今朝はzoomでの会議を終えて、今年最後の水曜祈祷会がありました。デボーションは詩篇89篇から。詩人は、苦難の中で神との契約を思い起こし、神を賛美し、その約束が永遠に変わらないことに希望を見出していきます。たとえ今は辛くても、必ず喜びの朝を迎えること、主を知っていることの幸いを心に留めました。「幸いなことよ。喜びの叫びを知る民は。」今年は新型コロナウィルスの感染症に始まり、その猛威に振り回された一年でした。でも、そうした中でYouTubeなどの新しい取り組みも始まり、新しい方々との出会いもありました。葬儀も三回行い、大切な兄弟を天に見送りましたが、皆さん天国での再会の希望があることを感謝します。今日もだれもいない会堂で、妻と二人だけの祈祷会でしたが、また、神の家族が安心して集う日が来ることを信じて祈っています。このChurch Blogも見てくださって感謝いたします。皆さま、どうか良い年末年始をお迎えください。
デボーションは詩篇88篇から。この詩篇は哀調をもって語り出され、失望の告白をもって締めくくられます。その原因は重い病気だったのか、孤独だったのか…おそらくその両方だったのでしょう。そして最大の辛苦はこの苦難の中で、主までが顔を背けておられると感じることでした。そんな耐え難い苦しみの中で、作者はこう祈ります。「しかし私は、主よ、あなたに叫び求めます。朝明けに、私の祈りは御前にあります。」心がくずおれてしまいそうな中でも、作者は主に向かって叫び求めています。どんな状況の中でも、主は必ず祈りを聞き届けてくださるという確信がなければ、この言葉は出てきません。今日はある方の召天記念会がありました。彼女は重い病気と向き合う中で、イエスさまを信じる信仰を持ってくださいました。洗礼を受ける時、「今日の日を忘れません」と言われたのを思い出しました。温かな日差しが差し込む中で、天国にいる姉妹を身近に感じました。
今日は2020年の最後の主日礼拝でした。マタイの福音書2章、東の国の博士たちの姿から救い主を捜し求め、その誕生を喜び、心からの礼拝をささげることを学びました。「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」彼らを導いた星は、BC7年の木星と土星の大接近だったのではないかとか、その前のハレー彗星だったのでは…とも言われますが、その真偽はともかく、神の導きそのものであったことは間違いありません。降誕劇などでも有名な場面ですが、あらためて礼拝者の姿勢を心に留めました。礼拝後は子どもたちと教会の横に植えてあったジャガイモ掘りをしました。まだちょっと早かったのですが…みんなで楽しく土をさわれて感謝でした。教会の方々とも、もっといろいろなことをしたかったのですが、とにかく今年は今まで当たり前だったことが、当たり前ではないことを教えられた一年でした。一つ一つ、この気持ちを大切に新しい年を迎えられたらと思います。
クリスマスおめでとうございます。今年のクリスマスは、子ども会も、祝会のポットラックも、ファミリーコンサートも…できませんでしたが、その分、ライブ配信などを通してクリスマス礼拝やキャンドルサービスに参加してくださった方々がいてとても感謝でした。いつか礼拝もYouTubeで配信できたら…とのんびり考えていたところ、今年になって一気にやらざるを得ない状況になり、その対応に追われた一年でした。そういう教会も多かったと思います。たまに他の教会の様子も参考にしますが、カメラ位置や音響など大変勉強になります(真似はできませんが…)。今日のデボーションから、羊飼いたちは王宮ではなく飼い葉桶に寝ている幼子だから訪ねていけたことが心に留まりました。コロナ禍にあって、インターネットだからみことばを聴くことができたという方たちがいるなら、それも「今日、あなたのために…」という素晴らしい恵みなのだなと思わされました。
今年はコロナ禍にあって、時間短縮と来会分散を心がけてキャンドルサービスを行いました。開始頃から小雨も降り出して寒い中でしたが、子どもからご高齢の方までともに御言葉に耳を傾け、バイオリンの調べを聴きながら賛美をささげました。旧約聖書の預言に始まり、マリヤへの受胎告知、ヨセフ、羊飼い、東の方の博士たちと降誕の知らせが告げられました。彼らは信仰を持ってその知らせを受け取り、救い主と出会う祝福にあずかったのです。そして、何より飼葉桶にお生まれになった救い主は、今もインマヌエルとして、私たちの心にもお生まれになってくださることを覚えました。パワーポイントのスライドがなかなかスムーズに動かなかったり、音が出なかったり、二部のライブ配信ができなかったり…といつもと違う苦労もありましたが、その分、主の臨在を感じながら御手の中に包まれるような集会でした。クリスマスの祝福が皆さまの上にもありますように…。
昨日の旧約聖書を学ぶ会では創世記16章から女奴隷ハガルを顧みられる主の眼差しを学びました。アブラハムの生涯の中で、突然彼女にスポットライトが当たります。主は人々に忘れさられてしまいそうな小さな者のこともお忘れにならないことを見ました。そして、今日のデボーションはルカ1:57からエリサベツとザカリヤの間に幼子ヨハネが誕生する場面。およそマリヤの受胎告知とイエスの降誕の間で霞んでしまいそうな記述ですが、老夫婦の喜びと従順な信仰が近所の人たちや親族に影響を与え、良き証しとなったことが記されていました。これもどちらかと言えばマイナー聖書人物伝とも言える記述。ただ、そういう箇所こそ等身大の自分のこととして受け止めやすいものです。ザカリヤのように信仰者であっても、時につまずき、失敗してしまうこともあります。でも、大事なのは、失敗しないことではなく、そこから再び立ち返って、主をほめたたえることです。
ディボーションはルカ1:26‐38。ナザレの田舎町に住むマリヤのもとに、突然の御使いの知らせ。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。恐れることはありません。マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。」あまりに突然のことで戸惑うマリアでしたが、信仰を持って受け止めました。それは、世間からも冷たい視線で見られ、夫のヨセフにもどう説明したらいいかわからない…大変な重荷を負うこと。でも、そんな彼女の決心が救い主誕生という素晴らしい祝福を全世界にもたらすのです。クリスマスによく耳にする讃美歌にAmazing Graceという曲があります。今日はその曲を作ったジョン・ニュートンの召天日でした。彼は奴隷商人をしている時に、荒れ狂う嵐の航海の中で回心の経験をしました。That saved a wretch like me…。人にはいろいろな場面で決心の機会があります。人生辛酸多し、されど神は愛なり。「恵み」とは神からの一方的なギフトです。
2020年のクリスマス特別礼拝を迎えました。コロナ禍にあっていつもより少し短いプログラムでしたが、クリスマスの喜びをともに覚えて心からの礼拝をささげました。ヨセフとマリヤがベツレヘムに着いたとき、そこに彼らのいる場所はありませんでした。やむなく彼らは家畜小屋に身を寄せ、そこで男子の初子を産んだのです。御使いはこの知らせを野宿で羊の群れの夜番をしていた羊飼いたちに告げました。純真な彼らはその知らせを素直に受け入れ、急いで行って、ついに幼子の誕生を最初に祝う祝福にあずかったのです。薄汚い飼い葉桶は人間の罪の心を、羊飼いたちへの御告げは福音が身分も地位も関係なく知らされることを、信じて行動する者は必ず約束のしるしを捜し当てることを表していました。毎年読んでいる箇所ですが、このクリスマスに聴くからこそ新しく胸に迫ってくるものがあります。飼い葉桶で眠る救い主は、まさに私たちのための「しるし」なのです。
今年は新型コロナの感染症が世界中で猛威を奮い、私たちの生活も一変しました。今まで当たり前だったことが当たり前ではなくなり、健康、仕事、家族、将来…に不安を感じている方も多いのではないでしょうか。でも、このアドベントキャンドルの灯はキリストを信じて生きる私たちの希望を表しています。私たちの今がどんなに暗く、孤独で、出口の見えないような不安を感じる中にあっても、まことの光である方は、この歴史と私たちの生活のただ中にお生まれになりました。罪があり、争いがあり、悲しみが耐えないこの世界であっても、神はそのひとり子をお与えになるほどに愛されたのです。クリスマスは、まさに神の愛のしるし、神の大いなる約束の成就です。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです。」救い主はあなたのためにお生まれになりました。ぜひこの本物のクリスマスを教会で迎えましょう…。
今年はコロナ禍にあって英会話クラスがオンラインでになることもありましたが、最後は二つのクラス合同で持つことができました。最後のクラスは互いのクリスマスの思い出などを英語で分かち合いながら、講師のレイチェルさんからはオーストラリアの真夏のクリスマスの様子などもうかがうことができました。今日はいつも和気あいあいの受講生の皆さまに感謝を込めて、クリスマスの食事とケーキを用意したかったのですが、それは叶わず…。その代わりに、レイチェルさん手作りのセットと衣装で、Nativity(キリストの降誕物語)のスキットをちょっとだけ体験していただきました。聖書を立体的に体感することができて、童心に帰ったような思いでした。子どものような素直な気持ちで、自分の思いを表現するのは英会話にとっても大事な要素です。今年もお世話になりました。次の冬期クラスは2021年1月14日から開講です。良いクリスマス&新年をお迎えください…。
水曜祈祷会はホセア書11章から。背信の民イスラエルに主の裁きの言葉が告げられる中、突然、愛する者たちを呼ぶ主の御声が響き渡ります。「わたしはどうして…あなたを見捨てることができるだろうか。」初めの愛を忘れ、頑なになっている民を見ながら、主はあわれみで胸が熱くなっているというのです。この主の燃えるような愛が、すべての人に注がれていることを思いました。このクリスマス、私たちの救いのために人となってこの世に来られた主イエスのご降誕を一人でも多くの方と一緒に喜び合いたいものです。午後からはKFSMミーティングがありました。Zoom参加者も入れて7人でしたが、今年一年を振り返り、新たな年の展望を語り合いました。コロナ禍にあって、先のことはまだ見えにく状況ですが、次世代宣教の働きも待ったなしの状況です。児童養護施設に送るクリスマスギフトパックも500足を超えるくつ下が集まりました。皆さまの愛を感謝いたします。
今日のデボーションはホセア書9章から。「イスラエルよ、喜ぶな。諸国の民のように楽しむな。あなたは自分の神に背いて姦淫したからだ。」まことの神から離れて、バアル礼拝に心惹かれて行くイスラエルの民に、ホセアは神のことばを告げました。バアル礼拝がどんなに魅力的でも、偽物の神の祝福は一時的で、本物の神の祝福にあずかることはできません。当時のバアル礼拝は性的祭儀も含む、みだらな祝祭だったようです。もはや見捨てられても仕方のないような民に、神は徹底して悔い改めを迫りました。「その根は枯れて、実も結ばない。」花を咲かせ、実を結ぶためには、体裁をちょっと整えるくらいではダメで、根も土も根本的にやり直さないといけない場合があります。まさにイスラエルの罪に対する神の厳しい裁きも、愛の裏返しとして読めるのではないでしょうか。実り多い者となるために…。今日も立ち返るなら、主は豊かに赦し、造り変えてくださるのです。
アドベント第三礼拝を迎えました。今まで以上の感染対策をして今日から会堂に集まることが再開されました。近い距離でゆっくり話す時間はありませんが、それでも互いに顔を合わせて礼拝をささげられることが幸いです。メッセージはルカ1:46‐47、マリヤの信仰から。まだ幼き少女マリアが、突然の御使いの知らせを受け、戸惑いながらも信仰を持って応えて行く姿は、何度読んでも新しく教えられます。「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」それは易々と言える言葉ではなかったでしょう。でも、神のことばが自分に成就することこそ最善だと受けとめていったのです。そのように信仰とは、決断し、主にゆだね、確信していくことを覚えました。私たちも受け入れ難い現実の中にも、主の御旨を受け取っていきたいものです。今日も児童養護施設に送るクリスマスプレゼントがたくさん送られてきました。ご支援くださった皆さまに心から感謝を申し上げます。
新型コロナの感染者数が依然として高止まりする中ですが、私たちの教会も次の日曜日から来会を再開することになりました。もちろん、健康に不安のある方や風邪症状のある方には自宅での礼拝をお勧めします。感染症対策には今まで以上の注意が必要です。人数の制限は設けていませんが、座席数も少なくしました。ご近所の方と立ち話しで、『今年のイブ礼拝はどうなりますかね…』と聞かれ、ライブ配信は行いますが、来会についてはまだ確定していないのが心苦しく思いました。「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。」今朝のみことばは、そんな私の心を主がご覧になって励ましてくださっているように思いました。「神を待ち望め」まさしくアドベントにふさわしい言葉です。どのような状況でも神をほめたたえることの大切さを教えられました。
今日も新型コロナの新規感染者数は全国で2973人と過去最多になりました。政府が示す『勝負の三週間』の効果は表れず、感染増加に歯止めがかかりません。神はこうした状況をどう見ておられるのか…とそんな声も聞こえてきます。今朝のデボーションの箇所はホセア6章から。「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒し、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」こんな時に何もしてくれない神なら信じる価値なしと思うとしたら、その逆の時はどうだったでしょうか。豊かさの中で、平穏な生活が当たり前となって、神への感謝を忘れていたということはないでしょうか。ありふれた家族の日常も、仕事も学校も教会も、何の妨げもなく普通に行き来できる生活を、失って初めてその恵みに気づかされるということもあるように思います。不要不急の外出を控える今こそ、静まって聖書の御言葉、そのメッセージに耳を傾けることをお勧めいたします。
水曜祈祷会はホセア書5章から。北イスラエルは経済的・物質的に繁栄の時代を迎えていましたが、その一方で、宗教的・道徳的には社会的腐敗をもたらしていました。神はこのようなイスラエルの背信に対し、厳しい裁きを宣告されました。それはまさしくイスラエルの滅亡です。しかし、そうした言葉の中にも、神は絶えずイスラエルがご自身の民であることを宣言され、悔い改めて、神に立ち返るように告げられたのです。「わたしは自分のところに戻っていよう。彼らが罰を受け、わたしの顔を慕い求めるまで。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求める。」真の悔い改めとは、主の御顔を慕い求めること、的外れな生き方を方向転換し、生ける神との人格的な交わりをもって歩むことです。主の懲らしめの目的は裁きではなく、一人でも多くの民が救いにあずかることでした。コロナ禍の中で揺さぶられる信仰者のためにも、インマヌエルの主はとりなして祈っておられるのです。
アドベント第二週を迎え、二本目のローソクに火が灯りました。マタイの福音書にはイエス・キリストの誕生について、婚約中のマリヤとヨセフのことが記されています。ただマリヤについての記述は少なく、聖霊によって身ごもった事実だけがありました。一方のヨセフはこの事実をどうするか思い巡らす中で、主の使いが夢に現われ、神の御旨を告げられました。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリヤをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。」思いがけない事実を知らされ、ヨセフはどんな心境だったのか。自分ならどう考えるだろうか。短い文章の中にさまざまな思いが浮かんでくる箇所です。結論として、ヨセフは信仰を持ってこのことを受け止めていきました。この二人の信仰の決断が素晴らしい救い主の誕生を見るのです。その名はインマヌエル…(神が私たちとともにおられる)という約束は何にも代えがたい私たちの希望の光です。
木曜日のハートフル英会話・冬期コースも残り三回となりました。今日はレッスン後のチャペルタイムで、レイチェルさんのメッセージを聴きながらアドベントキャンドルを作りました。皆さん、和やかにきいてくださり、短時間にとても良い作品ができました。アドベントとは日本語で『到来』を意味する言葉。クリスマスまでの4週間の期間を指します。日曜ごとにローソクに一つずつ火を灯しながら、クリスマスを迎えます。クリスマスが待ち遠しいという方もいれば、早く過ぎてしまえばいいのにと思う方もおられるでしょう。華やかであればあるほど、孤独や虚しさが増してくる方もおられると思います。それでも今年もクリスマスが来るということは、神がこの世界に希望を持っておられる証しです。クリスマスにみんなで一緒に礼拝を献げたい、新しい方々をお招きしたい、洗礼式を行いたい…いろいろな人間的な思いはありますが、望みを抱いて待ち望みたいと思います。
今日の水曜祈祷会には五名の方が来てくださいました。三密にならないように十分に配慮しながら、ともに詩篇86篇を学びました。詩人は追い迫る苦難の中から、主にあわれみを求めました。苦難とは、神に従おうとしない高ぶる者たちが、自分の命をつけ狙っていることでした。状況に振り回されそうになる中で、詩人は冷静な心で行動できるように主に祈り求めました。「主よ、あなたの道を私に教えてください。…私の心を一つにしてください。」自分を含めた人間が考える方法ではなく、主の御心を求めて、自分の心が揺れ動かないようにとの願いです。今日のコロナ禍においても、様々な情報が溢れ、何が正しい行動なのかが見えにくくなっているように思います。大阪府は新たに427人の新型コロナの感染が確認され、重傷者は過去最多の131人とのこと。今後ますます、一人一人に責任ある行動が求められますが、何より主の最善の道が示されるように心から祈っています。
大阪府の新型コロナの感染拡大がなかなか収まりません。人口当たりの新規感染者数や療養者数などの指標は東京を上回り、医療崩壊も現実味を帯びてきました。こうした状況に私たちの教会では主日礼拝の来会自粛をお願いしていますが、なんとも寂しいアドベントを迎えています。寂しいのは箕面だけじゃないと思いながら…他の教会の様子も聞いてみると、意外に通常の感染対策で礼拝をしているとのことで地域差があるのを感じます。確かに連日のように感染者数の増加や観光地や繁華街が人で賑わっているテレビ中継を見ると、三週間で収束に向かうというのは考えにくい状況です。今日のデボーション「聞かせてください、主である神の仰せを。」の言葉が心に留まりました。この状況を、主はどうお考えなのか、私たちはどう動けばよいのか…。感染者の方々、医療従事者の方々、業績不振に陥っている方々、被災地の方々を覚えて、祈らずにはいられない日が続きます。
今年もアドベントを迎えました。今日の礼拝はマタイの福音書1:1から。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。」多くの方がこの後のカタカナの名前の羅列に戸惑いを覚えるものですが、この系図には福音書全体の主題とも言える重要なメッセージがありました。注目したいのは、四人の女性たちの名前とダビデ以降の王たちの名前。彼女たちに共通するのは、姦淫、遊女、異邦人というユダヤ人にとっては不名誉とも言える問題を抱えていることです。また、ダビデ以降の王たちも、わずかな例外を除いてほとんどが偶像礼拝に陥ってしまった悪しき王たちでした。普通なら除外したくような名前をマタイはあえて記しました。それは、この方が約束の成就として、罪人の子孫として、すべての人のために来られた救い主であることを表わすためです。私たちも信仰によってこの恵みの系図に入れられていることを感謝しつつ、アドベントを過ごしたいと思います。
朝の会議を終えてカーテンを開けると、外は爽やかな青空が広がっていました。教会もアドベントを迎える準備が進んでいます。いつもなら地域に案内をお配りして、喜びの知らせをお伝えする時期ですが、今はコロナの感染者増加に伴い、来会も自粛でそれもかないません。福音書には、イエスさまと一緒に湖に舟をこぎ出した弟子たちが突風に煽られ、今にも転覆してしまいそうになる記事があります。弟子たちが慌てふためく中、主は眠っておられました。その姿は私たちが人生の危機に直面した時の姿と重なります。なぜ主は何もしてくださらないのか。そんな主なら、どこに信じる意味があるのかと問いたくなります。それでも「主よ、助けてください」と叫ぶ弟子たちに、主は言われました。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」主は起き上って風と湖を叱りつけ、嵐を静められました。大事なのは、主は何より不信仰な弟子たちの叫びに応えてくださったことです。
今日もハートフル英会話がありましたが、大阪府の新型コロナの感染状況は緊急事態宣言を視野に入れるステージ4に迫っているとのこと。距離をなるべく取りながらのクラスですが、さらなる慎重さが必要になってきました。私たちは苦しみや悲しみに出逢う度に、『神よ、どうしてですか』と思わずにはいられません。人はなぜ苦しまなければならないのか…その原因と意味が知りたいのは人類共通の思いです。イエスさまが生まれつき目の見えない人に出逢われた時も、弟子たちは彼の盲目の原因について質問しました。彼らの考え方は、基本的に因果応報(ヨブの三人の友と同じ)の思想でした。でも、イエスさまの考えは違いました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためである。」苦難の原因は与えられませんでしたが、いかなる苦難も、主にあっては、はっきりとした意味と目的を持ち得ることを教えてくださったのです。
水曜祈祷会はエレミヤ書51章から。バビロンに対する裁きの預言が続きます。主がこの預言がエレミヤに告げられた時、バビロンはまだ繁栄を誇り、イスラエルの民は絶望の淵を歩んでいました。それまで彼らは『主のさばきなどどこ吹く風…』と言わんばかりに、度重なる呼びかけを無視していました。しかし、その時は突然訪れ、エレミヤが告げた通りにバビロンによって自国は滅び、エルサレムの町も陥落したのです。自分たちの愚かさとみじめさを主に叫び続けたことでしょう。そんな彼らにとってバビロンの滅亡の預言は、まさにイスラエルの民の回復の預言でもありました。現状からは、その預言を信じるのは容易ではなかったでしょう。でも、エレミヤは言いました。「さあ、私たちはシオンで、私たちの神、主のみわざを語ろう。」神のことばが希望を指し示していました。今、目に映る状況は厳しくても、主の信頼する者はやがてその御名を証しする時が来るのです。
デボーションはエレミヤ50章から。主はバビロンの王ネブカドネツァルを用いて、イスラエル国家の滅亡、エルサレムの陥落、捕囚…そして周辺諸国の裁きを行われました。もちろんネブカドネツァルは、すべて自分の力によるものと思い、驕り高ぶりました。でも、主はいつまでもそれを見過ごしてはおられず、ペルシャの王クロスを立てて、バビロンを滅亡させられるのです。バビロンに対する審判の日は、イスラエルの民にとっては回復と救いの日を意味していました。まさに第二の出エジプトの預言です。「わたしはイスラエルの民をその牧場に帰らせる。その日、その時ー主のことばー…わたしが残す者を、わたしが赦すからだ。」この預言を素直に聴いた人々は、現実がどれほど辛く苦しいものでも、トンネルのかなたに明るい出口が見え始めたように思ったでしょう。「神は正しい者も悪しき者もさばく。そこでは、すべての営みとすべてのわざに、時があるからだ。」
11月第四主日、礼拝メッセージはヨブ記の後半部分から。沈黙を続けてこられた主がついに嵐の中からヨブに語りかけられました。それはヨブの疑問に答えるというのではなく、逆にヨブに応答を迫る展開です。主はご自身の摂理を明らかにし、ヨブの高ぶりを示されました。ヨブも、神を批判し、神を自分の考えにあてはめて、神を裁こうとしていたことに気づかされました。そして、一つの結論に至ったのです。「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能がないことを、私は知りました。」ヨブは苦難を通して、主の御声を聴き、主と親しく出会い、主との交わりをより一層深めました。主はヨブの苦難の意味を直接語ることはありませんでしたが、今のヨブにはそれで十分だったのです。私たちも人生の嵐のような苦難の中を通らされることがあっても、そのただ中におられる主の御声を聞いて、平安を頂き、再び立ち直らせて頂こうではありませんか。
昨今の新型コロナの感染者数の急激な増加を鑑みて、明日の礼拝から来会自粛をお願いすることになりました。今、礼拝ではヨブ記から学んでいますが…ヨブは潔白で正しい人だったのに、サタンの手によってこれ以上ないほどの禍いに遭いました。神はその状況を許されたのです。でも、財産と子どもたちと健康とを失えば、ヨブが神を呪うに違いないというサタンの思惑は外れ、ヨブは信仰に立ち続けました。但し、本当の苦難はそれからでした。励ましに来たはずの友人たちから神に悔い改めるように迫られるヨブ、自分の正しさを訴え続けるヨブに、神は沈黙されたままでした。次の礼拝ではその続きを学びますが…私たちの祈りが聞かれようと聞かれまいと、神が正しい方であることをヨブ記は教えているように思います。投げ出したくなるような苦難の中にある方に、主の御声が聞こえてきますように、そこでさらに深く親しく主を知ることができますように祈っています。
今日の日中は25度を超える温かさでしたが、新型コロナの感染者は全国で2327人という過去最多を更新しました。これから12月にかけて…ますます心配です。ある方の『神は祈りを聞かれますか』という質問に『はい、もちろんです』とすぐに答えましたが、『では、なぜ…』という返しに、言葉が詰まってしまいました。神だけが理由をご存知です…聖書にそう書いてあります…15年も牧師をしているとある程度の答えはできますが、きっと納得はされないでしょう。確かなことは、神は何でもおできになりますが、あえて何もしないで見ておられることもあることです。私事ですが…数年前、あれこれ仕事をやり過ぎて体のケアを怠った結果、緊急入院したことがあります。早く退院せねば…という私の頭に思い浮かんだのは主イエスの十字架の場面でした。あの時のイエスさまの祈りも、父なる神はただ黙して聞いておられました。私たちには知り得ないもっと大きな目的のために…。
水曜祈祷会はエレミヤ書47章から。イスラエルの周辺の国々がバビロン軍によって滅ぼされていく様子が続きます。ペリシテ人は長年イスラエルを悩まし続けてきた民族でした。主はそんな彼らを容赦なく破滅させたのです。主の預言は時至って必ず成る、禍は主の御旨が実現するまで終わらないことを思いました。デボーションの後、私たちに起こる出来事も主の許しの中で起きているなら、それらをどう受け止めるべきかを話し合いました。「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。これもあれも、神のなさること。」順境よりも逆境こそ人は訓練され成長します。それも真理の一面ですが、それだけでは済まされないことも多くあります。また、苦難の意味は死後にわかると言われても、今苦しんでいる人からはそれでは遅すぎると言われるでしょう。神のなさることなら、なぜ…と悩み苦しむ私たちに、主はその時こそわたしはともにいると言われるのです。
デボーションはエレミヤ45章から。預言者エレミヤには、そのことばを書き留める忠実な助手のバルクがいました。バルクは名門の出で、教養も豊かな人物だったと言われていますが、本書では終始エレミヤの陰になり、自分を前面に押し出そうとはしませんでした。エレミヤはそんなバルクの存在にどれほど助けられていたことでしょう。ただ、45章にはそんなバルクの心の声がほんの少し垣間見れる言葉がありました。「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。」若き日のバルクが、エルサレムの陥落を見ながら主のために何か野望を抱いていたのでしょうか。その真意はわかりませんが、主はそんなバルクの心の声をしっかり受けとめた上で、彼の命の保証を与え、ご自身のわざを推し進めることを約束されたのです。北海道、東京、大阪をはじめ、国内外でコロナの新規感染者が急増し、第三波が懸念されています。皆さまもどうぞご自愛ください。
11月第三主日、礼拝メッセージはヨブ記の本論から。ヨブの災いを聞いてお見舞いに来た三人の友人。彼らは想像を絶するヨブの苦難に声をかけることもできません。長い沈黙を破ったのはヨブの嘆きの言葉でした。自分が生まれてきたこと自体を否定するヨブ…。そんな彼に三人の友人が次々と自分の考えを話し出します。彼らの主張の根底には因果応報的な考えがありました。つまりヨブの苦しみは罪の報いだということです。ヨブはそんな彼らに自分は正しい、潔白だと主張します。かみ合わない論争がしばらく続き、最後にもう一人の友人エリフが登場してきました。彼が注目したのはヨブが神よりも自分の方を正しいとしていることでした。三人の友がヨブの苦難の原因を過去に見出そうとしているのに対し、エリフは未来の視点からその意味を弁論したのです。苦難の中にいる者に必要なのは、助言者よりも弁護者、神の約束である未来の希望を指し示す者なのでしょう。
デボーションはエレミヤ42章から。ヨハナンの言葉通り、ゲダルヤはイシュマエルたちによって暗殺され、それを知ったヨハナンたちはイシュマエルを追跡しますが、まんまと取り逃がしてしまいました。こうした状況で、ヨハナンたちはバビロンの王を恐れて、エジプトに逃げようと考えますが、まずは預言者エレミヤに神のことばを尋ね求めたのです。一刻も早く行動しなければという彼らに、静まって、神のことばを待つことが示されました。「十日たって、主のことばがエレミヤにありました。」十日の後、エレミヤは彼らに「バビロンを恐れるな」とユダの地にとどまるように告げました。しかし、彼らはすでに心を決めていて、最初に「主が…告げられることばのとおりに、すべて行います。」と言っておきながら、結局「主の御声を…聞こうとしなかった。」というのです。大事な決断をしなければならない時こそ、静まって祈り、神のことばを待ち望む時間が必要です。
今日の水曜祈祷会はエレミヤ書40章から。ついにエルサレムの神殿が陥落し、多くの民が捕囚としてバビロンに連れて行かれました。エレミヤもその中にいましたが、バビロンの王ネブガドネツァルによって釈放され、あなたの面倒を見ようとまで言われました。エレミヤには、このあとはバビロンに行くもよし、エルサレムに残るもよし、「あなたが行ってよいと思う、気に入ったところへ行きなさい。」という選択の自由が与えられました。これによる彼の判断は「その地に残れた民の間に住んだ」、つまり荒廃したエルサレムにとどまり、貧しい残された民とともに住むというものでした。自分にはまだこの地で残された使命があるという判断だったのでしょう。どこまでも主の御心に生きようという思いが伝わってきました。私たちも主が命を与えてくださっている限り、今いるところで成すべき使命があります。主は自分に何を望んでおられるのかを考えたいと思わされました。
デボーションはエレミヤ書39章から。偽預言者たちの言葉に欺かれてきたユダの指導者と住民は、エレミヤこそ真の預言者であることを知らされる時を迎えました。ついにエルサレムの陥落とバビロンへの捕囚が起こり、そうした混乱の中にもエレミヤとエベデ・メレクは守られていきました。それは彼らが主を信頼していたからです。昨日は関西キリスト災害ネットワーク第三回懇談会がzoomでありました。災害が起きる前に、普段から教会間のネットワークを構築することの難しさと大切さを学びしました。何も起こらないことに越したことはありませんが、もしもの時のために備えが必要です。そして今日は今年度最後の関西宣教区・運営委員会がありました。同労の先生方との終始和やかな交わりでしたが、今年度の決算や来年度の予算など重要な案件も続き、少々くたびれて帰ってきました。明日の水曜祈祷会をして、今夜は早く休もうと思います。皆さまもご自愛ください。
11月第二主日、礼拝メッセージはヨブ記の序章から。神を恐れ悪から遠ざかっていたヨブがなぜこれほどの苦難にあわなければならなかったのか。この深淵なる書を読む上での手掛かりは、繰り返し出てくる「わたしのしもべヨブ」という言葉です。それは神とヨブとの契約関係(信頼関係)を表わしています。神の恵みとあわれみの中を歩んでいたヨブ。サタンは、それは彼が家族も財産も祝福されているからだとご利益を強調しました。神はこのサタンの挑戦を受け入れ、ヨブに災いが及ぶのを許されました。私たちはここを読んで、神はなぜヨブを守ってくださらなかったのかと思ってしまいます。でも、その理由はわかりません。ただわかっているのは、ヨブはこれだけの災いに遭いながら、サタンの思惑通り、神を呪うことはなかった(信仰から離れなかった)ことです。言い知れない苦難の中で、神がすべてを知っておられる…それがヨブの慰めだったのではないでしょうか。
今日は久しぶりにゴスペルボックスが来てくれました。土曜日の朝、小雨も降る中でしたので、来客は少なかったかもしれませんが、また新しい出会いが与えられて感謝でした。ゴスペルボックスは全国を走り回って10数年たつそうですが…確かにそばでよく見ると、あちこちに傷や痛みがありました。重たい書籍を積んで、全国各地を巡るというのは大変な働きです。インターネットの時代ですから、こうして実際に本を手に取って、店員さんとあれこれ話しながら買い物をするという機会は少なくなっているのでしょう。でも、今日またあらためて文書伝道の働きは尊い働きだと思わされました。一合一会、行く先々で神のご計画があって、本との出会いを待っている方がいます。しばらく教会から離れていた方が、街で見かけたゴスペルボックスを通して、また教会に通い出したというお証しも伺いました。明日の日曜日に来てくれるのが一番でしたが、次を期待したいと思います。
デボーションはエレミヤ書36章から。エレミヤに次のようなことばがありました。「あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。」その理由は民が悪の道から立ち返るなら、主も罪と咎を赦すことができるからです。私たちは今日も聖書を通じて神のことばを聞くことができる幸いを思います。聖書のメッセージは時に、一筋縄ではいかないところもありますが、その根底に流れる神の溢れる愛を感じながら日ごとに聞いていくことが大切です。明日の礼拝からは旧約聖書ヨブ記をシリーズで聴いて行く予定です。『神がいるなら、なぜ悪があるのか。善人がなぜ苦しまなければならないのか。』古代から現代まで人類が問い続けてきたこの深淵なるテーマを聖書から一緒に学んでいきましょう。ぜひお近くの教会に足をお運びください。
今日のデボーションはエレミヤ35章から。エレミヤ書は時系列ではなく、時々時代が前後するので注意が必要です。「エホヤキムの時代」とあるので、南ユダの最後の王ゼデキヤの二世代前のこと。そこではまず、レカブ人の家の子らが先祖の教えを忠実に守り続けていることが記されています。時代や周囲がどんなに変わっても、彼らはその生き方を変えませんでした。神はそんな彼らの忠実さを称賛されたのです。それに比べてユダとエルサレムの人々は「わたしがたびたび語っても、あなたがたはわたしに聞き従わなかった。」と告げられました。そうした不忠実さのゆえに、神はエルサレムの陥落とユダの滅亡を宣言されたのです。主イエスも言われました。「小事に忠実な人は大事にも忠実である。」それはだだの一つも罪を犯してはならないということではなく、神の前に忠実でありなさいということです。自分にとって小事に忠実であるとは何かを考えさせられました。
11月の第一水曜祈祷会はエレミヤ書34章から。バビロンから全軍勢がエルサレムと町々に進軍していた時、エレミヤにユダの王ゼデキヤにもとに行って主のことばを告げよという命令が下りました。エレミヤはこの危険が伴う使命にすぐに従います。「わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。…ただ、主のことばを聞け、ユダの王ゼデキヤよ。」ゼデキヤに最後の主のことばが告げられると、王はエルサレムにいる民と契約を結び、奴隷解放宣言をして、主の目にかなうことをしました。ところが、バビロン軍が攻撃の手を緩めると心を翻して奴隷を連れ戻し、再び強制的に働かせたのです。まさに手の平返しでした。こうして主のことばに従わなかった王と民には主の厳しい裁きが宣告されていくのです。「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。」主のことばを聞いて行うとはいかなることかを深く考えさせられる祈祷会でした。
11月1日(日)第一主日礼拝、メッセージはエステル記4章からでした。ユダヤ人が重んじる『プリムの祭り』のもとになった記述。「あなたが王妃の位についたのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」養父モルデカイに育てられ、孤児だったエステルが王妃として選ばれ、ユダヤ人を苦難から救った壮大な物語。二人の信仰から、神は私たちに一人一人に使命を与えておられること、また、私たちは神の召命に応える時があることを心に留めました。今日は私の体調不良で、オンラインで礼拝をささげて頂くことになりました。金曜日ごろから、のどの痛みと咳が出始め、念のため医者にも行き薬をもらって安静にしていたのですが、大事を見て…そのようなお願いをさせて頂きました。礼拝に来る予定をされていた皆さまには大変ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。
日々のデボーションは詩篇83篇から。「神よ、沈黙していないでください。黙っていないでください。」それは神への期待があるからこその言葉です。私たちは物事が順調に進んでいる時は神のことはあまり意識しないのに、一度…雲行きが怪しくなり、嵐の中に巻き込まれると神は何もしてくれないのかと不平をつぶやくものです。『健康は失って初めてその価値に気づく』というのと似ているのかもしれません。苦難の人ヨブは「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。」と言いました。神の御心は短い時間の中では認知できず、しばしばその逆のようにさえ感じられることもありますが、人生の長い時間をかけて見るとき、神は最善に導いてくださっていたことに気づかされるものです。押しつけではなく…この偉大なる神を、苦難の中を歩んでいる一人でも多くの方が知り、期待を込めてその名を呼び求められますように心から祈っています。
今年で10回目となるキッズ&ファミリーフェスティバルが始まりました。今年はコロナの影響を鑑みて、会場に集まるのではなく、三日間YouTubeでの配信となりました。超教派の牧師たちや信徒の皆さんが協力し、互いの賜物を分かち合って、手作り感のあふれる温かい集会を準備できたように思います。非常事態宣言が発出する中で、それぞれの教会も大変で…一時は開催を断念することも考えましたが、こうした状況だからこそ子どもたちの励ましになるようなフェスティバルをしたいという思いが与えられました。「ステイ ホーム」が叫ばれる中で、「ステイ ジーザス」(イエスさまにとどまろう!)をテーマにオリジナルソングも完成し、豪華なゲストも決まりました。こうした働きは見えない部分で、祈り、仕え、捧げてくださる方々がいるからこそ、良い集会になっていきます。今日から三日間、ぜひ皆さまの熱いお祈りに覚えていただき、ご視聴いただければ幸いです。
今日の水曜祈祷会はエレミヤ31章から御言葉を学びました。「見よ、その時代が来るー主のことばーそのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。」神に背を向け、自ら契約を破って国が滅ぼされ、バビロンに連れて行かれたユダの民に、回復の預言が告げられました。それは以前のような石の板に書いた契約のようではなく、あなたがたの心に書き記す新しい契約です。神はこの契約をもって、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。…わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさない。」と約束をされました。神の契約は常に神の一方的な愛の表われです。その600年後、イエスさまは十字架にかかられる前に弟子たちに言われました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」この永遠なる神の愛は、まさにその時代が来ると言われた今日を生きる私たちにも注がれているのです。
久しぶりにThe Farm に行きました。ぶどうの実がたわわになって、すっかり景色も秋冬に変わっていました。クリスマスに向けて、教会のアサガオもそろそろ植え替え時期です。さて、今日は旧約聖書を学ぶ会がありました。教会には三人の方が来てくださり、オンラインでも数名の方が参加してくださったようで感謝でした。創世記14章はアブラムの物語の中でも不思議な記述です。連合軍vs連合軍の大戦が勃発する中、アブラムのもとに甥ロトが巻き込まれてしまったという知らせが届きました。アブラムはロト救出のために少数精鋭で連合軍に夜襲をかけ、見事に勝利を得たのです。すると彼の凱旋をソドムの王とサレムの王メルキゼデクが迎えます。メルキゼデク…なんとも不思議な人物でした。そしてサレムの王には持ち物の10分の1を与え、ソドムの王には「糸一本…さえ取らない」ときっぱりと答えた、そんな勇者であり、信仰者であるアブラムの姿に教えられました。
今日は秋の歓迎礼拝としてhi-b.aスタッフの鈴木雅也師をお迎えしました。ローマ12:1~『良き夫、良き妻として』と題してメッセージを語ってくださいました。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。…この世と調子をあわせてはいけません。むしろ…自分を変えていただきなさい。」主にささげること、主によって変えていただくこと、神と私たちの関係から、私たちと隣人との関係まで、様々なことが心に留まりました。礼拝後のグループタイムでも、それぞれの感想を分かち合い、メッセージをより深められたように思います。おかげで私も普段から気になっていた二階の子ども礼拝にも参加することができ、自分の作った動画に子どもたちが応答してくれている様子が見れて新鮮でした。同時に、見守りの先生方のご苦労も知ることができて、今後の課題についても考えさせられました。今日もまた恵みにあふれる一日を感謝です。
デボーションはエレミヤ29章から。ついに南ユダはバビロンによって滅ぼされ、多くの民が捕囚として連行されました。それはまさに神の審判です。エレミヤはバビロンで絶望的になっている同胞の民に手紙を送り、「その町の平安を求め、その町のために祈れ。」と告げました。すなわち、どんなに幸い薄く見える日にも望みを失くしてはならないということです。神は私たちの罪を責め、正しく裁かれる方であると同時に、私たちの罪のためにイエスさまを遣わし、その方を救い主として受け入れる者に赦しを与えてくださる愛なる方です。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている。ー主のことばー。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」明日の礼拝は秋の歓迎礼拝。特別講師に鈴木雅也師をお迎えします。神さまからあなたへの将来と希望のメッセージを…ぜひ期待してお越しください。
今日の水曜祈祷会ではエレミヤ書26章を読みました。エレミヤは神殿の入口に立って、主のさばきのことばを忠実に語りました。「彼らがそれを聞いて、それぞれの悪の道から立ち返るかもしれない。そうすればわたしは、彼らの悪い行いのために彼らの下そうと考えていたわざわいを思い直す。」エレミヤの懸命な呼びかけにも、祭司や預言者たちはかえって怒りを燃やし、「この者は死刑にあたる」と首長たちに訴え出ました。正しいことを語ったがゆえに命の危険にさらされていくエレミヤ…。でも、そんな彼の真実な生き方に心打たれ、中には彼をかばい、殺されないように助ける者も現れました。孤独の中にいたエレミヤはその行動にどれほど励まされたことでしょう。そんな彼の姿は、祭司長や律法学者たちから迫害されるイエスさまの姿にも重なります。人を恐れて本当の神のことばを語れるでしょうか。人を恐れず、真実を語る者こそ主の臨在を身近に体験するのです。
10月第三主日、礼拝ではⅡ歴代誌20章からヨシャファテ王の信仰を学びました。南ユダのヨシャファテは晩年、3つの国の連合軍に攻めこまれました。もはや万事休す、絶体絶命の状況にヨシャファテは恐れを抱きますが、そこで慌てふためくのではなく、民を代表して主に助けを祈り求めたのです。「私たちの神よ。…攻めてくるこの大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいのか分かりません。」彼が王としてのプライドを誇示し、この期に及んでまだ自力で何とかしようと思う人なら、こうした言葉は言わなかったでしょう。主はそんな彼のひたむきな祈りに応えられました。「恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである。」彼らが喜びと賛美の声をあげ始めると、主は伏兵を設けて彼らを打ち負かされたのです。祈り、信頼、賛美、この三つが苦難に打ち勝つ秘訣であることを心に留めました。
デボーションはエレミヤ書23章から。偽預言者たちは、自分の心にあるものを「私は夢を見た」と言って、神から預かった言葉のようにまことしやかに語り、民を惑わしました。でも、主は言われました。「わたしのことばを受けた者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。」いつの時代も、キリスト教の異端は、偽りの言葉を語り、神の名を巧みに用いて真理でないもの真理だと語り、人々を惑わします。このコロナ禍においてもそうした相談が後を絶ちません。何をもって『異端』と判断するかは難しい問題ですが、まずは家族にもきちんと話せるオープンな信仰生活を送れているかを確認してほしいものです。そして、何か心配事があるなら、思い切って第三者に相談してみることです。今日は夕方に若い新婚のカップルが立ち寄ってくれました。二人とも神と教会に仕える忠実な献身者です。少し慌ただしい一日の中で、温かく、ホッとする時間でした。感謝します。
M.ルターは『人にはそれぞれBeruf(神から与えられた仕事)がある。それは、聖職だけでなく、あらゆる職業がBerufに応えることである』と言いました。そして、今やベルーフは普通に『職業』を指す言葉として使われています。どんな職業にも大変な面があり、時には虚しさを覚えることもあるものです。でも、これも神の召しに仕えることと思っていく時に、また違った思いが湧いてくるのかもしれません。エレミヤの預言者という職業も、口では言い表せない苦難の連続だったことでしょう。それでも主は、そんな彼の心が折れないように、彼を励まし、希望の言葉を与えたのです。「見よ、その時代が来る。…そのとき、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。…天にも地にも、わたしは満ちているではないか。」イエス・キリストは、まさに彼を信じる者たちに希望を与えるために来られました。苦難の中にいる私たちから、主は決して遠く離れてはおられないのです。
今日の水曜祈祷会はエレミヤ書22章から。主はエレミヤをユダの王のもとに遣わして、ご自身の言葉を語れと命じました。預言者の使命は、神が語れと言われたことを語らなければならないということです。それで自分の評価が落ち、人から悪く思われても、正しいことを正しいと語れる人はいつの時代も必要です。「主はまことにこう言われる」再三語られる主のことばにも、ユダの人たちはまともに聞こうともせず、神に背を向け、ほかの神々に仕えていきました。預言者としてのエレミヤの孤独も思いますが、一方で、裁き主である神の心中もいかばかりだったかと思います。裁きが決定事項であるなら、もはや何も言う必要などないにも関わらず…厳しい言葉を語り続けるのは、民に知ってほしいという思いがあったからにほかなりません。ぶどう園の万人が「どうか、今年もう一年そのままにしておいてください…」と主人に懇願するイエスさまのたとえ話を思い出しました。
今日のデボーションはエレミヤ書21章から。「わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。」あなたはいのちの道を選びなさい…という言葉が続いて聞こえてきそうな箇所です。何かを選ぶことは、結局、何かを捨てることです。何を選ぶか…。キルケゴールは人間には死に至る病があると言いました。生きながらにして絶望しかない人生を歩むのは辛いものです。教会にも時々そうした方が来られることがありますが、少しお話を聞き、一緒にお祈りしますと、幾分落ち着いて帰られる方もおられます。コロナ禍の影響もあってか…今秋は自ら死を選ぶ方の数も増えているそうです。主はこの現状をどう見ておられるのでしょうか…。なんとも胸が痛みます。今日は午後からずっとZoomでキリスト全国災害ネットの会議でした。九州豪雨災害の報告から、コロナ禍における支援の難しさ、また、新たな方策について有意義な意見を伺いました。さぁ明日は水曜祈祷会です。
10月第二週は出エジプト記14章から。イスラエルの民はエジプトの奴隷状態から救い出され、数々の御業を体験してきました。でも、主はそんな彼らを約束の地に向かう近道ではなく、葦の海を渡る荒野へと導かれたのです。それは「引き返せ」という神の命令によって始まりました。そんな彼らはエジプト軍に追跡され、目の前には葦の海が広がり、万事休すの状態でした。主はなぜそんな袋小路のような道を通らせたのでしょう。それは彼らの信仰を訓練するためであり、主が彼らのために戦われるためであり、主がご自身の栄光を現わすためです。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」モーセは主のことばを信頼して杖をあげました。すると海が真ん中から分かれて、イスラエルの民は乾いた地面を進むことができたのです。勇気とは恐れがないことではなく、恐れているものに立ち向かって一歩を踏み出すことなのです。
今朝も水曜祈祷会で始まりました。予定が詰まってきている時こそ、兄姉とともに祈りの時間がもてることにホッとします。M.ルターは『今日はすべきことがあまりにも多いから、一時間ほど余分に祈りの時間を持たなければならない』と言ったそうです。神との交わりである祈りを後回しにして、良い信仰生活を送れるはずがありません。わかってはいるのですが、ルターのようにはなかなか…。今日は午後からキッズ&ファミリーフェスティバルVol.10の最終ミーティングもありました。今年で10回目となる超教派の子ども集会。次世代宣教のためのCallingを聞いてから、本当に多くの恵みを見せて頂きました。今回は初のオンラインでの開催です。ぜひこの働きのためにお祈りいただけましたら幸いです。そのまま夜の祈祷会、研修会の続きを聴きました。「…あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」エレミヤの健気な姿にも励まされました。
エレミヤ書14章「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。」主のことばを無視し続けるユダの民に、エレミヤは神のことばを告げなければなりません。聞く耳もない民に、しかも耳の痛い言葉を告げるのはなんとも辛い使命だったでしょう。それでも神と民の間に立って必死にとりなそうするエレミヤの姿に心を打たれました。今日は秋の研修会がオンラインでの開催だったため、朝から夕方ごろまでパソコンから離れられずでした。例年のように松原湖畔で同労の先生方と語らいつつ…という訳にはいきませんでしたが、『コロナ禍における礼拝…牧会』をテーマによい学びの時となりました。まず救いを教会的に理解すること、また、礼拝は神の招集に応じること、コロナ禍でできなくなくなってしまったことから、だからこそできることがあるというのが印象に残りました。私たちの教会も、あらためてこの時代のとりなし手にならせていただきたいと思わされました。
10月第一主日。今日はインターネットの不具合により、予定の時間にライブ配信が行えず、お待ちいただいた方には大変ご迷惑をおかけしました。創世記のヨセフ物語は37~50章までに詳しく記されています。父の寵愛を受けた17歳の青年が、兄たちに見捨てられ、エジプトに奴隷として売られ、不条理に囚人として監獄にまで入れられてしまいました。そんな絶望の淵にありながらヨセフの口から嘆きの言葉はなく、むしろ「主はヨセフとともにおられ」と繰り返されました。彼はさらに長い監獄生活を余儀なくされますが、主はそんなヨセフを忘れないで、ご自身の計画に内に導いておられました。ヨセフはエジプトの王ファラオの夢を解き明かしたことで宰相に任命され、大飢饉からエジプトを救い、ついには兄たちとも和解し、父ヤコブとの感動の再会を果たしたのです。そんな彼が人生の最後に証しした「神は必ず顧みてくださいます」という言葉が、とても心に響きました。
デボーションはエレミヤ10章から。「主よ、あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。」主の偉大さを讃える力強い賛美です。神は預言者エレミヤを通して、南ユダの民に悔い改めを迫りますが、彼らはそれを拒み偶像崇拝を続けました。主の懲らしめがすぐそこまで近づいていることも知らず…。ガリレオ・ガリレイは『神は人間に二つの書物をくださった。一つは聖書、もう一つは自然そのものである。』と言ったそうです。今日は少し気分転換に箕面ダム周辺を散歩し、さらにその上の《エキスポ90みのお記念の森》まで足を延ばしました。目当ての展望台は整備中で上がれませんでしたが、十分綺麗な景色を眺め、リフレッシュできました。鳥のさえずりを聞きながら、マスクからも解放されて、気温22度、空も高くさわやかな秋風が心地よい一日を堪能しました。箕面にも創造主を感じるいいところがいっぱいあります。
さわやかな朝、今日から10月。デボーションはエレミヤ9章から。主を知っていることの素晴らしさを思いました。さて、木曜日はいつものようにハートフル英会話。今日も大人の方から子どもたちまでさまざまな方が来られました。私は二階で仕事をしていますが、窓から楽しそうな笑い声が聞こえてきます。初級クラスでBelieve it or not,…を使って英文を作る時間に飛び入りし、何より皆さんの発想力に学ばされました。チャペルタイムではナウマン将軍のストーリーから"Pride” についてシェアしましたが、なかなか深い話しになりました。夕方からは元気いっぱいの子どもたちが、これまた楽しそうにホゼア先生の英語を学んでいました。帰る時もちゃんと挨拶をして、みんな礼儀正しい子たちです。夕方、ちょっとだけ散歩に出ましたが、目の前にオレンジ色の大きな満月…。中秋の名月、すっかり忘れていましたが、なんとか見れました。神が造られるものはみな素晴らしいです。
デボーションはエレミヤ書8章から。神の裁きのことばに耳を傾けない南ユダの民…。神の厳しい言葉が続きます。神は私たちが幸せに生きることを願って、日々私たちに呼びかけ導こうとしておられるのですが、私たちは間違った幸せを求め、その結果、神の呼びかけにも耳を傾けず「前進どころか後退している」とあります。さらに、自分が祈ったことがその通りにならないと『神は聞かれなかった』と判断する…。でも、それは自分が願った通りにならなかっただけで、神は確かに私たちの祈りを聞き、ご自身の御心を行われるのです。「わたしは気をつけて聞いたが…自分の悪を悔いる者は、一人もいない。」ユダの民も、今日の私たちも、その本質は同じなのかもしれません。神が注意深く聞かれるのは私たちを救いたいからです。神を自分に都合よく利用するような祈りは避けなければなりません。私たちが神の前にまずしなければならないのは、心の向きを変えることです。
イエスさまに促されて舟に乗り込んだ弟子たちでしたが、しばらくして向かい風に悩まされて前に進むことができなくなりました。夜明けごろになって、イエスさまは水の上を歩いてこられ「しっかりしなさい」と狼狽する弟子たちを励まされました。それを見たペテロも思い切って水の上に足を踏み出していくのですが、イエスさまから目を離した途端に沈みかけていきました。イエスさまはそんなペテロに手を伸ばして「なぜ疑ったのか」と仰ったということです。その時のイエスさまの手はどんな感じだったのかな…と、いつも思います。子どもの頃、近所の教会の神父さんと握手をした時に、その手がなんとも柔らかかったのを思い出します。新型コロナの影響で、最近はすっかり握手をする機会もなくなりましたが、実に寂しいなぁ…と。ソーシャルディスタンスより、フィジカルディスタンスというようですが、物理的距離は保ちつつも、心の距離は近くにありたいものです。
宮沢賢治の詩『雨ニモマケズ…』のモデルとなった斎藤宗次郎さんはクリスチャンだったと言われます。クリスチャンとはどんな人なのか。今朝の礼拝メッセージでは使徒の働き16章からパウロとシラスの宣教旅行を学びました。彼らは謂れのないことで鞭打たれ投獄されました。「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。」彼らの牢獄からは、驚くことに祈りと神への賛美が聞こえてきました。どうして…。それは簡単なことではありませんが、彼らが神を信頼していたということに尽きるでしょう。神はその通り、彼らを助け出され、ご自身の計画をお示しになりました。今も時々『あの人はあんなに大変な状況なのにどうして笑顔でいられるのだろう」という方と出会います。その秘訣を聞くまでもなく、その方を見ればいつも心にイエスさまがおられるのがわかる、そういう人に私もなりたいと思います。
『神はなぜこんなコロナ禍の状況を許しておられるのでしょう…』今日も教会のお掃除に来てくださった方と話していました。新型コロナウィルスの一日の感染者数は、大阪では少しずつ減少傾向にありますが、東京では今日も270人の感染者が確認され、もう9月も終わりに近づくというのに、終息には程遠い道のりです。以前のように教会で一緒に食事をしたり、コーヒーを飲みながらゆっくり交わりを持つこともできない状況が続きます。持病の関係もあって、礼拝に来たくても来られない方々もいます。でも、ひとりの信仰者として思うのは、神はこうした状況を知っておられて、私たち以上に心を痛めて見ておられるということです。ここに私たちの慰めがあります。「主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはしない。」明日からの礼拝メッセージは、苦難の中を歩む信仰者をテーマに学んでいきたいと思っています。主がお一人一人に語ってくださいますように。
9月の第四水曜祈祷会はエレミヤ書4章から。神はエレミヤを通して、神を捨て、ほかの神々に心を寄せていく背信の民に、「わたしのもとに帰れ」と繰り返し告げられました。エレミヤも祖国に対する神のさばきと審判を覚え、深い悲しみの声をあげます。ただ、破滅に次ぐ破滅が知らされる中で、その中にも、主のあわれみの約束がありました。「ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。」つまり、再び主に立ち返って主の民として生きる可能性を残しておられるということです。さばきの目的は、さばきそのものではなく、民が罪を悔い改めて、主に立ち帰ることでした。時々、なぜ信じた者だけが救われて、信じない者が裁かれるのか。キリスト教は愛がない…と言われることがありますが、人間側の常識に立って聖書を読んでも、神の御心を理解するのは難しいでしょう。でも、少し見方を変えて読んでみると、あわれみ深い主のまなざしに気づかされることがあるのです。
子どもが服のボタンをかけ始めて、最後にずれていることに気づくということがあります。大事なのは間違ったところまで戻ってやり直すことです。デボーションはエレミヤ4章。神は背信の民に向かって、「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしがあなたがたの背信を癒やそう。」と繰り返し告げられました。それでも民は主の声に聴き従わず、偶像の神を拝んでいきました。いつ裁きがくだっても仕方がない状況…。にも拘わらず、主は「イスラエルよ、もし帰るのなら…。エルサレムよ。救われるために、悪から心を洗いきよめよ。」と最後まで悔い改めを迫ったのです。読んでいて身のつまらせる思いになってくる箇所。神の前に真に悔い改める…これほど難しいことはありません。でも、もしやり直そうと思うなら、神はその一歩を喜び、必ず最後まで責任をとってくださるのです。今日は旧約聖書を学ぶ会があります。アブラムもまたそのことを体験した人物のひとりです。
9月第三主日、暑さも和らいで秋の心地よい風を感じる時期になりました。礼拝では使徒の働き15章から学びました。アンティオキヤの教会はパウロとバルナバの宣教報告を聞いて、異邦人にも救いの門が開かれたことを喜びました。しかし、異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者の間で、割礼に関する激しい論争が起こり、ついにエルサレムの会議で結論を出すことになったのです。多くの論争の後、最後に使徒を代表してペテロがこう言いました。「私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」すなわち、神はユダヤ人と異邦人との間で何の差別もなさらないこと、救いの証印として聖霊をお与えになること、人はみな主の恵みによって救われることです。教会はこの救いに関する認識を新たにして、次なる宣教へと進んでいくのです。それは「新しいぶどう酒は、新しい皮袋に…」という主のことばの実現でもあったのです。
今日からデボーションブックはエレミヤ書に入りました。エレミヤは南ユダのヨシヤ王の時代に預言者として召されました。その後、南ユダは短期間に目まぐるしく王が変わり、エルサレムは滅亡の一途をたどり、バビロン軍によって神殿も崩壊され、多くの民が捕囚として連れ去られる激動の時代を迎えていました。主はエレミヤに言われました。「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」主のことばを受けて戸惑うエレミヤに、主は「まだ若いと、言うな。…わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」と約束の言葉を与えられたのです。主は私たちの未熟さも、足りなさも、何もかもご存知の上でわたしに従いなさいと声をかけられる方です。ならば、私たちにとって大事なのは、どんなに前途多難に思えても、その方の声に信頼して、聴き従っていくことなのです。
ハートフル英会話では隔週で最後の10分間の『チャペルタイム』という時間があります。レイチェル先生が聖書の創世記から始めてくださって、今日はダビデとゴリヤテの話しになりました。先生が作る聖書の登場人物カードも実に楽しみです。何度読んでもダビデの勇気ある信仰にワクワクするところですが、今回は読むだけでなく、実際に石投げを作ってゴリヤテの顔を貼ったペットボトルを倒すゲームをしました。童心に帰って…楽しく聖書と英語を学びました。身長280㎝の大男、無敵の戦士のゴリヤテに、紅顔の美少年、一介の羊飼いのダビデが戦いを挑んで勝つなんてありえない…ある方がいい感想をくださいました。「この戦いは主の戦いだ。」この言葉に、ダビデの主への信頼が現れています。私たちも人生のある場面で、ゴリヤテのような大きな問題と対峙しなければならない時があります。しかし、聖書の言葉はそうした問題に立ち向かう秘訣を教えているのです。
エルサレムからエマオに向かっていた二人の弟子たちは、イエスの死を覚えつつ、悲嘆にくれていました。復活の主は、そんな彼らに近づいて声をかけられたのです。「しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。」主は彼らの話しをよく聞き、彼らの心の目を開いて行かれました。読んでいて目に浮かぶような描写です。私たちも受け入れ難い現実を前に、心の目が塞がれ、主の臨在や聖書の言葉が見えなくなってしまうということがあります。こんなことなら信仰者などならなければよかった…と思うことさえあるかもしれません。しかし、そんな私たちに寄り添い、心の内を燃やし、再び心の目を開いてくださるのは聖霊の働きです。聖霊の助けをもって聖書を読むなら、私たちの心は内から燃やされるのです。今日は午後からある方の引っ越しのお手伝い…。時間の関係で、夜の祈祷会はLINEのライブ配信になりました。申し訳ありませんでした。
デボーションはルカ24章~、イエスさまの十字架の姿を見て逃げてしまった弟子たち、一方、目立たなくても最後まで忠実にイエスさまに仕えていた女性たち。「週の初めの日の明け方早く」イエスさまのお墓に様子を見に来た彼女たちが、復活の主の最初の目撃者になったのは偶然ではありません。今日の教会も多くの献身的な女性たちによって支えられています。私たちの教会にも講壇花の奉仕を忠実にしてくださって、とにかく教会・家族のために忠実によく祈られる姉妹がいました。彼女は若い頃、洗礼を受けたいとご主人に相談すると猛反対されました。結局それから4年かけて、ご主人の了解を頂いてやっと洗礼を受けられたそうです。そんな彼女も70才で天に召され、新しい会堂で講壇花を飾って頂くことは叶いませんでした。でも、主は生きておられます。その後、84才で洗礼を受けられたご主人が、姉妹に代わって…毎週欠かさず礼拝に来られる兄弟になられたのです。
9月第二主日、礼拝メッセージは使徒の働き14章から。アンティオキヤの教会から聖霊によって派遣されたパウロとバルナバ。彼らが宣教地で福音を語ると、それを受け入れる者と、反発するとに分かれました。迫害者たちはついにパウロを石打ちにして死ぬほどのケガを負わせましたが、彼の宣教の情熱はおれませんでした。危険を顧みず、翌日から通ってきた町を引き返して、新しくキリスト者となり、誕生したばかりの教会を巡って彼らを霊的に励ましたのです。「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない。」パウロのことばは率直で、真実でした。イエス・キリストを信じて信仰者となっても、苦しみはあり、しかもそれは一つや二つではないというのです。でも、行く道がどんなに険しくとも、パウロは確信的にこう勧めます。「信仰にしっかりとどまりなさい」周りに流されず、現実に惑わされず、ただ主とともに歩む先に勝利があるのです。
オンラインでの結婚式に出席させていただきました。コロナ禍での結婚式でしたので、限られた出席者の中で、二人がよく配慮して、温かい式を挙げられたと思います。司式はその教会の主任牧師がされましたが、式辞は私がさせていただきました。途中、思わぬハプニングに気がつき(新婦のベールが上がっていなかった💦)、説教が止まってしまいましたが、何年か経ってあれも懐かしいです…と思い返して頂けたら感謝です。「父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一体となる」という御言葉から3つのことを話しました。「父と母と離れる」とは結婚生活の第一歩です。また、「結ばれる」とは二つの川が一つの川になっていくのと似ています。「一体となる」とは牧師の宣言とともに肉体的にも精神的にも一つとなることを意味します。結婚したからといって、翌日から夫婦になるのではありません。一生をかけて夫婦となっていくのです。あせらずゆっくりで…おめでとう!
4日間の補教師研修会が無事に終わり、ホッと一息です。今回はすべてzoomでしたが、理事の先生方による講演を通して、私自身も学びを続けることの大切さを再確認しました。さて、今日のデボーションはルカ23章~『神の御手と計画によって』というタイトルでした。人間の目には最悪の事態に向かっているようでも、何ごとも神の御手と計画の中にあることを思いました。私たちも日常生活の中で様々な出来事に一喜一憂するものです。それが自分の願いとは異なった形で進んでいく時、結局、神など何もしてくれないのだと感じてしまうかもしません。しかし、その時はわからなくても…後になってそのことにも神の御手と計画があったことを教えられる時、何とも言えない平安に包まれることがあるのです。明日はいっしょに長い時間を過ごしてきた青年の結婚式があり、今日はそのリハーサルでした。彼と過ごした日々を思い返しながら、神の御手とご計画に感謝しました。
9月第二水曜祈祷会、デボーションはルカ22章39節~。ゲッセマネの祈りとイエスさまの捕縛。かつてない危機が迫る中でイエスさまは弟子たちをを連れて、いつものように、いつもの場所で祈られました。どんな状況の中でも、父なる神に絶対の信頼を持つこと、霊的備えをしているように教えられたのです。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」イエスさまはこの杯(受難)を取り去っていただくことよりも、父なる神の御心に最後まで従えるように祈られました。そこに祈りの神髄が見られます。そして、ユダを筆頭に自分を捕らえに来た者たちにその身をゆだねられました。ユダには「友よ」と呼びかけられ、人の子を裏切るのか…と問われました。まるで、最後まで滅びゆく者の悔い改めを迫られるように。イエスさまはサタンの力にではなく、神の御旨に自らを明け渡されたのです。
昨日から今日にかけて非常に大型の台風10号が九州地方を襲い、各地で被害が相次ぎ、広範囲に65万戸が停電になりました。コロナの影響もあって、避難所では収容人数の制限が設けられ、断られるケースもたくさん出たそうです。地域の教会や宗教施設が避難所として開放するような場面もあったとのこと。今後、コロナ禍における災害は難しいケースが起きることを頭に入れておかなくてはなりません。今日は午後から関西キリスト災害ネットーワークのzoom会議もあったので、あらためて情報共有の大切さと今後の方向性について深い話し合いができました。その後は同盟教団の補教師研修会に遅れて出席しました。こちらもzoomでの開催でしたので自宅から参加。今日は二人の補教師(3年次)の説教演習を聴きました。それぞれ違うタイプの説教者で、とてもよく準備されていました。自分も通って来た道ですが、先輩の牧師として聴く側に回る日が来るとは…光陰矢の如しです。
9月第一主日、来週結婚式を迎える青年がイザヤ書43章から奨励をしてくれました。「先のことに目を留めるな。昔のことに目を留めるな。見よ、わたしは新しいことを行う。」神はイスラエルの民をエジプトから脱出させた奇跡を思い起こして、これからも同じ神があなたがたの上に新しいことを行うと約束されました。過去の出来事を否定的ではなく、むしろ肯定的に受け止めて、主にあって未来に希望を抱く。さまざまな苦難を通らされた彼の言葉ゆえに、聴く者の心に深く響くメッセージでした。彼と初めて会ったのは7年前。まだクリスチャンではありませんでしたが、一緒に学びをし、洗礼を受け、多くの時間を一緒に過ごさせてもらいました。子どもから大人まで、誰に対しても謙遜に丁寧に関わる姿は、彼の素晴らしい賜物です。次週からは別の教会で礼拝を捧げることになりますが、どこにいても同じ主を見上げて歩めることを感謝し、心から祝福をお祈りしています。
毎週土曜日は教会の掃除と礼拝のための備えの日です。今日も何人かの方と一緒に、祈りつつ明日の礼拝準備をしました。人目につかない働きですが、こうして一人一人の奉仕によって教会は毎週きれいに保たれています。『この世に【雑用】という用はない…』カトリックのシスター・渡辺和子さんの話を思い出しました。どんな働きにも意味があることを教える大切な言葉です。また、今日はマザー・テレサの召天日でした。彼女もこう言いました。『大切なのは、どれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心を込めたかです。』一つ一つのことに心を込めて行う、これも私の心に響いている言葉です。私たちの教会は、明日から久しぶりにみんなで顔と顔とをあわせて神に礼拝をささげます。明日来られる方々の顔を思い浮かべながら、今日は念入りに植木の花も新しくしました。台風が近づいていてお天気も心配ですが…皆さまの地域も守られますように祈っています。
9月に入り、朝夕もだいぶしのぎやすくなってきました。おかげで3000枚のチラシを配ることができ、早速、英会話の体験クラスにも来てくださった方々がおられました。新しい出会いを心から感謝いたします。また、チラシを見て教会のホームページを検索してくださった方もありがとうございます。『人生は出会いで決まる』と言います。何と出会うか、だれと知り合うかで、人生は素晴らしいものになります。私たちはこの夏で、箕面4丁目に越してきて丸3年を迎える、プロテスタントの教会です。この地域は近くにアサンプション(聖母被昇天)の学校もあるので、キリスト教や聖書に関心のある方も多く住んでおられると聞きます。教会はクリスチャンの方はもちろんですが、クリスチャンではない方々にもオープンな場所です。どうぞ気軽に足を運んでみてください。英会話の無料体験クラスも大人・Kidsクラスともにもう少しお受けできますのでご連絡いただければ幸いです。
9月最初の水曜祈祷会、ルカ20章20節~。律法学者たちと祭司長たちはなんとかイエスを訴える口実を探していました。そこで彼らはローマ政府のカエサルに税金を納めることは律法にかなっているか、どうかをイエスに質疑したのです。それは巧みに仕組まれた言葉の罠でした。しかし、イエスはそんな彼らにデナリ銀貨を見せて、カエサルの肖像と銘があることを示し、このように言われました。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」つまりユダヤ人であってもローマの統治下にいるならば、その恩恵にあずかる者として責任を果たしなさいということ、そして大事なのは、人間は神のかたちに似せて造られた者としてその恵みに応えて自らを献げなさいということです。私たちも神のかたちとして、神のものであることを覚えて、神への感謝を献げようではありませんか。今夜は長年ともに祈り合ってきた青年を見送る忘れられない祈祷会になりました。
人生において最も重要なのは、罪の問題です。罪とは神に逆い、自分勝手に生きることです。今日のデボーションはルカ20章、有名なぶどう園のたとえ話しでした。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。」収穫の時が来たので、主人はその一部をもらうためにしもべを遣わしますが、農夫たちはしもべを傷めつけて何も与えずに返してしまったという話しです。私たちも神から人生というぶどう園を委ねられているとしたらどうでしょう。この命も、体も…やがては神にお返しするものだとしたら、私たちが生きている間にするべきことは何でしょう。『自分の人生。どう生きようと自分の勝手だ』と突っぱねるでしょうか。それとも、神の前に悔い改めて感謝を献げるでしょうか。パスカルはこう言ったそうです。『自己の悲惨さを知ることの中に、人間の偉大さがある』人生において最も驚くのは、すでにこの罪の代価が支払われていることです。
8月第五主日、礼拝メッセージは使徒の働き13章。アンティオキヤの教会は聖霊によってバルナバとパウロを選び、宣教師として遣わしました。新しい事に対する不安と期待を抱えながら、教会は祈りをもって送り出したのです。それが世界宣教への大きな一歩になることを…その時の彼らにはわからなかったでしょう。たとえ先のことが見えなくても、主の御声に従うことの大切さを思わされました。今日は役員の方と数人の方が礼拝に来られ、来主日からの確認をしました。現在、多くの方に来会自粛をお願いし、来週から段階的に自粛を解除していく予定です。この一か月間の自粛期間は苦渋の決断でしたが、教会としてよく祈り、ともに集まることの大切さを再確認し、コロナ禍における新たな宣教を始めるには必要な期間だったと思います。午後は教会のある青年の引っ越しを手伝って…祈りをもって送り出しました。さて、教会案内、皆さまの家にも届きましたでしょうか。
多くの人は、できれば苦しみのない人生を歩みたいと思うのではないでしょうか。苦しみにあうことは不幸な人生の始まり…自分は神に見捨てられたのだ…と思う方もいるかもしれません。それでも聖書にはこんな言葉があります。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。」それが真実かどうかは、理解するより体験するのが一番でしょう。俄かには信じられない方も多いと思いますが、牧師をしていると神が祈りに答えてくださったと思うことが幾つもあります。今日もある方から『今日初めて…病気になったことを感謝するお祈りができました』という嬉しいLINEがありました。それは昨日今日の祈りではなく…何年も苦しいところを通ってやっと聞けた言葉です。「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」人は祈られて豊かな人生を送り、祈られて祈る人になる…。教会とはそんなところです。
デボーションはⅡ列王記22章~。せっかく聖書を読んでも、何が書いてあったのかはよくわからない…と答え続ける信仰生活ほどもったいないものはありません。確かに聖書は、比較的わかりやすい箇所とやや難解な箇所といろいろあります。今日の箇所も一人で読んでいてもわかりにくい箇所かもしれません。「主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。」神の恵みの宣言に対し、その国の王は神に背き続け、民を巻き込み、おまけに偶像の神々を拝んでいきました。それゆえ神は、預言者を通じて「こうして、わたしの憤りはこの場所に燃え上がり、消えることはない。」と告げられたのです。今日そのことが聖書を通じて示されたのなら、私たちにできるのは「自分の衣を引き裂いた。…主を求めよ。」以外にありません。自分の罪に気づき、真に悔い改める者を、主は憐れんで「…あなたの願いを聞き入れる」と宣言してくださるのです。
旧約聖書を学ぶ会・創世記12章~。家族とともに偶像の町ハランに住んでいたアブラムに主の召命がありました。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」住み慣れた町を離れ…どこへ行くのかもわからず…はっきりしているのは主が示される地ということだけでした。この時のアブラムは75才、もう若くはない年齢。あれこれ言い訳したくなるような状況の中で、彼は前だけを向いて主が告げられたとおりに出て行きました。「そうすれば、わたしはあなたを…」偉大なる神が、まことに自分本位な生き方しかできない人間と約束をしてくださるというのです。あとは信仰をもってその恵みを受け取るかどうか。何度も読んできた箇所でも、読むたびに『信仰とは何か…』を考えさせられるところです。神の御心は従うことでしかわかりません。まだクリスチャンでない方にも、ぜひ信仰の旅路を歩み出してほしいと思います。
デボーションはⅡ列王記20章~。南ユダに次々と悪王が続く歴史の中で、ヒゼキヤ王は違いました。「彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はいなかった。」彼は父アハズを反面教師として徹底した宗教改革を行いました。そんな彼も晩年、病に陥り、預言者イザヤからは「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治らない。」と宣告されてしまいます。彼は顔を壁に向け、主に祈り、大声で泣きました。すると驚くことに、イザヤが引き返してきて、「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ、わたしはあなたを癒やす。」という神のことばを告げたのです。こうして彼は15年の寿命を加えられました。彼の祈りは、単なる私的なものではなく、それ以上のもの、すなわち国と民の責任を負う者の訴えであり、涙だったのです。主はそんな彼の切なる祈りに応えられたのです。生かされていることには意味がある、そのことを改めて教えられました。
8月第四主日、礼拝では使徒の働き12:1~「キリスト者の祈り」をテーマに学びました。ヘロデ王によってヤコブが処刑された後、ペテロまで捕らえられ、教会は動揺したことでしょう。でも、彼らはあきらめずに祈り続け、驚くような主の御業を体験したのです。教会が心一つに祈ることの大切さをあらためて心に覚えました。今日は、9月からの来会自粛の解除に向けて役員の方々が礼拝に出席されました。いまだ新型コロナの感染者数は減少していきませんが、午後からの役員会で、みことばを土台としてさまざまな可能性について話し合いました。その結果、従来のマスク着用・アルコール消毒・検温はもちろんのこと、さらに座席の間隔やサーキュレーター・複数の扇風機を使っての換気など、できうる限りの対策を強化して来会自粛を解除することを確認しました。来会される方々には、風邪症状や体調不良など、各自で慎重にご判断いただきますよう重ねてお願いいたします。
最近は時間があればYouTubeで礼拝のメッセージやデボーションの解説などを視聴する機会が増えました。知人の牧師先生に勧めていただいたり、信徒の方からも有益なチャンネルを紹介していただいて、証しに励まされたり、いろいろと勉強にもなって感謝です。こうした動画をきっかけにキリスト教に関心を持ち、思い切って教会の礼拝に出席して、洗礼の決心をされた方もおられます。このコロナ禍においては、そうした不思議な神様の導きを感じる方も増えていくでしょう。『教会に行くと必ず伝道されるのでは…』なんて心配なさらずに、動画もいいですが…ぜひお近くのキリスト教会に足を運んでみてください。今は礼拝も人数が少なかったり、集まることを自粛しているところもありますが、日曜日の午後や平日ならば、教会も開いていて、牧師も時間が取りやすいと思います。人生について、人間関係について、信仰について、いっしょに聖書から学んでみませんか。
今日も水曜祈祷会は教会には集まらずにライブ配信のみでした。ルカ19:41~、弟子たちがロバの子の背に乗ってエルサレムに入場するイエスさまを見て神を賛美する一方で、イエスさまは平和に向かう道を知らず、神の訪れの時に気づかない都を見て涙を流されました。ルカ書で「イエスが…泣いた」とあるのはここだけ。エルサレムの崩壊…失われる魂へのイエスさまの深い悲しみが伝わってきます。そして、イエスさまは神殿の宮きよめを通して旧約律法の廃棄を予表し、いよいよ十字架へと向かっていかれました。聖書の時代だけでなく、神に背を向け、争いを繰り返し、未曾有の災害に悩まされ、偽預言者たちが現れる…そうした人間の罪と争いと悲しみに満ちた世をご覧になって、イエスさまは涙を流されたのではないでしょうか。自分もまた、この涙によって滅びの道から永遠のいのちの道に移していただいた者として、ますます福音を証ししていきたいと思わされました。
今日のデボーションはルカ19:28~。「もし『どうして、ほどくのか』とだれかが尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」ここを読むと榎本保郎牧師の『ちいろば』を思い出します。かつて『おじみそ』と言われた少年は、イエスさまと出会ってなんとも歯切れの良い大胆な牧師になりました。最近はそんな榎本牧師の説教も動画で簡単に聴ける時代ですから感謝です。イエスさまは戦いを象徴する軍馬ではなく、平和を象徴するロバの子にとってエルサレムに入場されました。そして、ロバの子の飼い主には「主がお入り用なのです」とだけ告げられたのです。そのことば以外、何の理由も必要ありませんでした。私たちの信仰もかくありたいものです。なぜ礼拝や祈祷会に出席するのか。なぜ献金し、奉仕をささげるのか。なぜ助けを必要とする人に寄り添い、証しをするのか。それは、主があなたを必要としているから。これほど意味ある理由はほかにありません。
8月第三主日、朝から30℃を超す厳しい暑さの中、教会には4,5人の方が来会され、多くの方はご自宅で礼拝を献げられました。使徒の働き11:19~、世界宣教の拠点となったアンティオキヤ教会の始まりから「キリスト者とは」をテーマに学びました。当時、福音を語る対象はもっぱらユダヤ人という中で、幾人かの名もなきキリスト者たちは大胆に異邦人にも福音を語りました。主はそれを見て良しとされ、その御手を持って彼らを動かし、大勢の人を信仰に導かれたのです。私たちもこの世の常識や古い仕来りに縛られずに、目の前の魂の救いのために勇気ある行動をとっていきたいものです。「主の御手が彼らとともにあったので」今日一般に使われる「キリスト者」(クリスチャン)という名の起こりは、このアンティオキヤからでした。『名は体を表す』と言いますが、…名ばかりではなく、絶えず主にとどまり続け、その呼び名にふさわしく歩む者でありたいと願わされます。
また敬愛する牧師先生が天に召されました。まだ60才前後と思いますが、腰の低い、伝道熱心な先生でした。また、別の先生はコロナに感染し、闘病中とのことで…なんとも胸が絞めつけられるような思いになりました。主の慰めと平安を祈るばかりです。この時期も全国の感染者数は増加傾向、大阪は重症者の数も増えつつある中で、私たちの教会は礼拝に集まることを自粛しています。でも、ある教会は自粛しない理由に次の聖句などを挙げています。「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせずに、むしろ励まし合いましょう。」どんな状況でも教会の集会から遠ざかってはならないとのこと。それも一つの判断です。明日は終戦から75年。戦時下でも信仰を貫き、礼拝を守り続けた信仰の先輩たちはどう思われるでしょう。…今は忍耐しつつ、神が与えてくださったオンラインという方法を用いて、場所は違えど心は一つに集まって礼拝を捧げたいと思います。
8月第二水曜祈祷会。奏楽者の妻以外だれもいない会堂でディボーションのガイドと子ども礼拝の撮影をしました。なんとも寂しいですが、数人の方がライブ配信を観てくださっていたので励まされました。ルカ17:20~、テーマは『終わりの日を知る者として』。「人の子の日、人の子は、稲妻がひらめいて天の端から天の端まで光るのと、ちょうど同じようになります。」このコロナ禍に加えて、災害も頻繁に続いている今日、あらためて心に刻んでおきたい御言葉です。異端やカルトもこの時とばかりに終末を煽りますが、大事なのはイエスさまの教えです。それは、神の国はすでにあなたがたのただ中にあること、人の子の日は突然やってくること、終わりの日に備えて今を生きることです。終末がいつなのかはだれにもわかりません。でも、その日がくればだれの目にも明らかです。もし今日、イエスさまを心に迎え入れているなら、いつ来ても終わりの日は喜びの日となるのです。
新型コロナの感染症も心配ですが、このところの暑さで熱中症で倒れる人が増えているそうです。マスクもしなければならないし、水分もとらないといけないし…厄介な問題です。なぜこんな泣きっ面に蜂のような苦難が続くのか…今はその理由はわかりませんが、とにかく一日一日、なんとか暑さを凌いで乗り切りましょう。とは言え、少し元気が出ない方には、知り合いの牧師先生が最近YouTubeにアップした動画をお勧めします。これはどん底だった人生がある出会いを通して180度人生が変わったことを紹介するものです。マイナス100の人生がプラス100の人生に変わった奇跡の物語。人は必ず変われる。…途中まで自分の人生と重なるところもあって、とても共感しました。どこにも希望がなく、救いがないような人生にも、イエスさまとの出会いがあれば、教会との出会いがあれば、だれでも新しい人生を歩み出せます。まさに事実は小説よりも奇なりを思わされました。
『人間の死亡率は100%』それはどんなに医学が発達しても変わらない確かな未来です。人は死んだらどうなるか…。よく臨死体験をした人が『私はあの世を見てきた』と言いますが、実際に死から生き返った人は皆無です。仏教の教えには『セミは春秋を知らず』という言葉があるそうですが、一週間で死んでしまうセミに『お前が死んだら秋という季節が来る』と言っても確かにわかりません。因果応報の考えでは生きている間の行ないが現在の幸不幸、さらには来世における幸不幸を決めるということですが、キリスト教の考えはそれとは少し違います。ルカ16:19~「…しかし、今ここでは彼は慰められ、お前は苦しみ悶えているのです。」大事なことは3つです。人はみな、ただ神の憐みによって現在を生かされていること、また、死後の世界に行ってからでは、もはや永遠に過ごす場所を変えられないこと、そして、生きている間の決心が死後の永遠の世界を決めることです。
8月第二主日。新型コロナの感染者が増加傾向にある中で、教会では集まることを自粛し、それぞれご自宅で礼拝をささげることをお願いしました。今日来られた方は近隣に住む方々と礼拝奉仕者の数名でした。毎週、礼拝で顔をあわせていた方々と会えないのはなんとも寂しいのですが、そうした方々の安全が確保されないこと、また近隣の方々の心配も考慮して、今は集まるのを辛抱しなければならないと判断しました。午後はこの機会に、教会のいらないものを処分して、子どもたちの部屋を広くしました。手伝ってくれたある青年も、学生の頃からずっと一緒に礼拝をささげてきましたが、9月には結婚して別の教会に移っていきます。出会いは別れの始まり…と言いますが、このままちゃんとした送別の時も持てずに送り出すのは心残りです。今回の自粛期間は8月末までを予定していますが、コロナの影響が少しでも早く収束し、みんなで集まれることを心からお祈りしています。
今日はCGNTVでのメッセージの収録がありました。もう10年近く…三、四か月に一度、依頼される奉仕ですが、カメラの前で話すのは慣れません。会衆に向かって話すのとは全く感じが違い、メッセージの時間も短いので要点をまとめて話さなければなりません。もうそろそろしっかりしないといけないのですが、未熟さを痛感するばかりです。そんな中、今日もコロナの感染者数は全国で1485人、都市部を中心に連日のように過去最多が続き、各世代に広がりを見せています。この状況を鑑みて、私たちの教会も、主日礼拝をはじめ平日の全ての集会を自粛することを決めました。苦渋の決断ですが…教会員の安全が確保されるまで、皆さまにはご理解とご協力をお願いすることになります。これでまた日曜日の礼拝で、会衆席にだれもいない中でメッセージをすることになりますが、CGNTVの奉仕もこうした時のためだったのかな…と思いつつ、ただただ、主の憐みを祈るばかりです。
祈祷会はルカ14:25~、テーマは「信仰者の覚悟」。イエスは一緒に歩いていた大勢の群衆に向かって「自分の十字架を負ってわたしについてこない者は、わたしの弟子になることはできません。」と言いました。群衆の多くはイエスがユダヤの新しい王となって、ローマの圧政から解放してくれると期待していましたが、イエスはローマの処刑法である『十字架』を負って、わたしに従ってきなさいと告げられたのです。十字架とは、イエスを信じる信仰のゆえに受ける苦難、辱めを意味します。さらに「自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。」とも言われました。多くの人はがっかりしてその場を立ち去っていったのかもしれません。でも、イエスはご自身がそうであったように、父なる神の御旨に自らを捧げて従ってくる者を求めておられたのです。こうした難解な箇所も分かち合いで恵まれるのが、祈り会の祝福です。
人はなぜ祈るか…。それはどうしても叶えたい願いがあり、果たしたい自分の思いがあるからではないでしょうか。そのために自分でもあれこれ取り組んでみて、どうしても叶わない、もう無理だ…それでもなんとかしたいと思う時、人は自ずと神に祈らざるを得ないのでしょう。ならば『祈り』は最後の手段なのでしょうか。主は言われました。「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために」すなわち、『祈り』は最も信頼に足るものであり、最優先事項であるということです。問題が大きければ大きいほど、私たちは自分の無力さを痛感します。でも、ある神学者も言います。『自分が無力であることを認める人だけが、本当に祈ることができる。…無力さから出る祈りこそが最高の祈りである。』今日もまた、手術を受けられる教会員の方がいます。また、病の床に伏しておられる方もいます。一人一人の回復と癒しを覚えて心から万軍の主にお祈りしています。
8月第一主日、半年ぶりの聖餐式がありました。新型コロナの感染が増えつつある中で、細心の注意を払って準備がなされ、あらためて十字架の救いと神の家族の交わりを覚える幸いな時が持てました。礼拝メッセージは使徒9:31~、書簡の中心人物の一人『ペテロ』の宣教から、アイネヤとドルカスの癒しの記述。二人とも聖徒であり、立派な信仰者でした。そういう人にも、容赦なく苦難は襲い掛かってきます。でも、ペテロはそんな彼らに命じました。「イエス・キリストがあなたを癒してくださいます。立ち上がりなさい。そして、自分で床を整えなさい。」それはペテロ自身の信仰の表われでした。そして、その言葉に、彼らが素直に応じたところただちに癒しがなされたのです。その結果、「多くの人々が主を信じた」ここに主の御心がありました。避けられない苦難はありますが、その先に癒しがあります。今も主は、私たちの生活のただ中で御業を見せてくださるのです。
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