カテゴリ:2021年上半期



2021/06/30
教会のデボーションはⅡ歴代誌7章から。ダビデから王位を継承したソロモンは神殿建築に心血を注ぎ、見事に完成させました。6章のソロモンの奉献の祈りはまさに万民待望の思いがつまった力強い祈りです。あらためて主の宮は神と人とが出会う場、祈りの家であることがわかります。「わたしあなたの祈りを聞き、この場所をわたしにいけにえを献げる宮として選んだ。」今の私たちには、教会こそ、その祈りの家です。ここから4年前の献堂式のことを思い返しました。教会はなんのためにあるのか…。もちろん、そこで神に礼拝をささげることが中心です。ただ…ややもすると人間的な思いに偏り過ぎる傾向があるようにも思います。居心地の良さ、兄姉に会える、聖歌が歌える、説教を聞くこと…なども、大事な要素です。でも、それだけにとどまるなら不十分と言わざるを得ません。私たちの教会は、何より神と人との出会いの場、祈りの家であることを心に留めたいものです。
2021/06/26
6月第四主日、礼拝に来会者が来られて教会に活気が戻ってきました。三部に分かれてではありますが、最初の会衆賛美で信徒の皆さんの声が聞こえてきた時、心に込み上げてくるものがありました。当たり前ではない現実をかみしめながら、いつもとは違った緊張感でお話をさせていただきした。コロサイ人への手紙4章2節から。「たゆみなく祈りなさい。感謝をもって、祈りつつ、目を覚ましていなさい。」パウロの宣教に欠かせないのが祈りです。祈りによって宣教の門が開かれ、祈りによって支えられていることを実感していたのでしょう。コロサイの教会の状況も思い浮かべながら、やはり最後は祈りの大切さを言わずにはおられなかったのだと思います。祈りは私たちの祈りを聞いて答えてくださる神の力です。そして、祈りは神との交わりであると同時に、信徒同士の交わりでもあることを、今日はあらためて感じました。主日の豊かな恵みに心から感謝いたします。
2021/06/26
人が一生のうちで出会う人数は…いろいろ個人差もあると思いますが、限られているのは間違いありません。その中でも親しい関係になる人、友人になる人と言えば、全人口から考えたらほんの一握りでしょう。そう思うと、出会いは何と尊いものかと思えてきます。私は26歳の時に初めて教会に行きましたが、それから多くの方と知り合うことができました。かけがえのない友人や神の家族もできました。本当に一つ一つの出会いを、主に感謝しています。一方で、『会うは別れの始め』という言葉も頭に浮かびます。信仰者は天での再会の希望もありますが、地上で友人や家族がそばにいる、顔をあわせられる、それは決して当たり前のことではありません。緊急事態宣言が解除となり、私たちの教会も明日から少しずつ来会を再開していきますが、これまで以上に一回一回の主日の大切さを心に留めつつ、有り難い…という言葉の重みを感じつつ、明日の礼拝を待ち望んでいます。
2021/06/25
ハートフル英会話も対面でのクラスが再開しました。久しぶりにお顔を見る方もいて、やはり顔をあわせることの有難さを思いました。大人もキッズも春期クラスは残り4回ですが、体験クラスも受付ておりますので興味のある方は教会までご連絡ください。教会のディボーションはⅡ歴代誌3章になりました。ダビデから息子のソロモンに王位が継承され、いよいよイスラエル民族の念願とも言うべき神殿建設が始まります。「ソロモンは、エルサレムのモリヤの山で主の宮の建築を始めた。そこは、主が父ダビデにご自分を現され、ダビデが準備していた場所で…」モリヤの山と言えば、先日の旧約聖書を学ぶ会でアブラハムが息子イサクを捧げた場所、また、父ダビデが罪を犯し、悔い改めの祭壇を築いた場所です。献身と悔い改めがなされてきた場所に、主の宮が建設されていく…その意味を考えるように、聖書は今日の教会を建てあげる私たちにも語っているように思います。
2021/06/23
今日は緊急事態宣言解除後の初めての水曜祈祷会がありました。特に今回は国外宣教デプテーションとして、タイ宣教師の河野師にメッセージと宣教報告をしていただきました。創世記12章から、約束の地で大飢饉にあったアブラムが陥ってしまった失敗と、タイで先生ご自身が陥ってしまった失敗を重ね合わせて、人間が取り返しのつかないと思うような失敗の中にも、主は介入してくださって、再び原点に立ち返る機会を与えてくださること…それがどんなに大きな恵みであるかを語ってくださいました。「しかし、主は…」という御言葉が心に残りました。祈祷会の後は、現地から河野師と奥さまにもつながっていただいて、一緒に恵みの分かち合いの時間を持ちました。タイも日本もまだコロナ禍にありますが、こうしてオンラインの形式で交わりがもてるのは本当に幸いなことです。続けて海外でご奉仕くださっている宣教師の先生方、ご家族を覚えてお祈りしています。
2021/06/22
川の深い所には波が立たないが、浅い所にはいたずらに波が立ち騒ぐ。信仰生活にも同じようなことが言えるかもしれません。今日は月に一度の旧約聖書を学ぶ会。アブラハムの生涯を一章ずつ学んできて、いよいよ22章を迎えました。アブラハムは神の召命に応えて行き先もわからず信仰の旅に出発し、途中、失敗することもありましたが、その度に神の約束と励ましによって導かれてきました。これらの出来事の後、アブラハムに人生最大の試練が訪れたのです。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。」神の命令は…なんとも不条理な、普通ならとても従い得ない命令でした。でも、アブラハムとイサクはただ従順に神がお告げになった場所に行き、イサクに刀を振り下ろしました。神はそんな信仰の親子をずっと見守り、助け出されたのです。イエスさまの十字架の死がいかに尊いことか…信仰の世界の奥深さを学ばされました。
2021/06/22
わかりにくいですが…今箕面は蛍が見頃です。ゆらゆらと幻想的な光を放ちながら飛び周る姿に、来週にはもう見られないのかなと思うと…『ありがとう』という気持ちが自然と湧いてきます。教会のデボーションは使徒の働き12章になりました。ヘロデ王は十二使徒のひとりヤコブを殺し、次に最有力のペテロまで殺しそうとしました。でも、神は教会の祈りに答えて不思議な方法で彼を救い出されたのです。教会が、ヤコブが殺されてもあきらめずにペテロのために祈り続けたのが印象的でした。一方のヘロデはペテロが牢からいなくなった責任を番兵たちのせいにして処刑してしまいました。煌びやかな洋服を着て人前に立つヘロデを、人々は「神の声だ。人間の声ではない。」と称えました。でも、次の瞬間、ヘロデは虫に食われて息絶えたというのです。最後まで神に栄光を帰さなかったヘロデ…その死はなんとみじめなものでした。主にあって生きる者になりたいものです。
2021/06/20
6月第三主日、さわやかな空が広がる朝でした。礼拝メッセージはコロサイ人の手紙3:18から。キリスト者の実際的な生活の勧めとして、パウロは3つの人間関係を挙げて記していきます。妻と夫、子と親、奴隷と主人。当時、立場の弱かった者たちにも一人ひとりに呼びかけるように記しているのが印象的でした。キリスト者の人間関係は決して一方的に義務を押し付けるものではありません。この手紙の執筆がAD61年ごろとすると、いかに聖書の教えが変わらない原則であるか、現代はおろか未来までも見据えたものであるかを思わされました。自分自身はどうなのか…と問われながら説教準備をし、不十分な自分を顧みて、語ることに躊躇を覚えましたが、主の赦しと憐れみの中で講壇に立たせて頂き、何より自分自身が教えられることの多い箇所でした。緊急事態宣言も今日で解除となり、長かった来会自粛も解除となります。今週もお一人ひとりの歩みが守られますように。
2021/06/16
6月第三水曜祈祷会。デボーションは使徒の働き10章に戻りました。サウロの回心に続いて、ペテロの宣教に焦点があたります。アイネヤの癒し、タビタの生き返り、そして異邦人伝道の先駆者となる百人隊長のコルネリウスの救いへと展開していくところです。神はコルネリウスとペテロと両方の幻に現れて、二人を出会うように導かれました。コルネリウスには会ったこともないペテロを招きなさいと、ペテロには(きよくない動物)を屠って食べなさいと、どちらの命令も簡単には受け入れ難いことでした。でも、二人が言わば「おことばですので…」と踏み出した時に、思いもしなかった運命的な出会いとなったのです。同じ幻を三回も見た時、ペテロは何かを思い出したでしょうか。こうして神の導きを聖書のことばをもって読める私たちは何とも幸せな時代にいるなぁと思います。私たちも先のことはわからずとも「おことばですので…」と踏み出す勇気を持ちたいものです。
2021/06/14
6月第二主日、朝は小雨が降っていました。礼拝メッセージはコロサイ3:12から。新しい人を着たキリスト者の特性について、パウロはあらためて3つのことを記しました。神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者。いずれも神の側の一方的な恵みによるもので、私たちの信仰がいかに受身的であるかがわかります。そのことを確信した上で、主が赦されたように、主の平和が心を支配するように、主のことばが豊かに住まうように、すべてを主イエスの名において行いなさいと勧めています。「ことばであれ行いであれ、何かをするときには…」一つ一つを考えると、確かに簡単なことではありませんが、まずはできるところからやってみることも大切です。何より、その方向性を知っているのと知らないのでは全く違います。まずキリスト者としての自分を神がどう見てくださっているのか、どう愛してくださったのかを深く知っていくことが信仰生活の第一歩だと思います。

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