生きて働く信仰

礼拝ではヤコブの手紙から続けてメッセージをしています。マルティン・ルターはこの書簡を「藁の書」と言うほど問題視したようですが、果たして本当に問題があったのか…。何はともあれ、今年は宗教改革500周年を迎える節目の年。気持ちも新たに、久しぶりの聖書を学ぶ会に向けてレジュメを準備しました。

 

「生きて働く信仰」ヤコブ2:14-26

人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。

 マルティン・ルターがカトリック教会に送った「九十五箇条の提題」は、ヨーロッパ全土を巻き込む宗教改革運動へと発展し、やがてプロテスタント教会が誕生していきました。その中心は何と言っても「聖書のみ」「信仰のみ」「恵みのみ」です。それは現代の教会も受け継ぐ重要な教義です。ただヤコブの手紙には、それとは反対の言葉が書かれているようにも思えますが、実は一貫したテーマであることを教えているのです。ここから「行ない」と「信仰」の関係について、私たちも大切なことを心に留めましょう。

 一つは、「行ない」がない言葉だけの「信仰」についてです。ヤコブは「だれかが信仰があると言っても」と記します。口で言うだけなら誰でも言えますが、大切なのは、その信仰が生活と行動のあらゆる面において、神の喜ばれる御心を求めているかです。知っているのと、生きているのは別問題なのです。言葉だけの信仰に気づいたら、まず悔い改めましょう。二つ目は、「行ない」によって現わされる「信仰」です。信仰は目に見えないものですが、行ないによって確かめることができるでしょう。ですから、「信仰さえあれば、行ないはどうでもいい」という考えは気を付けなければなりません。もちろん、霊的に疲れているなら無理は禁物ですが…神の前に静まって、今の自分に何ができるかを聞いてみましょう。三つ目は、「行ない」によって全うされる「信仰」です。ヤコブは旧約聖書のアブラハムの例を挙げて語っています。アブラハムは望みえない時に望みを抱いて信じたことが(神の前に)義と認められました。その後、失敗と挫折を繰り返して、ついに息子イサクを捧げよという神の命令に従うことができたのです。ヤコブが注目したのは、信仰から生み出される行動です。まさに「信仰」と「行ない」は、人が神を体験する両面なのです。私たちもみな、神の一方的な愛と恵みによって救いにあずかります。そして、そんな私たちの人生には、神が良い行ないをも備えて導いてくださるのです。ある神学者も言います。「神の愛は、条件なしに無償で与えられる。神からもっと愛されるために、あるいは愛されなくなるために、自分でできることは何もないのだ。」私たちがこの方を愛する生きた信仰をもっていれば、自ずと為すべきことも見えてくるのです。