カテゴリ:2023年上半期



2023/06/13
『もし今日が人生最後の日なら、自分は何をするだろうか…』スティーブジョブスがある大学の卒業式で行ったスピーチの一言です。私も50歳を過ぎた頃から、あと何回礼拝でメッセージができるかを考えるようになりました。過去の説教原稿も全部残しているので、同じ説教箇所に当たると、過去の自分の未熟さと再会することになります。今もそれほど変わってないのかもしれませんが、もし成長しているのだとしたら、主の憐れみと未熟な牧師の説教を17年間も聴き続けてくださった教会のおかげです。最近は一緒に教会生活を送ってきてくださった兄姉の中にも高齢になるにつれて礼拝に通いにくくなっている方もいます。教会は年配の兄姉のこの先のことも具体的に考えて行かなければと思わされています。同じ主の日は二度ときませんので、今日が地上で一緒に献げられる最後の礼拝だとしたら…と思って、講壇に立ち、ベストを尽くし、交わりを持っていきたいと思います。
2023/06/12
6月第二主日、梅雨らしい曇り空の一日でした。礼拝ではⅠペテロ2:11からメッセージを聴きました。クリスチャンは天に故郷があり、地上では旅人、寄留者ですが、異邦人の中にあって立派に振る舞いなさいというペテロの勧めが心に残りました。ペテロは、手紙をの受取人たちが、異教社会の中で言われのない迫害に遭っていることを知っていながら、それでも人が立てたすべての制度に主のゆえに従いなさいと記したのです。「自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。」この自由は自分の我を通すことや罪を言い逃れるための自由ではなく、神を愛するがゆえの神の御心に従う自由です。神のしもべとして、自分を愛してくださる方に喜ばれる歩みをしていきたいものです。今日の午後は囲碁・将棋クラス、バイオリン教室、夕礼拝がありました。夕礼拝もゆっくりメッセージを味わうとてもいい時間です。どなたでもお越しください。
2023/06/10
イエスさまはペテロに「わたしをだれだと言いますか」と聞かれました。そこでペテロが「あなたは生ける神の子キリストです」と答えると、イエスさまは「あなたは幸いです」と言われました。イエスさまはキリスト教の教祖でもなければ、被造物の中で最初に造られた方でもありません。「わたしを見た人は、神を見たのです」とある通り、イエスさまは神ご自身である方です。イエスさまの神性や先在性は聖書の幾つもの箇所で啓示されていますが、今もそれを誤って解釈している方々がいます。先日も教会の前を通られた二人組の女性とこの件について話す機会がありましたが、自分たちの独自の解釈をひとしきり話された後は、私の話しは殆ど聞いてくれませんでした。他にも、輸血拒否の問題、児童虐待、排斥問題、選民思想、誤った終末論…など聞きたいことはいろいろありましたが…少し立ち止まって、他の考えにも謙遜に耳を傾けることも必要なのではないでしょうか。
2023/06/08
6月第一水曜祈祷会、朝はヨシュア記11章から、夜はヨハネ13章から御言葉を心に留めました。イスラエルと戦うためにハツォルの王ヤビンを中心に北部同盟軍が集結し、陣を敷きました。すると主はヨシュアに「彼らを恐れてはならない。明日の今ごろ、わたしは彼らをことごとく…」と告げられました。海辺の砂のような大軍勢、馬や戦車も非常に多い北部同盟軍を前に、身震いしない者はいなかったでしょう。でも、ヨシュアを筆頭にイスラエルの民は勇敢に戦い、主が告げられらた通りに行って大勝利を治めたのです。私たちも神のすべての武具を身にまとい、信仰の戦いに勝利していきたいものです。夜は最後の晩餐の席でイエスさまが弟子たちの足を洗われたところを読みました。主の十字架の愛がこれほど胸に迫って来る箇所はありません。「今はわからなくても、後で分かるようになる…」イエスさまが最後に示された愛の模範をいつも思い起こす者でありたいものです。
2023/06/07
教会のデボーションはヨシュア記10章から。ヨシュア記はパレスチナにおけるイスラエルの民の戦記です。主はイスラエルの民がエジプトにいた時、乳と密の流れるカナンの地を与えると約束されました。ところが、そこは決して乳と密の流れるようなのんびりした楽園ではなく、すでに彼らが移住する余地もないほど先住民が住んでいたのです。従って、彼らはその約束の地を戦いによって勝ち取らなければなりませんでした。思えば、使徒パウロも「私たちは、神の国に入るのに、多くの苦しみを経なければならない」と語っていました。同じように、私たちも今日戦わずして神の嗣業を受け継ぐことはできないことを覚えておきたいものです。クリスチャンになれば何もかも人生が上手くいくわけではありません。むしろ、信仰ゆえに問題は多く感じるかもしれませんが、神のいない人生ほど虚しいものはありません。神がいるからこそ、私たちが受ける苦難には意味があるのです。
2023/06/05
6月第一主日、礼拝メッセージはⅠペテロ2章1-10から。「純粋な、御言葉の乳を慕い求めなさい」「霊の家に築き上げられ」「この方に信頼する者は決して失望させられることがない」「あなたがたは選ばれた種族」など大事な御言葉が幾つも出てくる箇所でした。ペテロは旧約聖書を上手に引用してキリスト者としての特権と使命を伝えています。当時の異教社会の中で迫害にあっていたキリスト者たちも、改めて今自分たちは神の民であり、憐れみを受けた者であることを確認し、力づけられたことでしょう。それはそのまま今日の私たちクリスチャンへのメッセージでもあります。私たちがクリスチャンになったのは神の栄誉を告げ知らせるためですというのが心に響きました。今日は午後から久しぶりに教会ピクニックに行きました。梅雨の晴れ間、近くの唐池公園でお昼ご飯を食べ、子どもたちは元気に走り回り、大人たちもゆっくり交わりを持つことができて感謝でした。
2023/06/01
ヘレンは視覚と聴覚の重度のハンディキャップを持ちながら、3つの博士号と、3か国語をマスターした「20世紀の奇跡」とも言われた方です。彼女はサリバンというクリスチャンの家庭教師と出会い、人生が大きく変わりました。サリバンは聖書を読んだことがない、教会に行ったこともない彼女にどうやって神さまのことを教えられるだろうか…思案していました。そんな時、ある牧師がサリバンに言います。『心配いりません。目が見えず、耳が聞こえず、話すことができなくても、人間である限り、彼女にも必ず神さまのことがわかります。』ある日その牧師がヘレンのもとを訪ね、サリバンの掌にする通訳を通して熱心に信仰について話すと、彼女はこう言いました。『先生。私はそのことを前から知っていました。ただ、その方が神さまという名前であることを今初めて知りました。』その場にいた人々はみな驚いて神を崇めたそうです。今日はそんな彼女の天国凱旋日でした。
2023/05/31
5月第五水曜祈祷会、朝はヨシュア記6章から御言葉を心に留めました。難攻不落のエリコの城壁を前に、主はヨシュアに言いました。「見よ、わたしはエリコその王、勇士たちをあなたの手に渡した。」つまり主の目にはすでにエリコは陥落し、ヨシュアの手に渡していると言われたのです。後はヨシュアたちがその約束を信じて前進するだけでした。私たちも目の前に大きな問題が立ち塞がっても、主のことばに愚直に従う信仰を持ちたいものです。また、イエスさまはペテロとヤコブとヨハネを連れて高い山に登り、光り輝く姿に変貌されました。それを見たペテロは何を言ったらよいか分からなくなるほど恐怖に打たれたとあります。すると雲の中から「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」という声を聞いたのです。神は私たちの頭の中だけの方ではなく、実際に現れてくださる方です。今日は久しぶりに安宣教師とテファン兄が朝の祈祷会に来てくださいました。
2023/05/30
今日は午前にキリスト教葬儀社ライフワークスのYouTube撮影がありました。『葬儀』の視点から地域教会を紹介するという企画です。結婚式にもキリスト教式、神前式、人前式があるように、葬儀式にも仏式だけでなく、キリスト教式があることを知ってほしいと、私は常々思っています。規模は違いますが、先日のエリザベス女王の国葬がTV等で放映され、キリスト教式葬儀の素晴らしさを知った方も多くいます。教会によって若干考え方の違いはありますが、まずは相談してみて頂けたらと思います。また、午後は『旧約聖書を学ぶ会』がありました。創世記48章から、ヤコブは自分の死期が近づく中で、二人の孫を引き寄せて、頭に手を置いて祝福を祈りました。そこで普通なら右手(権威を示す)を兄マナセの上に置くところを弟エフライムの上に置いたのです。なぜと思うところですが、この辺りが神の選びの不思議さです。一筋縄でいかないところが聖書の奥深さなのです。
2023/05/29
5月第四主日、蛍池聖書教会の森田悦弘師をお迎えしてメッセージをとりついで頂きました。詩篇23篇から、私たちには人生の羊飼いである方が必要であること、主は私たちのために先々に恵みを準備してくださっていることを語ってくださいました。私たちが恵みを求めて探し回るのではなく、羊飼いである主がすべてを準備をして、それがまるで自分を追いかけてくるようだというのです。人生は、緑の牧場や憩いのみぎわばかりではありません。むしろ、わざわいや死の陰の谷を歩むような時があります。それでも主がともにおられるという慰めと平安が私たちにはある、わが杯はあふるるなり、です。終始穏やかな口調で、丁寧に語ってくださったのが印象的でした。私は蛍池聖書教会のオープンチャーチ礼拝でメッセージを取り次がせていただきました。温かい雰囲気の教会で幸いな交わりをさせていただきました。私たちの教会にいた姉妹にも久しぶりに会えて感謝でした。

さらに表示する