もし今日が最後の礼拝だとしたら…

『もし今日が人生最後の日なら、自分は何をするだろうか…』スティーブジョブスがある大学の卒業式で行ったスピーチの一言です。私も50歳を過ぎた頃から、あと何回礼拝でメッセージができるかを考えるようになりました。過去の説教原稿も全部残しているので、同じ説教箇所に当たると、過去の自分の未熟さと再会することになります。今もそれほど変わってないのかもしれませんが、もし成長しているのだとしたら、主の憐れみと未熟な牧師の説教を17年間も聴き続けてくださった教会のおかげです。最近は一緒に教会生活を送ってきてくださった兄姉の中にも高齢になるにつれて礼拝に通いにくくなっている方もいます。教会は年配の兄姉のこの先のことも具体的に考えて行かなければと思わされています。同じ主の日は二度ときませんので、今日が地上で一緒に献げられる最後の礼拝だとしたら…と思って、講壇に立ち、ベストを尽くし、交わりを持っていきたいと思います。

神に愛された者として…

6月第二主日、梅雨らしい曇り空の一日でした。礼拝ではⅠペテロ2:11からメッセージを聴きました。クリスチャンは天に故郷があり、地上では旅人、寄留者ですが、異邦人の中にあって立派に振る舞いなさいというペテロの勧めが心に残りました。ペテロは、手紙をの受取人たちが、異教社会の中で言われのない迫害に遭っていることを知っていながら、それでも人が立てたすべての制度に主のゆえに従いなさいと記したのです。「自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。」この自由は自分の我を通すことや罪を言い逃れるための自由ではなく、神を愛するがゆえの神の御心に従う自由です。神のしもべとして、自分を愛してくださる方に喜ばれる歩みをしていきたいものです。今日の午後は囲碁・将棋クラス、バイオリン教室、夕礼拝がありました。夕礼拝もゆっくりメッセージを味わうとてもいい時間です。どなたでもお越しください。

わたしをだれだと言いますか…

イエスさまはペテロに「わたしをだれだと言いますか」と聞かれました。そこでペテロが「あなたは生ける神の子キリストです」と答えると、イエスさまは「あなたは幸いです」と言われました。イエスさまはキリスト教の教祖でもなければ、被造物の中で最初に造られた方でもありません。「わたしを見た人は、神を見たのです」とある通り、イエスさまは神ご自身である方です。イエスさまの神性や先在性は聖書の幾つもの箇所で啓示されていますが、今もそれを誤って解釈している方々がいます。先日も教会の前を通られた二人組の女性とこの件について話す機会がありましたが、自分たちの独自の解釈をひとしきり話された後は、私の話しは殆ど聞いてくれませんでした。他にも、輸血拒否の問題、児童虐待、排斥問題、選民思想、誤った終末論…など聞きたいことはいろいろありましたが…少し立ち止まって、他の考えにも謙遜に耳を傾けることも必要なのではないでしょうか。

その地に戦争はやんだ…

6月第一水曜祈祷会、朝はヨシュア記11章から、夜はヨハネ13章から御言葉を心に留めました。イスラエルと戦うためにハツォルの王ヤビンを中心に北部同盟軍が集結し、陣を敷きました。すると主はヨシュアに「彼らを恐れてはならない。明日の今ごろ、わたしは彼らをことごとく…」と告げられました。海辺の砂のような大軍勢、馬や戦車も非常に多い北部同盟軍を前に、身震いしない者はいなかったでしょう。でも、ヨシュアを筆頭にイスラエルの民は勇敢に戦い、主が告げられらた通りに行って大勝利を治めたのです。私たちも神のすべての武具を身にまとい、信仰の戦いに勝利していきたいものです。夜は最後の晩餐の席でイエスさまが弟子たちの足を洗われたところを読みました。主の十字架の愛がこれほど胸に迫って来る箇所はありません。「今はわからなくても、後で分かるようになる…」イエスさまが最後に示された愛の模範をいつも思い起こす者でありたいものです。

『太陽よ、動くな…

教会のデボーションはヨシュア記10章から。ヨシュア記はパレスチナにおけるイスラエルの民の戦記です。主はイスラエルの民がエジプトにいた時、乳と密の流れるカナンの地を与えると約束されました。ところが、そこは決して乳と密の流れるようなのんびりした楽園ではなく、すでに彼らが移住する余地もないほど先住民が住んでいたのです。従って、彼らはその約束の地を戦いによって勝ち取らなければなりませんでした。思えば、使徒パウロも「私たちは、神の国に入るのに、多くの苦しみを経なければならない」と語っていました。同じように、私たちも今日戦わずして神の嗣業を受け継ぐことはできないことを覚えておきたいものです。クリスチャンになれば何もかも人生が上手くいくわけではありません。むしろ、信仰ゆえに問題は多く感じるかもしれませんが、神のいない人生ほど虚しいものはありません。神がいるからこそ、私たちが受ける苦難には意味があるのです。

憐れみを受けた者として…

6月第一主日、礼拝メッセージはⅠペテロ2章1-10から。「純粋な、御言葉の乳を慕い求めなさい」「霊の家に築き上げられ」「この方に信頼する者は決して失望させられることがない」「あなたがたは選ばれた種族」など大事な御言葉が幾つも出てくる箇所でした。ペテロは旧約聖書を上手に引用してキリスト者としての特権と使命を伝えています。当時の異教社会の中で迫害にあっていたキリスト者たちも、改めて今自分たちは神の民であり、憐れみを受けた者であることを確認し、力づけられたことでしょう。それはそのまま今日の私たちクリスチャンへのメッセージでもあります。私たちがクリスチャンになったのは神の栄誉を告げ知らせるためですというのが心に響きました。今日は午後から久しぶりに教会ピクニックに行きました。梅雨の晴れ間、近くの唐池公園でお昼ご飯を食べ、子どもたちは元気に走り回り、大人たちもゆっくり交わりを持つことができて感謝でした。

ヘレン・ケラーの信仰…

ヘレンは視覚と聴覚の重度のハンディキャップを持ちながら、3つの博士号と、3か国語をマスターした「20世紀の奇跡」とも言われた方です。彼女はサリバンというクリスチャンの家庭教師と出会い、人生が大きく変わりました。サリバンは聖書を読んだことがない、教会に行ったこともない彼女にどうやって神さまのことを教えられるだろうか…思案していました。そんな時、ある牧師がサリバンに言います。『心配いりません。目が見えず、耳が聞こえず、話すことができなくても、人間である限り、彼女にも必ず神さまのことがわかります。』ある日その牧師がヘレンのもとを訪ね、サリバンの掌にする通訳を通して熱心に信仰について話すと、彼女はこう言いました。『先生。私はそのことを前から知っていました。ただ、その方が神さまという名前であることを今初めて知りました。』その場にいた人々はみな驚いて神を崇めたそうです。今日はそんな彼女の天国凱旋日でした。

そうすれば、崩れ落ちる…

5月第五水曜祈祷会、朝はヨシュア記6章から御言葉を心に留めました。難攻不落のエリコの城壁を前に、主はヨシュアに言いました。「見よ、わたしはエリコその王、勇士たちをあなたの手に渡した。」つまり主の目にはすでにエリコは陥落し、ヨシュアの手に渡していると言われたのです。後はヨシュアたちがその約束を信じて前進するだけでした。私たちも目の前に大きな問題が立ち塞がっても、主のことばに愚直に従う信仰を持ちたいものです。また、イエスさまはペテロとヤコブとヨハネを連れて高い山に登り、光り輝く姿に変貌されました。それを見たペテロは何を言ったらよいか分からなくなるほど恐怖に打たれたとあります。すると雲の中から「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」という声を聞いたのです。神は私たちの頭の中だけの方ではなく、実際に現れてくださる方です。今日は久しぶりに安宣教師とテファン兄が朝の祈祷会に来てくださいました。

エフライムをマナセの先に…

今日は午前にキリスト教葬儀社ライフワークスのYouTube撮影がありました。『葬儀』の視点から地域教会を紹介するという企画です。結婚式にもキリスト教式、神前式、人前式があるように、葬儀式にも仏式だけでなく、キリスト教式があることを知ってほしいと、私は常々思っています。規模は違いますが、先日のエリザベス女王の国葬がTV等で放映され、キリスト教式葬儀の素晴らしさを知った方も多くいます。教会によって若干考え方の違いはありますが、まずは相談してみて頂けたらと思います。また、午後は『旧約聖書を学ぶ会』がありました。創世記48章から、ヤコブは自分の死期が近づく中で、二人の孫を引き寄せて、頭に手を置いて祝福を祈りました。そこで普通なら右手(権威を示す)を兄マナセの上に置くところを弟エフライムの上に置いたのです。なぜと思うところですが、この辺りが神の選びの不思議さです。一筋縄でいかないところが聖書の奥深さなのです。

恵みが私を追ってくる…

5月第四主日、蛍池聖書教会の森田悦弘師をお迎えしてメッセージをとりついで頂きました。詩篇23篇から、私たちには人生の羊飼いである方が必要であること、主は私たちのために先々に恵みを準備してくださっていることを語ってくださいました。私たちが恵みを求めて探し回るのではなく、羊飼いである主がすべてを準備をして、それがまるで自分を追いかけてくるようだというのです。人生は、緑の牧場や憩いのみぎわばかりではありません。むしろ、わざわいや死の陰の谷を歩むような時があります。それでも主がともにおられるという慰めと平安が私たちにはある、わが杯はあふるるなり、です。終始穏やかな口調で、丁寧に語ってくださったのが印象的でした。私は蛍池聖書教会のオープンチャーチ礼拝でメッセージを取り次がせていただきました。温かい雰囲気の教会で幸いな交わりをさせていただきました。私たちの教会にいた姉妹にも久しぶりに会えて感謝でした。

明日は歓迎礼拝…

5月は日本各地で地震が相次ぎました。今週だけでも震度3以上が9回、震度5弱が2回観測されています。いざという時のために非常品や避難場所を確認しておくことは大事です。考えたくないことですが、南海トラフ大地震は30年以内の発生確率が70~80%と言われています。もし明日の天気予報で降水確率が70~80%と言われたら必ず傘を持参するはずです。ところで、道に迷いやすい私たちは人生における正しい道に導いてくれる羊飼いが必要ではないでしょうか。明日の礼拝はキリスト教暦ではペンテコステですが、私たちの教会では歓迎礼拝として献げます。初めて教会に来られる方や、久しぶりに来られる方にお勧めです。明日は特に、蛍池聖書教会の森田悦弘牧師をお迎えしてメッセージをとりついでいただきます。Youtubeでも視聴することができますが、やはり実際に教会で聴くメッセージは特別な神の語りかけとなるでしょう。ぜひ明日の歓迎礼拝にお越しください。

Be strong and courageous…

今日から教会のデボーションはヨシュア記1章に入りました。ヨシュア記はモーセの後継者となったヨシュアが主の助けと導きによって、イスラエルの民とともに約束の地カナンに入り、その地を占領していく歴史です。本書を読む上で注意したいのは、これまで様々な民族が繰り返してきた外国侵略の一つのように解釈してはならないことです。これはあくまでも、神がご自身の約束を実現するための、神の贖いの計画に基づいた特殊な出来事であることです。ヨシュア記を例にとって聖戦思想を振りかざすことは、現代のいかなる国にも許されていません。今は、平和をつくる者は幸い、平和の福音を宣べ伝える時です。「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」私たちは今何を恐れ、何におののいているのでしょう。神の告げられる命令には必ず約束があるのです。

良いことの計らいとする神…

五月第四水曜祈祷会、午前は創世記50章から、午後はマタイ16章から、聖書の言葉を学びました。父の寵愛を受けていたヨセフは兄たちの嫉妬を買い、エジプトの商人に売られ、牢獄に入れられ、人に裏切られ…なんとも悲惨な人生を歩みました。それでもヨセフは神につぶやくこともなく、置かれた所で精一杯仕えました。主はそんな彼とともにおられ、やがて時至ってエジプトの王ファラオの夢を解き明かすことで、エジプトの宰相となり、未曽有の災害から全世界を救ったのです。神はそんなヨセフに父ヤコブをはじめ兄たちとの再会の時を備えておられました。それはまるで天国での再会を思わせるような感動の場面でした。ヨセフは苦難の人生を歩みましたが、神はそれを良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。人生は何が起こるかわかりません。すべてをご存知である神の計画を信じて歩みましょう。

救いの完成を目指して…

5月第三主日、礼拝メッセージはⅠペテロ1:13‐25~。ペテロは試練の中にあるキリスト者たちを励まし、力づけるメッセージを書き送りました。私たちはキリストを信じる信仰によってすでに救いにあずかり、聖化の段階を経て、やがて栄光のからだに変えていただくことが約束されています。「ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」そのために聖なる者となること、神と父として敬うこと、互いに熱く愛し合うことを教えました。『聖なる者』とは、『聖人君子』のことではなく、他とは区別された者、神のものとなるということです。私たちは生きている限り、罪の誘惑が絶え間なく襲ってきて、その他に試練があり、苦難があり、信仰が試される場面がいくつもあります。でも、聖化の段階において大事なのは神への従順さです。神は私たちを救いの完成まで必ず導いくださるからです。

サビエルのはこ…

久しぶりにキリシタン遺物資料館に行ってきました。資料館は教会から車で20分程の所にあるのですが、今日は知人の教会の方々が奈良から来られるというのでお邪魔させて頂きました。今は『ザビエルのはこー隠し続けたキリシタン遺物ー』という企画展を行っていて、歴史を感じる貴重な遺物の数々が展示されています。思えば10数年前に神学校の先生と一緒に来た時には、大神さんという家を訪問させて頂いて、年配のご婦人がおもむろに風呂敷包みの中から厨子入り象牙彫りキリスト磔刑像や紙本銅版画などなど珍しい遺物を見せていただきました。他にも、400年以上前のキリシタンの墓碑を探索したことなど懐かしい思い出がよみがえってきました。1549年に日本に初めてキリスト教が伝来し、ザビエルをはじめ伴天連、伊留満たちによって広められ、高山右近をはじめキリシタン大名まで現れた時代…、命がけで信仰を守り通したキリシタンの息吹を感じて帰ってきました。

神の導きを心に…

5月第三水曜祈祷会、このところ気温がグングン上がって日中は30度を超える日が続いています。教会前の花たちも力強く咲き誇り、見る者の心を励ましてくれています。創世記45章~、ヨセフがいよいよ兄弟たちに自分の身を明かす場面です。兄弟たちが過去の罪を悔い改めていることを知って、ヨセフは自分を制することができず、声をあげて泣き、「私はヨセフです」と告げると、兄たちは驚きのあまり答えることができませんでした。ヨセフが兄弟たちに売り飛ばされてしまってから20年あまりの年月が経ち、ヨセフが生きていただけでも驚きなのに、事もあろうにエジプトの宰相になっていたのです。「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神があなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」ヨセフはここまでの苦労もすべて神の導きであったことを確信して、兄たちと真の和解を分かち合ったのです。

試みられる時…

教会のデボーションは創世記44章~。ヨセフは兄弟たちが父ヤコブと弟ベニヤミンのことをどう思っているかを知るために、銀の杯を盗んだ嫌疑をかけました。兄弟たちは自分たちの潔白を主張しますが、杯はベニヤミンの袋から見つかり、ヨセフの前にひれ伏して赦しを請います。以前、ヨセフが夢で見た光景がこのような形で成就したのです。兄たちは自分たちの過去の罪を神が暴かれたのだ…と悟らされ、正直に悔い改めました。そして、ユダはベニヤミンの代わりに自分が奴隷となりますので、弟を家に帰してあげてほしいと必死に訴えたのです。私たちも自分でどうすることもできない状況に追い込まれて初めて罪の重さに気づかされるということがあるのではないでしょうか。罪は蓋をして心の奥にしまい込んでいても…決して解決には至りません。そこに光があてられるのは神が私たちを本当に愛し、取り扱っているしるしです。真の悔い改めには必ず赦しがあるのです。

救いの喜びに生きる…

5月の第二主日、今日は母の日歓迎礼拝でした。朝から小雨が降る中でしたが、今日も3つの礼拝に大勢の方が来られました。メッセージはⅠペテロ1:6-12~。「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが」手紙の受取人であるキリスト者たちは、異教社会にあって、迫害を受け、試練の中にありました。ペテロはそんな彼らを励まし、力づけ、希望を与えるためにこの手紙を書いたのです。私たちの人生も、様々な時があり、艱難辛苦、苦しみと悲しみがあります。それはキリスト者であろうとなかろうと襲ってくるものです。でも、この手紙を読んでいるあなたがたには「望み」があると言います。そして、その望みの源にあるのが「救い」です。今日は午後から洗礼式もあって、一人の兄弟が救いの証しをしてくれました。人生の大切な場面に立ち会わせて頂いて…私も信仰の初心を思い出しました。

母の日歓迎礼拝2023…

教会のデボーションは創世記43章~。ヤコブの息子たちは再びエジプトに戻るには、弟のベニヤミンと一緒でなければならないと言いました。父ヤコブはそれだけはできない…と言っていましたが、ユダの必死の説得によって観念し、承諾しました。ヤコブは「全能の神が…おまえたちを憐れんでくださるように」と祈りをもって彼らを神の御手に委ねたのです。明日は母の日。(起源には諸説ありますが…)1905年5月、アメリカのあるひとりの女性が亡き母の記念会で来会者にカーネーションを送りました。その習慣がやがてアメリカ全土に広がり、1914年に正式に5月第二日曜日が母の日として制定され、今も世界中で祝われているのです。『親思う心に勝る親心』と言いますが、あらためて自分を産み、ここまで育ててくれた母への感謝を表したいものです。明日は教会でも母の日歓迎礼拝があります。女性の方にはお花のプレゼントを用意しています。ぜひお出かけください。

コロナ『五類』に移行…

新型コロナウィルスの感染症法上の分類が季節性インフルエンザと同じ『5類』に移行されたことを受けて、教会も、感染対策の緩和か、継続かで今後の対応を話し合っています。2020年のコロナ感染拡大から、三度の緊急事態宣言、来会の自粛など、かつてない問題に手探りでオンライン配信を始めました。最初は通信エラーのようなこともよくありましたが、皆さまにもご忍耐いただいて少しずつ機材も環境も整ってきました。また、これまでいろいろな事情で教会に来れなかった兄姉が自宅から礼拝や祈祷会を視聴できるようになったことで大変喜んでくれました。コロナがなければ考えもしなかった方法ですが、多くの方々とつながり、一緒に福音を分かち合えるようになったことは大きな恵みです。だからこそ、この先の展開も重要だと思っています。よく祈りつつ、天国での礼拝を思い描きながら、教会のリアルな礼拝も、オンライン配信も充実させていきたいと思います。

神の霊的な訓練…

5月第二水曜祈祷会、朝は創世記41章46節から、夜はマタイ14章22節からみことばを心に留めました。ヨセフは奴隷からエジプトの宰相になった人ですが、決して権威にあぐらをかくことなく、エジプト全土を巡って、人々の暮らし、町の状況を調査し、7年の大豊作、7年の飢饉に備えました。神はそんなヨセフを通して多くの人を飢饉から救われたのです。また、弟子たちはイエスさまに命じられて、舟に乗り込み、向こう岸に向かったところ、向かい風に悩まされて何時間も苦しみました。『イエスさまに言われて舟に乗ったのに…なぜですか…なぜこんな時に一緒にいてくださらないのですか…。』と思ったでしょう。イエスさまはそんな彼らの前に現れて「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。そしてその結果、彼らは「まことに、あなたは神の子です」という信仰告白に導かれたのです。神の霊的な訓練にいつも無駄はないことを思わされました。

 

高く上げてくださる主…

教会のデボーションは創世記41章~。ヨセフが牢獄で献酌官と料理官の夢を解き明かした時から二年が過ぎました。献酌官は元の立場に戻りましたが、ヨセフのことは全く忘れていたようです。でも、神はヨセフを忘れることはなく、彼にとってのベストのタイミングを準備しておられたのです。ある時、エジプトの王ファラオは不思議な夢を見ました。その夢が気になって解き明かせる者を捜しましたが、だれにもできません。そこで献酌官がヨセフのことを王に知らせ、結果、見事に解き明かしました。こうしてヨセフはその功績が認められ、王によってエジプトのNo.2の地位に抜擢されたのです。「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」自分の思い通りにならない時も、ヨセフは神への不平をもらしませんでした。神はそんな彼を顧みられて、ちょうど良い時に高く上げられたのです。

生ける望みを持って…

5月第一主日、雨足が強い中でしたが、今日も大勢の方が礼拝に来てくださいました。メッセージはペテロの手紙第一から。失敗と回復を経験したペテロはペンテコステ以降、使徒として多くの人に福音を宣べ伝え、初代教会のリーダーとなっていきました。そんなペテロから、現在のトルコ北西部に散って寄留しているキリスト者たちへの手紙。ペテロは冒頭で、受取人たちが試練と迫害の中にあっても生ける望みを持つことを期待しているのがわかります。それは新しく生まれさせる望みであり、資産として天に蓄えられている望みであり、神の御力によって守られている望みです。過去、未来、現在において、今も脈々と息づいている望みの中に、私たちもいることを心に留めました。ブラウニングの言葉、『われとともに老いゆけよ。幸いはなお未来にあり。』苦難が忍耐を、忍耐が品性を、品性が希望を生み出す。今週もこの聖書の約束をにぎって、歩んで行きたいと思います。

『緊急事態宣言』の終了…

今日、WHOが新型コロナの『緊急事態宣言』を終了すると発表しました。3年3カ月ぶりの宣言解除です。日本でも連休明けから『五類感染症』になるということでコロナ対策も一つの節目を迎えます。但し、これでコロナがゼロになるわけではないので、高齢者や持病のある方も来られる教会ではマスク着用や手指消毒などは続けてお願いしていきたいと思っています。また最近は、ウィズコロナ、アフターコロナをテーマにしたものをよく見ますが、役員会などでもずっとこのことについて話し合ってきました。コロナ禍になって大きく変わったのは、礼拝の時間短縮、回数、オンラインの導入です。特に、オンライン礼拝に関しては教会によって様々な考え方があるようです。今のところ私たちの教会では終了することもなければ、限定配信に切り替える予定もありません。いろいろな諸事情で教会に来れない方をはじめ、一人でも多くの方に礼拝をご視聴頂きたいと思っています。

死から逃れたヨセフ…

だれでも人生に一度や二度…九死に一生を得るという体験をするのではないでしょうか。少しオーバーですが、私も幼い頃、真夏に傷んだおにぎりを食べて食中毒になったことがあります。母親が気づいた時には意識もなく、父親が慌てて近くの病院まで連れて行ってくれたそうです。わんぱく坊主でしたので、それぐらいは日常茶飯事だったのかもしれません…。さて、父ヤコブは12人の息子たちの中で特にヨセフを寵愛していました。それは愛妻ラケルの忘れ形見でもあったからです。それを快く思わない兄たちは、ついに弟ヨセフの殺害計画を立てました。もはや万事休すという時に、ユダという兄が「弟を殺し、その血を隠しても、何の得になるだろう。」と通りがかったエジプト隊商に銀20枚で売ってしまったのです。何とも痛ましい事件ではありますが、結果的にヨセフが命拾いをしたのは間違いありません。ここから想像もしなかったヨセフの物語が始まっていったのです。

私がたどってきた年月…

だれでも自分の人生を振り返ってみる時があるのではないでしょうか。自分の人生とは何だったのか…これから何をすべきなのか…考えてみるとあらためて気づかされるものがあります。ヤコブは22年前に死んだと思っていた息子ヨセフと再会しました。しかも、その息子が未曽有の大飢饉の中で、エジプトの宰相となって自分の前に現れたのです。「もう今、私は死んでもよい」と思ったのも無理はありません。でも、ヨセフはその先の未来を見据え、家族が安心してエジプトで暮らせるように、さらにエジプト全土のことも考えて真実を尽くて仕えました。ファラオから「あなたの生きてきた年月は、どれほどになりますか」と聞かれたヤコブは、人生に神の導きを思わずにはいられなかったことでしょう。最愛の息子に先立たれ、絶望を感じた人生が、思いも寄らない祝福に溢れる人生に変えられてたのです。ヤコブの生涯は、最後まで主に信頼し続ける者の幸いを教えています。

あなたはわたしを愛していますか…

4月第五日曜、今日は創立29周年記念礼拝を献げました。礼拝メッセージはヨハネ21章から。復活の主がペテロに個人的に声をかけられた箇所。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか。」ヨハネの子シモンは彼の本名であり、ペテロは彼が弟子になった時にイエスさまがくださった名前でした。でも、イエスさまが捕らえられた夜、ペテロは怖くなって自分からその名前を捨ててしまいました。「私はあの人の弟子ではない…」あの夜のことがペテロの心の傷として残っていたでしょう。だからこそイエスさまは彼の心の傷を癒し、関係を回復されるために三度同じことを問われたのです。ペテロはイエスさまに「わたしに従いなさい」と言われて、あらためて弟子としての召命を頂きました。私たち教会にとっても創立29周年に相応しい御言葉でした。礼拝には初めての方や久しぶりの方も来られて、70名を超す来会者がありました。さぁ、次はいよいよ30周年です。

教会創立29周年…

今春、私たちの教会は創立29周年を迎えました。牧落駅の借家で初代牧師の安碩珠宣教師と数名の信徒たちの祈りから始まった教会です。開所式をした翌年には阪神淡路大震災も発生し、教会としても大変な船出だったと思います。それでも、母教会の茨木聖書教会の強力な支援もあって、新しくクリスチャンになる方々が起こされ、教会は少しずつ成長を遂げていきました。二代目の松村牧師になってからは教会堂も西小路のビルのテナントに移転し、日曜礼拝はもちろん英会話に集う方々も徐々に増えていきました。2006年には三代目牧師として私たち夫婦が遣わされ、最初から明るい家庭的な雰囲気を感じたことを思い出します。あれから17年…教会は箕面4丁目に移転し、教会堂を持つようになり、先日の礼拝には60名を超す方々が来られました。これまでの神さまの導きを感謝するとともにますます地域の方々に安心して来ていただけるような教会になっていきたいと思います。

my beloved brothers…

Know this,my beloved brothers: let every person be quick to hear, slow to speak,slow to anger.  (James1:19) 今日は beloved brother の一語が特に心に留まりました。ヤコブは「私の愛する兄弟たち」と呼びかけます。あなたは愛されていますよというのです。毎週教会に来られる方々と何気ないおしゃべりができるのは本当にありがたいことです。このところ新型コロナも落ち着いてきて、いよいよゴールデンウィーク明けには季節性インフルエンザと同じ5類に引き下げることも決まりました。もちろんまだ油断はできませんが、教会でみんなで一堂に会する日が待ち遠しいです。「人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。」ここには、聞くhear、話すspeak、怒るangerの3つの動詞が出てきます。すぐに怒らないで、文句を言わないで、まず相手の話しをよく聞くことが大切です。聖霊さまに助けていただいて、主のような柔和な者になりましょう。

心砕かれて…

4月第四水曜祈祷会、朝は創世記33章から、夜はルカ5章から。ヤボクでの格闘によってヤコブは心砕かれ、兄エサウの前に心からひれ伏して近づいていきました。そんなヤコブをエサウは自分から迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけしたとあります。20年ぶりの主にあっての兄弟の和解でした。まさに「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」の御言葉が心に響いてきました。また、夜通し働いて魚一匹捕れなかったペテロに、イエスさまが「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」と語られました。人間の常識では全く無駄と思われることでしたが、ペテロは「先生、お言葉ですから…」と網を下ろしたところ、おびただしい数の魚が捕れたのです。そこでペテロは心砕かれ、イエスさまの弟子となることを決めたのです。「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。

ヤボクでの格闘…

教会のデボーションは創世記32章から。叔父ラバンの一隊があきらめて温和しく帰っていくのを見届けると、ヤコブたちは安心して一路故郷へブロンへの道を進みます。ただし、帰る先には父とともに兄エサウが待っています。兄は20年前の事をまだ恨んでいるのではないか…。次第にヤコブは恐れを抱き、あの手この手と兄の心を宥める作戦を考えます。それでも不安が拭えないヤコブのもとに、ある人が現われて、夜明けまで格闘しました。「ある人」とは神の使いと考えられます。ある人は不安な状態にあるヤコブを力づけるとともに、傲慢にならぬようにとももの関節を外して、彼の自我を砕かれました。ヤコブはそのような中で神の祝福なしに生きていくことができない自分を発見したのです。今日は全国キリスト災害ネットの全体会がZoomで行われました。講師の先生が、災害支援の働きは災害よりもそこに現れる神の愛を見ることですと言われたのが大変心に残りました。

舟の右側の祝福…

4月第四主日、清々しい青空が広がる一日でした。礼拝メッセージはヨハネ21:1-14から。ガリラヤ湖畔でペテロたちが復活の主と再会する場面。弟子たちは久しぶりに漁に出ましたが、その夜は何も捕れませんでした。イエスさまは岸辺から彼らを見ておられ、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」と言われました。彼らがその言葉通りにするとおびただしい数の魚が捕れたのです。ヨハネはすぐに「主だ」と気がつき、ペテロは慌てて湖に飛び込みました。イエスさまは「子どもたち。食べるものがありませんね」と声をかけられ、彼らのために朝食の用意して待っておられたのです。何気ない日常の場面の中にも、復活の主はいつもともにおられて、私たちのあらゆる必要に気遣って備えてくださることを思いました。右側に網を打つ…それは主を信頼してその言葉に従うことを意味しています。主にすがるわれに悩みはなし♪今週も主とともに歩んでいきましょう。

介入してくださる神…

教会のデボーションは創世記31章に入りました。ヤコブはついに叔父ラバンの家を出て、故郷に帰る決心をしました。それはラバンのヤコブに対する態度が変わってきたことと、何より主の語りかけを聞いたからでした。ヤコブは立って、家族とともにラバンの家から逃げ出して故郷に向かいます。三日後、ラバンもヤコブたちの逃走を知り、身内の者たちを率いて追跡します。そして、ヤコブに追いついたその夜、神は夢でラバンに仰せられました。「あなたは気をつけて、ヤコブと事の善悪を論じないようにしなさい。」もしこの神の介入がなければ、ヤコブは大変な目に遭っていたでしょう。でも、神は「どこへ行っても、あなたを守る」という約束を守られたのです。最近、夜に『証し』という本を読んでから休みます。1000ページを超える大書ですが、一つ一つは短い証しなので読みやすいです。神は今も私たちの人生に介入してくださるか否かを知りたい方にはお薦めです。

Easter egg…

初夏を思わせるような暖かな一日でした。今日もハートフル英会話のクラスから楽しそうな会話が聞こえてきました。ある受講生の方から『イースターエッグってなんですか』と質問がありました。イースター(Easter)という言葉は、ゲルマン民族の春の女神エオストレEastreを崇める春祭りから派生した語とされています。元々春の訪れを喜ぶ北部ヨーロッパの古宗教を当時のローマ教皇がキリスト教文化に積極的に取り入れたところから定着したようです。春は冬枯れから新しい生命が一斉に芽生える季節。死から命が与えられる復活のイメージにピッタリです。クリスマスの日を、太陽神を祭る冬至の習慣から取り入れた経緯と似ています。さて、卵ですが、固い殻の中から、新しい生命が誕生するところから、復活、永遠のいのちと結びつけられたようです。他にも、ウサギ、ひよこ、ゆり、棕櫚など、いずれも春の喜びを、イースターの喜びと重ねて用いているものがあります。

キリストの復活は本当なのか…

4月第四水曜祈祷会、朝は創世記30章から、夜はⅠコリント15章からみことばを心に留めました。姉レアと妹ラケルの熾烈な骨肉の争いの中にも、主は彼女たちの祈りを聞かれてご自身の御心を行われることを見ました。なぜこんな不名誉とも言える記述があるのか…と思いますが、それも聖書が信頼性できる理由の一つでしょう。また、夜はジャズをこよなく愛する兄弟がリードをしてくださって、『キリストの復活は本当なのか』をテーマに分かち合いました。兄弟は、音楽と出会って、突き詰めていった先にゴスペルがあった…と証ししてくださいました。そのゴスペルの根幹にあるのがイエスキリストの復活です。以前ある未信者の方と話している時、『キリストの復活だけは信じられない』と言われたことがありますが、ここを外してしまったら福音ではなくなってしまうのです。「もしキリスト甦へり給わざりしならば、我らの宣教も空しく、汝らの信仰もまた空しからん。

試練から学ぶ…

教会のデボーションは創世記29章から。住み慣れた地を後にしてヤコブはハランへと旅立ちました。その道中、ヤコブは夢の中で主の語りかけを聴きました。「わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。」主の一方的な恵みの約束でした。ヤコブはこうして旅を続け、ハランの近くの井戸でラケルと運命的な出会いをします。ラケルは叔父ラバンの娘で、早速、彼女のために7年間あなたに仕えると約束しますが、7年後に待っていたのはラケルの姉レアと結ばれることでした。ヤコブはまんまと騙されて、さらに7年間仕えることになりました。かつて兄エサウを騙したヤコブは、今度は自分が騙されることになったのです。人を欺く者は、人によって欺かれるもの。まさにヤコブは自分が蒔いた種の実を刈り取ることになったのです。だれもが失敗や過ちを繰り返すものですが、大事なのはそこから何を学び、どう立ち直るかです。

見ずに信じる者の幸い…

4月第三主日、礼拝メッセージはヨハネ20:19‐29。イエスさまが殺されてしまった後、次は自分たちの番かもしれないと弟子たちは恐れて一室に閉じこもっていました。復活の主はそんな彼らの真ん中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われました。彼らは驚きましたが、十字架の傷跡を示され、主のよみがえりを確信したのです。一方、その場にいなかったトマスは、他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言っても、自分の目で見て、手でさわらなければ決して信じないと宣言しました。トマスは正直な者で、自分を偽ることができなかったのです。イエスさまはそんなトマスの前にも現れてくださって「わたしの手を見なさい」と彼の求めに答えられました。こうして真実な信仰告白に導かれたトマスに、イエスさまはさらに幸いな信仰の世界があることを教えられたのです。見て信じる信仰ではなく、見ずに信じる者の幸いに私たちもあずかっていきたいものです。

祝福は一つしかないのですか…

教会のデボーションは創世記27章から。聖書は今日的価値観ではなかなか理解に苦しむ箇所もあると思いますが、その一つでしょう。父イサクの祝福の継承をめぐって兄エサウと弟ヤコブが奪い合います。父イサクは年を取って目がかすみ、自分の好きな料理を持って来て祝福を求めているのが誰かわからずにいました。そこで弟は兄になりすまし、まんまと祝福を頂き、後から来た兄は自分への祝福が残ってないことを知り、弟を恨み、殺意に燃えるという展開。なぜこんな話しが聖書にあるのかと不思議に思います。ただ、今日はこの一節が心に残りました。「『お父さん、祝福は一つしかないのですか。お父さん、私を祝福してください。』エサウは声を上げて泣いた。」祝福を追求した弟、祝福を軽んじた兄。いつまでもあると思うな〇と〇…の教訓を思い出します。大事なものは無くなって初めて気づくものなのかもしれません。今ある幸いを、主に感謝して歩みたいものです。

Hot cross bun…

今日からハートフル英会話春期コースがスタートしました。教会の中で行っている英会話クラスです。ネイティブ講師から、日常生活で使える英語から学習に役立つ英文法まで、しっかり学ぶことができます。大人クラス、キッズクラス、中高生クラスとありますのでまずは無料体験レッスンをお申し込みください。大人クラスでは隔週でチャペルタイムも行っています。今日はレイチェル先生がHot cross bunという甘い菓子パンを焼いてきてくれました(写真がなくてすみません)。オーストラリアではこの時期よく目にするそうです。チョコとレーズンの二種類があって、表面には十字架の飾りがありました。一緒にBibleを読みながら、改めて"Easter"って何の日かを考えました。日本ではまだ馴染みがありませんが、Christmasと並んで…それ以上に重要な教会の祝祭 Easter(復活祭)のメッセージはYouTubeでも視聴することができます。ぜひ日曜礼拝も体験してみてください。

主は彼を祝福された…

4月第二水曜祈祷会、創世記26章から。アブラハムから祝福を受け継いだイサクの時代にも飢饉が起きました。イサクはゲラルのペリシテ人の王アビメレクのもとへ移動し、そこで主の声を聞きました。「エジプトへ下ってはならない。わたしがあなたに告げる地に住みなさい。…わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。」これらの祝福はイサク自身の功績によるものではなく、父アブラハムのゆえの祝福であり、神からの一方的な恵みの宣言でした。これほどの約束を受けていながら、イサクは父アブラハムと同じ過ちを犯し、妻リベカを妹と偽ります。でも、すぐにアビメレクにわかってしまい、なんとも惨めな結果となりました。その後も、イサクには祝福と試練が交互に起こってきてたびたび信仰が試されていったのです。どんな失敗をしても、主はお見捨てにはならないことを思います。むしろ、試練の中でこそ、信仰は試され、育まれ、成長させられていくのです。

関キ災第八回懇談会…

関西キリスト災害ネットワーク・第八回懇談会がありました。関キ災は南海トラフ大地震をはじめ今後の大規模災害に備えて、関西のキリスト教会、キリスト者、キリスト教諸団体でネットワークを構築することを目的としています。2011年の東日本大震災以降、毎年のように各地で大規模な自然災害が発生し、もはやどこで何があってもおかしくない時代です。今回は看護師で防災士の山中弓子さんをお招きして、これまでの様々なご経験から防災に関する具体的なお話しをお聞きしました。特に女性目線で語ってくださることが、非常に有益でした。また、子どもたちやお年寄り、ハンディキャップを持った方々への配慮、「平等、公平」とは何か…など、日常生活でも心掛けたい大切なことを学びました。詳細はホームページでも公開していますので、ぜひご欄ください。災害は起こらないことに越したことはありませんが、これからもこうした活動を継続していきたいと思います。

なぜ泣いているのか…

4月第二主日、今日はイースター記念礼拝でした。一部、二部と大勢の方が来会され、4人の新来者がありました。礼拝メッセージはヨハネ20章1-18節から。週の初めの日、朝早くまだ暗いうちにマグダラのマリアは墓に行きましたが、そこにイエスさまの亡骸はありませんでした。墓の前で泣いているマリアの前に、復活の主が現われて「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」と声をかけられました。最初、マリアはその声を聞いてもイエスさまだとわかりませんでしたが、「マリア」という呼びかけに、思わず「ラボ二」と答えたのです。それは紛れもなくイエスさまの優しい呼びかけでした。主は今も私たちを十羽一絡げではなく、一人一人と関係を持ち、名前で呼んでくださることを思いました。今日はボンヘッファー牧師の召天日。「私にとってはこれが最後。しかし、また始まりである。」私も命ある限り、この信仰を人生の宝としていきたいと思います。

彼らはそこにイエスを納めた…

昨日までの雨も止んで、今日は青空が見えました。受難週の最後の土曜日、今日はヨハネ19章を読みました。イエスさまは十字架上で「完了した」と大声を上げ、頭を垂れて霊をお渡しになりました。それは死を前にした断末魔の叫びではなく、ご自分の使命をすべて成し遂げられた勝利宣言でした。イエスさまの亡骸は、アリマタヤのヨセフとニコデモの二人のサンヘドリンの議員が引き取りました。二人とも周りからの冷たい視線も顧みず、新しい墓にイエスさまを埋葬しました。ヨセフに関しては、ユダヤ人を恐れて主の弟子であることを隠していた…とありますが、イエスさまの十字架の死が彼に新しい一歩を踏み出させる重要な契機となったのです。今週、教会のある姉妹から『主人が受洗の決心をしました』と嬉しい報告がありました。『私は洗礼を受けません』とずっと仰っていた方なので、みんな聞いたら驚くでしょう。姉妹の長年の祈りがついに実を結ぶ時がきました。

そして彼は泣き崩れた…

4月第一水曜祈祷会、マルコ14章53‐72節。カヤパの「おまえはキリストなのか」という尋問に対し、イエスさまは「わたしがそれだ」とお答えになり、この証言をもって有罪が確定しました。つまり、イエスさまは自ら十字架への道を歩まれたのです。時同じくし、中庭まで様子を見に来ていたペテロに、大祭司の召使いの女が「あなたもナザレ人イエスと一緒にいましたね」と言うと、ペテロは思わず「何を言っているのかわからない…」と否定しました。二度、三度と…ペテロはイエスさまが自分に話された通り「知らない」と否定しまったのです。真理に立ち続けたイエスさまと立ち続けられなかったペテロの姿を覚えました。ペテロ本人しか知らないことが4つの福音書すべてに記されているということは、ペテロはこの時の失敗を幾度も語ったということでしょう。私たちも何度も失敗します。でも、イエスさまの赦しととりなしの祈りに支えられて…今があることを思います。

ライフワークス新年度礼拝…

昨日はライフワークス社の新年度礼拝がありました。キリスト教精神に立った葬儀社の日頃のお働きに、関西の一教会の牧師として心から敬意を表します。いつもご遺族の気持ちに寄り添った葬儀をしてくださって、教会としても安心してお願いすることができます。確かに、葬儀自体は喜ばしいことではありませんが、召天者にとっては最後の証しの場、遺族にとっては天国の希望を覚える機会です。大切な家族や友人の旅立ちを見送る時…。そこで福音を語れるのはなんとも幸いです。「書き記せ、『今から後、主にあって死ぬ者は幸いである。』と。御霊も言われる。『しかり、その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。」なぜ、教会で行う葬儀には希望があるのか…多くの方に知って頂きたいと思います。私たちの教会は洗礼を受けておられない方の葬儀もお受けいたします。遠慮なく、ご相談ください。

完了した…

今年も桜の満開の時期に受難週を迎えました。礼拝メッセージはヨハネ19章17節‐30節。イエスさまは十字架上で7つの言葉を語られましたが、ヨハネはその内の3つを記しました。まず母マリアと愛弟子に向かって「あなたの息子です。…あなたの母です。」という十字架のもとに新しい霊的関係を築かれました。神の家族の始まりがここに見られます。また、聖書が成就するために「わたしは渇く」と言われました。それは父が下さった苦難の杯を余すところなく飲み干されることを象徴しています。そして「完了した」と言って頭を垂れて霊をお渡しになりました。ここに私たちの救いに関わる一切のことが完了したのです。もはや動物を殺して捧げる必要もなければ、律法に縛られることもありません。今は恵みの時代、救いの日です。これはとてつもない出来事です。イエスさまという一粒の麦が地に落ちて死んでくださった故に、私たちに永遠のいのちがもたらされたのです。

ひとときの慰め…

教会のデボーションはマルコ14章から。マリアはイエスさまに純粋で非常に高価なナルドの香油を惜しみなく注ぎました。彼女の行動を見て、ユダをはじめ他の弟子たちはなんと無駄なことをするのだと憤慨しました。しかし、イエスさまは彼女をかばい、その行為を心から喜ばれたのです。人の見るところと神の見るところはこんなにも違うということを教えられます。「彼女は、自分にできることをしたのです。」マリアがした精一杯の行動は十字架に向かうイエスさまを励まし、ひとときの慰めとなったのです。果たして自分はイエスさまのために何ができるだろうか…と思わされました。今は自分のからだをもって心からの礼拝を献げること…御言葉に聴き入ること…ここに尽きるように思います。今日からいよいよ4月。そして明日は一年で最も重要な礼拝といっても過言ではない、受難週の礼拝です。本物のイースターを祝うためにも、ぜひお近くの教会に足を運びましょう。

そして父に会うなり…

早いもので、今年も3月が終わろうとしています。50歳を過ぎたころから薄々感じていていましたが、一年の体感時間が短くなっているようです。イエスさまも「明日のことまで心配しなくてよい…」と言われましたので、今日できることを一つずつやっていけたらと思います。新年度を迎える学生たちは環境が変わることで、気が重い人もいるでしょう。どうか無理をしないで、よかったら一緒に分かち合えたらと思っています。3月の旧約聖書を学ぶ会は明日に変更させていただきました。今週は葬儀式もあったので中止にしては…という声もありましたが、二人の方に『楽しみにしています』と言われましたので喜んでさせていただきたいと思っています。明日は死んだはずの息子ヨセフと父ヤコブの感動の再会の場面です。それはまるで天国での再会の光景を思わせてくれます。私たちもやがて天に帰りますが、そこで先に召された方々と再会する約束があるのはなんとも幸いです。

今、彼はここで慰められ…

3月第五水曜祈祷会、午前はマルコ13章1節~、午後は16章19節~。イエスさまは終わりの日の前兆として、偽キリストの出現、戦争や戦争のうわさ、国家間の対立、天変地異が起こることを告げられました。それらはみな、すでに歴史の中で起きていると同時に今も終わりの時代であることを思います。形あるものは必ず終わりを迎える…それは私たちの人生も同じです。また、金持ちはなぜ黄泉に下り、ラザロはなぜ天国へ行ったのか…。当時、金持ちは神の祝福の表れ、貧しさは神の裁きの象徴という考えがありましたが、主はそうした考えを否定し、救いは恵みによることを教えられたのです。身体のハンデを抱えながら教会に通い続けられた兄弟の姿を思い浮かべました。苦難を通して信仰から離れてしまう人もいますが、兄弟はますます信仰が強められていきました。『父がなぜあれほど教会に行きたがっていたのかがわかりました…』というご家族の言葉が心に響きました。

だれよりも多くを…

教会のデボーションはマルコ12章38節から。イエスさまはここで律法学者に対する警告とやもめの献金という二つの事柄を通して、誰が誠実に神の教えに生きているかを記しています。律法学者たちは、人々に神のことを教えながら、自分たちは人間的な称賛を求め、弱い人たちを利用して利得を貪っていました。それと対照的なのが貧しいやもめで、彼女は生活費のすべてのレプタ銅貨二枚を惜しみなく献金箱に投げ入れました。主は、自分を愛する者は偽善と虚栄の虜となり、神により頼む者は神からの称賛と祝福を受けることを教えられたのです。今日は教会である兄弟の葬儀があり、平日にも関わらず、大勢の方が来会されました。兄弟は5年前に体調を崩されてから、身体にハンデを抱えられましたが、礼拝と祈祷会にはほぼ休まず来られました。口数の少ない兄弟でしたが、その実直な姿は多くの人に感動を与えていたのです。ご遺族の上に主の慰めを心からお祈りしています。

わたしがそれだ…

3月第四主日、花曇りの小雨の降る中、主をほめたたえる礼拝を献げました。メッセージはヨハネ18章から。主イエスは十字架にかかられる前夜、弟子たちとゲッセマネの園に行き最後の祈りの時を持ちました。そこにユダは数百人にも及ぶローマ兵たちを連れてきて、イエスさまを捕らえ、連れ去っていったのです。弟子たちにとってあまりにも衝撃的な光景だったでしょう。でも、それこそが旧約聖書から預言されてきた真のメシアの姿だったのです。私たちも時に、イエスさまへの期待が叶えられず、失望に終わってしまった…と思うことがあるかもしれません。でも、人間にとって最悪と思われるような事態も、神のご計画によれば最善へと動き始めていることがあるのです。私たちの心が揺れ動く中で、「わたしがそれだ」と万事をご存知であられる主の声が響いてきました。十字架への道を歩む主の姿は、その先に私たちには知り得ない神の最善があることを教えているのです。

走るべき道のりを…

クリスチャンはみな、神の家族としてお互いのことを『兄弟』『姉妹』と呼び合います。今朝出かける間際に教会のある兄弟の召天の連絡がありました。今年1月に緊急搬送され、その後もコロナ禍でご家族とも会うこともできず、心身ともに苦しい状態が続きました。でも、教会でお祈りしていることをお伝えすると、『皆さまの心温まる励まし、そして力強いお祈りに感謝いたします…また、礼拝でお会いできるのを楽しみにしています。』とLINEで返事をくださいました。昨夜私も病室に寄せてもらった時には目を閉じておられましたが、顔色もよく、お祈りにも『アーメン』と応えてくださいました。礼拝と祈祷会を大事にしてくださって、本当に忠実で優しい方でした。お世話になりましたと最後にご挨拶できたのは…主の憐れみでした。大好きなご家族に見守られ、眠るように主の御もとへ召されていきました。ご遺族の上に、主の慰めと平安をお祈り頂けましたら幸いです。

教団総会を終えて…

3月21‐22日、スカイツリーを横目に見ながら(WBCの結果が気になりながら)第74回教団総会が行われました。開会礼拝では朝岡理事長がイザヤ書55章8‐13節からメッセージを取り次がれ、あらためて昨年の歩みを振り返り、コロナ禍の中で各教会も困難な状況を歩んだことを思いました。ただ、そうした中でも数字には表れない多くの恵みもあり、新たに按手を受ける先生方がいて、新たに加入する教会や新たにスタートする開拓教会もありました。久しぶりに会う同労の先生方からも励ましと慰めを受け、新年度に向けて気持ちも新たに歩み出せそうです。私自身は23日の新任教師派遣前研修にも出席し、最初の礼拝でメッセージを取り次いで、ソメイヨシノが満開の東京を後にしました。今回は気分転換も兼ねて妻と一緒に車で行ったので、帰りはちょっと疲れましたが…無事に帰阪しました。さあ、明日からは一泊で中高生キャンプ。お天気が心配ですが、祝福をお祈りください。

極みまで愛された主…

3月第三主日、春風を感じる一日でした。礼拝では最後の晩餐における洗足の記事からみことばを心に留めました。イエスさまは夕食の席から突如として立ち上がり上着を脱いで、自ら手拭いやたらいの水を準備して弟子たちの足を洗われました。その姿には弟子たちもさぞかし驚いたでしょう。自分たちの中で誰が偉いかを争っていた彼らの中にはその役を引き受ける者がいなかったからです。ペテロは思わず、とんでもない!と辞退しました。でも、その行為こそが罪の聖めと赦しを象徴していたのです。「わたしがしていることは今はわからなくても、後で分かるようになります。」私たちの人生はすぐにわかるものとすぐにわからないものの二種類があります。イエスさまに足を洗って頂くのは、この方を信頼してその身を任せることです。ユダの足も洗われたイエスさまは私たちの足も洗ってくださいます。そして、今はわからなくても、その意味は後で分かると言われるのです。

The Little Children and Jesus…

今日はハートフル英会話冬期コースの最後のクラスでした。春休みが近いからでしょうか💦キッズクラスも大盛り上がりでした。今日のチャペルタイムでは、ルカ18章15‐18節を読みました。子どものように神の国を受け入れるとはどういうことでしょうか。実は最初に出てくる「幼子」とは「乳飲み子」を指す言葉です。つまり、イエスさまは赤ちゃんのように神の国を受け入れることを求めておられるというのです。近ごろ、私たちの教会も赤ちゃんを抱いて礼拝に来るご家族が増えました。本当に感謝です。もう何をしてもかわいいなあと思います。ただ寝てるだけでも、お腹が空いて大声で泣いていても、何をしても誰にも怒られるわけではありません。大人のように立派なことはできなくても、自分の身を安心してゆだねている…。ルカが記すのは、まさにそういう赤ちゃんです。そこにいるだけで喜んで受け入れてくださるイエスさまの愛に身をゆだねようではありませんか。

信仰と不信仰の間で…

3月第三水曜祈祷会、朝はマルコ9章23‐24節、夜はルカ11章5-13節からみことばを心に留めました。父親は息子の病の癒しを求めてイエスさまのもとに来ましたが、イエスさまの問いかけに「おできになるなら、私たちをあわれんでください。」と答えました。幼い頃から苦しんでいる息子の姿を見て、癒される望みも失いかけていたのでしょう。イエスさまはそんな父親に向かって「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と告げられると、彼はすぐに「信じます。不信仰な私をお助けください。」と叫びました。彼は自らの不信仰を率直に認め、改めてイエスさまに対する絶対の信頼を告白したのです。また、真夜中に友人の家にパンを三つ借りに行った人の譬え話からも、粘り強く祈ること、確信をもって祈ること、神は聖霊を与えてくださることを学びました。主はどんなことでもおできになる、私たちもこの信仰に立って祈りましょう。

山あり谷あり…

教会のデボーションはマルコ9章に入りました。「イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。」有名な変貌山の記述。そこでイエスさまはご自身の栄光を現され、預言者の代表であるエリヤと律法を代表するモーセとともに語り合っていました。なんとも神々しい光景を見てペテロは何を言ったら良いのかわからなくなったとあります。「山を下りながら、イエスは弟子たちに人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことをだれにも話してはならない、と命じられた。」今度は山の下り道で、イエスさまはご自身の十字架と復活について改めて弟子たちに話されました。彼らはこのことばを胸に納め…とあるようにその時はわからないながらも覚えていたのでしょう。そして十字架と復活の後、彼らもすべてを理解していったのです。私たちの人生も山あり谷あり、すべての営みに時があることを思います。

主のためにできること…

3月第二主日、春めいた温かなお天気でした。礼拝では受難週(passion week)に注目し、イエスさまの十字架への道を辿ります。今日はヨハネ12章からマリアが高価なナルドの香油をイエスさまの足に注ぎ、髪で拭ったところを読みました。マリアはイエスさまの元でいつも御言葉に聴き入っていたからこそ、これが一緒に過ごす最後の時だと感じ、自分にできる精一杯の愛を現しました。それを見たユダは「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と不満をもらしたのです。イエスさまはそんなユダが金入れからお金を盗んでいることも全部ご存知でした。そして、マリアはわたしのために葬りの備えをしてくれたのだと言ったのです。イエスさまは十字架を前に、このマリアの愛の行為にどれだけ慰められたことでしょう。私たちも、いつでもできることと、この時を逃したらもはやどんなに欲してもできないことを見極めて行動したいものです。

イエスを信じるとは…

東日本大震災から12年が経ちました。時の流れを感じますが、あらためて被災地の復興と被災者の方々の心のケアのために祈りたいと思います。今日から教会のデボーションはマルコ8章に入りました。七つのパンとわずかな小魚で4千人の人々のお腹を満たした記事。弟子たちの不信仰ぶりが目立ちますが、きっとこのような信仰の訓練を何度も経験したのでしょう。その度にイエスさまは弟子たちにご自身の力をお示しになり、彼らの信仰を励まされたのです。私たちもイエスさまの御力をどこまで信じているでしょうか。『イエスさまは私の祈りを聞いてくださらない。なぜでしょう。』とよく質問されますが、イエスさまは「いつでも祈るべきで、失望してはいけない。」と告げられました。イエスさまを信じることは、ジグソーパズルの完成図を知らずに作っていくことに似ているかもしれません。コツコツと繋げる時間と忍耐が必要ですが、主は必ず完成させてくださるのです。

信じてはいけません…

偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。」安倍元首相襲撃事件と旧統一教会の問題から、今も大学生を中心に活動を続ける摂理、指導者が再誕したイエスを自称する新天地イエス教、大川総裁が急死した幸福の科学、最近ではエホバの証人の二世の方たちも声を上げ始めています。もちろん、TVのニュースやワイドショーの情報をすべて真に受ける方は少ないと思いますが、キリスト教の一団…と言われることはやはり残念です。『聖書』と言っても全部が同じではなく、勝手な翻訳をしているものもあるからです。私たちの教会には、元摂理にいた方や元エホバの証人にいた方たちもいますが、過去の自分を回顧しつつ、心を痛めつつ、また、友人たちのことも思い返しながら…一歩ずつ前に歩こうとしています。春は大学をはじめ様々な宗教の勧誘が活発になる時期です。どうかお気をつけください。

約束のみことば…

3月第二水曜祈祷会、詩篇12篇から御言葉を心に留めました。「主よ、お救いください」というダビデの切なる祈りから始まります。ダビデの周りからは神を恐れる者たちがいなくなり、互いに空しいことを話し、へつらいの唇と二心で話すような者たちがいました。でも、主は言われます。「わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」主のことばは、混じり気のないことば。土の炉で七度試され、純化された銀。不純物ばかりの人間の言葉に対して、純化された神の言葉の確かさを思いました。夜はルカ7:36~一人の罪深い女が自分の涙でイエスの足を洗い、その足に口づけして香油を塗った箇所を読みました。彼女は自分のような罪深い女を受け入れてくださった主にできる限りの感謝を表したのです。「…あなたの信仰があなたを救ったのです。」ルカ伝に4回も繰り返される重要な言葉。ここでイエスさまが「行いが」と言われなかったのが、私たちにとって重要なことです。

主に身を避ける…

教会のデボーションは詩篇11篇から。「主に私は身を避ける。」ダビデがサウル王に命を狙われ、逃亡生活を余儀なくされていた時を思い描きます。友人たちは鳥のように自分の山に飛んで行け(逃げるしかない)と助言しますが、ダビデの心は主に向いていました。その根拠は4節からの神への信仰告白に表されています。主は聖なる宮から、私たち人間をよくご覧になり、正しい者を守り、悪者を罰せられる方です。ソドムとゴモラの滅亡の際にもアブラハムのとりなしの祈りによって、神は慎重に正しい者と悪者を判別され、裁きを下されました。親しい友人や同僚のこの世的な助言も、時に助けになりますが、自分にとって真の拠り所はどこにあるかを見失わないでいたいものです。「主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は御顔を仰ぎ見る。」それが信仰者の最終的な目標であり、力と平安の源です。主は必ずあなたを守られる。ダビデの揺るがない信仰に倣いたいものです。

信じる者は生きる…

3月第一主日、今日も温かな日射しが差し込む一日でした。礼拝はヨハネ11章から七つのしるしの最後となる『ラザロの生き返りの奇跡』を見ました。マルタとマリアは弟ラザロが病気で苦しんでいるので、すぐにイエスさまのもとに使いを送り、助けを求めました。でも、イエスさまはすぐに駆けつけることなく、その簡にラザロは死んでしまい、埋葬も終わっていたのです。マルタもマリアも最愛の弟を亡くし悲嘆にくれていました。そんな彼女たちにイエスさまは言われたのです。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」イエスさまはラザロの墓に案内されて、その石を取りのけなさいと命じました。もう臭くなっていましょう…と言うマルタに、イエスさまは言われます。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」こうして不信仰という石を取りのけたマルタはラザロの復活を見ることができたのです。

人とは何者なのでしょう…

教会のデボーションは詩篇8篇から。著者は美しい夜空の星々を見て、偉大なる神を覚え、その神が私たちをこよなく愛してくださっていることに感動しています。人はみな、神に背を向けて生まれてきました。どんなにこの世で成果を上げても、その先にあるのは死の現実です。でも、イエスさまはその現実を打ち破って、彼を信じる者に永遠のいのちの道を約束してくださったのです。最近、二人の方から贈呈の本が送られてきました。一つはセカンドチャンス(死後にも救いのチャンスがある)に関する本、もう一つはクリスチャン自死遺族支援に関する本です。亡くなった人のことを考えるという点では共通するところもありましたが、全く違う感想を持ちました。残念ながら…セカンドチャンス論は人間の知る領域のことではないと思います。また、私が亡くなった父のためにできる親孝行は…とにかく精一杯生きること、自分が選んだ仕事をひたすら全うすることだと思いました。

You put air under my wings…

以前、私たちの教会で奨励をしてくださった宣教師のご夫妻がいます。背の高いご主人が英語でスピーチをし、少し小柄な奥さまが日本語で通訳をしてくださるとても感じのよいご夫妻です。その時すでに奥さまはステージ4のガンを患っていましたが、そんな素振りも見せずに、朗らかな笑顔が素敵でした。ご主人は聖書からまっすぐに語ってくださり、多くのことを教えていただきました。そして、帰国後は…今度はご主人がステージ4のガンであることがわかったそうです。ご夫妻で抗がん剤治療が始まり、さぞかし大変な毎日なのでは…と思いますが、Emailが届いて、Many thanks for your encouragement and prayer! You put air under my wings.と書いてありました。大変な日々であることに変わりはないと思いますが、お二人の強い信仰を感じました。日本人を愛し、多くの福音を伝えてくださったご夫妻です。主の癒しと平安があるようにお祈り頂ければ幸いです。

大盾のように…

3月第一水曜祈祷会、昨日に続いて温かな陽気となりました。朝は詩篇5篇から、夜はルカ14:25‐35から御言葉を心に留めました。詩篇の著者は空を打つような祈りではなく、はっきりと父なる神を意識した祈りをささげます。「私の王 私の神 私はあなたに祈っています。」朝ごとに神から与えられる新しい一日を感謝して始めていきたいものです。個人的な「私」の祈りが、「私たち」の祈りとなるように教えられる詩篇でした。また、夜は「自分の十字架を負って…わたしの弟子となることはできません」の言葉に心を探られました。自分の十字架とは何か…イエスさまの弟子となるとはいかなることか…感じ方は様々ですが、ただ…一人で読んでいたら気づかないことにも一緒に分かち合うことでいろいろなことに気づかされます。少し難解な御言葉にも果敢にその真意に近づこうとする私たちを、主が弟子たちを見るように目を細めて見てくだっさっているように思いました。

神は私には働かない…

教会にメッセージの感想やご自身の証しを送ってくださる方々に感謝しています。すぐにお返事はできないかもしれませんが、目を通させていただいています。神さまがいろいろなところで、いろいろな方に、いろいろな形で働いてくださることを思います。一方で、神は私には働かれないというお手紙もいただきます。『救わないなら殺してください。旧約聖書時代に大量に殺してんだから簡単でしょう。いい加減どっちかにしてください…』辛い心の内を話してくださってありがとうございます。お気持ちをすべて理解することはできませんが、とにかく祈りに覚えています。無理して教会に行くことも、いやいやメッセージを聴く必要もないと思います。神は怒りの叫びも聞いてくださいます。もし宜しければ午後に旧約聖書を学ぶ会でヨセフ物語の後編を読みますのでご視聴いただければ幸いです。すぐに答えは出ないかもしれませんが、神がご栄光を現してくださいますように。

神のわざが現れるため…

2月第四主日、少し風が冷たく感じる朝でしたが、今日も三回の礼拝を献げることができて感謝でした。礼拝メッセージはヨハネ9:1から、生まれつき目の見えない人がイエスさまと出会って癒されていく記事を読みました。当時、肉体的な病気は罪の報いであるという昔ながらの考えがあって、弟子たちもそう思っていました。でも、イエスさまはそうした考えをキッパリと否定され、神のわざが現れるためですと言われたのです。私たちもとかく、不条理な現実を受け止めるために、心の天秤にかけてみて釣り合うものがないか…と考える時、過去の方に捜すかもしれません。でも、イエスさまの天秤は、過去ではなく、神のわざが現れるであろう未来にあるというのです。ここに目を向けていくとき、忍耐が生じ、品性を生み出し、希望が湧いてくるのです。神は人間の目には不幸に見える現実も神のわざが現れる機会に変えてくださる…この信仰をもって歩んでいきたいと思います。

主の導きに応える…

阪急箕面駅から徒歩5分ほどのところに素敵なカフェがオープンしました。コーヒーの味はもちろんのこと、店内も落ち着いた雰囲気で、心地よい時間を楽しめて、これまた感じのいい素敵なご夫妻が迎えてくださいます。お近くの方はぜひ足を運んでみてください。さて、教会のデボーションは創世記24章50-67節から。聖書の中で最も美しい光景の一つ、イサクとリベカの出会いの場面です。アブラハムが信頼して送り出したしもべは、祈りのうちにリベカと出会い、彼女こそ主が導いてくださったイサクの妻になる人だと確信し、一緒に主人のもとに来てほしいと懇願しました。リベカは「はい、行きます」と申し出を受け入れ、しもべの後について行き…そして、夕暮れ近く散歩に出かけたイサクが、その道すがらリベカと出会い、こうして二人は結婚へと導かれていったのです。一人ひとりが主の導きに応えて行動する姿を思い浮かべました。私たちも、かくありたいと思います。

あなたのための祈り…

今日はナインの会(クリスチャン自死遺族のコミュニティー)に参加させていただいてメッセージを取り次がせていただきました。Zoomでの集まりでしたが、慰めに満ちた交わりでした。詳しい内容をお知りになりたい方はホームページをご覧ください。私も今から18年ほど前に父を自死で亡くし、心が引き裂かれるような喪失感を味わいました。まさか自分の家族にこんなことが起こるなんて…思いもしませんでした。その頃、日本では年間3万人以上の自死者があり(交通事故死の5倍)、一日平均85人(17分に1人)もの方が命を絶たれました。こんなにも身近なものであることを私は知りませんでした。今も年間2万人もの方が自死を選ばれています。誰も自ら望んでその道を選択する方はいないでしょう。でも、誰かに相談していたらまた少し違った道もあったかもしれません。遺族の深い悲しみは…何年たっても癒えることはありません。教会も少しでも力になれたらと思っています。

最初の所有地…

2月第四水曜祈祷会、朝は創世記23章から、夜はルカ13章から、みことばを心に留めました。アブラハムが妻サラの死を「…悼み悲しみ、泣いた」という言葉が心に沁みました。声を上げて泣いているアブラハムの姿が思い浮かびました。ずっと一緒に歩んできた人がいなくなるのは…とてつもない喪失感だったでしょう。でも、アブラハムはそこから立ち上がり、彼女のために墓地を購入していったのです。そこからあらためて信仰者にとって『墓地』とはいかなるものかを考えさせられました。それは人生のゴールなどではなく、永遠の御国への入り口、同じ約束を信じる信仰を受け継ぐ証しであるということです。夜の御言葉も『ぶどう園のたとえ』から、「どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って肥料をやってみます。」というイエスさまの切なる祈りを感じました。この祈りに支えられて、私たちの一日一日があることを感謝したいと思います。

神が与える試練…

CGNTVリビングライフの奉仕も最後の収録が終わりました。一年間、皆さまのお祈りと励ましをありがとうございました。さて、教会のデボーションは創世記22章に入りました。アブラハムの生涯において最大の試練とも言える場面です。多くの方が、なぜ神はアブラハムにこれほどの試練を与えたのか…理解できないと思うところです。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」アブラハムは神のことば通り、モリヤの山で祭壇を築き、息子イサクを縛り、刃物を振り下ろしました。すると、「その子に手を下してはならない」という主の声が聞こえ、代わりに一匹の雄羊が備えられていたとのことです。私たちがいくら「なぜ…」と考えても、答えは出ないでしょう。ただ、神は私たちのためにご自分のひとり子を献げられたということです。

新しい人生を生きる…

2月第三主日、小雨の降る中でしたが、今日も大勢の兄姉、またオンラインの兄姉とともに礼拝を献げました。メッセージはヨハネ7:53-8:11、姦淫の罪を犯した女がイエスさまと出会って変えられていく場面から。律法学者たちは彼女を捕らえ、イエスさまの前に突き出して「あなたは何と言われますか」と詰め寄ります。彼らがそう尋ねたのは答えを知りたいからではなく、イエスさまを訴える口実を得るためでした。イエスさまは彼らが問い続けるので「罪のない者がまず石を投げなさい」と言いました。すると、年長者たちから始めて一人ずつその場を去って行き、真ん中に残された彼女にイエスさまは言います。「わたしもあなたに審きを下さない。行きなさい。これからは決して罪を犯してはなりません。」イエスさまは彼女の罪を赦すだけでなく、神を信じて生きる新しい人生に踏み出すよう命じられました。主は今日も私たちの過去ではなく、未来を見てくださるのです。

When he came to his senses…

今日のハートフル英会話はチャペルタイムがあって、レイチェル先生がルカ15章11節から放蕩息子のたとえ話しを選んでくださいました。特に「彼は我に返って…he came to his senses」の言葉が心に留まりました。 ギリシャ語も「自分にかえる」という意味の言葉です。それは本来の自分にかえることであり、当時のユダヤ人は「悔い改める」の意味で使ったそうです。放蕩息子はまさに人生のどん底で本来の自分に戻りました。それゆえ彼は父の家に帰ろうと思ったのです。そして、自分を待っていてくれた父にこう言いました。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。」つまり神を神とすることもせず、父を父として仰ぐこともしなかった…もう息子と呼ばれる資格はありません…と告白したのです。父はそんな息子を抱きしめて大喜びした…主はそれが父なる神の私たちへの愛だと教えられたのです。

主の前に立って…

2月第三水曜祈祷会、朝は創世記16章16節から、夜はマルコ13章からみことばを心に留めました。主はソドムとゴモラの罪はきわめて重いことをアブラハムに告げました。するとアブラハムは主の前に立って必死にとりなしの祈りを献げ、主も忍耐と憐みをもってその祈りを受け入れてくださったのです。今の時代も、説教者や神学者も必要ですが、何より必要なのは滅びゆく人々のために切に祈る人です。伝道や証しが苦手な人も、とりなしの祈りはだれもができる宣教のわざです。たとえ明日世界が滅んでもリンゴの木を植える…そんな祈り手になりたいものです。また、主は「目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。」と言われました。神は唯一、救いの道も唯一、というのは排他的と言われるかもしれませんが、聖書の真理を変えることはできません。信仰において譲らず、愛において譲る。今日はルターの二つの名言を思い出しました。

神がいるならどうして…

神がいるならどうしてこの世に戦争や悪がなくならないのか。それは人類がずっと考えてきたことです。神学的には神義論と言います。これについて簡単な答えはありませんが、アダムとエバか罪を犯し、神から離れてしまってからは人類史上、戦争がなかった時代はありません。神に背を向けた世界は決して良い方向にはいきませんでした。神はそうした罪の世をノアの時代に完全に滅ぼされました。そして、神はその後も忍耐と寛容をもってこの世を見て来られました。しかも見ているだけでなく、ご自分から罪の世の中に降ってくださり、私たちの罪を贖ってくださったのです。主は今も私たちの苦しみのただ中におられます。主はこの世にあっては患難があると言われました。これからも人間の罪がある限り、戦争や災害、痛ましい犯罪は続くでしょう。でも、神は最後にこの世を義しく裁くために来られるのです。その時、全てのことが明らかにされます。福音を聞かずに亡くなられた方のことは主にお委ねするしかありません。生きている私たちが亡くなられた方のためにできることは何もないからです。でも、今生きている方のためには福音を証しする機会があります。主が忍耐をもって世の終わりを送らせてくださっている限り、一人でも多くの方が邪悪なこの世から救われるように、私たちにはまだなすべきことがあります。

嵐の中で問われる信仰…

2月第二主日、トルコ・シリア大地震は発生から7日目、死者3万人を超え、さらに増える恐れがあるとのこと。主の慰めと力強い御手があるように…礼拝冒頭にお祈りしました。メッセージはヨハネ6:16‐21、五つのパンと二匹の魚の奇跡の後のガリラヤ湖上を歩かれる奇跡から。弟子たちはイエスに言われた通り、カぺナウムに向かって舟を漕ぎ出しましたが、強風が吹いて湖は荒れ始めました。舟は木の葉のように波に揺られ、元漁師の彼らが溺れて死にそうに思うほどの大嵐でした。そして、夜明けが近づいたころ一晩中漕ぎあぐねて疲労困憊になった彼らのもとにイエスは湖上を歩いて来られました。「わたしだ。恐れることはない。」それは単に「私は幽霊ではない」という意味ではなく、「わたしはある(エゴ―・エイミー)」イスラエルの唯一の神「ヤハウェ」であるという宣言でした。イエスは今日も嵐のただ中におられ、わたしを見るようにと声をかけておられるのです。

ハガルを顧みる主…

教会のデボーションは創世記16章から。アブラムの妻サライは子どもが与えられないことを思い悩み、その結果、エジプト人の女奴隷ハガルによって子どもを得ようとしました。こうしてハガルはアブラムの子どもを身ごもったのですが、サライとの間に確執が生じ、ついに彼女は逃げ出してしまったのです。身重のまま行く宛もなく、荒野にある泉のほとりに身を隠すハガル…。惨めさと心細さでいっぱいだったでしょう。主はそんな彼女を見つけ、サライのもとに帰って、彼女のもとで身を低くしなさいと言われました。そして、わたしはあなたは子孫を増し加える、あなたの苦しみを聞いていると告げられたのです。「そこで、彼女は自分に語りかけた主の名を『あなたはエル・ロイ』(私を見る神)と呼んだ。」たった一人の女奴隷のことも決して見離さないで、見つけてくださる主…この方が今も私たちの苦しみを知っていて顧みてくださるとは、なんという感謝なことでしょう。

トルコ大地震を覚えて…

6日に発生したトルコ・シリア大地震から三日目を迎えました。生存率が急激に下がると言われる発生から72時間が過ぎましたが、なおも懸命な救助活動が続ています。あちこちで倒壊した建物、氷点下5度の寒さ、余震もまだ続いていることなどニュースで見る光景に…本当に胸が痛みます。一人でも多くの命が救出され、一刻も早く十分な支援が行き届くように祈るばかりです。聖書の中にも、災害について弟子たちがイエスさまに質問した記事がありますが(ルカ13章)、『神がいるなら、どうしてこんなことが…』と思う方が多いでしょう。でも、イエスさまの答えは、「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」というものでした。私たちは何か問題が起きると神の存在を意識するのかもしれませんが、イエスさまはずっと前から…滅びに向かっている私たちのことを心を痛めて見ておられ、全ての人が救われ、真理を知るようになることを願っておられるのです。

さあ、目を上げて…

2月第二水曜祈祷会、デボーションは創世記13章から。アブラムはエジプトでの失態にも関わらず、多くの財産を所有するようになりました。彼はもと来た道を辿りながら最初に天幕を張り、祭壇を築いた場所で主の御名を呼び求めます。もう一度、信仰の原点に立ち返って悔い改めの祈りを献げたのでしょう。そんなアブラムと甥のロトとの間で財産に関する争いが起きてしまい、二人は別々に暮らすことになりました。ロトは先に土地を選ぶ権利を譲ってもらい、自分の欲に従って目を上げます。ロトが選んだ地はよく潤った地でしたが、主に対して甚だ罪深い者たちが住む町でした。一方のアブラムは別離の悲しみを覚える中、主の呼びかけに従って目を上げました。そして、「さあ、立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたにその地を与えるのだから。」という主の約束を頂いたのです。私たちも何に従って目を上げるか…そこが大きな分かれ道となるのです。

主が告げられたとおりに…

教会のデボーションは創世記12章になりました。信仰の父と呼ばれたアブラハムの生涯をしばらく見ていきます。彼の名前がまだアブラムだった頃、主はアブラムに「あなたは、あなたの土地…親族…父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」と命じられました。住み慣れた土地を離れて、どこに向かうのかもかわからない中で旅に出るのは不安や心配があったでしょう。でも、アブラムはこれは主の召し(呼びかけ)だと信仰をもって受けとめ、従って行ったのです。昨日は牧師会で47年間教会に仕えて来られた先生の証しを聞きました。私も25歳の時、初めて教会に行き、聖書のことばを目にしました。仏教の家庭で生まれ育ちましたので、聖書はもちろんキリスト教について殆ど何も知りませんでした。あれから26年…わからないこともたくさんありますが、ただ主の憐みの中をともに歩ませて頂いています。この一歩一歩の積み重ねが、神を知る道であることを信じて…。

かごいっぱいの恵み…

2月第一主日、冬の柔らかな日射しが差し込む会堂で礼拝を献げました。有名な五つのパンと二匹の魚のしるしから、イエスさまのお心を心に留めました。癒しを求めて後をついてくる群衆をイエスさまは深く憐れんで、弟子たちに「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」と言われました。彼らはそんなお金もお店もありませんと愚痴をこぼしますが、イエスさまの質問が人間的な視点から出発したのでは解けない問題であることを理解できませんでした。「イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。」弟子たちが思い煩っている中で、一人の少年が自分の弁当の五つのパンと二匹の魚を差し出します。イエスさまはそれを取り、感謝の祈りを捧げてから、そこにいた全員に分け与えられました。神のなさることはいつも人間の常識を超えたところにあります。人間の限界こそ、神の機会なのです。

イエスは深くあわれみ…

教会のデボーションはマルコ6:30~44。イエスさまはご自分のもとに集まってくる群衆をご覧になって、羊飼いのいない羊の群れのようであったので深く憐れまれたとあります。私も学生時代に羊飼いのアルバイトをしていたことがあるので、このイエスさまの表現にはなんとも心打たれるものがあります。イエスさまは心身ともに渇いている人々を、十把一絡げに見たのではなく、一人ひとりの心情を慮って関わってくださいました。この後の五つのパンと二匹の魚の奇跡も、主の憐みによるものだったのです。今日は午前中にクリスチャンの若いご夫妻がカフェを始められるということで少しお手伝いに…とはりきって行きましたが、ほとんどおしゃべりして帰ってきました。箕面駅から徒歩五分ほどのところ、2月にオープンです。お近くの方はぜひのぞいてみてください。午後からはハートフル英会話。大人のクラスはチャペルタイムがあり、キッズクラスは今日もにぎやかでした。

つまずきとなるもの…

2月第一水曜祈祷会はマルコ6:1-13から。イエスさまはデカポリス地方、カぺナウムでの宣教に続いて、郷里ナザレに向かわれました。イエスさまの噂はすでにナザレにも伝わっており、弟子たちを伴って帰って来たイエスさま一行を人々は関心をもって出迎えます。イエスさまはご自分の郷里でも福音を宣べ伝え、病人を癒されましたが、ナザレの人々の反応はその教えの素晴らしさや力強い奇跡に驚いたものの、その関心はそれらをどこから得たのかという二次的なことに流れてしまいました。人間的にイエスさまをよく知っていたために、かえってメシアとしての本質を悟れなかったのです。郷里で証しすること、親族や家族に伝道することの難しさを思います。でも、伝道における私たちの役割はあくまで福音を宣べ伝えることであって、結果は主にお委ねしなければなりません。福音の種を蒔いてすぐに目が出るとは限りません。ただ種を蒔けば成長させてくださるのは主です。

恐れないで、ただ信じていなさい…

教会のデボーションはマルコ5:35-43から。イエスさまのもとには大勢の群衆が集まって来ていました。そこに会堂司のヤイロが人混みをかき分け、イエスさまの前にひれ伏して私の小さい娘を助けてくださいと訴えました。彼はイエスさまが娘の上に手を置いてさえくれれば癒されると信じていたのです。でも、途中で12年の長血をわずらった女の癒しを行っている間に、会堂司の家から人が送られてきて、お嬢さんは亡くなりましたと連絡がありました。絶望的な状況に、ヤイロは目の前が真っ暗になったでしょう。イエスさまはそんな彼に言いました。「恐れないで、ただ信じていなさい。」すべての望みが絶たれたような中で、まだ終わりではありませんと言われたのです。人間の失望する時が、神の好機です。神が働かれる条件の一つは、私たちが神を信頼することです。人々がイエスさまをあざ笑う中で、最後まで信じ続けたヤイロ家族は神の御業を目に当たりにしたのです。

憐れんでくださる主…

1月第五主日、春を感じるような温かな日差しが差し込んでいました。礼拝ではヨハネ5章から。イエスさまは祭りの日、人々で賑わう神殿ではなく、病人たちが集まるべテスダの池に向かわれました。そこで38年も病を患っていた病人に目を留められ「良くなりたいか」と声をかけられ、彼の病を癒し、さらに罪の赦しを宣言されました。それは一方的な主の恵み、主の選びでした。私たちの教会は礼拝後にメッセージの分ち合いをしますが、そこでもいろいろな感想があって、さらに御言葉を深める時間となっています。私たちの常識の枠の中だけで考えたら、イエスさまの奇跡を理解することはできません。この病人も過去の長い間の経験から自分が癒されることはもうない…という思考になっていたかもしれません。でも、その枠を壊していくのが御言葉の力です。私たちも、人の子となって、この世に来てくださったイエスさまのことばに従って一歩踏み出したいと思います。

神はいつもともにおられ…

教会のデボーションはマルコ6:45‐56から。大きな奇跡を目の当たりにして、興奮冷めやらない弟子たちを、イエスは強いて舟に乗り込ませ、向こう岸に行かせました。舟の中で弟子たちは互いの感想を言い合っていたでしょう。すると段々雲行きが怪しくなり、向かい風のために漕ぎあぐねていたのです。イエスは山で祈っていましたが、夜明けが近づいた頃、湖の上を歩いて彼らのところへ行かれました。弟子たちはその姿を見て、幽霊だと叫び声を上げます。彼らの中にはガリラヤ湖の漁師が何人もいて、この湖もわが庭のように知り尽くしていたはずです。それでも自分の経験以上の出来事に遭遇し、慌てふためいてしまったのです。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」イエスが舟に乗り込むとたちまち風はやんで、弟子たちの心も静められました。こうした体験を何度も通らされて、弟子たちはイエスさまがいつもともにおられることを学んでいったのです。

教会に来るきっかけ…

今日からハートフル英会話冬期コース・大人クラスがスタートしました。講師のレイチェル先生も無事にオーストラリアから戻って来られ、新しい受講生の方も来てくださって、久しぶりに木曜日の教会に楽しそうな英会話と笑い声が響きました。昨日の祈祷会でも、『教会に来るきっかけは何でしたか』という話しになり、ある人は家族や友人に誘われて…、案内やチラシを目にして…、ある人は英会話がきっかけで…という人もいました。振り返ってみると、お昼ご飯が食べれるから…気になる女の子がいるから…という理由でしばらく来ていた青年もいました。懐かしい思い出です。とにかく話しを聞いてほしい…昔、教会学校に通っていたので…という婦人もいました。教会に来るきっかけはなんでも構いません。信仰心がないのに…と遠慮せず、礼拝を覗いてみる、英会話の体験に出てみる、ちょっと立ち寄ってみるだけでも、教会をぜひ体験していただけたらと思います。

聖霊を冒涜する罪は…

1月第四水曜祈祷会はマルコ3:20-35から。イエスさまのもとに群衆が集まってきて、イエスさまも弟子たちも食事をもする暇もなかったとあります。イエスさまも人間ですから空腹も覚えたでしょうし、休息も必要だったでしょう。それでも誰一人追い返すことなく、人々の必要に応えられました。また、イエスさまの身内の者たちがイエスさまを心配して連れ戻しに来ましたが、イエスさまは家族の声よりも、ご自分の使命を優先されました。これには、イエスの周りにいた人たちも自分たちを大切に思ってくれたことが嬉しかったでしょう。そして、嫉妬心からイエスさまの働きを悪霊呼ばわりする律法学者たちには「人の子らはどんな罪も赦していただけます。…しかし聖霊を冒涜する者は、だれも永遠に赦されず…」と悔い改めを迫られました。イエスさまは誰であろうと、ご自分のもとに来た人を受け入れ、正しい真理に導こうとされたのです。忍耐深い神の愛を覚えました。

神を待ち望む信仰…

1月第四主日、頬にあたる風は冷たいですが、教会の中には温かな日差しが差し込んでいました。礼拝では今年の年間聖句の詩篇62篇からメッセージを聴きました。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら。私は決して揺るがされない。」「黙って」とはただ何もしないことではなくて、神に向かって沈黙すること、神に望みを置いて待つことです。「岩」「救い「やぐら」は神こそが真の拠り所であるということです。自分でジタバタしないでも、黙って神に信頼しているなら、揺さぶられることはあっても決して倒されることはありません。信仰とはまず神の前に沈黙することから始まります。目に見えるものがいつも頼りになるとは限りません。大事なのは、何があっても変わることのない神を信頼し、そのことばに聴き従うことです。神はいつも私たちの傍らにおられて、実生活の中で働いてくださるのです。

わたしは罪人を招くために…

教会のデボーションはマルコ2章から。イエスさまの噂を聞き付けた人々が大勢集まって、戸口のところまで隙間もないほどになっていました。そこに中風の人が4人の人に担がれてきたのですが、とても家の中には入れません。それでも彼らは諦めずに、家の屋根をはがして穴をあけ、彼を寝かせたままつり降ろしたのです。それはだれの目にも非常識な行動だったでしょう。でも、彼らはだれに何を言われてもこの機会を逃すわけにはいかないと思ったのです。この方のもとに行けば癒して頂けると信じたのです。イエスさまはそんな彼らの信仰を見て、中風の人を癒されました。人はその行動を見ますが、イエスさまは心をご覧になるのです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」自分も病気をして、あらためてこの御言葉が響いてきました。イエスさまは肉体だけでなく、霊と魂の医者です。

わたしについて来なさい…

1月第三水曜祈祷会、療養解除基準は満たしましたが、発症から10日間は感染リスクがあるということで大事を見て今日もオンラインで祈祷会を行いました。デボーションはマルコ1:1-20、バプテスマのヨハネの登場は人々の心を悔い改めに導き、メシアを迎える道備えとなりました。そしてイエスさまが現れると「時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と高らかに福音宣教の第一声が告げられたのです。イエスさまはガリラヤ湖のほとりで4人の漁師をご覧になって「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と声をかけられました。それはイエスさまの弟子となって従っていくなら、人々を神の国に導く人にするという約束でもありました。パリサイ人でも律法学者でもなく、無学なただ人をお選びになられたイエスさま。なぜ私が…と彼らも思ったでしょう。でも、イエスさまはそんな彼らを立派な指導者へと養い育てられたのです。

主の道を用意せよ…

教会のデボーションはマルコの福音書1章になりました。表題には「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」とあります。福音とは良い知らせのことです。それはイエス・キリストによって私たちに救いの道が示されたことです。私たちはみな生まれながらの罪人で、死とその裁きのもとにある者でした。でも、神はそんな私たちのために御子イエス・キリストを遣わしてくださったのです。マルコの福音書の冒頭には、まずバプテスマのヨハネが遣わされ、「主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。」と人々に悔い改めを迫ったことが記されています。『悔い改める』とは単に反省するとか後悔するとかいうことではなく、自己中心的な生き方から神中心の生き方に方向転換することです。これがないままで、イエスさまをと告白することはできません。もう一度、心の王座にだれが座っているのか…自らを深く顧み、悔い改めて、イエスさまを心に迎えましょう。

マラナタとインマヌエル…

1月第三主日も教会には集まらずにオンライン礼拝となりました。礼拝メッセージは義姉の玉井美穂師が取り次いでくたさり、Ⅰコリント16:21-24から二つのことを語られました。一つはクリスチャンは『マラナ・タ』(主よ、来てください)と『マラン・アタ』(主がおいでになった)の間の時代を生きているということ、もう一つは『インマヌエル』の主がいつもともにいてくださることです。今日で新型コロナウィルスが国内で初確認されてから丸3年になりますが、未だその収束は見えてきません。第8波と言われる今冬も致死率や重症化率は低下していても、死者数が過去最多の更新を続けています。この現状だけを見ていたらますます気が重くなる一方ですが、歴史の主である方が大いなる御手をもって万事を導いておられることを忘れないでいたいものです。主は私たちの祈りを聞き、必ずその必要を満たしてくださいます。今週もこの主の臨在を感じつつ歩んでいきましょう。

祈りの力…

あらためて多くの方のとりなしの祈りを感じながらここ数日間を過ごさせて頂きました。おかげさまで発症日から八日目を迎え、ほとんど症状も無くなりました。今日はZOOMで小さな会議がありましたが、まだ体力が戻ってないようなので、徐々に慣らしていこうと思います。『お祈りしています』という言葉に、どれほど力づけられたかわかりません。病み上がりの私にできることは神の家族一人一人を覚えて祈ることです。時間はありますので、お一人一人の顔を思い浮かべながら集中して祈っています。今年も始まったばかりですが、コロナの心配はいつまで続くんだ…と思っている方も多いでしょう。こんな時期に教会を開けられないのは心苦しいことですが、主は生きておられます!私たちの祈りを必ず聞いてくださっています。「私のたましいは黙って ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」明日の礼拝もぞれぞれの家庭に主の祝福が注がれるように祈っています。

箱舟を通しての救い…

教会のデボーションは創世記7章から。ノアはすべて神が命じられたとおりに箱舟を造り、周囲の人々にも義を宣べ伝えましたが(Ⅱペテロ2:5)、耳を傾ける人はいなかったようです。そしてノアたち家族が箱舟に入ると、主は後ろの戸を閉められ、ついに大洪水が起こり、大水が全地を覆っていきました。これをただの有名な物語として読むか、それとも実際の出来事として読むか、さらには世の終わりの出来事を象徴していることとして読むのか、ここが聖書の勘所です。そんな大げさな…と思わずに、できるところからとりなし祈って行動していきましょう。私の体調は発症日から6日目でだいぶ回復してきました。まだ少し体がだるく、疲れやすいですが、食欲もあり、風邪症状も殆どないので助かっています。でも、最初の3日目までは高熱が続き、喉の痛みと関節の痛みでかなりしんどかったです。また新たな変異ウィルスも確認されているとのこと。皆さまの健康をお祈りしています。

神とともに歩んだノア…

1月第二水曜祈祷会は休会させていただき、各ご家庭でみことばと祈りの時をもっていただきました。デボーションは創世記6章から。地上に人が増え始めるとともに悪も増大していく中、神は人の齢を120年と定められました。それは裁きを下す前の悔い改めの猶予期間でしたが、地上の悪はますます増大する一方だったのです。もはや裁きは免れない中で、ノアは主の心にかなっていました。人々が神に背を向け、自分勝手な道に歩んでいても、彼だけは神を仰ぎ見、神を恐れつつ歩んだのです。「正しい人」「全き人」とは道徳的に正しく、神のような完全さをもった人のことではなく、失敗や挫折もありつつ、それでも神とともに歩んだ人のことです。そんな彼にも苦難や葛藤はあったでしょう。病気になることも、人に理解されず、不条理に思うことも…。それでも神とともに歩み、箱舟を造れという神の命令に歩み続けたノア…。そういう人に自分もなりたいと思わされました。

私の羊飼い…

1月第二主日、牧師が新型コロナに罹患したため、オンライン礼拝にして頂きました。代理説教者は義父の玉井邦美師(新鎌ヶ谷聖書教会)がメッセージを取りついでくださいました。詩篇23篇から、晩年のダビデが危機的状況に置かれる中で、今までの人生を振り返り、あらためて主への信頼と確信に立つ詩です。今年は帰省も見送り、できるだけ外出も控えていたつもりですが、少し気が緩んだのか…猛省しています。この度は教会の方々に多大なご迷惑をおかけすることになりました。申し訳ありません。今回、病の床に伏した中で礼拝を視聴させて頂きましたが、あらためて気づかされることもありました。今後の動画配信の向上のために活かしたいと思います。オンライン礼拝は新来者の方や日曜日の午前中に教会に来られない方、また、その他いろいろなご事情で教会に来れない方々のために行っています。もし何かご要望がありましたら、教会までご相談いただければ幸いです。

みことばによる創造…

教会のデボーションは創世記1章から。「はじめに神が天と地を創造された。」「はじめ」とは、あらゆる時間の始まり、歴史の原点を指す言葉です。そこに永遠なる神がすでに存在しておられて、御心のままに天と地とその間にある全てのものを造られたとあります。私たちはまず、この1章1節を信仰もって読むか読まないかを決心しなければなりません。なぜなら、同じ文章でもその意味合いが全く変わってくるからです。もちろん、そんな肩ひじ張らずに気軽に読んでいただいても結構ですが、折角聖書を読むのであれば、もし神がおられるなら私たち人間に何を語っているのだろうかという思いで読んでいっていただけたらと思います。クリスチャンの方はあらためて神がなされることに偶然はないことを心に留めて、今年一年を歩んでいきたいものです。「神は仰せられた。『光、あれ』すると光があった。」神のことばは時至って必ず成る、新しい年を期待していきましょう。

見ずに信じる信仰…

新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い致します。2023年最初の主の日を迎えました。礼拝ではヨハネ4:43-54から、イエスさまに息子の病気を癒してほしいと懇願する役人の信仰から学びました。彼はイエスさまの噂を聞きつけて、息子の病を癒してほしい…この一心ではるばるカぺナウムからカナまでやってきました。イエスさまはそんな彼に「あなたがたは、しるしと不思議を見ない限り決して信じません。」と言われました。それは彼を突き放すためではなく、彼を本物の信仰者に導くためでした。『神がいるなら証拠を見せてほしい…そうしたら信じる。』今日でもそう思われる方は少なくありません。でも、私たちは自分の感覚や知性を頼りにし過ぎるのは気をつけなければなりません。神は認められるべき存在ではなく、信ぜられるべき存在です。何をも見ずまた聞かずとも、必ずそのごとくならん。この直ぐな信仰が私たちには必要なのです。