教会内の活動&牧師ブログ

神の約束…

教会のデボーションはⅡ歴代誌7章から。ダビデから王位を継承したソロモンは神殿建築に心血を注ぎ、見事に完成させました。6章のソロモンの奉献の祈りはまさに万民待望の思いがつまった力強い祈りです。あらためて主の宮は神と人とが出会う場、祈りの家であることがわかります。「わたしあなたの祈りを聞き、この場所をわたしにいけにえを献げる宮として選んだ。」今の私たちには、教会こそ、その祈りの家です。ここから4年前の献堂式のことを思い返しました。教会はなんのためにあるのか…。もちろん、そこで神に礼拝をささげることが中心です。ただ…ややもすると人間的な思いに偏り過ぎる傾向があるようにも思います。居心地の良さ、兄姉に会える、聖歌が歌える、説教を聞くこと…なども、大事な要素です。でも、それだけにとどまるなら不十分と言わざるを得ません。私たちの教会は、何より神と人との出会いの場、祈りの家であることを心に留めたいものです。

祈りの力を信じて…

6月第四主日、礼拝に来会者が来られて教会に活気が戻ってきました。三部に分かれてではありますが、最初の会衆賛美で信徒の皆さんの声が聞こえてきた時、心に込み上げてくるものがありました。当たり前ではない現実をかみしめながら、いつもとは違った緊張感でお話をさせていただきした。コロサイ人への手紙4章2節から。「たゆみなく祈りなさい。感謝をもって、祈りつつ、目を覚ましていなさい。」パウロの宣教に欠かせないのが祈りです。祈りによって宣教の門が開かれ、祈りによって支えられていることを実感していたのでしょう。コロサイの教会の状況も思い浮かべながら、やはり最後は祈りの大切さを言わずにはおられなかったのだと思います。祈りは私たちの祈りを聞いて答えてくださる神の力です。そして、祈りは神との交わりであると同時に、信徒同士の交わりでもあることを、今日はあらためて感じました。主日の豊かな恵みに心から感謝いたします。

人が一生のうちで出合う人…

人が一生のうちで出会う人数は…いろいろ個人差もあると思いますが、限られているのは間違いありません。その中でも親しい関係になる人、友人になる人と言えば、全人口から考えたらほんの一握りでしょう。そう思うと、出会いは何と尊いものかと思えてきます。私は26歳の時に初めて教会に行きましたが、それから多くの方と知り合うことができました。かけがえのない友人や神の家族もできました。本当に一つ一つの出会いを、主に感謝しています。一方で、『会うは別れの始め』という言葉も頭に浮かびます。信仰者は天での再会の希望もありますが、地上で友人や家族がそばにいる、顔をあわせられる、それは決して当たり前のことではありません。緊急事態宣言が解除となり、私たちの教会も明日から少しずつ来会を再開していきますが、これまで以上に一回一回の主日の大切さを心に留めつつ、有り難い…という言葉の重みを感じつつ、明日の礼拝を待ち望んでいます。

神殿を建てる…

ハートフル英会話も対面でのクラスが再開しました。久しぶりにお顔を見る方もいて、やはり顔をあわせることの有難さを思いました。大人もキッズも春期クラスは残り4回ですが、体験クラスも受付ておりますので興味のある方は教会までご連絡ください。教会のディボーションはⅡ歴代誌3章になりました。ダビデから息子のソロモンに王位が継承され、いよいよイスラエル民族の念願とも言うべき神殿建設が始まります。「ソロモンは、エルサレムのモリヤの山で主の宮の建築を始めた。そこは、主が父ダビデにご自分を現され、ダビデが準備していた場所で…」モリヤの山と言えば、先日の旧約聖書を学ぶ会でアブラハムが息子イサクを捧げた場所、また、父ダビデが罪を犯し、悔い改めの祭壇を築いた場所です。献身と悔い改めがなされてきた場所に、主の宮が建設されていく…その意味を考えるように、聖書は今日の教会を建てあげる私たちにも語っているように思います。

しかし、主は…

今日は緊急事態宣言解除後の初めての水曜祈祷会がありました。特に今回は国外宣教デプテーションとして、タイ宣教師の河野師にメッセージと宣教報告をしていただきました。創世記12章から、約束の地で大飢饉にあったアブラムが陥ってしまった失敗と、タイで先生ご自身が陥ってしまった失敗を重ね合わせて、人間が取り返しのつかないと思うような失敗の中にも、主は介入してくださって、再び原点に立ち返る機会を与えてくださること…それがどんなに大きな恵みであるかを語ってくださいました。「しかし、主は…」という御言葉が心に残りました。祈祷会の後は、現地から河野師と奥さまにもつながっていただいて、一緒に恵みの分かち合いの時間を持ちました。タイも日本もまだコロナ禍にありますが、こうしてオンラインの形式で交わりがもてるのは本当に幸いなことです。続けて海外でご奉仕くださっている宣教師の先生方、ご家族を覚えてお祈りしています。

浅瀬に仇波…

川の深い所には波が立たないが、浅い所にはいたずらに波が立ち騒ぐ。信仰生活にも同じようなことが言えるかもしれません。今日は月に一度の旧約聖書を学ぶ会。アブラハムの生涯を一章ずつ学んできて、いよいよ22章を迎えました。アブラハムは神の召命に応えて行き先もわからず信仰の旅に出発し、途中、失敗することもありましたが、その度に神の約束と励ましによって導かれてきました。これらの出来事の後、アブラハムに人生最大の試練が訪れたのです。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。」神の命令は…なんとも不条理な、普通ならとても従い得ない命令でした。でも、アブラハムとイサクはただ従順に神がお告げになった場所に行き、イサクに刀を振り下ろしました。神はそんな信仰の親子をずっと見守り、助け出されたのです。イエスさまの十字架の死がいかに尊いことか…信仰の世界の奥深さを学ばされました。

神に栄光を帰す…

わかりにくいですが…今箕面は蛍が見頃です。ゆらゆらと幻想的な光を放ちながら飛び周る姿に、来週にはもう見られないのかなと思うと…『ありがとう』という気持ちが自然と湧いてきます。教会のデボーションは使徒の働き12章になりました。ヘロデ王は十二使徒のひとりヤコブを殺し、次に最有力のペテロまで殺しそうとしました。でも、神は教会の祈りに答えて不思議な方法で彼を救い出されたのです。教会が、ヤコブが殺されてもあきらめずにペテロのために祈り続けたのが印象的でした。一方のヘロデはペテロが牢からいなくなった責任を番兵たちのせいにして処刑してしまいました。煌びやかな洋服を着て人前に立つヘロデを、人々は「神の声だ。人間の声ではない。」と称えました。でも、次の瞬間、ヘロデは虫に食われて息絶えたというのです。最後まで神に栄光を帰さなかったヘロデ…その死はなんとみじめなものでした。主にあって生きる者になりたいものです。

主に対してするように…

6月第三主日、さわやかな空が広がる朝でした。礼拝メッセージはコロサイ人の手紙3:18から。キリスト者の実際的な生活の勧めとして、パウロは3つの人間関係を挙げて記していきます。妻と夫、子と親、奴隷と主人。当時、立場の弱かった者たちにも一人ひとりに呼びかけるように記しているのが印象的でした。キリスト者の人間関係は決して一方的に義務を押し付けるものではありません。この手紙の執筆がAD61年ごろとすると、いかに聖書の教えが変わらない原則であるか、現代はおろか未来までも見据えたものであるかを思わされました。自分自身はどうなのか…と問われながら説教準備をし、不十分な自分を顧みて、語ることに躊躇を覚えましたが、主の赦しと憐れみの中で講壇に立たせて頂き、何より自分自身が教えられることの多い箇所でした。緊急事態宣言も今日で解除となり、長かった来会自粛も解除となります。今週もお一人ひとりの歩みが守られますように。

ペテロと「三度」…

6月第三水曜祈祷会。デボーションは使徒の働き10章に戻りました。サウロの回心に続いて、ペテロの宣教に焦点があたります。アイネヤの癒し、タビタの生き返り、そして異邦人伝道の先駆者となる百人隊長のコルネリウスの救いへと展開していくところです。神はコルネリウスとペテロと両方の幻に現れて、二人を出会うように導かれました。コルネリウスには会ったこともないペテロを招きなさいと、ペテロには(きよくない動物)を屠って食べなさいと、どちらの命令も簡単には受け入れ難いことでした。でも、二人が言わば「おことばですので…」と踏み出した時に、思いもしなかった運命的な出会いとなったのです。同じ幻を三回も見た時、ペテロは何かを思い出したでしょうか。こうして神の導きを聖書のことばをもって読める私たちは何とも幸せな時代にいるなぁと思います。私たちも先のことはわからずとも「おことばですので…」と踏み出す勇気を持ちたいものです。

主イエスの名において…

6月第二主日、朝は小雨が降っていました。礼拝メッセージはコロサイ3:12から。新しい人を着たキリスト者の特性について、パウロはあらためて3つのことを記しました。神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者。いずれも神の側の一方的な恵みによるもので、私たちの信仰がいかに受身的であるかがわかります。そのことを確信した上で、主が赦されたように、主の平和が心を支配するように、主のことばが豊かに住まうように、すべてを主イエスの名において行いなさいと勧めています。「ことばであれ行いであれ、何かをするときには…」一つ一つを考えると、確かに簡単なことではありませんが、まずはできるところからやってみることも大切です。何より、その方向性を知っているのと知らないのでは全く違います。まずキリスト者としての自分を神がどう見てくださっているのか、どう愛してくださったのかを深く知っていくことが信仰生活の第一歩だと思います。

救いは神のわざ…

教会のデボーションは使徒の働き8:26から。主が一人のエチオピア人の宦官を救うためにピリポを遣わされたところです。ピリポは初代教会の執事にも選ばれた信仰の人で、その時はサマリヤの町で伝道していました。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」ガザは人影も少ない荒れ果てた町でしたが、ピリポは直ちに従いました。このピリポの従順がなければ、この後の宦官の救いはありませんでした。かと言って、主導権を握っていたのはピリポではなく、彼はあくまで用いられたに過ぎません。すべてのシナリオは神がお書きになられ、二人は神が備えられた出会いに引き寄せられていったのです。少しでも何かが違えば出会うこともなかった二人が、絶妙のタイミングでその後の人生を大きく変える喜びの時を迎えました。まさに救いは神のわざ。目には見えずとも、神は私たちの救いのためにもそうした奇跡の出会いを備えておられることを思いました。

幸せな晩年を過ごし…

6月第二水曜祈祷会はⅠ歴代誌29章から。「彼は幸せな晩年を過ごし、齢も富も誉も満ち足りて死んだ。彼の子ソロモンが代わって王となった。」バビロン捕囚から帰還したユダの民は、イスラエルの再建に向けてイスラエル王ダビデの生涯から学びました。羊飼いだったダビデは、王宮に召し入られ、初代サウル王に何度も命を狙われ、王となってからも人々の尊敬を集めますが、人妻バテシェバとの取り返しのつかない罪を犯したり、息子アブシャロムに謀反を起こされたり、…波乱万丈の生涯を送りました。それでも絶えず神の前に悔い改め、全き心をもって歩んだダビデを、神は愛されたのです。結局、神殿建設の完成を見ることはできませんでしたが、幸せな晩年を過ごしたというダビデ。あらためてそんな彼のような晩年を迎えたいと思わされました。さて、再来週はタイ王国の河野宣教師が、現地からメッセージとデプテーションをしてくださいます。どうぞお楽しみに。

勇気を出して実行しなさい…

教会のデボーションはⅠ歴代誌28章から。神殿建設の物質的な準備を整えてきたダビデは、いよいよ高位高官たちや勇士たち、そして息子ソロモンに霊的な備えとしての大切な訓示を与えます。最初に驚かされるのは、神がダビデの多くの子の中から神殿建設および王位継承にソロモンを選ばれたこと。彼の出生理由を知る者なら誰もが驚く人選、旧約聖書の不思議の一つです。「わが子ソロモンよ。あなたの父の神を知り、全き心と喜びの気持ちをもって神に仕えなさい。…主は聖所となる宮を建てるために、あなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい。」一大事業を成し遂げるソロモンには、尋常でないリーダーシップが必要でした。ダビデはそんなソロモンに、神がともにおられること、見放さず、見捨てないこと、さらに助け手も十分に備えてくださることを告げました。神は私たちにもそう約束してくださることを覚えて、勇気を出して一歩を踏み出したいと思います。

キリストこそすべて…

6月第一主日、今日も快晴の中で礼拝が献げられました。コロサイ3章からはキリスト者の実生活に入ります。キリスト者の歩みは、上にあるものを求め、日々古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着ていく歩みです。それは確かに一朝一夕にできるものではありません。私も信仰をもって20数年が経ちますが、足もとに絡みつく罪の性質と戦う毎日です。でも一方で、こうしてつまずきながらもクリスチャンとしていられるのは主の憐れみと聖霊のおかげとただただ感謝するばかりです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」今日も場所はそれぞれ違いますが、オンラインを通してともに礼拝をささげられましたことを感謝いたします。午後からはあるご家族が教会のジャガイモ掘りの応援に来てくれました。子ども礼拝もいつも楽しみにしてくれていることを聞いて…なんとも励まされました。

音楽隊の編成…

6月最初の水曜祈祷会、デボーションはⅠ歴代誌25章から。ダビデの一生はある意味、神殿建設のために用いられました。主はダビデに「彼がわたしの名のために家を建てる」と言われ、その役目は息子ソロモンに引き継がれます。ダビデはそのためにまずレビ族を大別し、祭司、音楽隊、門衛、宝物倉係、外の護衛、王を補佐する役員などの奉仕を整えていきました。注目したいのは音楽隊の編成。彼らは「竪琴と琴とシンバルに合わせて預言する者」とあります。礼拝での賛美は単なる前座のようなものではなく、重要な奉仕で、神の言葉を人々に宣告するものだというのです。楽器を手にした4000人の音楽隊の賛美は大地も揺れる素晴らしい迫力だったでしょう。「下の者も上の者も、達人も弟子たちも、みな同じ任務」神の前には上手も下手も関係ありません。神は私たちの捧げる心からの賛美を喜んでくださいます。教会でもみんなで賛美できる日が早く帰ってきますように。

特別扱いの人生…

世の中には願った通りの人生を歩む人もいれば、全くそうでない人生を歩む人もいます。それはクリスチャンも同じです。クリスチャンは特別扱いというのならもっと信仰をもつ方も増えるでしょうが、そんなに甘くはありません。モーセは約束の地を目前に死を迎えますし、ダビデは神殿建設をするのを許されませんでした。モーセは一瞬の神への疑いがきっかけとなり、ダビデは戦いで人を殺し過ぎたから…ということです。彼らは人間的な目で見れば報われなかった人生と言われるでしょうが、神の目から見ればどうだったのでしょう。今度の子ども礼拝はモーセからヨシュアにリーダーが継承されるところ、明日の祈祷会はダビデからソロモンに神殿建設が託されるところです。「あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」勇気を失わず、勇敢な人であれ。慰めはしかるべき時に必ずくる。信仰者の人生は神の特別扱いがあります。

キリスト者の自由…

5月第五主日は朝から夏を思わせるような暑い一日となりました。緊急事態宣言の再延長を受けて、教会も来会自粛の期間が再延長になります。もちろん、感染対策も十分に行っていますが、昨今の医療機関の逼迫状況や変異株による重症化増を考えると致し方ありません。一日も早くコロナの感染が収束し、みんなで安心して集える日を心から待ち望んでいます。今日も礼拝メッセージはYouTubeでの配信となりました。コロサイの教会は徐々に成長を遂げている一方で、異教的な習慣や異端思想の影響を受けやすい状況にありました。そこでパウロは、キリストにあって古い自分に死んで、新しい自分となったのですから、昔のような奴隷状態に戻らないようにと警告したのです。「あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。」6月からYouTubeの全動画にCMが入るかもしれないとのことですが…どうなるか。今後、何らかの対策をしなくてはならないのかもしれません。

このように多くの証人たちが…

今日のハートフル英会話もオンラインでしたが、夕方の子どもたちのクラスから楽しそうな笑い声が聞こえてきました。そしてこの度、キッズクラスのホゼア先生が本を出版することになりました(詳しくはこちら)。神を愛し、日本人を愛する敬虔なクリスチャン、四人の子どもたちのパパです。子育て中のご家族にお勧めします。また、今日は私たちの教会にとって忘れることのできないある兄弟の召天日でした。朝から何人かの方が『去年の今頃でしたね…』とメールをくださいました。多くの人を慰め、多くの人から愛された兄弟。この地上では言い知れない苦難を通られた方でしたが、今は天国で愛するご家族とともに幸いな日々を過ごしておられることを思います。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも…」あいにくの曇り空でしたが、空を見上げると、兄弟の力強いエールが聞こえてくるようでした。

本当に愚かなことを…

今日の水曜祈祷会はⅠ歴代誌21章から。ダビデは行く先々で勝利が与えられ、周辺地域を次々と掌握していきました。ところが、そんな飛ぶ鳥を落とす勢いのダビデにサタンが近づき、誘惑を仕掛けたのです。バテ・シェバ事件がダビデ個人の罪とするなら、今回の出来事は王としての過失。その結果は甚大なものとなりました。でも、やはり目を留めたいのは、その後で国王でもあるダビデが重大な過ちに気づいて謙遜に悔い改めたことです。「私はこのようなことをして、大きな罪を犯しました。どうか、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」ダビデが罪を悔い改め、祭壇を築き、神の赦しと和解を覚えた場所は、やがてソロモンの神殿建設用地として聖別されていきます。残念ながら人間である限り、罪を犯すことは避けられませんが、大事なのはそれとどう向き合い、どう立ち直るかです。神の前の砕かれた心の大切さを思わされました。

神は常に真実である…

月に一度の旧約聖書を学ぶ会がありました。天地創造から始まってアブラハムの生涯に入り、創世記21章まできました。いよいよ約束の子イサクの誕生です。20章のアブラハムとサラの失態にも関わらず、主は告げられたとおり二人に男の子を授けられました。初めて我が子を抱いたサラは幸せを感じていたでしょう。アブラハムも神の時というものを身に染みて実感したでしょう。サラはその子にイサクと名づけ、アブラハムはその子に割礼を施し、神への忠実を果たしました。「私たちが真実でなくとも、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」人間の早まった行動で、奴隷の子を産み、その子が契約の子をからかう有り様を見て追放させる…なんと身勝手な人間模様というところもありましたが、そんなところにも神の御手が差し伸べられ、伏線も見事に回収されました。アブラハムの生涯から、神の忍耐と寛容さをあらためて教えられました。

御霊の働きを信じて…

今日のペンテコステ記念礼拝は朝から久しぶりの青空となりました。メッセージはⅡコリント3章から。パウロに対する反対者たちの声がある中で、パウロはコリントの教会に「私たちの推薦状はあなたがたです。」と言いました。形式的な推薦状よりも、この手紙を読んでいるあなたがたが、御霊によってキリストを信じ、今も信仰に歩んでいるのが何よりの推薦状だというのです。また、あなたがたはキリストの手紙ですという言葉も心に残りました。果たして自分の周りの人たちは、自分を見て、その中にキリストの手紙を読み取ってくれるだろうか…。自分に自信など全くありませんが、御霊なる主が今も自分のうちで働いてくださるという約束に希望がわいてきました。2000年前に降られた聖霊の働きは、今も継続して、さらに拡がりつつあることを感謝いたします。コロナ禍は今しばらく続きますが、今週も私のうちにおられる御霊の働きに期待して歩んでいこうと思います。

全地よ、主に歌え…

今日の水曜祈祷会ではⅠ歴代誌16章から。神の臨在の象徴である主の契約の箱が、無事にエルサレムの天幕の中に安置され、ダビデは力を尽くして礼拝を献げました。「全地よ、主に歌え。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。」今、都の中心に迎えられた主の栄光は、イスラエルだけでなくすべての国々で賛美され、そしてすべての民がこの礼拝に招かれていると告げていきます。主の臨在を覚えながら、人々が心一つに献げる礼拝はどんなに恵みと感謝に溢れた素晴らしい光景だったでしょう。この歴代誌を読むユダの民も、バビロン捕囚から帰還し、社会的にも政治的にも、そして信仰的にも力を失いかけていましたが、再び礼拝の民としてのアイデンティティを取り戻していったのではないでしょうか。私たちも、まだまだ落ちつかないコロナ禍にありますが、礼拝の民である誇りを持ちつつ、困難に耐え、その先にある希望を見据えて主を賛美していきたいものです。

キリストのうちにこそ…

5月第三主日は小雨交じりのお天気でした。今年は去年より25日も早い梅雨入りとのことです。コロサイ2:6から、いよいよこの手紙の核心部に入っていきます。コロサイの教会には「まことしやかな議論」や「空しいだましごとの哲学」によって誤った信仰に導こうとする者たちがいました。パウロはそうした者たちに惑わされないために、キリストを知識として知るだけではなく、キリストにあって歩まなければならないと勧めていきます。すなわち、この方にしっかりと根ざし、その土台の上に生活を建て上げ、信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝することです。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」このキリストにあって歩むとき、私たちはキリストにあって満たされ、キリストにあって生かされていることがわかるのです。『洗礼』の意味合いについても再確認するメッセージでした。何事も初心忘るべからずの気持ちが大事ですね。

光を輝かせて…

教会の野菜たちもまずまず成長しましたが、今年は教会の子どもたちと収穫を楽しむことはできません…。でも、気を取り直して、次はトウモロコシが元気に芽を出してきましたので、秋の収穫に期待したいと思います。今週は同盟教団の教師候補者研修会があり、私は教職教育部員として参加しましたが、開会礼拝でのある先生のメッセージが心に響きました。「あなたがたは世の光です。」イエスさまの時代の光と言えば、夜は月、星、蠟燭の灯…暗闇を照らす光は今の時代ほど多くはなかったはず。辺り全体を照らす光というより、その周りをほんの少し照らすだけの光だったかもしれない。でも、その光があるのとないのとでは全く違う。私たちも世の中全体を照らす光にはなれなくても、今の暗闇の時代にほんの小さな光でも灯すことによって周りの人を温かくする、その希望の方向性を照らすことができるかもしれない…という言葉に、大変励まされ、勇気をいただきました。

心が一つになっていた…

Ⅰ歴代誌12章には、サウル王の殺意に脅かされ、いのちを狙われる若き日のダビデ、そのような彼のもとに次々と勇士たちが集まってくる場面が描かれています。彼らはダビデが追い詰められているときも、ヨルダン川がどこの岸もいっぱいにあふれるときも、ともに助け合った仲間たちでした。このダビデは、後にイスラエルを代表する王となりますが、そのような結果が見えていてダビデを支持するのは易しいことです。ところが、今のダビデはわがいのち一つ守ることすら容易ではない、数においても経験においても、圧倒的に劣勢にありました。そんなダビデにくみすれば、一緒にどんな目に遭うかもわからないというのに、彼らはあくまでダビデの側に立つという姿勢を見せたのです。「これらすべての戦いに備えて集まった戦士たちは…ダビデを王にすることで心が一つになっていた。」捕囚から帰還したユダの民も、心燃やしてこの記事を読んだのではないでしょうか。

ダビデ王の即位…

教会のデボーションは再びⅠ歴代誌に戻ってきました。10章は主の信頼を裏切った初代王サウルの滅亡についてでした。そして11章からいよいよ主役のダビデの登場となります。ダビデがユダ部族の王となってから七年後、全イスラエルは圧倒的支持をもってダビデを王に迎えました。ダビデもこれを神の召しであると確信して、エルサレムを首都に定め「…ますます大いなる者となり、万軍の主が彼とともにいた。」とあります。そして、そんなダビデを支える勇士たちのことが記されていますが、詳しくは明日の水曜祈祷会でお話します。ダビデ一人が立派だったのではなく、神はダビデのために心強い助け手たちを備えておられました。私たちの教会にも、祈りの勇士たちがいることを感謝いたします。明日の水曜祈祷会では、ある姉妹がオリジナルの特別賛美をしてくださいます。コロナ禍にあって曇りがちな心ですが、神さまへの感謝と賛美を忘れないでいたいものです。

たとえ離れていても…

5月第二主日、今日は母の日感謝礼拝。いつものような来会者の方々にお花のプレゼントはできませんでしたが、あらためて日頃の感謝を覚えました。メッセージはコロサイ2:1から。ローマの獄中にいるパウロは、自分の問題はさておき、まだ見ぬコロサイのキリスト者たちのために苦闘しながら祈っていることを伝えました。できることなら、そこに行って福音の真理を語り、直面する問題に耳を傾け、一緒に祈り合いたいと思ったでしょう。それができない現実。でも、もう一つの現実もあることを知ってほしいと願ったのです。「私は肉体において離れていても、霊においてはあなたがたとともにいて、あなたがたの秩序と、キリストに対する堅い信仰を見て喜んでいます。」離れていても、霊においては一緒にいるという言葉に励ましを受けました。私たちもコロナ禍にあって、なかなか自由に会うことは叶いませんが、離れていても同じ御霊にあって歩みたいと思わされました。

苦難の先を見据えて…

全国的にコロナの感染拡大が収まらず、今日正式に緊急事態宣言の延長が決まりました。大阪は重症病床の使用率が100%を越えるなど医療体制の危機的状況が続き、大型商業施設や飲食店なども引き続き時短要請となり、さまざまな業種が経済的困窮に陥ることが予想されます。そのような中で、私たちの教会も続けての来会自粛をお願いするしかなさそうです。教会のさまざまな活動をご紹介するためのブログですが、ずっと牧師ばかりの紹介で申し訳ないです。今日の教会のデボーションは使徒の7章でした。厳しい現実の中でも、苦難の先を見据えるステパノの眼差しが心に残りました。今はすべての集会がオンラインなので、教会員が一堂に会することもできず寂しい限りですが、この苦難の先にある神の素晴らしいご計画を信じて、今の御心にかなった歩みを求めていきたいと思います。離れていても、神の家族とそのご家族一人ひとりの歩みを覚えてお祈りしています。

弟子の数が増えるにつれて…

使徒の働き6章には弟子の数が増えるにつれて、教会内に問題が起きてきたことが記されています。人が増えれば問題も起こるものです。コロナ禍でのゴールデンウィークに、家でおとなしく過ごしている方もいれば、我慢できずに出かけてしまう方もいるようです。私自身は前者を選びましたが、人にはそれぞれ事情があるので…。そんな中、私たちの教会の86歳の兄弟が『今は毎日、聖書を一時間は読むようになりました』と嬉しい話しをしてくださいました。彼は今から40年程前、奥さまが洗礼を受けると言った時に烈火のごとく怒って反対したご主人でした。そんな奥さまも今から5年前に天に召され、その時の葬儀に大変心を動かされ、兄弟はしばらくして洗礼を受けられました。80歳を過ぎて聖書を勉強するのは難しい…と仰っていたのに、今は聖書を読むのが楽しいとのこと。奥さまの絶えざる祈りが聞かれ、今も聖霊が兄弟のうちに働いてくださっていることを感じます。

そして毎日、宮や家々で…

昨日もコロナの感染者数は過去最多を更新し、死者数も急増しています。私たちの教会もほとんどの方は自宅で礼拝を献げ、来会自粛をしてくださっていますが、解除延長のことも話し合わなければならない時期かもしれません。教会のデボーションは使徒の働き5章に入りました。ペテロたちにより、多くのしるしと不思議が行われ、弟子の数がますます増える中で、二度目の迫害が起きました。彼らは留置場に捕らえられますが、主の使いによって助け出され、結果、最高法院での証しの機会が与えられたのです。「人に従うより、神に従うべきです。」彼らは再び捕らえられますが、今度はガマリエルというパリサイ人によって釈放されました。こうしたことがあっても彼らは毎日、宮や家々でイエスがキリストであると教え、宣べ伝えることをやめなかったとあります。私たちも目に見えないコロナとの戦いが続きますが、使徒たちのようなぶれない信仰生活を送りたいものです。

キリストの苦しみに与る…

5月第一主日、礼拝メッセージはコロサイ1:21から。パウロはローマの獄中から、コロサイのキリスト者たちに手紙を送りました。そこには、神が御子を死に渡してまでご自分と私たちを和解させてくださったこと、キリストという土台の上にしっかり信仰を据えて、福音の望みから外れることなく、成熟したキリスト者を目指しなさいとありました。コロサイの教会が直面する問題は、誤った教えや異教的な習慣が入り込んでいることでした。その姿や形は違っても、同じような問題が今日の教会にもあり得ます。「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。」便利さと引き換えに失うものも大いにある時代。過剰な情報や誤った情報に翻弄されて、心が疲れてしまうこともあります。パウロもこの世と調子を合わせるのは気をつけなさいと言いました。コロナ禍にあって、一人一人の行動と責任が問われています。キリストの苦しみに与ると言ったパウロの信仰に倣いたいものです。

さばいてはいけません…

今年もコロナ禍でのゴールデンウィークとなりました。緊急事態宣言発令中ですが、大阪は依然として感染者数1000人台が続き、過去最多の44人が亡くなり、重症病床使用率も98.2%という非常事態です。連休でも出かけられず、不安やストレスを感じる方も多いと思います。牧師会で、ある先生がイエスさまの言葉からこんな奨励をされました。「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」人間関係は鏡を見るようなもの。自分が見るように、相手も見ているもの。自分から愛を示す者になりたいものです。また、他人をとやかく言う前に、自分はどうかということ。他人の目の塵を取りたければ、自分の目に梁があることに気づかなければなりません。まず自分を正すこと、そうすれば相手も自主的に塵を取りたくなるものです。一つ一つの言葉が、まるで自分に語られているように思いました。誰かに語るよりも、まず自分から心がけていきたいと思わされました。

この方以外に救いなし…

このところよい天気が続いたので、今日の恵みの雨はひんやり感じました。水曜祈祷会は使徒の働き4章から。生まれつき足の不自由な人が癒されたことをきっかけに、ペテロとヨハネのもとに大勢の人が集まってきました。そこに祭司たちがやってきて、福音を語っていたペテロたちを捕らえて留置したのです。翌日、サンヘドリンの議会が招集される中、聖霊に満たされたペテロたちはその中央に立ってはっきりこう告げました。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下で子の御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」ペテロたちにとって、迫害は喜ばしいことではありませんでしたが、そこで話しを聞いた人々のうち大勢が信じ、初代教会は成長を遂げていきました。今も、宗教は何を信じても結局は同じ…という方もいますが、大事なのは私たちの信じる気持ちよりも、私たちがどなたを信じているかではないでしょうか。

御子イエスの救い…

4月第四主日、礼拝ではコロサイ人への手紙1:9からメッセージを聴きました。手紙の挨拶に続いて、パウロの日々の祈りが記されていました。祈りの目的は、第一に神のみこころを知り、それを行う力が与えられるように求めることです。また次に、キリスト者の感謝の源について記されていました。御父が御子にあって、私たちを暗闇の力から光の中へ、罪の奴隷から御子のご支配の中へ移してくださったからです。そして、その御子とはいかなるお方かが記されていました。御子とは万物の創造者であり、万物に先立って存在される方です。そのお方がすべてを捨てて、私たちの救い主となってくださり、神との和解を成し遂げてくださったのです。一つ一つじっくりと味わいたい御言葉がぎっしり詰まっている箇所でした。これからオンラインだけの礼拝が続き、なかなか分かち合う時間がもてませんが、メッセージを聴いて何かご質問がありましたら、お知らせ頂けたら感謝です。

アブラハムを覚えておられた…

今日から緊急事態宣言が再発令されました。これまで以上に一人一人が隣人を愛する心をもって行動していかなければなりません。私たちの教会も、しばらく一堂に会することはできませんが、場所は違っても、心一つに礼拝を献げていけるようにお祈りしています。前回の『旧約聖書を学ぶ会』で心に留まった御言葉がありました。「神が低地の町々を滅ぼしたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼしたとき、神はロトをその滅びの中から逃れるようにされた。」ロトの救いの背後には、アブラハムのとりなしの祈りがありました。そこから隣人のため、家族や兄弟姉妹のために献げるとりなしの祈りがどんなに大切か、有り難いことか、あらためて思わされました。自分の拙い祈りを、神は几帳面に覚えていてくださること、また、自分のためにもイエスさまをはじめ、だれかが祈っていてくださったことを、いつか知る時がくるのでしょう。

禍(まが)に幸に励ます…

今日は午前中にCGNTVの撮影を終えて、近くの公園に少し散歩に出かけました。このところ穏やかな天気が続いていますが、連日のZoom会議ですっかり腰痛です。そういう方も多いのではないでしょうか。そして、いよいよ明日にも東京・大阪・京都・兵庫に緊急事態宣言の発令が正式決定となります。これだけ感染者数や重症者数が増えてしまうと…やむを得ない状況です。飲食店だけでなくさまざまな業種に影響が及び、学校関係も再びオンライン授業になっているところもあるそうです。部活が中止になったり、修学旅行が中止になったりと、子どもたちの心も、それを見守るご家族も心配です。教会の英会話クラスもオンラインですが(私は挨拶だけ…)対面できないのはなんとも寂しいもの。こんな日がいつまで続くのかな…と思ってしまいますが、今日は信徒のご家族に赤ちゃん誕生の嬉しい知らせがありました(^^)まさに『禍(まが)に幸に励ます 主イエスこそ神にませ』

最初の百二十人…

水曜祈祷会は使徒の働き1:14から御言葉を学びました。イエスさまが天に昇られ、エルサレムで父の約束を待つように命じられた弟子たちは「いつも心を一つにして祈っていた」とあります。十一人の使徒たちをはじめ、復活の証人である婦人たちやイエスさまの兄弟たち、そして百二十人ほどの人々が一つになって祈っている姿が目に浮かびました。神の御業が現れるのを待つ上で、私たち人間にできる最善の備えは祈りです。今日の祈祷会もオンラインでしたが、朝も夜も時間を取り分けて、心を合わせてくださる兄姉たちがいることを感謝しました。皆さんが最初に祈られるのは、コロナの感染が収束するようにです。今日も大阪の感染者数は過去最多の1,242人でした。祈っても何も変わらないと思う方は祈らないでしょう。でも、天命を信じて人事を尽くすのが、教会の使命、キリスト者の祈りです。小さな教会ですが、この祈りの輪がさらに大きくなっていきますように。

聖霊が臨むとき…

今日から教会のデボーションは使徒の働きに入りました。「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」復活のイエスさまは弟子たちに父の約束を待ちなさいと命じられました。そう言われても、弟子たちも戸惑わずにはいられなかったでしょう。ついこの間まで、イエスさまを見捨てて逃げ出し、人々の迫害を恐れて隠れていた者たちです。そんな自分たちに何ができるというのだとつぶやく者もいたかもしれません。でも、イエスさまはそんな彼らをあきらめずに、ご自分の大切な使命を託されたのです。宣教の真の推進者は聖霊なる神であって、私たちはその働きに参与する者たちです。聖霊が弟子たちに臨む時、彼らは力を受け、全世界へと福音を宣べ伝えていきました。聖霊は今も私たちに力を与え、私たちを通してその働きを続けておられるのです。

すべての聖徒たちへ…

4月第三主日、教会の方々には来会の自粛をお願いし、数人の奉仕者の方だけが会堂に集いました。今日から礼拝ではコロサイ人への手紙の講解が始まります。パウロはエパフラスから、コロサイの教会が信仰と愛に溢れて成長を遂げる中で、誤った教えが入り込もうとしていることを聞きました。そこで教会が正しい真理に立った信仰生活を送れるようにと筆を取ったのです。「神のみこころによりキリスト・イエスの使徒パウロと、兄弟テモテから、コロサイにいる聖徒たち、キリストにある忠実な兄弟たちへ。」この時、パウロは獄中にいて、コロサイにはまだ行ったことがありませんでした。でも、パウロは自分を神より遣わされた者として自己紹介をし、コロサイのキリスト者たちを「聖徒」「兄弟」と親しく呼び掛けたのです。私たちはみな、同じ神を父とする、神の子どもであり、信仰の家族、聖徒の集まりです。神から私たちへの手紙として楽しみに読んでいきましょう。

今日、もし御声を聴くなら…

まだ少し早いのですが、新しい野菜の苗を植えました。教会の子どもたちと収穫するのが楽しみです。今日のデボーションは詩篇95篇から。「さあ、主に向かって喜び歌おう。」神賛美への招き。来会自粛の中ですが、礼拝の中心は聖書朗読と説教、そして賛美です。牧師にとって教会にだれも人がこないことほど辛いことはありませんが、ここは忍耐の時と思っています。雪が降ろうと真夏のカンカン照りの日であろうと休まず礼拝に来られていた方も、今は皆さん自宅での礼拝ですから、賛美も遠慮がちになられることでしょう。でも、心の中では思いっきり主をほめたたえたいものです。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」私たちの心をご存知である主は、私たちが自分の手の中で握りしめているものを知っておられます。来会の自粛ではあっても、礼拝の自粛などはありません。心を主に明け渡して、心からの礼拝を献げていきましょう。

苦渋の決断…

今日の水曜祈祷会からすべての諸集会への来会自粛をお願いすることになりました。教会に来るのを楽しみにされている方々には再びご心労をおかけすることになります。大阪の感染者数は1130人となり、病院も逼迫し、重傷者数も急増する中、どんなに万全な感染対策を講じても、今は安心して皆さまをお迎えする状況にないと判断しました。教会としても苦渋の決断ですが、ご理解を賜りますようお願い致します。今日のデボーションはⅡテサロニケ2:1から『苦難に遭う時にも』というテーマで御言葉を学びました。パウロは迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っている教会に励ましのメッセージを送りました。形は違えど、今日も目に見えないウィルスとの戦いの中で、だれもが大きなストレスを抱えて歩んでいます。「しかし、主に愛されている兄弟たち。」私たちはどんな状況下にあっても、主に愛されている兄弟姉妹であることをいつも思い出したいと思います。

関キ災・第四回懇談会…

関西キリスト災害ネットワーク・第四回懇談会がありました。今回もZOOMでの開催となりましたが、素晴らしい講演者と参加者の方々に恵まれ、有意義な懇談の時となりました。防災士のゴスペル亭パウロさんの落語に始まり、コロナ禍における災害支援を経験された九キ災の市来氏、現実的な教会の避難訓練の勧めとして久保田氏、関キ災の発足経緯と今後の展望について安達師が、それぞれ講演・情報共有をしてくださいました。南海トラフ大地震は今後30年間で70~80%の確立で発生すると言われます。教会が地域との繋がりの中でどんな備えが必要か、教会間のネットワークがいかに重要かを再確認しました。懇談会が終わるタイミングで、和歌山で震度3の地震が発生し、また大阪のコロナ感染者数が過去最多の1099人というニュースが入ってきました。明日から来会の自粛をお願いすることになりますが、皆さまの健康と安全が保たれるように心からお祈りしています。

復活の主がともに…

4月第二主日、今日は教会創立27周年記念礼拝でした。牧落の小さな貸家から始まって、貸ビルのテナントを経て、現在は教会堂が与えられました。今はコロナ禍にあって、三部に分かれたり、オンラインで礼拝を献げたり、みんなで一堂に会することはできない中ですが、ここまでの守りと導きを心から主に感謝いたします。礼拝では、クリスマスからマタイの福音書を続けて学んできましたが、今日のイエスさまの大宣教命令をもって一区切りとなりました。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」まさにインマヌエルの預言から始まって、インマヌエルの約束で終わる福音書。私たちが苦難を通る時も、主を忘れかけても、そのすべての日々に主はともにおられます。いつの時代も、世界宣教と弟子作りは教会の使命ですが、この復活の主の約束があってこそ達成されるものです。これからも先立つ主に期待しつつ、歩んでいきたいと思います。

英会話・春期コース…

今日からハートフル英会話・春期コースがスタートしました。キッズの最年少は4歳から、大人の最高齢は70代まで、幅広い年齢層の方が受講してくださっています。ネイティブの講師は二人とも教え方も上手で、またさまざまな趣味をお持ちなので話題も豊富、しかも敬虔なクリスチャン。どのクラスも皆さん仲が良く、笑い声が絶えない、和やかな雰囲気です。教会ならではのチャペルタイムもあって、聖書の世界も垣間見ることができます。ご興味のある方はオブザーバー(無料体験クラス)としてクラスに参加できますので、教会までご連絡ください。大阪も新型コロナウィルスの感染再拡大が心配される中ですが、マスク着用はもちろん、アクリル板や高性能空気洗浄機、こまめな換気、アルコール消毒などできる限りの感染予防対策をしてクラスを行っています。何よりこのコロナ禍の状況が収束へと向かい、皆さまのご家族とご健康が支えられますようにお祈りしております。

わたしがあなたがたを選び…

4月最初の水曜祈祷会がありました。Ⅰ歴代誌6章はレビ族の系図と居住地について記しています。捕囚からの帰還民の中で、神殿を再建し、礼拝を確立するために重要な役割を果たしたのはレビ族でした。彼らは一つの町にまとまってではなく、イスラエル全土の中に分散して住む場所が与えられました。それは彼らを通して示される神の教えと信仰の歩みが、イスラエルの隅々まで語り続けられることを意味していたのです。そこから、今日のクリスチャンが人々の中に住み、教会が人々の身近な所にあることの意義を考えました。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」私たちはみな、神によって選ばれ、クリスチャンにならせていただきました。それは私たちの側に何か特別な理由があったからではなく、神の一方的な恵みによるものです。そして、神はそんな私たちが「行って実を結ぶ」ことを期待しているのです。

何から救われるのか…

教会に来たばかりの頃、『救い』という言葉を聞いて、いったい何から救われるのだろうと思いました。きっと孤独から解放されるとか、病気が癒されるとか…そういう類のものと思っていましたが、キリスト教の『救い』は、罪からの救いであり、またその結果であるいっさいのものからの救いと聞いて驚きました。聖書でいう罪とは何か、自分は何を知らなければならないのかが全く分かっていませんでした。これが腑に落ちるまでには随分時間がかかったように思います。救いに関して大切なのは、何より救ってくださる方、つまり信仰の対象がどういう方であるかです。信じても救ってもらえないようなものを信じても何にもなりません。私たちが信じる方は、天地万物の創造主であり、私たちの救いのために人となってこの世に来られた主イエス・キリストです。「主の御名を呼び求める者はみな救われる。」差し出された『救い』を感謝して受け取る、これが最初の一歩です。

成長させてくださるのは…

新年度を迎えて、学校や職場で新生活が始まった方も多いのではないでしょうか。期待と不安が入り混じる時期かもしれません。信仰生活も始まったばかりの頃は、戸惑うことが多いと思います。聖書も、聖歌も、礼拝メッセージも…目新しいことばかりで覚えるのに大変です。私も26歳の頃、初めて教会に行った時そうでした。こんなに何もかもチンプンカンプンで、他の人たちについていけるか心配になりました。また、周りの方々がとても立派に見えて、自分のような未経験の新参者が場違いなところに来てしまったと思ったものです。それでもこうして今もクリスチャンとしていられるのは、ひとえに主の恵みと憐れみによるものです。「ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」三歩進んで二歩下がるような信仰生活でも、復活の主はともに歩んで助けてくださいます。どうか無理しない信仰生活で、一つずつ楽しんでください。

よみがえられた救い主…

4月第一主日はイースター記念礼拝でした。今もなおコロナ禍が続く中ですが、復活の主をほめたたえ心からの礼拝をささげました。イエスさまは十字架の上で死に、その日のうちに墓に葬られました。週の初めの日、マリヤたちが遺体に香油を塗ろうと思って墓にくると、御使いが現れ「ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。」と告げました。そして、恐ろしくはあっても喜びに包まれた彼女たちの前に、よみがえられたイエスさまが現われてくださったのです。何事も科学的証明が求められる時代、復活の知らせは多くの方には信じがたいことでしょう。それは、世界で最初のイースターも同じでした。でも、私たちにとっての「ガリラヤ」、信仰者の原点はやはりイエスさまの復活にあることを再確認しました。短い時間の中でしたが久しぶりにお会いする方や初めて礼拝に来てくださった方々がいて、本当に祝福にあふれる一日でした。

思いを変える祈り…

昨日は受難週の水曜祈祷会でした。詩篇94篇は「復讐の神よ、光を放ってください。…高ぶる者に報復してください。」という悪しき者に対する詩人の嘆きの祈りで始まります。彼らは、神を侮り、放言、横柄、不法を行う者たちでした。信仰者であっても、理不尽な扱いを受けたり、いわれのない非難を受けたりすれば、腹立たしく思うこともあります。ただそうした思いを抱きつつも、問題はそれをどのように処理するかです。詩人は祈りの中で、導かれていきました。「なんと幸いなことでしょう。主よ、あなたに戒められ、あなたのみおしえを教えられる人は。…まことに主は、ご自分の民を見放さず、ご自分のゆずりの民を、お見捨てになりません。」復讐してくださいという願いは、祈りのうちに、主が最善をなしてくださるという確信に変えられていきました。自分で行き過ぎた報復をする前に、一呼吸おいて…祈りのうちに魂が取り扱われる幸いにあずかりたいものです。

ロトの救い…

今日は月に一度の旧約聖書を学ぶ会がありました。創世記19章から、主が二人の御使いを遣わして、不道徳に満ちたソドムとゴモラの町々を滅ぼされるところでした。アブラハムが主の前に立って、必死にソドムのためにとりなしの祈りをすると、主はそんなソドムでさえ救われてほしいという御思いを表されました。ところが、実際にソドムの町は放縦な振る舞いに満ちて、その中でロトも心を悩ませていたのです。主はそんなソドムとゴモラの上に硫黄と火を降らせられました。「神が低地の町々を滅ぼしたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼしたとき、神はロトをその滅びの中からのが得るようにされた。」間一髪、御使いはロトたちの手を引いて滅びゆく町々から救い出されました。ノアの洪水を思い出すような…なんとも厳粛な記述でした。今も私たちの救いのためにとりなして祈っていてくださるイエスさまの姿を思いました。

十字架上のイエスの言葉…

3月第四主日、今日は受難週を覚える礼拝でした。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」人間が口にする言葉でこれほど絶望的な言葉があるでしょうか。罪のない方がどうしてこれほどの苦難に遭わなければならなかったのか。十字架から降りようと思えばいつでも降りられたはずなのにどうして降りられなかったのか。父なる神はどうして御子を助けられなかったのか…。私たちの人生にもどうしてこんな悲しみ、苦しみがあるのか、そして神は私を見捨てられたのかと思うことがあります。でも、そうした苦難の疑問にイエスさまの言葉は確かな答えを示しておられます。それは御子を十字架にまでかけられた神は、私たちを決して見捨てられないことです。イエスさまの言葉から、神の刑罰の厳しさ、罪人を愛される神の愛、救いの約束の成就が表されていました。今日は午後から特別に洗礼式の時を持ちました。主の祝福を心からお祈りいたします。

また会える希望…

『会うは別れの始め』という言葉がありますが、春はそうした別れと出会いを覚える時期です。卒業や転任で友だちや家族との別れがあり、長年住み慣れた場所を離れる方もおられるでしょう。一方で、進学や就職に向けて不安と期待が入り混じっている方もおられると思います。いずれにせよ、地上では必ず別れの時がくる…誰もが知っていることです。そんな中で最も悲しいのは、死をもっての別れ。昨日、私も数少ない親友の一人がバイクの事故で天に召されました。十代のお子さんが三人いて、これからが楽しみ…と話していた矢先でした。ご家族のために、ただただ祈るばかりです。まだ気持ちの整理がつかない中ですが、ただ一つの慰めは…彼がイエス・キリストを信じるクリスチャンであることです。クリスチャンには、永遠のいのちが与えられ、天の御国が備えられ、そこで再会する希望があります。まもなく迎えるイースター、イエス・キリストの復活がその証しです。

恵みと憐れみの系図…

温かな日差しが差し込む中、今日も水曜祈祷会がありました。Ⅰ歴代誌1:1から人類の始祖アダムから始まる系図は、ノア、セム、アブラハム、イスラエル、ダビデ、ソロモン…と礼拝の民として信仰が継承されました。この系図を読みながら、ユダ王国の人々はあらためて神の民として特別に選ばれた民族であることを心に留めたのではないでしょうか。バビロン捕囚から帰還したばかりで、社会的、政治的、そして信仰的にも辛く厳しい日々を過ごしていたと思いますが、崩れた祭壇を立て直すことから始めていったのです。イスラエルの民がそうであったように、私たちもただ神の恵みと憐れみによって、神の民、礼拝の民として覚えられていることを感謝します。時にそのことを忘れてしまって…目の前の生活のことだけで一喜一憂し、形だけの信仰生活を送っているのだとしたら、何と勿体ないことでしょう。神が見ておられるのは、私たちの過去よりも、次の行動なのです。

すべては神の御手の中に…

教会のデボーションは歴代誌Ⅰに入りました。聖書をよく読まれている方でも、いきなり人名の羅列から始まるので読むのをやめてしまう方もいるかもしれません。でも、聖書の中にこうした書があるのを知っておくことは大事で、今はわからなくても後々物語が繋がってくる時があると思います。ここには、バビロン捕囚から帰還した民が、イスラエルの再建、礼拝の確立のために、苦難の中からもう一度力強い礼拝の民へと建て上げられるために書かれた書簡です。彼らにとって系図は重要なものでした。しかも、その始まりを人類の始祖であるアダムから始めているところから、全人類が神礼拝に招かれていることを表わしていると言えます。この系図が何千年の歴史を経て、イエス・キリストによって今日の私たちにまで繋がって、『いのちの書』に名前が記されているとはなんとも驚きです。私たち一人ひとりのことも忘れずに、主の御手の中にあることを感謝いたします。

裁かれる救い主…

3月第三主日は恵みの雨の始まりでした。礼拝メッセージはマタイ27:11から、総督ピラトの前で裁かれるイエスさまの姿を覚えました。ピラトは最初からこの裁判が祭司長たちのねたみによるものであることを知っていました。にもかかわらず、イエスさまは自分にとって不利な証言をされても何もお答えにならず、群衆が「十字架につけろ」と叫んでも毅然として十字架刑の判決をお受けになったのです。万物の創造主である方が、人となってこの世に来られ、私たちと同じように人生を歩み、ただ私たちの救いのために十字架への道を歩まれました。「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。…しかし、彼を砕いて病を負わせることは、主のみこころであった。」イエスさまにとって十字架が避けられないことであったように、人生には避けられない苦難や試練があります。しかし、勇敢であれと言われたイエスさまの言葉を心に留めて、今週も歩み出したいと思います。

初心を思い返して…

第72回の教団総会が無事に終わりました。これでいよいよ教団としての正式な2021年度が始まります。私は前日の新任教師派遣前研修から出席させて頂きましたが、16年前の自分を思い返す良い機会になりました。今回は新たに7名が補教師として派遣され、3年の伝道師期間を経て正教師試験に臨むことになります。そして、今年は14名が正教師になられましたので、献身者が起こされて感謝です。これまでとは責任も働きも大きく変わると思いますが、按手を受けられた先生方を覚えて心合わせて祈らせていただきました。「けれども、あなたがたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者としての働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。」大阪に帰ってくると、すっかり桜も咲き始めていて驚きました。まだ卒業式シーズンなのに、入学式までもつのか…心配ですが、春は初心を思い返す時期。私も自分の務めを再確認し、受難週・イースターに臨みたいと思います。

わたしを求めて生きよ…

デボーションはアモス書5:1から。3章から「このことばを聞け」で始まるイスラエルに対する神の審判が告げられました。イスラエルはもともとエジプトから救い出された選びの民であり、特別な恵みをいただいた者たちでした。それだけに主は彼らの背きを罰せずにはおかないと告げられるのです。彼らは預言者を通して語られる主の言葉に耳を傾けず、形式的な礼拝を続け、その心は神から遠く離れていました。彼らの礼拝の中心は、まさに神ではなく自分の喜びだったのです。そんなイスラエルに対して、神はなおも呼びかけられました。「わたしを求めて生きよ」それは、預言者を通して語られる主の御旨を求めて生きよということです。主が本当に求めておられたのは、裁きではなくこのことでした。明日はアモス書5:16から『空しい礼拝、まことの礼拝』という表題がありました。今日の私たちにとっても、自分がささげている礼拝はどうだろうかを考えさせられる箇所です。

御心を求める祈り…

3月第二主日はイエスさまのゲッセマネの祈りからメッセージを聴きました。イエスさまの苦悩、孤独、決心と、人間イエスの姿がありありと描かれていました。イエスさまが飲む「杯」は罪人に対する神の怒りを表わしていました。神ご自身であり、罪のない方が、全人類の罪を背負われ、その刑罰を一身に受けられるのは耐え難い苦しみだったはずです。サタンも十字架の死以外の方法で贖いの業を完成させたらどうかと耳元で囁いたでしょう。でも、祈りを通して勝利を得たイエスさまに迷いはなくなっていました。あらためて「祈り」とは一方的に自分の願い事を聞いていただくだけではなく、神の御心を求め、自分を明け渡していくことだということを学びました。今週もライブ配信の調整が滞ってしまい、お待ちいただいた方には大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ございません。神が寛容で心強い助け手を送ってくださいましたので、次週からは大丈夫かと思います💦

権威ある神のことば…

教会のデボーションはアモス書1:1から。主はエルサレム近郊に住む羊飼いであり、農夫であったアモスを預言者として召されました。その時代、イスラエルは南北ともに繁栄の時代を迎えていました。でも、地上的な繁栄は神の祝福を保証するものではなく、むしろ霊的な緩みをもたらすことが多いものです。「羊飼いの牧場は乾き、カルメルの頂は枯れる。」主は諸外国に対し、神の民イスラエルに対し、のどかな牧場が喪に服し、豊かなぶどう園が枯れ野になる時がくると警告されました。私たちも今日、インマヌエルの主とともに自分はいかに生きているかを考えるのは大事なことです。神との関係を後回しにして、目の前の繁栄・成功だけを追い求めるなら、神はそれを嘆きに変えられることを心に留めておきたいと思います。しかし一方で、現実がどんなに暗く厳しい状態であっても、神との関係を第一に歩もうとする者を、神は決して祝福せずにはおられないのです。

血を流すことがなければ…

今日の水曜祈祷会は民数記35章から。主はイスラエル人をエジプトから救い出し、荒野での40年の旅を経て約束の地へと導かれました。ついに長旅も終わりを迎え、新しい生活が始まろうとするところで、故意または誤って人を殺してしまった者に対する規定を定められました。民数記も終わりにきてますます現代への適用が難しい箇所ですが、あらためてこの時代に主がイスラエルに命じられた律法水準の高さに驚かされます。細やかで配慮の行き届いた、しかも憐れみに富んだ規定です。思えば、人類最初の罪も『殺人』でした。「人の血を流す者は人によって血を流される。」「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」旧約も新約も一貫して、罪の赦しには血が流されることが教えられていました。私たちの心の汚れも、何の犠牲もなく、白くしていただいたわけではありません。私たちの救いのために罪なき神の御子は十字架への道を歩まれたことを心に思いました。

箕面市の教会…

デボーションは民数記35章から。主はイスラエル人に約束の地の相続地から、自分の所有地を持たないレビ人たちに町々と放牧地を与えることを命じられました。ここも今日に適用するのは難しい箇所ですが、神と人との間をとりなすレビ人に対する主の愛の配慮を感じます。私の住む箕面市にはキリスト教の教会が13あるそうです(少し前の数字ですが)、箕面市の人口が約13万人として、単純に一つの教会に10000人ぐらいの方が集える計算ですが、なかなか現実は難しいものです。日本の教会の会員数は平均30人ほどで、無牧や兼牧の教会も増えてきているとのことですから、これからの人口減少時代を考えると、教会数自体も減少傾向に向かうことが予想されます。もちろん、必ずしもそうした人間の計算通りに進むとは限りませんので、希望をもっていきたいと思いますが、それぞれの教会を主が祝福してくださって、一人でも多くの方を導いてくださるように祈っています。

新しい契約にあずかる…

3月第一主日。教会の桜も咲き始め、イースターの春が近づいてきました。礼拝メッセージはルカ22章のイエスさまが使徒たちと最後の晩餐をしたところからでした。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越しの食事をすることを、切に願っていました。」十字架の時が近づく中で、イエスさまがどうしても使徒たちとこの食事をしたかったという切なる思いが伝わってくる言葉です。イエスさまはこの最後の晩餐の時に、今日まで続く聖餐式を定められました。「わたしを覚えて、これを行いなさい。」聖餐式での裂かれたパンと杯のぶどう酒にはイエスさまの裂かれた体と流された血が象徴されています。コロナ禍にあって、聖餐式もしばらく自粛にありましたので、今日はあらためてその意義を心に留めて陪餐しました。3月のメッセージは主イエスが歩まれた十字架への道をたどります。でも、その苦難の道は復活の朝へと続いていることを感謝いたします。

なぜ教会に行くのか…

コロナ禍にあって、なぜ教会に行くのか…その意義があらためて問われているように思います。ある人は『心が落ち着くから』『良い話しが聴けるから』と仰ってくださいます。そう思って頂けるのは誠に感謝なことですが、そうした自分が何かを得ることが教会に行く一番の理由だとしたら、別に家でもどこでも動画を視聴すれば差し支えないのでは…と思いやすいのかもしれません。でも、こういう時だからこそ、自分はなぜ教会に行くのかというその原点を考えることも必要かもしれません。それは、まず神がそのひとり子をこの世に送り、ご自身の愛をあらわしてくださったからではないでしょうか。そして、イエスさまが私たちのために十字架にかかり、死んで、よみがえり、私たちに神の子どもとしての特権を与えてくださったからです。神が私のような者を愛し、招いてくださっているから、私たちは教会に行き、礼拝をささげることができるのではないでしょうか。

一致が崩れそうになる時…

春一番も吹いていよいよ春が近づいてきました。今朝のデボーションは民数記32章から。約束の地を目前に、主の民の中に新たな問題が起きました。多くの家畜を持つ二つの部族がみんなと一緒にヨルダン川を渡らずにこの地に留まりたいと、モーセに訴えたとのことです。十人十色というように、人が多くなれば考え方もいろいろ出てくるのは当然です。教会も一人ひとりの多様性が尊重されつつ、一致を保つということに難しさを感じる時もあります。大阪も新型コロナの緊急事態宣言が解除されて、礼拝に出席するかどうかも意見の分かれるところです。まだまだ大事を見て自宅で礼拝をささげる方もいれば、やはり実際に兄姉と顔をあわせて礼拝をささげたいと思う方もいます。はたまた日曜日に教会に行く習慣から離れてしまって朝起きれなくなってしまったという方も…。一人ひとりが同じ主を見上げて、主の示されたところに従って歩んでいけますようにお祈りしています。

分け合うことによって…

今日は午前中は雨と風が吹き荒れる天気でしたが、午後からは回復しました。どうやら春一番だったとのこと…。今日のデボーションは民数記31章から。イスラエルの民はミディアン人との戦いで多くの分捕り物を得、主はモーセに対し、それを等しく数えて戦士たちと会衆の間で二分するように命じられました。約束の地を前に、民の心が主にあって一つになって行く様子を感じます。教会もイエスさまから『福音』という素晴らしいギフトが与えられていることを感謝します。以前、先輩の牧師から、いつもこのことを覚えておきなさいと教えられたのを思い出しました。「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」小さな群れでも、まずまずいろいろなことがありますが…確かに教会は喜びも悲しみもともに分け合う関係だなと思います。私たちの人生も雨の日も晴れの日もありますが、主にあって神の家族としてともに歩めることは幸いです。

スペシャルグレイスタイム2021…

2月第四主日は穏やかな春を感じる一日でした。礼拝メッセージは詩篇134篇から。「さあ、主をほめたたえよ。主のすべてのしもべたち、夜ごとに主の家で仕える者たちよ。」厳しい現実の中にも、エズラ・ネヘミヤを筆頭に人々は祖国復興を信じて主をほめたたえよと互いを鼓舞し合いました。私たちも時に自分の力ではどうすることもできないような人生の夜を経験することがあります。でも、そこでこそ主をほめたたえるなら、嵐をも鎮められる主を、道なき所に道を造られる主を、私たちも見出していくのです。今日は午後からスペシャルグレイスタイム(教会総会)がありました。一年の恵みを振り返り、新たな一年のビジョンを確認しました。今年はコロナ禍にあって、オンラインでの参加もありましたが、一人一人の感謝と恵みの報告を聞きながら、改めて失われたlossした一年どころか、追加されたadditionalな一年だったことを覚え、主の御名をほめたたえました。

主への芳ばしい香り…

デボーションは民数記29章から。主はモーセを通して、イスラエルの新しい世代に約束の地で礼拝を中心とした生活を送るように命じられました。それは勝手気ままにではなく、決められた時に、決められたものをささげなさいというものでした。大阪は緊急事態宣言が解除されるようですが、教会でもオンラインで礼拝をささげる方が増えましたので、YouTubeでの配信はこのまま続けていきたいと思っています。web礼拝のおかげで、高齢者の兄姉も、遠方に住んでおられる方も、病院や施設におられる方も、同じ時間に、心をあわせて礼拝をささげられるようになりました。教会の前の看板を見て、またYouTubeチャンネルを見つけてくださって、ご連絡くださった方もあります。便利さには代償が伴うものですが…主のなされることに期待して、そして私たちの礼拝が「主への芳ばしい香りとして」受け入れられるように祈りつつ、これからもささげていきたいと願っています。

定められた時に確実に…

水曜祈祷会は民数記28章から。「あなたがたは…定められた時に確実に献げなければならない。」荒野の旅を終えて約束の地を目前にしたイスラエルの民に、主はあらためて礼拝を中心とした生活を送るように命じられました。それは第一世代が世を去り、第二世代が神の民として生きる指針でもありました。礼拝の中心は神へのささげ物です。しかも主の命じられた常供の全焼のささげ物は、傷のない一歳の雄の子羊を朝と夕暮れに、毎日、毎週、毎月…定められた時に献げなさいというものでした。今日の私たちからするとなんと大変な命令かと思ってしまいますが、それも主の心遣いだったのです。私たちの生活も一番中心にあるのは主への礼拝です。『今は忙しいから』という理由でおざなりにしてしまうとしたら、もはやそれは礼拝とは言えなくなってしまうでしょう。『忙しいからこそ』神を第一とし、み言葉に聴く生活を立て上げていきたいものです。

だれも滅びることなく…

今日は旧約聖書の学び会がありました。創世記18章から、三人の旅人がアブラハムのもとに現れて二つの大事なことを告げた記述です。一つは来年の今頃サラに男の子が生まれること、もう一つはソドムとゴモラの町の滅亡でした。アブラハムとサラは目の前の現実より主の約束に目を向けることを教えられました。主は彼らを信じない者ではなく、信じる者に引き上げられたのです。また、アブラハムは主がソドムとゴモラを滅ぼされることを聞いて、とりなしの祈りをささげました。それは、主は正しい者を悪い者と一緒に滅ぼすことなどない、正しい者が50人、…10人でもいれば、その町をお赦しになると信じたからです。主はアブラハムの祈りに対して「滅ぼすまい」と繰り返されました。主の御心はまさに滅ぼすことよりも、一人でも多くの者が救われることだったのです。今日も救われる者が起こされるように最前線で祈ってくださっている主に倣うものでありたいものです。

兄弟たちがともに生きる…

梅花がきれいない時期を迎えました。2月第三主日は詩篇133篇から。人は失ってみて初めてその大切さを知ると言いますが、教会も本当にそのことを思わされた一年でした。「見よ。なんという幸せ、なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって、ともに生きることは。」バビロンの捕囚から帰ったユダヤ人たちは、かつて神殿にともに集い、ともに神をあがめ、礼拝をささげていた幸いを思い返しながら、やがて神はあの幸いを回復してしてくださるという希望を持ってこの歌を歌いました。私たちもコロナ禍にあって、かつてのようにマスクなしに集まり、思いっきり賛美をし、心置きなく礼拝をささげることは今はできませんが、やがて神は回復の時を与えてくださり、みんなで安心して集える日がくるのを信じて待ち望んでいます。教会、家族、友人、健康…何もかもが「当たり前」ではなく、「有り難い」気持ちを忘れないで、今ある幸いを感謝していきたいものです。

雨ニモマケズ…

今日は宮沢賢治の晩年の作詩『雨ニモマケズ』のモデルとも言われる斎藤宗次郎さんの誕生日でした。彼は寺の住職の息子として生まれ、21歳でキリスト教に入信し厳しい迫害を受け、非戦論を唱えて小学校教員を免職され自宅が壊され、周りから『デクノボウ』と嘲られました。それでも自分を勘定に入れず、病人を見舞い、気の毒な人を訪ね慰め、道で遊ぶ子どもたちに甘い物を与え可愛がり、常に人目に立たないよう行動し…ただひたすら主の愛と信仰を貫いた斎藤さんの生き様は、いつしか花巻の町中の話題になっていったそうです。内村鑑三に招かれ、花巻を去り上京する際には、町長を含め町の有力者、学校の教師、生徒、神主、僧侶、一般人や物乞いに至るまで大勢の人たちが見送りにきて、駅長は停車時間を延長し、汽車がプラットホームを離れるまで徐行させる配慮まであったとのこと。天と地ほどの差がありますが💦そういう者に私も近づけたら…とあこがれます。

祝福されている民…

デボーションは民数記23章から。モアブの王バラクは占い師バラムに神の民イスラエルを呪ってほしいと懇願しました。しかし、全能なる主はバラムを通して、イスラエルは呪われるべき民ではなく、かえって祝福されるべき民であることを示されたのです。私たちも神を信じる信仰のゆえに祝福にあずかる民とされました。「信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。」昨日葬儀が終わって挨拶に来てくださった父娘も、先日洗礼を受けられたばかりですが、『聖書を購入して学ぼうと思います』と仰ってくださいました。千里の道も一歩から。でも、その一歩を踏み出そうという思いを、主は喜んでくださるのだと思います。主の祝福と守りは私たちが肉眼で見ている範囲だけではありません。私たちの知らないところでも主の守りがあるのです。ハートフル英会話も今日から再開しました。教会の日常が少しずつ戻ってきてくれて感謝です。

愚か者はだれか…

今日の水曜祈祷会は民数記22章から。イスラエルに恐怖を抱いたモアブの王バラクは、占い師バラムのもとに使者を遣わして、イスラエルをのろってほしいと依頼しました。始めは断っていたバラムも、ついにモアブの長たちと一緒に出発し、VIP待遇に気を許したのか、銀や金に目がくらんだのか、自分のロバの異変にも気づかないほど自分を見失っていました。主はそんなバラムの目の覆いを除き、主の使いが抜き身の剣をもって立ちはだかっていること、神の道を踏み外していることを示されたのです。私たちも自分の思いが強すぎると、神の制止も気づかずに、ついつい道を踏み外してしまっていることがあるのかもしれません。今日は午後からKFSMのミーティングがありました。Zoomも入れると14名の牧師たちで次世代宣教について話し合いました。何とかして幾人かでも救われてほしい…この一事のために集まった同志です。どうか主の道を踏み外さずに歩めますように。

神ともにいまして…

昨日の前夜式、今日の葬儀式と司式をさせていただきました。私が姉妹とお会いしたのは一度だけでしたが、写真を見せて頂いたり、ご家族からお話をうかがって、多くの時間をご一緒させて頂いたような思いです。姉妹は10日ほど前に、金沢先生から洗礼を受けられました。最後まで自分らしく、想い出のいっぱい詰まったご自宅で、愛するご家族に見守られながら、眠るように天に召されたそうです。コロナ禍の葬儀でしたが、多くのご親族、ご友人がお集まりになり、多くの方に愛されて、素晴らしいお証しでした。あるご年配の方も『昔、聖書をよく読んでいました。今日の聖書のお話を聞きながら、新しく生まれ変わったような気持ちです。』と仰ってくださいました。天においても地においても、神ともにいまして…。人間にとってこれ以上の幸いは他にありません。ご遺族の上に主の慰めをお祈りいたします。また、皆さまのとりなしのお祈りに心から感謝いたします。

深い淵から主を呼び求める…

2月第二主日、今日は春を感じるような暖かな始まりでした。今日から、分散・時短礼拝が一部再開します。まだまだ予断を許さない状況ですので、これまで以上の感染予防対策が必要です。互いを配慮しながら、礼拝をささげていきたいと思います。メッセージは詩篇130篇から。「深い淵から私はあなたを呼び求めます。」詩人は主を待ち望む者は救いを得ると確信しました。だれもが人生の旅路において、もがこうが、あがこうが、足掛かり一つないような…暗闇の底なし沼に引き込まれていくような思いになることがあります。そこであきらめてしまうか、主の名を呼び求めるか、その差はあまりにも大きいものです。昨夜も、87歳の姉妹がご家族に見守られながら平安のうちに天に凱旋されましたが、私はあらためて教えられました。人が神を信頼し、神に望みをおき、その救いに預かるのに遅すぎるということはありません。私たちに今日という救いの日があるのは幸いです。

主を信じて従う者に…

デボーションは民数記20章から。民は荒野で水がなくなったことに不満を持ち、モーセとアロンに逆らいました。そこでモーセたちは会見の天幕の入り口にひれ伏し、主のことばを待ちます。すると主は彼らに「杖を取れ。…岩に命じれば、岩は水を出す。」と約束をされたのです。ところが、彼らはそのことばを素直に信じることができませんでした。彼らの失敗は二つ。主を信頼できなかったことと神が聖であることを現わさなかったことです。このことで彼らは約束の地に入れなくなってしまいました。たった一度の失敗で…と思ってしまうところですが、どんな時も主の臨在を忘れてはならないことを教える大事な箇所です。新約のパウロは「その岩とはキリストです。」と言いました。主は私たちの苦難も必要も、すべてを知っておられて必ず満たしてくださる方です。「信じるなら神の栄光を見る…」この霊的な法則を、主の約束を素直に信じて従う者でありたいものです。

奉仕を賜物として…

水曜祈祷会は民数記18章から。主はアロンとその子らの祭司職とレビ人の聖所での務めについて、あらためて告げられました。そこには明確な役割分担が示され、それを無視して資格なしに聖なる用具や祭壇に近づくなら、神の厳しい裁きがあると言われたのです。ここだけを読めばとても厳しい規定のようにも思いますが、逆を言えば、それぞれの分を果たすことの大切さを教えている箇所とも言えます。「わたしはあなたがたの祭司職の奉仕を賜物として与える。」今日はこの御言葉が心に留まりました。教会にも様々な『奉仕』があります。人前に立つものから、人目につかないもの、祈りで支えるものなど…。パウロはそれを『キリストのからだ』という表現をしました。それぞれに役割があり、どれも欠かすことのできない大切な奉仕であるということです。教会でも、ご家庭でも、神は一人一人にふさわしい賜物としての奉仕(役割)を用意しておられるように思います。

不平をなくそうとする主…

デボーションは民数記17章から。主はイスラエルの民がアロンたちの祭司職に関する不平を失くそうとされました。すぐ前の16章でも、主はご自身がアロンたちを選任されたことを示されたばかりでしたが、つぶやき続ける民をあらためて鎮められたという箇所です。モーセが族長たちの名を記した杖を一本ずつ集め、あかしの箱の前に置くと、アロンの杖だけがアーモンドの実を結ぶという、これ以上ない神のしるしがありました。それでも民は、素直な悔い改めには至らなかったようです。人々の不平のおもな理由は、期待外れと神の最善を信じられないことでした。自分たちの思いが強すぎると神への従順を忘れて、思わず不平が出てしまうことは私たちにもよくあることかもしれません。信仰とは自分の思いに神をあわせることではなく、神の御心に自分をあわせていくことを忘れないでいたいものです。お財布、教会の前に落ちてました。お心当たりのある方は警察署へ…(^^)

涙とともに種を蒔く者は…

2月第一主日、礼拝では年間聖句の詩篇126篇から説教を聴きました。「主よ、ネゲブの流れのように、私たちを元どおりにしてください。涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。」神の警告を無視し続けたイスラエルの民はバビロニアに滅ぼされ、多くの民が捕囚として連れて行かれました。しかし、神はそんな彼らを顧みて、ペルシャ王クロスによってユダヤ人を解放し、さらにエルサレム神殿を再建する援助を申し出たのです。それはまさに夢のような出来事でした。ところが、帰還した彼らが目にしたのは、荒廃した神殿、生活の困窮、隣国からの攻撃…厳しい現実でした。誰もが自分の生活を優先し、神殿再建もあきらめかけていたところに、神の介入がありました。預言者ハガイの言葉に民は再び立ち直り、祖国の復興のために祈り始めるのです。「今日から後、わたしは祝福する。」どんな状況の中にも主に信頼し、福音の種を蒔いていこうと思わされました。

主の約束は成就する…

立春も過ぎ、暦上は春を迎え、教会のアーモンドも芽吹いてきました。新型コロナの影響は全国的に減少傾向にありますが、緊急事態宣言も延長となり、予断を許せない状況が続きます。今週は何人かの先生方と教会の対応について話しましたが、判断の難しいところです。例えば、礼拝をオンラインで視聴することも教会によって考え方はさまざまです。大雑把に言えば、とにかく一人でも多くの方に視聴して頂きたいというところもあれば、教会に申請が必要なところもあります。どちらも一長一短がありますが、基本的には一人一人が礼拝をどう考えているかではないでしょうか。礼拝は、単なる講演会でもないし、あるいは形式だけ守っていればいいものでもありません。「その地のパンを食べるようになったら、あなたがたは主に奉納物を献げなければ…」私自身は『荒野のマナ』のように感じていましたが、やがてそれも止む時がきて、主の約束が成就されるのだと思います。

終わりの日に向かう一日一日…

水曜祈祷会はⅠテサロニケ5:1~。「主の日は、盗人がやって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。」「主の日」がいつなのかは誰も知りませんが、その日が必ず来ることを聖書は教えています。しかもその日は、予期しない時に突然やって来るのです。だれもが人生の終わりを迎えるように、この地も終わりの時を迎えます。その時、私たちは最終的な裁きを受け、救いと滅びに分けられるのです。キリスト教は、愛や慰めという言葉をよく使いますが、裁きや滅びについても語らなければならないと思っています。『たとえ明日世界の終わりが来ても、今日リンゴの木を植える』そんな思いで、終わりの日に向かう一日一日を歩みたいと思わせられました。今日は午後から箕面市の社協の災害ボランティア研修セミナーにオンラインで参加しました。牧師は私だけでしたが、地域の方々にも教会を知っていただき、自分にとってもよい学びとなりました。

眠っている者たち…

一旦、デボーションは民数記からⅠテサロニケになりました。パウロの第二回宣教旅行の中で誕生した教会でしたが、ユダヤ人の迫害によってやむなく宣教が中断され、パウロはその地を離れました。その後、テモテからテサロニケ教会の信仰と愛の報告を聞いて喜ぶとともに、教会内に誤った理解があることもわかりました。「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないでためです。」イエスさまは死んで墓に納められたラザロのことを「眠っている」と言われ、また「わたしはよみがえりです。いのちです。」とも言われました。この方にあって私たちにも永遠のいのちの約束があります。このようにクリスチャンにとって一番の幸いは、死の問題に対して明確な答えがあることです。目を覚ましていても眠っていても「主とともに生きる」これこそ私たちの希望であり、慰めです。

御国はその人たちのもの…

1月第五主日、温かい日差しが会堂に差し込んできました。実は今朝もパソコンの不具合があって準備に戸惑いましたが…なんとかオンラインでの礼拝が整い、感謝でした。メッセージはマタイ5章の山上の説教「八つの幸いな人」の後半から、「あわれみ深い者」「心のきよい者」「平和を愛する者」「義のために迫害を受ける者」の幸いを学びました。いずれも神との関係があってこその他者との関係です。神の憐れみ深さに自分があずかっていくことで、自分たちも憐れみ深い者に変えられて行くという約束。特に、印象に残ったのは、義のために迫害を受ける者がなぜ幸いなのか…なぜ喜びなさいと言われるのか…実に耳の痛いところでした。でも、「天の御国はその人たちのものだから」だれよりも厳しい迫害をお受けになられたイエスさまがそう言われるのですから、私たちもただ信じて従うのみです。この世での報いは一時的ですが、天での報いは永遠に続くものだからです。

苦しみの涙は喜びの叫びに…

新型コロナの感染拡大に伴い、教会が来会自粛をお願いして4回目の主日を迎えます。大阪も緊急事態宣言発出中ですが、今も感染者数は多く、何より亡くなる方の数は国内で最も多い状況です。病の中にある方、生活に困難のある方、医療従事者の方々を覚えて祈っています。また、以前のような、教会で信徒が顔と顔とを合わせ、心置きなく主を賛美し、食事をともにする日はいつなのでしょう…と思わない日はありません。ビルのテナントから今の教会の場所に移ってきて4年目ですが、来会自粛をお願いする日が来るとは思いもしませんでした。私たちにはわからないことばかりですが、それでも主はこうした状況を全てご存知であること、このことにも神の計画があることを私たちは知っています。今年の年間テーマは「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る」です。恵みの中に生かされている者の苦難の涙は、必ず喜びの叫びとなることを信じて待ち望んでいます。

どうかこの民の咎を…

今日の水曜祈祷会も日曜日に続いてYoutubeの配信ができず、お待たせしてしまった方々には大変申し訳ございませんでした。午後には原因らしきものがわかり、動画を撮り直して夜の祈祷会には間に合いました。落ち着いて、慌てずに…と自分に言い聞かせてなんとか復旧を試みましたが、思うようにいきませんでした。いろいろご心配をおかけしています。デボーションは民数記14章から。イスラエルの民は、約束の地カナを偵察してきた12人の者たちから報告を聞きました。その内の10人は、その地の先住民たちの力を恐れて否定的な意見をし、それを聞いた民も全く絶望的でした。しかし、カレブとヨシュアは信仰に立ち「主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」と会衆を鼓舞したのです。そして、そんな不信仰な人々のためにとりなしの祈りを献げるモーセの姿は、まさに今日の私たちのためにとりなしてくださっているイエスさまの姿と重なりました。

旧約聖書を学ぶ会…

デボーションは民数記13章から。主は人々を遣わしてカナンの地を偵察するように命じられました。そこがどんな地であるかを主はご存知の上で約束をされたのです。その地は非常に良い地で、乳と蜜が流れる地でしたが、強い先住民たちがいてとても太刀打ちできそうにありません。偵察に行った12人の内、10人も否定的な意見でした。でも、カレブとヨシュアは違いました。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」彼らがそう言う根拠は何だったのか。続きは明日の水曜祈祷会で…。今日は午後から旧約聖書を学ぶ会がありました。創世記17章から「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」アブラハムへの契約の再更新でした。「信仰の父アブラハムの誕生」「どんな時も主はともに」「契約を守られる主」「わたしは決して見放さず捨てない」皆さん、いいタイトルを考えてくださいました。

幸いな人とは…

1月第四主日、恵みの雨で始まりました。いつものようにオンライン礼拝の準備をして臨みましたが、YouTubeに音声が聞こえないというアクシデントがありました。すでに時間も始まっていて、ご視聴してくださっている方々もいる中で、様々な調整を試みましたが、やむなくライブでの配信は断念させていただきました。お待ちいただいていた方々には本当に申し訳ございませんでした。午後からはなんとか音声も入るようになり、あらためて動画を撮り直してアップさせていただきましたが、最終的な原因については…もう少し調べなければなりません。礼拝ではマタイ5章の八つの幸いな人(前半)から学びました。「心の貧しい人は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」貧しいとは乞食同然のこと、神の前に何も誇れるものがないことを知る人のことです。だからこそ、神により頼むことを知る者は幸いなるかな…と傷心のところに御言葉から励ましを受けました。

2021年年間テーマソング…

2021年の年間テーマソングが完成しました。詩篇126:4,5。イスラエルの民はバビロン捕囚から解放されて故国に帰る日がきました。「私たちは夢を見ている者のようであった。…私たちの口は笑いで満たされ、喜びの叫びで満たされた。」散り散りになっていた家族や氏族が続々と戻って来る光景はどんなに嬉しかったことでしょう。ネゲブはユダの南の乾燥地帯で、乾期には水の枯れる川ですが、秋の雨の頃には濁流となって水が流れるそうです。回復を求め、無から有を創造される主に期待する祈り。収穫の前に種まきがあり、喜びの前に涙があります。ある方から『先生、早くみんなで会いたいね」と電話がありました。私たちも今、コロナの状況にあって、元に戻るまではまだ時間がかかりそうですが…「主は彼らのために大いなることをなさった」という日が一日も早く訪れるように期待して、私も皆さんが教会にもどって来てくださる日を心から祈って待っています。

主の教えを喜びとし…

詩篇1:1「主の教えを喜びとし…」コロナ禍にあって、私たちの教会も来会自粛をお願いするようになり、この機会に個人的に学びをしている方もいますが、折角なので、関心のある方は視聴できるようにと動画にしました。このために何年も温めてやっと完成した…というような学びのテキストではないので大変僭越ですが、ほんの少しでもお役立ていただければ幸いです。自分の書斎で、マイクもつけず、向かい合って学びをしているように撮影しました。途中、雑音が入ったり、暗唱聖句も少し間違えてしまったり💦と、急いで作りましたので、少々の点はお赦しいただければと思います。救われたばかりのころは、『教会で学びがある』と聞くだけで逃げ回っていた自分を思い返しながら、今は主の教えを学ぶのは本当に楽しいと思えることを感謝しています。聖書の学びは、自分の霊の養いのためでもありますが、いつか誰かにお証しをする時にも役立つものだと思います。

主の命により…

今日は教会の前を通られる方に「お花きれいですね」と声をかけられ、もうそれはそれは嬉しかったです。誰か見てくださる方がいるんだな…と励まされました。今日のデボーションは民数記9章から。ここには過越しを記念する記事と、幕屋をおおう雲による導きについて記されています。第一月一日に会見の天幕を建て終わり、十二日間の族長たちによる祭壇でのささげものが続いた後、十四日の夕暮れがこの過越しの祭りでした。「イスラエルの子らは、すべて主がモーセに命じられたとおりに行った。」15節からは幕屋建設の記事に戻って、その日以来いつも雲が、あかしの天幕をおおったとあります。繰り返されているのは「彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命により、主への務めを守った。」ということ。今日においても、聖書にある主の命によって、主とともに進み、主とともにとどまる信仰生活を送りたいものです。

主の招きに応えて…

1月第三主日。今日で阪神淡路大震災から26年を迎えました。コロナ禍にあって、様々な追悼の集いも分散や中止のところもありました。今はもう天に召されたある信徒の方が、貴重な写真を持ってきて説明してくださったことを思い出します。新型コロナの感染が国内で最初に確認されたのもこの日でした。人間は一年先はおろか、明日何が起こるかもわかりません。何を備え、何を教訓として次世代に伝えるべきかを思いました。礼拝ではマタイ4:18から、イエスさまが最初の弟子をお召しになるところから学びました。「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしてあげよう。」主の招きを聞いたペテロたちにも不安と戸惑いがあったでしょう。自分に何ができるのか…。でも、マタイはそうした彼らの心の葛藤は残さず、「すぐに網を捨てて従った」という結果だけを記しました。改めて弟子への道は従うことであり、従うことは捨てることから始まることを心に留めました。

礼拝を献げる民…

教会のデボーションは民数記7章です。創世記は『神の民の選び』、出エジプト記は『神の民の贖い』、レビ記は『神の民の礼拝』、民数記は『神の民の奉仕』がテーマ。特に9章までは神に仕える民の秩序と聖別が強調されています。今日の7章でも、主がモーセを通して族長たちに「一日に一人ずつの割合で」ささげ物をするように命られじたことが記されています。族長たちはその命に従って、ユダから始めて2章に記されたの同じ順序で、12日間12人の族長たちが全く同じものを献げ、主への献身を表しました。これらの合計が84~88節にあります。イスラエルも今の私たちも、主の恵みとご臨在を覚えて礼拝を献げる民にしていただきました。解説の『礼拝は恵みを受けるという側面もあるが、主に喜びをもって自らを献げるという側面がある』というのは大事な事柄です。ぜひ日曜日だけでなく、朝ごとに御言葉と祈りの礼拝を献げ、日々新しく主のものとされていきましょう。

主があなたを祝福し…

今日から関西も緊急事態宣言が発出され、英会話クラスの開講も2月まで延期となります。昨日は英会話のチラシをもって教会を訪ねて来てくださった方もいましたが…ただ、その方が以前、無教会主義の信仰を持っておられたということで、しばらくお話しを聞かせていただき大変勉強になりました。ありがとうございました。ぜひ続けて教会に通っていただければと思います。今日の水曜祈祷会もオンラインで行い、民数記6章からナジル人と祭司的祝祷について学びました。「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔を照らしあなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」この祝祷は、単に礼拝の終わりの祈りではなく、契約の主が、神の民の祝福と守りを保証して送り出してくださるという宣言です。あらためて日曜日ごとに、この祝祷にあずかって新しい一週間を歩み出せる恵みと特権が心に響いてきました。

宣教区新年聖会2021…

今日は宣教区の新年聖会がありました。今年はコロナ禍のためオンラインでの開催でしたが、講師の西村先生がヨハネの黙示録からメッセージをしてくださいました。世の終わりの裁きにおける「半時間ほどの静けさ」の中に、イエスさまの沈黙と涙が思い浮かぶ…。先生ご自身が3年前に脳梗塞になられた経験から、お証しも交えてお話しくださいました。世の終わりの兆候はすでに様々なところに見られます。何が起こってもおかしくない時代の中で、イエスさまは一人でも多くの人が救われるように涙の祈りをしておられることを思いました。午後からは宣教区会議があり、昨年の宣教区の恵みを振り返り、新しい年の展望を確認しました。私たちの教会も多くの教会からご支援いただいていますので、ニュースレターで報告をさせていただきました。今日は成人の日でしたが、成人式も各地で中止や延期となったようです。新成人となられた方々、ご家族に祝福がありますように…。

荒野での試み…

1月第二主日。大阪をはじめ3府県で緊急事態宣言発令要請が出されたことを受けて、今日から私たちの教会も来会自粛となります。主日礼拝は不要不急のものではありませんが、信徒の方々の安全と健康を考慮して役員会で決断しました。礼拝ではマタイの福音書4章から、イエスさまが荒野で悪魔の試みを受けられた箇所から学びました。「試み」には、罪を犯させる「誘惑」と信仰を試される「試練」の二つの意味があります。イエスさまが受けられた試みにもこの両面がありました。結論として、人類の始祖であるアダムは悪魔の試みにまんまと負けてしまいましたが、第二のアダムであるイエスさまは十字架の死に至るまで徹底的に勝利を得られたのです。「…試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」今まさに世界中が荒野での試みの中にいるようですが、今週も主にあってお一人ひとりの健康と守りを心よりお祈りしています。

緊急事態宣言の要請…

今日で4日連続で全国のコロナ感染者数は過去最多を更新し、正式に首都圏1都3県に緊急事態宣言が発令されました。これに続いて、大阪、京都、兵庫でも緊急事態宣言の要請が決まり、来週には正式に発令される模様です。私たちの教会でも明日緊急役員会を行い、今後の対応について検討します。だれもが安心して教会に集まれる日はもう少し先になりそうです。神はこの状況をどのように見ておられるのか…。間違いなく言えるのは、神はこうした状況になることをご存知であったということです。この時期、医療現場で働いておられる方々には本当に頭が下がりますが、米病院でチャプレンとして働いている日本人牧師のことが取り上げられていて、それも勇気ある尊い働きだと思いました。医療技術がどんなに進歩しても、その先の死の現実とだれもが向き合わなくてはなりません。目を背けたいことかもしれませんが、その時の準備ができているかも大切なことだと思います。

それぞれの旗のもとに…

今年最初の水曜祈祷会があり、民数記2章から「それぞれの旗のもとに」をテーマに御言葉を聴きました。神はイスラエルの民に部族ごとの人口調査を命じられ、2章では宿営に関する命令をされました。文字だけではわかりにくい内容も、表にすると新しく気づかされることがあります。神は十二部族をそれぞれの旗のもとに宿営させ、族長、行進の順番まで決めて秩序を重んじられました。未知なる世界、厳しい荒野を旅するためには決められた隊列が必要でした。自分ひとりくらい…という勝手な行動が命とりとなることを表していたのでしょう。コロナ禍を生きる私たちにとっても大切な使信です。今日も全国のコロナ感染者数は過去最多の6000人越え(大阪も過去最多の560人)。金曜からは関東の4都県を対象に緊急事態宣言も発令されるとのこと…。やはり一人ひとりの心掛けです。今日は夜の祈祷会のある兄弟のお祈りに力づけられました。信仰による祈りには力があります。

登録された神の民…

1月のデボーションは民数記を読んでいきます。ヘブル語聖書では『荒野にて』と呼ばれる書です。エジプトの奴隷状態から救われたイスラエルの民が、約束の地を目指して荒野を旅する記述です。シナイからカデシュ・バルネアまでの道程は、11日ほどにも関わらず、結局39年も荒野を放浪することになりました。その理由を一言で言うならば、民の不信仰に対する神の訓練です。旅の途中、彼らはさまざまな苦難を経験し、神につぶやき、神に背くこともありました。人生はなかなか思うようにいきません。でも、主はそんな彼らを見捨てることなく、忍耐の限りを尽くしてご自身の契約に対して忠実であられたのです。今日の箇所では「一人ひとり名を数えられた」という言葉が心に残りました。主の前では私たち一人ひとりも十把一絡げではなく、絶えず一人ひとりとして目を留めてくださっていること、そして、天国の書に名が記された者として導いてくださることを感謝します。

主の道を用意する…

2021年の新年礼拝はマタイの福音書3章、バプテスマのヨハネの言葉から「主の道を用意する」というテーマでメッセージを聴きました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」悔い改めるとは単に後悔や反省を促すだけでなく、人生の方向転換をして神に立ち返ることを意味し、また、天の御国とは神のご支配を意味する言葉で、イエスさまの来臨によってすでに始まり、イエスさまの再臨によって完成されるものです。「悔い改め」は頭で理解したらできるというものではなく、かといって…努力や熱心さでなんとかなるものでもなく、聖霊により頼みつつ生涯をかけて、絶えず新しくしていただくものです。そのために大切なのは、主の通られる道をいつも用意すること、初心忘るべからずです。今年も聖歌361を賛美しましたが、主との交わりを妨げるものは捨てて、主にあって進むべき道を平らにしていただき、朝ごとにみことばに聴いて行きたいと思わされました。

はかない人生を豊かに…

2021年の元旦礼拝は詩篇90篇からメッセージを聴きました。神の人モーセは神の導きによって波乱万丈な生涯を送り、最後は約束の地を目前に天に召されました。詩人はそんなモーセの生涯と自分の生涯を重ねて綴っています。永遠なる神に対して、やがて塵に帰る人間のはかなさ。しかも神の御怒りのもと、そのほとんどが労苦とわざわいです。それゆえ詩人はこう祈ります。「どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに、知恵の心を得させてください。」自分の人生がどのくらい残っているかはだれにもわかりません。ならば生かされている今を感謝して、謙遜と悔い改めをもって、神との交わりに生きることが最善の知恵。神はその道をすべての人の前に用意され、主の現れを慕い求める人にはだれにでも授けてくださるのです。まさに今は恵みの時、救いの日。揺れ動く時代、今年もこの信仰に立って、主と教会に仕えていきたいと思わされました。