最後の第三礼拝が終わり、2017年の教会の活動が終わりました。今年は主の日で始まり、主の日で終わるという時宜にかなった一年でした。宗教改革500年の節目の年、新改訳聖書2017年出版、何より新会堂取得という忘れられない年でもありました。恵みに溢れる一年を感謝し、新しい2018年を待ち望みたいと思います。
「神のご計画に生きる」メッセージ要約(マタイ2:13-23)
『そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して【彼はナザレ人と呼ばれる】と語られたことが成就するためであった。』
東方の博士たちの訪問は、ヨセフとマリヤにとって大きな喜びだったでしょう。でも、その喜びも長くは続かず、彼らには厳しい現実が待ち受けていました。それは、全世界の救い主が危険にさらされることでもあったのです。そうした中でも、神の計画は一つ一つ成就し、人間にはそれを阻止することはできないことを聖書は告げています。ここから「神のご計画に生きる」というテーマで三つのことを心に留めたいと思います。
一つは神は我らの行く道を示されることです。「立って、幼子とその母を、エジプトに逃げなさい。」それは、あまりにも唐突な神の知らせでした。これから家族三人で落ち着いた暮らしが始められると思っていたのに、なぜエジプトに…と思ったことでしょう。でも、ヨセフはそこでつぶやかず、直ちに従っていきました。もし躊躇していたり、朝まで待っていたら、手遅れになっていたかもしれません。この一瞬の差がメシヤを危機から救い、ヘロデの計画を見事失敗に終わらせたのです。同じように、神の計画には何事にも定められた時があります。神のことばは、「きょう」従ってこそ価値があるのです。
二つ目は神の計画はすべて知り得ないことです。博士たちに騙されたことが分かると、ヘロデの怒りはピークに達し、まことに残忍な事件を引き起こしていきました。ここを読む度に、なぜこんな痛ましい事件が起きてしまったのかと思わされます。神はなぜ博士たちをエルサレムへ導いたのか、なぜヘロデの心を変えられなかったのか…と疑問がわいてくるかもしれません。でも、そうした疑問に対する答えはありません。ただ一つ確かなのは、限りある人間に永遠なる神の御業を全て見極めることはできないということです。
三つ目は神の御旨だけが必ず成就することです。神は再三ヨセフの夢に現れて、イスラエルに帰ること、ナザレの町に行くことを命じられました。聖書は、そうした一つ一つの出来事が偶然によるものではなく、すべて神の御旨であることを表しているのです。同じように、私たちも予期せぬ試練を通らされることがあるかもしれません。でも、私たちを愛する神の御旨は必ず成就するのです。その事に信頼して、神の計画にゆだねて、御旨にかなった歩みをしていこうではありませんか。詩篇37:5
2017年も年の瀬が近づいてきました。明日は今年最後の祈祷会。いつものように準備をして御言葉と祈りに備えます。「いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。」去年の今頃はまだこのような教会に導かれるとは思っていませんでした。クリスマスの余韻を覚えつつ、一年の感謝を祈りたいと思います。
"Merry Christmas !" 今年もこの日を迎えられるのは、決して当たり前ではない恵みの中にいることを思わされます。飼い葉おけのキリストは私たちの貧しさの中に来てくださったしるし。単なるイベントではない教会のクリスマス…。神はわれらを愛しておられる。本当のクリスマスは私たちの心の中に降られるのです。
『クリスマスのよき知らせ』(マタイ2:1-12)メッセージ要約
「かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」
クリスマスとは、文字通り「キリストの祭り」。その中心は何といっても礼拝を捧げることです。礼拝は、私たちが神を求め、神と出会い、神の前にへりくだる時です。ですから礼拝のないクリスマスは、本物のクリスマスとは言えません。しかし、多くの人がその意味を忘れ、クリスマスの本当のよき知らせを知らずにいるのです。それは、今日だけに限ったことではありません。世界で最初のクリスマスも同じでした。救い主は豪華な宮殿のベッドではなく、貧しい馬小屋の飼い葉おけに誕生されました。その方を拝みに、はるばる旅をしてきた東方の博士たちはこの上もない喜びを見たのです。降誕劇でも有名なこのシーン、あらためて彼らの姿から3つのことを心に留めたいと思います。
一つは彼らが救い主を求めて旅立った思いです。博士らはエルサレムから遠く離れた町で不思議に輝く星を見つけ、救い主誕生を直感しました。彼らは胸を躍らせながら、幾つもの山を越え、砂漠を越え、星の導きだけをたよりに旅をしてきたのです。途中、予測のできない危険もあったでしょう。ユダヤ人でもないのにどうして…と引き返すように勧める人もいたでしょう。でも、彼らはただまっすぐに救い主を求めて旅を続けたのです。
二つ目は彼らが救い主の誕生を本物の喜びにしたことです。博士らがエルサレムに着くと、ユダヤ人の王が誕生したというのに町は普段と変わりない様子でした。むしろ、ヘロデ王は博士らの報告を聞くと恐れ惑い、町の人々も祭司長らも同じだったのです。エルサレムからベツレヘムまではわずかな距離だというのに…。それでも博士らは、先立つ星を信じて旅を続け、ついに幼子を探し当て、この上もない喜びにあずかったのです。
三つ目は彼らが救い主に心からの礼拝を捧げたことです。博士らは、幼子を見つけるとひれ伏して、黄金、乳香、没薬をささげました。それは彼らが旅の間中ずっと大切に持ってきた宝物です。何千kmの旅を経て彼らが目にしたのは、母マリアの腕に抱かれて眠る赤子でした。万物を造られた神々しさも、光輝かくような栄光もありません。でも、彼らはこの方こそ全世界の救い主であると確信して、心からの礼拝を捧げたのです。
神の救いの計画からぼど遠いと思われていた異邦人の彼らが、救い主誕生の最初の礼拝者となりました。神は求める者に必ず応えてくださる方です。今年もクリスマスがあるというのは、私たちが心待ちにする以上に、神が私たちを待ち望んでいるしるしなのです。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)
アドベント(到来)には三つの意味があります。それは、2000年前にイエスがご降誕されたこと、今日、私たちの内にも来てくださること、そしてやがて終わりの日に栄光のうちに来られることです。24日は4本目のローソクに火が灯ります。あなたもぜひクリスマス礼拝&キャンドルサービスにお出かけください。
今年のクリスマス祝会も、ポットラックのランチで、テーブルに所狭しとおいしい食事が並びました。心を込めて持ち寄ってくださった皆さま、また、残さず食べてくださった皆さまに感謝いたします。主にある食卓の交わりに、心も身体も満たされました。
今日は歓迎礼拝で、メッセージは玉井邦美先生、また午後からは恒例のポットラックランチとクリスマス祝会がありました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」主キリストの恵みと平安に包まれる良い一日でした。
土曜日の午後はハートフル英会話のクリスマス会、夜は防災クリスチャン主催の『防災パーティー』がありました。宣教師の先生との久しぶりの再会に喜び、また、今後の災害に備える大事な姿勢を学びました。
12月の慌ただしい中、教会横の敷地で野菜でも育てるかぁと思い立って少しずつ準備してきましたが、今日はとりあえず土作りを完了しました。まずはこれで二週間寝かせて、ふっくらした土になるのを待ちます。ただ、何か植えるのは年明けになるかな…。農業の大変さがほんの少しですが、わかりました。
今年も地域の介護福祉施設にキャロリングに行ってきました。バイオリンのミニコンサートと聖歌隊の賛美、そして、手作りリースをプレゼントさせていただきました。「これが、あなたがたのためのしるしです。」馬小屋の飼い葉おけに生まれてくださったイエスさまを喜び、祝い、心から賛美させていただきました。
最近は少し雨が続いていたので畑作業も滞っていましたが、気を取り直して再開。あまり日当たりのいいところではないのですが、「健全な作物は健全な土に育つ」を信じて土作りに専念しています。まだ何を植えるか決めていませんが…何か野菜を植えて教会の子どもたちと収穫できたらなぁと考えています。
今日は午後から新会堂で初めてのキッズ&ファミリークリスマスがありました。0歳の赤ちゃんから90歳の姉妹まで、大家族のようなぽかぽかとあたたかいクリスマス会でした。やはりクリスマスに降誕劇を観ると聖書の世界に入りこんだようで…演じてくれたみんなに感謝です。リース作りもとても楽しそうでしたね。
「その名はインマヌエル」(マタイ1:18-25)メッセージ要約
『見よ。処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。』
降誕劇で最も注目を浴びるのは、なんといってもマリヤです。まだ幼さの残る少女は、突然、幼子をその身に宿すとこになりました。マリヤは戸惑いつつも、信仰をもってそのことを受け入れました。一方、ヨセフが注目を浴びる機会は少なく、その存在は平凡で、彼自身の言葉も聖書にほとんど記述がありません。そんなやや影の薄いヨセフですが、クリスマスの出来事において彼ほど欠かすことのできない役割はないのです。そんなヨセフの信仰に注目して三つのことを心に留めましょう。
一つは、試練の中に神のご計画を見ることです。ヨセフは許嫁であるマリヤが身ごもったことを知りました。まさに青天の霹靂、あってはならないことが起きてしまったのです。奈落の底に突き落とされたヨセフ…。神はそんな彼の夢に御使いを遣わして「恐れないで、マリヤをあなたの妻として迎えなさい。」と命じられました。すぐに理解できなくても、人生に起こることにはその一つ一つに神のご計画があるのです。
二つ目は、神の語りかけをそのまま信じることです。神はヨセフに、生まれてくる子どもに「イエス」と名をつけるように命じられました。そのことで、ヨセフがユダヤの法律上でもイエスの父となることを宣言されたのです。「イエス」とは、「主は我らの救い」という意味。ヨセフはそうした神の言葉をそのまま信じていきました。神のなさることには、その一つ一つに最善の時と方法があるのです。
三つ目は、「神われとともにいる」に生きることです。イエスの降誕より700年も前の預言者イザヤの言葉が告げられました。「インマヌエル」とは「神われらとともにいる」という意味です。神は、人となって、私たちの間に住まわれました。それは、私たちと共に生き、助けを求めればいつでも助けてくださる身近な存在になられたということです。この約束に生きる時、私たちは度重なる試練にも耐え抜くことができるのです。
私たちの信じる神は、「インマヌエル」と呼ばれる方です。このクリスマス、この方は一人一人の心にお生まれになってくださいます。そして世の終わりまで共にいて、力を与えてくださると約束されました。あなたはもうこの福音を受け取っているでしょうか。
今週もさまざまな方が教会を訪れました。祈り会や聖書の学びはもちろんのこと、近くで事故があって警察の方が来るまで少し休んでいかれる方、自分の将来について牧師と話しをするために来られた方、英会話にも素敵なご婦人方と元気いっぱいの子どもたちが来ました。理由はどうあれ…このアドベント、あなたもぜひ教会に足を運んでみてはいかがでしょう。
クリスマス諸集会の第一弾として、今年も今後の日曜日にキッズ&ファミリークリスマスを行ないます。賛美、ゲーム、降誕劇、おやつタイム、メッセージ…などなど、盛りだくさんの内容です。子どもたちと一緒に、「本当のクリスマス」を喜び、祝い、ささげませんか。皆さまのお越しを心よりお待ちしております。
…という言葉がこれからよく聞かれることになるのでしょう。次の日曜日にはキッズ&ファミリークリスマスがありますが、どうぞ温かい恰好で、みなさまぜひいらしてください。「子どもたちをわたしのところに…。」写真は、散らかしっぱなしの牧師の部屋。でも、ここが意外と温かくて、落ち着く場所なのです。
今年もアドベントを迎え、一本目のローソクに火が灯りました。教会の暦では今日が一年の始まりともなるので、メッセージではあらためて礼拝の大切さを学びました。「彼は安息日ごとに、絶えずこれを主の前に、整えておかなければならない。」一日の終わり…夕拝の後は心許せる青年たちと語り合う至福の時間です。
「日ごとの礼拝」(レビ記24:1-9)メッセージ要約
『あなたはイスラエル人に命じて、ともしびを絶えずともしておくために、燈火用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させよ。』
日本に来た最初の宣教師フランシスコ・ザビエルは、まだ見ぬジパングに憧れと敬意を抱き、希望に燃えて鹿児島に上陸しました。でも、いざ来てみると、抱いていたイメージとはかけ離れた現実がありました。それでも彼はそんな日本を心から愛し、仕え、多くの人を信仰へと導いたのです。今日12月3日は、そんな彼が46歳で天に召された日でした。
レビ記には、エジプトから脱出したイスラエル人が聖なる主の民として生きるための指針が記されています。その中で、安息日にはいっさいの労働を休み、聖なる会合を開き、定期的に主の定めの祭りをささげることが命じられていました。それを踏まえて、神が続けて命じられたのは、日ごとの礼拝のあり方です。主が「絶えず…」と命じられた七枝の燭台と十二の輪型のパンには、形式的なことだけでなく、象徴的な意味がありました。そこから今日の私たちが礼拝をささげる上でも大切な3つのことを心に留めましょう。
一つは、自分のベストをささげる礼拝です。神はまず燭台の灯火を絶えず灯しておくために、イスラエルの民に燈火用の質の良いオリーブ油をささげるように命じられました。それは最上級のものを意味しました。つまり、神はささげる者の心をご覧になることをお示しになったのです。二つ目は、霊的な祝福にあずかる礼拝です。神は次に、祭司たちに夕方から朝まで絶えず灯火を整えておくために油を絶やさないことを命じられました。七枝の燭台は、いのちの光を世に与えるイスラエルを象徴していました。灯火は絶えず油を注がれなければ燃えることができません。同様に、私たちも礼拝ごとに、霊的祝福を補給し続ければ燃え尽きることはないことを示されたのです。三つ目は永遠の契約を確信する礼拝です。十二の輪型のパンは、イスラエルの十部族とともに、全人類のためにいのちのパンとなられるキリストご自身を象徴していました。そして、神はそれを安息日ごとに新しいパンに置き換えるように命じ、それが永遠の契約であることを示されたのです。イエスさまも「わたしは命のパンです」と仰って、誰でもこのパンを食べる者は永遠に生きると約束されました。今日はこの後、聖餐式の恵みにもあずかります。アドベント第1週、私たちも日ごとにこの方を心からほめ讃える礼拝をささげて行こうではありませんか。
月曜日は午前中に宗教相談である親子とお会いしてしばらくお話しました。とても素敵な親子で今回のことでさらにお互いの理解が深まったとのことでした。また、続けて火曜日には教団事務所で国外宣教委員会。まだ見習いでよくわかっていませんが…とにかく慌ただしい東京出張でした。
来週からのアドベントに向けて、大掃除とクリスマスの飾りつけを行いました。新しい会堂になって初めて迎えるクリスマスです。イエスさまのご降誕を心からお祝いし、喜び、感謝したいと思います。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。」
教会の横に花壇を作ろうと思いたったのですが、これが意外と大変な作業…気長にやります。今年も収穫感謝礼拝で、児童祝福式を行い、互いに収穫の恵みや生かされていることの意義を考えました。子どもたちの成長の早さに目を見張るとともに、「神の国は、このような者たちのものです。」という御言葉があらためて響いてきました。
「主の定めの祭り」(レビ記23:33-44)メッセージ要約
『これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。』
レビ記の「仮庵の祭り」は、収穫感謝の起源とも言える記事です。主は、イスラエルの民をエジプトから救い出した後、シナイ山にモーセを呼び寄せ、神の民として生きる指針を示されました。律法、供え物、祭司、聖所、八つの祭り…とありますが、その中の「仮庵の祭り」に注目して、この祭りの意義から2つのことを心に留めたいと思います。
一つは、荒野での苦しい生活を忘れないことです。人々は「仮庵の祭り」を、安息日に始めて、次の安息日まで八日間、仮の小屋を作って暮らしました。その理由は、荒野での四十年間の苦しい生活を忘れないためです。彼らは、主の定めの安息日に、聖なる会合を開き、火によるささげ物をはじめ様々なささげ物をしなければなりませんでした。私たちも、荒野のような厳しい苦難を通らされることや、なぜこんなことが起こるのか…と思うことがあります。でも、主はすぐにその答えをくださいません。大事なのは、「なぜ」と神につぶやくことではなく、そこで神への信仰をもって「いかに」生きるかだからです。
二つ目は、変わることのない神に信頼することです。人々は「仮庵の祭り」で、不自由な生活を体験した後、そこから救い出される主の恵みを覚えました。イスラエルの民は、荒野で何度も「エジプトに帰りたい」と神につぶやきましたが、神はそんな彼らに「天罰」ではなく、天からの「マナ」を与えてその信仰を試されたのです。私たちも、私たちを愛して止まない神の愛をどのくらい信頼しているでしょうか。信仰とは、信念でも願望でもありません。神に全き信頼をおいて、その御言葉にどこまでも従うことです。自分ではどうすることもできない状況の中でこそ、信仰が試されます。大事なのは、日ごとに神の言葉によって養われ、主にあって成長していくことなのです。申命記8:3。
千葉県にある新鎌ヶ谷聖書教会の献堂式に行ってきました。6人の教会員から始まり、開拓12年、4度の引っ越しを経ての教会堂でした。箕面の姉妹教会です。「教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々に渡って、とこしえまでありますように。」懐かしい兄姉にも久しぶりにお会いできて嬉しかったです。
今日は夕方から冷たい雨が降り始め、一段と寒さを感じる夜でした。そうした中でも、ある人は自転車で、ある人は電車を乗り継いで、夜の祈祷会に来てくださる方々に励まされます。「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」今晩はヨハネの黙示録2章から学び、その後、一緒に食事の交わりに与りました。
ひと仕事終えて、牧師室からベランダに出ると夕焼けが実に綺麗でした。人はみな、何かの失敗をして、不安でたまらなくて…眠れない夜を過ごすこともあると思います。しかし、聖書にはこうあります。「夕暮れに涙が宿っても、朝焼けには喜びの叫びがある。」主は、私たちの涙を覚えていてくださって、やがて喜びの叫びに変えてくださるのです。
今日はまた一段と寒い一日となりました。これから段々と寒さも増してくるのでしょう。教会外の看板を照らすライトをもう少し明るくした方がいいというのでスポットライトを一つ追加しました。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」アドベント・クリスマスももう少しですね。
「祈りの力」(ヤコブ5:13-20)メッセージ要約
『信仰による祈りは、病む人を回復させます。…義人の祈りは働くと、大きな力があります。』
早いもので、今年もあと40日ほどになってきましたが、年末になるとよく耳するのが「交響曲第九番」です。この曲の「第四楽章・歓喜の歌」は、作曲者のベートーヴェンが完全に聴覚を失ってから完成しました。まさに苦難の中から叫び求めた「喜び」を、神への信仰のうちに見出し、力強く音楽に表現した曲と言えるのではないでしょうか。
逆境の時も、順境の時も、どんな境遇の中にあっても、全能なる神を信頼して祈り求める…それこそクリスチャンとそうでない人を分けるしるしです。神は絶えず、私たちを祈りの座に招いておられ、だれの祈りも、どんな祈りにも耳を傾け、応えてくださる方です。それが私たちクリスチャンの確信です。ヤコブもまたこの手紙の最後に、クリスチャンにとっての最高の特権である「祈り」について記しました。祈りは、苦しみのどん底から私たちを引き上げる神の力であり、高慢の罪から私たちをへりくだらせる神の守りです。そんな「祈り」について、ヤコブの手紙の最後のメッセージに聞きましょう。
一つは、どんな時にも神に向かって祈るということです。苦難の中にいる人は、ともすると自分の悲運を嘆いたり、人に訴えたりするかもしれません。また、喜んでいる人も、あたかもそれを自分で成し遂げたかのような錯覚に陥るかもしれません。だからこそヤコブは、逆境の中で苦しんでいる時も、順境の中で喜んでいる時も、いつも神を第一として、神に向かって祈り賛美することを勧めるのです(Ⅰテサロニケ5:16-18)。二つ目は、信仰による祈りは力があることです。ユダヤ人は病気になると、医者に行くより、まず教会の指導者たちのところに行って、オリーブ油を塗って祈ってもらったようです。でも、何より大事なのは、長老たちやオリーブ油よりも、主の御名によって祈る祈りに力があるということです。それは、エリヤの祈りからもわかるように、自然界をも動かすほどの大きな神の御業となるのです。三つ目は、神の贖いの御業に参与することです。ヤコブの時代にも、キリストの救いにあずかってから、教会から離れてしまう人もいたようです。そこには、大きな痛みも悲しみもあったでしょう。でも、もしそういう方々を迷いの道から引き戻せるなら、魂を救い、多くの罪を覆いことになるというのです。もちろんそれは、神の恵みの結果であって、人間の業ではありません。今もなお…そうした一人一人を探しておられるイエスさまの働きに、私たちも祈り心をもって参与していくことが大切なのです。その時、私たちはあらためて「祈りの力」の偉大さを知っていくのです。
婦人の方々が収穫感謝礼拝に向けて飾りつけをしてくださいました。短い秋の雰囲気をしっかり味わいたいと思います。そして、今年も児童養護施設に靴下のプレゼントを届けに行くので、その準備もやはり婦人の方々が…。感謝です。「…最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」
今日は礼拝後に防災訓練を実施しました。新しい会堂になって初めての訓練。参加者は33名。直下型、M7.3、震度6弱を想定しました。リアルな災害を想定して、避難場所までも速やかに移動しました。心配していた天気も何とか守られ、少し肌寒い中でしたが…緊張感の中にも和やかな雰囲でできました。今日も90歳のご婦人がバスに乗って初めて礼拝に出席してくださり、ともに礼拝をささげられて感謝でした。
「耐え忍ぶ者の幸い」(ヤコブ5:7-12)メッセージ要約
『見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いである、と私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。』
ヤコブが生きていた社会は、貧富の差別が激しく、金持ちは優遇され、貧しい者たちは虐げられた時代でした。聖書は、富自体を否定しませんが、富める者が陥りやすい危険を警告します。それゆえヤコブも、「金持ちたち。聞きなさい。」と、金銭を愛することや贅沢な暮らしへの注意を語りました。その上で、貧しい者たちにも主にあって希望があることを告げていくのです。「主が来られる日(パルーシア)まで耐え忍びなさい。」それは、いつの時代も苦難や試練に苦しむキリスト者たちへの慰めと励ましの言葉でもあります。耐え忍ぶ者がなぜ幸いなのか…ヤコブが語る三つの忍耐から学びましょう。
まず収穫を待ち望む農夫の忍耐です。農夫は、自分で天候を調節したり、雨を降らしたりすることもできません。それゆえ自分にできることをして、ひたすらその時を待ちます。やがて芽が出て、穂が成長する様子を見て、収穫が近いことを確信するように、私たちも終末の前兆を見て、主の来臨に備えなければならないのです。続いて、旧約の預言者の忍耐です。物事が上手くいかない時、苦難の中にある時、助け合うよりも互いにつぶやき合ってしまうことがあります。主はそれを喜ばれません。旧約の預言者の生涯はどうたったのか…。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル…彼らの生涯には絶えず苦難と忍耐がつきまといました。それでも、彼らはつぶやきと戦いながら、主に従い続けたのです。そうした彼らの殉教の血が教会の礎となり、今日の私たちの信仰に繋がっています。最後は、ヨブの忍耐についてです。ヨブは、多くの財産を持った人でしたが、神の前に潔白で正しい人だったとあります。そんなヨブが一瞬にしてすべてを失いました。ヨブ記のテーマは「正しい者がなぜ苦難に会うのか」です。それは、世の常識では答えはでません。ただ、聖書だけが「主が彼になさったことの結末を見た…主は慈愛に富み…」と記すのです。私たちもなぜ自分だけがこんな苦しみを味わわなければならいのかと思うことがあるかもしれません。でも、苦難に無意味なものはありません。神は、その一つ一つを覚えていてくださって、ご自身を信頼して耐え忍ぶ者を必ず顧みてくださる方なのです。箴言16:9「その人の歩みを確かなものにするのは主である。」主はあなたの忍耐を決して忘れることはありません。ここに耐え忍ぶ者の幸いがあるのです。
駅までのまっすぐな道を「教会ロード」と勝手に呼んでいます。今日も二人の姉妹が教会掃除に来てくださいました。こうした影の奉仕に教会は支えられています。「小事に忠なる者は大事にも忠なり」明日は主日礼拝。
今日は休日をいただいて、今年初の川釣りに行ってきました。紅葉が見事なこの場所で釣るのは三度目、でも、私の釣果はマス一匹だけでした…。一緒に行った方々はわんさか釣っていましたが。なにわともあれ、久々のいい気分転換になりました。
早いもので11月第一主日。今日は説教者に河野優先生をお迎えしました。新会堂建設の際には大変お世話になった先生です。夜の夕礼拝には初代牧師の娘さんが約15年ぶりに教会を訪ねてくださいました。
京都でキッズ&ファミリーフェスティバルvol.2が開催されました。パワーアップしたスタッフと協力教会によって迫力あるキッズフェスタとなりました。今回もたくさんの子どもたちが信仰決心に導かれました。
英会話のChapel timeでした。レイチェル先生が、神さまの恵みをカップケーキの上のトッピングを用いて表わしてくださいました。カップケーキはその後のティータイムで美味しくいただきました。感謝します。
午後から台風接近のため暴風雨となりましたが、オープンチャーチを予定通り行いました。悪天候にも関わらず多くの来会者があり、おいしいコーヒーに素晴らしい演奏の数々…心も身体も温まるアットホームな良い時間でした。
「為すべき正しいことを」(ヤコブ4:7-17)メッセージ要約
『こういうわけですから、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。』
今日は宗教改革記念礼拝でした。マルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に九十五箇条の提題を掲示してから500年という年月が過ぎました。当時の人々にとって、カトリック教会を批判するルターの行動は、あまりにも無謀なことでした。でも、ルターにしてみれば「聖書と明白な理性に基づいて説得されないかぎり、自説を取り消すことはできない」とまさに為すべき正しいことをしたに過ぎなかったのです。それはいつの時代も変わらない聖書の原則でもあります。この罪と争いと悲しみに満ちた今日の私たちが為すべき正しいこととは何か…。ヤコブの勧めから三つのことを心に留めましょう。
一つは神に従い神に近づくことです。「従う」とは自分の思った通りのことでなくても、神のご意志なら喜んで服従することです。また、「神に近づく」とは、自分の罪深さを認めつつ、神の赦しときよめを求めて神を呼び求めることです。私たちは罪の自覚が深まれば深まるほど、それを赦してくださる神の恵みの偉大さを知るのです。二つ目は主の御前にへりくだることです。私たちはみな、罪を悔いて神に近づく時、自ずと自分の罪深さと悲惨さに向き合わなければなりません。その上で、そんな自分を受け入れてくださった主を覚えつつ、主の恵みに信頼して生きることです。三つ目は命のかぎり御心に歩むことです。ヤコブは、「明日のことは誰にもわからない」と警告を与えます。でも、神は、そんな滅びに向かうしかなかった私たちのために、ご自分のひとり子であるイエス・キリストを十字架にかけ、救いの道を開いてくださいました。私たちの人生は、神の大きな御手の中にあるのです。ルターは、「たとえ明日、世界の終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植える。」と言いました。悪いことを知って、それを行なわないだけでは不十分です。正しいことを知りながら、それを行なわないことが「罪」となるのです。最後の審判の日、神の前に立つ者に問われるのは、「どんな良いことをしたか」ではなく、「どんな良いことをしなかったか」です。時代がどうあっても、私たち一人一人も、神の御心にかなった為すべき正しいことをしようではありませんか。
今年は鉢植えでモミの木を育てることにしました。モミの木は、常緑樹としていつも青々としていることから「永遠のいのち」を象徴します。「神は…世を愛された。それは御子を信じる者が…永遠のいのちを持つためである。」それはクリスマスの素晴らしいメッセージです。教会のモミの木、見に来てください。
水曜祈祷会にボブ師とマイク神学生が来会してくれました。マイク兄には救いの証しをお願いしました。彼は、自分はクリスチャンだったけれども、信仰はなかったこと、神さまに喜ばれない人生を歩んでいたこと…でも、神はそんな自分といつもともにいてくださったことを正直に話してくれました。21歳、これからが楽しみな、実に爽やかな青年でした。
昨夜は台風21号の影響で暴風雨となり、たまたま宿泊した大江戸温泉が全館停電という貴重な体験をしました。でも、翌朝は青空が広がり、箕面の街並みも一際美しく見えました。さあ、日曜日はオープンチャーチです。
キッズ&ファミリーフェスティバルvol.8がありました。雨の中でしたが、300名を越す方が来場されました。また、日曜日はオープンチャーチの準備。一人一人が心を込めて皆さまをお迎えします。
「成熟したキリスト者とは」(ヤコブ3:1-18)メッセージ要約
『義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。』
「口は禍のもと」政治家や有名人が失言や暴言によって責任をとらされるという話しをよく耳にしますが、私たちも不用意な言葉で、相手を傷つけたり、関係を悪くしてしまうことがあります。それは、いつの時代も共通する人間の本質的な問題です。ヤコブは「言葉で失敗しない人がいたら、その人は…完全な人です。」と記します。「完全な人」とは、完全無欠の人格者というより、大人の成熟したキリスト者をさす言葉です。どうすればそんな人になれるのか…。聖書から三つのことを心に留めましょう。
まず第一は、言葉で失敗しない人はいないことです。ヤコブは、「教師」または、自称「教師」を名乗る者たちに向かって、その言葉の持つ責任の重さを教えています。さらに教師だけでなく、すべての人に共通することとして、言葉で失敗をしない人がいないことを断言します。箴言にも「すべて利口な者は知識によって行動し、愚か者は自分の愚かさを言い広める。」とあります。私たちもまず、一度口に出した言葉は自分の手に負えなくなること、取り返せなくなることをよくわきまえておきたいものです。二つ目は、舌を制御するためには心を変えることです。ヤコブはここで、馬や船の譬えを用いて、「舌」の持つ影響の大きさを語っています。その上で、その舌を自分で制御することはだれにもできないと断言しています。イエスさまも、「心に満ちていることを口が話すのです。」と言われました。「言」という字は(中国おける)「口から出てくる心」という意味を持つそうです。表面的に言葉だけを整えるのではなく、根本的に自分の心の中を神への賛美と感謝でいっぱいにしましょう。三つ目は、神からの知恵をいただいて行動することです。ヤコブは、イエスさまのような柔和で、神に喜ばれる生き方をしなさいと語ります。それには、上(神)からの知恵を求めなければなりません。そして、観念的な思いで終わるのではなく、実際的な結果として実を結んでいくことです。もちろん信仰生活においては、種蒔いて実らず、水蒔いて育たず…と感じることもあるでしょう。でも、神はそのように生きるキリスト者を、成熟したキリスト者となるまで導かれ、さらにその人を用いて思いも寄らない豊かな「実」を結ばせてくださるのです。私たちも、あきらめずに一歩ずつ、成熟したキリスト者を目指して歩んでいこうではありませんか。箴言4:23
英会話教室の子どもたちは、まさによく遊びよく学ぶ子たちです。クラスとクラスの間の10分間にみんなで真剣勝負の卓球タイム。クラスが始まっても、ホゼア先生の楽しいジョークでみんなの笑いが絶えません。
今日の祈祷会では、エゼキエル27章から「人生を哀歌としないために」というテーマで、ツロに悔い改めを迫る神の言葉を読みました。私自身の内にも、神の前に高ぶる思いがあることを示され…ただただ、悔い改める恵みを思いました。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言18:12)
礼拝ではヤコブの手紙から続けてメッセージをしています。マルティン・ルターはこの書簡を「藁の書」と言うほど問題視したようですが、果たして本当に問題があったのか…。何はともあれ、今年は宗教改革500周年を迎える節目の年。気持ちも新たに、久しぶりの聖書を学ぶ会に向けてレジュメを準備しました。
「生きて働く信仰」ヤコブ2:14-26
『人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。』
マルティン・ルターがカトリック教会に送った「九十五箇条の提題」は、ヨーロッパ全土を巻き込む宗教改革運動へと発展し、やがてプロテスタント教会が誕生していきました。その中心は何と言っても「聖書のみ」「信仰のみ」「恵みのみ」です。それは現代の教会も受け継ぐ重要な教義です。ただヤコブの手紙には、それとは反対の言葉が書かれているようにも思えますが、実は一貫したテーマであることを教えているのです。ここから「行ない」と「信仰」の関係について、私たちも大切なことを心に留めましょう。
一つは、「行ない」がない言葉だけの「信仰」についてです。ヤコブは「だれかが信仰があると言っても」と記します。口で言うだけなら誰でも言えますが、大切なのは、その信仰が生活と行動のあらゆる面において、神の喜ばれる御心を求めているかです。知っているのと、生きているのは別問題なのです。言葉だけの信仰に気づいたら、まず悔い改めましょう。二つ目は、「行ない」によって現わされる「信仰」です。信仰は目に見えないものですが、行ないによって確かめることができるでしょう。ですから、「信仰さえあれば、行ないはどうでもいい」という考えは気を付けなければなりません。もちろん、霊的に疲れているなら無理は禁物ですが…神の前に静まって、今の自分に何ができるかを聞いてみましょう。三つ目は、「行ない」によって全うされる「信仰」です。ヤコブは旧約聖書のアブラハムの例を挙げて語っています。アブラハムは望みえない時に望みを抱いて信じたことが(神の前に)義と認められました。その後、失敗と挫折を繰り返して、ついに息子イサクを捧げよという神の命令に従うことができたのです。ヤコブが注目したのは、信仰から生み出される行動です。まさに「信仰」と「行ない」は、人が神を体験する両面なのです。私たちもみな、神の一方的な愛と恵みによって救いにあずかります。そして、そんな私たちの人生には、神が良い行ないをも備えて導いてくださるのです。ある神学者も言います。「神の愛は、条件なしに無償で与えられる。神からもっと愛されるために、あるいは愛されなくなるために、自分でできることは何もないのだ。」私たちがこの方を愛する生きた信仰をもっていれば、自ずと為すべきことも見えてくるのです。
真夏のような日差しに恵まれた宣教区スポーツ大会。いつもより少し参加人数は少な目でしたが、良い交わりでした。ただ…参加人数と試合時間、試合数など、それは時に後半のケガ人にも繋がることも学びました。
今夜は中秋の名月で、なんとも美しいお月さまでした。「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。」…詩篇のみことばが頭に浮かんできました。また、祈祷会で開いたピリピ2:6-8「キリストの謙卑」にも心を打たれました。この十字架を見上げるお一人一人の心に神の愛が照らされますように。
牧師館の引っ越しが終わって、やっと落ち着いて机に向かう環境が整ってきました。もともと書斎派ではないのですが、いつか時間ができたら読みたいと思って買った本が…「積読」されています。明日は礼拝。説教準備のため、聖書とじっくり向き合うこの時間が一番恵みの時間です。「みことばを実行する人に…」原稿完了しました。言行一致でいきたい。
「みことばを聞くとは…」(メッセージ要約)ヤコブ1:19-27
『また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。』
新会堂建設もひとまず終わりを迎えました。ただいくら外側が完成しても、大事なのはその内側です。同様に、私たちの信仰も、どんなに外側がよく見えても、内側の実生活が伴っていなければ、ひとたび問題が起きた時、いとも簡単に崩れ去ってしまうのです。
ヤコブは、国外で試練の中にあるキリスト者たちに「試練に会うときは喜びと思いなさい」、そして「信仰さえあれば行いはなくてもよい」という誤った考えを正し、「試練の中でこそ本物の信仰者であれ!」と手紙を書きました。現在は、多様性、あらゆるものが相対的な時代です。ただ…それゆえに真偽が問われる時代でもあるでしょう。本物の信仰者とはどういうものか。それは、何よりみことばをしっかり聞くということが原点です。このことをテーマに、ヤコブの3つの勧めを心に留めたいと思います。一つは、みことばを素直に受け入れることです。心に湧いてくる汚れた思いを捨て去って、神のみことばを素直(柔和な)心で聞きたいものです。聞くには早く、語るには遅くです。二つ目は、みことばを聞いたら実行することです。みことばは読んだり聞いたりするだけで満足してはいけません。自分に当てはめ、実行してこそ価値があるのです。三つ目は、みことばを互いに分かち合うことです。神との関係を優先するあまり、隣人への必要に全く関心を示さないとか、逆に家族や友人との関係を優先しすぎて、神との関係を疎かにしているとか。そのどちらに偏ってもバランスを欠いた信仰生活になってしまいます。みことばは神との関係において、隣人との関係において、互いに分かち合ってこそ値打ちがあります。大丈夫!その思いも、聖霊が与えてくださいます。主なる神に期待して歩んでいきましょう。
今日は文句なしの秋晴れ!雲一つない青空をバックに思わず写真を撮りました。奇麗な教会です。朝晩も涼しくなり、半袖では寒いくらいになってきました。さあ、いよいよ伝道の秋。イエスさまを宣べ伝えるすべてのクリスチャン、すべての集会が用いられますように祈っています。
今日は十字架の下に新しい看板がつきました。もっと明るいうちに写真を撮りたかったのですが、あれこれしている間に気づけば夜…。また今夜の祈祷会は大学生が8人も来るという賑やかな集会となり、みんないろんな意見を聞けて楽しかったです。彼らのような青年が日本のキリスト教会の希望の光になってほしいですね。
教会の横にあった立派な庭木(ヤシの木)4本を伐採しました。毛虫が大量に発生していたことと、ここを耕していつか作物でも植えたいと思ったからです。教会の青年に手伝ってもらって(少し無謀な挑戦でしたが…)なんとか片付きました。まだ根株が残っていますが。自然の力って本当に凄いです。
もう秋だなと思ったら、また夏の暑さが戻ってきたような強い日差しでした。でも、確実に肌に当たる風は秋の涼しさを感じます。この時期、こんな天気なので風邪をひいている方も多いようです。お天気一つでずいぶん気分も左右されることを感じます。それでも教会にくると不思議な力と平安に包まれます。やはり神の言葉には力がありますね。
「試練を喜ぶ信仰」(メッセージ要約)ヤコブ1:1-12
『試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。』
主の兄弟であり、エルサレム教会の重要な指導者でもあったヤコブが書いた手紙です。彼は冒頭で、「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」と自己紹介をしています。ここにも、彼のへりくだりと謙遜さを見るように思います。彼は国外で試練の中にある同胞のキリスト者たちを励まし、正しい信仰のあり方を伝えるためにこの手紙を書きました。
ここで言う「試練」という語は、二重の意味をもつ言葉で、「試練」とも「誘惑」とも訳せる言葉です。つまり、一つの出来事が外的には「試練」であるとともに、内的には「誘惑」ともなり得ることを示します。まるでコインの表と裏です。あなたは「試練」を喜べますか。それはいかに信仰をもって受け止めるか否かにかかっているのです。今日は具体的に三つのことを心に留めましょう。一つは忍耐を十分に働かせることです。「忍耐」とはただじっと我慢するという消極的なことではなく、もっと堅実で確信をもって待つことです。二つ目は神からの知恵を求めることです。試練の中において、その意味と目的を判断するには、神からの知恵が必要です。神を疑いながらでは、確信は得られません。神に求める者は、神が与えてくださる方であることを知るのです。三つ目は正しい価値基準を持つことです。試練の中にあっても、キリスト者には恵みによる逆説があります。「貧しい境遇」にあっても、キリストにあってその人は高くされます。逆に、「富んでいる者」はキリストにあって低くされるのです。私たちに必要なのは、この世の富や身分に固執することより、イエスさまにある永遠の富に目を向けなければならないのです。キリスト者には試練があっても、その後に栄光が続きます。私たちもまた、試練の中でも忍耐し、約束の「永遠のいのちの冠」を目指して歩もうではありませんか。
9月も半ばを過ぎると、すっかり日が暮れるのが早くなりました。教会では、毎週夕方に英会話のKids classがあります。夏休みも終わって通常の生活になり、子どもたちも段々と落ち着いてきたように感じます。平日の木曜日、こうして地域の子どもたちが喜んで教会に通ってきてくれることが、何より嬉しいです。
夏期休暇(?)をいただいて、3週間ぶりの説教者としての講壇でした。牧師館の引越しの途中なので、説教準備に十分な時間をかけたとは言えず大変申し訳ないのですが…それでもまず自分自身が教えられることの多い箇所でした。聖書は実に奥深い。思えば、この部屋で聖書を読むのも今週限りになってきました。
「七度を七十倍するまで」(メッセージ要約)マタイ18:21-35
『あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようにしたのです。』
今朝はイエスさまがペテロに話された譬え話に注目していきたいと思います。ある時、ペテロはイエスさまにこんな質問をしました。「主よ、兄弟たちが私に対して罪を貸した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」すると、イエスさまはこう答えられました。「七度まで、などどわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」そして、そのことをより具体的に教えるためにこんな譬え話をされたのです。
ある王がしもべたちに貸したお金を清算することにしました。最初に連れて来られたのは、一万タラント(大変な金額)を借りた人でした。彼はその時とても返済できる状態ではなかったので、ひれ伏して「もう少し待ってください。そうすれば全部お支払いいたします」と懇願しました。すると王はかわいそうに思って(心から同情して)、その借金を免除してあげたのです。話はそこで終わらず、その借金を免除されたしもべが外に出ると、自分が百デナリ(普通の金額)を貸していた仲間のしもべに出会い、首を絞めて、「借金を返せ」と取り立てました。仲間のしもべも、あわてて「もう少し待ってくれ」と懇願しましたが、彼を問答無用で投獄してしまったのです。この一部始終を別の仲間たちが王に報告すると、王はそのしもべを呼び出して、「私がお前を赦したように、お前も仲間を赦すべきではないか」と叱責して、結局、獄吏に引き渡したという話しです。
いつの時代も、人はみな罪を犯す性質を持っています。これについては誰も弁解の余地はないはずです。それも大抵は同じ種類の失敗で、公にならない限り、何度も繰り返す…というものではないでしょうか。「〇〇〇の顔も三度まで」と言いますが、それ以上の七度まで…と言ったペテロは自分の寛容さを示すつもりだったようですが、イエスさまは「七度を七十倍するまで」(無限に赦しなさい)と言われたのです。それは、「赦し」に関する一般的な道徳論ではなく、人間と神との関係、また神の赦し、そして神が私たちに何を期待しているかを教えるためです。つまり、私たちが神に対して莫大な負債(負い目)があること、また神は御子によってその負債を赦してくださったこと、そして神の赦しと人間の赦しは表裏一体であることです。借金を免除されたのは、私でありあなた自身です。願わくは私たちも、神の憐みによって赦された者として、私たちの周りの人々にも怒りの波紋ではなく、赦しの波紋を広げていこうではありませんか。
あわただしかった8月も今日で終わり。外にいると、どこか風も涼しく感じました。教会前のベンチで本でも読みたいものですが…今日から十字架のライトアップを始めました。見る方の心にも世の光が灯りますように。
今日の献堂式には100名を越す方が出席してくださいました。主の御名を高らかに賛美し、力強く御言葉が語られました。ご出席くださった方々、お祈りくださった方々に心から感謝いたします。
リフォーム工事が始まってから70日目。ついに内装・外装・看板など、すべての工事が完了しました。なんとか明日の献堂式に間に合ってよかったです。今日は20名近くの方が奉仕にしてくださって、みんなで準備をしました。牧師館の引っ越しは妻の体調不良もあって9月のはじめにしました。こちらはゆっくり準備しようと思います。
看板に十字架がつきました。教会の前を通る方々も立ち止まって眺めていました。ここまで一つ一つの工程が守られて感謝です。今日、ある先輩の先生から「神の国の拠点として大いに用いられますように」とお手紙と献金をいただきました。ますます主の恵みと真理を宣べ伝える教会として歩んでいきたいと思います。
教会の解体工事が始まった頃はどうなることかと思っていましたが、なんとかここまで守られてきました。まだ外看板は工事の途中ですが、今週、竣工検査を行って工事は完了です。妻の体調不良で、引っ越しは9月になりました。お祈りいただければ幸いです。
今日から外看板の工事が始まりました。猛暑の中での作業、工務店の方も大変です。内装工事は終わったのですが、まだカーテンを付けたり、荷物を片づけたり…と結構いろいろあります。献堂式は今度の日曜日。それまでには…と思って頑張っています。
今日は、山本和義先生が第二礼拝のメッセージをとりついでくださいました。自己紹介の「お証し」から深い釈義に基づく説教、時にユーモアを交えながら語ってくださいました。山本先生とは、TCIの家族寮の時からの知り合いで仲良くさせていただいています。今は、牧師職を休職されて一般の仕事に就いておられますが、もし教会の特伝などで良いメッセンジャーを検討されているようでしたら、ぜひお薦めしたい先生です。
今日、内装工事が完了。解体から大工仕事まで一緒にお手伝いさせてもらったので、なんだか終わりだかと思うと淋しい限りです。本当にお世話になりました。来週からは牧師館の引っ越しです。
献堂式まであと十日となりました。礼拝堂はほぼ完成したものの、多くの来会者をお迎えするにはもう少し準備が必要です。二階は納戸が完成したところで、工務店の方は夏休み。台所が未完成で、看板工事もこれからとのこと。英会話秋期コースのチラシ配布もまだまだ残っていますが、牧師館の引っ越し準備も始めねば…。暗闇の中に、教会の灯りがいい感じに輝いています。
足場もとれて、外壁の様子がはっきり見えてきました。これから二階に看板が付きますが、ひとまず一安心。午後からは何人かで教会案内と英会話のチラシ配布を行いました。暑い中、ご奉仕くださる方々の上に、神さまの豊かな祝福をお祈りします。
今日、外壁塗装が完了しました。あとは足場(夜中にトラックがぶつかったようです。近所の皆さま、ご迷惑をおかけしています)を外し、20日からは二階に看板を取り付ける作業が始まります。いろいろと思わぬことが起こるものです…。気を引き締めていかねば。
今日はKFSMの長田師がメッセージをとりついでくださいました。イザヤ30:15「立ち帰って静かにすれば」「落ち着いて信頼すれば」主の前に静まり、主を待ち望むことを教えられました。今週は長野行きもキャンセルしたので、少しペースを落として心身ともに休ませたいと思います。
冷蔵庫と食器棚が入って台所が完成しつつあります。前の教会では給湯室しかなかったので、みんな喜んでいます。午前中は夏の青空のもと墓前礼拝。家族思いだった姉妹の姿を思い浮かべながら、天の御国から「ありがとう」という声が聴こえてきそうでした。
外壁塗装のために20日頃までこのまま覆われた状態になりますが、完成をお楽しみに。一階の礼拝堂は正面に十字架がつけられ、100インチのスクリーンも入ってほぼ完成。新しい会堂をぜひ見に来てください。
今日から外壁工事が始まりました。二階の内装工事もまだ来週ごろまでかかりそうです。8/27の献堂式に間に合うかどうかというところ。お祈りください。また、この日曜日には午後から囲碁クラブがとても盛り上がりました。初心者にも愛をもって手加減なしです。ついでに今年も水曜祈祷会の後に誕生日を祝ってもらい、夫婦でペアのTシャツを着せられることに…。決して、自分たちで買ったわけではありません。
新会堂に移ってからの最初の主の日を迎えました。新しい会堂に賛美が響き渡り、まだどこかぎこちなさもありますが、新鮮な気持ちで礼拝をささげました。子どもたちの礼拝でもみんなよくお話しを聞いていたようです。
今日は入れ代わり立ち代わり多くの方が手伝いに来てくださいましてありがとうございました。本当に怒涛の一週間でしたが、なんとか落ち着いて礼拝を捧げられる体制が整いました。体の疲れはピークを迎えていますが、やはり夢にまで見た新会堂での礼拝…感無量です。このまま泊まっていきたいくらい離れがたいですが、明日のメッセージの準備が家で待っています。
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