カテゴリ:2024年上半期



2024/05/09
5月第二水曜祈祷会、日中は汗ばむような陽気でしたが、夕方からはぐっと肌寒くなりました。寒暖差がある時期、体調にはお気をつけください。聖書は出エジプト記24章を読みました。ここでいよいよ神と民との間における契約が結ばれるところです。契約とは、二人以上の人もしくは二つ以上のグループの間における協定(同意)、または盟約であり、それぞれが両者が何をすべきかという条件に示されています。神は民に対して祝福と助けを約束し、民は神に対して従順を約束しました。モーセはいけにえの血の半分を取って祭壇に振りかけ、後の半分を民に振りかけました。「見よ、これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」新約時代のイエスさまのことばを思い起こします。イエスさまは人となって、私たち人間側の神への背きの罪を身代わりに背負ってくださいました。時々ある方から『キリスト教の救いは無料なんですよね』と質問されることがありますが、決してそうではありません。パウロも「あなたがたは…代価を払って買い取られたのです。」と告げました。私たちもこの体をもって神のご栄光を現しましょう。
2024/05/06
5月第一主日、初夏を思わせる暑さの中、今日も子どもからご年配の方まで多くの方が礼拝に集われました。メッセージは使徒3章から。生まれつき足の不自由な彼は毎日『美しの門』の側に座って行き交う人に施しを求めていました。彼はすでに40歳を過ぎていたとあります(4:22)。ここまでどんなに辛い人生を歩んできたのでしょう。でも、その日はペテロたちと出会った彼にとって忘れることのできない日となりました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」彼にとって本当に必要だったのは使えばなくなってしまうような金銀ではなく、イエスさまの御名を信じて立ち上がる信仰でした。イエスさまは今も私たちのために日々とりなしの祈りをしてくださっています。ですから、イエスさまの御名で祈る祈りには力があるのです。今週はゴールデンウィークということもあって、遠方からも久しぶりの方が来られました。午後からは青年たちを中心に卓球で汗をかき、夕礼拝にも三人の方が来てくださり、じっくりメッセージに聴き入りました。今日も恵みに溢れる一日に感謝いたします。
2024/05/04
教会のデボーションは出エジプト記21章から。十戒を受けた後、23章まで『契約のことば』が語られていきます。神によって贖われた民は主のために聖別された民として、律法の下に生活することになります。中でも「目には目を、歯には歯を。」は有名です。損害を受けたら、二倍、三倍にして返したくなるのが世の常ですが、それでは事態は悪化の一途を辿ります。今も昔も聖書が最も求めているのは報復ではなく、むしろ、愛を持って善を行うことです。
2024/05/02
先日、詩画作家・星野富弘氏が天に召されました。事故で体にハンディキャップを負いながら、多くの作品を通して神の素晴らしさを証しされました。今は天で、イエスさまから「善かつ忠なる僕よ」と労いの言葉を頂いていることでしょう。さて、5月第一水曜祈祷会は、出エジプト記19章から。『神に会う備えをせよ』というテーマでした。私たちもみな、やがては神の御前に立つ時が来ます。その時、顔をあげて、主とまみゆるように心備えが必要です。
2024/04/29
4月第四主日、今日も温かな日射しが差し込む教会で、主なる神に礼拝を献げました。メッセージは使徒の働き2章から。使徒たちはイエスさまが言われた通り、父なる神の約束を心を一つにして祈り待ち望んでいました。五旬節の日、エルサレム神殿は大勢のユダヤ人たちで賑わっていたでしょう。すると天から突然、激しい風、炎のような舌が一人ひとりの上にとどまり、使徒たちはみな、御霊が語らせてくださるままに他国のことばで話し始めたのです。視覚にも聴覚にもはっきりとわかる圧倒的な出来事でした。御霊に満たされたペテロたちは立ち上がって、旧約聖書の預言の成就であること、ナザレのイエスこそメシアであってその方を殺してしまったこと、悔い改めて、バプテスマを受けることを大胆に語りました。こうしてその日、3000人が救われて最初の教会が誕生したのです。聖霊は巡礼に来ていたすべての人に自動的に降られたのではなく、ひたすら約束を待ち望む者たちの間に降られました。このペンテコステの出来事は一回限りのことですが、聖霊の働きは今も私たちの間で継続しています。百聞は一見に如かず。ぜひお近くの教会に足を運んでみてください。
2024/04/26
教会のデボーションは詩篇49篇から。葬式の際にもよく読まれる詩篇です。すべての国々の民に共通するのは死の問題です。死は人生の教師として重大ななぞを投げかけます。死がすべての人の終りであるが、死はすべてのことの終りであろうか、と。この世でどんなに富を得、成功を収めたとしても、富はたましいを救うことはできず、死の力に勝たせてはくれません。「しかし 神は私のたましいを贖い出し よみの手から奪い返してくださる。…人は死ぬとき 何一つ持っていくことができず その栄誉も その人を追って下ることはできない。」どんなに大事なものでも、死に際して人は何も携えて行くことができません。「富」そのものは悪ではありませんが、大事なのは、栄華の中にあっても神を忘れないこと、神に望みをもって、神とともに生きることです。神との交わりは地上の生活に喜びを与え、死の恐怖に怯える必要がなくなります。イエスさまも「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」と教えられました。慌ただしい毎日、少し心を休ませて、自分が歩んでいる道は、悟りのない人生か、価値ある人生かを自問自答したいものです。
2024/04/24
4月第四水曜祈祷会、出エジプト記17章から。エジプトから救い出されたイスラエルの民は荒野に導かれ、食糧、飲み水の問題を通して霊的な訓練を受けました。状況が悪くなるとすぐに不平を訴える民でしたが、主は見離さずにご自身が必要を満たされることを教えられました。また、アマレクとの戦いではとりなしの祈りの大切さを示されました。私たちも互いに支え合い、祈り合っていきたいものです。
2024/04/22
4月第三主日、今日から創立31周年の新たな歩みが始まります。神さまがどんなご計画を立てているのか楽しみです。先立つ主に期待して前進していきたいと思います。礼拝メッセージは使徒の働き1章から。復活の主は昇天されるまでの間、弟子たちとともに過ごし、神の国のことを語り、そして、父の約束を待ちなさいと命じられました。教会の原点、信仰生活の原点、それは祈りつつ待ち望むことからです。
2024/04/20
温かい陽気に教会の花たちもいい表情です。さあ、教会の31周年の歩みが始まりました。何事も始めが肝心。“A good beginning makes a good ending”...
2024/04/18
今週の水曜祈祷会は出エジプト記12章を読みました。いよいよ第十の災禍がエジプト全土を襲います。主はその前にイスラエルの全会衆に「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ」と告げられました。新しい出発の時を新しい暦の始まりとしたのです。主はこの時、過越のいけにえと種なしパンの祭りを祝うように命じられました。人々は主がモーセとアロンに命じられたとおり、家族ごとに、一人ひとりが傷のない一歳の雄の子羊を食べ、その血を鴨居と二本の門柱に塗り付けました。真夜中になって主はエジプトの地のすべての長子をみな打たれましたが、イスラエルの民は守られました。するとファラオもついに観念し、モーセたちを呼び寄せて「私の民の中から出て行け。…そして私のためにも祝福を祈れ。」と言いました。エジプトの最高権力者は最後まで自分で祈ろうとはしませんでした。その悔い改めが本物ではなかったということです。こうしてイスラエルの民は壮年男子だけで60万人、さらには女性、子ども、外国人、家畜…と大集団でエジプトを脱出していきます。想像を絶する主の御業がまさにこの日に実現するのです。

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