論。ここから彼がエジプトの宰相まで上り詰める壮大な物語が始まるのです。…学びの後、統一教会のことが話題になりました。今回のことで、宗教は良くないという悪い印象が広がっていくのではないかということです。確かに統一教会も聖書を使いますから、キリスト教とどう違うんだ…と思うかもしれませんが、全く別のものです。それは本物の紙幣とコピー機で印刷した偽札?くらい違います。本物にいつも触れている人なら一目瞭然ですが、中途半端の知識だと…似て非なるものが同じに見えてしまうのは仕方ないのかもしれません。
24日 7月 2022
7月第四主日、今日も朝から30度を超す真夏日の中、主の御名を礼拝を献げました。礼拝メッセージでは創世記2:4‐17から人間の創造について学びました。「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」それは実に奥義深いメッセージです。人間の脾弱性と尊厳性が見事に描かれています。そこから人間の命は全く神に依存していること、神は人間のために最高の場所を用意されたこと、そこで神は人間に自由と責任を与えられたことを心に留めました。神が願ったのは、ロボットのような罪を犯さない人間ではなく、自らの意思で神を愛し、神に従う人間でした。アダムは「いのちの木」と「善悪の知識の木」を見るたびに、そのことを思い出したことでしょう。今日の私たちに置き換えれば、まさに聖書がそれでしょう。神である主の「愛」と「まこと」に感謝して、聖霊により頼みつつ歩んでいきましょう。
22日 7月 2022
教会のデボーションはヨハネ6:34から。「わたしが天から下って来たのは、自分の思いをを行うためではなく、私を遣わされた方のみこころを行うためです。」イエスさまはこの世の幸せを求めてきた人々にあらためてご自身の使命を告げられました。それはご自身を信じる者たちを一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることだというのです。信仰は努力や善行によって獲得するものではなく、神が与えてくださるものです。まして自己破産するほどの献金を強いるなど…ひどい話しです。テレビでは旧統一教会の話題が続き、与野党ともにその関係が取り沙汰されています。教会にも専門機関からの問い合わせがありましたので、ブログではあまりお見せできませんが、古い資料を引っ張り出してきました。イエスさまは終末のしるしとして「『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします」と言われました。問題は教祖や団体であって、信者の方ではありません。
20日 7月 2022
7月第三水曜祈祷会、真夏の暑さが戻ってくるとともに、新型コロナウィルスの新規陽性者が全国各地で過去最多となりました。ただでさえ暗いニュースが続く中で…この第七波は堪えます。そんな中ですが、今日のデボーションから大いに励ましを頂きました。ヨハネ6:1‐15、有名な五つのパンと二匹の魚の記事から。ご自分の後をついてくる群衆をご覧になったイエスさまは、弟子たちに「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」と言いました。弟子たちはこんなに大勢の人のパンを調達するなんて不可能ですと最初からあきらめていたのです。でも、ひとりの少年はイエスさまの言葉を信頼して自分が持っていたお昼ご飯を差し出しました。すると、イエスさまはそれを用いて群衆のお腹を十分に満たされたのです。何度も読んでいるところですが、あらためてこの少年のような素直な信仰を忘れないでいたいと思わされました。信じるなら神の栄光を見る、です。