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教会のデボーションはエゼキエル48章になりました。新しいエルサレムの相続地の割当と人々の商業文化活動の中心となる町について告げられました。細かな規定が続いて、一人で読んでいてもなかなか理解が深まらない箇所だったかもしれません。大切なのは最後にこの町の名が「その日から『主がそこにおられる』」と呼ばれることです。この名は主が常にその民とともにおられることを表しています。過去において主がそこにおられなかったのでエルサレムは破壊され、イスラエルは滅びました。でも、新しいイスラエルにおいては主は決してその民を離れることなく、常に、永遠にその民とともにおられるのです。これこそがエゼキエルの中心的なメッセージでした。今日も教会の英会話には大勢の方が来てくださいました。その多くの方がクリスチャンではありませんが、ここにくると何かホッとする…神さまを近くに感じる…そのように言われ続ける教会となりたいものです。