2021年の年の瀬を迎えました。教会のデボーションは詩篇106篇から。詩人は「ハレルヤ」という賛美の勧めから、イスラエルがいかに神との契約に不忠実に歩んだか、一方で主はご自身の契約に忠実であられたことを記しました。「しかし主は、御名のゆえに、彼らを救われた。」「それでも、彼らの叫びを聞いたとき、主は彼らの苦しみに目を留められた。」民の不忠実にも拘わらず、主はその憐れみと赦しをもって彼らを導かれました。この忍耐深い主の愛の中に、自分も生かされていることを思いました。今年もコロナ禍に振り回されながらも、多くの恵みと祝福をいただいて、一年を終えることができることを感謝いたします。新しい年も変異株の広がりなどが懸念されますが、世がいかに揺れ動いても、変わらない神の導きに期待して歩んでいきたいと思います。今年もブログを見てくださって本当にありがとうございました。皆さま、どうぞよいお年をお迎えください。
12月第五水曜祈祷会、教会のデボーションは詩篇105篇から。「主に感謝し、御名を呼び求めよ。」詩人は、イスラエルの歴史を紐解きながら、アブラハムとの契約を実現される主のみわざを語りました。神は流浪の民だったイスラエルをエジプトに導き、そこで大きな民族とされ、そして今度はエジプトがイスラエルを嫌うようにされ、約束の地へと旅立つように導かれました。主のみわざはすぐに理解できるようなものもあれば、理解するのに忍耐を要するものもある。でも、何が起ころうと神の契約と約束は変わることがありません。良いことも悪しきことも主の御心のうちに行われる、主はご自分の民が苦しんでおられる時、いつも主も苦しんでおられる、主が苦しみを許される時には必ず何かの意味があることを思いました。今年もコロナ禍に振り回された一年でしたが、同時にすべてが当たり前ではない、恵みの中にいたことを学ばせていただいた一年だったように思います。
2021年最後の主日、少し小雪がちらつきましたが、青空が広がる爽やかな朝でした。度重なる緊急事態宣言、オリンピックの開催、ワクチン接種による混乱など、コロナ禍に振り回された一年が終わろうとしています。礼拝メッセージはルカ17:20から、『神の国はいつ来るのか』というパリサイ人の問いかけにイエスさまが答えられた箇所。彼らは目の前に救い主イエスさまが来られているのに、神の国が始まっていることがわかりませんでした。「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」神の国、神のご支配は、主を信じる者たちの心に、交わりの中にすでに変化を起こしていました。それは今日でも、御言葉に生きる者たちを通して広げられているのです。人の子の日(主の再臨)の到来は、それがいつなのかは誰にもわかりませんが、その日が来たら誰の目にも明らかに認められます。終末のメッセージは、裁きの預言であると同時に、確かな救いへの招きの言葉なのです。
Merry Christmas!今年も御言葉の朗読とバイオリンの調べで、イエス・キリストのご降誕を思い巡らしました。イエスさまは神ご自身である方なのに、神としての威光も栄光も権威もすべて捨てて、人間の赤子となってお生まれになりました。しかも、そこは立派な宮殿でもなく大邸宅でもない、暗く貧しい悪臭の漂う馬小屋の飼い葉桶でした。御使いは告げました。「それが、あなたがたのためのしるしです。」イエスさまはローマ帝国に変わるこの世の王となるために来られたのではなく、全人類を罪とその裁きから救うために来られました。人はみな、生まれてきた本来の目的を見失って、それぞれ自分勝手な道を歩んでいます。自分の命をどう使おうと勝手なこと…一度しかない人生、楽しまなければ損…。そんなキリストの誕生など喜ばない人間の声が聞こえてくる中に、イエスさまはお生まれになられたのです。本物のクリスマスの喜びが皆さまの心にありますように。
12月第四水曜祈祷会はハガイ書から。バビロン捕囚から帰還したユダの民は、エルサレム神殿の再建に着手しました。でも、難民同然の彼らは、経済力も技術力も乏しく、おまけに隣国からの妨害も受けて数年で工事は頓挫してしまいます。月日は流れ、主は預言者ハガイを通して、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュア、さらには民の残りの者に向かって悔い改めと励ましのメッセージを告げられました。「あなたがたの歩みをよく考えよ」「強くあれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ」「今日から後のことをよく考えよ」「わたしがあなたを選んだからだ」ハガイはこの4つの御言葉を中心に、ユダの民を鼓舞し、再び神殿再建へと立ち上がらせていくのです。彼らにとって『神殿』は、神の臨在の象徴であり、神を礼拝し、神との出会いの場所でした。私たちも神との関係を後回しにしないで、主の臨在に励まされて、今日から後のことをよく考えて歩んでいきたいものです。
アドベント第四週、クリスマス礼拝を献げました。ルカ17:11~、イエスさまがエルサレムへ向かう途中、ある村でツァラアトに冒された10人と出会い、言葉一つで癒された記事をみました。彼らはみなイエスさまの言葉をそのまま信じて行動した時、癒しを経験したのです。どんなに喜んだでしょう。でも、話しはそこで終わりませんでした。その内の一人が大声で神をほめたたえながら戻ってきてイエスさまに礼拝を献げました。九人は癒しの事実だけを喜んだのに対し、彼だけは癒しを行ったイエスさまを喜んだのです。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」彼はこのイエスさまの祝福の言葉を受けて、新しい人生を歩み出していきました。人生のターニングポイントがあります。クリスマスはChristとmasの合成語。キリストのいないクリスマスはただ雰囲気を楽しむだけのお祭りに過ぎません。ぜひ教会で本当のクリスマスを喜び祝いましょう。
昨年はやむなく自粛しましたが、今年は感染対策とケーキなしで、ハートフル英会話クリスマス会を行いました(子どもたちはごめんなさい)。まずは卓球で体を動かしてから、クリスマスバージョンのUNOで盛り上がりました。もちろん英語です。今日は二つのクラスが合同でしたので、いろいろな方の話しが聞けていつも以上に楽しい時間でした。途中、ウクレレとホルンの演奏でクリスマスキャロルを賛美したり、レイチェルさんのバイブルメッセージでクリスマスの本当の意味についてお聴きしました。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」コロナ禍も今は落ち着いていますが、世界を見れば…まだまだこの先どうなるかわかりません。また、日本国内でも変異ウィルスのオミクロン株の感染が広がりつつあります。このクリスマス、一人でも多くの方に本当の大きな喜びが届けられますようにお祈りしています。
12月第三水曜祈祷会、ヨブ記40章から。主の創造の偉大さを知ったヨブは、やっと自分がいかに取るに足りない者であるかを知ることができました。神はそんなヨブに向かって、さらに倫理的な側面から語りかけていかれます。そこから、河馬、レビヤタンという神秘的な怪物(高ぶりの象徴)をあげて、それらを造られた神を不義に定める愚かさを指摘されました。結果として、主はヨブの苦しみの問いに直接答えることはされませんでしたが、最後にはヨブを悔い改めへと導かれ、ご自身をより深く知る者としてくださったのです。主はヨブが苦しんでいる時もともにおられ、ともに苦しんでおられました。まさにヨブの苦しみは、主ご自身の苦しみだったのです。「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。」ヨブがあれほどの苦しみを通して導かれたこの告白を、今日私たちが恵みによって告白できる幸いを思わされます。
教会のデボーションはヨブ記39章に入りました。長い沈黙を破ってついに神が語りかけられます。それは『なぜこれほどの苦しみにあわなければならないのか』というヨブの問いに答える形ではなく、神の方からの「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。」という問いかけです。神がどのように地の基を定めたか、どのように測り縄を張ったか、自然界の法則、動物たちの養いなど、神の創造の偉大さがことごとく語られていきます。およそ人知をはるかに超えた主のはかりごとです。ヨブに答えられるわけがありません。でも、これによってヨブは自分の小ささをいやというほど示されます。その一方で、偉大なる神がこんな小さな自分と関わりをもってくださっていることにも気づかされていくのです。山は近づけば近づくほどその大きさを知ると言いますが、神の偉大さも知れば知るほど…言葉では表しきれません。でも、その方が今日も語りかけてくださる恵みを感謝します。
アドベント第三礼拝、メッセージはルカ16:19から。金銭を好むパリサイ人たちはイエスさまの「神と富とに仕えることはできない」という話しを聞いてあざ笑っていました。なぜなら彼らは、富や豊かさは神の祝福の表れであり、律法を守っている自分たちこそが天国に行けると思っていたからです。イエスさまはそんな彼らに、ある金持ちとラザロの話しをされました。金持ちは毎日ぜいたくに遊び暮らし、貧しいラザロは金持ちの施しに頼って生活していた。しばらくして二人に死が訪れ、ラザロは御使いに迎えられアブラハムの懐に、金持ちはハデスの炎で苦しんだという話し。ラザロとは神は助けという意。イエスさまのたとえ話しで名前で話されるのは珍しいことです。人はみな、どんなに裕福でも貧しくても、ただ神の憐れみによって生かされていることを忘れてはなりません。神は心の貧しさ、砕かれた心をご覧になられることを、慰められたラザロから教えられました。
12月
12月第二水曜祈祷会、ヨブ記36章から。苦しみのどん底で、自分の潔白を主張し、神よりも自分自身のほうを義とするヨブに向かって、エリフはこう言います。「神は苦しむ人をその苦しみの中で助け出し、抑圧の中で彼らの耳を開かれる。」神は人を苦しみから助け出されるのではなく、その苦しみの中で助け出されるというのです。苦難は様々な形で、すべての人の人生に予告なしで襲ってきます。その時、神は何をしておられるのですかと思わず叫びたくなるのではないでしょうか。でも、苦難の中でこそ、私たちの心が神に向き、その御声を聞こうと心の耳が開かれることもあるのです。大事なのは、苦しみや不条理は神から出ているのではないこと、その人が悪を行った結果でもなく、ましてや神からの罰でもないことです。神は苦しみの中でこそ私たちとともにおられるお方です。今日は祈祷会に来られた方々の様々な証しを聞く時となり、生ける真の神を心に覚えました。
今日は朝から冷たい雨が降る一日でした。教会のデボーションはヨブ記35章~。苦難の中で、神よりも自分の方が正しいと思っているヨブに向かって、エリフの言葉が続きます。彼は、人はみな、苦しみの中で泣き叫んだり、助けを叫び求めりするものですが、本当の意味で神を求めているのではないと言います。それは言わば本能的なものであって、信仰を働かせての祈りではない、今のヨブはそのような人々と同じではないかというのです。このようにヨブを責めた後で、エリフはこう諭しました。「しかし訴えは神の前にある。あなたは神を待て。」神はご自分のしもべの叫び声を聞き洩らすような方ではない、神はご自分から関わりを断ち切ることはない、私たちの救いのためにはどんな犠牲を払うことも厭わない、だから神を信頼して待ち望めと諭したのです。祈っても状況が変わらないと思う時こそ、私たちが真の信仰を養う時。私たちの祈りは神の御手の中にあるのです。
アドベント第二礼拝。メッセージはルカ16:1から。イエスさまの教えの中でも最も難解なたとえの一つです。主人の財産を勝手に使ってしまった管理人は、主人にそのことを知られてしまい、クビにされた時のために債務者たちに恩を売って後で面倒を見てもらうように考えました。主人はこの不正な管理人が賢く行動したのをほめたという話しです。なんとも首をかしげてしまうような話しですが、実はそういう所ほど気づかなった恵みを発見したりするものです。「不正の富で自分のために友をつくりなさい」「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり」「神と富とに仕えることはできません」たとえ話しの後のイエスさまの解き明かしの中に、著者ルカの独特な視点が感じられ、私自身は非常に教えられました。久しぶりのメッセージ後のグループタイムでも多くの感想があがり、分かち合いも祝福されたようです。今日も恵みに溢れた主の日を感謝いたします。
長年パキスタン、アフガニスタンで人道支援に尽力してこられた中村哲医師が武装集団の銃撃を受けて召天されてから二年が経ちました。耳を疑うような信じられないニュースでした。中村さんは医師でありながら自ら重機を操作し、『100の診療所より一本の用水路』を合言葉に、1600本の井戸を掘り、全長13kmもの用水路を築き、東京ドーム3500個分にあたる1万6000ヘクタールの土地をよみがえらせ、60万人以上の命を救いました。そんな中村さんはクリスチャンでありながら、イスラム教徒が祈りを捧げるモスクやマドラサ(神学校)を建設して地元の人々を励まし元気づけたそうです。まさに敬天愛人に生きた中村さんの功績はこれからも世界中の人々の心にずっと生き続けることでしょう。「神の御心は何か、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるように…」明日はアドベント第二礼拝。ぜひお近くのキリスト教会に足を運んでみてはいかがでしょう。
12月第一水曜祈祷会、ヨブ記32章から。なぜ善人が苦しみにあわなければならないのか。三人の友人たちは、苦難の原因は罪の結果であると主張し、ヨブに悔い改めを迫りましたが、ヨブは自分の正しさを主張するばかりでした。すると側でずっと聞いていたエリフが業を煮やして語り出します。エリフは、ヨブが神よりも自分の方を正しいとしたことや、ヨブの不義を認めながら言い返せない三人の友人たちにも怒りを燃やしました。こうして堰を切ったようなエリフの言葉が続き、もはやヨブは何も言い返せませんでした。「確かに、人の中には霊があり、全能者の息が人に悟りを与える。」天からの知恵こそがあらゆる難題を解決する力です。確かにエリフの言葉は、正論でした。ただ、彼の言葉が苦難の中で痛み悲しんでいるヨブに、どう聞こえたのかは疑問です。結果として、三人の友人もエリフも、ヨブの立場に立って考えるという視点が足りなかったのではないでしょうか。
教会のデボーションはローマ16章から。パウロ神学を代表する書簡。信仰義認を中心に、一人で読み理解するには難解なところもあったのではないでしょうか。ただ、この終わりのところに関しては、普通の手紙と同じように「…によろしく伝えてください。」と教会や一人一人の顔を思い浮かべるように挨拶を記していて親しみやすいところです。パウロがいかに多くの人のために祈っていたのかがわかります。「どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」手紙を受け取った教会でも、あらためてパウロ先生の働きを覚えて祈ったことでしょう。昨日は私たちの教会を会場に、教団の教職教育部がありました。今年度の報告に始まり、次年度に向かっての審議が長時間に渡って行われました。コロナ禍でZoom会議が続いたので、対面会議は久しぶりでした。関東から新潟から、このために来てくださった先生方のご労と献身に心から感謝いたします。
11月第四主日、秋晴れに天気でしたが、頬に当たる風が一段と冷たく感じる一日でした。今日からアドベント(待降節)。礼拝ではルカ15:11~32から『二人の息子と父の愛』をテーマに御言葉を学びました。弟は父の財産を分けてもらうと遠い国で、湯水のように使って、やがて大飢饉が起こると豚の世話をするはめになり、食べるのにも困り果てました。でも、彼はその人生のどん底で父のことを思い出します。「立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。』」来る日も来る日も父は息子の帰りを待っていました。だから、彼の姿を見つけると、まだ遠かったのに、父はかわいそうに思い、駆け寄って彼を抱き、口づけしました。そして、急いで彼のために一番良い服、指輪、履き物を用意し、子牛を屠って祝宴を始めたのです。神の無条件の愛…。何度読んでも新しい感動が胸に迫って来るところです。
今年もアドベント(待降節)の時期を迎えました。アドベントとは、「到来、到着」を意味します。明日からクリスマスイブまでの4週間、救い主イエス・キリストのご降誕を待ち望む期間です。日曜日ごとに一本ずつローソクを灯していきます。教会でキリストの到来について語る時には3つの意味を持っています。それは、2000年前、誕生によって来られたこと、今日私たちの心のうちに来られること、終わりの日に栄光のうちに来られることです。聖書には、「昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」とあります。私たちにとって最も大事なのは、クリスマスをただの年中行事として迎えるのではなく、その本当の意味を知って迎える時、その人の心にキリストは住んでくださることです。Christmasとは、キリスト(Christ)のミサ・礼拝(mass)という意味です。教会の新しい一年はこの日から始まります。ぜひお近くのキリスト教の教会に足を運んでみてはいかがでしょう。
教会では毎週木曜日にハートフル英会話教室を行っています。今日も教室からなごやかな会話と子どもたちの元気いっぱいの声が聞こえてきました。中には海外生活をされていた方や留学をされていた方もおられ、文化や習慣の違いなどを聞くこともあります。また、海外旅行のためや仕事で使うため、英語を忘れないためなど、目的もさまざまです。講師の先生はクリスチャンですが、受講される多くの方はクリスチャンではないので、教会に来るのは初めて、聖書を見るのも初めて…という方もおられます。牧師としてはそうした方とちょっとした休憩時間にお話しするのも楽しみの一つです。仏教を信じる方も神道を信じる方も、物は試しで何でもお気軽にご質問ください。ある時は『教会でもクリスマスをやるの?』と聞いてくれたお友だちもいました。教会はクリスチャンだけでなく、どなたにも開かれた場所です。本当のクリスマスの意味も、ぜひお話しできたらと思います。
11月第四水曜祈祷会、朝から抜けるような青空が広がりました。ローマ14:9「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」聖書では『死』に3つの意味を示しています。肉体の死、霊的な死、永遠の死(第二の死)。人はみな、やがていつかは肉体の死を経験しなければなりません。でも、クリスチャンはイエス・キリストを信じる信仰によって霊的な死から解放されています。また、キリストの十字架の贖いによってすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられ、永遠の死からも解放されているのです。それゆえ肉体の死は永遠の死に至る門ではなく、天国への門に過ぎません。ここに生きるにしても、死ぬにしても、主のためにという生き方の土台があります。今日の祈祷会も、まずみことばの分かち合いに恵まれ、祈りのうちに主のものとされている幸いを思いました。
11月第三主日、収穫感謝礼拝。礼拝はルカ15:1−10、いなくなった一匹の羊を捜し回る羊飼い、なくした一枚の銀貨を熱心に捜す女性の姿から、イエスさまの譬えを学びました。そこから主は今も失われた人を捜しておられること、一緒に喜びを分かち合われること、罪人が悔い改めることを待っておられることを心に留めました。一人でも多くの方にこのメッセージが届くように祈ります。そして、今日も礼拝後に二名の兄姉の入会式がありました。『あなたは、神の子イエス・キリストの十字架の贖いによって救われたことを確信しますか』という問いかけに、『確信します』とはっきりお答え頂きました。いつもこの誓約の時が、牧師として一番胸が熱くなります。メッセージの通り、一緒に喜びを分かち合うことができて本当に感謝でした。午後は来週から始まるアドベントに向けて大掃除&クリスマスの飾りつけ、夕方は青年たちと卓球で汗を流し、恵まれさまの一日でした。
「私は何とかして自分の同胞にねたみを起こさせて、彼らのうち何人かでも救いたいのです。」キリスト教における『救い』とは…?私は25歳まで聖書を読んだことも教会に行ったこともなかったので、最初は違和感がありました。法にふれるような犯罪を犯しているわけでもないし、人から後ろ指を指されるようなこともしていないし、普通に人は死んだら極楽に行くものだと思っていました。でも、今から25年前、教会に行くようになって、礼拝や聖書を通じて、あらためて人はみな罪人として生まれてくること、神の怒りの下にあって、病気でもなく寿命でもなく、裁きとしての死を迎えなければならないことを知りました。そして、人はみな何かの功徳を積んだり、正しく生きることによってではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われることを教えて頂いたのです。百聞は一見に如かず。まだ…という方は、ぜひ近くのキリスト教会に足を運んでみてください。
11月第三水曜祈祷会、教会のデボーションはローマ10:14~。人は、律法の行いよるのではなく、キリストを心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのですとあります。そして、信じるためには聞かなくてはならない、聞くためには宣べ伝える人がいなくてはならない、宣べ伝えるには遣わされなくてはならないと諄々と記していきます。伝道は、私たちの熱心さや言葉の巧みさが重要なのではなく、最終的には聖霊のお働きによるものです。それでも『伝道はどうも苦手で…』『伝道はしないといけないことですか…』と言われるクリスチャンの方は少なくありません。伝道ってなんだろう。今日はそんなことを素直に語り合う機会になりました。「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」私たちにとって最も大切なのは聖霊の助けを祈り求めることです。何はともあれいつもそこから始めたいものです。
11月第二主日、ルカ14:15~「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」パリサイ派の指導者の食事会に来ていたある客は、どこか誇らしげにそう言いました。でも、イエスさまはそんな彼に向かって、神の国の食卓に招かれる者について譬えをもって話されました。神の目は、自分にはその資格があるとおごり高ぶる者ではなく、招かれる資格などないとへりくだる者たちに注がれていること、「まだ席があります。…私の家をいっぱいにしなさい。」と神が万事を備えてくださっていること、そこにあなたも来なさいと招いてくださっているとは、まさに幸甚の極みです。今日はいつも祈り深く謙遜な姉妹の転入会式といつも小さな教会を駆け回る子どもたちの祝福式がありました。午後は役員会でクリスマス&次年度に向けての話し合い、夕方は久しぶりにお会いするご家族としばしのお交わり、夜は青年たちと賑やかな夕食に…。今日も恵みいっぱいの主日でした。
横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されてからまもなく44年を迎えます。当時13歳だっためぐみさんは部活の終わった帰り道、自宅まで200mという場所で失踪しました。すぐに新潟県警や機動隊による懸命な捜索活動がなされましたが、拉致事件が判明したのはそれから20年も後のことでした。なぜこんなことが起きるのか…自分が悪いのか、先祖が悪いのか…絶望の淵に立つ早紀江さんに、ある宣教師が聖書を手渡しました。しばらく読む気にはなれなかったそうですが、ある時ヨブ記を読んで『私の苦しみがここにある』と教えられたそうです。その後、早紀江姉はクリスチャンとなり、その33年後にご主人の滋さんも病床洗礼を受け、天に凱旋されました。明日は滋兄の誕生日。苦しみの理由、それは人間には理解できません。しかし、主はご存知であり、ともに苦しんでおられる。今はただ、めぐみさんの帰りをひたすら待っておられるご家族のために心からお祈りしています。
今週月曜日に関西キリスト災害ネットワーク・第五回懇談会がありました。『この町に教会があってよかった。ー大規模災害災害に備えて、防災の視点でー』をテーマに田村治郎氏の講演を聴きました。今回の出席者は21名、ここまで累計で100名を超える先生方が出席してくださったことになります。本当に感謝です。災害はいつ起こるかわかりません…。南海トラフ大地震も今後30年以内の発生確率は70~80%と言われています。防災士の方も言われました。『もし天気予報で降水確率70~80%と言ったら当然備えをするはず。災害もこの感覚が大事です。』そして『地震10秒診断ーもしもあなたの町で地震が起こると?』『東京備蓄ナビ』という興味深いアプリをご紹介くださいました。無料ですので、ぜひお試しください。今日も教会ではハートフル英会話があり、大人クラスからは楽しそうな笑い声が聞こえ、キッズクラスにも新しいお友だちが来てくださって感謝でした。
11月第二水曜祈祷会、ヨブ記29~31章。「あのとき」と幸いな生活を振り返り、「しかし今は」と悲惨な現状を語り、「私は自分の目と契約を結んだ」と自らの潔白を主張するヨブの姿を黙想しました。ヨブの幸いな生活の土台は、家族の多さや財産の多さの前に、神との親しい交わりがあったことでした。また、ヨブにとって最も悲惨な状態とは、神に向かって叫んでも、神が何もお答えにならないことです。次第にヨブは自分の潔白を主張することで、神の側に問題があることを訴えていました。神はなぜヨブをこれほどの苦しみにあわせたのか…。それは私たち人間には理解できないことです。でも、イエスさまは言われました。「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」十字架への道を歩まれたイエスさまは、試練がなくなるようにではなく、信仰がなくならないように祈られました。ここに一つの答えがあるように思いました。
11月第一主日、実るほど頭を垂れる稲穂かな…。ルカ14:1~、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」イエスさまは食事会に客として招かれた人たちにたとえを話されました。自分から上座に座ってはいけないこと。なぜなら、自分にはその資格があると心の中で思っている人は、反対に神の前で認められないからです。また、食事会に人々を招く主人にも話されました。もてなしをするなら、友人や家族やお金持ちよりも、貧しい人たちや体の不自由な人たちの方が幸いだということ。なぜなら、その人たちはお返しができないので、終わりの日に、神が報いてくださるからです。イエスさまが教えられたのは、単なる処世訓のようなものではなく、もっと深い霊的な真理、言わば御国での食卓の話しでした。今日は聖餐式の恵みにもあずかり、午後からは役員諮問会がありました。三人の兄姉の立派な信仰告白に心も体も満たされました。
『ここはかみさまがすんでいるおうちなんだよね』教会の前を通る小さなお子さんがお母さんと話しているのが聞こえました。ここに教会があることを地域の方が心に留めてくださっていたら感謝です。お掃除をしているとご近所の方と挨拶を交わしますが、なかなか教会には用事がなくて…信仰心もないし…でも、クリスマスには行こうかしら…と声をかけてくださる方もいます。ぜひ用事がなくても、信仰心がなくても、気軽に立ち寄って中を覗いてみてください。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」聖書の神さまは、人間が作った家にはお住みにはなりません。なぜなら神はこの天地万物を造られ、私たち人間を造られた方だからです。そのあまりにも偉大なる神さまのことを、どこで聞いたらいいのでしょうか。百聞は一見に如かず。ぜひ日曜日の礼拝に足を運んでみてください。
11月の第一水曜祈祷会はヨブ記23章から。エリファズの三回目の語りかけも、ヨブを励ますことはできず不毛に終わりました。ヨブも根拠のない罪を責められ、もはやエリファズへの反論をあきらめ、神への独白のように語り出します。「ああ、できるなら、どこで神に会えるかを知って、その御座まで行きたいものだ。」人に理解されない苦しみを、ヨブは神ならきっとわかってもらえると思います。でも、どこを探しても神を見つけることができない…神は全くご自分を隠されてしまった…。ヨブの苦しみは、ここにありました。「しかし、みこころは一つである。だれがその御思いを翻せるだろうか。」神の計画は変わらないが、自分は神の前に黙ることはできない…神にこの苦難の説明を求めたいというのです。今日は祝日だったので、普段あまり来られない方も祈祷会に来てくださって深い分かち合いとなりました。難解なヨブ記を身近に感じることができたことを感謝します。
教会のデボーションはヨブ記21章になりました。二度目のツォファルの語りかけに対するヨブの答えです。絶望の淵に立つにヨブに、友人たちはなんとかして彼を慰めようと説得を試みます。そこでヨブはこの二度目の会話の終わりに、自分が必要としているのは安易な慰めの言葉ではないこと、ましてや説得や非難を受けることなどではないと訴えます。自分の語ることに耳を傾けてほしい…それを自分への慰めにしてほしい…と。友人たちの説得は、不幸が誰かを襲うのはその人が神と人間に対して罪を犯したからだ、悪しき者は裁きを受けるということです。ヨブの答えは、では…私は悪しき者なのか、悪しき者だって長寿を全うし、子孫も財産も与えられている、それが現実ではないかということです。あらためて祝福と繁栄とは何かを考えさせられます。困難の中でこそ、この世の価値観に振り回されないようにしたいものです。主は言われました。「心の貧しい者は幸いなり」
10月第五主日、今日も子どもからご年配の方まで多くの方々が集われました。1517年10月31日、ルターはカトリックの免罪符に対する反論として95ヶ条の公開質問状を張り出しました。このニュースは瞬く間に全ヨーロッパへ広がり、プロテスタントの狼煙ともなりました。そこから約500年の歳月が過ぎますが、日本のクリスチャン人口は未だ全体の1%にも満たない状況が続きます。まさに日本でクリスチャンになるのは狭き門と言わざるを得ません。でも、その狭き門を見出し、そこを入口として救いの道を歩み出す人は幸いです。狭き門とはイエス・キリストです。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。」大事なのは入口です。宗教はみなどれも同じではありません。最初のボタンの掛け違いはその後ずっと間違えたままです。今日、苦難の中を通らされても、ともに歩む者は少なくても、あなたはわたしに従いなさいと主は招いておられるのです。
今、日曜礼拝ではイエスさまの生涯を記した福音書から学んでいます。生前イエスさまはどのような言葉を語り、どのような歩みをされたのかを読むと教えられることがたくさんあります。ただ、その頃の弟子たちはイエスさまが語られたことを正確には理解していませんでした。イエスさまが召された後、初めてその言葉と行動の意味を理解したのです。私たちも時に、言われたそのときに言われたことを理解できるとは限りません。その人が亡くなってある年月を経て初めてわかることもあります。私も父を天に見送って16年…。父が何気なく話していた言葉が今になって響いてくることがあります。『人と人との関係はどちらかが亡くなっても続きます。続くだけでなく、深まってもいきます。』最近読んだ本の一節が心に残りました。確かにそうだなと思います。ああしておけばよかった…と考える日々もありましたが、今は父が願うであろう自分として歩みたいと願っています。
10月第四水曜祈祷会、教会のデボーションはヨブ記17章になりました。誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていたヨブがなぜこれほどの苦難にあっているのか…。友人たちは、ヨブが神に背いて罪を犯したから神の裁きが下ったのだとヨブに悔い改めを迫ります。しかし、ヨブにとって彼らの言葉は何の慰めにもなりません。むしろ、ヨブは自分の潔白を主張し、ますます絶望の淵へと追いやられていくのです。「いったい、どこに私の望みがあるのか。だれが私の望みを目にするのか。」自分の人生はもう終わったも同然、もはや何の望みもないと独白していくヨブ…。彼のように私たちも時に、神に嘆き苦しみを訴えるような、文句を言いたくなるような時があります。でも、それはつきつめれば心の奥底で神を信頼しているから、信頼したいからこその言葉ではないでしょうか。私たちの希望はイエスさまがいることです。この希望は失望に終わることがありません。
今日は朝から冷たい雨が降っていました。昨日の午後、納棺式の際に故人のお顔を見せていただきましたが、穏やかな優しい顔をしておられたので、今主の平安の中にいることを思いました。母教会の先生にも連絡をさせて頂いて洗礼志願書などをFAXで送って頂き、祖母から続くクリスチャンであったことがわかりました。教会生活はあまり熱心な方ではなかったようですが…クリスチャンの従妹の方とも電話で話すことができて、青年時代のこともよく教えて頂きました。ある牧師はこう言います。その人の一生の価値は、その人の働き盛りとかではなく、実にその人の臨終の枕元においてなされるもの…。葬儀の中で御言葉が語られ、永遠のいのち、天の故郷、天国での再会を心に覚えて、ご遺族の方々と讃美歌を歌いました。終わった後、列席者の方に「キリスト教の葬儀もいいもんやね」と仰って頂きました。とても慰めに満ちた葬儀になりました。お祈りを感謝いたします。
10月第四主日、すっかり秋の深まりを感じる一日…。礼拝メッセージはルカ13:10-21。イエスさまは安息日に、18年も病の霊につかれてきた女に声をかけられました。「女の方、あなたは病から解放されました。」彼女はイエスさまのことばを信じて、ただちに立ち上がって、神をあがめたのです。ここに安息日の本質があります。すなわち、安息日はただ習慣的・形式的に守ればいいものではなく、大事なのは『喜びの日』『栄えある日』とすることです(イザヤ58:13)。また、イエスさまは『神の国』について二つのたとえを話されました。『からし種』『パン種』はどちらも極小の種粒でありながら、大きな成長、大きな影響を与えるもの、そして、種自体に生命力があることを示しています。神の国はイエスさまの到来によって始まり、私たちのただ中にあって、今日も全世界で広がりつつ、変わりつつあるのです。礼拝後、今日は転入会式もあって祝福に溢れる一日でした。
以前、教会に来てくださっていたご家族から久しぶりにお電話をいただきました。それは『夫が天に召されました』という寂しい知らせでした。最初にご主人とお会いしたのは今から7年前で、教会のホームページを見て訪ねてくださいました。その時は、しばらく教会生活もお休みされていたようでしたが、少し懐かしそうに聖書や信仰のことについていろいろお話ししてくださったのを覚えています。青年時代、好きな女の子が教会に通っていて、彼女に惹かれて行ったのが最初だったとのこと…(よくある話しです)。それから、洗礼までどのように導かれたのかは聞いておりませんが、いずれにしてもクリスチャンになられたのは本当に幸いでした。聖書にはこうあります。「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。…その人たちはその労苦から解き放たれて安らぐことができる。」葬儀は月曜日になりますが、ご遺族の上に主の慰めと支えをお祈りいただければ幸いです。
10月第三水曜祈祷会、ヨブ記11章から。三人目の友人ツォファルが満を持してヨブに語りかけます。「ことば数が多ければ、言い返されないだろうか。人は唇で義とされるのだろうか。」先のエルファズ、ビルダデの語りかけに対し、ヨブは実に言葉巧みだと批判します。ツォファルも、ヨブの受けた災いはヨブ自身に問題があると見ていました。そして、二人の友人と同じく彼も、因果応報の考えに基づく神への悔い改めを、ヨブに迫ります。そうすればヨブの苦しみは取り去られ、その繁栄は回復されるのだというのです。最初から自分の答えを持っているツォファルの言葉は、たとえ正論だったとしても…ヨブの心を慰めるどころか、極めて辛辣なものです。こうして、ヨブはますます自分のことをだれも理解してくれないと思っていくのです。私自身も、知らず知らずのうちに聴き手になれず、正論をかざして相手を言い伏せてしまっていることはないか…考えさせられました。
10月第三主日、気持ちの良い青空が広がる一日となりました。礼拝メッセージはルカ13:1-9。イエスさまは群衆に向かって、ガリラヤ人たちが殺されたことやシロアムの塔が倒れて死んだ18人のことについて語られました。当時の人々は何かの災難が起こるとまず神罰を考えたようです。イエスさまはそうした考えを否定して、「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」さらにいちじくの木のたとえをもって、父なる神が忍耐して待っておられること、イエスさまがとりなし祈っておられることを教えられたのです。「今年一年そのままにしておいてください。…それで来年、実を結べばよいでしょう。」いちじくの木を徹底的に守ろうとするイエスさまの思いが、この言葉に表されています。それは、ご自身のいのちをかけてでも守ろうとする愛であり、このイエスさまの愛によって示される神の愛でもあります。この愛が、私たちにも向けられているのです。
ヨブ記7章。エリファズの言葉を受けて、ヨブはあなたに私の苦しみの深さがわかるのですかと反論します。そして、神の訓戒などいらないから、もう自分の命を絶ってほしいと嘆きます。やがてヨブの思いは、友人のエリファズから、神に向かって語り始めます。主のしもべとして生きてきたのに、今自分は家族も財産も何もかも失い、全身の病に冒され、あとは息のように儚く消え去るだけ…もはや再び幸いを見ることはない…というのです。「もういやです。いつまでも生きたくありません。かまわないでください。私の日々は空しいものです。」ヨブの一つ一つの言葉に、深い悲しみが迫ってきます。ただ…大切なのは、神はこのヨブの嘆きの祈りに耳を傾けておられることです。私たちも時に、苦しくて苦しくて生きてることさえ辛い夜が、だれにも理解してもらえないと感じる日々があるのではないでしょうか。「しかし私は、主よ、あなたに叫び求めます。…」(詩篇88:13)
10月第二水曜祈祷会、ヨブ記5章から。昨日に続いてエリファズのヨブへの言葉から学びました。エリファズは、不幸やわざわいは人間の罪の報いなのだから、激しく嘆いたり、神を呪ったりするのは間違っていると語りかけます。むしろ、神の叱責を受けるのは幸いなこと、神はただ懲らしめるだけではなく、その傷を包み、癒してくださる方だと言うのです。「私なら、神に尋ね、神に向かって自分のことを訴えるだろう。」エリファズは無意識のうちに、自分がもしヨブの立場だったらこうするのに…と自己の敬虔さを主張しました。痛みと悲しみの淵にあるヨブは、彼の言葉をどう聞いたのでしょう。まさしく傷口に塩を塗られるような思いだったのではないでしょうか。たとえ真実が混ざっているとしても、言葉には本当に気をつけたいものです。分かち合いの時間にも、いろいろな感想を聞くことができて感謝でした。今日から、少し新しい体制での水曜祈祷会が始まります。
教会のデボーションはヨブ記に入りました。人の苦難の意味について、これほど考えさせられる書はありません。物心両面に恵まれていたヨブは、略奪と天災という四つの災いに遭い、すべてを失います。それでも神の御心と受け止め、神への信頼を持ち続けるヨブのもとに、エリファズ、ビルダデ、ツォファルの三人の友人が訪ねてきます。彼らは、ヨブの悲しみにただ寄り添うしかできませんでしたが、ヨブが徐々に自分の心情を打ち明けたので、まずエリファズが自分の考えを話しました。エリファズは、ヨブの身体を労わりながらも、不幸には必ず原因があること、自分の経験から神の絶対的な正しさを示すなど、ヨブに自分の非を認めさせるような説得をしたのです。彼を励ましたいという気持ちが、いつの間にか上から物を言うような言葉に…。傷ついた人の心を理解せず、不用意な言葉を発するより、ただ黙って寄り添うこと、とりなし祈ることの大切さを思わされます。
10月第二主日は、朝から夏を思わせるような日差しの強い一日でした。礼拝メッセージはルカ12:22‐34から。大勢の人々が集まっている中で、イエスさまは弟子たちに「あなたがたは、…いのちのこと、…からだのことで心配したりするのはやめなさい」と言われました。そして、鳥や草花に目を移して、それらを養っておられる神は、あなたがたのことを価値ある存在として見ておられ、あらゆる面で養ってくださるのだと教えられたのです。天の父なる神さまは、私たちが生きていく上で必要なものをよくご存知です。そして、私たち以上に私たちのことを心配してくださっているのです。イエスさまが弟子たちによく繰り返された言葉に、「恐れるな」があります。それは、彼らの心に深く刻まれていったことでしょう。今もイエスさまは、私たちが慌てたり、何かに恐れている時にも、私たちを憐れんで、この時の弟子たちと同じように声をかけて、励ましてくださるお方です。
今日から、ハートフル英会話・秋期コースが開講しました。久しぶりにお会いする方々と初めてお会いする方々と、また木曜日のなごやかな時間をともに過ごせることを感謝します。教会は、クリスチャンの方はもちろん、クリスチャンではない方にとっても、大人も子どもも、心落ち着く楽しい場所であってほしいと願っています。講師のレイチェルさんとホゼアさんが本当に心を込めて授業をしてくださいますので、とても雰囲気のよいクラスです。大人も子どもも、定員人数までもう少しあります。ご興味のある方はまずは無料体験クラスをお試しください。話しは変わりますが…昨日は東北で、今日は関東で、震度5強の大きな地震がありました。首都圏の地震では、各地で停電があったり、水道管が破裂したり、複数のけが人も出たようです。東日本大震災以来10年ぶりの震度5強とのこと。けが人や被災された方々を覚えてお祈りしています。関西もあらためて注意が必要です。
10月第一水曜祈祷会、ローマ8:1‐17。パウロは善を行いたいと願いつつ、自力ではそれができない現実を認め、人はただ救い主の助けを求めるほかないことを述べました。でも、だからこそ「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」というのです。キリストを信じ、キリストの救いにあずかった者は、今や「罪と死の原理」、すなわち罪と死の支配から解放されました。それは、キリストの贖いによって「いのちの御霊の原理」がもたらされたからです。御霊は、私たちのうちに住んでくださって、私たちを永遠のいのちに導き、神の子どもであることを証ししてくださいます。ですから、パウロは他書でも「御霊によって進もうではありませんか。」と勧めるのです。私たちも、肉体的には日ごとに衰えても、霊的には日ごとに新しく造り変えられ、キリストのご支配の中を、キリストの栄光目指して歩もうではありませんか。
緊急事態宣言解除に伴い、今週の木曜日からハートフル英会話秋期コースが始まります。毎週木曜日に行っている英会話教室、皆さまに愛されて今年で27年目を迎えました。日常会話から海外旅行、ビジネス英語など、使える英語を身に着けたいならネイティブ講師から学ぶのが一番です。講師は二人とも敬虔なクリスチャン。最大6人の小グループ制なので、互いに助け合いながら、新しいお友だちの輪が広がります。大人クラスも、初めは皆さん緊張されてこられますが、だんだん親しくなって会話も弾み、いつも笑い声がたえません。Kidsクラスは、フラシュカードを使ったりクラフトをしたり、とにかくいろいろなプログラムがあって楽しい50分です。クラスの時間帯や料金などの詳しい情報はハートフル英会話のページをご覧ください。すでに案内チラシを見てくださった方もいるかと思いますが、ただいま無料体験クラスを受付中!お電話か、メールでお申し込みください。
10月第一主日、秋晴れの青空が広がる一日。緊急事態宣言解除後の最初の主の日、三回に分かれての礼拝でしたが、多くの方々と久しぶりに顔をあわせ、聖餐式の恵みにもあずかることができて感謝でした。メッセージはルカの福音書12:13‐31。群衆の中の一人がイエスさまに質問したことから、イエスさまが愚かな金持ちの譬えをされたところです。そこから、財産はいのちを保証しないこと、神なき人生を歩む愚かさ、神との正しい関係に生きることを心に留めました。『神に対して富む者』とは、自分で精一杯聖い生活を送り、神の子どもとして多くの良いことをする…ことではなく、何より、こんな弱く愚かな者でも、神から愛されていることを喜び、与えられたいのちを感謝し、喜びの日も悲しみの日も神とともに歩むことです。自分に誇るべきものがなくても、神を信じる者に約束された神との和解があります。今週もこの恵みのうちを歩ませていただけることを感謝します。
教会のデボーションはローマ6章に入りました。パウロはイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められることを記した後、「それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。」という問いを投げかけます。つまり、神の恵みが増し加わるために、あえて罪の中にとどまっているべきですかというのです。それに対する答えは、「決してそんなことはありません」です。理由は二つ。私たちは律法の下にではなく(罪に対して死んだ者)、恵みの下にある(神に対して生きる者)からです。その目に見えるしるしがバプテスマ(洗礼)です。もちろん洗礼を受けたからといって、すぐに罪から完全に自由になれる人はいません。地上にあっては、罪との戦いや誘惑があります。でも、私たちはみな、聖潔に向けて決定的な一歩を踏み出した者たちです。あとは聖霊により頼みつつ、一歩ずつ完成を目指していきましょう。
教会のデボーションはローマ5章に入りました。「こうして…私たちの主イエス・キリストによって、神との平和をもっています。」主イエスを信じる信仰によって、私たちは神との正しい関係が回復しました。その結果、私たちは神との和解、交わりの中に生きる者とされたのです。だからこそ今の患難さえ喜ぶことができる、それは患難が忍耐を生み出すことを知っているからです。忍耐とはただ消極的に我慢することではなく、主に期待して積極的に生きることです。キリストは私たちの罪のために死んでくださった、しかも「私たちがまだ罪人であったとき」に、です。ここに人類に対する神の愛が具体的に示されました。アダムの背きによって全人類に罪が浸透したように、キリストの義の行為によって多くの人が義とされる道が備えられたのです。今、キリストを信じる信仰に歩んでいる者が、どれほど圧倒的な恵みの中に生かされているかを、心に留めて歩みたいと思います。
9月第五水曜祈祷会、ローマ4:1-25から。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」パウロはユダヤ人が誇りとするアブラハムとダビデの例を挙げて、行いではなく信仰によって義と認められることを記しました。丁度、旧約聖書を学ぶ会でアブラハムの晩年を学んだところでしたので、「不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます」ということの意味がよくわかりました。アブラハムも75歳の時に神の召命を受けて信仰の旅が始まりましたが、時に神に背き、神の叱責を受けることもありました。それでも彼は、神の声に励まされ「望み得ない時に望みを抱いて信じ、…神には約束したことを実行する力があると確信して」歩み続けたのです。このような信仰者になるには、アブラハムでさえも、長い年月の神の取り扱いを受けました。私たちもアブラハムの子孫として、約束を信じて偉大な信仰者の歩みに倣いたいものです。
9月第四主日、爽やかな風が気持ちのよい一日でした。伝道者の書6章から『悪しき病からの癒し』をテーマに、神の賜物を楽しめない空しさ、今あるもので満足できない空しさ、神と言い争う空しさをポイントに御言葉を学びました。『だれが知るだろうか。…だれが人に告げることができるだろうか。…日の下で何が起こるかを。』誰も知り得ない、それが6章の結論でした。『悪しき病』とは、神なき人生を歩む者の心を蝕む病魔です。放っておけば確実に死に至る病となります。でも、感謝すべきは、今日の私たちはこの問いの答えをイエス・キリストのうちに見出すことができることです。今は教会に行きたくても、他の方のことを考えて自粛しておられた方も多いと思います。それぞれの地域教会で事情は違うと思いますが、私たちの教会も緊急事態宣言の解除を目安に、主日の三部礼拝を再開します。また、教会で皆さまと心一つに礼拝をささげられるのを楽しみにしています。
昨日は同盟教団宣教130周年記念大会がありました。教団の歴史、特色、展望がどういうものかをあらためて再確認する良い機会となりました。1891年に来日した15名の宣教師(その内の一人は来日後3ヵ月で召天)は、今では想像もつかないような迫害、経済的必要、霊的戦いを覚えながら未伝地での宣教と救霊のために献身してくださいました。その功績は、現在261の教会、信徒11,965人が所属し、さらに日本とアジアと世界に仕える教団となり、今も前進し続けています。朝岡理事長の全体講演の中で『コロナ禍にあって多くの教会が困難の中にある。でも、私たちの思いを越えて働かれる主の御業に、私たちは参与するのだ。』という言葉が心に残りました。確かに自分の教会だけが祝福されればいい、同盟教団の教会が増えればいいというのが、130周年に覚えることではありません。主が必要とされるならば、喜んで宣教協力し、献げていく教会でありたいと思わされました。
昨夜は中秋の名月。思わず「天は神の栄光を語り告げ。大空は御手のわざを告げ知らせる。」の御言葉を思い出す夜でした。そして、今日の水曜祈祷会。ローマ1:18~「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」同じ天を見上げるのでも、今朝は身の引き締まる思いがしました。『怒り』とは『神の裁き』(終末的審判)を表す言葉です。人間は、自然の美しさを思うと同時に、その造り主に思いを馳せなければなりません。罪の本質は、何か犯罪を犯すことではなく、神を認めず、神を神としてあがめないことです。私たちはこの世に生まれてから、何もかも当たり前ではない現実の中を、自分の力で生きてきたのではなく、神によって生かされてきました。神は義しい方ですから罪に対しては厳しい裁きを下されます。と同時に、神は愛なる方ですから神を求める者には全き赦しをお与えになるのです。
教会のデボーションはローマ人への手紙になりました。今日はその書き出し1:1‐7から。ギリシャ語原文では一続きのあいさつ文。「キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。」この一節だけでも深みのある言葉です。キリスト・イエスに対する全き服従、神の福音のために選び分かたれ、復活の主の証人として遣わされた者だということ。ここから、福音とは何か、自分の使命とは何か、パウロがこの手紙を通して伝えたいことが、短い文章の内にギュッとまとめられています。ちょっと難しそうだな…と感じる方もいるかもしれませんが、Ⅱ歴代誌の時のように1章ずつではなく、ローマ書は短い節に区切って見ていきますので、なんとか読書百篇の気持ちで一緒に味わっていきましょう。「…すべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。」聖霊さまがお一人ひとりのデボーションを祝福してくださいますように祈っています。
9月第三主日、台風一過の青空が広がりました。伝道者の書5章から。伝道者である著者は、形式や口先だけの信仰の空しさ、また金銭や富を追い求めることの空しさを覚え、結論として神が与えたいのちの日数の間を楽しみ喜ぶように告げました。「こういう人は自分の生涯のことをあれこれ思い返さなさい。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」私たちの人生は短く、あれこれ思い返している暇もないほど束の間に過ぎてゆくものかもしれません。でも、神がその人生を喜びで満たしてくださることを信頼して、たとえ束の間であっても、一心に主を賛美し、その栄光を表していきたいものです。今日は礼拝後に二人の方の洗礼式がありました。コロナ禍なので、細やかなお祝いしかできませんでしたが、天で大きな喜びの声が上がっていることを思いました。まさに神の時、新しい人生の出発に、立ち合えて感謝でした。これからの信仰生活の祝福を心よりお祈りしています。
詩篇102篇は苦しむ者の祈りです。「主よ、私の祈りを聞いてください。私の叫びが、あなたにまで届きますように。」詩人は、心身ともに病気にかかり、自分のいのちの終わりまで予感していたようです。でも、彼は言葉にできないその思いを、神に向けて行きました。「それはあなたが、憤りと激しい怒りのゆえに、私を持ち上げ、私を投げ捨てられたからです。」今の状態はたまたまではなく、神が通らされている試練であるならば、回復を与えてくださるのも神です。イエスさまも、神の許しなしには何事も起こり得ないと言われました。困った時こそ神の名を呼び求めましょう。私たちは何か辛い試練にあうと、早くそこから抜け出したい、解放されたいと願い求めるものですが、まず今の状況を神が知らないはずがない、神は間違ったことをなさらない、忘れてはおられない…そのような信頼に立ちたいものです。すべてのことを、私たちを愛するゆえになさる方だからです。
9月第三水曜祈祷会はⅡ歴代誌36章から。ヨシヤ王の死後、南ユダは滅びの最終段階に入り、4人の王が登場して幕を閉じます。どの王の時代もエジプトから、バビロンから攻撃を受け、国は弱体化していきました。それでも主は、たびたび使者を遣わして悔い改めを迫りますが、彼らは全く聞く耳を持たず、預言者らを蔑み笑いものにしました。こうして、ついに主の激しい憤りが燃え上がり、カルデア人の王ネブカドネツァルによって、若者も年寄りも殺され、神の宮は焼かれ、剣を逃れた者たちもバビロンへ捕らえ移されるという壊滅状態に陥ったのです。神の厳しい審判でした。でも、本書の最後には、エレミヤによる回復と希望の預言とペルシャの王キュロスによる解放宣言が記されていました。「バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み…」主はご自身の計画をもって歴史を導いておられる、ゆえに主の裁きは真の回復の始まりでもあることを思いました。
教会のデボーションはⅡ歴代誌35章、南ユダ国最後の信仰の王ヨシヤに関する記述です。彼は8歳で王となり、16歳で主を求め、20歳で改革を開始し、31年間主の目にかなうことを行ったとあります。その中でも特筆されるのは、先週のヒゼキヤ王の場合もそうでしたが、過越のいけにえを献げて神への献身を示したことです。『過越』はイスラエルの民がエジプトの奴隷から主によって助け出されたことを記念する祭りです。「イスラエルでこのような過越のいけにえが献げられたことはなかった。」過越にかけるヨシヤ王の熱心は膨大な量のいけにえや祭司・レビ人への命令に表されていました。その後しばらくして、ヨシヤ王はエジプトの王との戦いで不慮の死を遂げていきます。これほどの改革を行った王が…なんともあっけない死に方に思いますが、「全ユダとエルサレムは、ヨシヤのために喪に服した。」という言葉に、彼の労苦も決して無駄ではなかったことを感じました。
9月第二主日。アメリカ同時多発テロ事件から20年が過ぎました。今年8月末に最後の米軍機が現地を離れ、米史上最も長い戦争に終止符が打たれましたが、今もなお政治的混乱が続くアフガニスタンのために祈りたいと思います。今日の礼拝メッセージは伝道者の書4章からでした。権力者たちに虐げられている者たちの涙、神なき成功、神なき人生、神なき名声の空しさを覚えました。「二人は一人よりもまさっている。…一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」イソップ童話の『三本の棒』、毛利元就の『三本の矢』を思い出すところですが、自分と隣人、そして第三の糸に、イエス・キリストを見ることができるのはクリスチャンの格別な恵みです。また、午後からの役員会では緊急事態宣言再延長に伴い、教会も来会自粛期間を再延長することを決めました。今はただ感染者数の減少を祈りつつ、主の憐れみを求めたいものです。
4日間の研修会が終わりましたので、今日はちょっと休憩。秋の花がほしいなぁと思って、The Farmへ。この時期は春や夏と違って花の種類も限られていて、とりあえず…今日は見て回るだけで満足でした。秋と言えば『秋桜』ですが、種から準備していたのが、目を出して15㎝くらい伸びたところでぜんぶ枯れてしまいました。土が原因だったのか、暑さだったのか…わかりませんが、結局、つぼみをつけたものをいくつか買って植えることにしました。でも、教会で花を育てるのは、何より見て喜んでくださる方がいると思うからで…今の緊急事態宣言中は来会する方も少なく、寂しいものです。気を取り直して、狭い教会の畑を耕し、ジャガイモでも植えようかなと思っています。ある方が気にして『山下先生はワーカホリックじゃないですか…』と心配してくださったのですが、適当に休んでおります。お気遣いありがとうございます💦皆さまも季節の変わり目、ご自愛ください。
月曜日から同盟教団のオンラインでの補教師研修会が行われています。私も教職教育部員なので、若い先生方と一緒に9つの講演会に出席しました。同盟教団の牧師として知っておかなければならない事柄を、一つ一つ先輩の先生が経験も踏まえて教えてくださるのでかなり実践的です。対面のような深い交わりは持てませんが、家族で参加されている先生もいたので、オンラインならではの良さもありました。これから正教師試験にチャレンジする先生方のために祈らされました。さて、今日の水曜祈祷会はⅡ歴代誌31章から。ヒゼキヤは、祭司とレビ人を組分けして、主の律法に記されているとおりにいけにえを献げさせました。さらに、彼らが律法に専念するためにエルサレムに住む人々に献げものをするように命じたのです。いやいやながらではなく、喜んで献げる民の姿が目に浮かびます。ヒゼキヤの思いは民全体に浸透し、まさに神の民みんなで行う宗教改革となったのです。
教会のデボーションはⅡ歴代誌30章になりました。29章からヒゼキヤが南ユダの王として即位し、神殿を修復し、レビ人を聖め、偶像を徹底的に除去する宗教改革を行ったことが記されています。しばらく信仰的に堕落した王さまが続きましたので、ヒゼキヤの登場はまさに希望の光です。ヒゼキヤはイスラエルとユダの全土に過越のいけにえを献げるように呼びかけました。「主に立ち返りなさい。そうすれば、主は…あなたがたのところに、帰って来てくださいます。」その頃、北イスラエルはアッシリヤの攻撃を受け、すでに首都サマリヤは陥落し、多くの民が連れ去られる中で、ヒゼキヤの呼びかけを物笑いにし、嘲る人々もいました。でも、こうした危機的状況だからこそ、神の救いを求めてエルサレムに集まり、大きな喜びをもって礼拝を献げる者たちもいたのです。「…彼らの祈りは、主の聖なる御住まいである天に届いた。」こんな喜びに溢れる礼拝を献げたいものです。
9月第一主日、雨も上がり青空が広がる一日。今日の礼拝メッセージは伝道者の書3章からでした。有名な箇所ですが、読めば読むほど…その深遠さに圧倒されるところで、一回のメッセージでは語り尽くせないことを感じました。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」神は創造の時から、人の心に永遠なる方を慕い求める思いを与えられました。自分の心が神に向けて造られたこと、また神に知られ、愛されていることを知ること、人生においてこれ以上の幸いはありません。伝道者の書、まだ三合目まで登り始めたばかりですが、読書百遍の気持ちで読んでいきたいと思います。今日も教会に来られた方は奉仕者も入れて10人ほどで、新しい方も来てくださって感謝でした。パラリンピックも閉会しました。選手の皆さま、本当にお疲れさまでした。
9月最初の水曜祈祷会はオンラインで行いました。今日もライブでの解説はお休みさせていただいて、会堂で録画した映像を視ました。Ⅱ歴代誌24章はヨアシュ、25章はアマツヤ、26章はウジヤ王。この時代の王の特徴は、最初は主の目にかなうことを行っていたのに、後半に神から離れ、身を滅ぼしていくことです。読んでいて思わず『どうしてここで…』と思ってしまうほど、見事に偶像に心奪われ、預言者の声に耳を傾けず、神を侮り、自分勝手な行いに走り、主の御怒りを受けていきます。スケールは違いますが、私たちの信仰生活にも通じることかもしれません。初めのうちは謙遜にへりくだっても、ある程度、問題が解決すると神から目を離してしまう…自力でなんとかできると錯覚してしまう…。王たちの信仰の不甲斐なさが、どこか自分の姿と重なるからこそ余計ヤキモキするのかもしれません。王たちの問題点をしっかり心に留めて、私たちも兜を締め直したいものです。
8月の旧約聖書を学ぶ会がありました。私事ですが、今日は2回目のワクチン接種があったため、予め録画したものを配信させていただきました。愛妻サラが召天し、老人となったアブラハム。後の気がかりは、まだ息子イサクの嫁が決まっていないことでした。そこでアブラハムは信頼できるしもべを呼び寄せて、息子の妻となる女性を見つけてきてほしいと命じました。しもべは祈りの内に具体的な主のお取り計らいを求めます。すると、彼が祈りが終わらないうちに、リベカという素晴らしい女性が目の前に現れたのです。この後リベカはしもべと一緒にイサクのもとに行くことを決心し、長旅に出発しました。夕暮れ近く、散歩から帰ってきたイサクが目を上げて見ると、ちょうど、らくだに乗ったリベカも目を上げて、二人が見つめ合うという感動的な出会いのシーンでした。「…イサクは、母の亡き後、慰めを得た。」アブラハムとサラの祈りはこうして聞き届けられたのです。
8月第五主日、緊急事態宣言延長に伴い、教会もあらためて来会自粛となり、オンラインの礼拝となりました。伝道者2章から「万古不易の真理」というテーマで、イスラエルの最高の知恵者であり、栄華を極めたソロモンが、地位も名声も富もすべてを手に入れ、その結果はいかに。「すべては空しく、風を追うようなものだ。」つまり求めても、手に入れても、心は満たされなかったのです。むしろ、食べる、飲む、働く…こうした基本的な生活の中に満足を見出す、それもまた神の御手によることと受け取っていく、ここに人間の知恵があるというのが心に残りました。今日は午後からファミリーコンサートがありました。昨年はコロナ禍で中止でしたが、今年はオンラインでの開催。バイオリン、ビオラ、チェロ、ウクレレ、サックス、ピアノ、フルート、オーボエ、歌、鉄棒、証し、多くの方が出演してくださいました。私たちの教会らしいコンサートができたことを感謝します。
8月の第四水曜祈祷会がありました。二週間お休みをいただきましたので、久しぶりの祈祷会に少し緊張しました。使徒の働き27:27~パウロたちを乗せたローマ行きの船は暴風に襲われ、アドリア海を漂っていました。人々は二週間も何も食べずに暴風に翻弄されるままになっていましたが、パウロの「あなたがたは助かります」という言葉によって元気づけられ、食事をとりました。夜が明けたころ、近くに入江が見えてきましたが、二つの潮流に挟まれて船は座礁し、ついに船尾から壊れ始めていきます。もはや万事休す…でも、パウロの言葉を信頼した百人隊長の指示で、二百七十六人全員が無事に陸に上がることができたのです。ともにこの危機を経験したルカならではの臨場感にあふれる描写でした。どんなに人間的にはもうダメだ…と思うような状況に陥っても、たとえ沈みゆく船の中にあっても、まことの神を知る私たちの存在は決して小さくないことを思わされました。
教会のデボーションは使徒27章です。人々の不当な訴えによって総督や王の前で証しをしてきたパウロは、いよいよローマ皇帝ネロのもとに送られることになりました。当時の世界の首都ローマにおいて福音を証しすることは、パウロが長く切望していたことであり、世界宣教における神の計画が前進することでもありました。ただし、ローマへの道のりはなお遠く、険しいものでした。途中、船は向かい風にあおられ、さらには暴風に襲われ、難破の危機に陥りました。もはや人々の助かる望みも完全に絶たれようとしている中で…パウロは毅然としてこう言いました。「元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う人は一人もありません。」パウロのように、神の御心に従って歩んでいても、途中で思わぬ暴風に襲われることはあります。でも、「私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになる。」この揺るがない確信を、私たちも持っていたいものです。
8月第四主日、今日は献堂4周年記念礼拝でした。私たちの教会がこの場所に移ってきて、もう丸4年が過ぎるのだな…と感慨深く思いました。今はみんなで集まってのお祝いはできませんが、この教会でいろいろな方と出会い、主にある交わりを持たせていただいたことを感謝します。今日の礼拝メッセージは玉井邦美師が申命記1:5-8からメッセージを取り次いでくださいました。ただ恵みを受けるだけの教会生活は危険であること、また、教会には託された使命があることについてチャレンジを受けました。「あなたがたは向きを変えて出発せよ。」コロナ禍にあって、教会の活動も何かと制約がありますが、あらためて目を上げて教会が進むべき方向を確認できたように思います。今日もまた、コロナの感染者数は日曜日としては過去最多を更新。明後日からはパラリンピックも始まります。まだまだ感染拡大に歯止めがかからない状況ですが、御心を求めていきたいと思います。
今週は夏休みをいただいて、大学生のオンラインキャンプで奉仕させていただきました。本当に充実した、内容の濃い四日間でした。緊急事態宣言が発令される中でもこうしてzoomを通してキャンプの恵みを味わうことができたのは、実行委員をはじめスタッフ、現役生、卒業生、多くの方の祈りと支えがあってのことだったと思います。この場を借りてあらためて御礼申し上げます。ありがとうございました。どこか自然の中で、対面で、時間も気にせずできたら…と思った学生たちもいたと思いますが、今の情勢の中での最善だったのではないでしょうか。今回のテーマは『伝道』でしたが、グループリーダーから信仰の決心や信仰の原点に帰る青年たちがいたことを聞いて、主の御名をあがめました。彼らにはまた、明日から厳しい現実が待っていると思います。でも、キリストがともにおられ、一人ひとりに与えられた御言葉が支えと希望になりますようにお祈りしています。
オンラインキャンプ、三日目が終わりました。今回の奉仕を依頼された時は、コロナ禍の教会のことで頭が一杯で、お受けするかどうか思案しましたが、これまで教会の青年たちがどれだけお世話になってきたかを考えたら、地域教会の牧師として感謝を表すべきだと思わされました。実際、キャンプが始まってみると、配信に不手際があったり、妻が入院することになったり…いろいろな予期せぬことが起こりましたが、まっすぐに御言葉に向かおうとする青年たちの姿に励まされっぱなしの三日間でした。連日メッセージの後に、zoomの牧師室に青年たちが訪ねてきてくれて、質問や感想を分かち合ってくれましたが、まさに牧師冥利に尽きる時間でした。参加者77名、初参加10名。「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」キャンプは明日の派遣礼拝で終わりますが、コロナ禍の時代の青年たちを、祈りと御言葉をもって送り出したいと思います。
箕面の青空が戻ってきました。でも、このところの長雨は日本各地に甚大な被害をもたらし、金曜日頃まで予断を許しません。また、もはや驚きもないですが、大阪の新型コロナの新規陽性者も2,296人という過去最多を更新。全国でも23,000人を超え、歯止めがかからない状況です。神がいるならなぜこんな状況を許しているんですか…今日もキャンプの分科会で質問がありました。きちんと答えられたかわかりませんが、確かなことは、神はこの状況をご存知であって、心を痛めておられるということです。夜の集会のメッセージも、ペテロたちがイエスさまを見捨てて逃げ出していくところからでした。イエスさまはシモンに「サタンがあなたがたをふるいにかけようとしている」と警告しました。それなのに…。でも、イエスさまがそんな彼のために「あなたの信仰がなくならないように祈りました」と言われたことを中心に話しました。ここに私たちへの慰めがあるからです。
今日からキリスト者学生会のサマーキャンプが始まりました。Zoomなので、学生たちとゆっくり交わることはできませんが、画面越しにキャンプの雰囲気を味わうことができて感謝です。私は分科会と夜の集会でメッセージを担当します。今夜はペテロとイエスさまの出会いの場面から、「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」を中心聖句に話しました。最後にカメラを切り替えるのを忘れていたことに気づきましたが…時すでに遅し。でも、何人かの方に『特に問題ありませんでしたよ』と優しく声をかけられ…とにかく一日目を終えてホッとしました。あと三日間、気を抜かずに奉仕を全うできるようにお祈り頂ければ幸いです。新型コロナによる緊急事態宣言はついに地域拡大と期間延長が正式に決まりました。また、西・東日本でも激しい雨が予想され、どこで土砂災害が起きてもおかしくない状況です。様々なことが最小限に抑えられるようにお祈りしています。
8月第三主日は戦後76年目の終戦の日でした。先の大戦で亡くなられた方々を覚えて祈り、世界平和への思いを新たにしました。また、昨夜は西日本を中心に記録的な大雨が降り続き、各地に甚大な被害がありました。新型コロナの感染者数も一日2万人を突破する日が続いています。主よ、憐んでください…とただただ祈るばかりです。礼拝では伝道者の書1章からみことばを心に留めました。「空の空。伝道者は言う。空の空、すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」「空」とはもともと「息」を意味する言葉で、すぐに消えてしまう儚いものを表していました。神との関りのない人生はなんと儚く、空しいものだろうかというのです。それは当代随一の知恵者と言われ、経験豊富な伝道者の実感のこもった言葉でした。時代がどんなにうつり変わっても人間の本質は変わりません。今日の私たちにも、多くの気づきを与えてくれる書簡です。
台風一過でしたが、大事にしていた向日葵が倒れてたり、看板が飛んでしまっていたり…
CGNTVの撮影もあり、片付けと奉仕で慌ただしい一日でした。さて、教会のデボーションは使徒の働き21章から。聖霊に導かれたパウロは、いよいよエルサレムに到着しました。そこで早速、教会の指導者たちと会って神が異邦人の間でなさったことを報告し、ともに神をほめたたえたのですが、そのすぐ後でアジアから来たユダヤ人たちの扇動によって逮捕されてしまいました。なんとも痛々しい結果に…と思いきや、パウロは自分を「殺してしまえ」と叫ぶ民衆に向かって、立ち上がって弁明をしていったのです。その時、民衆は叫ぶのをやめて、パウロの話しに静かに聞き入ったとあります。この状況を千載一隅の機会に変えてしまうとは…。パウロの力強い証しにとても励まされました。私も来週はKGKのサマーキャンプ。オンラインですが、学生の方々に証しできる機会を感謝しています。
8月第二主日はヨナ書4章から。ヨナの宣教によって、ニネベの人々がみな神を信じ、悔い改めに導かれました。ところが、これほど素晴らしいことが起こっているのに、ヨナは不愉快で神に怒っていたのです。自分の思うように事が進まず、逆に最も懸念していたことが成就してしまい、「私は生きているより死んだ方がましです」とまで言い出す有り様。主はそんなヨナの心に問いかけながら、静かに悔い改めを迫ります。そして、一夜で生えて一夜で滅びた唐胡麻を惜しむヨナに、ご自身の御心を示されたのです。「ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。」情け深くあわれみ深い主の愛があふれ出るような語りかけが心に響きました。今日は、緊急事態宣言発令に伴い、多くの方が来会を自粛され、オンラインで礼拝を献げられました。世界中で賛否両論あった東京オリンピックも今日が閉会式。多くの感動を与えてくれた選手の方々に感謝します。
使徒の働き20章から。パウロは約三年のエペソの宣教に一応のピリオドをを打って、御霊に示され遠くローマを目指すことを決意します。そこからマケドニヤに渡り、ギリシャ、トロアスの諸教会を再訪し、多くのことばをもって弟子たちを励ましました。中でも、ミレトスで教会の長老たちを呼び寄せての決別説教は圧巻です。「そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません」「鎖と苦しみが私を待っている」「けれども、私が走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。」パウロの宣教は、まさに命がけでした。その伝道者としての使命感にただただ圧倒されるばかりです。今もコロナ禍の状況が深刻化する中で、不要不急ではない礼拝をどのように献げるのがベストなのか…。一人一人が祈りのうちに御心を示していただき、主にあって平安があるように祈っています。
五十にして天命を知る…。現実はなかなか厳しいものですが、自分も50歳になりました。主の憐れみと大勢の方々の祈りと励ましに支えられて、なんとか今も牧師という尊い働きをさせていただけることを感謝いたします。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが…」今から25年前、洗礼を受けた時のお祝いに、教会のある方から三浦綾子さんの『ちいろば先生物語』の本をいただいて初めて榎本保郎牧師のことを知りました。こんな生き方があるんだ…と胸をワクワクさせながら読んだのを思い出します。その榎本先生は、さまざまな国で福音を宣べ伝え、52歳という若さで天に召されました。お会いしたことはありませんが、尊敬する先生の年齢に近づいて、改めてその偉大さを感じます。足元にも及ばないことは重々承知しながら、私は私なりに、少しでもイエスさまをお乗せするのに間に合う者にならせていただきたいと思わされます。
新型コロナの新規感染者数が増え続ける中、大阪府をはじめ6都府県で緊急事態宣言が発令されました。4度目の緊急事態宣言をどう受け止めるか…人によって温度差がありそうです。教会としては改めてオンライン礼拝を推奨していく方針ですが、この時期、一人でも多くの方が教会に目を向けてくださって、福音にふれていただければと願うばかりです。教会のデボーションは使徒19章から。パウロが第3次宣教旅行でエペソを訪問した際に、弟子たちに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」と答えたとあります。今日でもありそうな会話です。確かなことは、私たちがイエスを主と告白することができるなら、その人の心には聖霊がおられます。この聖霊が私たちの信仰生活を導いてくださっているのです。
8月第一主日、礼拝メッセージはヨナ書3章から。主の御顔を避けて逃げ出したヨナは、荒れ狂う海に投げ入れられ、絶望の淵で大魚に飲み込まれ、そこで主への悔い改めに導かれました。主はそんなヨナに再び「立ってあの大きな都ニネベに行き…」と前と同じ使命を与えられたのです。ペテロもそうでしたが、失敗から立ち直った者が、改めて遣わされていく姿に感動します。3章は何といってもニネベの人々がひたむきに悔い改める姿が印象的です。神はそんな人々の姿をご覧になってわざわいを下すのを思い直されました。礼拝後に数人の方と『神は一度決められたことを思い直されるのか…』について話しましたが、まさに主の御心がここに示されています。それは、裁きよりも、救いであることです。「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」午後からの役員会では、緊急事態宣言発令後の教会の対応について話し合いました。結果については、また後日お知らいたします。
新型コロナの新規感染者数は東京で過去最多の4,058人、大阪も再び1,000人超えとなりました。この数字だけでは判断できない面もあると思いますが、やはりより一層の注意が必要であることは間違いありません。明日の礼拝は感染対策を講じた上で通常の三部制で行いますが、2日以降のことは今後の社会状況等を鑑みて判断することになります。今日は午後から第1回箕面災害支援ネットワーク会議に出席しました。社協が中心となって、災害協力隊、青年会議所、消防団、ボランティアグループ、キューズモールなど、さまざまな団体の責任者が来られて、これまでの経験や情報を共有し、とても有意義な会議でした。こうした集まりにこれだけの人たちが集まる箕面市は頼もしいです。災害は起きないことに越したことはありませんが、地震や台風などの自然災害がこれだけ続く時代ですから、いざという時のために、教会も地域に役立つネットワークを作っていけたらと思います。
オリンピックの熱戦が続く中、一昨日あたりから国内の新規感染者数が1万人を超えるようになりました。感染力の高いデルタ株の猛威です。これを受けて、東京に続き、埼玉、神奈川、千葉、大阪にも緊急事態宣言が発出されることが決まりました。菅総理の会見ではワクチン接種の効果と人流の減少傾向が強調されていましたが、国民に向けての具体的な行動指針というものは明示されなかったように感じました。教会としても、今後の礼拝や集会をどうするか…役員会を中心に難しい判断が迫られています。教会のデボーションは使徒の働き17:16から、パウロのアテネ宣教の記述です。当時アテネには3000を超える宗教施設・礼拝所があり、さらに「知られていない神に」と刻まれた祭壇までありました。パウロは、そうした人々の宗教心を認めつつ、天地を造られた神を証ししたのです。私も今日は箕面市の災害支援ネットワークの会議に出席します。よき証しになれば感謝です。
7月最後の水曜祈祷会は使徒の働き16章から。パウロの第二次宣教旅行はここまで辛苦をともにしてきたバルナバとの意見の相違から、別行動をとる形で始まりました。二人とも優れた信仰者なのになぜ…と思うところですが、これよって二つの宣教チームが誕生し、宣教の拡大と次世代の育成という二倍の祝福につながるのです。パウロはシラスとともにアジアの教会を訪問した後、聖霊に導かれてヨーロッパへと渡っていき、そこでは紫布の商人リディアとその家族、若い女奴隷、さらには牢獄の看守やその家族など…次々と救いにあずかっていく者たちの姿が描かれています。もちろん、パウロたちに反対する者たちもいて、厳しい迫害もありました。でも、一人の魂が救われるために、神がすべてを導いておられることを思う時、私たちが今、クリスチャンとして歩んでいることはそれだけで意義深いことだと思わされます。とにかくここを出発点に、今日を歩んで行きましょう。
7月の旧約聖書を学ぶ会がありました。創世記23章、アブラハムが妻サラのために墓地を購入するところから。アブラハム75歳、サラ65歳に、「わたしの示す地へ行きなさい」という神の命令がありました。行き先もわからず信仰をもって歩んだアブラハムの傍らにはいつも妻サラの存在がありました。喜びも悲しみもともに分かち合ってきた配偶者の死に、アブラハムは「悼み悲しみ、泣いた」とあります。信仰者であってもこの地上の別れは辛いものです。でも、泣いてばかりもいられません。アブラハムは立ち上がって、墓地を購入し、サラを葬りました。そして、やがて自分も子孫もその墓に納められていくのです。信仰者にとって『墓』は、単に人生のゴールではなく、同じ約束を相続する者として生き、天の故郷をあこがれつつ、この世を旅立った記念碑。私たちもみな、神の備えられた天へと引き上げられ、そこで再会し、主にまみえて礼拝をささげる続きがあるのです。
7月第四主日、幾分涼しさを感じる朝でした。礼拝準備をしている時に、ある牧師の召天の知らせがありました。65歳、自宅での突然死とのこと…。詳しいことはわかりませんが、後輩に対しても面倒見のいい優しい先生でした。お世話になった先生のことを思い巡らしながら、今日の説教奉仕をさせていただきました。ヨナ書2章は、ヨナの感謝の祈りが綴られています。主の御顔を避けて、主の命令とは反対の町に向かったヨナでしたが、途中で激しい暴風に遭い、荒れ狂う海の中に投げ入れられてしまいました。息もできず海底に沈みゆく中で、もはや死を覚悟するしかなかったでしょう。しかし主は、そんな彼のために大魚を備えられ、助けられたのです。ヨナは大魚の腹の中で主を思い出し、主との関係を回復していきました。苦難に遭えば、誰もが主を思い出すものでもありません。思い出すのも、主の恵み。主は私たちのためにも救いの扉を備えて待っていてくださるのです。
57年ぶりとなる東京オリンピックが開会式を行いました。新型コロナの影響で史上初の一年延期、しかも緊急事態宣言が発令される中での開幕です。華やかな式典に胸躍らせる方もいれば、断固反対する方がいるのも確か。一番気の毒なのは間に立たされる選手の方々でしょう。大会関係者も命を削るような17日間だと思いますが…世界中の思いが一つとなるように祈ります。使徒の働き15章は、異邦人の救いに関して激しい論争が起こったエルサレム会議の出来事。今まで正しいと思ってきたことを捨てて新しい現実を受け入れるのはなかなか容易なことではありません。人の罪の性質は他者を悪者に仕立て自らを正しいと主張しやすいものです。サタンもそこにすかさず楔を打ち込んで、対立や分派を起こさせます。でも、この会議では聖霊が一人ひとりに働いて見事な解決に至りました。正論をかざすのも大事ですが、相手の立場に立って考えることを忘れないでいたいものです。
人が多く集まれば、それだけ性格や考え方に違いがあるものです。直前までもつれにもつれた東京五輪も今日が開会式。すでにソフトボール、サッカーなど、酷暑の中でも懸命にプレーする選手たちの姿に大いに励まされます。いずれの国の方もみな、神が創造され、いのちを与えられた尊い存在。日本の面子より、『平和の祭典』と呼ぶにふさわしい大会になってほしいものです。教会のデボーションは使徒の働き15章から。異邦人の回心を喜ぶパウロとバルナバと、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべき」というエルサレムの長老たちの間で協議が行われました。信仰か、形式か…という議論に、ペテロが大事な一言を。「…主イエスの恵みによって救われる」去年からのコロナ禍で社会は大きく変わり、教会の活動も大きく変わってしまいました。だからこそ本質を見誤らず、ただ過去を懐かしむだけなく、新しい未来に向かって進んでいきたいです。
今日の水曜祈祷会は使徒の働き14章から。パウロの第一次宣教旅行は、行く先々で大勢の人々が信じると同時に、信じようとしない者たちによる迫害が起きました。パウロたちの宣教がいかに影響力があったのかが伝わってきます。そんな彼らがリステラで出会った足の不自由な人の出来事は心に残りました。彼は生まれつき足が動かず、これまで一度も歩いたことがありませんでした。彼はパウロたちの話しに真剣に耳を傾け、パウロたちも彼が癒されるにふさわしい信仰があるのを見たので「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と命じると、彼は飛び上がって歩き出したというのです。彼のイエスを信じる信仰が彼を癒やしたのです。今の時代なら、通りすがりの誰かがその光景を動画に撮ってYoutubeにアップしたら、どれだけの人が見て信じるだろう…と不埒な考えが頭をよぎりましたが、やはり奇跡も大事ですが、みことばを信じる人が起こされることの大切さを思いました。
7月第三主日はハレファ・スルヤ師をお迎えして歓迎礼拝をささげました。「望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。」の御言葉からメッセージをしてくださいました。過去・現在・未来にある望みを覚えつつ、今ある苦難に耐え、1~2度ではなく、絶えず祈り続けていくことの大切さを語ってくださいました。個人的には、苦難に耐える召し、苦難に耐えることで奉仕をしている…というのが心に残りました。メッセージの中で前ジャカルタの知事のアホック氏の話しがありましたが、詳しいことがわかってよかったです。数年前、留学生のある学生が知事選のために祈ってくださいと話していたのを思い出しました。世界一のイスラム教国であるインドネシアでクリスチャンが役職に就くことの難しさ、大切さを考えさせられました。苦難は、忍耐を…品性を…希望を生み出す。この希望は神の愛が注がれているゆえに失望に終わることはないという約束を感謝します。
長い梅雨が明けて、猛烈な暑さがやってきました。日中は34℃まで上がったそうですが、これからさらに暑さは増してくるでしょう。コロナの感染も心配ですが、熱中症にも気をつけなければならない時期です。さて、教会のデボーションは使徒の働き13章になりました。アンティオキア教会から世界初の海外宣教師が派遣されます。このビジョンは彼らが教会で主に礼拝をささげている中で与えられました。そして、聖霊はこのために相応しい人物たちを聖別して送り出されたのです。神は今日でも礼拝の中で私たちに語られます。「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」神は今、私たちに何を語ろうとしておられるのでしょうか。明日は久しぶりの歓迎礼拝です。講師のハレファ・スルヤ師は学位、聖書知識はもちろん、謙遜で温かみのある先生です。ぜひご家族一緒に大きな期待をもって、主に礼拝をささげましょう。
水曜祈祷会はⅡ歴代誌19章から。アハブとの共闘で出陣したヨシャファテは九死に一生を得てエルサレムに帰還すると、有害無益な北王国の訪問をやめて、内政に専念しました。偶像の除去、律法の教育、主への恐れをもって歩むという王の思いが国中に浸透していきます。そんな平穏な南ユダに、モアブ人とアンモン人らの連合国が攻めてきました。この国家危急の時にヨシャファテ王は恐れを抱きつつも、いつものごとく主の宮に来て祈りを捧げました。「私たちは苦難の中からあなたに呼ばわります。あなたは聞いて、お救いくださいます。」神はその祈りに応えて「主の救いを見よ」と約束されました。まさにこれは神の戦い、信仰による勝利でした。さて、ハートフル英会話春期コースも今日が最後のクラス。朝から30℃近くまで上がって、午後は梅雨明け前の不安定な空から、時折バケツをひっくり返したような雨が…。いざという時のために、日頃からの備えが大切です。
東京は4度目となる緊急事態宣言が発令されました。本当に飲食店や観光業をはじめ多くの事業主が悲鳴を上げていることでしょう。2021年上半期の倒産件数も過去50年間ではバブル末期に次ぐ二番目の低水準だったそうです。父と自営業を営んでいた頃を思い出します。また、新型コロナの感染者数も東京が830人、大阪も225人といずれも前週の火曜日の数値を大きく上回ってきていて、第五波は五輪の真っ最中に来るとも言われています。これで大阪も緊急事態宣言が発令されてしまったら、また教会でも来会自粛をお願いしなければならなくなることも考えられます。このタイミングになりましたが、昨年9月に結婚で別の教会に移っていった青年と奥さまに久しぶりに再会しました。元気そうで何より。初々しい生活ぶりを見せてもらいながら、今後に考えているビジョンを聞いて頼もしさを感じました。大きな決断をするのが難しい時期ですが、主の最善を心より祈っています。
Ⅱ歴代誌18章から。晩年は主から離れてしまったアサ王に代わって、息子ヨシャファテが南ユダの王位を継承しました。彼については多くの章を使って詳しくその治世が記されています。その生涯の大半は信仰深い、賢明な王の姿として描かれているのですが、やはり分岐点となったのは北イスラエルのアハブ王と姻戚関係を結んだことです。これによってヨシャファテは続く世代に大きな災厄を呼び込んでしまうことになります。まさに取り返しのつかない大きな罪悪をダビデの家に、そしてユダの国にもたらしていくのです。一つの判断、選択の誤りから、その後の人生、歴史を大きく変えてしまうことがわかります。人生のターニングポイントでどのような選択をするか…。「ヨシャファテは…言った。『まず、主のことばを伺ってください。』」信仰者の道も、晴れの日もあれば、雨の日、曇りの日もあります。それでもまず第一に主のことばを求める者でありたいものです。
7月第二主日、日中は30℃を越える夏日となりました。今日から礼拝ではヨナ書を講解していきます。「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。」主の召命がヨナに下りました。でも、ヨナはそれに背いて、ニネベとは正反対のタルシシュ行きの船に飛び乗ります。ニネベと言えばイスラエルにとっては悪しき敵国。憐れみ深い神がこの国を顧みるために自分を遣わすのだと思うと、ヨナとしてはどうしても従う気になれなかったのでしょう。そんな主の御顔を避けて、できるだけ遠くへ逃れようとするヨナの姿は、今日の私たちの姿とどこか重なってきます。そこがこの短い預言書が多くの方に愛される理由なのかもしれません。礼拝が終わって一人の女の子が質問に来てくれました。『どうして心の貧しい人がさいわいなんですか』私なりに説明すると、笑顔を見せてくれたので感謝でした。午後からは大学生からパソコンの操作を学んで…充実した主の日でした。
東京五輪開幕まであと二週間、東京都で4度目となる緊急事態宣言の発出が決まり、さらに首都圏一律で無観客が決定しました。あちこちで落胆の声が上がっていることでしょう。また、これによる経済損失も計り知れません。熱海の土砂災害の復旧を祈りながら、今日も各地で大雨警報が発令され、気分も暗くなります。こんな時は日々のデボーションで励ましを…と思いますが。Ⅱ歴代誌14章から、南ユダのレハブアムの後を継いだアビヤ王、その後を継いだアサ王と、それぞれに目を留める出来事もあり、比較的落ち着いた時期を迎えましたが、その最後には主へのつまずきが記されていました。「あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自分を示してくださいます。」自分が願うような励ましではなくても、神が歴代誌を通して告げられるメッセージを素直に受けとっていきたいと思います。
熱海で起きた土石流は4日目を迎え、死者7名、安否不明者27名となりました。もはや毎年のようにどこかで豪雨災害が起きています。安否不明者の確認と復旧が少しでも早く進みますようにお祈りしています。昨日もハンガーゼロの災害セミナーに参加しましたが、教会の責任と宣教について考えました。あらためて箕面市のハザードマップを見直すと、教会も危険度1の地域にあります。発災時に何ができるのか…地域にどんな貢献ができるのか…具体的な備えをしておかなくてはなりません。豪雨災害だけではなく、南海トラフは今後20年以内に70~80%。首都直下型地震も今後30年で70%、富士山噴火も連動して発生することなどが予想されています。神の愛と救いを地域に宣べ伝える教会として、有事の際こそその行動がとれなければ意味がありません。平時の時だけ主を賛美するのでなく、危急の時にも「主は正しい」とへりくだって証しできる者でありたいと思います。
教会のデボーションはⅡ歴代誌11章から。ソロモン王が死んで息子レハブアムが王位を継承しました。でも、彼の時代に王国は南北に分断し、乱世の時代を迎えていきます。それにしてもレハブアム王のわがままぶりは目に余るものでした。民の窮状に目を留めず、父ソロモンをも軽くあしらい、自分が偉大な存在であるかのように振る舞います。「三年の間、彼らがダビデとソロモンの道に歩んだからである。」かろうじて三年間は、神の人シェマヤの声に従って、王権を回復させていきますが、やがて主の目に悪であることを行い、主の懲らしめをうけることになるのです。『金持ち三代』とも言いますが、祖父ダビデの信仰遺産は孫のレハブアムには受け継がれませんでした。困難の中にいる時よりも、繁栄の中にいる時の方が信仰的には危険も多いということなのでしょうか。自分が神の戒めに逆らうだけでなく、子どもたちにも逆らわせた責任は重いと言わざるを得ません。
7月第一主日は梅雨の晴れ間の一日でした。コロサイ人への手紙もついに終わりのあいさつから。改めて思うのは、この時のパウロはローマの牢獄に捕らえられ、裁判を待っている状態だったことです。でも、この手紙にはそんな苦難の中の嘆き節は一切見られず、恵みに始まり、恵みをもって閉じられています。パウロは代筆者を介して、コロサイの教会を思いながら一つ一つの言葉を丹念に選んで手紙を記していったのでしょう。そして最後に記したのは自分と一緒にいる同労者たちの消息でした。ティキコ、オネシモ、アリスタルコ、マルコ、ユストと呼ばれるイエス、エパフラス、ルカ、デマス…ともすると何気なく読み飛ばしてしまいそうな名前の羅列ですが、その中にもパウロの伝えたいメッセージが込められていました。私たちも一人ひとり、至らぬ点や不甲斐ないところもありますが、主にあって新しくされ、互いに助け合い、祈り合う交わりであることを感謝いたします。
早いもので2021年も折り返しを迎え、今日もハートフル英会話クラスから楽しそうな笑い声が聞こえてきました。コロナ禍も少しずつ変化がありますが、まだまだ余談の許さない状況が続きます。少し前の大阪のように、東京の感染者も増えつつあり、23日からのオリンピック開催時には1000人台になることが予想されています。厳しい現実が続きますが、下を向かず、目を高く上げて歩んでいきたいものです。教会のデボーションはⅡ歴代誌8章から。ソロモンは神殿建設という大事業を成し遂げ、王国に平穏をもたらしました。「安息日ごと…日ごとの定めにしたがって献げた」壮麗な神殿において心からの礼拝を献げる日々が続いたことでしょう。でも、そんなソロモンもやがて主の道から反れて、彼の死後、王国は南北に分断、霊的堕落の一途を辿っていきます。勝って兜の尾を閉めよ、とはよく言ったものです。「目を覚ましていなさい」という主の声が聞こえてくるようです。
先日、日本伝道会議で三重県に住む友人牧師と再会してこんな話しを聞きました。全部は詳しくお話しできませんが…今夏、彼の教会で一人の高校生が洗礼に導かれたそうです。彼女は中学の時の英語の先生のFBでキリスト教に関心を持ち、それから自分でいろいろと調べて今春から教会に行き始めました。お母さんは彼女の決心に驚いたそうですが、自分も20年以上前に一度だけ大阪の教会に行ったことがあることを思い出し、しばらく触ってなかった聖書を懐かしく開いてみると一枚のしおりが挟んでありました。そこに箕面めぐみ聖書教会創立3周年とあったとのこと。もちろん私はその頃ここにはいませんでしたが、草創期から来られている信徒の方は大喜びでした。神さまの不思議な導きを感じました。昔、教会に行ったことがある…また久しぶりに行ってみようかな…そんな風に思い出して頂けたら感謝です。来年創立30周年を迎える私たちの教会に、ぜひいらしてください。
9月第四水曜祈祷会はヨエル書2章から御言葉を心に留めました。意識して読まないと読み飛ばしてしまうような小さな書簡ですが、そこに書かれているのは目を覆うばかりの神の裁きの恐ろしさとその民をねたむほどの愛で深く憐れまれる神の愛です。「しかし、今でも―主の言葉ー心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰れ。」神の御心は罪人に対する裁きではなく、赦しであることを思います。ここに神の矛盾と葛藤があります。裁きの神と赦しの神が一つであるゆえに、罪人への愛は傷みなしにはあり得ないものとなる。十字架のイエスさまが目に浮かんでくるような不思議な箇所でした。朝も夜も、御言葉に真剣に向き合い、一緒に恵みを分かち合える兄姉がいることは感謝なことです。もちろん、ピリピリとした緊張感ではなく、和気あいあいと自由に語り合い、祈り合う時間です。水曜祈祷会もどなたでも参加ができます。お気軽にお越しください。
教会のデボーションはヨエル書に入りました。旧約聖書に「ヨエル」という名前は何度か出てくるのですが、「べトエルの子」というのはここだけで謎の多い書簡です。「主の日が近い」が強調され、悔い改めて主を呼び求めよと命じます。主の日は、神に背を向けた者に対するさばきの日であると同時に、神を信じる者にとっては救いの日です。この日をどんな気持ちで迎えるかは、今という日があるうちに決めなければなりません。その時になって「なぜ…」と叫んでも後の祭りです。ヨエル書1章にこれほど主の日の恐ろしさが描写されているのはその切迫感・緊張感を表していると言えるでしょう。神を信じるか、信じないかは、もう少し考えたいという方もいますが、結局信じないとわからないことを信じる前にいくら考えても仕方がないのではないでしょうか。信仰とはまさに決断です。そして人生は決断の連続です。ノアの箱舟の扉が閉まらないうちにぜひ主のふところへ。
9月第四主日、残暑も和らぎ、さわやかな秋風が吹く一日でした。礼拝メッセージはイザヤ書49:13-16から。イザヤが預言した通り、イスラエルはバビロン軍によって町が崩壊し、多くの民が捕え移されていきました。絶望の淵に立たされたイスラエルに、神は告げられました。「天よ、喜びの声をあげよ。地よ、小躍りせよ。山々よ、歓喜の声をあげよ。」耳を疑うような神の慰めと救いの宣言でした。でも、人々は目の前の現状に意気消沈し、素直に喜べずにいました。神は自分たちを見捨てられた、忘れられたのだと。そこで神はご自身の愛を示すために二つのことを言われました。一つはたとえ母が自分の乳飲み子を忘れても神は私たちを忘れないこと、もう一つはご自分の手のひらに刻むほどに私たちを愛しているということです。イエスさまの十字架の傷跡はまさしく神の愛の現われです。この方を信頼する者は失望することがない、この信仰に立って歩んでいきたいものです。
7年ごとに開催される日本伝道会議に出席してきました。聖書を『信仰と生活の唯一の規範となる神のことば』と信じる福音的な教会が、主イエス・キリストの宣教命令に、互いに力を合わせて従って行くことを目的とした集会です。今回は長良川国際会議場で、4日間、全国から1200人以上のクリスチャンが参加者し、『おわり』から『はじめる』宣教協力をテーマに、メイン会場をはじめ様々な分科会がありました。私はキリスト全国災害ネットの分科会奉仕者として部分参加だったので、全体を見て回ることはできませんでしたが、活気と熱意を十分に感じてきました。2019年のコロナ感染以降、社会の生活環境や様式は激変し、教会の在り様も宣教の在り様も変わらざるを得ない状況です。聖書の原則に基づいて今までを振り返り、現状を確認し、これからの宣教を考えていきたいと思いました。教会間の宣教協力がより一層強められ、福音が一人でも多くの方に届くように願います。
9月第三水曜祈祷会、デボーションはⅡコリント10章から。ここからのパウロは、偽使徒たちを意識した厳しい口調で記していきます。「あなたがたの間にいて顔を合わせている時はおとなしいのに、離れているとあなたがたに対して強気になる私パウロ自身が、キリストの柔和さと優しさをもってあなたがたにお願いします。」彼らがパウロのことをどのように言っていたのかがわかります。それは単にパウロの悪口にとどまらず、教会内に分裂を起こし、人々を混乱に陥れるサタンの巧妙な策略でした。教会はおよそ外からの攻撃には一枚岩になってより絆が深くなることがありますが、内からの攻撃には些細なことでも大きな亀裂となってしまう脆さがあります。以前は教会に行っていたけど、人に傷ついてから行かなくなったという方も少なくありません。生きている限り、私たちは工事中の身です。教会は愛を学ぶところ、互いに赦し合うことが何より大切なように思います。
9月第三主日、今日は玉井邦美師をお迎えして召天者記念礼拝を献げました。礼拝メッセージは『未来の確かな希望』をテーマにⅡコリント5:1-8からお話して頂きました。私たちクリスチャンに与えられている希望は、地上の住まいである幕屋が壊れても、すなわち、死を迎えても、そこが人生の終着駅ではなく、神の下さる建物、永遠の住まいがあることです。先に召天された兄姉たちの写真を眺めながら、懐かしい笑顔を思い出しました。確かにこの地で相見えることはかないませんが、天においてもイエスさまの懐で最高の礼拝が献げられ、やがてかの日には再会の約束があることを覚えました。午後からは久しぶりに講演会の時をもち、『教会とは何か』についてじっくりと学ぶことができました。教会はキリストのからだであり、私たちはその各器官です。天の都に憧れつつ、聖霊によって絶えずキリストに似た者へと造り変えられ、ともに成長できる恵みを心から感謝します。
教会のデボーションはⅡコリント7章から。「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」パウロは『みこころに添った悲しみ』と『世の悲しみ』とを対比して記しました。人である限り、罪の誘惑は絶えずつきまとい、罪は私たちを神から引き離そうと試みます。イスカリオテのユダは銀貨30枚を得るためにイエスさまを売り渡し、その後悔の念に堪え切れず、最後は自らの命を絶ってしまいました。一方、ペテロも迫害に遭うことを恐れて思わずイエスさまを知らないと三度も言ってしまい、自らの弱さに打ちひしがれていたことでしょう。復活の主はそんなペテロの前に現れて、「あなたはわたしを愛していますか」と三度尋ねられたのです。ユダの悲しみは死をもたらし、ペテロの悲しみは救いに至る悔い改めを生じさせました。明日の主日礼拝、私たちも主が現れてくださる幸いを覚えたいものです。
夏休みも終わり、今日からハートフル英会話・秋期コースが開講されました。久しぶりにお会いする方々に新しい受講生も加わって、新体制でのクラスが始まります。今年の暑い夏をどのように過ごしたのか、どこかに旅行に行かれたとか、ご病気をされたとか…様々な夏の思い出を話していただきました。子どもたちも二学期が始まって『気が重い…』という子もいましたが、今日のクラスの中ではみんな元気いっぱい英語を学んでいました。何より楽しみながら英語に親しむことがハートフル英会話のテーマです。大人クラスも、Kidsクラスも、定員まであと数名の余裕がありますので、オブザーバーを希望される方は気軽に教会までご連絡ください。講師のレイチェルさん&ホゼアさんは、日本語も上手に話されますが、何より教え方が上手です。ぜひ実際に無料体験クラスでお試しください。残暑厳しい折、夏の疲れも出てくる頃ですが、皆さまも何卒ご自愛くださいますように。
9月第二水曜祈祷会、今日も週の半ばにともに集い、御言葉に聴き、祈り合える幸いを思いました。朝はⅡコリント5:1-10から、夜は創世記21:1-8から御言葉を学びました。パウロが抱いていた希望は、地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に神が下さる建物、永遠の住まいがあることです。私たちがこの世に生かされていることには、神の御心があり、使命があります。ならば命ある限り、主に喜ばれる者として、御霊の実を一つでも多く結んでいきたいものです。また、アブラハムの信仰から、望みえない時に望みを抱いて信じる者にならせて頂きたいと思いました。確かにそれは、言うは易く行うは難しです。『そもそも望みとは何か…』ある青年の問いから、深い分かち合いになりました。こうした分かち合いができるのも、教会の交わりならではのこと。私たちの望み…それはイエスさまを信じる信仰によって与えられるものです。この希望は失望に終わりません。
9月第二主日、相変わらず照りつけるような日射しですが、朝晩は微かにフッと秋を感じるようになりました。今日の礼拝では教会の草創期を担われた姉妹が司会をしてくださり、穏やかで心安らぐ進行をしてくださいました。また、20代で信仰に導かれた兄弟が28年間の証しをしてくださり、その恵みの数々を語ってくださいました。メッセージはマルコ11:12-25から。葉だけが茂って実のないいちじくの木は、外面的には立派な礼拝を献げていても、その心が神から離れてしまっている人々の姿を象徴していました。神殿に入られたイエスさまは、異邦人の庭で不正な利益を稼いでいる両替人や商売人たちを片っ端から追い出していかれました。そして、根元から枯れたいちじくの木を通して弟子たちに神を信じることの重要性を説かれたのです。3つの出来事が共通した一つのテーマを語っている大切な箇所でした。メッセージの後の分かち合いでさらに教えられ、幸いな礼拝でした。
今年は浜名湖で補教師研修会が行われました。コロナ禍が続いたので補教師全員が集まるのは3年ぶりです。私は教職教育部員として準備する側でしたが、十数年前に補教師として参加した時のことを思い出しながら、講義と先生方の証しを聞いていました。自分が補教師だった頃は何もかも初めてのことでしたので、悩みや試練、失敗や挫折は数知れず、一方で、恵みと感謝、楽しみも喜びもたくさんあり、戸惑いと祈りの中で、主の憐れみと教会の方々に支えて頂いて今日まで過ごしてきました。昨今、耳にするのは2030年問題。どの世界もそうですが、キリスト教界もいよいよ次の献身者が必要です。あと7年後には多くの教会が閉鎖となり、牧師も信徒も半数以下になると言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。」今日という日がある内に、一人でも多くの人がイエスさまの救いにあずかれるように、牧師として、献身者として、召される方が起こされるように祈っています。
9月第一水曜祈祷会、今日は牧師不在のためオンラインで行いました。ルツ記3章から、姑ナオミの提案でルツがボアズにプロポーズをするところでした。ナオミはずっと嫁ルツが幸せになるために身の落ち着き所を祈っていました。買い戻しの権利のあるボアズとの出会いを主の導きと信じ、ナオミもルツも信仰を持って大胆な行動に出ました。体を洗って油を塗り、晴れ着をまとって、ボアズの足元に身を寄せたルツ。思わず彼女の胸の鼓動が聞こえてくるような場面です。ボアズはそんなルツの気持ちをしっかり受け止めて、彼もまた主の導きを求めていきました。自分よりももっと近い、買い戻しの権利のある親類に伺いを立て、事の次第を主にゆだねたのです。ルツ記は神さまの言葉が出てきませんが、登場人物たちの信仰に励まされる書簡です。「あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」私たちも重荷を下ろせる落ち着き所があるのは感謝です。
9月第一主日、残暑厳しい中でしたが、今日も大勢の方が礼拝を献げに来られました。礼拝メッセージはマルコ11:1-11から。イエスさまは旅の目的地であるエルサレムに、まだだれも乗せたことのない子ろばに乗って入城されました。二人の弟子たちはイエスさまに言われた通り、向こうの村へ行き、子ろばをほどいて連れて来ました。飼い主が「なぜそんなことをするのですか」と尋ねると、彼らは「主がお入り用なのです」と答えました。イエスさまはこのやりとりをあらかじめ予見して、すべてを準備しておられたのです。こうして600年前のゼカリヤの預言通り、メシアは子ろばに乗ってエルサレムに来られます。人々はそんな主の姿を見て「ホサナ。いと高き所に。」と叫びました。その歓声は数日後には「十字架につけろ」と変わっていくのです。人の思いは移ろいやすいもの…。でも、そのすべてを受け入れて、イエスさまは平和の王として十字架へと向かわれるのです。
8月第五水曜祈祷会は士師記19章から学びました。「イスラエルに王がいなかった時代のこと」とは、イスラエルがそれぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた、言わば無法状態にあったことを示す表現です。神との正しい関係がないところでは、必ずこの地上に不法と不信の行為が蔓延していきます。ベニヤミンに属するギブアで起こった事件はソドムの不品行(19:1-9)にも匹敵する出来事であり、本来ならば、天からの火で焼き滅ぼされても仕方のないことです。どうしてこんな記述が聖書に残されているのか…と読んでいて嫌気がさしてくる箇所ですが、彼らの悪行が今日の世界と決して無縁ではないことを思います。いつの時代も、人間の罪の本質、痛ましい事件、戦争や自然災害はなくなりません。ただ神の忍耐が主の日の到来を遅らせていること、他人の罪にはよく気づいても、自分の罪の深さに気づかなければ、悔い改めて救いの道を見出すことはできないのです。
今日は久しぶりにCGNTVの『みことばに聞く』の撮影がありました。一つの聖書箇所を12~13分でメッセージするのは、私にとっても大切な訓練です。9月に放送されますが、番組を視てくださった方に少しでも福音が伝わればと思います。撮影後にCGNTVのスタッフの方と交わりをしながら、日本宣教の動きについていろいろと伺えることも感謝です。今夏の外部奉仕は今日でひと段落となりました。さて、教会のデボーションは士師記18章に入りました。最後の士師サムソンの記述が終わり、17章、18章とイスラエルはますます混沌としてきます。繰り返されるのは「イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」という言葉です。こういう信仰態度で、どんなに熱心な礼拝を献げても、神がそれを喜ばれることはないでしょう。それは今日の私たちも、肝に銘じておきたいことです。明日の水曜祈祷会ではさらに士師記最悪の事件から学びます。
8月第四主日、今日は献堂6周年記念礼拝でした。この会堂に移ってきたのが6年前。前の通い慣れた会堂もテナントのオーナーがクリスチャンだったこともあって後ろ髪を引かれる思いでしたが、みんなで信仰を持って決断したことを懐かしく思い出します。新しい会堂候補も二転三転しましたが、売り主がクリスチャンだったことも決め手の一つとなって購入しました。それから本当にいろいろな方が導かれ、たくさんの主の御業を見せて頂きました。まだコロナの影響もありますが、昨日も70名を超す来会者がありました。今回はhi-b.aの鈴木雅也師をお迎えして『あきらめたらそこで試合終了ですよと言われる神様』と題してメッセージを取り次いでいただきました。また午後からは二人の兄弟の転入会式を行い、素直な証しに励まされました。この先の未来に向かって、ますます主の素晴らしい福音を宣べ伝え、ともに支え合い、ともに助け合う教会になって行けたらと思います。
8月第四水曜祈祷会、デボーションは士師記13章から。イスラエルの民は主の目に悪であることを行い、主のさばきとして40年間ペリシテ人の支配下に置かれました。苦難の中で人々は悔い改め、主の憐みを求め続けました。そして、主はそんな彼らのために一つ一つ救いの計画を進めておられたのです。主はある夫婦に目を留められて、「あなたは不妊の女で、子を産んだことがない。しかし、あなたは身ごもって男の子を産む。」と告げられました。しかも、生まれてくる子は神に献げられたナジル人で、イスラエルをペリシテ人の手から救い始めるというのです。この信じがたい受胎告知を、この夫婦は信仰を持って受けとめました。思わず、新約聖書のヨセフとマリアの受胎告知を思い出しました。夜は創世記15章から『神の約束』をテーマに学びましたが、共通する一つの御言葉が心に響いてきました。「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」
教会のデボーションは士師記12章に入りました。士師記はイスラエルの歴史において最も暗い時代と言われます。それは、背信と堕落→主のさばき→憐みを求める→士師が起こされるという図式が繰り返されるからです。しかもイスラエルは、士師が生きている間は神に忠実に仕えますが、士師が亡くなると再び背信と堕落の道を辿っていきます。喉元過ぎれば熱さ忘れるの典型的なパターンです。12章では8番目の士師エフタのことが記されています。エフタはアンモン人との戦いに勝利しますが、軽率な誓願をしてしまったことで一人娘を失うことになってしまいました。「誓ってはならない」と言われたイエスさまの言葉を思い出します。結局エフタは文句を言ってきたエフライムも打ち破り、6年間イスラエルを治め、彼の後にはイブツァン、エロン、ヒレルと士師が起こされていきました。なんとも重苦しい内容が続きますが、13章からはいよいよ最後の士師サムソンの登場です。
8月第三主日、今日も猛暑の中でしたが、神の家族がともに集い三回の礼拝を献げました。メッセージは盲人バルティマイの癒しの記事から。イエスさまの癒しの記事で実名があるのは珍しいのですが、きっと当時からよく知られた人物だったのでしょう。彼はエリコの町で物乞いをしていましたが、その町にイエスさまが来られたと聞いて思わず「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください」と大声をあげました。彼にもイエスさまの噂は届いていたのでしょう。もし、それが本当ならこの目も直してもらえるかもしれない…。彼はこの千載一遇の機会に思い切って行動しました。イエスさまは彼の切なる思いを知った上で、あえてわたしに何をしてほしいのかと尋ねられました。イエスさまは今も、私たちに同じように問われます。それは私たちが祈り求めるのを待っておられ、私たちが願う以上に答えてくださるからです。私たちも信仰を持って、恵みの御座に近づきましょう。
今週は台風7号が関西を通過し、多くの地域で停電や浸水被害がありました。箕面の教会は心配していた雨漏りも守られ、鉢植えが倒れたくらいで済みましたが、被害の大きかった地域を覚えてお祈りします。道端にセミが死んでいると思い、車にひかれないように動かそうと思ったら、ジジっと大きな声をあげて飛んでいきました。そんな死期が迫っているようなセミのことを『セミ爆弾』とか『セミファイナル』と言うそうです。せっかく長い期間をかけて成虫になったのですから、一日でも長く地上での生活を送ってほしいと思います。この時期になるといつも思い出すのは『セミは春秋を知らず…』の言葉。夏に生まれて夏に死ぬセミは春秋を知らないし、自分がいる季節が夏であることも知らない。仏教用語ではありますが、キリスト教の永遠のいのちを話す時にも思うことです。余計なことだと言われる方もいますが、ぜひ機会がありましたら教会の日曜礼拝に出てみませんか。
8月第二主日、今日も猛暑の中でしたが、神の家族とともに三回の礼拝を献げました。メッセージはマルコ10章17~31節。裕福な青年がイエスさまに駆け寄って、永遠のいのちにあずかるためには何をしたらいいかを尋ねたところからでした。イエスさまは彼の質問に対してなぜわたしを『良い』というのかと質問で答え、少年の頃から律法を守ってきたという彼を見つめながら、あなたに欠けていることが一つありますと言われました。そして彼が依存している財産をすべて売り払い、貧しい人たちに与え、天に宝を持ち、その上でわたしに従って来なさいと命じられました。それを聞いて、悲しみながら立ち去っていく青年…。その後ろ姿はエデンを去って行ったアダムの姿と重なったのではないでしょうか。主の前に正直な自分を認めることの難しさ、神に全き信頼をおいて歩むことの難しさを覚えました。でも、主はすべてをご存知の上で、今も私たちを招いておられるのです。
教会のデボーションは士師記6章に入りました。士師記の中でも特に印象深い勇者ギデオンの召命です。ギデオンは決して勇気ある戦士と言える人物ではありませんでした。主は指導者としてはおよそ不適格と思われる者をあえて選び、イスラエルを圧迫していたミデアン人から救う『勇士』として用いられました。ギデオンは思わず、自分の民族は弱小で、しかも自分は家族の中で一番若い…等と言い訳をします。「行け、あなたのその力で。…わたしが遣わすのではないか。…わたしはあなたとともにいる。」ギデオンは何か特別な力が与えられ、勇気が倍増して『勇士』となるのではなく、今ある力、その力で行けばよいと言われました。大事なのは、主がギデオンのすべてを知っておられ、その上で遣わすのだから、後は主の命じられたままを行えば勝利を得られることです。私たちも、万事をご存知である主に信頼し、素直に主の呼びかけに応じる者にならせて頂きたいものです。
8月第一水曜祈祷会、タイ宣教師の河野晃師ご家族をお迎えして宣教報告の時を持ちました。はじめにヨナ書4章からメッセージを取り次いでいただき、後半はスライドを見ながら7年間のタイ宣教の恵みをお証しいただきました。河野先生は首と腰の治療とリハビリのために退任されますが、今後のご家族の歩みとタイ宣教の後継者のために心よりお祈りします。午後からは大急ぎで、茨木聖書教会の青年キャンプのために京都市花背へ向かいました。久しぶりのキャンプで再会した子どもたちは、心も体もすっかり青年になっていて驚きました。声がかれるほどの大声で話していたのを思い出しながら、へブル書12章から『栄光のゴール目指して』をテーマにメッセージをさせていただきました。私たちには、自分に定められた道があり、忍耐が必要であり、イエスさまは栄光のゴールを用意しておられます。一人一人の心に蒔かれた福音の種が豊かな実を結ぶことをお祈りしています。
8月第一主日、酷暑の中でしたが、祝福に溢れる一日でした。礼拝メッセージはマルコ10章13-16節から『子どものような信仰で』をテーマに御言葉を学びました。イエスさまに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来ましたが、弟子たちは彼らを叱ったという場面です。弟子たちは子どもたが嫌いだったわけではなく、イエスさまを煩わせないようにしたのでしょう。でも、イエスさまはそれ見て、憤って弟子たちに言われました。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。」子どもたちは何の心づもりもなくここに連れて来られ、また、大人たちもイエスさまに触れていただければという思いで来たのでしょう。でも、イエスさまはそんな思いを超えて、両手を広げ、あるがままの子どもたちを抱き、受け入れ、祝福されました。このイエスさまの愛は、今日もすべての人に注がれているのです。
教会のデボーションは士師記に入りました。ヨシュアの死からサムエルが生まれるまでのおよそ200年のイスラエル史です。この期間、イスラエルには全部族を統一する指導者も現れず、首都と見られる中心地もなく、各部族は独立した行動をとる傾向にありました。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」民は神の御心よりも自分たちの都合を優先して歩んでいたので、神は彼らを周辺諸国の手に渡すことによって裁かれます。民が悩みの中で悔い改めて主に叫び求めると、主は『さばきつかさ』を起こしてイスラエルを救われる…この繰り返しが士師記です。このことから、この時代はイスラエル史における暗黒時代とも言われます。でも、だからこそ、私たちもこの書から神を信じる民としてあるべき姿をあらためて考えたいものです。
松原湖での充実した四日間を過ごして帰阪しました。キャンプの祝福をお祈り頂きました皆さまに感謝いたします。大きな事故やケガもなく終えられたこと、子どもたちが信仰の招きに応答してくれたこと、スタッフの方々の安堵した表情…すべてが守られました。今朝のデボーションは詩篇20篇から。「苦難の日に主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の御名があなたを高く上げますように。」昨夜のキャンプファイヤーは事前予報では雨だったようですが、天候も守られ、雲の切れ間から無数の星が見えました。私たちの人生も時に、雨雲がたちこめるような日もありますが、その向こうで必ず星が瞬いているように、どんな苦難の日にも神さまは必ず見守っていてくださることを話しました。後でひとりの子が『あの話し、わかったよ…』と声をかけてくれて嬉しかったです。四日ぶりの教会では向日葵が満開に咲いていました。ぜひ日曜日、見にいらしてください。
今夏は松原湖バイブルキャンプの講師として招いていただきました。小学生の子どもたちを対象に4回のメッセージをします。コロナも五類になったこともあって大勢の子どもたちが参加してくれました。キャンプの雰囲気に慣れるまでは子どもたちも緊張していましたが、互いに打ち解けてくるとダンスも賛美もゲームもどんどん盛り上がっていきました。ここまで3回のメッセージもよく聞いてくれて、一生懸命メモを取っている姿に励まされました。フリータイムでも積極的に質問しにきてくれた子どもたちがいたり、夜のキャンプファイヤーでもみんなの決心を聞くことができたり、聖書の御言葉が子どもたちの心に響いているのが分かりました。スタッフの方々の事前準備と子どもたちに献身する姿にも脱帽です。日中はやはり厳しい暑さですが、朝晩は肌寒くて暑がりの私でもかけ布団が必要です。とにかく子どもたちから元気をいっぱいもらって、本当に感謝なキャンプでした。
7月第五主日、今日も暑さ厳しい一日でしたが、大勢の方とともに礼拝を献げることができて感謝でした。礼拝では大学生の兄弟がお証しをしてくれました。自己紹介のつもりで…とのことでしたが、とても素直なことばで語ってくれて感動しました。メッセージは、私がうっかりマイクの電源をいれ忘れてしまい、最初のところが聞こえにくくなっています。申し訳ありません。「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」有名な御言葉ですが、あらためてその愛の深さ、神への信頼を覚えました。順境の時も逆境の時も、変らずに背負い続けてくださる主に感謝です。午後からは囲碁・将棋クラスがあり、頭の体操をしました。新しい参加者もいて、名勝負も生まれました。今日も主の恵みに溢れる主日を感謝します。…明日から小学生のキャンプです。
『明日はどんな日か…私は知らない 晴れか嵐か 曇りになるか 私は明日を心配しない イエスが私を守られるから 明日は私にはわからないけど 明日を守られるイエスがおられる』私がまだクリスチャンになる前でしたが、ある集会で聞いた賛美がとても心に響きました。両親と自営業をしていた時、なかなか仕事が軌道に乗らずに落ち込みがちだった私の心境にあったのでしょう。神を信じたからといって、明日の心配が全くなくなるわけではありませんが、明日を造られる主がともにおられるという信仰はなんとも心強い約束です。そんな私も洗礼を受け、クリスチャンとなって25年が過ぎました。最近はいつの間にか、所謂いい牧師になろうとしている自分に気づかされます。最初の献身でいただいた御言葉は「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」でした。イエスさまについていく…この原点に立ち帰って、明日も心からの礼拝を献げたいと思います。
7月第四水曜祈祷会、デボーションの箇所はⅠコリント14章から。コリントの教会内の様々な問題に、使徒パウロは愛をもって答えます。まず異言と預言について、教会という場所においては預言することを求めるように記しました。それは、教会を成長させる預言よりも、異言という個人的な霊的しるしが重んじらる傾向があったからです。また、次に女の人は教会では黙っていなさいともあります。これも、今日では大問題になる言葉ですが、普遍的な原則というよりはコリントの教会特有の問題だったのでしょう。パウロが繰り返し「教会では…」と強調しているのが印象的です。「神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。」「すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい。」聖書は文脈や背景がある書物であって、部分的に切り取って理解することには注意しなければなりません。独りよがりな勝手な解釈に陥らないためにも、教会で一緒に聖書を学べることは感謝です。
月に一度の旧約聖書を学ぶ会。創世記篇としては最終50章から学びました。父ヤコブを見送った後、ヨセフは幸いな晩年でしたが、父が召された後兄弟たちはヨセフからの仕返しを恐れていました。ヨセフの方はもう過去のことを赦しているのに、兄弟たちの方で赦されている実感がなかったのです。私たちはあなたの奴隷ですという兄たちに対して、ヨセフは私は神の代わりになることなどできない、あなたがたがした悪を神は良いことのための計らいとされた、あなたがたの子どもたちも私が養いましょうと、どこまで謙遜で、愛と赦しに富んだヨセフでした。そんな彼にもついに召天の時が来ました。「私は間もなく死ぬ。しかし、神は必ずあなたがたを顧みて…この地から約束の地へ上らせてくださいます。」その時、どうか自分の亡骸も携え上ってほしいと頼みました。毎回、最後に学びのタイトルを聞きますが、『望郷の聖家族』『顧みてくださる主』などが挙がりました。
7月第四主日、梅雨も明け、本格的な夏到来です。メッセージはイザヤ書45章から。主はご自分の民イスラエルを救い出すために、油注がれた者キュロスをお立てになりました。このキュロスに対する預言は、彼が登場する150年も前に告げられたものでした。神は歴史の支配者であり、万物の創造主である方です。そしてイスラエルだけでなく、異邦人を含めたすべての民の救い主です。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。」神がイスラエルを選ばれたのは彼らがどの民よりも数が多かったからとか、その行いが立派で優れていたからでもありません。むしろ、彼らは民の中で最も数が少なく、すぐに不信仰に陥る者たちでした。つまり彼らの側に理由がある訳ではなく、ただ…憐れんでくださる主に尽きるのです。神は今日も同じ理由で、私たちを選び、その大きな愛の中に招き入れてくださることを感謝したいと思います。
今日はハートフル英会話春期コース・最後のクラスでした。大人クラスは講師の誕生日をお祝いしながらケーキタイム、キッズクラスはお米を使ったクラフトで楽しみました。受講生の皆さま、ありがとうございました。しばらく木曜日に会堂から笑い声が聞こえなくなると思うと寂しいですが、また秋期コースでお会いできるのを楽しみにしています。今日7月20日はアポロ11号が人類史上初めて月面着陸した日です。アームストロング船長はこう言ったそうです。『一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な躍進だ。(That's one small step for a man, one giant leap for mankind.)』また、乗組員だったオルドリン飛行士は一時プライベートのため通信を切って無言で感謝を捧げ、一人で聖餐式を行ったことも有名です。数えきれないほどの失敗と挫折を繰り返して、人類はついにこの日を迎えました。今夏、何か新しい一歩を踏み出してみるのもいいかもしれません。
7月第三水曜祈祷会、今日は暑さもひと段落でした。デボーションはⅠコリント10:14~33から。昨日に続いて、パウロは聖餐式という視点から偶像礼拝の問題を指摘しました。聖餐式では私たちがキリストにあって一つであることを覚えるのですから、偶像に捧げた肉を食べる、または悪霊の食卓にあずかることは悪霊と交わることであることを心していなければならないというのです。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すベて神の栄光を現すためにしなさい。」何もするにも神の素晴らしさを現していく、すべてのことですべての人を喜ばせるように努めていく、それはまさにキリスト・イエスに倣う生き方です。確かにクリスチャンはキリストにあって自由な者ですが、他の人のつまずきとならないように配慮し、自らを制限するのは大事なことです。私たちも聖霊に助けていただいてイエスさまに倣う生き方をしていけたらと思います。
教会のデボーションはⅠコリント10:1~13から。パウロは偶像礼拝と飲食について実例を挙げて記していきます。最初にイスラエルの先祖の出エジプトの恵みから、バプテスマと聖餐を連想させることで、イスラエルと教会は同じ恵みと責任が与えられていることを示しました。イスラエルはその受けた恵みにも関わらず、神の御心にかなわず(悪を貪り)大部分が約束の地に入れませんでした。パウロはこれらのことが起こったのは、私たちを戒めるための実例だというのです。今日の信仰者にとって最も気をつけなければならないのは偶像礼拝の問題です。偶像は様々な形に姿を変えて近づいてきます。自分は大丈夫…というのが最も危険です。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」今日は朝から蝉時雨、暑い夏の到来を喜んで蝉たちが一斉に鳴き始めました。クリスチャンにとっても伝道の夏到来です。まことの主を賛美して、みことばを宣べ伝えましょう。
7月第三主日、梅雨開け間近いよいよ夏到来という一日でした。礼拝メッセージはイザヤ書44章から。「今、聞け。わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルよ。」神は背信のイスラエルに向かって、あなたはわたしの民だ、わたしが選んだ者たちだと呼びかけられます。見捨てられても仕方のない民を、神はどこまでも忍耐強く、わたしはあなたを母の胎内にいる時から形造り、あなたを助ける主であると言われたのです。今日の礼拝の最後、ある姉妹が引っ越しをするのでお別れの挨拶をしてくださいました。姉妹は20年近く教会にこられていましたが、最初に出会った頃は『洗礼を受けるつもりはありません』と仰っていました。でも、主はそんな彼女の心を変えてくださって、今から5年前に受洗に導いてくださいました。『引っ越し先でも教会を見つけて通います』という姉妹の笑顔に何とも励まされました。出会いは別れの始まりですが、別れは新しい関係の始まりです。
今日もハートフル英会話クラスから楽し気な会話が聞こえてきました。チャペルタイムの際には、あるご婦人が『今度のクリスマスに夫婦で洗礼を受けることになりました。』とTestimonyをしてくださいました。ご主人は学生時代から聖書を読んで、神さまのことも信じていたそうですが、『もう少し聖くなってから』『もう少し聖書をよく学んでから』と洗礼を躊躇していたそうです。同じように考えている方も多いのではないでしょうか。On hearing this, Jesus said to them,"It is not healthy who need a doctor,but the sick. I have not come to call the righteous, but sinners."『もう少し病気がよくなってから、病院に行きます』という人はいません。医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。私たちも罪人だからこそ、イエスさまが必要です。イエスさまは正しい人ではなく、罪人を救いに招くために来たという言葉をそのまま信じて頂けたらと思います。
7月第二水曜祈祷会、今日はオンラインが上手く繋がらずご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした。次回は細心の注意を払って配信したいと思います。Ⅰコリント7章からパウロがコリントの教会からの具体的な質問に答えていくところでした。道徳的倫理的に堕落していたコリントの町という事情を考慮して、パウロは「淫らな行いを避けるため」「自制することができないなら」結婚しなさいと言いました。そんな中にも「夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。」という言葉に、一夫一婦、男女平等という聖書の原則が記されているのが心に留まりました。「結婚」は神が人間を造られて最初に定められた制度です。そしてサタンが最初に壊そうとしたのも「結婚」でした。結婚の乱れは社会の乱れに通じる、ある先生が仰っていたのを思い出します。教会こそ結婚の奥義を語っていかなければならないと思っています。
7月第二主日、活発な梅雨前線の影響で各地に被害が発生しています。心よりお祈りしています。礼拝ではイザヤ書43章からメッセージを聴きました。神に背を向け、不信仰な生活を続けるイスラエルの民に、神は神の愛の言葉が告げられます。「だが今、主はこう言われる。『恐れるな、わたしがあなたを贖ったからだ。あなたはわたしのもの。」思えばアダムとエバが罪を犯して楽園から去っていく時から、神はずっと罪人の背中を見てこられました。イエスさまが語られた放蕩息子の父親の姿、十字架上で「父よ、彼らをお赦しください」と叫ばれたイエスさまの姿が思い出されました。神の御心は悪しき者の死ではなく、彼がその生き方から立ち返って生きることです。礼拝に久しぶりに来てくれた兄姉の顔が目に入ったら、主の御思いが胸に迫ってきて…ついメッセージに力が入ってしまいました。今週も、主の御言葉がお一人ひとりの生活を支え、力づけてくださいますように。
教会のデボーションはⅠコリント4章から。パウロはここまでコリントの教会に厳しい事を言ってきましたが、「キリストにあって、あなたがたを生んだ…」父親としての愛情から出た諭しでした。パウロは「あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。」と言います。それは、パウロ自身というよりも、キリストに倣って生きる自分を模範とすることで、人々とキリストを結びつけようとしていたのです。いつの時代も、教会には良きリーダー、良き模範が必要です。恥ずかしながら、私はパウロのようには言えません…。でも、私の人生の中で良き模範となる兄姉と出会わせて頂いたのは感謝です。頭に思い浮かぶ兄姉はみな、謙遜で忠実な方々でした。その方々を通して、私もキリストへの信仰を深めていったように思います。クリスチャンになって最初にあこがれた榎本保郎牧師は『私に倣う者になってください』と言っただろうか。いつか天国で聞いてみたいです。
7月第一水曜祈祷会、今日は晴れ間が見えたかと思えば、急に激しい雨になったり、大気の状態が不安定な一日でした。御言葉はⅠコリント3章から、教会内に『私はパウロにつく』『私はアポロに』と分裂・分派が生じていたことを受けて、パウロは「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」と答えました。人はどうしても目に見えるものに影響を受けやすいものです。目に見えない神よりも、目に見える人に心を寄せてしまうのは致し方ないことなのかもしれません。でも、だからこそパウロはそこから一歩成長して、すべてをご支配しておられる神に目を向けようと言うのです。私たちが御霊に属する人になる秘訣は、徹底的に肉の思いを捨て去ることです。古い考えや習慣を引きずったままで、新しくされるというのは難しいでしょう。神の前に握りしめている手を開いて、委ねるなら、神はより多くのものを手の中に掴ませてくださるのです。
私が最初に牧師になろうと決心したのは、友人の葬儀の時でした。友人と言っても、8歳も年下の青年で、向こうが私を友人と思ってくれていたかどうか…。ただ何でも思った事を正直に話してくれるのが、私にとっては有難い存在でした。彼は心の病を抱えていて、家族との関係も難しく、中学の時から家に引きこもっているとのことでした。私には知り得ない大変な重荷を抱えているのがわかりました。でも、ある時、私に言ってくれたことがありました。『わたちゃんの聖書の話しは難しすぎる。もっとわかりやすく話してくれたら信じるのに…』その後、20歳の誕生日を前に彼は海の事故で天に召されました。あれから27年になりますが、私にとって今も大切な言葉として心に響いています。彼とお母さんのことが『語らいと祈り』という本の中で少し紹介されていました。ぜひお勧めします。
7月第一主日、梅雨の晴れ間の一日となりました。礼拝メッセージはイザヤ書42章から。「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともなく、真実をもってさばきを行う。」イエスさまは、イザヤがした700年以上前の預言通りに到来し、まさに傷つき倒れそうになっている者を、信仰の灯が消えかかっている者を、慰め、励まし、力づけられました。そして主は今も、今日の私たちを召し、その手を握り、見守り、国々の光としてくださるのです。「こうして、見えない目を開き…闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出す。」神はすべての人を罪の縄目から解放し、救われてほしいと願っておられます。今日も午後から80歳になる兄弟の洗礼式がありました。『主と家族とともに新しい人生を歩み出します』という素晴らしい証しを聞かせていただきました。何歳になっても、主にあって人は新しくされ、永遠の御国を約束された祝福の人生を歩み出すことができるのです。
ライフワークスの野田社長に、キリスト教葬儀について取材して頂いたものがYouTubeで公開されました。キリスト教葬儀について広く多くの方に知って頂けましたら幸いです。さて、教会のデボーションは詩篇19篇に入りました。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」C.S.ルイスは、この19篇を『詩篇中、最高の詩。世界最高の叙情詩の一つ』と言ったそうです。とかく目の前の現実しか見ていない日常生活から、目を高くあげて、限りなく広い大空に目を向けるなら、小事に一喜一憂する自分が小さなものに思えてくるのではないでしょうか。大空を造られた偉大なる神が「わたしはあなたとともにいる」と仰ってくださっていることをいつも忘れないでいたいものです。今年の梅雨明けはもう少し先になりそうなので、満点の星はおあずけですが、雨はあがりますので楽しみにしましょう。それより今は大雨による被害が最小限に抑えられますように…。
6月第四水曜祈祷会、今日も午前・午後と御言葉を開きました。朝は詩篇18篇から、主によって数々の敵、特にサウルの手から救い出された日に、ダビデが歌った詩篇です。「この主を呼び求めると私は敵から救われる」今日は嬉しい知らせがありました。教会のある青年のお母さんが、倒れて一週間以上意識が戻らなかったのですが、今日その意識が戻って、人工呼吸器も取れましたとLINEがありました。御言葉の通り、神は祈りに応えてくださいました。まだ手術があるものの、一先ず安心です。お祈りくださった方々本当に感謝いたします。夜はマタイ26章から、イエスさまのゲッセマネの祈りを学びました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」全人類の全ての罪を背負われ、その裁きを一身に受けられたイエスさまの苦難は計り知れません。「…わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」祈りの真髄はここにあると教えられました。
教会では月に一度『旧約聖書を学ぶ会』を行っていて、これまで創世記を一章ずつ学んできましたが、残り二章となりました。創世記の後半はエサウとヤコブの長子の権利争いに始まり、創世記に出てくるどの人物よりも長く記されていて、このことからも神の契約の歴史においてヤコブが占める位置がどんなに重要であるかがわかります。ヤコブはやがてイスラエルと呼ばれるようになり、彼の十二人の息子たちから十二部族が誕生しました。失敗と悔い改めを繰り返し、主の励ましと恵みに生かされて、文字通り、波乱万丈の人生を歩んだ人です。今日の学びはそんなヤコブの最期の場面でした。ヤコブは自分の死期が迫る中で子どもたちを呼び寄せ、遺言のように一人一人に神の預言を伝えました。「息子たちに命じ終えると…息絶えて、自分の民に加えられた。」子どもたちに見守られながら平安の内に目を閉じたのでしょう。そして、次に目を開ける時は、主にまみゆる日です。
6月第四主日、今日も湿度の高い蒸し暑い一日となりました。礼拝メッセージはイザヤ書41章から。全世界の支配者であり、歴史を創造される方はイスラエルの民を「わたしのしもべ」「わたしの友」と呼ばれました。「しもべ」とは「神の所有とする民」ということであり、「わたしの友」とは直訳は「わたしの愛する者」です。神はご自分の民に「恐れるな」と繰り返し告げられます。それは、神があなたとともにおられて、あなたを強め、助け、守られるからです。「わたしがあなたの神だから。…わたしの義の右の手であなたを守る。」この御言葉を暗唱して、いつも口ずさんでいる方も多いと思います。礼拝後の分かち合いの時間でも、とても良い証しを聞くことができました。互いを覚えて祈り合うことも対面ならではの恵みです。午後からはバイブルクラス、小さい子どもたちはジャガイモほり、青年たちは卓球、バイオリンクラス…と今日も盛りだくさんの一日でした。
預言者イザヤは、神の思いは人間の思いよりもはるかに高いものだと告げます。雨や雪は地に降り注いで、再び天に戻る循環の過程の中で作物を育て豊かな実りをもたらします。同様に、みことばも人々に伝えられると必ず実りをもたらし御心が実現していくのです。天からの雨がなければ作物は育たないように、みことばが伝えられなければ他にのような人間的な活動があっても人を御心にかなったいのちに生かすことはできません。また、天からの雨を人が拒むことができないように、主の救いの計画も人の力で押しとどめることはできないのです。地に吸い込まれた雨は、なんの働きもしていないように見えますが、実は見えないところで重要な役割を担っているように、みことばも人の心に染みこんで、それで終わってしまったかのように見えても、実は力強く働いて時を待っているのです。今年も暑い夏を前に、ジャガイモがいっぱい獲れました。主の豊かな恵みに感謝します。
先日、ドイツのある教会で(AI)のチャットGPTで作成したものをアバターの牧師が説教する礼拝が行われ、300人以上が参加したというニュースがありました。海外の教会ではすでにAI の技術を活用して祈りの支援サービスや教会探しなどを行っているとのこと…。今後日本の教会も閉鎖や無牧の教会も増えていくことを思うと、AIの導入は不可避なのかもしれません。今はまだ笑ってしまう説教だとしても、未来ではもっと精度が上がって、AIと人間の判別も難しくなる時代もそう遠くないのでしょう。そうした中で、人間がAIに誇れるものと言えば、私は弱さなのだと思います。「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」私たちは弱いからこそ、神の臨在を感じることができます。「私が弱い時にこそ、私は強い。」という御言葉は常に真実です。
6月第三水曜祈祷会、朝はヨシュア記21章から、夜はヨハネの福音書21章から御言葉を心に留めました。ヨシュア記は「あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。」という言葉で始まりました。但し、その約束は易々と叶えられるものではなく、彼らの行く手には様々な問題が立ち塞がりました。途中、恐れやあせり、不安…を感じることもあったでしょう。でも、彼らは約束を信じて前進し続けたのです。「主が告げられた良いことは…すべて実現した。」信仰とは決断と行動を要することを改めて教えられました。ヨハネの福音書21章は復活の主がペテロに「ヨハネの子シモン、あなたは…わたしを愛していますか。」と三回尋ねられたところから。それはペテロがイエスさまの弟子になる前の名前です。イエスさまは傷心のペテロに近づいて声をかけられ、彼を赦し、立ち直らせました。そんなペテロだからこそ、私たちは共感するのでしょう。
今日、和歌山開拓・岩出みのりチャペルが開所式を迎えました。和歌山県に同盟教団の初の教会です。近年、様々な事情で閉鎖する教会も増えているそうですが、宣教の主に押し出されての新たな開拓です。派遣される中村忍牧師は真面目でユニークな先生、青年たちの面倒見もよく、何より信仰の人。お近くにお越しの際はお立ち寄り頂ければ幸いです。さて、教会のデボーションはヨシュア記20章まできました。約束の地の割り当て地も決まり、なお残る課題は逃れの町とレビ人の割り当て地を定めることです。『逃れの町』は、誤って人を死に至らしめた者が『血の復讐』をする者から逃れるために逃げこむ所です。まるで裁判を待つ間の刑務所のような場所でしょうか。新約時代の私たちはイエスさまの贖いによってすべての罪が赦されますが、この地上においての責任は免れません。『人は種を蒔けば、刈り取りもすることになる」厳しい言葉ですが、罪の重さを教えています。
6月第三主日、朝から梅雨らしい湿度の高い一日となりました。礼拝メッセージはイザヤ書40章から。イザヤ書の構成は、前半の1~39章と後半の40~66章に大別されます。前半は罪の告発に始まり、新しい時代の待望が綴られ、後半は捕囚からの解放宣言に始まり、新天新地で終わります。この時すでに隣国の北イスラエルはアッシリアによる攻撃を受け、国家的危機に陥っていました。その影響が南ユダにも及びつつあるにも拘らず、民は神に背を向け、神以外のものにより頼もうとしていたのです。そうした中で、主はバビロンによる裁きを宣告した後、全く新しい観点から救いの計画を示されました。「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。」それは神からの一方的な赦しと希望の良い知らせ(福音)でした。そんなイザヤの言葉にも耳を傾ける人は少なったでしょう。それでも神は「力の限り声をあげよ」とイザヤを鼓舞しました。神は同じように私たちにもお命じになられるのです。
今日もハートフル英会話から楽しそうな笑い声と元気いっぱいの子どもたちの声が聞こえてきました。チャペルタイムでレイチェル先生が預言者イザヤの話しをしてくれました。コインを投げて、表(Head)と裏(Tail)を当てる確率は1/2ですが、一年後も自分がクラスにいるかどうかを当てるのは???。未来に何が起こるか…それはだれにもわかりません。でも、預言者イザヤは700年後の未来にメシアが到来することを預言しました。どうしてそんなことができたのか。それはイザヤがいつも神の声に耳を傾けていたからです。ちなみに『預言者』の『預』が、『予』ではないことも話題になりました。それは単に未来のことを言い当てるのではなく、神の言葉を預かって語るのが預言者だということです。そう考えると、私たちクリスチャンも現代の預言者ということが言えるでしょう。聖書を通して神の語りかけを聴く…それは確率の問題ではなく、最も確かな未来の出来事です。
6月第二水曜祈祷会、朝は高橋央也師&恵師のインドネシア宣教出発報告会がありました。なぜジャカルタの日本語教会に行くことになったのか、どんな召しを聞いたのか、先生方から直接お話しを聞けたのは感謝でした。央也師は神学校を卒業し牧師になりましたが、体調を崩して五年ほど働きから遠ざかっていた時期もあったそうです。それから20年…「測り綱は私の好むところに落ちた」とあるように、神は一番良い時、良い場所に導いてくださったと証ししてくださいました。高橋師ご夫妻の報告会はこちらからご視聴いただけます。また夜はルカ22:31‐34、ペテロが主を否認するところを読みました。ここを読むと、なぜ神はサタンが麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられたのか、なぜ主は試練がなくなるようにではなく、信仰がなくならないように祈られたのか、いろいろな疑問が湧いてきますが、とにかくペテロは生きて主を証した…ここに希望があります。
『もし今日が人生最後の日なら、自分は何をするだろうか…』スティーブジョブスがある大学の卒業式で行ったスピーチの一言です。私も50歳を過ぎた頃から、あと何回礼拝でメッセージができるかを考えるようになりました。過去の説教原稿も全部残しているので、同じ説教箇所に当たると、過去の自分の未熟さと再会することになります。今もそれほど変わってないのかもしれませんが、もし成長しているのだとしたら、主の憐れみと未熟な牧師の説教を17年間も聴き続けてくださった教会のおかげです。最近は一緒に教会生活を送ってきてくださった兄姉の中にも高齢になるにつれて礼拝に通いにくくなっている方もいます。教会は年配の兄姉のこの先のことも具体的に考えて行かなければと思わされています。同じ主の日は二度ときませんので、今日が地上で一緒に献げられる最後の礼拝だとしたら…と思って、講壇に立ち、ベストを尽くし、交わりを持っていきたいと思います。
6月第二主日、梅雨らしい曇り空の一日でした。礼拝ではⅠペテロ2:11からメッセージを聴きました。クリスチャンは天に故郷があり、地上では旅人、寄留者ですが、異邦人の中にあって立派に振る舞いなさいというペテロの勧めが心に残りました。ペテロは、手紙をの受取人たちが、異教社会の中で言われのない迫害に遭っていることを知っていながら、それでも人が立てたすべての制度に主のゆえに従いなさいと記したのです。「自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。」この自由は自分の我を通すことや罪を言い逃れるための自由ではなく、神を愛するがゆえの神の御心に従う自由です。神のしもべとして、自分を愛してくださる方に喜ばれる歩みをしていきたいものです。今日の午後は囲碁・将棋クラス、バイオリン教室、夕礼拝がありました。夕礼拝もゆっくりメッセージを味わうとてもいい時間です。どなたでもお越しください。
イエスさまはペテロに「わたしをだれだと言いますか」と聞かれました。そこでペテロが「あなたは生ける神の子キリストです」と答えると、イエスさまは「あなたは幸いです」と言われました。イエスさまはキリスト教の教祖でもなければ、被造物の中で最初に造られた方でもありません。「わたしを見た人は、神を見たのです」とある通り、イエスさまは神ご自身である方です。イエスさまの神性や先在性は聖書の幾つもの箇所で啓示されていますが、今もそれを誤って解釈している方々がいます。先日も教会の前を通られた二人組の女性とこの件について話す機会がありましたが、自分たちの独自の解釈をひとしきり話された後は、私の話しは殆ど聞いてくれませんでした。他にも、輸血拒否の問題、児童虐待、排斥問題、選民思想、誤った終末論…など聞きたいことはいろいろありましたが…少し立ち止まって、他の考えにも謙遜に耳を傾けることも必要なのではないでしょうか。
6月第一水曜祈祷会、朝はヨシュア記11章から、夜はヨハネ13章から御言葉を心に留めました。イスラエルと戦うためにハツォルの王ヤビンを中心に北部同盟軍が集結し、陣を敷きました。すると主はヨシュアに「彼らを恐れてはならない。明日の今ごろ、わたしは彼らをことごとく…」と告げられました。海辺の砂のような大軍勢、馬や戦車も非常に多い北部同盟軍を前に、身震いしない者はいなかったでしょう。でも、ヨシュアを筆頭にイスラエルの民は勇敢に戦い、主が告げられらた通りに行って大勝利を治めたのです。私たちも神のすべての武具を身にまとい、信仰の戦いに勝利していきたいものです。夜は最後の晩餐の席でイエスさまが弟子たちの足を洗われたところを読みました。主の十字架の愛がこれほど胸に迫って来る箇所はありません。「今はわからなくても、後で分かるようになる…」イエスさまが最後に示された愛の模範をいつも思い起こす者でありたいものです。
教会のデボーションはヨシュア記10章から。ヨシュア記はパレスチナにおけるイスラエルの民の戦記です。主はイスラエルの民がエジプトにいた時、乳と密の流れるカナンの地を与えると約束されました。ところが、そこは決して乳と密の流れるようなのんびりした楽園ではなく、すでに彼らが移住する余地もないほど先住民が住んでいたのです。従って、彼らはその約束の地を戦いによって勝ち取らなければなりませんでした。思えば、使徒パウロも「私たちは、神の国に入るのに、多くの苦しみを経なければならない」と語っていました。同じように、私たちも今日戦わずして神の嗣業を受け継ぐことはできないことを覚えておきたいものです。クリスチャンになれば何もかも人生が上手くいくわけではありません。むしろ、信仰ゆえに問題は多く感じるかもしれませんが、神のいない人生ほど虚しいものはありません。神がいるからこそ、私たちが受ける苦難には意味があるのです。
6月第一主日、礼拝メッセージはⅠペテロ2章1-10から。「純粋な、御言葉の乳を慕い求めなさい」「霊の家に築き上げられ」「この方に信頼する者は決して失望させられることがない」「あなたがたは選ばれた種族」など大事な御言葉が幾つも出てくる箇所でした。ペテロは旧約聖書を上手に引用してキリスト者としての特権と使命を伝えています。当時の異教社会の中で迫害にあっていたキリスト者たちも、改めて今自分たちは神の民であり、憐れみを受けた者であることを確認し、力づけられたことでしょう。それはそのまま今日の私たちクリスチャンへのメッセージでもあります。私たちがクリスチャンになったのは神の栄誉を告げ知らせるためですというのが心に響きました。今日は午後から久しぶりに教会ピクニックに行きました。梅雨の晴れ間、近くの唐池公園でお昼ご飯を食べ、子どもたちは元気に走り回り、大人たちもゆっくり交わりを持つことができて感謝でした。
ヘレンは視覚と聴覚の重度のハンディキャップを持ちながら、3つの博士号と、3か国語をマスターした「20世紀の奇跡」とも言われた方です。彼女はサリバンというクリスチャンの家庭教師と出会い、人生が大きく変わりました。サリバンは聖書を読んだことがない、教会に行ったこともない彼女にどうやって神さまのことを教えられるだろうか…思案していました。そんな時、ある牧師がサリバンに言います。『心配いりません。目が見えず、耳が聞こえず、話すことができなくても、人間である限り、彼女にも必ず神さまのことがわかります。』ある日その牧師がヘレンのもとを訪ね、サリバンの掌にする通訳を通して熱心に信仰について話すと、彼女はこう言いました。『先生。私はそのことを前から知っていました。ただ、その方が神さまという名前であることを今初めて知りました。』その場にいた人々はみな驚いて神を崇めたそうです。今日はそんな彼女の天国凱旋日でした。
5月第五水曜祈祷会、朝はヨシュア記6章から御言葉を心に留めました。難攻不落のエリコの城壁を前に、主はヨシュアに言いました。「見よ、わたしはエリコその王、勇士たちをあなたの手に渡した。」つまり主の目にはすでにエリコは陥落し、ヨシュアの手に渡していると言われたのです。後はヨシュアたちがその約束を信じて前進するだけでした。私たちも目の前に大きな問題が立ち塞がっても、主のことばに愚直に従う信仰を持ちたいものです。また、イエスさまはペテロとヤコブとヨハネを連れて高い山に登り、光り輝く姿に変貌されました。それを見たペテロは何を言ったらよいか分からなくなるほど恐怖に打たれたとあります。すると雲の中から「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」という声を聞いたのです。神は私たちの頭の中だけの方ではなく、実際に現れてくださる方です。今日は久しぶりに安宣教師とテファン兄が朝の祈祷会に来てくださいました。
今日は午前にキリスト教葬儀社ライフワークスのYouTube撮影がありました。『葬儀』の視点から地域教会を紹介するという企画です。結婚式にもキリスト教式、神前式、人前式があるように、葬儀式にも仏式だけでなく、キリスト教式があることを知ってほしいと、私は常々思っています。規模は違いますが、先日のエリザベス女王の国葬がTV等で放映され、キリスト教式葬儀の素晴らしさを知った方も多くいます。教会によって若干考え方の違いはありますが、まずは相談してみて頂けたらと思います。また、午後は『旧約聖書を学ぶ会』がありました。創世記48章から、ヤコブは自分の死期が近づく中で、二人の孫を引き寄せて、頭に手を置いて祝福を祈りました。そこで普通なら右手(権威を示す)を兄マナセの上に置くところを弟エフライムの上に置いたのです。なぜと思うところですが、この辺りが神の選びの不思議さです。一筋縄でいかないところが聖書の奥深さなのです。
5月第四主日、蛍池聖書教会の森田悦弘師をお迎えしてメッセージをとりついで頂きました。詩篇23篇から、私たちには人生の羊飼いである方が必要であること、主は私たちのために先々に恵みを準備してくださっていることを語ってくださいました。私たちが恵みを求めて探し回るのではなく、羊飼いである主がすべてを準備をして、それがまるで自分を追いかけてくるようだというのです。人生は、緑の牧場や憩いのみぎわばかりではありません。むしろ、わざわいや死の陰の谷を歩むような時があります。それでも主がともにおられるという慰めと平安が私たちにはある、わが杯はあふるるなり、です。終始穏やかな口調で、丁寧に語ってくださったのが印象的でした。私は蛍池聖書教会のオープンチャーチ礼拝でメッセージを取り次がせていただきました。温かい雰囲気の教会で幸いな交わりをさせていただきました。私たちの教会にいた姉妹にも久しぶりに会えて感謝でした。
5月は日本各地で地震が相次ぎました。今週だけでも震度3以上が9回、震度5弱が2回観測されています。いざという時のために非常品や避難場所を確認しておくことは大事です。考えたくないことですが、南海トラフ大地震は30年以内の発生確率が70~80%と言われています。もし明日の天気予報で降水確率が70~80%と言われたら必ず傘を持参するはずです。ところで、道に迷いやすい私たちは人生における正しい道に導いてくれる羊飼いが必要ではないでしょうか。明日の礼拝はキリスト教暦ではペンテコステですが、私たちの教会では歓迎礼拝として献げます。初めて教会に来られる方や、久しぶりに来られる方にお勧めです。明日は特に、蛍池聖書教会の森田悦弘牧師をお迎えしてメッセージをとりついでいただきます。Youtubeでも視聴することができますが、やはり実際に教会で聴くメッセージは特別な神の語りかけとなるでしょう。ぜひ明日の歓迎礼拝にお越しください。
今日から教会のデボーションはヨシュア記1章に入りました。ヨシュア記はモーセの後継者となったヨシュアが主の助けと導きによって、イスラエルの民とともに約束の地カナンに入り、その地を占領していく歴史です。本書を読む上で注意したいのは、これまで様々な民族が繰り返してきた外国侵略の一つのように解釈してはならないことです。これはあくまでも、神がご自身の約束を実現するための、神の贖いの計画に基づいた特殊な出来事であることです。ヨシュア記を例にとって聖戦思想を振りかざすことは、現代のいかなる国にも許されていません。今は、平和をつくる者は幸い、平和の福音を宣べ伝える時です。「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」私たちは今何を恐れ、何におののいているのでしょう。神の告げられる命令には必ず約束があるのです。
五月第四水曜祈祷会、午前は創世記50章から、午後はマタイ16章から、聖書の言葉を学びました。父の寵愛を受けていたヨセフは兄たちの嫉妬を買い、エジプトの商人に売られ、牢獄に入れられ、人に裏切られ…なんとも悲惨な人生を歩みました。それでもヨセフは神につぶやくこともなく、置かれた所で精一杯仕えました。主はそんな彼とともにおられ、やがて時至ってエジプトの王ファラオの夢を解き明かすことで、エジプトの宰相となり、未曽有の災害から全世界を救ったのです。神はそんなヨセフに父ヤコブをはじめ兄たちとの再会の時を備えておられました。それはまるで天国での再会を思わせるような感動の場面でした。ヨセフは苦難の人生を歩みましたが、神はそれを良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。人生は何が起こるかわかりません。すべてをご存知である神の計画を信じて歩みましょう。
5月第三主日、礼拝メッセージはⅠペテロ1:13‐25~。ペテロは試練の中にあるキリスト者たちを励まし、力づけるメッセージを書き送りました。私たちはキリストを信じる信仰によってすでに救いにあずかり、聖化の段階を経て、やがて栄光のからだに変えていただくことが約束されています。「ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」そのために聖なる者となること、神と父として敬うこと、互いに熱く愛し合うことを教えました。『聖なる者』とは、『聖人君子』のことではなく、他とは区別された者、神のものとなるということです。私たちは生きている限り、罪の誘惑が絶え間なく襲ってきて、その他に試練があり、苦難があり、信仰が試される場面がいくつもあります。でも、聖化の段階において大事なのは神への従順さです。神は私たちを救いの完成まで必ず導いくださるからです。
久しぶりにキリシタン遺物資料館に行ってきました。資料館は教会から車で20分程の所にあるのですが、今日は知人の教会の方々が奈良から来られるというのでお邪魔させて頂きました。今は『ザビエルのはこー隠し続けたキリシタン遺物ー』という企画展を行っていて、歴史を感じる貴重な遺物の数々が展示されています。思えば10数年前に神学校の先生と一緒に来た時には、大神さんという家を訪問させて頂いて、年配のご婦人がおもむろに風呂敷包みの中から厨子入り象牙彫りキリスト磔刑像や紙本銅版画などなど珍しい遺物を見せていただきました。他にも、400年以上前のキリシタンの墓碑を探索したことなど懐かしい思い出がよみがえってきました。1549年に日本に初めてキリスト教が伝来し、ザビエルをはじめ伴天連、伊留満たちによって広められ、高山右近をはじめキリシタン大名まで現れた時代…、命がけで信仰を守り通したキリシタンの息吹を感じて帰ってきました。
5月第三水曜祈祷会、このところ気温がグングン上がって日中は30度を超える日が続いています。教会前の花たちも力強く咲き誇り、見る者の心を励ましてくれています。創世記45章~、ヨセフがいよいよ兄弟たちに自分の身を明かす場面です。兄弟たちが過去の罪を悔い改めていることを知って、ヨセフは自分を制することができず、声をあげて泣き、「私はヨセフです」と告げると、兄たちは驚きのあまり答えることができませんでした。ヨセフが兄弟たちに売り飛ばされてしまってから20年あまりの年月が経ち、ヨセフが生きていただけでも驚きなのに、事もあろうにエジプトの宰相になっていたのです。「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神があなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」ヨセフはここまでの苦労もすべて神の導きであったことを確信して、兄たちと真の和解を分かち合ったのです。
教会のデボーションは創世記44章~。ヨセフは兄弟たちが父ヤコブと弟ベニヤミンのことをどう思っているかを知るために、銀の杯を盗んだ嫌疑をかけました。兄弟たちは自分たちの潔白を主張しますが、杯はベニヤミンの袋から見つかり、ヨセフの前にひれ伏して赦しを請います。以前、ヨセフが夢で見た光景がこのような形で成就したのです。兄たちは自分たちの過去の罪を神が暴かれたのだ…と悟らされ、正直に悔い改めました。そして、ユダはベニヤミンの代わりに自分が奴隷となりますので、弟を家に帰してあげてほしいと必死に訴えたのです。私たちも自分でどうすることもできない状況に追い込まれて初めて罪の重さに気づかされるということがあるのではないでしょうか。罪は蓋をして心の奥にしまい込んでいても…決して解決には至りません。そこに光があてられるのは神が私たちを本当に愛し、取り扱っているしるしです。真の悔い改めには必ず赦しがあるのです。
5月の第二主日、今日は母の日歓迎礼拝でした。朝から小雨が降る中でしたが、今日も3つの礼拝に大勢の方が来られました。メッセージはⅠペテロ1:6-12~。「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが」手紙の受取人であるキリスト者たちは、異教社会にあって、迫害を受け、試練の中にありました。ペテロはそんな彼らを励まし、力づけ、希望を与えるためにこの手紙を書いたのです。私たちの人生も、様々な時があり、艱難辛苦、苦しみと悲しみがあります。それはキリスト者であろうとなかろうと襲ってくるものです。でも、この手紙を読んでいるあなたがたには「望み」があると言います。そして、その望みの源にあるのが「救い」です。今日は午後から洗礼式もあって、一人の兄弟が救いの証しをしてくれました。人生の大切な場面に立ち会わせて頂いて…私も信仰の初心を思い出しました。
教会のデボーションは創世記43章~。ヤコブの息子たちは再びエジプトに戻るには、弟のベニヤミンと一緒でなければならないと言いました。父ヤコブはそれだけはできない…と言っていましたが、ユダの必死の説得によって観念し、承諾しました。ヤコブは「全能の神が…おまえたちを憐れんでくださるように」と祈りをもって彼らを神の御手に委ねたのです。明日は母の日。(起源には諸説ありますが…)1905年5月、アメリカのあるひとりの女性が亡き母の記念会で来会者にカーネーションを送りました。その習慣がやがてアメリカ全土に広がり、1914年に正式に5月第二日曜日が母の日として制定され、今も世界中で祝われているのです。『親思う心に勝る親心』と言いますが、あらためて自分を産み、ここまで育ててくれた母への感謝を表したいものです。明日は教会でも母の日歓迎礼拝があります。女性の方にはお花のプレゼントを用意しています。ぜひお出かけください。
新型コロナウィルスの感染症法上の分類が季節性インフルエンザと同じ『5類』に移行されたことを受けて、教会も、感染対策の緩和か、継続かで今後の対応を話し合っています。2020年のコロナ感染拡大から、三度の緊急事態宣言、来会の自粛など、かつてない問題に手探りでオンライン配信を始めました。最初は通信エラーのようなこともよくありましたが、皆さまにもご忍耐いただいて少しずつ機材も環境も整ってきました。また、これまでいろいろな事情で教会に来れなかった兄姉が自宅から礼拝や祈祷会を視聴できるようになったことで大変喜んでくれました。コロナがなければ考えもしなかった方法ですが、多くの方々とつながり、一緒に福音を分かち合えるようになったことは大きな恵みです。だからこそ、この先の展開も重要だと思っています。よく祈りつつ、天国での礼拝を思い描きながら、教会のリアルな礼拝も、オンライン配信も充実させていきたいと思います。
5月第二水曜祈祷会、朝は創世記41章46節から、夜はマタイ14章22節からみことばを心に留めました。ヨセフは奴隷からエジプトの宰相になった人ですが、決して権威にあぐらをかくことなく、エジプト全土を巡って、人々の暮らし、町の状況を調査し、7年の大豊作、7年の飢饉に備えました。神はそんなヨセフを通して多くの人を飢饉から救われたのです。また、弟子たちはイエスさまに命じられて、舟に乗り込み、向こう岸に向かったところ、向かい風に悩まされて何時間も苦しみました。『イエスさまに言われて舟に乗ったのに…なぜですか…なぜこんな時に一緒にいてくださらないのですか…。』と思ったでしょう。イエスさまはそんな彼らの前に現れて「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。そしてその結果、彼らは「まことに、あなたは神の子です」という信仰告白に導かれたのです。神の霊的な訓練にいつも無駄はないことを思わされました。
教会のデボーションは創世記41章~。ヨセフが牢獄で献酌官と料理官の夢を解き明かした時から二年が過ぎました。献酌官は元の立場に戻りましたが、ヨセフのことは全く忘れていたようです。でも、神はヨセフを忘れることはなく、彼にとってのベストのタイミングを準備しておられたのです。ある時、エジプトの王ファラオは不思議な夢を見ました。その夢が気になって解き明かせる者を捜しましたが、だれにもできません。そこで献酌官がヨセフのことを王に知らせ、結果、見事に解き明かしました。こうしてヨセフはその功績が認められ、王によってエジプトのNo.2の地位に抜擢されたのです。「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」自分の思い通りにならない時も、ヨセフは神への不平をもらしませんでした。神はそんな彼を顧みられて、ちょうど良い時に高く上げられたのです。
5月第一主日、雨足が強い中でしたが、今日も大勢の方が礼拝に来てくださいました。メッセージはペテロの手紙第一から。失敗と回復を経験したペテロはペンテコステ以降、使徒として多くの人に福音を宣べ伝え、初代教会のリーダーとなっていきました。そんなペテロから、現在のトルコ北西部に散って寄留しているキリスト者たちへの手紙。ペテロは冒頭で、受取人たちが試練と迫害の中にあっても生ける望みを持つことを期待しているのがわかります。それは新しく生まれさせる望みであり、資産として天に蓄えられている望みであり、神の御力によって守られている望みです。過去、未来、現在において、今も脈々と息づいている望みの中に、私たちもいることを心に留めました。ブラウニングの言葉、『われとともに老いゆけよ。幸いはなお未来にあり。』苦難が忍耐を、忍耐が品性を、品性が希望を生み出す。今週もこの聖書の約束をにぎって、歩んで行きたいと思います。
今日、WHOが新型コロナの『緊急事態宣言』を終了すると発表しました。3年3カ月ぶりの宣言解除です。日本でも連休明けから『五類感染症』になるということでコロナ対策も一つの節目を迎えます。但し、これでコロナがゼロになるわけではないので、高齢者や持病のある方も来られる教会ではマスク着用や手指消毒などは続けてお願いしていきたいと思っています。また最近は、ウィズコロナ、アフターコロナをテーマにしたものをよく見ますが、役員会などでもずっとこのことについて話し合ってきました。コロナ禍になって大きく変わったのは、礼拝の時間短縮、回数、オンラインの導入です。特に、オンライン礼拝に関しては教会によって様々な考え方があるようです。今のところ私たちの教会では終了することもなければ、限定配信に切り替える予定もありません。いろいろな諸事情で教会に来れない方をはじめ、一人でも多くの方に礼拝をご視聴頂きたいと思っています。
だれでも人生に一度や二度…九死に一生を得るという体験をするのではないでしょうか。少しオーバーですが、私も幼い頃、真夏に傷んだおにぎりを食べて食中毒になったことがあります。母親が気づいた時には意識もなく、父親が慌てて近くの病院まで連れて行ってくれたそうです。わんぱく坊主でしたので、それぐらいは日常茶飯事だったのかもしれません…。さて、父ヤコブは12人の息子たちの中で特にヨセフを寵愛していました。それは愛妻ラケルの忘れ形見でもあったからです。それを快く思わない兄たちは、ついに弟ヨセフの殺害計画を立てました。もはや万事休すという時に、ユダという兄が「弟を殺し、その血を隠しても、何の得になるだろう。」と通りがかったエジプト隊商に銀20枚で売ってしまったのです。何とも痛ましい事件ではありますが、結果的にヨセフが命拾いをしたのは間違いありません。ここから想像もしなかったヨセフの物語が始まっていったのです。
だれでも自分の人生を振り返ってみる時があるのではないでしょうか。自分の人生とは何だったのか…これから何をすべきなのか…考えてみるとあらためて気づかされるものがあります。ヤコブは22年前に死んだと思っていた息子ヨセフと再会しました。しかも、その息子が未曽有の大飢饉の中で、エジプトの宰相となって自分の前に現れたのです。「もう今、私は死んでもよい」と思ったのも無理はありません。でも、ヨセフはその先の未来を見据え、家族が安心してエジプトで暮らせるように、さらにエジプト全土のことも考えて真実を尽くて仕えました。ファラオから「あなたの生きてきた年月は、どれほどになりますか」と聞かれたヤコブは、人生に神の導きを思わずにはいられなかったことでしょう。最愛の息子に先立たれ、絶望を感じた人生が、思いも寄らない祝福に溢れる人生に変えられてたのです。ヤコブの生涯は、最後まで主に信頼し続ける者の幸いを教えています。
4月第五日曜、今日は創立29周年記念礼拝を献げました。礼拝メッセージはヨハネ21章から。復活の主がペテロに個人的に声をかけられた箇所。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか。」ヨハネの子シモンは彼の本名であり、ペテロは彼が弟子になった時にイエスさまがくださった名前でした。でも、イエスさまが捕らえられた夜、ペテロは怖くなって自分からその名前を捨ててしまいました。「私はあの人の弟子ではない…」あの夜のことがペテロの心の傷として残っていたでしょう。だからこそイエスさまは彼の心の傷を癒し、関係を回復されるために三度同じことを問われたのです。ペテロはイエスさまに「わたしに従いなさい」と言われて、あらためて弟子としての召命を頂きました。私たち教会にとっても創立29周年に相応しい御言葉でした。礼拝には初めての方や久しぶりの方も来られて、70名を超す来会者がありました。さぁ、次はいよいよ30周年です。
今春、私たちの教会は創立29周年を迎えました。牧落駅の借家で初代牧師の安碩珠宣教師と数名の信徒たちの祈りから始まった教会です。開所式をした翌年には阪神淡路大震災も発生し、教会としても大変な船出だったと思います。それでも、母教会の茨木聖書教会の強力な支援もあって、新しくクリスチャンになる方々が起こされ、教会は少しずつ成長を遂げていきました。二代目の松村牧師になってからは教会堂も西小路のビルのテナントに移転し、日曜礼拝はもちろん英会話に集う方々も徐々に増えていきました。2006年には三代目牧師として私たち夫婦が遣わされ、最初から明るい家庭的な雰囲気を感じたことを思い出します。あれから17年…教会は箕面4丁目に移転し、教会堂を持つようになり、先日の礼拝には60名を超す方々が来られました。これまでの神さまの導きを感謝するとともにますます地域の方々に安心して来ていただけるような教会になっていきたいと思います。
Know this,my beloved brothers: let every person be quick to hear, slow to speak,slow to anger. (James1:19) 今日は beloved brother の一語が特に心に留まりました。ヤコブは「私の愛する兄弟たち」と呼びかけます。あなたは愛されていますよというのです。毎週教会に来られる方々と何気ないおしゃべりができるのは本当にありがたいことです。このところ新型コロナも落ち着いてきて、いよいよゴールデンウィーク明けには季節性インフルエンザと同じ5類に引き下げることも決まりました。もちろんまだ油断はできませんが、教会でみんなで一堂に会する日が待ち遠しいです。「人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。」ここには、聞くhear、話すspeak、怒るangerの3つの動詞が出てきます。すぐに怒らないで、文句を言わないで、まず相手の話しをよく聞くことが大切です。聖霊さまに助けていただいて、主のような柔和な者になりましょう。
4月第四水曜祈祷会、朝は創世記33章から、夜はルカ5章から。ヤボクでの格闘によってヤコブは心砕かれ、兄エサウの前に心からひれ伏して近づいていきました。そんなヤコブをエサウは自分から迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけしたとあります。20年ぶりの主にあっての兄弟の和解でした。まさに「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」の御言葉が心に響いてきました。また、夜通し働いて魚一匹捕れなかったペテロに、イエスさまが「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」と語られました。人間の常識では全く無駄と思われることでしたが、ペテロは「先生、お言葉ですから…」と網を下ろしたところ、おびただしい数の魚が捕れたのです。そこでペテロは心砕かれ、イエスさまの弟子となることを決めたのです。「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。」
教会のデボーションは創世記32章から。叔父ラバンの一隊があきらめて温和しく帰っていくのを見届けると、ヤコブたちは安心して一路故郷へブロンへの道を進みます。ただし、帰る先には父とともに兄エサウが待っています。兄は20年前の事をまだ恨んでいるのではないか…。次第にヤコブは恐れを抱き、あの手この手と兄の心を宥める作戦を考えます。それでも不安が拭えないヤコブのもとに、ある人が現われて、夜明けまで格闘しました。「ある人」とは神の使いと考えられます。ある人は不安な状態にあるヤコブを力づけるとともに、傲慢にならぬようにとももの関節を外して、彼の自我を砕かれました。ヤコブはそのような中で神の祝福なしに生きていくことができない自分を発見したのです。今日は全国キリスト災害ネットの全体会がZoomで行われました。講師の先生が、災害支援の働きは災害よりもそこに現れる神の愛を見ることですと言われたのが大変心に残りました。
4月第四主日、清々しい青空が広がる一日でした。礼拝メッセージはヨハネ21:1-14から。ガリラヤ湖畔でペテロたちが復活の主と再会する場面。弟子たちは久しぶりに漁に出ましたが、その夜は何も捕れませんでした。イエスさまは岸辺から彼らを見ておられ、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」と言われました。彼らがその言葉通りにするとおびただしい数の魚が捕れたのです。ヨハネはすぐに「主だ」と気がつき、ペテロは慌てて湖に飛び込みました。イエスさまは「子どもたち。食べるものがありませんね」と声をかけられ、彼らのために朝食の用意して待っておられたのです。何気ない日常の場面の中にも、復活の主はいつもともにおられて、私たちのあらゆる必要に気遣って備えてくださることを思いました。右側に網を打つ…それは主を信頼してその言葉に従うことを意味しています。主にすがるわれに悩みはなし♪今週も主とともに歩んでいきましょう。
教会のデボーションは創世記31章に入りました。ヤコブはついに叔父ラバンの家を出て、故郷に帰る決心をしました。それはラバンのヤコブに対する態度が変わってきたことと、何より主の語りかけを聞いたからでした。ヤコブは立って、家族とともにラバンの家から逃げ出して故郷に向かいます。三日後、ラバンもヤコブたちの逃走を知り、身内の者たちを率いて追跡します。そして、ヤコブに追いついたその夜、神は夢でラバンに仰せられました。「あなたは気をつけて、ヤコブと事の善悪を論じないようにしなさい。」もしこの神の介入がなければ、ヤコブは大変な目に遭っていたでしょう。でも、神は「どこへ行っても、あなたを守る」という約束を守られたのです。最近、夜に『証し』という本を読んでから休みます。1000ページを超える大書ですが、一つ一つは短い証しなので読みやすいです。神は今も私たちの人生に介入してくださるか否かを知りたい方にはお薦めです。
初夏を思わせるような暖かな一日でした。今日もハートフル英会話のクラスから楽しそうな会話が聞こえてきました。ある受講生の方から『イースターエッグってなんですか』と質問がありました。イースター(Easter)という言葉は、ゲルマン民族の春の女神エオストレEastreを崇める春祭りから派生した語とされています。元々春の訪れを喜ぶ北部ヨーロッパの古宗教を当時のローマ教皇がキリスト教文化に積極的に取り入れたところから定着したようです。春は冬枯れから新しい生命が一斉に芽生える季節。死から命が与えられる復活のイメージにピッタリです。クリスマスの日を、太陽神を祭る冬至の習慣から取り入れた経緯と似ています。さて、卵ですが、固い殻の中から、新しい生命が誕生するところから、復活、永遠のいのちと結びつけられたようです。他にも、ウサギ、ひよこ、ゆり、棕櫚など、いずれも春の喜びを、イースターの喜びと重ねて用いているものがあります。
4月第四水曜祈祷会、朝は創世記30章から、夜はⅠコリント15章からみことばを心に留めました。姉レアと妹ラケルの熾烈な骨肉の争いの中にも、主は彼女たちの祈りを聞かれてご自身の御心を行われることを見ました。なぜこんな不名誉とも言える記述があるのか…と思いますが、それも聖書が信頼性できる理由の一つでしょう。また、夜はジャズをこよなく愛する兄弟がリードをしてくださって、『キリストの復活は本当なのか』をテーマに分かち合いました。兄弟は、音楽と出会って、突き詰めていった先にゴスペルがあった…と証ししてくださいました。そのゴスペルの根幹にあるのがイエスキリストの復活です。以前ある未信者の方と話している時、『キリストの復活だけは信じられない』と言われたことがありますが、ここを外してしまったら福音ではなくなってしまうのです。「もしキリスト甦へり給わざりしならば、我らの宣教も空しく、汝らの信仰もまた空しからん。」
教会のデボーションは創世記29章から。住み慣れた地を後にしてヤコブはハランへと旅立ちました。その道中、ヤコブは夢の中で主の語りかけを聴きました。「わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。」主の一方的な恵みの約束でした。ヤコブはこうして旅を続け、ハランの近くの井戸でラケルと運命的な出会いをします。ラケルは叔父ラバンの娘で、早速、彼女のために7年間あなたに仕えると約束しますが、7年後に待っていたのはラケルの姉レアと結ばれることでした。ヤコブはまんまと騙されて、さらに7年間仕えることになりました。かつて兄エサウを騙したヤコブは、今度は自分が騙されることになったのです。人を欺く者は、人によって欺かれるもの。まさにヤコブは自分が蒔いた種の実を刈り取ることになったのです。だれもが失敗や過ちを繰り返すものですが、大事なのはそこから何を学び、どう立ち直るかです。
4月第三主日、礼拝メッセージはヨハネ20:19‐29。イエスさまが殺されてしまった後、次は自分たちの番かもしれないと弟子たちは恐れて一室に閉じこもっていました。復活の主はそんな彼らの真ん中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われました。彼らは驚きましたが、十字架の傷跡を示され、主のよみがえりを確信したのです。一方、その場にいなかったトマスは、他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言っても、自分の目で見て、手でさわらなければ決して信じないと宣言しました。トマスは正直な者で、自分を偽ることができなかったのです。イエスさまはそんなトマスの前にも現れてくださって「わたしの手を見なさい」と彼の求めに答えられました。こうして真実な信仰告白に導かれたトマスに、イエスさまはさらに幸いな信仰の世界があることを教えられたのです。見て信じる信仰ではなく、見ずに信じる者の幸いに私たちもあずかっていきたいものです。
教会のデボーションは創世記27章から。聖書は今日的価値観ではなかなか理解に苦しむ箇所もあると思いますが、その一つでしょう。父イサクの祝福の継承をめぐって兄エサウと弟ヤコブが奪い合います。父イサクは年を取って目がかすみ、自分の好きな料理を持って来て祝福を求めているのが誰かわからずにいました。そこで弟は兄になりすまし、まんまと祝福を頂き、後から来た兄は自分への祝福が残ってないことを知り、弟を恨み、殺意に燃えるという展開。なぜこんな話しが聖書にあるのかと不思議に思います。ただ、今日はこの一節が心に残りました。「『お父さん、祝福は一つしかないのですか。お父さん、私を祝福してください。』エサウは声を上げて泣いた。」祝福を追求した弟、祝福を軽んじた兄。いつまでもあると思うな〇と〇…の教訓を思い出します。大事なものは無くなって初めて気づくものなのかもしれません。今ある幸いを、主に感謝して歩みたいものです。
今日からハートフル英会話春期コースがスタートしました。教会の中で行っている英会話クラスです。ネイティブ講師から、日常生活で使える英語から学習に役立つ英文法まで、しっかり学ぶことができます。大人クラス、キッズクラス、中高生クラスとありますのでまずは無料体験レッスンをお申し込みください。大人クラスでは隔週でチャペルタイムも行っています。今日はレイチェル先生がHot cross bunという甘い菓子パンを焼いてきてくれました(写真がなくてすみません)。オーストラリアではこの時期よく目にするそうです。チョコとレーズンの二種類があって、表面には十字架の飾りがありました。一緒にBibleを読みながら、改めて"Easter"って何の日かを考えました。日本ではまだ馴染みがありませんが、Christmasと並んで…それ以上に重要な教会の祝祭 Easter(復活祭)のメッセージはYouTubeでも視聴することができます。ぜひ日曜礼拝も体験してみてください。
4月第二水曜祈祷会、創世記26章から。アブラハムから祝福を受け継いだイサクの時代にも飢饉が起きました。イサクはゲラルのペリシテ人の王アビメレクのもとへ移動し、そこで主の声を聞きました。「エジプトへ下ってはならない。わたしがあなたに告げる地に住みなさい。…わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。」これらの祝福はイサク自身の功績によるものではなく、父アブラハムのゆえの祝福であり、神からの一方的な恵みの宣言でした。これほどの約束を受けていながら、イサクは父アブラハムと同じ過ちを犯し、妻リベカを妹と偽ります。でも、すぐにアビメレクにわかってしまい、なんとも惨めな結果となりました。その後も、イサクには祝福と試練が交互に起こってきてたびたび信仰が試されていったのです。どんな失敗をしても、主はお見捨てにはならないことを思います。むしろ、試練の中でこそ、信仰は試され、育まれ、成長させられていくのです。
関西キリスト災害ネットワーク・第八回懇談会がありました。関キ災は南海トラフ大地震をはじめ今後の大規模災害に備えて、関西のキリスト教会、キリスト者、キリスト教諸団体でネットワークを構築することを目的としています。2011年の東日本大震災以降、毎年のように各地で大規模な自然災害が発生し、もはやどこで何があってもおかしくない時代です。今回は看護師で防災士の山中弓子さんをお招きして、これまでの様々なご経験から防災に関する具体的なお話しをお聞きしました。特に女性目線で語ってくださることが、非常に有益でした。また、子どもたちやお年寄り、ハンディキャップを持った方々への配慮、「平等、公平」とは何か…など、日常生活でも心掛けたい大切なことを学びました。詳細はホームページでも公開していますので、ぜひご欄ください。災害は起こらないことに越したことはありませんが、これからもこうした活動を継続していきたいと思います。
4月第二主日、今日はイースター記念礼拝でした。一部、二部と大勢の方が来会され、4人の新来者がありました。礼拝メッセージはヨハネ20章1-18節から。週の初めの日、朝早くまだ暗いうちにマグダラのマリアは墓に行きましたが、そこにイエスさまの亡骸はありませんでした。墓の前で泣いているマリアの前に、復活の主が現われて「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」と声をかけられました。最初、マリアはその声を聞いてもイエスさまだとわかりませんでしたが、「マリア」という呼びかけに、思わず「ラボ二」と答えたのです。それは紛れもなくイエスさまの優しい呼びかけでした。主は今も私たちを十羽一絡げではなく、一人一人と関係を持ち、名前で呼んでくださることを思いました。今日はボンヘッファー牧師の召天日。「私にとってはこれが最後。しかし、また始まりである。」私も命ある限り、この信仰を人生の宝としていきたいと思います。
昨日までの雨も止んで、今日は青空が見えました。受難週の最後の土曜日、今日はヨハネ19章を読みました。イエスさまは十字架上で「完了した」と大声を上げ、頭を垂れて霊をお渡しになりました。それは死を前にした断末魔の叫びではなく、ご自分の使命をすべて成し遂げられた勝利宣言でした。イエスさまの亡骸は、アリマタヤのヨセフとニコデモの二人のサンヘドリンの議員が引き取りました。二人とも周りからの冷たい視線も顧みず、新しい墓にイエスさまを埋葬しました。ヨセフに関しては、ユダヤ人を恐れて主の弟子であることを隠していた…とありますが、イエスさまの十字架の死が彼に新しい一歩を踏み出させる重要な契機となったのです。今週、教会のある姉妹から『主人が受洗の決心をしました』と嬉しい報告がありました。『私は洗礼を受けません』とずっと仰っていた方なので、みんな聞いたら驚くでしょう。姉妹の長年の祈りがついに実を結ぶ時がきました。
4月第一水曜祈祷会、マルコ14章53‐72節。カヤパの「おまえはキリストなのか」という尋問に対し、イエスさまは「わたしがそれだ」とお答えになり、この証言をもって有罪が確定しました。つまり、イエスさまは自ら十字架への道を歩まれたのです。時同じくし、中庭まで様子を見に来ていたペテロに、大祭司の召使いの女が「あなたもナザレ人イエスと一緒にいましたね」と言うと、ペテロは思わず「何を言っているのかわからない…」と否定しました。二度、三度と…ペテロはイエスさまが自分に話された通り「知らない」と否定しまったのです。真理に立ち続けたイエスさまと立ち続けられなかったペテロの姿を覚えました。ペテロ本人しか知らないことが4つの福音書すべてに記されているということは、ペテロはこの時の失敗を幾度も語ったということでしょう。私たちも何度も失敗します。でも、イエスさまの赦しととりなしの祈りに支えられて…今があることを思います。
昨日はライフワークス社の新年度礼拝がありました。キリスト教精神に立った葬儀社の日頃のお働きに、関西の一教会の牧師として心から敬意を表します。いつもご遺族の気持ちに寄り添った葬儀をしてくださって、教会としても安心してお願いすることができます。確かに、葬儀自体は喜ばしいことではありませんが、召天者にとっては最後の証しの場、遺族にとっては天国の希望を覚える機会です。大切な家族や友人の旅立ちを見送る時…。そこで福音を語れるのはなんとも幸いです。「書き記せ、『今から後、主にあって死ぬ者は幸いである。』と。御霊も言われる。『しかり、その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。」なぜ、教会で行う葬儀には希望があるのか…多くの方に知って頂きたいと思います。私たちの教会は洗礼を受けておられない方の葬儀もお受けいたします。遠慮なく、ご相談ください。