9月第四水曜祈祷会、エゼキエル16章から。この章では、主に愛されていながら偶像を慕い求めるエルサレムを、夫に愛されていながら姦淫を重ねるみだらな妻に譬えています。イスラエルの誇りであり拠り所でもあるエルサレムは、そもそも罪に染まったカナン人の地でした。つまりエルサレムが聖なる都と呼ばれるのは、ただ神の選びと恵みによるものだったのです。それなのに、エルサレムは主の寵愛を裏切り、諸国の民と姦淫を行っていきました。しかも、主から与えられた富と美しさと名声を利用して、そのことを行ったのです。この章を今日の私たちに適用するのはなかなか難しいことですが、主が偶像崇拝をいかに重く見ておられるのかを教えられる箇所でした。偶像崇拝とは、神以外のものを神のごとくより頼み、神との関係をないがしろにすることです。見捨てられても仕方のないエルサレムへの神の厳しい裁きの言葉には、悔い改めを迫る神の愛が表されていました。