2021年の年の瀬を迎えました。教会のデボーションは詩篇106篇から。詩人は「ハレルヤ」という賛美の勧めから、イスラエルがいかに神との契約に不忠実に歩んだか、一方で主はご自身の契約に忠実であられたことを記しました。「しかし主は、御名のゆえに、彼らを救われた。」「それでも、彼らの叫びを聞いたとき、主は彼らの苦しみに目を留められた。」民の不忠実にも拘わらず、主はその憐れみと赦しをもって彼らを導かれました。この忍耐深い主の愛の中に、自分も生かされていることを思いました。今年もコロナ禍に振り回されながらも、多くの恵みと祝福をいただいて、一年を終えることができることを感謝いたします。新しい年も変異株の広がりなどが懸念されますが、世がいかに揺れ動いても、変わらない神の導きに期待して歩んでいきたいと思います。今年もブログを見てくださって本当にありがとうございました。皆さま、どうぞよいお年をお迎えください。
12月第五水曜祈祷会、教会のデボーションは詩篇105篇から。「主に感謝し、御名を呼び求めよ。」詩人は、イスラエルの歴史を紐解きながら、アブラハムとの契約を実現される主のみわざを語りました。神は流浪の民だったイスラエルをエジプトに導き、そこで大きな民族とされ、そして今度はエジプトがイスラエルを嫌うようにされ、約束の地へと旅立つように導かれました。主のみわざはすぐに理解できるようなものもあれば、理解するのに忍耐を要するものもある。でも、何が起ころうと神の契約と約束は変わることがありません。良いことも悪しきことも主の御心のうちに行われる、主はご自分の民が苦しんでおられる時、いつも主も苦しんでおられる、主が苦しみを許される時には必ず何かの意味があることを思いました。今年もコロナ禍に振り回された一年でしたが、同時にすべてが当たり前ではない、恵みの中にいたことを学ばせていただいた一年だったように思います。
2021年最後の主日、少し小雪がちらつきましたが、青空が広がる爽やかな朝でした。度重なる緊急事態宣言、オリンピックの開催、ワクチン接種による混乱など、コロナ禍に振り回された一年が終わろうとしています。礼拝メッセージはルカ17:20から、『神の国はいつ来るのか』というパリサイ人の問いかけにイエスさまが答えられた箇所。彼らは目の前に救い主イエスさまが来られているのに、神の国が始まっていることがわかりませんでした。「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」神の国、神のご支配は、主を信じる者たちの心に、交わりの中にすでに変化を起こしていました。それは今日でも、御言葉に生きる者たちを通して広げられているのです。人の子の日(主の再臨)の到来は、それがいつなのかは誰にもわかりませんが、その日が来たら誰の目にも明らかに認められます。終末のメッセージは、裁きの預言であると同時に、確かな救いへの招きの言葉なのです。
Merry Christmas!今年も御言葉の朗読とバイオリンの調べで、イエス・キリストのご降誕を思い巡らしました。イエスさまは神ご自身である方なのに、神としての威光も栄光も権威もすべて捨てて、人間の赤子となってお生まれになりました。しかも、そこは立派な宮殿でもなく大邸宅でもない、暗く貧しい悪臭の漂う馬小屋の飼い葉桶でした。御使いは告げました。「それが、あなたがたのためのしるしです。」イエスさまはローマ帝国に変わるこの世の王となるために来られたのではなく、全人類を罪とその裁きから救うために来られました。人はみな、生まれてきた本来の目的を見失って、それぞれ自分勝手な道を歩んでいます。自分の命をどう使おうと勝手なこと…一度しかない人生、楽しまなければ損…。そんなキリストの誕生など喜ばない人間の声が聞こえてくる中に、イエスさまはお生まれになられたのです。本物のクリスマスの喜びが皆さまの心にありますように。
12月第四水曜祈祷会はハガイ書から。バビロン捕囚から帰還したユダの民は、エルサレム神殿の再建に着手しました。でも、難民同然の彼らは、経済力も技術力も乏しく、おまけに隣国からの妨害も受けて数年で工事は頓挫してしまいます。月日は流れ、主は預言者ハガイを通して、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュア、さらには民の残りの者に向かって悔い改めと励ましのメッセージを告げられました。「あなたがたの歩みをよく考えよ」「強くあれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ」「今日から後のことをよく考えよ」「わたしがあなたを選んだからだ」ハガイはこの4つの御言葉を中心に、ユダの民を鼓舞し、再び神殿再建へと立ち上がらせていくのです。彼らにとって『神殿』は、神の臨在の象徴であり、神を礼拝し、神との出会いの場所でした。私たちも神との関係を後回しにしないで、主の臨在に励まされて、今日から後のことをよく考えて歩んでいきたいものです。
アドベント第四週、クリスマス礼拝を献げました。ルカ17:11~、イエスさまがエルサレムへ向かう途中、ある村でツァラアトに冒された10人と出会い、言葉一つで癒された記事をみました。彼らはみなイエスさまの言葉をそのまま信じて行動した時、癒しを経験したのです。どんなに喜んだでしょう。でも、話しはそこで終わりませんでした。その内の一人が大声で神をほめたたえながら戻ってきてイエスさまに礼拝を献げました。九人は癒しの事実だけを喜んだのに対し、彼だけは癒しを行ったイエスさまを喜んだのです。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」彼はこのイエスさまの祝福の言葉を受けて、新しい人生を歩み出していきました。人生のターニングポイントがあります。クリスマスはChristとmasの合成語。キリストのいないクリスマスはただ雰囲気を楽しむだけのお祭りに過ぎません。ぜひ教会で本当のクリスマスを喜び祝いましょう。
昨年はやむなく自粛しましたが、今年は感染対策とケーキなしで、ハートフル英会話クリスマス会を行いました(子どもたちはごめんなさい)。まずは卓球で体を動かしてから、クリスマスバージョンのUNOで盛り上がりました。もちろん英語です。今日は二つのクラスが合同でしたので、いろいろな方の話しが聞けていつも以上に楽しい時間でした。途中、ウクレレとホルンの演奏でクリスマスキャロルを賛美したり、レイチェルさんのバイブルメッセージでクリスマスの本当の意味についてお聴きしました。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」コロナ禍も今は落ち着いていますが、世界を見れば…まだまだこの先どうなるかわかりません。また、日本国内でも変異ウィルスのオミクロン株の感染が広がりつつあります。このクリスマス、一人でも多くの方に本当の大きな喜びが届けられますようにお祈りしています。
12月第三水曜祈祷会、ヨブ記40章から。主の創造の偉大さを知ったヨブは、やっと自分がいかに取るに足りない者であるかを知ることができました。神はそんなヨブに向かって、さらに倫理的な側面から語りかけていかれます。そこから、河馬、レビヤタンという神秘的な怪物(高ぶりの象徴)をあげて、それらを造られた神を不義に定める愚かさを指摘されました。結果として、主はヨブの苦しみの問いに直接答えることはされませんでしたが、最後にはヨブを悔い改めへと導かれ、ご自身をより深く知る者としてくださったのです。主はヨブが苦しんでいる時もともにおられ、ともに苦しんでおられました。まさにヨブの苦しみは、主ご自身の苦しみだったのです。「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。」ヨブがあれほどの苦しみを通して導かれたこの告白を、今日私たちが恵みによって告白できる幸いを思わされます。
教会のデボーションはヨブ記39章に入りました。長い沈黙を破ってついに神が語りかけられます。それは『なぜこれほどの苦しみにあわなければならないのか』というヨブの問いに答える形ではなく、神の方からの「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。」という問いかけです。神がどのように地の基を定めたか、どのように測り縄を張ったか、自然界の法則、動物たちの養いなど、神の創造の偉大さがことごとく語られていきます。およそ人知をはるかに超えた主のはかりごとです。ヨブに答えられるわけがありません。でも、これによってヨブは自分の小ささをいやというほど示されます。その一方で、偉大なる神がこんな小さな自分と関わりをもってくださっていることにも気づかされていくのです。山は近づけば近づくほどその大きさを知ると言いますが、神の偉大さも知れば知るほど…言葉では表しきれません。でも、その方が今日も語りかけてくださる恵みを感謝します。
アドベント第三礼拝、メッセージはルカ16:19から。金銭を好むパリサイ人たちはイエスさまの「神と富とに仕えることはできない」という話しを聞いてあざ笑っていました。なぜなら彼らは、富や豊かさは神の祝福の表れであり、律法を守っている自分たちこそが天国に行けると思っていたからです。イエスさまはそんな彼らに、ある金持ちとラザロの話しをされました。金持ちは毎日ぜいたくに遊び暮らし、貧しいラザロは金持ちの施しに頼って生活していた。しばらくして二人に死が訪れ、ラザロは御使いに迎えられアブラハムの懐に、金持ちはハデスの炎で苦しんだという話し。ラザロとは神は助けという意。イエスさまのたとえ話しで名前で話されるのは珍しいことです。人はみな、どんなに裕福でも貧しくても、ただ神の憐れみによって生かされていることを忘れてはなりません。神は心の貧しさ、砕かれた心をご覧になられることを、慰められたラザロから教えられました。
12月
12月第二水曜祈祷会、ヨブ記36章から。苦しみのどん底で、自分の潔白を主張し、神よりも自分自身のほうを義とするヨブに向かって、エリフはこう言います。「神は苦しむ人をその苦しみの中で助け出し、抑圧の中で彼らの耳を開かれる。」神は人を苦しみから助け出されるのではなく、その苦しみの中で助け出されるというのです。苦難は様々な形で、すべての人の人生に予告なしで襲ってきます。その時、神は何をしておられるのですかと思わず叫びたくなるのではないでしょうか。でも、苦難の中でこそ、私たちの心が神に向き、その御声を聞こうと心の耳が開かれることもあるのです。大事なのは、苦しみや不条理は神から出ているのではないこと、その人が悪を行った結果でもなく、ましてや神からの罰でもないことです。神は苦しみの中でこそ私たちとともにおられるお方です。今日は祈祷会に来られた方々の様々な証しを聞く時となり、生ける真の神を心に覚えました。
今日は朝から冷たい雨が降る一日でした。教会のデボーションはヨブ記35章~。苦難の中で、神よりも自分の方が正しいと思っているヨブに向かって、エリフの言葉が続きます。彼は、人はみな、苦しみの中で泣き叫んだり、助けを叫び求めりするものですが、本当の意味で神を求めているのではないと言います。それは言わば本能的なものであって、信仰を働かせての祈りではない、今のヨブはそのような人々と同じではないかというのです。このようにヨブを責めた後で、エリフはこう諭しました。「しかし訴えは神の前にある。あなたは神を待て。」神はご自分のしもべの叫び声を聞き洩らすような方ではない、神はご自分から関わりを断ち切ることはない、私たちの救いのためにはどんな犠牲を払うことも厭わない、だから神を信頼して待ち望めと諭したのです。祈っても状況が変わらないと思う時こそ、私たちが真の信仰を養う時。私たちの祈りは神の御手の中にあるのです。
アドベント第二礼拝。メッセージはルカ16:1から。イエスさまの教えの中でも最も難解なたとえの一つです。主人の財産を勝手に使ってしまった管理人は、主人にそのことを知られてしまい、クビにされた時のために債務者たちに恩を売って後で面倒を見てもらうように考えました。主人はこの不正な管理人が賢く行動したのをほめたという話しです。なんとも首をかしげてしまうような話しですが、実はそういう所ほど気づかなった恵みを発見したりするものです。「不正の富で自分のために友をつくりなさい」「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり」「神と富とに仕えることはできません」たとえ話しの後のイエスさまの解き明かしの中に、著者ルカの独特な視点が感じられ、私自身は非常に教えられました。久しぶりのメッセージ後のグループタイムでも多くの感想があがり、分かち合いも祝福されたようです。今日も恵みに溢れた主の日を感謝いたします。
長年パキスタン、アフガニスタンで人道支援に尽力してこられた中村哲医師が武装集団の銃撃を受けて召天されてから二年が経ちました。耳を疑うような信じられないニュースでした。中村さんは医師でありながら自ら重機を操作し、『100の診療所より一本の用水路』を合言葉に、1600本の井戸を掘り、全長13kmもの用水路を築き、東京ドーム3500個分にあたる1万6000ヘクタールの土地をよみがえらせ、60万人以上の命を救いました。そんな中村さんはクリスチャンでありながら、イスラム教徒が祈りを捧げるモスクやマドラサ(神学校)を建設して地元の人々を励まし元気づけたそうです。まさに敬天愛人に生きた中村さんの功績はこれからも世界中の人々の心にずっと生き続けることでしょう。「神の御心は何か、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるように…」明日はアドベント第二礼拝。ぜひお近くのキリスト教会に足を運んでみてはいかがでしょう。
12月第一水曜祈祷会、ヨブ記32章から。なぜ善人が苦しみにあわなければならないのか。三人の友人たちは、苦難の原因は罪の結果であると主張し、ヨブに悔い改めを迫りましたが、ヨブは自分の正しさを主張するばかりでした。すると側でずっと聞いていたエリフが業を煮やして語り出します。エリフは、ヨブが神よりも自分の方を正しいとしたことや、ヨブの不義を認めながら言い返せない三人の友人たちにも怒りを燃やしました。こうして堰を切ったようなエリフの言葉が続き、もはやヨブは何も言い返せませんでした。「確かに、人の中には霊があり、全能者の息が人に悟りを与える。」天からの知恵こそがあらゆる難題を解決する力です。確かにエリフの言葉は、正論でした。ただ、彼の言葉が苦難の中で痛み悲しんでいるヨブに、どう聞こえたのかは疑問です。結果として、三人の友人もエリフも、ヨブの立場に立って考えるという視点が足りなかったのではないでしょうか。
教会のデボーションはローマ16章から。パウロ神学を代表する書簡。信仰義認を中心に、一人で読み理解するには難解なところもあったのではないでしょうか。ただ、この終わりのところに関しては、普通の手紙と同じように「…によろしく伝えてください。」と教会や一人一人の顔を思い浮かべるように挨拶を記していて親しみやすいところです。パウロがいかに多くの人のために祈っていたのかがわかります。「どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」手紙を受け取った教会でも、あらためてパウロ先生の働きを覚えて祈ったことでしょう。昨日は私たちの教会を会場に、教団の教職教育部がありました。今年度の報告に始まり、次年度に向かっての審議が長時間に渡って行われました。コロナ禍でZoom会議が続いたので、対面会議は久しぶりでした。関東から新潟から、このために来てくださった先生方のご労と献身に心から感謝いたします。
11月第四主日、秋晴れに天気でしたが、頬に当たる風が一段と冷たく感じる一日でした。今日からアドベント(待降節)。礼拝ではルカ15:11~32から『二人の息子と父の愛』をテーマに御言葉を学びました。弟は父の財産を分けてもらうと遠い国で、湯水のように使って、やがて大飢饉が起こると豚の世話をするはめになり、食べるのにも困り果てました。でも、彼はその人生のどん底で父のことを思い出します。「立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。』」来る日も来る日も父は息子の帰りを待っていました。だから、彼の姿を見つけると、まだ遠かったのに、父はかわいそうに思い、駆け寄って彼を抱き、口づけしました。そして、急いで彼のために一番良い服、指輪、履き物を用意し、子牛を屠って祝宴を始めたのです。神の無条件の愛…。何度読んでも新しい感動が胸に迫って来るところです。
今年もアドベント(待降節)の時期を迎えました。アドベントとは、「到来、到着」を意味します。明日からクリスマスイブまでの4週間、救い主イエス・キリストのご降誕を待ち望む期間です。日曜日ごとに一本ずつローソクを灯していきます。教会でキリストの到来について語る時には3つの意味を持っています。それは、2000年前、誕生によって来られたこと、今日私たちの心のうちに来られること、終わりの日に栄光のうちに来られることです。聖書には、「昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」とあります。私たちにとって最も大事なのは、クリスマスをただの年中行事として迎えるのではなく、その本当の意味を知って迎える時、その人の心にキリストは住んでくださることです。Christmasとは、キリスト(Christ)のミサ・礼拝(mass)という意味です。教会の新しい一年はこの日から始まります。ぜひお近くのキリスト教の教会に足を運んでみてはいかがでしょう。
教会では毎週木曜日にハートフル英会話教室を行っています。今日も教室からなごやかな会話と子どもたちの元気いっぱいの声が聞こえてきました。中には海外生活をされていた方や留学をされていた方もおられ、文化や習慣の違いなどを聞くこともあります。また、海外旅行のためや仕事で使うため、英語を忘れないためなど、目的もさまざまです。講師の先生はクリスチャンですが、受講される多くの方はクリスチャンではないので、教会に来るのは初めて、聖書を見るのも初めて…という方もおられます。牧師としてはそうした方とちょっとした休憩時間にお話しするのも楽しみの一つです。仏教を信じる方も神道を信じる方も、物は試しで何でもお気軽にご質問ください。ある時は『教会でもクリスマスをやるの?』と聞いてくれたお友だちもいました。教会はクリスチャンだけでなく、どなたにも開かれた場所です。本当のクリスマスの意味も、ぜひお話しできたらと思います。
11月第四水曜祈祷会、朝から抜けるような青空が広がりました。ローマ14:9「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」聖書では『死』に3つの意味を示しています。肉体の死、霊的な死、永遠の死(第二の死)。人はみな、やがていつかは肉体の死を経験しなければなりません。でも、クリスチャンはイエス・キリストを信じる信仰によって霊的な死から解放されています。また、キリストの十字架の贖いによってすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられ、永遠の死からも解放されているのです。それゆえ肉体の死は永遠の死に至る門ではなく、天国への門に過ぎません。ここに生きるにしても、死ぬにしても、主のためにという生き方の土台があります。今日の祈祷会も、まずみことばの分かち合いに恵まれ、祈りのうちに主のものとされている幸いを思いました。
11月第三主日、収穫感謝礼拝。礼拝はルカ15:1−10、いなくなった一匹の羊を捜し回る羊飼い、なくした一枚の銀貨を熱心に捜す女性の姿から、イエスさまの譬えを学びました。そこから主は今も失われた人を捜しておられること、一緒に喜びを分かち合われること、罪人が悔い改めることを待っておられることを心に留めました。一人でも多くの方にこのメッセージが届くように祈ります。そして、今日も礼拝後に二名の兄姉の入会式がありました。『あなたは、神の子イエス・キリストの十字架の贖いによって救われたことを確信しますか』という問いかけに、『確信します』とはっきりお答え頂きました。いつもこの誓約の時が、牧師として一番胸が熱くなります。メッセージの通り、一緒に喜びを分かち合うことができて本当に感謝でした。午後は来週から始まるアドベントに向けて大掃除&クリスマスの飾りつけ、夕方は青年たちと卓球で汗を流し、恵まれさまの一日でした。
「私は何とかして自分の同胞にねたみを起こさせて、彼らのうち何人かでも救いたいのです。」キリスト教における『救い』とは…?私は25歳まで聖書を読んだことも教会に行ったこともなかったので、最初は違和感がありました。法にふれるような犯罪を犯しているわけでもないし、人から後ろ指を指されるようなこともしていないし、普通に人は死んだら極楽に行くものだと思っていました。でも、今から25年前、教会に行くようになって、礼拝や聖書を通じて、あらためて人はみな罪人として生まれてくること、神の怒りの下にあって、病気でもなく寿命でもなく、裁きとしての死を迎えなければならないことを知りました。そして、人はみな何かの功徳を積んだり、正しく生きることによってではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われることを教えて頂いたのです。百聞は一見に如かず。まだ…という方は、ぜひ近くのキリスト教会に足を運んでみてください。
11月第三水曜祈祷会、教会のデボーションはローマ10:14~。人は、律法の行いよるのではなく、キリストを心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのですとあります。そして、信じるためには聞かなくてはならない、聞くためには宣べ伝える人がいなくてはならない、宣べ伝えるには遣わされなくてはならないと諄々と記していきます。伝道は、私たちの熱心さや言葉の巧みさが重要なのではなく、最終的には聖霊のお働きによるものです。それでも『伝道はどうも苦手で…』『伝道はしないといけないことですか…』と言われるクリスチャンの方は少なくありません。伝道ってなんだろう。今日はそんなことを素直に語り合う機会になりました。「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」私たちにとって最も大切なのは聖霊の助けを祈り求めることです。何はともあれいつもそこから始めたいものです。
11月第二主日、ルカ14:15~「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」パリサイ派の指導者の食事会に来ていたある客は、どこか誇らしげにそう言いました。でも、イエスさまはそんな彼に向かって、神の国の食卓に招かれる者について譬えをもって話されました。神の目は、自分にはその資格があるとおごり高ぶる者ではなく、招かれる資格などないとへりくだる者たちに注がれていること、「まだ席があります。…私の家をいっぱいにしなさい。」と神が万事を備えてくださっていること、そこにあなたも来なさいと招いてくださっているとは、まさに幸甚の極みです。今日はいつも祈り深く謙遜な姉妹の転入会式といつも小さな教会を駆け回る子どもたちの祝福式がありました。午後は役員会でクリスマス&次年度に向けての話し合い、夕方は久しぶりにお会いするご家族としばしのお交わり、夜は青年たちと賑やかな夕食に…。今日も恵みいっぱいの主日でした。
横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されてからまもなく44年を迎えます。当時13歳だっためぐみさんは部活の終わった帰り道、自宅まで200mという場所で失踪しました。すぐに新潟県警や機動隊による懸命な捜索活動がなされましたが、拉致事件が判明したのはそれから20年も後のことでした。なぜこんなことが起きるのか…自分が悪いのか、先祖が悪いのか…絶望の淵に立つ早紀江さんに、ある宣教師が聖書を手渡しました。しばらく読む気にはなれなかったそうですが、ある時ヨブ記を読んで『私の苦しみがここにある』と教えられたそうです。その後、早紀江姉はクリスチャンとなり、その33年後にご主人の滋さんも病床洗礼を受け、天に凱旋されました。明日は滋兄の誕生日。苦しみの理由、それは人間には理解できません。しかし、主はご存知であり、ともに苦しんでおられる。今はただ、めぐみさんの帰りをひたすら待っておられるご家族のために心からお祈りしています。
今週月曜日に関西キリスト災害ネットワーク・第五回懇談会がありました。『この町に教会があってよかった。ー大規模災害災害に備えて、防災の視点でー』をテーマに田村治郎氏の講演を聴きました。今回の出席者は21名、ここまで累計で100名を超える先生方が出席してくださったことになります。本当に感謝です。災害はいつ起こるかわかりません…。南海トラフ大地震も今後30年以内の発生確率は70~80%と言われています。防災士の方も言われました。『もし天気予報で降水確率70~80%と言ったら当然備えをするはず。災害もこの感覚が大事です。』そして『地震10秒診断ーもしもあなたの町で地震が起こると?』『東京備蓄ナビ』という興味深いアプリをご紹介くださいました。無料ですので、ぜひお試しください。今日も教会ではハートフル英会話があり、大人クラスからは楽しそうな笑い声が聞こえ、キッズクラスにも新しいお友だちが来てくださって感謝でした。
11月第二水曜祈祷会、ヨブ記29~31章。「あのとき」と幸いな生活を振り返り、「しかし今は」と悲惨な現状を語り、「私は自分の目と契約を結んだ」と自らの潔白を主張するヨブの姿を黙想しました。ヨブの幸いな生活の土台は、家族の多さや財産の多さの前に、神との親しい交わりがあったことでした。また、ヨブにとって最も悲惨な状態とは、神に向かって叫んでも、神が何もお答えにならないことです。次第にヨブは自分の潔白を主張することで、神の側に問題があることを訴えていました。神はなぜヨブをこれほどの苦しみにあわせたのか…。それは私たち人間には理解できないことです。でも、イエスさまは言われました。「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」十字架への道を歩まれたイエスさまは、試練がなくなるようにではなく、信仰がなくならないように祈られました。ここに一つの答えがあるように思いました。
11月第一主日、実るほど頭を垂れる稲穂かな…。ルカ14:1~、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」イエスさまは食事会に客として招かれた人たちにたとえを話されました。自分から上座に座ってはいけないこと。なぜなら、自分にはその資格があると心の中で思っている人は、反対に神の前で認められないからです。また、食事会に人々を招く主人にも話されました。もてなしをするなら、友人や家族やお金持ちよりも、貧しい人たちや体の不自由な人たちの方が幸いだということ。なぜなら、その人たちはお返しができないので、終わりの日に、神が報いてくださるからです。イエスさまが教えられたのは、単なる処世訓のようなものではなく、もっと深い霊的な真理、言わば御国での食卓の話しでした。今日は聖餐式の恵みにもあずかり、午後からは役員諮問会がありました。三人の兄姉の立派な信仰告白に心も体も満たされました。
『ここはかみさまがすんでいるおうちなんだよね』教会の前を通る小さなお子さんがお母さんと話しているのが聞こえました。ここに教会があることを地域の方が心に留めてくださっていたら感謝です。お掃除をしているとご近所の方と挨拶を交わしますが、なかなか教会には用事がなくて…信仰心もないし…でも、クリスマスには行こうかしら…と声をかけてくださる方もいます。ぜひ用事がなくても、信仰心がなくても、気軽に立ち寄って中を覗いてみてください。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」聖書の神さまは、人間が作った家にはお住みにはなりません。なぜなら神はこの天地万物を造られ、私たち人間を造られた方だからです。そのあまりにも偉大なる神さまのことを、どこで聞いたらいいのでしょうか。百聞は一見に如かず。ぜひ日曜日の礼拝に足を運んでみてください。
11月の第一水曜祈祷会はヨブ記23章から。エリファズの三回目の語りかけも、ヨブを励ますことはできず不毛に終わりました。ヨブも根拠のない罪を責められ、もはやエリファズへの反論をあきらめ、神への独白のように語り出します。「ああ、できるなら、どこで神に会えるかを知って、その御座まで行きたいものだ。」人に理解されない苦しみを、ヨブは神ならきっとわかってもらえると思います。でも、どこを探しても神を見つけることができない…神は全くご自分を隠されてしまった…。ヨブの苦しみは、ここにありました。「しかし、みこころは一つである。だれがその御思いを翻せるだろうか。」神の計画は変わらないが、自分は神の前に黙ることはできない…神にこの苦難の説明を求めたいというのです。今日は祝日だったので、普段あまり来られない方も祈祷会に来てくださって深い分かち合いとなりました。難解なヨブ記を身近に感じることができたことを感謝します。
教会のデボーションはヨブ記21章になりました。二度目のツォファルの語りかけに対するヨブの答えです。絶望の淵に立つにヨブに、友人たちはなんとかして彼を慰めようと説得を試みます。そこでヨブはこの二度目の会話の終わりに、自分が必要としているのは安易な慰めの言葉ではないこと、ましてや説得や非難を受けることなどではないと訴えます。自分の語ることに耳を傾けてほしい…それを自分への慰めにしてほしい…と。友人たちの説得は、不幸が誰かを襲うのはその人が神と人間に対して罪を犯したからだ、悪しき者は裁きを受けるということです。ヨブの答えは、では…私は悪しき者なのか、悪しき者だって長寿を全うし、子孫も財産も与えられている、それが現実ではないかということです。あらためて祝福と繁栄とは何かを考えさせられます。困難の中でこそ、この世の価値観に振り回されないようにしたいものです。主は言われました。「心の貧しい者は幸いなり」
10月第五主日、今日も子どもからご年配の方まで多くの方々が集われました。1517年10月31日、ルターはカトリックの免罪符に対する反論として95ヶ条の公開質問状を張り出しました。このニュースは瞬く間に全ヨーロッパへ広がり、プロテスタントの狼煙ともなりました。そこから約500年の歳月が過ぎますが、日本のクリスチャン人口は未だ全体の1%にも満たない状況が続きます。まさに日本でクリスチャンになるのは狭き門と言わざるを得ません。でも、その狭き門を見出し、そこを入口として救いの道を歩み出す人は幸いです。狭き門とはイエス・キリストです。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。」大事なのは入口です。宗教はみなどれも同じではありません。最初のボタンの掛け違いはその後ずっと間違えたままです。今日、苦難の中を通らされても、ともに歩む者は少なくても、あなたはわたしに従いなさいと主は招いておられるのです。
今、日曜礼拝ではイエスさまの生涯を記した福音書から学んでいます。生前イエスさまはどのような言葉を語り、どのような歩みをされたのかを読むと教えられることがたくさんあります。ただ、その頃の弟子たちはイエスさまが語られたことを正確には理解していませんでした。イエスさまが召された後、初めてその言葉と行動の意味を理解したのです。私たちも時に、言われたそのときに言われたことを理解できるとは限りません。その人が亡くなってある年月を経て初めてわかることもあります。私も父を天に見送って16年…。父が何気なく話していた言葉が今になって響いてくることがあります。『人と人との関係はどちらかが亡くなっても続きます。続くだけでなく、深まってもいきます。』最近読んだ本の一節が心に残りました。確かにそうだなと思います。ああしておけばよかった…と考える日々もありましたが、今は父が願うであろう自分として歩みたいと願っています。
10月第四水曜祈祷会、教会のデボーションはヨブ記17章になりました。誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていたヨブがなぜこれほどの苦難にあっているのか…。友人たちは、ヨブが神に背いて罪を犯したから神の裁きが下ったのだとヨブに悔い改めを迫ります。しかし、ヨブにとって彼らの言葉は何の慰めにもなりません。むしろ、ヨブは自分の潔白を主張し、ますます絶望の淵へと追いやられていくのです。「いったい、どこに私の望みがあるのか。だれが私の望みを目にするのか。」自分の人生はもう終わったも同然、もはや何の望みもないと独白していくヨブ…。彼のように私たちも時に、神に嘆き苦しみを訴えるような、文句を言いたくなるような時があります。でも、それはつきつめれば心の奥底で神を信頼しているから、信頼したいからこその言葉ではないでしょうか。私たちの希望はイエスさまがいることです。この希望は失望に終わることがありません。
今日は朝から冷たい雨が降っていました。昨日の午後、納棺式の際に故人のお顔を見せていただきましたが、穏やかな優しい顔をしておられたので、今主の平安の中にいることを思いました。母教会の先生にも連絡をさせて頂いて洗礼志願書などをFAXで送って頂き、祖母から続くクリスチャンであったことがわかりました。教会生活はあまり熱心な方ではなかったようですが…クリスチャンの従妹の方とも電話で話すことができて、青年時代のこともよく教えて頂きました。ある牧師はこう言います。その人の一生の価値は、その人の働き盛りとかではなく、実にその人の臨終の枕元においてなされるもの…。葬儀の中で御言葉が語られ、永遠のいのち、天の故郷、天国での再会を心に覚えて、ご遺族の方々と讃美歌を歌いました。終わった後、列席者の方に「キリスト教の葬儀もいいもんやね」と仰って頂きました。とても慰めに満ちた葬儀になりました。お祈りを感謝いたします。
10月第四主日、すっかり秋の深まりを感じる一日…。礼拝メッセージはルカ13:10-21。イエスさまは安息日に、18年も病の霊につかれてきた女に声をかけられました。「女の方、あなたは病から解放されました。」彼女はイエスさまのことばを信じて、ただちに立ち上がって、神をあがめたのです。ここに安息日の本質があります。すなわち、安息日はただ習慣的・形式的に守ればいいものではなく、大事なのは『喜びの日』『栄えある日』とすることです(イザヤ58:13)。また、イエスさまは『神の国』について二つのたとえを話されました。『からし種』『パン種』はどちらも極小の種粒でありながら、大きな成長、大きな影響を与えるもの、そして、種自体に生命力があることを示しています。神の国はイエスさまの到来によって始まり、私たちのただ中にあって、今日も全世界で広がりつつ、変わりつつあるのです。礼拝後、今日は転入会式もあって祝福に溢れる一日でした。
以前、教会に来てくださっていたご家族から久しぶりにお電話をいただきました。それは『夫が天に召されました』という寂しい知らせでした。最初にご主人とお会いしたのは今から7年前で、教会のホームページを見て訪ねてくださいました。その時は、しばらく教会生活もお休みされていたようでしたが、少し懐かしそうに聖書や信仰のことについていろいろお話ししてくださったのを覚えています。青年時代、好きな女の子が教会に通っていて、彼女に惹かれて行ったのが最初だったとのこと…(よくある話しです)。それから、洗礼までどのように導かれたのかは聞いておりませんが、いずれにしてもクリスチャンになられたのは本当に幸いでした。聖書にはこうあります。「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。…その人たちはその労苦から解き放たれて安らぐことができる。」葬儀は月曜日になりますが、ご遺族の上に主の慰めと支えをお祈りいただければ幸いです。
10月第三水曜祈祷会、ヨブ記11章から。三人目の友人ツォファルが満を持してヨブに語りかけます。「ことば数が多ければ、言い返されないだろうか。人は唇で義とされるのだろうか。」先のエルファズ、ビルダデの語りかけに対し、ヨブは実に言葉巧みだと批判します。ツォファルも、ヨブの受けた災いはヨブ自身に問題があると見ていました。そして、二人の友人と同じく彼も、因果応報の考えに基づく神への悔い改めを、ヨブに迫ります。そうすればヨブの苦しみは取り去られ、その繁栄は回復されるのだというのです。最初から自分の答えを持っているツォファルの言葉は、たとえ正論だったとしても…ヨブの心を慰めるどころか、極めて辛辣なものです。こうして、ヨブはますます自分のことをだれも理解してくれないと思っていくのです。私自身も、知らず知らずのうちに聴き手になれず、正論をかざして相手を言い伏せてしまっていることはないか…考えさせられました。
10月第三主日、気持ちの良い青空が広がる一日となりました。礼拝メッセージはルカ13:1-9。イエスさまは群衆に向かって、ガリラヤ人たちが殺されたことやシロアムの塔が倒れて死んだ18人のことについて語られました。当時の人々は何かの災難が起こるとまず神罰を考えたようです。イエスさまはそうした考えを否定して、「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」さらにいちじくの木のたとえをもって、父なる神が忍耐して待っておられること、イエスさまがとりなし祈っておられることを教えられたのです。「今年一年そのままにしておいてください。…それで来年、実を結べばよいでしょう。」いちじくの木を徹底的に守ろうとするイエスさまの思いが、この言葉に表されています。それは、ご自身のいのちをかけてでも守ろうとする愛であり、このイエスさまの愛によって示される神の愛でもあります。この愛が、私たちにも向けられているのです。
ヨブ記7章。エリファズの言葉を受けて、ヨブはあなたに私の苦しみの深さがわかるのですかと反論します。そして、神の訓戒などいらないから、もう自分の命を絶ってほしいと嘆きます。やがてヨブの思いは、友人のエリファズから、神に向かって語り始めます。主のしもべとして生きてきたのに、今自分は家族も財産も何もかも失い、全身の病に冒され、あとは息のように儚く消え去るだけ…もはや再び幸いを見ることはない…というのです。「もういやです。いつまでも生きたくありません。かまわないでください。私の日々は空しいものです。」ヨブの一つ一つの言葉に、深い悲しみが迫ってきます。ただ…大切なのは、神はこのヨブの嘆きの祈りに耳を傾けておられることです。私たちも時に、苦しくて苦しくて生きてることさえ辛い夜が、だれにも理解してもらえないと感じる日々があるのではないでしょうか。「しかし私は、主よ、あなたに叫び求めます。…」(詩篇88:13)
10月第二水曜祈祷会、ヨブ記5章から。昨日に続いてエリファズのヨブへの言葉から学びました。エリファズは、不幸やわざわいは人間の罪の報いなのだから、激しく嘆いたり、神を呪ったりするのは間違っていると語りかけます。むしろ、神の叱責を受けるのは幸いなこと、神はただ懲らしめるだけではなく、その傷を包み、癒してくださる方だと言うのです。「私なら、神に尋ね、神に向かって自分のことを訴えるだろう。」エリファズは無意識のうちに、自分がもしヨブの立場だったらこうするのに…と自己の敬虔さを主張しました。痛みと悲しみの淵にあるヨブは、彼の言葉をどう聞いたのでしょう。まさしく傷口に塩を塗られるような思いだったのではないでしょうか。たとえ真実が混ざっているとしても、言葉には本当に気をつけたいものです。分かち合いの時間にも、いろいろな感想を聞くことができて感謝でした。今日から、少し新しい体制での水曜祈祷会が始まります。
教会のデボーションはヨブ記に入りました。人の苦難の意味について、これほど考えさせられる書はありません。物心両面に恵まれていたヨブは、略奪と天災という四つの災いに遭い、すべてを失います。それでも神の御心と受け止め、神への信頼を持ち続けるヨブのもとに、エリファズ、ビルダデ、ツォファルの三人の友人が訪ねてきます。彼らは、ヨブの悲しみにただ寄り添うしかできませんでしたが、ヨブが徐々に自分の心情を打ち明けたので、まずエリファズが自分の考えを話しました。エリファズは、ヨブの身体を労わりながらも、不幸には必ず原因があること、自分の経験から神の絶対的な正しさを示すなど、ヨブに自分の非を認めさせるような説得をしたのです。彼を励ましたいという気持ちが、いつの間にか上から物を言うような言葉に…。傷ついた人の心を理解せず、不用意な言葉を発するより、ただ黙って寄り添うこと、とりなし祈ることの大切さを思わされます。
10月第二主日は、朝から夏を思わせるような日差しの強い一日でした。礼拝メッセージはルカ12:22‐34から。大勢の人々が集まっている中で、イエスさまは弟子たちに「あなたがたは、…いのちのこと、…からだのことで心配したりするのはやめなさい」と言われました。そして、鳥や草花に目を移して、それらを養っておられる神は、あなたがたのことを価値ある存在として見ておられ、あらゆる面で養ってくださるのだと教えられたのです。天の父なる神さまは、私たちが生きていく上で必要なものをよくご存知です。そして、私たち以上に私たちのことを心配してくださっているのです。イエスさまが弟子たちによく繰り返された言葉に、「恐れるな」があります。それは、彼らの心に深く刻まれていったことでしょう。今もイエスさまは、私たちが慌てたり、何かに恐れている時にも、私たちを憐れんで、この時の弟子たちと同じように声をかけて、励ましてくださるお方です。
今日から、ハートフル英会話・秋期コースが開講しました。久しぶりにお会いする方々と初めてお会いする方々と、また木曜日のなごやかな時間をともに過ごせることを感謝します。教会は、クリスチャンの方はもちろん、クリスチャンではない方にとっても、大人も子どもも、心落ち着く楽しい場所であってほしいと願っています。講師のレイチェルさんとホゼアさんが本当に心を込めて授業をしてくださいますので、とても雰囲気のよいクラスです。大人も子どもも、定員人数までもう少しあります。ご興味のある方はまずは無料体験クラスをお試しください。話しは変わりますが…昨日は東北で、今日は関東で、震度5強の大きな地震がありました。首都圏の地震では、各地で停電があったり、水道管が破裂したり、複数のけが人も出たようです。東日本大震災以来10年ぶりの震度5強とのこと。けが人や被災された方々を覚えてお祈りしています。関西もあらためて注意が必要です。
10月第一水曜祈祷会、ローマ8:1‐17。パウロは善を行いたいと願いつつ、自力ではそれができない現実を認め、人はただ救い主の助けを求めるほかないことを述べました。でも、だからこそ「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」というのです。キリストを信じ、キリストの救いにあずかった者は、今や「罪と死の原理」、すなわち罪と死の支配から解放されました。それは、キリストの贖いによって「いのちの御霊の原理」がもたらされたからです。御霊は、私たちのうちに住んでくださって、私たちを永遠のいのちに導き、神の子どもであることを証ししてくださいます。ですから、パウロは他書でも「御霊によって進もうではありませんか。」と勧めるのです。私たちも、肉体的には日ごとに衰えても、霊的には日ごとに新しく造り変えられ、キリストのご支配の中を、キリストの栄光目指して歩もうではありませんか。
緊急事態宣言解除に伴い、今週の木曜日からハートフル英会話秋期コースが始まります。毎週木曜日に行っている英会話教室、皆さまに愛されて今年で27年目を迎えました。日常会話から海外旅行、ビジネス英語など、使える英語を身に着けたいならネイティブ講師から学ぶのが一番です。講師は二人とも敬虔なクリスチャン。最大6人の小グループ制なので、互いに助け合いながら、新しいお友だちの輪が広がります。大人クラスも、初めは皆さん緊張されてこられますが、だんだん親しくなって会話も弾み、いつも笑い声がたえません。Kidsクラスは、フラシュカードを使ったりクラフトをしたり、とにかくいろいろなプログラムがあって楽しい50分です。クラスの時間帯や料金などの詳しい情報はハートフル英会話のページをご覧ください。すでに案内チラシを見てくださった方もいるかと思いますが、ただいま無料体験クラスを受付中!お電話か、メールでお申し込みください。
10月第一主日、秋晴れの青空が広がる一日。緊急事態宣言解除後の最初の主の日、三回に分かれての礼拝でしたが、多くの方々と久しぶりに顔をあわせ、聖餐式の恵みにもあずかることができて感謝でした。メッセージはルカの福音書12:13‐31。群衆の中の一人がイエスさまに質問したことから、イエスさまが愚かな金持ちの譬えをされたところです。そこから、財産はいのちを保証しないこと、神なき人生を歩む愚かさ、神との正しい関係に生きることを心に留めました。『神に対して富む者』とは、自分で精一杯聖い生活を送り、神の子どもとして多くの良いことをする…ことではなく、何より、こんな弱く愚かな者でも、神から愛されていることを喜び、与えられたいのちを感謝し、喜びの日も悲しみの日も神とともに歩むことです。自分に誇るべきものがなくても、神を信じる者に約束された神との和解があります。今週もこの恵みのうちを歩ませていただけることを感謝します。
教会のデボーションはローマ6章に入りました。パウロはイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められることを記した後、「それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。」という問いを投げかけます。つまり、神の恵みが増し加わるために、あえて罪の中にとどまっているべきですかというのです。それに対する答えは、「決してそんなことはありません」です。理由は二つ。私たちは律法の下にではなく(罪に対して死んだ者)、恵みの下にある(神に対して生きる者)からです。その目に見えるしるしがバプテスマ(洗礼)です。もちろん洗礼を受けたからといって、すぐに罪から完全に自由になれる人はいません。地上にあっては、罪との戦いや誘惑があります。でも、私たちはみな、聖潔に向けて決定的な一歩を踏み出した者たちです。あとは聖霊により頼みつつ、一歩ずつ完成を目指していきましょう。
教会のデボーションはローマ5章に入りました。「こうして…私たちの主イエス・キリストによって、神との平和をもっています。」主イエスを信じる信仰によって、私たちは神との正しい関係が回復しました。その結果、私たちは神との和解、交わりの中に生きる者とされたのです。だからこそ今の患難さえ喜ぶことができる、それは患難が忍耐を生み出すことを知っているからです。忍耐とはただ消極的に我慢することではなく、主に期待して積極的に生きることです。キリストは私たちの罪のために死んでくださった、しかも「私たちがまだ罪人であったとき」に、です。ここに人類に対する神の愛が具体的に示されました。アダムの背きによって全人類に罪が浸透したように、キリストの義の行為によって多くの人が義とされる道が備えられたのです。今、キリストを信じる信仰に歩んでいる者が、どれほど圧倒的な恵みの中に生かされているかを、心に留めて歩みたいと思います。
9月第五水曜祈祷会、ローマ4:1-25から。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」パウロはユダヤ人が誇りとするアブラハムとダビデの例を挙げて、行いではなく信仰によって義と認められることを記しました。丁度、旧約聖書を学ぶ会でアブラハムの晩年を学んだところでしたので、「不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます」ということの意味がよくわかりました。アブラハムも75歳の時に神の召命を受けて信仰の旅が始まりましたが、時に神に背き、神の叱責を受けることもありました。それでも彼は、神の声に励まされ「望み得ない時に望みを抱いて信じ、…神には約束したことを実行する力があると確信して」歩み続けたのです。このような信仰者になるには、アブラハムでさえも、長い年月の神の取り扱いを受けました。私たちもアブラハムの子孫として、約束を信じて偉大な信仰者の歩みに倣いたいものです。
9月第四主日、爽やかな風が気持ちのよい一日でした。伝道者の書6章から『悪しき病からの癒し』をテーマに、神の賜物を楽しめない空しさ、今あるもので満足できない空しさ、神と言い争う空しさをポイントに御言葉を学びました。『だれが知るだろうか。…だれが人に告げることができるだろうか。…日の下で何が起こるかを。』誰も知り得ない、それが6章の結論でした。『悪しき病』とは、神なき人生を歩む者の心を蝕む病魔です。放っておけば確実に死に至る病となります。でも、感謝すべきは、今日の私たちはこの問いの答えをイエス・キリストのうちに見出すことができることです。今は教会に行きたくても、他の方のことを考えて自粛しておられた方も多いと思います。それぞれの地域教会で事情は違うと思いますが、私たちの教会も緊急事態宣言の解除を目安に、主日の三部礼拝を再開します。また、教会で皆さまと心一つに礼拝をささげられるのを楽しみにしています。
昨日は同盟教団宣教130周年記念大会がありました。教団の歴史、特色、展望がどういうものかをあらためて再確認する良い機会となりました。1891年に来日した15名の宣教師(その内の一人は来日後3ヵ月で召天)は、今では想像もつかないような迫害、経済的必要、霊的戦いを覚えながら未伝地での宣教と救霊のために献身してくださいました。その功績は、現在261の教会、信徒11,965人が所属し、さらに日本とアジアと世界に仕える教団となり、今も前進し続けています。朝岡理事長の全体講演の中で『コロナ禍にあって多くの教会が困難の中にある。でも、私たちの思いを越えて働かれる主の御業に、私たちは参与するのだ。』という言葉が心に残りました。確かに自分の教会だけが祝福されればいい、同盟教団の教会が増えればいいというのが、130周年に覚えることではありません。主が必要とされるならば、喜んで宣教協力し、献げていく教会でありたいと思わされました。
昨夜は中秋の名月。思わず「天は神の栄光を語り告げ。大空は御手のわざを告げ知らせる。」の御言葉を思い出す夜でした。そして、今日の水曜祈祷会。ローマ1:18~「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」同じ天を見上げるのでも、今朝は身の引き締まる思いがしました。『怒り』とは『神の裁き』(終末的審判)を表す言葉です。人間は、自然の美しさを思うと同時に、その造り主に思いを馳せなければなりません。罪の本質は、何か犯罪を犯すことではなく、神を認めず、神を神としてあがめないことです。私たちはこの世に生まれてから、何もかも当たり前ではない現実の中を、自分の力で生きてきたのではなく、神によって生かされてきました。神は義しい方ですから罪に対しては厳しい裁きを下されます。と同時に、神は愛なる方ですから神を求める者には全き赦しをお与えになるのです。
教会のデボーションはローマ人への手紙になりました。今日はその書き出し1:1‐7から。ギリシャ語原文では一続きのあいさつ文。「キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。」この一節だけでも深みのある言葉です。キリスト・イエスに対する全き服従、神の福音のために選び分かたれ、復活の主の証人として遣わされた者だということ。ここから、福音とは何か、自分の使命とは何か、パウロがこの手紙を通して伝えたいことが、短い文章の内にギュッとまとめられています。ちょっと難しそうだな…と感じる方もいるかもしれませんが、Ⅱ歴代誌の時のように1章ずつではなく、ローマ書は短い節に区切って見ていきますので、なんとか読書百篇の気持ちで一緒に味わっていきましょう。「…すべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。」聖霊さまがお一人ひとりのデボーションを祝福してくださいますように祈っています。
9月第三主日、台風一過の青空が広がりました。伝道者の書5章から。伝道者である著者は、形式や口先だけの信仰の空しさ、また金銭や富を追い求めることの空しさを覚え、結論として神が与えたいのちの日数の間を楽しみ喜ぶように告げました。「こういう人は自分の生涯のことをあれこれ思い返さなさい。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」私たちの人生は短く、あれこれ思い返している暇もないほど束の間に過ぎてゆくものかもしれません。でも、神がその人生を喜びで満たしてくださることを信頼して、たとえ束の間であっても、一心に主を賛美し、その栄光を表していきたいものです。今日は礼拝後に二人の方の洗礼式がありました。コロナ禍なので、細やかなお祝いしかできませんでしたが、天で大きな喜びの声が上がっていることを思いました。まさに神の時、新しい人生の出発に、立ち合えて感謝でした。これからの信仰生活の祝福を心よりお祈りしています。
詩篇102篇は苦しむ者の祈りです。「主よ、私の祈りを聞いてください。私の叫びが、あなたにまで届きますように。」詩人は、心身ともに病気にかかり、自分のいのちの終わりまで予感していたようです。でも、彼は言葉にできないその思いを、神に向けて行きました。「それはあなたが、憤りと激しい怒りのゆえに、私を持ち上げ、私を投げ捨てられたからです。」今の状態はたまたまではなく、神が通らされている試練であるならば、回復を与えてくださるのも神です。イエスさまも、神の許しなしには何事も起こり得ないと言われました。困った時こそ神の名を呼び求めましょう。私たちは何か辛い試練にあうと、早くそこから抜け出したい、解放されたいと願い求めるものですが、まず今の状況を神が知らないはずがない、神は間違ったことをなさらない、忘れてはおられない…そのような信頼に立ちたいものです。すべてのことを、私たちを愛するゆえになさる方だからです。
9月第三水曜祈祷会はⅡ歴代誌36章から。ヨシヤ王の死後、南ユダは滅びの最終段階に入り、4人の王が登場して幕を閉じます。どの王の時代もエジプトから、バビロンから攻撃を受け、国は弱体化していきました。それでも主は、たびたび使者を遣わして悔い改めを迫りますが、彼らは全く聞く耳を持たず、預言者らを蔑み笑いものにしました。こうして、ついに主の激しい憤りが燃え上がり、カルデア人の王ネブカドネツァルによって、若者も年寄りも殺され、神の宮は焼かれ、剣を逃れた者たちもバビロンへ捕らえ移されるという壊滅状態に陥ったのです。神の厳しい審判でした。でも、本書の最後には、エレミヤによる回復と希望の預言とペルシャの王キュロスによる解放宣言が記されていました。「バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み…」主はご自身の計画をもって歴史を導いておられる、ゆえに主の裁きは真の回復の始まりでもあることを思いました。
教会のデボーションはⅡ歴代誌35章、南ユダ国最後の信仰の王ヨシヤに関する記述です。彼は8歳で王となり、16歳で主を求め、20歳で改革を開始し、31年間主の目にかなうことを行ったとあります。その中でも特筆されるのは、先週のヒゼキヤ王の場合もそうでしたが、過越のいけにえを献げて神への献身を示したことです。『過越』はイスラエルの民がエジプトの奴隷から主によって助け出されたことを記念する祭りです。「イスラエルでこのような過越のいけにえが献げられたことはなかった。」過越にかけるヨシヤ王の熱心は膨大な量のいけにえや祭司・レビ人への命令に表されていました。その後しばらくして、ヨシヤ王はエジプトの王との戦いで不慮の死を遂げていきます。これほどの改革を行った王が…なんともあっけない死に方に思いますが、「全ユダとエルサレムは、ヨシヤのために喪に服した。」という言葉に、彼の労苦も決して無駄ではなかったことを感じました。
9月第二主日。アメリカ同時多発テロ事件から20年が過ぎました。今年8月末に最後の米軍機が現地を離れ、米史上最も長い戦争に終止符が打たれましたが、今もなお政治的混乱が続くアフガニスタンのために祈りたいと思います。今日の礼拝メッセージは伝道者の書4章からでした。権力者たちに虐げられている者たちの涙、神なき成功、神なき人生、神なき名声の空しさを覚えました。「二人は一人よりもまさっている。…一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」イソップ童話の『三本の棒』、毛利元就の『三本の矢』を思い出すところですが、自分と隣人、そして第三の糸に、イエス・キリストを見ることができるのはクリスチャンの格別な恵みです。また、午後からの役員会では緊急事態宣言再延長に伴い、教会も来会自粛期間を再延長することを決めました。今はただ感染者数の減少を祈りつつ、主の憐れみを求めたいものです。
4日間の研修会が終わりましたので、今日はちょっと休憩。秋の花がほしいなぁと思って、The Farmへ。この時期は春や夏と違って花の種類も限られていて、とりあえず…今日は見て回るだけで満足でした。秋と言えば『秋桜』ですが、種から準備していたのが、目を出して15㎝くらい伸びたところでぜんぶ枯れてしまいました。土が原因だったのか、暑さだったのか…わかりませんが、結局、つぼみをつけたものをいくつか買って植えることにしました。でも、教会で花を育てるのは、何より見て喜んでくださる方がいると思うからで…今の緊急事態宣言中は来会する方も少なく、寂しいものです。気を取り直して、狭い教会の畑を耕し、ジャガイモでも植えようかなと思っています。ある方が気にして『山下先生はワーカホリックじゃないですか…』と心配してくださったのですが、適当に休んでおります。お気遣いありがとうございます💦皆さまも季節の変わり目、ご自愛ください。
月曜日から同盟教団のオンラインでの補教師研修会が行われています。私も教職教育部員なので、若い先生方と一緒に9つの講演会に出席しました。同盟教団の牧師として知っておかなければならない事柄を、一つ一つ先輩の先生が経験も踏まえて教えてくださるのでかなり実践的です。対面のような深い交わりは持てませんが、家族で参加されている先生もいたので、オンラインならではの良さもありました。これから正教師試験にチャレンジする先生方のために祈らされました。さて、今日の水曜祈祷会はⅡ歴代誌31章から。ヒゼキヤは、祭司とレビ人を組分けして、主の律法に記されているとおりにいけにえを献げさせました。さらに、彼らが律法に専念するためにエルサレムに住む人々に献げものをするように命じたのです。いやいやながらではなく、喜んで献げる民の姿が目に浮かびます。ヒゼキヤの思いは民全体に浸透し、まさに神の民みんなで行う宗教改革となったのです。
教会のデボーションはⅡ歴代誌30章になりました。29章からヒゼキヤが南ユダの王として即位し、神殿を修復し、レビ人を聖め、偶像を徹底的に除去する宗教改革を行ったことが記されています。しばらく信仰的に堕落した王さまが続きましたので、ヒゼキヤの登場はまさに希望の光です。ヒゼキヤはイスラエルとユダの全土に過越のいけにえを献げるように呼びかけました。「主に立ち返りなさい。そうすれば、主は…あなたがたのところに、帰って来てくださいます。」その頃、北イスラエルはアッシリヤの攻撃を受け、すでに首都サマリヤは陥落し、多くの民が連れ去られる中で、ヒゼキヤの呼びかけを物笑いにし、嘲る人々もいました。でも、こうした危機的状況だからこそ、神の救いを求めてエルサレムに集まり、大きな喜びをもって礼拝を献げる者たちもいたのです。「…彼らの祈りは、主の聖なる御住まいである天に届いた。」こんな喜びに溢れる礼拝を献げたいものです。
9月第一主日、雨も上がり青空が広がる一日。今日の礼拝メッセージは伝道者の書3章からでした。有名な箇所ですが、読めば読むほど…その深遠さに圧倒されるところで、一回のメッセージでは語り尽くせないことを感じました。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」神は創造の時から、人の心に永遠なる方を慕い求める思いを与えられました。自分の心が神に向けて造られたこと、また神に知られ、愛されていることを知ること、人生においてこれ以上の幸いはありません。伝道者の書、まだ三合目まで登り始めたばかりですが、読書百遍の気持ちで読んでいきたいと思います。今日も教会に来られた方は奉仕者も入れて10人ほどで、新しい方も来てくださって感謝でした。パラリンピックも閉会しました。選手の皆さま、本当にお疲れさまでした。
9月最初の水曜祈祷会はオンラインで行いました。今日もライブでの解説はお休みさせていただいて、会堂で録画した映像を視ました。Ⅱ歴代誌24章はヨアシュ、25章はアマツヤ、26章はウジヤ王。この時代の王の特徴は、最初は主の目にかなうことを行っていたのに、後半に神から離れ、身を滅ぼしていくことです。読んでいて思わず『どうしてここで…』と思ってしまうほど、見事に偶像に心奪われ、預言者の声に耳を傾けず、神を侮り、自分勝手な行いに走り、主の御怒りを受けていきます。スケールは違いますが、私たちの信仰生活にも通じることかもしれません。初めのうちは謙遜にへりくだっても、ある程度、問題が解決すると神から目を離してしまう…自力でなんとかできると錯覚してしまう…。王たちの信仰の不甲斐なさが、どこか自分の姿と重なるからこそ余計ヤキモキするのかもしれません。王たちの問題点をしっかり心に留めて、私たちも兜を締め直したいものです。
8月の旧約聖書を学ぶ会がありました。私事ですが、今日は2回目のワクチン接種があったため、予め録画したものを配信させていただきました。愛妻サラが召天し、老人となったアブラハム。後の気がかりは、まだ息子イサクの嫁が決まっていないことでした。そこでアブラハムは信頼できるしもべを呼び寄せて、息子の妻となる女性を見つけてきてほしいと命じました。しもべは祈りの内に具体的な主のお取り計らいを求めます。すると、彼が祈りが終わらないうちに、リベカという素晴らしい女性が目の前に現れたのです。この後リベカはしもべと一緒にイサクのもとに行くことを決心し、長旅に出発しました。夕暮れ近く、散歩から帰ってきたイサクが目を上げて見ると、ちょうど、らくだに乗ったリベカも目を上げて、二人が見つめ合うという感動的な出会いのシーンでした。「…イサクは、母の亡き後、慰めを得た。」アブラハムとサラの祈りはこうして聞き届けられたのです。
8月第五主日、緊急事態宣言延長に伴い、教会もあらためて来会自粛となり、オンラインの礼拝となりました。伝道者2章から「万古不易の真理」というテーマで、イスラエルの最高の知恵者であり、栄華を極めたソロモンが、地位も名声も富もすべてを手に入れ、その結果はいかに。「すべては空しく、風を追うようなものだ。」つまり求めても、手に入れても、心は満たされなかったのです。むしろ、食べる、飲む、働く…こうした基本的な生活の中に満足を見出す、それもまた神の御手によることと受け取っていく、ここに人間の知恵があるというのが心に残りました。今日は午後からファミリーコンサートがありました。昨年はコロナ禍で中止でしたが、今年はオンラインでの開催。バイオリン、ビオラ、チェロ、ウクレレ、サックス、ピアノ、フルート、オーボエ、歌、鉄棒、証し、多くの方が出演してくださいました。私たちの教会らしいコンサートができたことを感謝します。
8月の第四水曜祈祷会がありました。二週間お休みをいただきましたので、久しぶりの祈祷会に少し緊張しました。使徒の働き27:27~パウロたちを乗せたローマ行きの船は暴風に襲われ、アドリア海を漂っていました。人々は二週間も何も食べずに暴風に翻弄されるままになっていましたが、パウロの「あなたがたは助かります」という言葉によって元気づけられ、食事をとりました。夜が明けたころ、近くに入江が見えてきましたが、二つの潮流に挟まれて船は座礁し、ついに船尾から壊れ始めていきます。もはや万事休す…でも、パウロの言葉を信頼した百人隊長の指示で、二百七十六人全員が無事に陸に上がることができたのです。ともにこの危機を経験したルカならではの臨場感にあふれる描写でした。どんなに人間的にはもうダメだ…と思うような状況に陥っても、たとえ沈みゆく船の中にあっても、まことの神を知る私たちの存在は決して小さくないことを思わされました。
教会のデボーションは使徒27章です。人々の不当な訴えによって総督や王の前で証しをしてきたパウロは、いよいよローマ皇帝ネロのもとに送られることになりました。当時の世界の首都ローマにおいて福音を証しすることは、パウロが長く切望していたことであり、世界宣教における神の計画が前進することでもありました。ただし、ローマへの道のりはなお遠く、険しいものでした。途中、船は向かい風にあおられ、さらには暴風に襲われ、難破の危機に陥りました。もはや人々の助かる望みも完全に絶たれようとしている中で…パウロは毅然としてこう言いました。「元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う人は一人もありません。」パウロのように、神の御心に従って歩んでいても、途中で思わぬ暴風に襲われることはあります。でも、「私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになる。」この揺るがない確信を、私たちも持っていたいものです。
8月第四主日、今日は献堂4周年記念礼拝でした。私たちの教会がこの場所に移ってきて、もう丸4年が過ぎるのだな…と感慨深く思いました。今はみんなで集まってのお祝いはできませんが、この教会でいろいろな方と出会い、主にある交わりを持たせていただいたことを感謝します。今日の礼拝メッセージは玉井邦美師が申命記1:5-8からメッセージを取り次いでくださいました。ただ恵みを受けるだけの教会生活は危険であること、また、教会には託された使命があることについてチャレンジを受けました。「あなたがたは向きを変えて出発せよ。」コロナ禍にあって、教会の活動も何かと制約がありますが、あらためて目を上げて教会が進むべき方向を確認できたように思います。今日もまた、コロナの感染者数は日曜日としては過去最多を更新。明後日からはパラリンピックも始まります。まだまだ感染拡大に歯止めがかからない状況ですが、御心を求めていきたいと思います。
今週は夏休みをいただいて、大学生のオンラインキャンプで奉仕させていただきました。本当に充実した、内容の濃い四日間でした。緊急事態宣言が発令される中でもこうしてzoomを通してキャンプの恵みを味わうことができたのは、実行委員をはじめスタッフ、現役生、卒業生、多くの方の祈りと支えがあってのことだったと思います。この場を借りてあらためて御礼申し上げます。ありがとうございました。どこか自然の中で、対面で、時間も気にせずできたら…と思った学生たちもいたと思いますが、今の情勢の中での最善だったのではないでしょうか。今回のテーマは『伝道』でしたが、グループリーダーから信仰の決心や信仰の原点に帰る青年たちがいたことを聞いて、主の御名をあがめました。彼らにはまた、明日から厳しい現実が待っていると思います。でも、キリストがともにおられ、一人ひとりに与えられた御言葉が支えと希望になりますようにお祈りしています。
オンラインキャンプ、三日目が終わりました。今回の奉仕を依頼された時は、コロナ禍の教会のことで頭が一杯で、お受けするかどうか思案しましたが、これまで教会の青年たちがどれだけお世話になってきたかを考えたら、地域教会の牧師として感謝を表すべきだと思わされました。実際、キャンプが始まってみると、配信に不手際があったり、妻が入院することになったり…いろいろな予期せぬことが起こりましたが、まっすぐに御言葉に向かおうとする青年たちの姿に励まされっぱなしの三日間でした。連日メッセージの後に、zoomの牧師室に青年たちが訪ねてきてくれて、質問や感想を分かち合ってくれましたが、まさに牧師冥利に尽きる時間でした。参加者77名、初参加10名。「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」キャンプは明日の派遣礼拝で終わりますが、コロナ禍の時代の青年たちを、祈りと御言葉をもって送り出したいと思います。
箕面の青空が戻ってきました。でも、このところの長雨は日本各地に甚大な被害をもたらし、金曜日頃まで予断を許しません。また、もはや驚きもないですが、大阪の新型コロナの新規陽性者も2,296人という過去最多を更新。全国でも23,000人を超え、歯止めがかからない状況です。神がいるならなぜこんな状況を許しているんですか…今日もキャンプの分科会で質問がありました。きちんと答えられたかわかりませんが、確かなことは、神はこの状況をご存知であって、心を痛めておられるということです。夜の集会のメッセージも、ペテロたちがイエスさまを見捨てて逃げ出していくところからでした。イエスさまはシモンに「サタンがあなたがたをふるいにかけようとしている」と警告しました。それなのに…。でも、イエスさまがそんな彼のために「あなたの信仰がなくならないように祈りました」と言われたことを中心に話しました。ここに私たちへの慰めがあるからです。
今日からキリスト者学生会のサマーキャンプが始まりました。Zoomなので、学生たちとゆっくり交わることはできませんが、画面越しにキャンプの雰囲気を味わうことができて感謝です。私は分科会と夜の集会でメッセージを担当します。今夜はペテロとイエスさまの出会いの場面から、「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」を中心聖句に話しました。最後にカメラを切り替えるのを忘れていたことに気づきましたが…時すでに遅し。でも、何人かの方に『特に問題ありませんでしたよ』と優しく声をかけられ…とにかく一日目を終えてホッとしました。あと三日間、気を抜かずに奉仕を全うできるようにお祈り頂ければ幸いです。新型コロナによる緊急事態宣言はついに地域拡大と期間延長が正式に決まりました。また、西・東日本でも激しい雨が予想され、どこで土砂災害が起きてもおかしくない状況です。様々なことが最小限に抑えられるようにお祈りしています。
8月第三主日は戦後76年目の終戦の日でした。先の大戦で亡くなられた方々を覚えて祈り、世界平和への思いを新たにしました。また、昨夜は西日本を中心に記録的な大雨が降り続き、各地に甚大な被害がありました。新型コロナの感染者数も一日2万人を突破する日が続いています。主よ、憐んでください…とただただ祈るばかりです。礼拝では伝道者の書1章からみことばを心に留めました。「空の空。伝道者は言う。空の空、すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」「空」とはもともと「息」を意味する言葉で、すぐに消えてしまう儚いものを表していました。神との関りのない人生はなんと儚く、空しいものだろうかというのです。それは当代随一の知恵者と言われ、経験豊富な伝道者の実感のこもった言葉でした。時代がどんなにうつり変わっても人間の本質は変わりません。今日の私たちにも、多くの気づきを与えてくれる書簡です。
台風一過でしたが、大事にしていた向日葵が倒れてたり、看板が飛んでしまっていたり…
CGNTVの撮影もあり、片付けと奉仕で慌ただしい一日でした。さて、教会のデボーションは使徒の働き21章から。聖霊に導かれたパウロは、いよいよエルサレムに到着しました。そこで早速、教会の指導者たちと会って神が異邦人の間でなさったことを報告し、ともに神をほめたたえたのですが、そのすぐ後でアジアから来たユダヤ人たちの扇動によって逮捕されてしまいました。なんとも痛々しい結果に…と思いきや、パウロは自分を「殺してしまえ」と叫ぶ民衆に向かって、立ち上がって弁明をしていったのです。その時、民衆は叫ぶのをやめて、パウロの話しに静かに聞き入ったとあります。この状況を千載一隅の機会に変えてしまうとは…。パウロの力強い証しにとても励まされました。私も来週はKGKのサマーキャンプ。オンラインですが、学生の方々に証しできる機会を感謝しています。
8月第二主日はヨナ書4章から。ヨナの宣教によって、ニネベの人々がみな神を信じ、悔い改めに導かれました。ところが、これほど素晴らしいことが起こっているのに、ヨナは不愉快で神に怒っていたのです。自分の思うように事が進まず、逆に最も懸念していたことが成就してしまい、「私は生きているより死んだ方がましです」とまで言い出す有り様。主はそんなヨナの心に問いかけながら、静かに悔い改めを迫ります。そして、一夜で生えて一夜で滅びた唐胡麻を惜しむヨナに、ご自身の御心を示されたのです。「ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。」情け深くあわれみ深い主の愛があふれ出るような語りかけが心に響きました。今日は、緊急事態宣言発令に伴い、多くの方が来会を自粛され、オンラインで礼拝を献げられました。世界中で賛否両論あった東京オリンピックも今日が閉会式。多くの感動を与えてくれた選手の方々に感謝します。
使徒の働き20章から。パウロは約三年のエペソの宣教に一応のピリオドをを打って、御霊に示され遠くローマを目指すことを決意します。そこからマケドニヤに渡り、ギリシャ、トロアスの諸教会を再訪し、多くのことばをもって弟子たちを励ましました。中でも、ミレトスで教会の長老たちを呼び寄せての決別説教は圧巻です。「そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません」「鎖と苦しみが私を待っている」「けれども、私が走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。」パウロの宣教は、まさに命がけでした。その伝道者としての使命感にただただ圧倒されるばかりです。今もコロナ禍の状況が深刻化する中で、不要不急ではない礼拝をどのように献げるのがベストなのか…。一人一人が祈りのうちに御心を示していただき、主にあって平安があるように祈っています。
五十にして天命を知る…。現実はなかなか厳しいものですが、自分も50歳になりました。主の憐れみと大勢の方々の祈りと励ましに支えられて、なんとか今も牧師という尊い働きをさせていただけることを感謝いたします。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが…」今から25年前、洗礼を受けた時のお祝いに、教会のある方から三浦綾子さんの『ちいろば先生物語』の本をいただいて初めて榎本保郎牧師のことを知りました。こんな生き方があるんだ…と胸をワクワクさせながら読んだのを思い出します。その榎本先生は、さまざまな国で福音を宣べ伝え、52歳という若さで天に召されました。お会いしたことはありませんが、尊敬する先生の年齢に近づいて、改めてその偉大さを感じます。足元にも及ばないことは重々承知しながら、私は私なりに、少しでもイエスさまをお乗せするのに間に合う者にならせていただきたいと思わされます。
新型コロナの新規感染者数が増え続ける中、大阪府をはじめ6都府県で緊急事態宣言が発令されました。4度目の緊急事態宣言をどう受け止めるか…人によって温度差がありそうです。教会としては改めてオンライン礼拝を推奨していく方針ですが、この時期、一人でも多くの方が教会に目を向けてくださって、福音にふれていただければと願うばかりです。教会のデボーションは使徒19章から。パウロが第3次宣教旅行でエペソを訪問した際に、弟子たちに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」と答えたとあります。今日でもありそうな会話です。確かなことは、私たちがイエスを主と告白することができるなら、その人の心には聖霊がおられます。この聖霊が私たちの信仰生活を導いてくださっているのです。
8月第一主日、礼拝メッセージはヨナ書3章から。主の御顔を避けて逃げ出したヨナは、荒れ狂う海に投げ入れられ、絶望の淵で大魚に飲み込まれ、そこで主への悔い改めに導かれました。主はそんなヨナに再び「立ってあの大きな都ニネベに行き…」と前と同じ使命を与えられたのです。ペテロもそうでしたが、失敗から立ち直った者が、改めて遣わされていく姿に感動します。3章は何といってもニネベの人々がひたむきに悔い改める姿が印象的です。神はそんな人々の姿をご覧になってわざわいを下すのを思い直されました。礼拝後に数人の方と『神は一度決められたことを思い直されるのか…』について話しましたが、まさに主の御心がここに示されています。それは、裁きよりも、救いであることです。「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」午後からの役員会では、緊急事態宣言発令後の教会の対応について話し合いました。結果については、また後日お知らいたします。
新型コロナの新規感染者数は東京で過去最多の4,058人、大阪も再び1,000人超えとなりました。この数字だけでは判断できない面もあると思いますが、やはりより一層の注意が必要であることは間違いありません。明日の礼拝は感染対策を講じた上で通常の三部制で行いますが、2日以降のことは今後の社会状況等を鑑みて判断することになります。今日は午後から第1回箕面災害支援ネットワーク会議に出席しました。社協が中心となって、災害協力隊、青年会議所、消防団、ボランティアグループ、キューズモールなど、さまざまな団体の責任者が来られて、これまでの経験や情報を共有し、とても有意義な会議でした。こうした集まりにこれだけの人たちが集まる箕面市は頼もしいです。災害は起きないことに越したことはありませんが、地震や台風などの自然災害がこれだけ続く時代ですから、いざという時のために、教会も地域に役立つネットワークを作っていけたらと思います。
オリンピックの熱戦が続く中、一昨日あたりから国内の新規感染者数が1万人を超えるようになりました。感染力の高いデルタ株の猛威です。これを受けて、東京に続き、埼玉、神奈川、千葉、大阪にも緊急事態宣言が発出されることが決まりました。菅総理の会見ではワクチン接種の効果と人流の減少傾向が強調されていましたが、国民に向けての具体的な行動指針というものは明示されなかったように感じました。教会としても、今後の礼拝や集会をどうするか…役員会を中心に難しい判断が迫られています。教会のデボーションは使徒の働き17:16から、パウロのアテネ宣教の記述です。当時アテネには3000を超える宗教施設・礼拝所があり、さらに「知られていない神に」と刻まれた祭壇までありました。パウロは、そうした人々の宗教心を認めつつ、天地を造られた神を証ししたのです。私も今日は箕面市の災害支援ネットワークの会議に出席します。よき証しになれば感謝です。
7月最後の水曜祈祷会は使徒の働き16章から。パウロの第二次宣教旅行はここまで辛苦をともにしてきたバルナバとの意見の相違から、別行動をとる形で始まりました。二人とも優れた信仰者なのになぜ…と思うところですが、これよって二つの宣教チームが誕生し、宣教の拡大と次世代の育成という二倍の祝福につながるのです。パウロはシラスとともにアジアの教会を訪問した後、聖霊に導かれてヨーロッパへと渡っていき、そこでは紫布の商人リディアとその家族、若い女奴隷、さらには牢獄の看守やその家族など…次々と救いにあずかっていく者たちの姿が描かれています。もちろん、パウロたちに反対する者たちもいて、厳しい迫害もありました。でも、一人の魂が救われるために、神がすべてを導いておられることを思う時、私たちが今、クリスチャンとして歩んでいることはそれだけで意義深いことだと思わされます。とにかくここを出発点に、今日を歩んで行きましょう。
7月の旧約聖書を学ぶ会がありました。創世記23章、アブラハムが妻サラのために墓地を購入するところから。アブラハム75歳、サラ65歳に、「わたしの示す地へ行きなさい」という神の命令がありました。行き先もわからず信仰をもって歩んだアブラハムの傍らにはいつも妻サラの存在がありました。喜びも悲しみもともに分かち合ってきた配偶者の死に、アブラハムは「悼み悲しみ、泣いた」とあります。信仰者であってもこの地上の別れは辛いものです。でも、泣いてばかりもいられません。アブラハムは立ち上がって、墓地を購入し、サラを葬りました。そして、やがて自分も子孫もその墓に納められていくのです。信仰者にとって『墓』は、単に人生のゴールではなく、同じ約束を相続する者として生き、天の故郷をあこがれつつ、この世を旅立った記念碑。私たちもみな、神の備えられた天へと引き上げられ、そこで再会し、主にまみえて礼拝をささげる続きがあるのです。
7月第四主日、幾分涼しさを感じる朝でした。礼拝準備をしている時に、ある牧師の召天の知らせがありました。65歳、自宅での突然死とのこと…。詳しいことはわかりませんが、後輩に対しても面倒見のいい優しい先生でした。お世話になった先生のことを思い巡らしながら、今日の説教奉仕をさせていただきました。ヨナ書2章は、ヨナの感謝の祈りが綴られています。主の御顔を避けて、主の命令とは反対の町に向かったヨナでしたが、途中で激しい暴風に遭い、荒れ狂う海の中に投げ入れられてしまいました。息もできず海底に沈みゆく中で、もはや死を覚悟するしかなかったでしょう。しかし主は、そんな彼のために大魚を備えられ、助けられたのです。ヨナは大魚の腹の中で主を思い出し、主との関係を回復していきました。苦難に遭えば、誰もが主を思い出すものでもありません。思い出すのも、主の恵み。主は私たちのためにも救いの扉を備えて待っていてくださるのです。
57年ぶりとなる東京オリンピックが開会式を行いました。新型コロナの影響で史上初の一年延期、しかも緊急事態宣言が発令される中での開幕です。華やかな式典に胸躍らせる方もいれば、断固反対する方がいるのも確か。一番気の毒なのは間に立たされる選手の方々でしょう。大会関係者も命を削るような17日間だと思いますが…世界中の思いが一つとなるように祈ります。使徒の働き15章は、異邦人の救いに関して激しい論争が起こったエルサレム会議の出来事。今まで正しいと思ってきたことを捨てて新しい現実を受け入れるのはなかなか容易なことではありません。人の罪の性質は他者を悪者に仕立て自らを正しいと主張しやすいものです。サタンもそこにすかさず楔を打ち込んで、対立や分派を起こさせます。でも、この会議では聖霊が一人ひとりに働いて見事な解決に至りました。正論をかざすのも大事ですが、相手の立場に立って考えることを忘れないでいたいものです。
人が多く集まれば、それだけ性格や考え方に違いがあるものです。直前までもつれにもつれた東京五輪も今日が開会式。すでにソフトボール、サッカーなど、酷暑の中でも懸命にプレーする選手たちの姿に大いに励まされます。いずれの国の方もみな、神が創造され、いのちを与えられた尊い存在。日本の面子より、『平和の祭典』と呼ぶにふさわしい大会になってほしいものです。教会のデボーションは使徒の働き15章から。異邦人の回心を喜ぶパウロとバルナバと、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべき」というエルサレムの長老たちの間で協議が行われました。信仰か、形式か…という議論に、ペテロが大事な一言を。「…主イエスの恵みによって救われる」去年からのコロナ禍で社会は大きく変わり、教会の活動も大きく変わってしまいました。だからこそ本質を見誤らず、ただ過去を懐かしむだけなく、新しい未来に向かって進んでいきたいです。
今日の水曜祈祷会は使徒の働き14章から。パウロの第一次宣教旅行は、行く先々で大勢の人々が信じると同時に、信じようとしない者たちによる迫害が起きました。パウロたちの宣教がいかに影響力があったのかが伝わってきます。そんな彼らがリステラで出会った足の不自由な人の出来事は心に残りました。彼は生まれつき足が動かず、これまで一度も歩いたことがありませんでした。彼はパウロたちの話しに真剣に耳を傾け、パウロたちも彼が癒されるにふさわしい信仰があるのを見たので「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と命じると、彼は飛び上がって歩き出したというのです。彼のイエスを信じる信仰が彼を癒やしたのです。今の時代なら、通りすがりの誰かがその光景を動画に撮ってYoutubeにアップしたら、どれだけの人が見て信じるだろう…と不埒な考えが頭をよぎりましたが、やはり奇跡も大事ですが、みことばを信じる人が起こされることの大切さを思いました。
7月第三主日はハレファ・スルヤ師をお迎えして歓迎礼拝をささげました。「望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。」の御言葉からメッセージをしてくださいました。過去・現在・未来にある望みを覚えつつ、今ある苦難に耐え、1~2度ではなく、絶えず祈り続けていくことの大切さを語ってくださいました。個人的には、苦難に耐える召し、苦難に耐えることで奉仕をしている…というのが心に残りました。メッセージの中で前ジャカルタの知事のアホック氏の話しがありましたが、詳しいことがわかってよかったです。数年前、留学生のある学生が知事選のために祈ってくださいと話していたのを思い出しました。世界一のイスラム教国であるインドネシアでクリスチャンが役職に就くことの難しさ、大切さを考えさせられました。苦難は、忍耐を…品性を…希望を生み出す。この希望は神の愛が注がれているゆえに失望に終わることはないという約束を感謝します。
長い梅雨が明けて、猛烈な暑さがやってきました。日中は34℃まで上がったそうですが、これからさらに暑さは増してくるでしょう。コロナの感染も心配ですが、熱中症にも気をつけなければならない時期です。さて、教会のデボーションは使徒の働き13章になりました。アンティオキア教会から世界初の海外宣教師が派遣されます。このビジョンは彼らが教会で主に礼拝をささげている中で与えられました。そして、聖霊はこのために相応しい人物たちを聖別して送り出されたのです。神は今日でも礼拝の中で私たちに語られます。「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」神は今、私たちに何を語ろうとしておられるのでしょうか。明日は久しぶりの歓迎礼拝です。講師のハレファ・スルヤ師は学位、聖書知識はもちろん、謙遜で温かみのある先生です。ぜひご家族一緒に大きな期待をもって、主に礼拝をささげましょう。
水曜祈祷会はⅡ歴代誌19章から。アハブとの共闘で出陣したヨシャファテは九死に一生を得てエルサレムに帰還すると、有害無益な北王国の訪問をやめて、内政に専念しました。偶像の除去、律法の教育、主への恐れをもって歩むという王の思いが国中に浸透していきます。そんな平穏な南ユダに、モアブ人とアンモン人らの連合国が攻めてきました。この国家危急の時にヨシャファテ王は恐れを抱きつつも、いつものごとく主の宮に来て祈りを捧げました。「私たちは苦難の中からあなたに呼ばわります。あなたは聞いて、お救いくださいます。」神はその祈りに応えて「主の救いを見よ」と約束されました。まさにこれは神の戦い、信仰による勝利でした。さて、ハートフル英会話春期コースも今日が最後のクラス。朝から30℃近くまで上がって、午後は梅雨明け前の不安定な空から、時折バケツをひっくり返したような雨が…。いざという時のために、日頃からの備えが大切です。
東京は4度目となる緊急事態宣言が発令されました。本当に飲食店や観光業をはじめ多くの事業主が悲鳴を上げていることでしょう。2021年上半期の倒産件数も過去50年間ではバブル末期に次ぐ二番目の低水準だったそうです。父と自営業を営んでいた頃を思い出します。また、新型コロナの感染者数も東京が830人、大阪も225人といずれも前週の火曜日の数値を大きく上回ってきていて、第五波は五輪の真っ最中に来るとも言われています。これで大阪も緊急事態宣言が発令されてしまったら、また教会でも来会自粛をお願いしなければならなくなることも考えられます。このタイミングになりましたが、昨年9月に結婚で別の教会に移っていった青年と奥さまに久しぶりに再会しました。元気そうで何より。初々しい生活ぶりを見せてもらいながら、今後に考えているビジョンを聞いて頼もしさを感じました。大きな決断をするのが難しい時期ですが、主の最善を心より祈っています。
Ⅱ歴代誌18章から。晩年は主から離れてしまったアサ王に代わって、息子ヨシャファテが南ユダの王位を継承しました。彼については多くの章を使って詳しくその治世が記されています。その生涯の大半は信仰深い、賢明な王の姿として描かれているのですが、やはり分岐点となったのは北イスラエルのアハブ王と姻戚関係を結んだことです。これによってヨシャファテは続く世代に大きな災厄を呼び込んでしまうことになります。まさに取り返しのつかない大きな罪悪をダビデの家に、そしてユダの国にもたらしていくのです。一つの判断、選択の誤りから、その後の人生、歴史を大きく変えてしまうことがわかります。人生のターニングポイントでどのような選択をするか…。「ヨシャファテは…言った。『まず、主のことばを伺ってください。』」信仰者の道も、晴れの日もあれば、雨の日、曇りの日もあります。それでもまず第一に主のことばを求める者でありたいものです。
7月第二主日、日中は30℃を越える夏日となりました。今日から礼拝ではヨナ書を講解していきます。「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。」主の召命がヨナに下りました。でも、ヨナはそれに背いて、ニネベとは正反対のタルシシュ行きの船に飛び乗ります。ニネベと言えばイスラエルにとっては悪しき敵国。憐れみ深い神がこの国を顧みるために自分を遣わすのだと思うと、ヨナとしてはどうしても従う気になれなかったのでしょう。そんな主の御顔を避けて、できるだけ遠くへ逃れようとするヨナの姿は、今日の私たちの姿とどこか重なってきます。そこがこの短い預言書が多くの方に愛される理由なのかもしれません。礼拝が終わって一人の女の子が質問に来てくれました。『どうして心の貧しい人がさいわいなんですか』私なりに説明すると、笑顔を見せてくれたので感謝でした。午後からは大学生からパソコンの操作を学んで…充実した主の日でした。
東京五輪開幕まであと二週間、東京都で4度目となる緊急事態宣言の発出が決まり、さらに首都圏一律で無観客が決定しました。あちこちで落胆の声が上がっていることでしょう。また、これによる経済損失も計り知れません。熱海の土砂災害の復旧を祈りながら、今日も各地で大雨警報が発令され、気分も暗くなります。こんな時は日々のデボーションで励ましを…と思いますが。Ⅱ歴代誌14章から、南ユダのレハブアムの後を継いだアビヤ王、その後を継いだアサ王と、それぞれに目を留める出来事もあり、比較的落ち着いた時期を迎えましたが、その最後には主へのつまずきが記されていました。「あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自分を示してくださいます。」自分が願うような励ましではなくても、神が歴代誌を通して告げられるメッセージを素直に受けとっていきたいと思います。
熱海で起きた土石流は4日目を迎え、死者7名、安否不明者27名となりました。もはや毎年のようにどこかで豪雨災害が起きています。安否不明者の確認と復旧が少しでも早く進みますようにお祈りしています。昨日もハンガーゼロの災害セミナーに参加しましたが、教会の責任と宣教について考えました。あらためて箕面市のハザードマップを見直すと、教会も危険度1の地域にあります。発災時に何ができるのか…地域にどんな貢献ができるのか…具体的な備えをしておかなくてはなりません。豪雨災害だけではなく、南海トラフは今後20年以内に70~80%。首都直下型地震も今後30年で70%、富士山噴火も連動して発生することなどが予想されています。神の愛と救いを地域に宣べ伝える教会として、有事の際こそその行動がとれなければ意味がありません。平時の時だけ主を賛美するのでなく、危急の時にも「主は正しい」とへりくだって証しできる者でありたいと思います。
教会のデボーションはⅡ歴代誌11章から。ソロモン王が死んで息子レハブアムが王位を継承しました。でも、彼の時代に王国は南北に分断し、乱世の時代を迎えていきます。それにしてもレハブアム王のわがままぶりは目に余るものでした。民の窮状に目を留めず、父ソロモンをも軽くあしらい、自分が偉大な存在であるかのように振る舞います。「三年の間、彼らがダビデとソロモンの道に歩んだからである。」かろうじて三年間は、神の人シェマヤの声に従って、王権を回復させていきますが、やがて主の目に悪であることを行い、主の懲らしめをうけることになるのです。『金持ち三代』とも言いますが、祖父ダビデの信仰遺産は孫のレハブアムには受け継がれませんでした。困難の中にいる時よりも、繁栄の中にいる時の方が信仰的には危険も多いということなのでしょうか。自分が神の戒めに逆らうだけでなく、子どもたちにも逆らわせた責任は重いと言わざるを得ません。
7月第一主日は梅雨の晴れ間の一日でした。コロサイ人への手紙もついに終わりのあいさつから。改めて思うのは、この時のパウロはローマの牢獄に捕らえられ、裁判を待っている状態だったことです。でも、この手紙にはそんな苦難の中の嘆き節は一切見られず、恵みに始まり、恵みをもって閉じられています。パウロは代筆者を介して、コロサイの教会を思いながら一つ一つの言葉を丹念に選んで手紙を記していったのでしょう。そして最後に記したのは自分と一緒にいる同労者たちの消息でした。ティキコ、オネシモ、アリスタルコ、マルコ、ユストと呼ばれるイエス、エパフラス、ルカ、デマス…ともすると何気なく読み飛ばしてしまいそうな名前の羅列ですが、その中にもパウロの伝えたいメッセージが込められていました。私たちも一人ひとり、至らぬ点や不甲斐ないところもありますが、主にあって新しくされ、互いに助け合い、祈り合う交わりであることを感謝いたします。
早いもので2021年も折り返しを迎え、今日もハートフル英会話クラスから楽しそうな笑い声が聞こえてきました。コロナ禍も少しずつ変化がありますが、まだまだ余談の許さない状況が続きます。少し前の大阪のように、東京の感染者も増えつつあり、23日からのオリンピック開催時には1000人台になることが予想されています。厳しい現実が続きますが、下を向かず、目を高く上げて歩んでいきたいものです。教会のデボーションはⅡ歴代誌8章から。ソロモンは神殿建設という大事業を成し遂げ、王国に平穏をもたらしました。「安息日ごと…日ごとの定めにしたがって献げた」壮麗な神殿において心からの礼拝を献げる日々が続いたことでしょう。でも、そんなソロモンもやがて主の道から反れて、彼の死後、王国は南北に分断、霊的堕落の一途を辿っていきます。勝って兜の尾を閉めよ、とはよく言ったものです。「目を覚ましていなさい」という主の声が聞こえてくるようです。
3月第四主日、暖かな日射しが差し込む礼拝堂で、今日は小さな子どもたちも一緒の合同礼拝を献げました。幼稚園児や小学校低学年の子どもたちが大人と一緒に礼拝に参加するのは大変なことだと思います。私たちの教会では普段、メッセージの時だけ子どもたちは二階で、担当の先生から丁寧な聖書のお話しを聞きますが、年に何回かはこのような時を持っています。この日は私もいつも以上に優しくお話ししようと思うのですが、終わってからの子どもたちの感想を読むと『わたるせんせいのこえがおおきかった』とのこと。思いが空回りしていたようです。教会によって、子どもたちの礼拝参加について様々な考え方があると思います。普段から大人と子ども一緒の礼拝がいいとか、子どもにもわかるメッセージでないといけないとか。私たちの教会もいろいろ工夫しながら今の形になりましたが、まだ試行錯誤の段階です。でも、教会学校で育った青年たちが小さな子どもたちに寄り添って、一緒に聖書を学んでいる姿は素晴らしいです。「一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから。」今日はイエスさまのこの譬え話しがいつも以上に、心に響いてきました。
今週は教団総会があり、東京出張でした。一泊して朝カーテンを開けると外は大雪…。なんとか遅れずに会場に到着。二日に渡って総会が行われ、昨年度の恵みを振り返り、今年度の展望を審議しました。伝道関連に質疑が多いのは同盟教団の一つの特徴でしょう。コロナ以降、受洗者の減少、教会の閉鎖、合併…などの課題もありますが、いずれの教会も先立つ主に期待して前を向いていくしかありません。総会の後は典礼、派遣礼拝と続き、補教師の准允、正教師の按手がありました。新任の先生方のお証しを聞きながら、私も初心を思い返していました。「狭い門から入りなさい。」キリストの弟子として進む覚悟、派遣礼拝のみことばが心に響きました。
3月第三主日、小雨の降る中、今日も高らかに主の御名をあがめる礼拝を献げました。礼拝メッセージはルカ12:35ー48から。イエスさまは弟子たちに終わりの日・再臨の主の備えについて教えられました。「腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。」それは主人のためにいつでも動けるように備えているしもべの姿です。イエスさまは婚礼に出席した主人の帰りを待つしもべのように、絶えず目を覚ましていなさいと言われました。その理由の一つは、帰って来た主人の方が帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、給仕してくださるからです。また、ペテロもくちばしを挟んで、このたとえを話されたのは、私たちのためですか、皆のためですかと問いかけます。イエスさまはその問に直接答えずに「忠実で賢い管理人とは、いったいだれでしょうか」とすべての信徒をこの生き方へと招かれたのです。結論として、「多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。」と言われました。私たちはまず主の思いを知らされ、多くの物を与えられていることを感謝したいものです。そして、与えられた賜物を活かして主を証ししましょう。
ハートフル英会話冬期コースが終了しました。寂しいですが、キッズクラス担当のホゼア先生は今日で退任されます。8年間、何人の子どもたちがホゼア先生と出会い、英語はもちろんのこと、その素晴らしい人間性にふれたことでしょう。ダンス、ピアノ、ゴスペル、料理と、先生の多彩な才能を見て、子どもたちも下を巻く時もありました。試練の先には喜びがある、神さまはみんなを助けてくれる、最初からあきらめないでやってみよう。先生から勇気や励ましを受けた子たちもいたでしょう。最初の生徒たちが丁度大学受験の年で嬉しい喜びの知らせもありました。子どもたち一人ひとりに『これはお別れじゃないよ。これからも変わらない。』と言っていたのが印象的でした。春からは京都の大学で教えられるホゼア先生、本当にお世話になりました。新学期からはレイチェル先生がキッズクラスを担当してくれます。趣味はタッチラグビーというエネルギッシュな先生です。お楽しみ!また、私もこの度、防災士の資格を取得しました。地域の防災・減災のために少しでも貢献していけたらと願っています。災害大国日本においては、今後さらなる防災士が必要だと思います。
3月第二水曜祈祷会、曇り空でも春の温かさを感じる一日でした。ルカ11:37ー54から。あるパリサイ人がイエスさまを自宅に招いて一緒に食事しようとしていた時のこと。彼はイエスさまが食事の前にきよめの洗いをしないのを見て驚きました。そこでイエスさまは言われます。「あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています。内にあるものを施しに…」つまり、あなたがたは偽善者だと叱責されたのです。パリサイ人と言えば、律法を厳守し、人々にも教える立場にある人。そんな人々から敬意を表される自分たちに言いがかりをつけるとは何事だと、イエスさまに激しい敵対心を燃やしていくのです。誰でも自分と違う考えを持つ人に、自分の考えを否定されたらいい気はしないでしょう。イエスさまもなぜ、パリサイ人たちにこんなキツイ言い方をされたのだろうと思ってしまうところでした。でも、同時に、彼らの中からニコデモのように、夜にイエスさまのところに来て「あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。」と認める者たちもいたことを思うと、愛をもって真理を語ることの大切さも思いました。
3月第二主日、まだ少し寒さを感じますが、だいぶ春の足音が聞こえる時期になりました。礼拝メッセージはルカ11:1ー13、弟子たちがイエスさまに祈りを教えてくださいと願ったところから。そこでイエスさまはまず『主の祈り』を示され、祈る内容について教えられました。いつも礼拝で唱和していますが、極めて深淵なる祈りです。創造主である方を父と呼べる幸いを覚えました。それを踏まえて、イエスさまは次に祈りの姿勢について具体的な譬えをもって教えられました。真夜中に訪ねてきた旅人に出してあげるものがないので友人にパンを借りに行ったという話し。友人は友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないが、しつこさのゆえなら起きて必要なものをあげるでしょうというのです。確かにキリスト教の祈りは、自分の願うようにではなく神の御心がなるように祈ることを学びます。でも、同時に「求めなさい。探しなさい。たたきなさい。そうすれば与えられる。」という簡単にあきらめない祈りの姿勢も大事なことです。それはまるでコインの表と裏のような関係ですが、約束のものを手に入れるために必要な忍耐を身につけたいと思います。
「…あなたの名が天に記されていることを喜びなさい。」奥さまの送迎のために教会に来られていたご主人は、8年前に奥さまの召天をきっかけに求道され、洗礼を受けられました。それからは殆ど休まず日曜礼拝に来られていましたが、年初めに大腿骨を骨折…入院となってしまいました。でも、今日お見舞い行くと歩行器を使って歩いていて、早く治して教会に行きます!とのこと。90歳を過ぎてもなお、その信仰は衰えずです。こちらが励まされました。
今日から四旬節(レント)に入りました。イースターまでの日曜日を除く40日間はイエスさまの受難を覚えて悔い改めと献身を新たにする時です。今日の祈祷会ではルカ9:51-62を読みました。「イエスは御顔をエルサレムに向け…」いよいよ最後のエルサレムへの旅が始まります。そこでイエスさまは最初に弟子たる道を教えられました。「人の子には枕するところもありません」イエスさまに従っていくとはどういうことかをあらためて考えさせられました。
「…あなたがたは聖なる者でなければならない。」レビ記19章にはさまざまな規定が書き留められています。神の聖さを証しするイスラエルの民は、神に倣う生活をすべきであり、神が忌み嫌われるカナンの風習に倣ってはならないとあります。彼らにはすでに十戒が与えられていて、ここで改めて異教的な風習から分離された生活を生きるように命じられました。父母を敬うこと、安息日を守ること、盗み、欺き、偽証、虐待、詐取…今日の私たちも心に留めておきたいことです。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」その積極的な目的は、聖なる神に倣う民がともに生きることにあり、もちろんクリスチャン同士のことだけでなく、自分以外のあらゆる人に対して覚えるべきことです。大切なのは、まずこれらができていない自分の罪に気づくことであり、またそうした自分に対する神の深い愛に気づくこと、そして、神の聖さに引き上げてくださるように祈り求めることです。明日から四旬節(レント)が始まります。イースターまでの40日。先週に比べると、また少し寒さが戻ってきましたが、日一日と春近しです。花粉症の方は辛い時期ですね。ご自愛ください。
3月第一主日、外は小雨の降る中でしたが、今日も教会の中は温かな交わりに溢れていました。礼拝メッセージはエレミヤ書36章から。神はエレミヤを通して、主のことばを巻物に書き記しなさいと命じられました。そこで書記バルクが呼ばれ、エレミヤによる口述筆記がなされたのです。主は言われました。「わたしが下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」神の裁き、神の愛は、まるでコインの表と裏のようです。主の預言の目的は、裁くことではなく、赦すことにある。愛するからこそ、厳しい言葉になる。イスラエルの民は結局誤った選民意識の中で、神の愛を軽んじ、神の裁きにあって行きました。今日の教会も、聖書のメッセージをしっかり伝えて行かなければと思います。もちろん神は愛です。神はあなたを愛しておられます。でも、まず罪とは何かを知り、自分がいかに神から離れた者であるかを知らなければ、本当の神の愛も恵みも赦しも悟ることはできないのです。今日は午後から教会総会もありました。恵みを振り返り、展望を語り合いました。
以前から興味があった防災士の研修講座を受けてきました。事前に教本を読んで課題を終えてから参加するのですが、最初の救急救命講習からはじまり、非常に内容の濃い二日間でした。会場には120名程、高校生から主婦、企業、学校関係者など様々な立場の方が受講されていました。最後の試験はどうなるかわかりませんが…講師の方が良きサマリヤ人の聖書のことばを引用されたり、あらためて防災・減災に対する心構えが変わりました。お勧めします。
寒さも少し和らいできました。2月の旧約聖書を学ぶ会は出エジプト記15章から。偉大なる救いの御業にあずかったイスラエルの民はモーセとともに神を賛美します。でも、三日後にはマラの水が苦くて飲めないと不平に変わりました。荒野はまさに神への信頼を学ぶ訓練の場でした。モーセが神に叫ぶと一本の木が示され、それが苦い水を甘い水に変え、彼らは無事にエリムに着いたのです。学び会が終わってからの分かち合いにも励まされ、感謝な時でした。
2月第四主日、小雪がちらつく寒い一日でしたが、教会の中は祝福で一杯の一日でした。礼拝メッセージはエレミヤ書31:31ー34から。国敗れ、多くの民が捕囚となり、絶望の淵に立つイスラエルの民に、エレミヤは神の預言を語りました。「見よ、その時代が来るー主のことばー。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの民と、新しい契約を結ぶ。」エジプトを出たときに与えられた十戒ではなく、神は民と新しい契約を結ぶと言われました。しかもそれは石の板に書き記されたものではなく、あなたがたの心に書き記すというのです。神は義なる正しい方ですから、罪に対して裁きを下さなければなりません。でも、20節にあるように、憐れみ深い愛なる神ははらわたがわななくほど、彼らをあわれまずにはいられないというのです。ここに神が御子を遣わされた理由がはっきりと描かれています。怒りを克服する愛はまさに痛みであるゆえ、これが新約聖書で言えば十字架を指し示すわけです。神の愛が胸に迫ってくる箇所でした。今日は礼拝後は婚約式。さわやかな男女が神の前に誓約をしました。主がお二人の誓約を全うさせてくださり、守り導いてくださいますように。
第三水曜祈祷会、今日はレビ記11章から。ここはいわゆる「食物規定」と言われるところです。動物の中で食べて良い生き物について記されています。それはすべてひづめが分かれ、反芻するものは食べても良いとあります。一方で食べてはならないのが、反芻はするが、ひづめが分かれていないいらくだや岩だぬきや野うさぎや豚とあります。水中の生き物についても、ヒレと鱗のあるものはすべて食べても良いが、それ以外の貝類や甲殻類やタコ、イカ、ウナギ、蛙などなどは食べてはならないとあります。鳥類に関しては、もはや詳細な説明もなく、リストだけが挙げられています。昆虫類は羽があったり、四本の足で歩き回るすべてのものはあなたがたに忌むべきものだとあります。食べても良いのは、いなごの類、毛のないいなごの類、コオロギの類、バッタの類などが挙げられています。これらの食物規定を新約時代のキリスト者は守らなくていいのかと言えば、「こうしてイエスはすべての食物をきよいとされた」という言葉に答えが表されているように思います。
2月第三主日礼拝、今日も穏やかな週の始まりでした。礼拝メッセージはエレミヤ書30:1~24から。「見よ、その時代が来る。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる。」ソロモン王の死後、イスラエルは南北に分裂し、混迷の時代を迎える中、まず北イスラエルがアッシリア帝国によって滅ぼされ、続いて南ユダも新バビロニヤによって滅ぼされ、エルサレム神殿は陥落し、多くの民が捕囚となりました。エレミヤはそれを、神の声に聴かず、神に背を向け続けた社会に対する神の審判であると告げたのです。聖都エルサレムとその神殿の不滅を迷信的に信じていた人々にとって、神の審判(さばき)などあり得ないことだったでしょう。でも、神はご自分の民の真の回復のために苦難の時を与えられたのです。エレミヤが語ったのは神の厳しい審判とともに、驚くような神の救いと回復でした。つまり捕囚が主のさばきであるとともに、回復も主の御業であるということです。聖書に記されている神のさばきは、さばきが目的ではありません。それはご自分の民が罪を悔い改めて神に立ち返るためであり、その時、神は民を受け入れ、回復させてくださるのです。
初めはキリスト教と関係しながら、奇妙な祭りに変わったものの一つにバレンタインデーがあります。三世紀後半に、司教ヴァレンティヌスがローマで殉教した日が、なにゆえ恋人やお世話になった人にチョコレートを贈る日となったのか…。一説には、この日に鳥が愛をかわすからだとか…他にも諸説あるようですが、何はともあれ『愛』を動詞にして表わすのは大事なことですね。「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた…」
2月第二水曜祈祷会、小雨の降る一肌寒い日でした。レビ記6章から御言葉を心に留めました。一人で読んでもよくわからない箇所も、何人かで読むと新しい気づきがあるものです。朝ごとに、夕ごとに、祭壇の火を燃え続けさせなさい、消してはならない…。私たちも朝ごとに、夕ごとに、内なる祭壇を築き、自分を献げ、信仰の火を燃やし続けることの大切さを思いました。もちろん、それは自分の努力やがんばりのことではなく、聖霊の働きによるものです。
2月第二主日、今日の礼拝では年間聖句のエレミヤ書29:11からメッセージを聴きました。今日の日本に最も欠けており、最も必要としているのは「将来」と「希望」ではないでしょうか。それはどこから来るのかと言えば、聖書のみことばからです。クリスチャンなら誰もが知っているみことばですが、改めて今年一年大切に心に刻んでいきたいと思います。そして一人でも多くの方に、神とともに生きる人生の素晴らしさを知って頂きたいと思っています。
この冬一番強い寒波が日本全国を覆い、各地で大雪による被害が発生しています。特に北陸や日本海側の地域を覚えてお祈りしています。大阪箕面も昨夜から小雪が舞い、今朝も道路にうっすら雪が積もっていました。そうした中、今日も明日の礼拝準備のためにお掃除の奉仕に来てくださる方々がいました。感謝いたします。この時期危惧するのは受験生たちの体調です。ぜひ万全な健康状態で試験に望んでほしいと思います。また、希望する大学に進学しても、そこでは非公認のサークルやカルト宗教の勧誘にとにかく気をつけてほしいものです。毎年ご家族からの相談はありますが、入信がわかってから脱会へ導くのは至難の業です。ボランティアをしているとか、バンドやゴスペルが楽しそうだったからとか。最初は宗教の勧誘とは思わずに軽い気持ちで勧誘者と信頼関係を結ぶのですが、次第に生き方の話しになったり、聖書の話しになったり、気づいた時にはマインドコントロールを受けていることがあります。どんなにいい活動でも、家族や友人との間に歪ができてしまうなら、その団体から離れるべきです。救いは団体にあるのではなく、神との繋がりにあるのですから。
教会のデボーションはレビ記から。前書の出エジプト記の終わりは、幕屋建設、備品、祭司職の長服など、主の栄光が幕屋に満ちていたことが記されていました。それに続いて神はこのレビ記で、罪深い民がいかにして聖なる神との関係を持つことができるかについて明確な指導と新しい生き方を示されました。これらの指導は聖なる神と私たちの関係を軽く見てしまうことを避けるための助けとなります。今日の私たちは動物のいけにえなど時代遅れに思うかもしれませんが、中東では多くの文化において習慣的に行われていました。神は目に見えるいけにえをささげる(屠る)という形式を用いて、民の罪と神の聖さについて教えられたのです。旧約聖書において、イスラエルのいけにえの中で最も多く言及されるのが全焼のいけにえです。その意義は、文字通り、いけにえのすべての部分を祭壇で焼くことです。神はこのいけにえによって奉献者の罪を赦し、罪なき者と見なしてくださるのです。でも、大事なのは、献げるものより献げる者の心です。「砕かれたたましい、砕かれた、悔いた心。神よ、あなたをそれをさげすまれません。」礼拝を献げる私たちの心はどうでしょう。
教会のデボーションは詩篇71篇から。「神である主よ あなたは私の望み 若い日からの拠り所。…年老いたときも 私を見放さないでください。私の力が衰え果てても 見捨てないでください。」クリスチャンであることの望みは、若くても、年をとっても、神が私たちの避け所になってくださるという変わらない約束があることです。昨日、ある牧師会で退任される先生、また転任される先生の送別会がありました。ある先生はまだ救われたばかりの頃、高校生キャンプに参加して、そこでメッセージを聴き、信仰に導かれました。そして、最後に献身への招きがあり、多くの青年たちが手を挙げる中、自分には関係がない…と下を向いていたそうですが、その数年後、不思議な神の取り扱いがあって、会社を辞めて神学校へ行き、牧師の道を歩み出されたとのことです。振り返ってみれば、あの高校生キャンプに参加した青年たちの中で牧師になったのは自分だけでしたが…あれから40数年、神は献身者を決して見放さずに導いてくださいましたと証ししてくださいました。「私はなおも告げ知らせます。あなたの力を世に。」これからも先生方の賜物が豊かに用いられますように。
2月第一主日、今朝は風が一段と冷たく感じましたが、穏やかな週の初めを感謝いたします。礼拝メッセージはルカ9章23節を中心にみことばを心に留めました。「イエスは皆に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」それは弟子たちだけではなく、その周りにいた人々も、あるいはこの記述を読んでいる私たちをも意識して、ルカは書いているように思います。イエスさまに従っていく人生はイエスさまの弟子となる人生です。弟子は主人の命令に従わなければなりません。そのためにはまず自分を捨てることから始まります。古い人を着たままでは新しい人を着ていくことはできません。その上で自分の十字架を負うことです。十字架とは病や重荷のことではなく、クリスチャンであるゆえに受ける辱めや苦しみのことです。イエスさまも「わたしとわたしのことばを恥じるなら」と言われました。十字架なくして、栄冠なしです。最後にイエスさまを主として従っていくことです。イエスさまに従う人生は奴隷のような暗い人生ではなく、神の子どもとしての特権にあずかった光輝く人生なのです。
1月も足早に過ぎていきました。いろいろなことが次々と起きて、一つずつ考えが落ち着くまでに、次のことが起きてくるという感じです。これも祈りを怠るなという神の御旨なのかもしれません。そんな中、今日は10年以上お会いしていなかったご夫妻と再会し、暫くお話して一緒に祈る時が持てました。高齢になられてお忘れになっている部分も多かったのですが、それでもこんな日が来るとは…。自分もまた祈りに覚えてもらっていたことを思いました。
人はみな、できれば苦しみのない人生を歩みたいと思うものです。でも、苦難や苦しみのない人生などあり得ません。それはクリスチャンになっても同じです。では、なぜ神は私たちから苦しみを遠ざけてくださらないのでしょう。それは私たちの心を神に向けるためです。私たちをいのちと救いに導くためです。苦難があるからこそ、私たちは自分の限界を知り、神の前の謙遜さを求め、神に似た者へと造り変えられていくのです(ある礼拝説教の冒頭から)。
昨日の旧約聖書を学ぶ会は出エジプト記14章から。いよいよイスラエル人たちがエジプトを出発する箇所で、主はモーセを通じて、引き返して荒野に行くように告げられました。なぜこんな道に行かなければならないのか…と疑問に思う者もいたでしょう。でも、神はそこでご自身の栄光を現すと約束されたのです。ファラオも自ら軍隊を整えてイスラエルを追跡します。後ろにはエジプト軍、前は紅海、もはや八方塞りのイスラエル人たち。こんな場所で死ぬならエジプトで奴隷だった方がよかったと言い出す有様。モーセはそんな彼らに言います。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」主は彼らに前進するように命じました。すると主は一晩中強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされ、彼らはまさに道なきところに道を造られる主の御業を目の当たりにしたのです。今日の水曜祈祷会も嵐を静められるイエスさまの姿を見ましたが、嵐に怖じ惑う弟子たちは「あなたがたの信仰はどこにあるのですか。」と叱責を受けました。私たちも試練の中でこそ、神の臨在を確信し、本物の信仰者へと造り変えられていくのです。
1月第四主日、今日もこの時期にしては温かな穏やかな一日でした。礼拝メッセージはルカ7:18-35から。牢獄にいるバプテスマのヨハネは遣いを送り、イエスさまに疑念をぶつけました。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」ヨハネは自分が語ってきた預言と、実際のイエスさまの言動があまりにも違うので、確かめたいと思ったのでしょう。これをヨハネの不信仰だと決めつける解釈もありますが、信仰の世界には真剣さのゆえに、熱心さのゆえのつまずきということがある…という言葉に私も共感します。続く箇所を読めば、イエスさまがいかにヨハネの信仰を評価しているかがわかります。いい加減にしたくない、真剣だからこそ神に対して疑念を持つ…それは仕方がないことではないでしょうか。イエスさまも十字架にかかられる前に、ゲッセマネで夜を徹して祈られました。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」みこころがなるように…私たちも仕方なくではなく、希望をもって神の御心を受け入れていく信仰を持ちたいものです。
イエスさまは大勢の群衆とともにナインという町に行き、ある母子の葬儀に会いました。最愛のわが子を亡くした母の悲しみはどれほど深いものだったでしょう。主はその母親を見て、「深くあわれみ」とあります。それははらわたが痛むほどの激しい心の動きを意味する言葉。イエスさまはその子を生き返らせ、母親に返されました。私たちの痛み悲しみに同情される主は死さえもご支配される方なのです。
今日もハートフル英会話から楽しそうな笑い声が教会堂に響いていきました。感謝です。今日1月23日は新島襄の召天日でした。近代日本の黎明期、しかも京都にキリスト教主義の同志社英学校を建てるには大変な苦労があったでしょう。彼が妻に残した最後の言葉は『グッバイ、また会わん』です。Good-byeはGod be with youの短縮形とのこと。神がともにおられるように。信仰的で、慰めに満ちた言葉です。
1月20日、トランプ氏がアメリカ大統領に返り咲きました。今日の祈祷会でもまず冒頭でトランプ氏をはじめ国々の為政者を覚えて祈りました。今日の就任式の演説も力強く、バイデン氏が側にいてもおかまいなしに前政権を批判、今日から黄金時代が始まると宣言、大統領令にも次々と署名、新政権の始まりをアピールしました。ただ、これだけ急ピッチで変革していくと、米国内でもトランプ支持と不支持の二極化がどういう形で現れるか心配です。クリスチャンである私たちは…静まって、神がお立てになったトランプ氏を覚えてお祈りして行くしかありません。さて、今日のデボーションはルカ6:27-38「あなたがたの敵を愛しなさい」。これは当時のユダヤでは他に類を見ない教えでした。神の一方的な恵みによって救いにあずかった者のゆえに、恵みに生きるとはどういうことかを教えられた箇所です。詳しくは動画で解説していますが、一つは隣人に境界線を設けてはならないこと、もう一つは自分にしてほしいと思うことを他人にもしなさいということです。トランプさんもこのイエスさまの教えは知っているはず。そして、私たちも心がけなければならない教えです。
1月第三主日、この時期としては幾分温かさを感じる一日でした。礼拝メッセージはルカ5:36ー39、聖書に由来することわざの一つ『新しい酒は新しい皮袋に盛れ』の箇所からでした。イエスさまはどのような場面でこの言葉を言われたのか。相手は旧約律法を重んじるパリサイ人たちや律法学者たちでした。彼らは自分たちは真面目に断食し、よく祈っているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだり…一体何をしているんだとイエスさまに訴えました。そこでイエスさまが彼らに語ったのが、三つの譬えでした。新しい衣の布切れで古い衣に継ぎ当てするのは間違いだということ、新しいぶどう酒は新しい皮袋が必要だということ、古い物は良いと決め込んでいないで、新しいものを体験してみなさいということ。まさにイエスさまが来られたことによって、新しい恵みの時代が到来したことを教えていました。今日の私たちも気がつけばパリサイ人たちと同じような過った人生観に陥っていることがあるかもしれません。自分は正しいと思い込んで、考えの違う他者の意見を排除する…。これもパリサイ人たちの特徴です。御霊によっていつも新しい心を頂いて歩みたいものです。
阪神淡路大震災から30年が経ちました。被災地には全国から137万人のボランティアが訪れたそうです。神戸の街並みは復興しましたが、あの時の悲しみは今も癒えることはないでしょう。震災の教訓を次の世代に伝えていく使命を思います。私たちの教会が誕生したのも丁度30年前。こんな大変な時に開拓などしてていいのか…という声もあったそうですが、ここまで導いてくださった主と、信仰をもって立ち上がってくださった兄姉に心から感謝いたします。
1月第三水曜日、デボーションはルカ4:14ー30。ガリラヤのカぺナウムでは、イエスのことばには権威があると評判になり、人々は称賛しました。しかし、ナザレでは「この人はヨセフの子ではないか」と人々はイエスを称えず、何か奇跡をおこしてくれと求めました。神に祈り求めることは悪いことではありませんが、主はその心をご覧になるのです。神を信じること、これが何よりも優先されることです。
遅咲きの花は大輪に成ると言いますが、壁が大きいほど、目指す山が高いほど、そこに至る道は長く険しいものです。もう無理だ、これ以上は進めない、とあきらめたくなる時が一度ならずある。その時、希望を捨てずに待つことです。答えが来るのが遅すぎて、あなたはしびれを切らし、待ちきれず、あきらめかけているかもしれません。でも、ギリギリの、ギリギリのところで、それは遅れることなくやって来ると聖書は告げるのです(ハバクク書2:3)。
1月第二主日、寒の入りを迎え寒さも本格的となってきました。礼拝メッセージはルカ5:1ー11から「そして、そのとおりにすると」のテーマで御言葉を心に留めました。人生は出会いで決まるとよく言いますが、シモンとイエスさまの感動的な出会いの場面。その時シモンは漁師として最悪の朝を迎えていました。イエスさまはそんな彼に「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」と命じられたのです。夜通し働いて、何の収穫もなく、疲れ切ったシモンが、「先生、それは無茶な話しです」と言っても何の不思議もないところ…彼は「おことばですので、網を下ろしてみましょう。」と答えていました。まさに人間の限界こそ、神との機会。驚くべき神の栄光にふれたシモンは、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と人生の方向転換に導かれたのです。聖書の神に出会うのは、決して偶然ではなく、神のご計画です。なぜ自分が…と多くの人は思います。でも、いくら考えても人間の側に理由はありません。あなたの周りで福音を待っている人がいる、あなたでなければ伝えられない人がいる、それが主があなたを選んで、遣わされる理由なのです。
小雪が舞う空でした。デボーションは律法に従ってヨセフとマリアが幼子イエスを抱いてエルサレムに来た時、その日をずっと待ち望んでいたシメオンとアンナに出会う箇所からでした。年末感謝礼拝でもここからメッセージをしましたが、本当に印象的なところです。嬉しかったでしょう。救い主にお会いした時の感想はどんなでしたか…と天国でシメオンとアンナに会ったときに聞いてみたいと思います。
1月第二水曜祈祷会、ルカ1:67ー80。幼子の誕生と主が御民を顧みてくださったことを知ったザカリヤは万感の思いを込めて預言しました。「ほむべきかな、イスラエルの神、主。」聖霊に満たされたザカリヤの賛美はベネディクトスと言われ、マリアのマグニフィカートとともに有名な賛美となりました。主はご自身の約束を必ず成就してくださる方です。私たちもご真実な主の御名をほめたたえましょう。
教会のデボーションはルカ1:57~66。老夫婦のザカリヤとエリサベツに男の子が誕生すると、近所の人たちや親族が集まってきて一緒に喜んだとあります。それまでの祭司としての夫婦の歩みが周囲の人々によき証しをしていたのでしょう。「主が…大きなあわれみかけてくださった」と、みな自分のことのように喜んだのです。男の子が生まれるまで、御使いガブリエルが言ったように、父ザカリヤは口がきけないままでした。祭司という立場にありながら、神のことばを信じなかったからだというのです(1:20)。その間、彼は何を考えていたでしょう。逃れようのない大きな力を感じながら、沈黙の中で、主よ、なぜですか…と神に祈っていたのではないでしょうか。神はそんなザカリヤの言葉にならない思いを受け止めながら、彼を悔い改めへと導かれました。そして、ついにその子に「ヨハネ」と名づける時がくると、直ちにザカリヤの口は開かれ、聖霊に満たされて、神をほめたたえたのです。ザカリヤの喜びに溢れる素晴らしい預言は明日の水曜祈祷会で読みましょう。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」というイエスさまの言葉が聴こえてくるようです。
1月第一主日、穏やかなお天気のもと今年最初の日曜礼拝を献げました。メッセージはルカ4章から。イエスさまはバプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、いよいよ宣教を開始されるか…と思いきや、御霊によって荒野へと導かれ、四十日間悪魔の試みを受けられました。なぜメシアである方が悪魔の試みなど受けられたのか。イエスさまが天の御座におられる時は、悪魔も畏れ多くて近づくこともできなかったでしょうが、人となって空腹の極みとなれば、悪魔も今ならもしかして…と思ったのでしょう。そのずる賢さや巧妙さは、創世記3章の蛇の誘惑と同じです。悪魔はまるで良き理解者のように、助言者や協力者のように、イエスさまに近づいて取引きを試みました。イエスさまはそんな悪魔の囁きに、御言葉をもって立ち向かいました。それは弟子たちをはじめ、読者である今日の私たちに、悪魔に対して毅然とした態度でいなさい、妥協してはならない、心の隙を与えてはならないと教えているようです。「私たちの大司祭は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」
年の初めは祈りの時です。普段祈らないという人も三が日には神社や仏閣に初詣に行って祈願する方も多いでしょう。ただし、人生はなかなか願い通りにはいきません。なぜ…と思うような出来事に襲われます。でも、だからこそ人は心の底から神を求めるのでしょう。人が生きるために最も大切なのは『信じる』ことです。人である限り、疑いを抱くことは仕方ありません。ただそれをくぐり抜けて、神の言葉ゆえに信じる…そこに本物の信仰があるのです。
激動の2024年が過ぎ、新しい2025年を迎えました。一年の計は元旦にありと言いますが、今年皆さまはどんな計画を立てられたでしょうか。世界各地で紛争が続き、自然災害、気候変動など、もはや何が起きてもおかしくない時代です。でも、聖書は、歴史上のあらゆる出来事が偶然ではなく、神の預言通りに起きていることを告げています。いつものように箕面めぐみ聖書教会は元旦礼拝から始まりました。ルカ3:1-17、旧約の最後の預言者バプテスマのヨハネはこう告げます。「主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。」あなたも救い主をお迎えする心備えをしましょう。主のことばを受け取る心備えをしましょう。この2025年が、神とあなたの出会いの年、神の御業を仰ぎ見る年となりますように。あなたのお越しを心よりお待ちしています。
12月第五主日、今日は年末感謝礼拝を献げました。礼拝メッセージはルカ2章21~38節、シメオンとアンナの信仰から御言葉を心に留めました。イエスがお生まれになった時代、ユダヤはローマ帝国の圧制によって厳しい生活を送っていました。しかも、預言者マラキ以降、約400年にも渡って神の預言は与えられていませんでした。それで大多数の者は形だけの信仰となり、救い主を待ち望まなくなっていたのですが、そんな時代にも敬虔な人たちはいました。それがシメオンとアンナです。二人に共通するのは、世の人々がどんな価値観を持って生きていたとしても、不条理に思う試練に遭い、神への信仰が折れかかったとしても、愚直に主の約束が実現するのを待ち望んでいたことです。神は、大勢の人々が行き交う中で、そんなだれも目を留めないような老人に、もはや何の希望もないような老婆に、最初に救い主をその腕に抱き、その恵みを伝える特権をお与えになったのです。私たちの信仰生活も時に「主よ、いつまでですか…なぜですか…」と思うことはあっても、それでも私はあなたを信頼します、約束を待ち望みますという信仰をもって歩んでいこうではありませんか。
冬の青空が広がる中、ザ・ガーデンオリエンタルで結婚式がありました。コロナ禍に出会ったお二人はしっかり愛を育んで、今日という日を迎えました。結婚は、静かに流れる二つの川が一つの大きな川になることに譬えられます。川が合流するところでは波が起こり、渦ができ、速さが変わります。でも、暫くすると静かな深い大きな川になります。どうか今日の誓約をいつも思い出して、二人で助け合い、補い合って幸いな家庭を築いていけますように。
教会のデボーションはテトス2章から。私たちの地上の生涯には、遅かれ早かれ必ず終わりが訪れます。でも、多くの人は死から目を背け、目先のことしか見ようとしないでしょう。人生の終わりは創造主との新しい関係の始まりです。そこには祝福と呪いのどちらかが待ち構えています。そのことを弁えて、自分がこの世を去る日について考えることのできる人は幸いです。その日私たちは地上に蓄えた物を何一つ御国に持っていくことはできないのですから。
澄んだ夜空に星の瞬きを感じながら、2024年のキャンドルサービスがありました。昨年は講壇にアクリル板がありましたが、今年はそれも外され、会堂にも大勢の方が来会し、みことばと賛美をもってキリストのご降誕を辿りました。救い主は王宮でも大邸宅でもなく、暗く貧しい家畜小屋の飼葉桶にお生まれになりました。惨めで、哀れな誕生です。でも、御使いは「それが、あながたのためのしるしです。」と告げたのです。今年は元旦の能登半島地震に始まり、その後も度重なる地震、台風、豪雨による被害があり、政治とカネの問題から政治不信が続き、クリスチャンの総理大臣が誕生しました。国内はもとより海外に目を向けても、罪と争いと悲しみは絶えませんでした。でも、光は闇が深くなればなるほどに輝きを増すものです。星の輝きが東方の博士たちを何千キロもの道のりを迷わずに救い主のもとに導いたように、この時代、聖書のみことばが私たちを救い主のもとに導いてくれます。今年は二人のバイオリン演奏に、さらにフルートとバスクラが加わってさらに豊かな賛美となりました。最後はローソクの火を灯しながら、祈りつつ『きよしこの夜』を賛美しました。
12月第四主日、今日はクリスマス特別礼拝を献げました。メッセージはルカ2章から『クリスマスの最高の奇跡』というテーマでみことばを心に留めました。人類史上最も偉大な方、まことの救い主である方は、貧しい家畜小屋の飼葉桶にお生まれになりました。この飼葉桶は苦難や悲しみの象徴です。キリストは神としてのすべての栄光をかなぐり捨てて、そのただ中に来てくださったのです。それは歴史を二分するほどの出来事とは思えない…実に静寂な夜でした。神はこの方のご降誕の中に、すでに全人類に対するメッセージを告げておられたのです。その知らせは野宿をしながら羊の群れの夜番をしていた羊飼いたちに真先に告げられました。彼らもまた、マリアやヨセフと同じく、戸惑いつつも御使いの知らせをそのまま信じて、この出来事を見届けて来ようと出かけて行き、神のしるしを目の当たりにしたのです。この時期、教会でこのメッセージが聞けるのは本当に幸いなことです。たとえ100年の齢を神に許されていたとしても、あと100回を数えることのできないクリスマス…その一回を、今年、この時、この場で、ならではの思いで、仕方で、一緒にお祝いしませんか。
預言者ミカは嘆かずにはいられませんでした。ずっと手入れをしてきた果樹園が荒らされて、実を見ることができない時のよう…神の前に敬虔な人がいない、心の直ぐな人がいないとは、そうした状態だというのです。その当然の結果として刑罰の日がくる。神は侮られる方ではない。人は種を蒔けばその刈り取りもしなければならない。そんな絶望的状況の中でミカは祈ります。「しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。」目の前の現実だけを見ていたら、希望の光は見えてこないでしょう。でも、主を仰ぎ見るとき、そこで私たちの祈りを待っておられる方がいることに気づかされていきます。裁きの言葉は神がまだこの世を見放していない証しです。「あなたがエジプトの地から出た日のように、わたしは奇しいわざを彼らに見せる。」試練も神の計画の一部。私たちが悔い改める(人生の方向転換をする)とき、神は嫌々赦すのではなく、喜んで赦してくださいます。そこで神と出会い、神に祈り求め、神の赦しと贖いにあずかる道があるのです。飼葉桶の幼子は、クリスマスがその最もよい機会であることを示しているのです。
昨日は12月の『旧約聖書の学び会』がありました。小さな学び会ですが、いつもお二人の方が必ず出席してくださって一緒に御言葉の恵みを味わっています。牧師としてそれは本当に有難いことだなと感謝しています。「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」イエスさまの臨在を感じながら、同じ祝福にあずかっている幸いを思いました。もちろんオンラインでご視聴くださる方々にも本当に励まされています。どうぞ来年も学び会にご参加いただけましたら幸いです。また、今日は2024年最後の水曜祈祷会がありました。ミカ書5章から『主の大逆転を待つ』というテーマで御言葉を心に留めました。私が一番心に残ったのは「ベツレヘム・エフラテよ」です。メシアの出現は南ユダの首都エルサレムではなく、地図にも載らないよう寒村ベツレヘムだと告げられました。そしてその預言通り、約800年の時を経てキリストがお生まれになったのです。あなたの今がどんなに暗くても、神はあなたを忘れたりしません。神はこの世の弱い者…無に等しい者を選ばれる方です。そこに私たちの思いを越えた神のご計画があるのです。
12月アドベント第三週、いよいよクリスマスが近づいてきました。今日の礼拝メッセージはマタイ1:18-25「インマヌエルの神」がテーマでした。大工のヨセフと婚約関係にあったマリアののもとに、突然主の使いが現れて「あなたは身ごもって男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」と告げました。マリアは戸惑いつつも信仰をもって受け留めましたが、ヨセフにはまだ何も告げられていませんでした。彼女の胎に赤子が宿ったことが分かると、身に覚えのないヨセフは思い悩んでいきます。穏やかな生活が根底から揺さぶられるような苦悶の日々だったでしょう。神はそんな彼の夢の中に御使いを送り、「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアを妻として迎えなさい。」と告げられました。ヨセフもまたこの常識では考えられない状況を信仰をもって受け入れていったのです。大きな重荷を背負わされた若い夫婦にとってインマヌエルの約束は何よりも心の支えとなったことでしょう。それは私たちの信仰生活も同じです。今日は午後からキッズ&ファミリークリスマスがありました。子どもたちの降誕劇も可愛かったです。賑やかで温かいクリスマス会となりました。
クリスマス受胎告知と言えばマリアが有名ですが、もう一人の立役者のヨセフを忘れてはいけません。妻マリアの胎に宿ったのが自分の子どもではなく、その子の名さえ自分で決められないという不条理を背負ったヨセフ。思いたくもないマリアに対する疑惑…。誰にも言えない悩みの日々を過ごしたことでしょう。でも、ヨセフはアリアとともに生きる決断をしたのです。このヨセフなくしてマリアもなく、世界で最初のクリスマスの奇跡もなかったのです。
今日はハートフル英会話秋期コースの最後のクラスでした。大人の方はクッキーハウス作りとプレゼント交換、キッズクラスはオリジナルクラフトをしました。どちらもクリスチャンの講師ならではのアイディアで本物のクリスマスを楽しみ味わいました。「キリストは富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたがキリストの貧しさによって富む者となるためです。」冬期コースを受付開始。1月16日から開始します。
12月第二水曜祈祷会、イザヤ書66章から。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。」いよいよこの預言書の最後の章を迎えました。偉大なる主の前に、私たち人間の二つの姿が描かれています。それは神が目を留められる者と拒まれる者です。その違いはあまりにも大きいと言わざるを得ません。でも、神は悪しき者が滅びゆくのを黙って見過ごすことができないお方でした。それゆえ神としてのすべての栄光をかなぐり捨てて、人となって降られたのです。
教会のデボーションはイザヤ書65章から。「わたしを尋ねなかった者たちに…わたしは見出された。」イスラエルの民が偶像を拝んで反逆するので、その結果、神の惜しみない愛と救いの御手は、他の民族(異邦人)に向けられることになったとあります。今日、神の民はユダヤ人であれ異邦人であれ、イエスを救い主であり主であると受け入れた人々です。「わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。」世の終わりには新天新地が再創造され、すべてのものは新しくされます。その時、私たちにとって大事なのは、神との関係が回復していることです。聖書には、神を信じた者、その名を受け入れた者に神の子どもとなる特権をお与えになられたとあります。"クリスマス(Christmas)"…それはイエス・キリストのご降誕を喜び祝う祭りです。キリストが人となって来られてからすでに2000年以上も経っているのに、今も世界中で祝われているのは不思議なことではないでしょうか。この時期、教会では様々なクリスマスイベントがあります。お一人でも、ご家族でも、ぜひお近くのキリストの教会で、本物のクリスマスを体験しましょう。
12月アドベント第二礼拝、冷たい空気が頬に当たる朝ですが、教会はいつものように温かな神の愛に包まれる礼拝を献げました。メッセージはルカ1:26ー55マリアのもとに御使いによる受胎告知がなされたところから。処女降誕は神にとってはごく細やかな奇跡だったでしょう。神が人となられたということ、これこそはるかに大いなる奇跡です。一層驚くべきは、ほかならぬ自分が神の母として選ばれるという御告げを、このごく普通乙女が信じたということです。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」という思いから、「どうぞ、あなたのことば通り、この身になりますように」という信仰に変えられていったマリア。疑い、戸惑いを覚えつつも、みことばに信頼して歩もうとする、その健気な姿は今日の私たちにも大切な信仰者のあり方を教えています。ただ、プロテスタントの教会はそんな彼女を敬愛することはあっても、崇拝することは致しません。カトリックの教会も崇敬であって崇拝ではないと言われますが…聖母、聖人という言葉はいかがなものなのでしょう。神はこの卑しいはしために目を留めてくださったというマリアの信仰に、私は共感するところです。
教会のデボーションはイザヤ64章から。63章に続いて「主よ、あなたは私たちの父です」とあります。神に背を向ける民に代わって、イザヤのとりなしの祈りが続きます。自分たちは神によって造られた者です。主よ、憐れんでくださいというのです。苦しい時の神頼み…というとなんだかご都合主義のように思われますが、それでも苦しい時の神離れに比べればまだマシです。求めましょう。神は憐れみ深く、求める者に答えてくださるお方なのですから。
目的地に行くにはそのまま直進するのが一番早いとしても、紅葉の見頃もあと僅か…と思うと、あえて遠回りしたくなるものです。丁度、いま読んでいる本にも似たようなことが書いてありました。『最短距離で行くとか効果的に最速でゴールに到着するといった目標は、霊的旅路において意味をなさない。この旅路では、回り道も、道に迷うといったことも含め、道のりのすべてに価値がある…』人生の回り道にも神が見せたい景色があるのかもしれません。
12月第一水曜祈祷会、イザヤ書61章から。「彼らは昔の廃墟を建て直し、かつての荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。」テキストの最後にあった『私の歩む日々は、誰かの救いと結びついているだろうか、それとも私自身の幸いだけのものだろうか。』との問いかけが心に残りました。今日は中村哲氏の召天日でした。医師でありながら多くの井戸や用水路を建設し、60万人以上の命を救いました。敬神愛人の信仰…私たちにも大切です。
12月アドベント第一礼拝、今日も素晴らしい快晴でした。メッセージはルカ1:5ー25から。祭司の家系の老夫婦ザカリヤとエリサベツのもとに、御使いガブリエルが現れ、ヨハネ誕生の知らせを告げました。それは老夫婦にとって、また、イスラエルをはじめ全人類にとっても大いなる喜びをもたらす知らせでした。でも、ザカリヤはその知らせを疑って、ならば「証拠」を見せてくださいと言います。すると、御使いはこう答えました。「…見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じられなかったからです。」神にとって不可能なことはなく、神の約束は時至って必ず実現する…ザカリヤはそれを身をもって体験し、信じない者から信じる者に変えられていきました。神のことばを信じることは小さな子どもでもできることです。むしろ、大人の方が自分の常識が先に立ち、科学的証明や納得する根拠を提示してくれたら、信じるかどうするか考えようと思うのかもしれません。今日は中学校まで来てくれていた女の子が、大学生となって久しぶりに夕礼拝に来てくれました。感謝です。
教会のデボーションはイザヤ58章から。「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『栄えある日』と呼び、これを尊んで、自分の道を行かず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとする。…」安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。十戒の中でも最も丁寧に命じられているのが、安息日規定です。ただ、この日を聖なるものとするのは、今も昔も容易なことではなかったようです。「聖」という言葉には、他とは区別するという意味があります。「安息日」(新約時代は日曜日)を他の日とは区別して、神のために特別な日とするためにはどうしたらいいのでしょう。もしすぐに思いつくことがなければ、教会の礼拝に出席してみられませんか。ただ何もしないで、心と体を休ませる日も大切でしょう。でも、この日を「喜びの日」「栄えある日」として、自分のための日から、神への感謝を表す日として過ごしてみるのはいかがでしょう。今年もアドベント(待降節)の時期を迎えました。ぜひ教会で本当のクリスマスを一緒に過ごしましょう。
「主が、病の床で彼を支えられますように。彼が病むとき 寝床から起き上がらせてください。」次の日曜日、私たちの教会の最高齢の兄弟が久しぶりに礼拝に来られます。足腰が弱くなられ、前のように電車とバスを乗り継いでくることはできませんが、ご家族が車で乗せてきてくださるそうです。いつも教会に行くことを励みにリハビリに取り組んでいるとのこと。祈りに答えてくださる主に感謝です。
11月第四水曜祈祷会、イザヤ書55章から。「渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。」心に霊的な渇き覚える者はみな、神のところに来なさいという招きのことばです。数年前、ここに教会があってよかった…と言ってくださった方がいました。今はもう天国にいますが、忘れられない言葉です。私自身も教会がなければ、神を知ることはなかったですし、全く違う人生を歩んでいたことでしょう。
先週は来客を案内して京都の桂離宮に行ってきました。まだ少し早い紅葉でしたが、歴史を感じつつ、静かな庭園でしばしリラックスさせて頂きました。また、日曜日は岡山県のモダンな教会と無牧の教会で奉仕させて頂いて、温かく迎えて頂いて、本当に感謝でした。でも、一つ大変なミスをしてしまい、ある教会では開始時間を間違えて20分も遅れて到着しました。申し訳ありません。自戒の念を込めて記しておきます。こんなことは初めてでしたが、車での移動は気を付けます。恵みと反省の一日でした。
11月第四主日、今日は秋の歓迎礼拝としてKGK関西地区主事の池淵亮介師をお迎えしてメッセージを取り次いでいただきました。最初にKGK(キリスト者学生会)の紹介をしていただき、その活動は学生の祈りから始まり、もうすぐ80周年を迎えるとのことです。ルカ6:46-49から、揺れ動く時代、みことばというしっかりした土台の上に人生を建て上げていくことの大切さを教えていただきました。私たちの教会でも大学生たちがKGKを通してたくさんの恵みを受けています。主事や関係スタッフの方々のご労に心から感謝いたします(という私も協力会の一人なのでもっと貢献しないといけません…)。午後からの二つの交わり会にも男女ともに多くの方が出席してくださって、よい分かち合いができたそうです。ゲストの池淵主事がいてくださったからかもしれません。池淵師のメッセージをお聴きになりたい方はYouTubeからご視聴ください。さて、私は岡山県の二つの教会でメッセージの奉仕がありました。一つはライブハウスのような教会で、若い青年が大勢来られていました。もう一つは無牧の教会でしたが、信徒の方々の不断の祈りに支えられていることを感じました。
イザヤ51章から。「まことに、主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。」それは絶望に淵に立つイスラエルにとって、単なる気休めなどではない、現状の変革を促し、憂いを喜びに、絶望を希望に変えるメッセージです。この時代も、国内外ともに波乱に富んだ時代、神を神としてあがめることのない社会です。それでも、イエスさまはあなたを慰めて、救いへと招いておられるのです。
今日はイギリスの作家C.S.ルイスの召天日。彼の著書『痛みの問題』にはこうあります。「神は楽しみにおいて私たちに囁きかけ、良心において語る。でも、苦痛においては私たちに向かって激しく呼びかけたもうのである。苦痛は耳を塞いだ世界を呼び覚まそうとしたもう神のメガホンである。」私たちは平時よりも苦難の中でこそ神を体験するように思います。「主はご自分の民を慰め、その苦しむ者を憐れまれるからだ。」今日も英会話クラスから楽しい声が聞こえてきました。
11月第三水曜祈祷会、イザヤ書48章を読みました。「あなたが頑なであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので。」いくら呼びかけても聞く耳を持たない南ユダの民ですが、神は忍耐をもって救いの道を指し示します。どんなに背を向けても「わたしはあなたの神、主である」と宣言されるのです。ご自分の民を憐れむ万軍の主の熱心を覚えました。午後からは友人のヒトリコテンに行ってきました。今回も優しい絵に心が和みました。お勧めします。
11月の旧約聖書を学ぶ会がありました。出席者は少なめですが、その分ゆっくりな分かち合いもできて感謝です。出エジプト記12章、エジプトに第十の災禍が下されようとしていました。ここまで頑なな姿勢を貫いてきたファラオも、さすがに「…出て行ってくれ」と言わざるを得ない状況が迫っていました。イスラエルの民も神がどんな御業を起こされるのか、皆目見当がつかなかったでしょう。430年間もエジプトで奴隷状態に置かれていた民に自由が与えられる…信じ難いことだったはずです。そうした中で主は、過越の祭りの制度を定められました。「異国人はだれもこれにあずかってはならない。しかし…割礼を施せば、これにあずかることができる。」過越の祭りは、傷のない子羊を屠り、その血を門柱と鴨居に塗って、種なしパンを食べる儀式です。主は、この日は神の民にとって忘れられない記念となり、永遠の掟としてこれを祝わなければならないと言われたのです。今日のクリスチャンはイエスさまが言われた通り『聖餐式』として十字架を心に覚えます。聖書を知らない人から見れば単なるパンとぶどう酒ですが、クリスチャンにとっては極めて厳粛な儀式です。
11月第三主日、秋も深まり紅葉の美しい時期を迎えました。礼拝メッセージはエステル記6ー7章から。ダニエルのような立派な信仰者ではない、等身大のエステルに共感を覚える人も多いのではないでしょうか。エステル記には「神」「主」という言葉は出てきません。また、「祈り」「信仰」という言葉もあえて使っていません。でも、この書には神がこの世を支配し、歴史を導き、人々を動かしていること、また、エステルやモルデカイが祈りと勇気と信仰をもってユダヤ人を救いに至らせることが見事に描かれています。また、ハマンの性質はだれもが持っている罪の性質。モルデカイを陥れるための木に、最後はハマン自身がかけられていくさまには、読者である私たちにも罪の性質を十字架のもとに脱ぎ捨てることを教えているのです。そして、神は私たちと個人的に交わりを持ってくださると同時に、私たちをご自身の計画の中で用いてくださいます。私たちが苦しんだり、悩んだり、傷ついたりするのは、私たち個人の問題なのではありません。私たちがその戦いの中で慰められたり、励まされたり、立ち直ったりするのは、ほかの兄弟たちの救いにも繋がっていくのです。
「あなたを造り、あなたを母の胎内にいるときから形造り、あなたを助ける主はこう言う。」聖書は、自然淘汰説に基づく進化論ではなく、三位一体の神の御手による創造論を告げています。すべてが偶然の中で進化していったものなら、人はなぜ生きているのか、なぜ生まれてきたのかを考える必要はないでしょう。でも、どうしても考えてしまう、それが人間が目的をもって造られた証拠です。神は今も、私たちを助けたいと思って呼びかけているのです。
11月第二水曜祈祷会、イザヤ書43章を読みました。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」多くの方に愛されるこの聖句ですが、あらためてだれがだれに向かって言っているのかを考えると、その言葉の深淵さに圧倒される思いです。神が呼びかけておられるのは、聞く耳をもたない神に敵対してきた者たちでした。イエスさまも放蕩息子の帰りを待つ父の譬えをされましたが、まさにこの神の愛の深さを教えられたのです。
「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともなく」教会に祈りのリクエストを送ってくださる方を覚えてお祈りしています。特にインフルエンザが流行っているようで、重症化されている方もいます。主の癒しと慰めがありますように。イエスさまは傷ついている方や心が折れかかっている方に憐み深い方です。元気な時はそれほど必要と思わなくても、弱さを覚えている方のために、イエスさまのとりなしの祈りの御声が聞こえてきますように。
11月第二主日、抜けるような青空のもと今日も日曜礼拝が献げられました。小学校の教員になられて28年、現在は校長先生をされている方がお証しをしてくださいました。不遇な幼少期を過ごされる中で、ある先生の言葉に励まされ、ご自身も教師を目指し、大変な努力をして見事教員試験に合格。その後もまさに天職とも言える充実した教師人生。ところが、突然の病…。フルマラソンを18回も完走している体力の持ち主にも拘らず、入院、休職…と先の見えない苦難を余儀なくされました。でも、愛するご家族に支えられ、友人に支えられ、教会の多くの方の祈りに支えられ、兄弟の笑顔が戻ってきました。今回の証しは、どうしてもご本人の口から復活報告を聞きたくてお願いしました。今日はその方の54歳の誕生日。素晴らしいお証しに主の御名をあがめました。礼拝メッセージはエステル記5章から。エステルもまた、自らの使命に堅く立ち、大事な場面で神の栄光を仰ぐ秘訣を心得ていました。今日は児童祝福式もあり、子どもたちもそのまま大人と一緒に礼拝に参加。最後まで静かにノートを取る姿勢に感動しました。午後は囲碁将棋クラス、夕礼拝も祝され感謝します。
教会のデボーションはイザヤ38章から。ヒゼキヤは病気になって死にかかっていましたが、主は彼の祈りに答えて「あなたの寿命にもう十五年を加える」と告げられました。人生のアディショナルタイムをどう生きるかを思いました。今週は月曜日は知人が出演するミュージカル『ナルニア王国物語』を鑑賞に、火曜日は牧師会がありました。昨日の祈祷会でもよい交わりが与えられたことを感謝いたします。
教会のデボーションは詩篇65篇から。主の御前には静寂と賛美がある。一日の始まりにまず静まって、今日も生かされていることを感謝し、御名をほめたたえましょう。ダビデは、神を悲しませる数々の罪が祈りの手を下げさせようとしても、「しかし 私たちの背きを あなたは赦してくださいます。」と告白しました。ご都合主義だ、日和見主義だと言われても、神から引き離そうとするサタンの声に耳を貸してはなりません。罪を悲しみ、そこから離れることが悔い改めの一歩です。「私たちの救いの神よ。あなたは恐れるべきみわざで 義のうちに答えられます。」たとい、目の前の問題が重くのしかかってきても、騒ぎ立つ心を静めて、御霊の声に聴き従いましょう。主はどこか遠くにおられるのではなく、私たちの心と日常の中にともにおられます。「あなたは地を訪れ 水を注ぎ これを大いに豊かにされます。」秋は収穫の季節。私たちの生活に必要な水と穀物の恵みを与えてくださる収穫の主に感謝をささげましょう。世にあっては様々な艱難辛苦があります。でも、主にあって勇敢に歩みましょう。私たちの弱さ愚かさのうちにも、主は働いてくださることを信じて。
教会の前を通られた方に『教会ではハロウィンをお祝いしないのですか』と声をかけて頂きましたが、ハロウィンはキリスト教の行事ではありません。今や世界中で盛り上がるハロウィン、その起源は大昔の古代ケルト人が行っていた祭礼で、秋の収穫を祝うとともに、悪霊を追い払う宗教的な行事だったとのこと。死者の魂が家族のもとに戻って来るとは、言わば日本のお盆のようなものです。この土着信仰がやがてキリスト教と結びつき、カトリックの諸聖人の日の前夜祭として祝われるようになったようですが、いずれにしても異教的な伝統や迷信に基づいたものなのでキリスト教の祭礼とは言いかねます。プロテスタントの教会で10月31日と言えば宗教改革記念日です。カトリックの修道士だったマルティン・ルターがヴィッテンベルク城の教会の門に95箇条の提題を掲示したことに始まります。一番問題としたのは、免罪符を買うことによって煉獄における刑罰を軽減されるという誤った教えでした。これも言わば仏式の戒名と似ているかもしれません。昔からあることだから…みんながしているから…という付和雷同は要注意です。我ここに立つというものを持ちたいですね。
教会のデボーションは詩篇61篇から。ダビデは心が地の果てと思えるような状況で神の名を呼び求めました。それは何の希望もなく、神を遠くに感じるところということでしょう。それでもダビデは「神よ 私の叫びを聞き 私の祈りに耳を傾けてください。」と告白します。人間の限界こそ、神との機会です。深く掘った井戸の底から空を見上げると、昼間でも星が見えると言います。その真昼の星のように普通では見えないものが、人生には幾つもあります。それは暗い井戸の底から見上げた時、見えるものです。神はご自身の民の祈りを、必ず聞いてくださっています。自分が願った時にすぐに結果が得られなくても、神はご自身の計画の中で最善を用意しておられるのです。「こうして 私はあなたの御名を とこしえまでもほめ歌い 日ごとに 私の誓いを果たします。」八方塞がりの中から引き上げられたダビデの賛美が聞こえてきます。主に信頼する者は、恥を見ることも、失望することもない。まことの光である方は必ずご自身の栄光を見せてくださいます。主をほめたたえることは私たちの力です。今日も聖霊がお一人ひとりの歩みを支え、導いてくださいますように。
10月第四主日、穏やかな曇り空のもと、今日も神を愛する方々とともに礼拝を献げました。メッセージはエステル記3章から。ペルシア帝国の宰相になったハマンは、モルデカイが自分に膝をかがめずひれ伏さないのを見て憤り、彼一人を手にかけるのでは満足せず、王国中のユダヤ人全員を抹殺する法令を出しました。なんと恐ろしい計画でしょう。昔からの民族間の確執も影響していたようです。過越の祭りを前にして、喜び祝う日は一転して最悪の知らせを聞く日となりました。モルデカイは自分のとった振る舞いがこれほど大きな問題になるとは夢想だに思わなかったでしょう。ただひとり孤独を感じながら、主の名を叫び求めていたのではないでしょうか。モルデカイ一人に責任を負わせ、人の弱さにつけこみ、神の救いの計画を阻もうとするサタンのせせら笑いが聞こえてきます。でも、神はそんなご自分の民の苦難を知らないはずがありません。その苦難さえご自身の栄光を現すために用いてくださるのです。今日は礼拝後に献児式が行われ、ご家族が主の前に献身の証しをされました。神さまは私たち一人一人に特別な計画を持っておられます。祝福をお祈りいたします。
風に吹かれて金木犀の甘い香りがしてきました。昨日は旧約聖書を学ぶ会があり、出エジプト記12章から主が過越の祭りと種なしパンの祭りを定められたところを学びました。それは単なる祭りではなく、イエスさまの十字架の贖いを指し示すものでした。また、今日の水曜祈祷会ではイザヤ書30章を読みました。神の御心を求めず、罪に罪を増し加えるばかりの南ユダの指導者に対して、預言者イザヤはその先にあるのは滅亡しかないと語ります。さらに、真の神にではなく、最も近い大国エジプトに助けを求める彼らに向かって、イザヤは「彼らは助けとならず、役にも立たない」と訴えました。彼らはそんなイザヤに対して、「われわれに心地よいことを語り、だましごとを預言せよ」と言い出す始末。もはや問答無用で神の裁きが下っても仕方がないと思う場面で、イザヤは不思議なことを語りました。「もうあなたは泣くことはない。あなたの叫ぶ声に応え、主は必ず恵みを与え、それを聞くとき、あなたに答えてくださる。」目と耳を疑うような記述。神の裁きは滅ぼすことが目的ではありません。神はどこまでも恵みとあわれみを与えようとして待っておられるのです。
教会のデボーションはイザヤ書28章から。ソロモンの治世の後、イスラエル王国は南北に分断し、エルサレムは南ユダ王国に収まりましたが、北イスラエル王国は偶像礼拝に導かれて行きました。イザヤはそんな北王国に神の裁きが下ること、そして南王国も不信仰な生活を悔い改めなければ同じ結末に至ることを告げました。でも、そんなイザヤの言葉に民は耳を貸さず、自分たちは大丈夫と高を括っていたのです。昨日の洗礼式から一夜明けて、花の手入れをしながら古い記憶を思い返していました。私は26歳の時、恥ずかしながら洗礼式の3日前に、『やっぱり辞退します』と言ってキャンセルしました。教会に通い始めて一年、まだ聖書のことも神様のこともよくわかっていないし、何よりこんな半信半疑の信仰で洗礼を受けてはいけないと思ったのです(誰かにそう言われたわけでもないのに…)。それから何だか教会の方にあわせる顔がなくて、礼拝にもしばらく行かなくなりました。でも、その苦い経験も洗礼について真剣に考える機会となったので、今となってはいい想い出です。翌年、右も左もわからない、ありのままで洗礼を受けた自分をほめてあげたいと思います。
10月第三主日、朝には雨も上がり、柔らかな日射しが差し込む中、主の御名をあがめる礼拝を献げました。メッセージはエステル記2章から。クセルクセス王が王妃ワシュティを失脚し、新たな王妃選びのコンテストが開催されました。モルデカイはユダヤ人の孤児だったエステルを引き取り、自分の娘のように養い育ててきました。当時王の命令は絶対ですから、二人は不本意ながらもコンテストの招集に従います。するとエステルは王の目にとまり、他の多くの娘たちを尻目に見事王妃に選ばれたのです。その後、モルデカイが王の暗殺計画を知り、エステルを通して王に告げることなど、どれも偶然とは言えない神の計画の序章を見て2章は終わります。いわゆる伏線回収もエステル記の醍醐味です。今日は何よりお二人の姉妹の洗礼式がありました。それぞれに違った人生を歩む中で、イエスさまと出会い、同じ日に洗礼へと導かれました。教会で最初にお二人とお会いした日から、主がお二人を一つ一つ導いてこられた様子を間近で見せていただけて、牧師としてこんな感慨深い日はありません。新しい信仰の一歩を踏み出されたお二人のために心から祝福をお祈りしています。
デボーションはピレモンへの手紙に入りました。25節の小さな手紙ですが、パウロの愛がギュッと詰まった内容です。ピレモンのもとから逃げ出したオネシモが、獄中のパウロと出会って救いにあずかり、忠実な信徒となって、ピレモンの所に帰って行く。どうか回心した彼を赦してあげてほしいというパウロの親心は、まさに「父よ、彼らをお赦しください…」というイエスさまの愛を投影するものです。
10月第三水曜祈祷会、ピリピ3章を読みました。短い手紙には『喜び』という言葉が16回も出てきます。パウロは獄中からこの手紙を書きました。「ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし」信仰生活は競争ではありません。栄光のゴールは既に用意されていてそこに向かってひたすら前進することです。聖霊も助けてくださいます。人生辛酸多し、されど神は愛なり。
秋晴れのもと、関西宣教区ソフトボール大会がありました。コロナ禍や雨天中止が続きましたので、今年は5年ぶりの開催。参加者90名、遠くは静岡県からも来てくださり、熱戦が繰り広げられました。午前は2コートに分かれての総当たり、午後は負けたら終わりのトーナメント。決勝戦は最終回までもつれる好ゲーム。優勝は茨木、箕面はミックスチームで惜しくも準優勝。なかなかの健闘ぶりでした。
10月第二主日、今日も柔らかな日射しが差し込む会堂で三回の礼拝がありました。メッセージは今日からエステル記を読んでいきます。「エステル記」はユダヤ人の間で最も親しまれている聖書の一つ。エステルという聡明な女性と、彼女を育てたモルデカイという一人のユダヤ人が知恵と勇気と信仰をもってユダヤ民族存亡の危機から救うというのが大筋です。この話しはクセルクセス王の治世の第三年、187日にも及ぶ大宴会が催されたことから始まります。豪華絢爛の飾りつけ、大理石の柱や床、煌びやかな王宮がその舞台。まさに酒池肉林、神なきこの世の縮図とも言えるこのところである事件が起きました。ぶどう酒で陽気になった王が七人の宦官に「王妃ワシュティに王冠をかぶらせて、王の前に連れてくるように」と命じたことでした。宴会の最後の余興に、自分の美しい妻を見せびらかせようとしたのでしょうが、王妃はこの命令を拒んで出てこなかったのです。これには王も相当に怒ったでしょうが、そんな揺れ動く人間たちの背後で、見えざる神の計画も既に始まっていました。私たちも、目には見えずとも神の確かな導きに信頼して歩んでいこうではありませんか。
教会のデボーションはピリピ1章に入りました。ピリピ人への手紙は、パウロが牢獄の中で裁判を待っている時に書いた手紙です。ピリピの教会は、パウロが第二次宣教旅行の際にこの町で幾人かの人が救われ、ヨーロッパで最初に誕生した教会です。まだ人数も少なく、豊かな教会だったわけではありませんでしたが、開拓当初からパウロの宣教を支援し続けてきました。パウロは手紙と献金を届けてくれたエパフロデトを通してピリピの教会の様子を聞き、一方ならぬ励ましと慰めを受けたことでしょう。この手紙は冒頭からそんな牧会者パウロの喜びと感謝に溢れた内容となっています。私たちの教会も、能登半島豪雨災害の知らせを受けてすぐに祈りと支援を呼びかけました。できることはわずかですが、現地で生活している方を覚えて、ボランティアに従事されている方を覚えて、今日支援物資と献金を送りました。教会の宣教は、人数を増やすことや建物を維持することが目的ではありません。キリストにあってともに救いの喜びを分かち合うことが源泉です。牢獄の中にいても失われない喜び、それがこの手紙をもってパウロが最も分かち合いたかったことなのでしょう。
聖書の神は、やがて終わりの日に再臨の主が来られて、罪と悲しみと争いに満ちたこの世を正しくさばかれると告げられます。その日、あらゆる階級の人々は、手にしていた繁栄をすべて失い、目に映るのは荒廃した光景だけとあります。大変厳粛な預言です。イザヤが活躍した時代、ユダの人々は豊かさの中で神をあなどり、形式的な信仰生活を送っていました。そうした世の価値観の中で、イザヤの預言はなんとも空しく響いていたと思います。愛と慈しみに満ちたメッセージであれば、少しは聴く耳を持つ人たちもいたでしょうが、罪を知らずして愛だけを求めているなら、そこに本当の悔い改め、救いへの渇望は湧き上がってはこないでしょう。「主よ、あなたは私の神。私はあなたをあがめ、御名をほめたたえます。あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、真実に成し遂げられました。」やがてこの御言葉は成就します。神の御旨は裁きにあらず、救いにあり。罪人に注がれる神の憐れみ。ひとり子のいのちをもってしても贖いの御業を成し遂げられた万軍の主の熱心。この神のまなざしが今も、私たち一人ひとりに注がれていることを心に留めたいと思います。
10月第一主日、今日は宣教区講壇交換で学園前聖書教会の吉田篤師が来てくれました。礼拝メッセージはマタイ20:1ー16、有名なイエスさまの天の御国のたとえから。「天の御国は自分のぶどう園で働く人を雇うために朝早く出かけてた主人のようなものです。」主人は、9時、12時、15時、17時と出かけて行き、みな同じように一日一デナリの約束をしました。そして、夕方になって賃金を貰う時がくると、朝から働いている人たちは多くもらえると思ったら、約束通り一デナリでした。しかも最後にきてたった一時間しか働かなった人たちも同じ賃金だったのです。これには朝から働いた人たちは主人に不満をもらしたというのです。『主人』はイエスさまを指しています。また、約束した一デナリを『救い』として考えるなら、早くから働こうが、遅くから働こうが、ともにその恵みにあずかることを一緒に喜びたいものです。イエスさまがくださる救いは成果主義や行為義認とは無関係の恵みによる賜物です。私たちはともすると自分は朝や昼から働いている者だと思いがちですが、実は夕方頃に雇われた者なのかもしれません。今日、自分にできる精一杯の奉仕を献げましょう。
教会のデボ―ションはイザヤ23章から。ツロはイスラエルの北、地中海沿岸に広がる古代フェニキヤの主要な都市の一つでした。17章から22章までの国や都市が政治・軍事的な面から取り上げられて来たのと違って、フェニキヤは経済・通商におい世界的に知られていました。エジプトはツロの陥落によって重要な貿易パートナーを失うことに…。栄枯盛衰は世の常です。すべては神に掌握されているのです。
同盟教団 秋の研修会がありました。今回は『牧会者のセフルケアと宣教の情熱』というテーマで松本雅弘師を講師としてお迎えしました。イエスさまの瞳に映る自分を見つめ直し、そこから力を頂いて遣わされていく者になりたいと思わされました。夜の聖会ではベテランの増山毅師が力強い証しをしてくださいました。慰めと励ましに満ちた研修会でした。私は質疑応答の時間の進行役をさせて頂きました。
キリスト全国災害ネットの第10回全体会合がヤマザキパン総合クリエイションセンターでありました。ヤマザキ製パンの飯島社長はクリスチャンであり、今回の会場も提供してくださいました。今回も全国のキリスト教・災害支援団体が集まり、能登半島・豪雨災害の最新情報や今後の災害支援に関する講演、具体的なアイディアなど有意義な会合となりました。今後も協力の輪が広がることを祈ります。
9月28日(土)教会墓地のリフォームが完成し、初めての墓前礼拝を行いました。雨が心配されましたが、お天気も守られて感謝でした。「主は私たちのために死なれましたが、それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。」クリスチャンにとってのお墓はご先祖様の魂が眠る場所ではなく、兄姉が信仰に生きた証し・記念碑です。私たちの国籍は天にありますので、やがてはそこで再会する希望があります。その日までそれぞれの信仰の生涯を全うしていきましょう。
9月第五主日、曇り空の日でしたが、気持ちのいい風が吹く一日でした。礼拝メッセージはネヘミヤ8章から。城壁再建のために祖国に帰還したネヘミヤは、内からも外からも様々な困難に直面しながら、52日という驚くべき速さで工事を完成させました。そして、門衛、歌い手、レビ人が任命され、いよいよ準備は整い、第七の月が来ると民は一斉に水の門の広場に集まり、学者エズラが律法を朗読しました。すると、民はみなひれ伏して礼拝し、涙を流しました。過去のイスラエルの歴史を知り、また、自分たちが神の御心から遠く離れた生活をしていたからです。それでもエズラは言いました。「今日はあなたがたの神、主にとって聖なる日である。泣いてはならない。悲しんではならない。…主を喜ぶことはあなたがたの力なのだから。」神のことばに耳を傾け、自分の罪を示されるのは良いことではないでしょうか。でも、もっと大事なのはそこから向きを変えて新しく歩み始めることです。聖なる日は、ほかの日と区別する特別な日です。ぜひあなたも、日曜日を教会で礼拝を献げる特別な日にしませんか。今日の礼拝にも新しい方も久しぶりの方も来てくださって感謝でした。
9月第四水曜祈祷会、秋風が気持ちのいいさわやかな一日でした。デボーションはイザヤ書11章から御言葉を学びました。北イスラエルを滅ぼすアッシリヤ帝国の滅亡を告げた後、イザヤはメシヤの来臨について預言しました。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」切り倒されてわずかに残った切り株…でも、そこから芽が出て枝になり成長して、ついには豊かな実を結ぶ。およそ絶望的だと思っていた状況に、まだ希望が残っているというのです。時代がどうあれ、世の価値観がどうであれ、神を信頼し、神の言葉に生きる者は、終わりの日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りの者を買い取られるのです。イエス・キリストは、私たちの贖い主です。「贖う」とは、「代価(犠牲)を払って買い戻す」という意味があります。私たちの救いには、キリストの命という大きな代価が支払われました。あとはその救いを感謝して受け取るだけです。神は私たちの口を強制的にこじ開けて、救いを突っ込むようななさいません。あくまで自分から心開いて救いを受け入れることをひたすら待っておられるのです。主の忍耐深さこそ、私たちの救いです。
9月第四主日、昨夜はどしゃ降りの大雨でしたが、今日はなんとか天気も守られての召天者記念礼拝でした。すでに天に召された兄姉のお写真が並べられ、御国の完全なる礼拝を覚えつつ、私たちも心からの礼拝を献げました。今日は豊橋ホサナキリスト教会の青年たちが特別賛美をしてくれて、新鎌ヶ谷聖書教会牧師の玉井邦美師がメッセージをとりついでくださいました。ヨハネ2章のカナの婚礼の奇跡から、イエスさまが『時』を定めておられること、人々を用いること、最良のものを備えておられることを学びました。玉井師は私に洗礼を授けてくださった牧師であり、義父でもあります。もう20年以上前から知っている先生ですが、相変わらずお元気で力強いメッセージでした。自分も先生の年齢までこんなに情熱的に語れるだろうか…と思いました。私自身は子ども礼拝でのメッセージを担当しました。出エジプト記32章からの難しい箇所でしたが、モーセのとりなしの祈りのところで子どもたちのお喋りが止み、真剣な顔でお話しを聞いてくれたのが印象的でした。午後からは玉井師の講演会。コロナ禍でしばらくお休みしていましたが、学びの大切さを思わされました。
今日は今にも雨が降ってきそうな曇り空でしたが、石川県では大雨特別警報が出て被害が起きています。主の守りを心よりお祈りいたします。秋までに間に合うかな…と思っていた最後の向日葵が大輪を開きました。教会横の畑には肥料を入れて冬野菜の準備です。豊橋ホサナキリスト教会の青年たちがキャンプへ向かう途中で立ち寄ってくれました。明日の歓迎礼拝で特別賛美をしてくれます。感謝です。
教会のデボーションはイザヤ書6章から。ここはイザヤが預言者として召命を受けたところです。彼が主の現臨にふれて気づかされたのは、自らの罪深さでした。もう自分は滅びるしかないと思ったその時、その罪を取り除いてくださる神に出会ったのです。私も聖書を破り捨ててしまうような人生のどん底で神の招きの声を聞きました。こんな者でも主がお入り用であれば、お従いしていきたいと思います。
残暑厳しい折、昨日は旧約聖書を学ぶ会で出エジプト記11章を、今日は水曜祈祷会でイザヤ書4章を読みました。「主はファラオの心を頑なにされ」神はファラオに強制的に神を否定するようにされるだろうか。いや、むしろ彼には自分の考えを変える機会が幾度もあった…。聖書を部分的に解釈するのではなく、文脈に即した解釈、あるいは聖書全体の一貫性から読み解く大切さを覚えました。「その日、七人の女が一人の男にすがりついて言う」神のさばきの言葉を告げる預言者の使命を思いました。ユダの繁栄の時代、人々はイザヤの言葉をどう聞いたのか。自分たちには関係がないと高ぶり続けたのか、中には悔い改める人もいたのか…。詳しい解説は動画を見て頂ければと思います。余談ですが、昨日も今日もエホバの〇〇の女性が二人組で教会の前を通られました。昨日は時間があったので、声をかけて立ち話をして頂きました。死海写本、テトラグラマトン、七十人訳聖書…専門用語がポンポン出て来て、よく学んでおられるなあと思いつつ、最後に『ところで、聖書は読んだことがありますか』と聞かれてガクッと。最初に『牧師をしています』と言ったのですが…。
9月第三主日、青く澄み渡る空の下、今日も主の御名をあがめる礼拝をささげました。礼拝メッセージはネヘミヤ記6章から。祖国エルサレムの城壁が崩れたままになっていると聞いて、ネヘミヤは断食して祈り、再建のために帰還していきました。そんなネヘミヤとともに民も再建に立ち上がりますが、外からも内からも激しい妨害に遭い、工事は困難を極めました。それでもネヘミヤは「ああ、今、どうか私を力づけてください。」と祈りつつ、こうしてついに五十二日間という驚くべき速さで完成を見たのです。ネヘミヤはすべての栄光を神に帰し、御名をあがめたことでしょう。私自身もこの教会に遣わされて18年、幾つもの神の不思議を見せていただきました。人が救われ、人生が変えられ、病が癒され、問題が解決していきました。難しいと言われていた会堂建設も教会墓地も与えられ、青年たちが結婚し、家族が与えられ、敬愛する先輩方を天に見送ってきました。これらの御業は「すべて私たちの神によってなされたこと」です。私たちの教会もまだまだ道半ば。ここまで導かれた同じ神が、これから先もさらに不思議な御業を成し遂げてくださることを信じています。
コロナ禍を通して、私たちの教会はオンラインでの礼拝を始めました(今は限定配信で行っている教会も多いようです)。それぞれの教会の事情が違うので一概にその是非を問うは難しいでしょう。確かにハイブリッド型(対面とオンライン)の礼拝は、礼拝に参加する意識を低下させ、交わりを希薄にさせてしまうことが心配されますが、私たちの教会では遠方やお年寄りの方、長く病院や施設にいて礼拝を諦めてしまっていた方々には喜んでもらえているようです。もとより礼拝に来る来ないは本人の自由意思ですから、強制されるものではありませんし、私のように25歳まで一度も教会に行ったことがなかった者からすると教会の中でどんな話しがされているのか、事前に視聴できるのは安心です。今日も教会の草花に水をあげていると、通りがかりのご婦人から『いつも礼拝を視ています』と声をかけて頂きました。また、この教会なら…と読まなくなったカルト関係に関する本を送ってくださった方もいました。オンライン礼拝を自宅で視ていて、信仰決心に導かれた方もいます。…ということで、私たちの教会は今後もオンライン礼拝を継続して行きたいと思っています。
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